五所川原博のシンボル的存在だった「母神」像。現在は立佞武多の館前にある
さまざまな館が並んでいた会場の案内図(リーフレットより)
ミスコンの様子を紹介する各紙の切り抜き。「ミス・平和博」には弘前市長坂町の18歳女性(当時)が輝いたという

 63年前に五所川原市が主催した一大イベントを、いま一度振り返ろう―。市教委は、1957年7~9月に旧市が主催した「県平和産業大博覧会」(通称・五所川原博)の様子を紹介する展示企画に向け準備を進めている。当時多数の来場者を集めた五所川原博だが、市役所に所蔵されている資料は多くはない。長い歳月の経過で、ちびっ子として満喫したかつての来場者の記憶も風化しつつあるとみられ、市教委の担当者は「記憶を継承するには今がぎりぎりのタイミング」として、資料提供への協力を市民らに呼び掛けている。
 五所川原博は昭和の大合併で旧市が発足した直後、初代市長に就いた外崎千代吉(1897~1974年)の主導で、地域の平和的な発展を願う「国際連合加盟・市政施行3周年記念」を銘打って計画された。
 市街地南側の農地を買収し広大な敷地を確保。米国大使館特別出品の原子力館、被爆地の惨状を示す原爆記念館、本県ならではのりんご館、日進月歩の進歩を遂げつつあった国産車を紹介する自動車館といった多彩なプログラムを用意した。立佞武多の館前に現存する「母神」像(つがる市出身の彫刻家・中野桂樹作)が、シンボル的作品だった。
 57年7月21日に開幕。9月10日までの間、娯楽の少ない時代に市内外から延べ40万人超が詰め掛けた。当時9歳だった鶴田町の奈良順子さん(71)=板柳町出身=は「近隣からも、親に連れてもらって見に行ったものだ。会場のあった場所に通り掛かると今でも懐かしい」と話す。
 ただ、収支の見通しが甘く赤字がかさみ、革新系の名物政治家だった外崎市長は再選を期した選挙で敗れた。こうした点を踏まえながらも、市教委社会教育課の榊原滋高文化係長は「赤字に対する批判が上がったのは確かだその一方で東京五輪や大阪万博に先立ち一地方都市が国際的博覧会を催したことも事実。跡地の利用が都市開発の起爆剤となり、まちづくりの根幹を成した意味もある」と総括し、五所川原博そのものが忘却されつつある今、再評価を試みている。
 ただ、市に残る資料は、小さな段ボール箱一つに収まる程度。資料集めに市民の力を借りる必要があり、当時のヒットメーカー・上原げんと(つがる市出身)作曲のテーマソング「景気音頭」のレコードなどを特に探索中という。
 榊原係長は「会場に行ったことのある皆さんがまだ元気な今が、記憶を継承するぎりぎりのタイミング。若い市民に地域の歴史を知ってもらうためにも、ぜひご協力を」と呼び掛けている。
 提供資料は7~9月に市立図書館で開催予定の「ミニ展示会」に活用した後、複写してから返却する。問い合わせは、同係(電話0173―35―2111内線2932)へ。