JR浅虫駅の「足湯」。旅の人か、町内の人か。いつも4、5人がいる
浅虫夢宅寺。なんとも言えないいい名前のお寺だ。殿様の祈願所らしく、どこやら威厳がある

夢宅寺境内から見る本堂。本堂内陣右に観音像。ご朱印も本堂に置かれている

 昔から知られていた浅虫温泉であるが、明治24年、東北本線が開通して駅前を中心に人家が建ってから、少しずつにぎわいを増してきた。
 明治37、8年の日露戦争当時は、浅虫に傷病兵が送られて、県外の人たちにも「浅虫温泉」の名が知られていったという。
 明治40年ころの記録であるが、温泉名が並んでいる。高砂湯、柳の湯、桜庭湯、大湯、椿湯、裸湯。旅館、温泉客舎は椿旅館、東奥館、三国旅館、小宮山旅館、川村旅館、松月館、浅虫館の7つ。いまでも思い当たる名前がある。
 地区の人口は1100人。戸数190戸のうち、商店33戸、旅館7戸、温泉客舎15戸、共同浴場2カ所。名物としては唯一「クジラ餅」が挙げられている。
 その浅虫温泉が本格的ににぎわい始めたのは、大正初期の好況時代だったらしい。駅前にはさらに家が建ち始め、芸者が出入りして歓楽街として、浅虫温泉は新たな顔に生まれ変わった。当時芸者、酌婦の数は150人ほどいたのだそうだ。
 同時に多くの文人にも愛されている。俳人・秋元不死男は昭和33年年に浅虫に来て「あおあおと林(りん)檎(ご)の鎮(おもし)稿を継ぐ」を作った。不死男は紅灯街を冷やかして歩くこともなく、ただ原稿を書いていたのだろうか。
 青い林檎というから季節は初夏のころ。少し窓を開けて海風を入れ、机に向かっている。風で原稿用紙が動かないよう青い林檎を文鎮にして、筆を走らせているというのだ。何ともさわやかな句である。
 高浜虚子も来ている。五女晴子さんの婿が、日銀青森支店長として赴任していたこともあって、2度ばかり来ているようだ。
 浅虫には晴子さんと夫の高木餅花さんらと水入らずの旅。その時の二句。「百尺の裸岩あり夏の海」「出てみよといふベランダに出て涼し」

 

 月も日も磯辺に浮かぶ裸島 誓いも固き石となるらん
 鬼泊から約50キロ。青森の正覚寺からはさらに12キロ。長い長い海辺の巡路であった。いくら信仰の旅とはいえ、いくばくかの楽しみがあってもいい。
 ひと昔前、藩政時代の巡礼者にとっての浅虫温泉は「ここまで来れば旅も半ば、ゆっくり骨休めしていこうか」という気にさせたのだろうと思う。
 温泉の由来には、舞い降りるツルの後を追った猟師が、こんこんとわく温泉を見つけた―という黒石市温湯のような鳥獣発見説が多い。浅虫、酸ケ湯はシカによって発見されたという。
 昔々の話。まだ名もない漁村だったころ、諸国を巡っていた京都の円光大師という坊さんが、ここに来た。日暮れになったがあいにく近くに家もなく、松の根元に枯れ葉や枯れ草を集めて横になった。
 夜中、物音がして目を覚まし、音のするほうに目を凝らすと、1頭の牝(め)鹿(じか)が白い湯気の中にしゃがんでいるのが見える。近づくと、人の気配に気付いたか足を引きずるようにして逃げ出した。けがをしていたのだ。
 2、3日様子を見ていたが、シカは毎夜やってきては湯に漬かった。まもなくシカは駆け出すまでに元気になった。大師は傷に効き目があるこの湯を村人に教えた―というのが由来になっている。
 もちろん土地の人たちは、湯がわいていることは知っていた。ただ、これを恐れて湯に入ることはしなかった。布を織る麻を浸して蒸していたのだという。これ以後、近郷近在から人が集まるようになり、この湯を「麻蒸(あさむし)の湯」と呼んだ―という伝説がある。
 戦国時代の天文年中(1532―55年)に書かれた「津軽郡中名字」にも「麻蒸の湯」とある。そして、いつのころからか「浅虫」と書くようになった。
 浅虫の安養山夢宅寺であるが、その縁起によると、平安時代初期にまでさかのぼる。南部恐山から巡拝してきた慈覚大師(790―860年)が辻堂を建てて、1尺5寸の薬師如来像と6尺大の地蔵尊像を刻んで安置したことに始まる。この辻堂の本尊は薬師如来であり、土地の人は「薬師堂」と呼んでいた。
 貞享元年(1684年)のころ、4代津軽藩主信政が、悪質な眼病にとりつかれた。巡りめぐって浅虫薬師堂に治癒を祈願した。満願の日、まばゆい光を感じながら、居城の庭を眺める夢を見た。目覚めた時、目はすっかり治っていた。信政は大いに喜び、「夢(む)宅(たく)」の2字を漆書きにして御堂に納めた上、禄永年12俵を与えて、藩主祈願所とした。
 元禄6年(1693年)5月、青森・常光寺4世住職・雲芸(うんげい)が、薬師堂を末庵として「夢宅庵」とした。この時、津軽屋市左衛門という人が観音像を寄進したという。以来、夢宅庵は観音霊場として今日に至っている。
 寛延年中(1748―51年)、津軽三十三所が再編成された時、23番に加えられている。『寛延巡礼記』によれば、「堂2間に3間、本尊は薬師如来…」とある。
 明治9年(1876年)、明治天皇が東北、北海道ご巡幸の時、天皇は駕籠(かご)、従者は馬で浅虫に来たという。その時には18軒の温泉客舎があったという。青森から浅虫へは、ひとつ大難所があった。
 宝暦8年(1758年)、上方商人が書いた「津軽見聞録」にこうある。『…この道に善知鳥前(うとうまえ)といふ所あり。海中へ差出たる岩山にて少間なれども大難所なり。わづかの物にても手に持てば岩にさえぎられ通りがたし。また別に山上に牛馬の通ふ大道あれども、回りゆえ多くはここを通る…』と。
 天皇ご巡幸の前、善知鳥前の難所があまりに危険だ―と、断がいを削って今の国道を通したのだそうだ。
 夢宅寺は、国道バイパスから山手の温泉街に入り、ホテル南部屋の向かいを右へ。JR東日本のガードをくぐって、椿館を目印に右折すれば「いちょう橋」。目の前に山門がある。観音堂は本堂に。ご朱印も本堂に置いてある。
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 24番・入内観音堂まで、およそ25キロ。いったん青森市街に戻る。
 ※次回3月5日付はお休みします。

 

〈交通メモ〉22番・青森正覚寺から約15キロ。徒歩3時間40分。車で20分。

(10番・深浦から続く)
 11番 下相野
      蓮川へ
      1里
 後の世を願う心は下相野 白毛の雪のふらぬそのまに
 観音の御林。田の中にあり。堂3尺4面。木仏なり。別当の家、鳥居の内にあり。
 木作村、芦沼村。
 12番 蓮川
    川倉へ4里、
    土手路
 野をも過ぎ里へも行きて旅もせば いつも絶えせぬ法の蓮川
 本堂3尺4面。正観音。御宮のうち鳥居1カ所あり。棟札に正徳3年とあり。東むき。村建立なり。寺は禅宗正徳院。
 今市村、橘村、出野里村、芦部岡村、豊川村、楽田村、野末村、家調村、繁田村、神原村(神原小派あり)、豊島村。
 13番 川倉
    尾別へ
    1里20丁
 水の上いずくなるらん川倉の 耳にさか降る山びこの声
 弥陀、薬師、観音三尊。堂3間4面にて、東むき。5ケ所あり。
 砂森村、長内村、粂田村、富野村、豊岡村、八幡村、野里村。
 14番 尾別
      薄市へ
      20丁
 よろず代を祈り祈りていまここに 千手の誓い頼もしの宮
 千手観音。堂1間4面。西むき。宮の広さ8間4方ほど。タモ木の枯れ木あり。
 15番 薄市
      今泉へ
      1里
 まんまんと眺めもあかぬ13の潟 千年をここに松風の音
 御堂。村の下にあり。1丁ほど登り、観音堂あり。3尺4方、南むきなり。勢至観音。
 御山より13の湊みえる。川々舟々、材木のながれ、ことごとく見え申し候。
 16番 今泉
      相内へ
      1里
 昔より在りとも知らぬ今泉 神代と知らぬしるしなるらん
 御堂、今泉より上にあり。堂3尺4方、北むきなり。木仏の千手観音なり。村中の建立。
 宮崎村。