私が北海道北見市から弘前市に移住して四半世紀が経(た)った。還暦を過ぎた人生の中で一番長く住んだのがこの地である。札幌で学生・院生生活を送っていた時、弘前大学出身の後輩が懇親会の際、カラオケのまだない時代に、「あー城下町弘前」を浪々と歌いあげてくれた。逍遙歌に属する哀(あい)愁(しゅう)のこもったこの歌を私も好んで歌った時もあった。「召されて今は亡き人の 住んでいたまち 愛のまち 訪ねてみれば 今は身に ふるさとよりもなつかしく あー城下町弘前」(一番)の歌詞は弘前そのものだ。青春を謳歌するのに最もふさわしい雰囲気のある街が「ヒロサキ」だと私は確信している。
昨年、戦後の新制大学発足から数えて弘前大学は60周年を迎えた。その記念に太宰治生誕百年を記念する文学碑も建てられた。キャンパス内には、マントをまとった袴(はかま)姿の旧制高等学校生の記念像が20年前に同窓生によって建立され、古き良き時代の息吹を今日に伝えている。弘前大学の歴史をたどれば一世紀以上の歩みが刻まれていることを実感する。全国的にみればそんなに大きくない構内であるが、いくつものメモリアルが残されているし、発掘、継承するべき人物も数多くいる。その一人として青森・津軽のリンゴ関係者から「リンゴの恩人」と言われた島善鄰先生を挙げたい。
島は、明治末から大正初めにかけて青森リンゴが病虫害に侵された時、弱冠26歳の若さで新設の県農業試験場園芸部(現在のりんご研究所)の主任技師に着任、1年後『青森県苹果減収の原因及其救済策』を発表し、リンゴ全滅の危機を救った。島の提起したリンゴ栽培体質の改善策は、第一に、自家労力に見合った経営面積にすること。そのために園地の縮小、間伐による樹数の減少が必要であること。第二に、肥培管理の徹底を図ること。具体的には、全園に肥料を散布(全園肥(ひ)沃(よく)法)して地力の増進を図ること。第三に、薬剤による病害虫の防除を行うことであった。
島は戦後、母校北大学長を務め終えた後、弘前大学農学部設置に尽力され、同教授として足跡を残された。
しかし、青森のリンゴ振興に大きな役割を果たした島を記念するものが県内には意外と少ない。唯一、農学生命科学部の通用門正面にある園庭内に第八師団大本営跡碑の横に並んで農学部設置を記念して植樹したヒヨクヒバが残っている。島は漢詩が好きで「果樹曽従海外伝 南園北圃倍繁延 就中尤賞林檎美 紅玉累々十月天」(地理学者志賀重昂)の揮(き)毫(ごう)を認めている。また、郷里花巻市の「島善鄰生誕地碑」には、島が好んで使った「苹果あるごとに我は楽し」という言葉が刻まれている。いつか、島の記念碑を弘前大学構内に建てたいものだ。
(弘前大学理事兼副学長 神田健策)













