津軽の街と風景

 

風光明媚な金平成園=95

2018/7/30 月曜日

 

写真1 大石武学流で作庭された金平成園=2015(平成27)年・筆者撮影
写真2 旧加藤家住宅=2014(平成26)年・筆者撮影
金平成園の図面=黒石市教育委員会所蔵

 ▽加藤宇兵衛
 黒石駅から南に10分程歩いた住宅街に、「金平成園」または「澤成園(さわなりえん)」と呼ばれる5662・32平方メートルもの敷地を持つ大きな庭園がある。
 この庭園は「大石武学流」、または「武学流」という流派で作庭されている。1882(明治15)年に、本県の実業家であり政治家でもあった加藤宇兵衛が、凶作に苦しむ農民に仕事を与えるために作庭を依頼したものだ。
 本格的な工事は92(明治25)年から行われ、当初、大石武学流3代目の高橋亭山が作庭を行っていた。しかし、その時既に80歳を迎えていた亭山は庭の完成を待たずに死去した。
 このため弟子の4代目小幡亭樹、5代目池田亭月らが跡を継いで、1902(明治35)年に庭園を完成させた。庭園の名称は「万民に金が行きわたり、平和な世の中になるように」という宇兵衛の願いから「金平成園」と名付けられた。しかし、加藤家が1897(明治30)年頃まで営んでいた酒造業の屋号である「澤屋成之助」から、「澤成園」という名称でも呼ばれるようになった。
 ▽大石武学流
 大石武学流とは、明治時代以降に津軽地方を中心に広まった青森県独自の流派で、その発生や由来などについてはいまだ不明である。地元産の自然石で構築された石組みを主体とした庭園で、樹木についてはクロマツ、イチイ、ツツジなどを多少荒々しさが残るように植え付けているのが特徴的である。
 石組みの種類は「飛石」「礼拝石」「滝石」「遠山石」「野夜燈(やどう)」などがある。特に礼拝石は石組みの中で最も重要とされ、庭園の「神仏」を礼拝して供物を供えるための石で、絶対に上がってはいけないとされている。
 金平成園は前後に奥行きのある池の周囲を回遊しながら鑑賞する様式となっている。庭園の最奥には小高い築山があり、斜面には枯滝組や月見灯籠が配置され、その南側には野夜燈や岩木山を模した遠山石などの石組みが置かれている。
 園内にはクロマツやモミジ、チャボヒバ、イチイ、サワラ、サルスベリなどが植えられており、優れた景観をつくり出している。このように金平成園は、初期の大石武学流庭園を理解する上で貴重なものであることから、2006(平成18)年に国の名勝に指定された。
 ▽旧加藤家住宅
 庭園の西側には主屋、離れ、茶室からなる「旧加藤家住宅」があり、加藤宇兵衛の別荘ないし迎賓館として使用されていたと考えられている。主屋と離れは、1903(明治36)年に建てられたことが分かっている。
 主屋は土間、玄関、居間1部屋、広間1部屋、和室5部屋で構成されており、それぞれが襖で仕切られている。襖には花や鳥の絵が描かれているものもあり、中には本県出身の日本画家である野沢如洋(じょよう)(1865~1937)が描いた襖絵も残されている。
 特に「鶴の間」と呼ばれる12畳半の和室の東、西、南面の襖には、如洋によって30体近くの鶴が丁寧に描かれており、旧加藤家住宅の中でも異彩を放っている。どのような経緯で如洋が襖絵を描いたのかは不明であるが、宇兵衛と如洋の交流が窺(うかが)える貴重な資料であると言えよう。
 また、茶室には放浪の画人として知られる蓑虫山人(みのむしさんじん)(1836~1900)によって描かれた2枚の絵が残されており、1枚には竹林、もう1枚には鯉魚が描かれている。蓑虫は画人として広く知られているが、実は造園にも理解が深く、旅先で庭園の設計に携わることもあった。
 彼は金平成園がまだ設計段階の時期だった1884(明治17)年に黒石を訪れている。その際に金平成園も訪問し、庭園の設計に関与した可能性が考えられよう。2枚の絵についても、その際に描かれたのではなかろうか。
 現在、旧加藤家住宅は非公開であるが、庭園については7月27日(金)~8月19日(日)、10月19日(金)~11月4日(日)に一般公開される。この機会に風光明媚(めいび)な津軽の庭を楽しんでいただきたい。
(黒石市教育委員会文化スポーツ課文化財係学芸員・佐藤里穂)

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後世へ伝えたい仕事=94

2018/7/16 月曜日

 

写真1 青森市のニコニコ通りで商売する露天商。背後にはリヤカーではなくトラックが見える=1972(昭和47)年9月9日・松村泰雄さん撮影・青森県史編さん資料
 
写真2 弘前観桜会にやってきた旅芸人たち=1960(昭和35)年4月30日・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
写真3 弘前市内を振れ売りする金魚売りの百田良三さん=1991(平成3)年・『グラフ青森』145号より転載
写真4 米で作ったドン菓子を水あめ等で固めた「おにぎり」(筆者撮影)

 高度経済成長は日本人の日常生活を大きく変えた。“安く、早く、大量に”が効率の名の下に価値あるものとされた。総じて生活は豊かになったが、失われつつある仕事や職業があるのも事実だ。少し振り返ってみたいと思う。
 ▽行商人と露天商
 行商人は店舗を構えず、各地を振れ売りする。しかし、多くは特定の場所で屋台や露店を設けて品物を売る露天商でもある。
 敗戦後、戦争で夫を亡くした女性が家庭を維持するため、重く大きな荷物を抱えて行商する姿が全国各地で見られた。本県では青函連絡船の発着する青森駅をはじめ、八戸や鮫(さめ)の漁港が近い陸奥湊駅に行商人が集まった。
 鉄道だけでなく、郊外から街場へリヤカーで農産物を運び、露天商として生活を維持する人々も数多く存在した。青森市の場合、かつて闇市場だった古川や柳町、そして堤川沿いに露天商が集まった。自家用車の普及に伴い、リヤカーはトラックへと変わったが、現在も古川のニコニコ通りには朝早くから露天商が野菜や惣菜(そうざい)などを売っている。
 大型スーパーやコンビニが全国に広がる昨今、行商人や露天商が主要な職業形態として復活することはないだろう。しかし、八戸市の館鼻岸壁で開催される朝市や、五所川原市中心街のトラック市などは今日、大変盛況である。
 彼らの多くは個人経営者であり、トラックや自家用車で屋台風の店舗を出すことが多い。このため販売形態は行商人や露天商と似ている。販売される品物や商品は、基本的に独自なものが多い。画一的になってしまった大資本経営のスーパーやコンビニと異なり、幅広い職種の人々が売り出す品物は、買う側にとって大いに魅力的なのだろう。
 ▽旅芸人
 旅芸人は家々を訪問して門口や座敷で芸を演じる門付芸人と、神社の境内や河原、街路などを舞台に芸を見せる大道芸人に大別できる(『国史大辞典』吉川弘文館)。門付は獅子舞やえんぶりなど、現在も県内各地で実演されている。他方、若者がギターを片手に歌を披露するのは大道芸人の枠組みに入るだろう。
 津軽地方で旅芸人といえば、弘前公園の観桜会(現さくらまつり)に集まってきた人々が上げられる。弘前市民のみならず、内外から多くの人々が集まる観桜会は、旅芸人たちにとって大切な「職場」だった。彼らは津軽三味線やギター、アコーディオンを持ち込み、客と一緒に歌い、踊り、舞って客を楽しませた。
 旅芸人は日本各地に伝わる踊りや民謡を披露することが多かった。当時の客たちは盆踊りなどの年中行事を通じ、それらを理解していたと思う。
 しかし、テレビが普及し全国画一的に映像が流されてから傾向は変わった。人気の番組やタレントの登場で、人々は旅芸人たちの素朴な芸能に目を向けなくなった。新しい娯楽の登場で、旅芸人たちは仕事を失い、観桜会などの場から姿を消していった。
 昨今、娯楽の主役はテレビからスマホになりつつある。テレビを通じて多くの人々が楽しんだ時代から、スマホを通じ共感し合える者だけで楽しむ傾向になったといえよう。街路で芸を披露する若者たちは、スマホで共感し合える時と場を探し、活動の余地を見いだしていくに違いない。
 ▽金魚売り
 戦前まで荷物を背負い、リヤカーを引いて商売する振れ売りは日常茶飯の光景だった。高度経済成長と自動車の普及でリヤカーはトラックに変わり、振れ売り自体は次々と姿を消した。
 しかし、タウン誌の『グラフ青森』145号(1991年6月号)によると、弘前市内には平成の時代まで金魚の振れ売りがいた。取材当時71歳の百田良三さんは、黒石市内から弘南鉄道に乗り、朝9時頃から弘前市内の富田町、枡形、寒沢町、桔梗野、新寺町、茂森町を夕方近くまで売り歩いた。28歳から商売を始め、40年以上のベテランだが、自分が県内最後の金魚の振れ売りであるという。
 百田さんが言うには、金魚が最も売れたのは1955(昭和30)年から70(昭和45)年前後。自動車が増え、玄関がドアになり、城下町らしい人情がずいぶん違ってきたそうだ。振れ売り自体が玄関の戸を開いて尋ね歩く形態である以上、施錠されて中身が見えにくい洋風のドアでは商売が成り立たないわけである。高度経済成長は自動車社会を生み出し生活全般を洋風化させた。その陰で和風文化が消えていった側面は無視できない。
 ▽ドン菓子
 駄菓子の思い出は世代によって異なる。郷土に伝来する素朴なものから、大手の菓子会社の商品まで実にさまざまだ。その中で、比較的広い世代に親しまれているのが米をはじめ、麦やトウモロコシを加熱し、圧力をかけて作り出す「ドン菓子」だ。焼けてはじけるとき「どーん」と大きな爆発音を出すので、「ドン菓子」「ボン菓子」などと呼ばれた。
 トウモロコシを「キミ」と呼ぶ本県では、トウモロコシで作るドン菓子を「ドンキミ」とも称する。現在は大手の菓子会社が製造するポップコーンの方が知られているだろう。しかし、かつては地元の菓子屋で直接購入するか、米や麦などを持ち込んで作ってもらっていた。甘く味付けされたものもあるが、何も味付けされないものが多かった。それでもおなかをすかしていた子どもたちは、わしづかみにして食べたものだった。
 現在も大鰐町や階上町の他、いくつかの市町村に製造業者がいる。そこでは米やとうもろこし以外に、マカロニで作った「マカロニドン」や、鳩麦で作った「ハトムギドン」などを作っている。味付けが工夫され、好んで食べる子どもたちも多いという。
 基本は伝統に沿いつつも、少しずつ時代に合わせて改良し続けることが、伝統や文化を後世へ伝える秘訣(ひけつ)になる。時代を担ってきた年配の方々は、子どもや孫の世代に、自分たちの経験や体験談を伝えてほしい。説教ではなく、子どもや若者たちに寄り添い、楽しく語ることが大切だ。仲良く楽しみながら実践し続けることで、社会や生活、そして文化は向上する。これは高度経済成長期も現在も変わらぬ価値観であると思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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整備進む「為信の城」=93

2018/6/25 月曜日

 

写真1 発掘調査で確認された本丸東門跡。2012(平成24)年の調査で確認された。旧来の堀を埋めた直上に構築されている
写真2 備された本丸東門跡。遺構を盛り土で保護し、その直上に復元した礎石を並べ、建物の形や規模を表示している
 
写真3 整備の進む堀越城跡。外構から三之丸方向を撮影。手前に外堀を渡る土橋、その奥に中土塁と三之丸南側の土塁が整備されている
 
図1 「支城の時代」の堀越城。1594(元禄3)年の本拠移転前の堀越城。現在の曲輪とは全く異なる位置に2~3重の堀が巡る
図2 「本拠の時代」の堀越城。本丸を中心に、周囲を二之丸・三之丸等の曲輪が囲む求心的構造を示している

 ▽堀越城とは?
 津軽平野南東部に位置する堀越城は、弘前藩初代藩主津軽為信が生前、最後の居城とした城である。為信は1594(元禄3)年、堀越城を改修、本拠を岩木山東麓の大浦城から移した。
 その後為信は1607(慶長12)年に京で死去し、2代信枚が高岡城(後の弘前城、以下弘前城)を築城、11(慶長16)年に堀越城から本拠を移した。つまり、激動の時代を生き抜き「津軽切り取り(独立)」を成した為信は、津軽氏歴代の居城である弘前城に入城したことはなく、為信にとっては堀越城が最後の城ということになる。
 本拠移転後廃城となり、また城内の様相を示す資料もほぼないなど、堀越城は長らく実態が不明だった。しかし、1985(昭和60)年の国史跡指定後、公有地化を経て98(平成10)年から16年間、弘前市が実施した発掘調査により、城の様相は徐々に明らかとなった。さらに2012(平成24)年からは、調査成果に基づく城内整備も本格化しており「為信の城」は再び姿を現しつつある。
 ▽支城の時代
 堀越の名は古く、南北朝期の史料に「楯(館)」が築かれたとの記載がある(県史資料編中世2)。この楯の様相は明確ではないが、城内から中世前半の陶磁器が出土することから、現在の城域と重なる可能性は高い。
 堀越が再び史料に登場するのは戦国期後半、大浦(南部)為信の南部氏からの「津軽切り取り」に際してとなる。しかし、当該期の史料は南部と津軽の双方で内容に差異が大きく、「切り取り」の過程を再現するのは難しい。大筋として16世紀後半、南部氏の郡代として津軽を支配していた南部高信に為信が反旗を翻し、南部氏や安東氏の他、大光寺城瀧本氏、乳井福王寺氏、浪岡御所北畠氏らとの複雑な抗争を経て、為信による津軽支配が進められたことは確かなようである。
 その過程において、堀越城は津軽の南の出入り口を押さえる重要な支城として機能した(『県史通史編1』)。発掘調査によると、この時期の堀越城は小規模な堀が二、三重に巡り、内部に掘立柱建物や竪穴建物が立ち並ぶ曲輪が、複数並存していたようであり、この様相は北奥における伝統的な城郭の姿を示している。
 ▽「本拠の城」の時代
 為信は1590(天正18)年7月までに、豊臣秀吉から津軽領有を認められた。しかし、それは同時に豊臣政権の支配の枠組みに組み込まれたことも意味し、北奥の諸大名とともに「際限なき軍役」に巻き込まれていくこととなる。為信はこの「軍役」に伴う肥前名護屋城在陣などの中で、求心的構造と高石垣を有する、西国の先進的な城郭を目の当たりにすることとなる。
 94(元禄3)年の本拠移転に際し為信は、西国の城郭技術を取り入れて堀越城を大改修し、それまでの北奥の伝統的な城郭構造を一新、本丸を中心とする求心的構造とし、さらに本丸内に礎石建物による御殿建築群を形成した。特に3棟の建物が連なる幅30メートルの本丸東門は、中央棟が櫓(やぐら)門、北棟が2階建ての建物と想定されている。
 これらの建物は、豊臣政権との繋(つな)がりを示す装置として導入されたものであり、城の東側、すなわち旧南部氏の勢力圏である東根(平川東岸域)に向けて、威容を示していたことだろう。だが同時に未導入の石垣、三之丸に見られる堀や土塁の二重構造、小規模な城下(現堀越集落)など、堀越城に「近世大名」の居城として不十分な面があったことも確かである。
 1611(慶長16)年、徳川政権の支配が確立する中、信枚は堀越城の3倍以上の規模と石垣を有する弘前城を築城、城内・城下の全てを移し、堀越城は静かにその役割を終えた。為信が自ら改修した堀越城には、激動の時代における為信の「等身大の姿」が示されている、といえよう。
 ▽甦(よみがえ)る堀越城
 現在、堀越城では「為信の城」、そして「土の城」である堀越城を体感できる整備を目指し、2020年春の全面公開に向けて、市による整備事業が進行中であり、日々刻々と姿を変えている。なお、整備終了地区は暫定公開中であり、春と秋には整備現場の公開も行われていることから、ぜひ一度足を運んでいただけたなら幸いである。
(弘前市教育委員会文化財課主幹兼埋蔵文化財係長・岩井浩介)

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雪中行軍演習で惨事=92

2018/6/4 月曜日

 

写真1 八甲田連峰の前に佇立する後藤伍長像。高さ約3.5メートルの台座の上に高さ約3.1メートル、重量約2.5トンの銅像が据え付けられている=昭和戦前期(青森県史編さん資料)
写真2 後藤伍長像。記念碑の銘文は陸軍大臣寺内正毅によるもの。多胡の当初案では銘文ではなく、大和田建樹作詞「陸奥の吹雪」を刻む計画だった=昭和戦前期(青森県史編さん資料)
写真3 現在の後藤伍長像(2013年4月24日、陸奥新報掲載写真=間山元喜さん提供)。青森市幸畑の八甲田山雪中行軍遭難資料館では、原寸大のレプリカが間近で見られる
地図 銅像の記号がある5万分の1地形図初版。映画「八甲田山」では、大隊長山田少佐(三國連太郎)が、田茂木野で「軍には地図と磁石というものがあるんだ。案内は要らん」と言い放ったが、事件当時、正確で詳細な地図はなかった=陸地測量部1912(大正元)年測図「青森東部」の一部を拡大

 ▽八甲田山中に建つ兵士の銅像
 八甲田山系の馬立場(青森市)に建つ「後藤房之助伍長像」(「歩兵第五聯隊(れんたい)第二大隊遭難紀念碑」)は、山崎朝雲作「津軽為信像」=(1908(明治41)年3月に弘前公園に設置。現存せず)=とともに青森県を代表する明治後期の銅像だ。
 02(明治35)年1月23日から1泊の予定で青森歩兵第5連隊が実施した雪中行軍演習は、未曾有の暴風雪に遭遇、参加将兵210人中199人が凍死する大惨事となった。
 参加者・犠牲者の多くは岩手・宮城県出身だった。東北地方の新聞社ばかりでなく、東京の新聞各社も特派員を現地に派遣して連日詳しく報道した。犠牲者への義援金を呼びかける一方、陸軍の責任を問う論説もあった。
 児玉源太郎陸軍大臣は(1)凍死者はすべて戦死者同様に扱うこと(2)凍死者はすべて遭難地に官費で埋葬し(3)官費で遭難記念碑を建設すること(4)靖国(やすくに)神社に合祀(ごうし)すること-など、犠牲者を戦死者並みに扱うことで世論や遺族の被害感情を沈静化させ、陸軍の危機を乗り切ろうとした。
 ▽石碑よりも銅像を
 しかし、官費による記念碑の建設、靖国神社への合祀などは実現しなかった。記念碑は全国の将校らの拠金で建設されることになった。記念碑を石碑ではなく、モニュメントとしての銅像を薦めたのは陸軍技師の多胡実敏(たごさねとし)だ。多胡は、地図印刷技術を学ぶためにヨーロッパに留学した時、ブロンズの記念像に関心を持ったのだろう。
 銅像のモデルには、救援隊に最初に発見された後藤房之助伍長を選んだ。中隊長の神成(かんなり)文吉大尉の命により、報告と救助要請のために田茂木野(たもぎの)に向かう途中、吹雪と寒気による過酷な状況で仮死状態となったまま佇立(ちょりつ)していた。任務を最後まで忠実に遂行しようとした後藤伍長の壮烈な行為を事件のシンボルと考えたのだ。
 ▽大熊氏廣(うじひろ)は「大村益次郎像」の作者
 多胡は子息の実輝とともに陸軍戸山学校教導大隊に赴き、一番体格の立派な兵士にさまざまなポーズをさせて四方から写真を撮った。写真を基に銅像の構想をまとめて彫刻家大熊氏廣に製作を依頼した。
 大熊氏廣(1856~1934)は、武蔵国足立(あだち)郡中居村(埼玉県川口市)出身。工部大学校の最初の学生で、イタリア人彫刻家ラグーザから塑像(そぞう)法など西洋彫刻の基礎を学んだ。1882(明治15)年に彫刻科を首席で卒業した。
 85(明治18)年に近代的軍制の創設者である大村益次郎の銅像製作を依頼されると、わざわざ欧州に留学。鋳造法も含め銅像制作を学んだ。依頼から8年後に完成した「大村益次郎像」は、日本人による本格的なブロンズ記念像の先駆となった。
 大熊によると、銅像の容貌は後藤伍長の実形を基に造形。体躯(く)とポーズは遭難による凍死という悲惨さを排し、将兵の勇壮さを表したのだという。実在の人物を理想化して作品とするのは西洋彫刻の伝統である。
 像は左足を前に踏み出し、両手で銃の先を握って銃床を地面につけ、動くことなく佇(たたず)んでいる。身体という地面に垂直で分厚い軸に対して、その横に銃身によるもう一つの軸が配された構成は、その二つの軸が作り出す方向性によって、見る人の視点を銅像頭部へと導く。全身を防寒服で覆われた像の、さらに雪中での動きの取れない状態という静的な場面だが、単調さを感じさせない(田中修二『近代日本最初の彫刻家』)。
 ▽除幕式と銅像の定着
 銅像は日露戦争中の1904(明治37)年10月に設置された。後藤伍長は故郷の宮城県栗原郡姫松村(栗原市)に背を向け、北方、すなわち青森湾口を見据えている。戦後の06(明治39)年7月23日に除幕式が行われた。
 日露戦争を挟んだ4年半の歳月は長かった。除幕式に参加した遺族は40余人。凍死者数の2割だ。モデルになった後藤元伍長も招かれ、凍傷による両手指、両足膝下切断の不自由な体で参列した。
 姫路歩兵第8旅団長津川謙光少将(事件当時の歩兵第5連隊長)が奉告文を朗読した。津川少将は「諸士の遺訓は日露戦役に果して多大の効験を現したり」と述べた。事件で犠牲になった将卒の遺した教訓が日露戦争の勝利をもたらした、第8師団の黒溝台(こっこうだい)会戦での勝利、日露戦争の勝利のためには八甲田山雪中行軍遭難事件は、必要な出来事だったというわけだ。陸軍は、そのように総括した。
 除幕式前の7月8日に陸軍は大異動を発表した。第8師団長立見尚文(たつみなおぶみ)大将は休職となり、第4旅団長津川大佐は第8旅団長・少将に任じられた。事件当時、陸軍大臣として善後処置を指揮した児玉源太郎参謀総長(大将)は、奇(く)しくも除幕式の当日朝、急逝した。事件関係者は除幕式までに表舞台から去っていた。
 日露戦争の戦死者は約8万8千人。除幕式のころは全国各地で忠魂(慰霊)式や忠魂碑の建立が進められていた。人々の関心はそちらに移っていた。遭難事件当時には特派員を送って惨事を詳報した東京の新聞は、一部を除き除幕式を報じなかった。雪中行軍事件への関心は薄れていたのだ。
 しかし多胡の意図した通り、銅像は新しいメディアとして「軍人精神」を称賛する役割を果たした。銅像は第5連隊の誇りとなり、演習や行軍の目的地にもなった。また、青森市の名所絵葉書(はがき)セットの定番となって市民の間にも定着した。もし、記念碑が一般的な石碑だったら、別の展開を見せたことだろう。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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大名が通る松前街道=91

2018/5/21 月曜日

 

写真1 松前街道の面影を残す三厩地区の旧道。写真奥に見える案内標識周辺の建物が三厩本陣跡(現山田商店)。写真手前の空き地が脇本陣跡という=2015(平成27)年9月・筆者撮影
写真2 三厩湊現況。1998(平成10)年8月31日限りで休止された旧東日本フェリーの三厩―福島航路の看板が残る
写真3 「大日本国東山道陸奥州駅路図」から三厩村周辺=1800(寛政12)年作・1810(文化4)年写・青森県立図書館所蔵
写真4 武四郎が松前藩主一行と遭遇した現国道280号赤根沢周辺。道路は改修されたが、現在でも急坂が続く=写真1・3・4は、いずれも2015(平成27)年9月筆者撮影

 ▽松前藩主の参勤交代
 現在の国道280号、青森から三厩(現外ケ浜町)に至る道を、江戸時代は蝦夷地や松前(現北海道)に通じる道として松前街道と呼称した。主要街道である奥州街道や羽州街道(現国道4号・7号に相当)に比べると交通量は少なかったが、近世後期に蝦夷地近海に外国船が頻出するようになると、蝦夷地に向かう幕府や各藩の交通量が増え、重要度が増していった。
 この街道を参勤交代に使う唯一の大名が、現在の北海道にあった松前藩だった。一般的な大名は1年ごとに国元と江戸を往復(2年1勤)するが、遠隔地にあった松前藩は、時期により違いはあるが、3~6年1勤で、1727(享保12)年以降は5年1勤が定着した。松前藩主は津軽海峡を渡り三厩にまず1泊。その後、弘前藩領では平舘(現外ケ浜町)と青森に宿泊している。
 本県域の各街道は東海道などと比べると交通量が少なく、宿場町は発達しなかった。松前藩主が参勤交代する時は、専用の宿屋ではなく、有力町人や農民の家が宿泊所である「本陣」となった。また「脇本陣」と呼ばれる家老級が宿泊する家もあった。
 ▽三厩本陣山田家
 このような本陣役を務めた家で最も有名なのが、三厩の山田家で「松前屋」という屋号を持っていた。その出自や、いつから松前家の本陣を務めていたかははっきりしないが『三厩村史』によると、宝永から享保の頃(1704~35年)までに当地へ転住したのでないか、としている。
 三厩湊は蝦夷地への渡海地となる重要港湾であり、江戸後期には台場や御仮屋(おかりや)(弘前藩主の滞在施設)も置かれた。山田家は三厩湊に面した場所にあり、現在も御子孫が同地で商店を経営している。また、脇本陣は旧丸山旅館の場所にあったが、現在は更地となっている。
 三厩から松前に渡る際、順風待ちのため滞在が数日に及ぶこともあった。例えば、1822(文政5)年には5月21日から29日まで9日間滞在、山田家には藩主章広(あきひろ)親子や側近の藩士が宿泊し、脇本陣には御用人ら、そのほか202人の随行者が村内に分宿した。
 弘前藩も本陣前に「張番役所」を設け昼夜警備に当たった。宿代は家老が350文、一般の藩士は225文で、藩主からは本陣の主人や家族、さらに町奉行や湊目付など藩の役人にも進物をしている(『三厩村史』)。1877(明治10)年頃の三厩村の人口は577人程度だったから、松前藩主一行の宿泊は村を挙げてのイベントだったと言ってよい。
 松前藩主の参勤交代は街道沿いの村々にも大きな負担だった。村々には助郷役(すけごうやく)という人馬の徴発が課せられたが、1830(天保元)年の参勤交代では三厩から宇鉄(うてつ)(現外ケ浜町)の通行だけでも村人ら50人が徴発されている。しかし、外ケ浜一帯は村々の人口が少なく人馬徴発も困難で、農繁期には人手不足を生じるなど支障が生じていた。
 山田家は、このような負担の軽減を求めた外ケ浜の村々の願書を松前藩に取り次ぐなど、藩と村の間に立ち奔走している。当主は自費で松前に渡り交渉、願いは聞き届けられた(山田家文書)。しかし、その後も松前藩主のみならず蝦夷地に渡海する幕府の役人の数が増え、三厩や周辺の村々の負担は増していった。
 北方探検家の松浦武四郎は、1844(弘化元)年に赤根沢(現今別町)周辺で、松前へ帰る松前藩主の一行に遭遇したときの様子を『東海沿海日誌』に記録している。難所のため藩主の駕篭を人足22人で担いでいたが、駄賃は3人分しか出ず、差額は村の持ち出しになっていたという。その後、松前藩主の側室が通過した際は、海岸部の7カ村の男たちが皆人足に出たことを記し、多額の負担を村人に強いることを批判している。
 ▽本陣役と松前家
 三厩以外では、青森は時期により本陣になる家は変遷があり一定しないが、佐藤理右衛門家や滝屋善右衛門家ら町年寄や名主クラスの有力商人が務めていた。盛岡藩領では幕末期には七戸町の浜中幾治郎家などが務めている。
 弘前藩の本陣役の家は、いずれも松前藩との関係が密だったが、近世中期に青森での本陣役を務めた村本四郎左衛門は、松前藩の求めに応じて御用物の買い入れをしたり、弘前城米の松前移送の仲介をしたりしている。また、息子への交代についても松前藩主の同意を得るなど、松前藩の意向は無視できなかった(『新青森市史 通史編二』)。
 三厩の山田家は、1766(明和3)年の大地震で居宅や本陣が破壊された時は、援助米の拝借を松前藩に願い出ている。米の拝借は天保大飢饉(ききん)の際も見られる。このような財政支援は、平舘の岡村五郎兵衛家や青森の村林平兵衛家なども受けている。
 村林家は1845(弘化2)年の青森大火で類焼し、再建費用を松前藩から借用し5年後までに何とか再建することができた。同家はその返礼として松前築城に際して、石垣用の石を献上することを願い出ている(『新青森市史 資料編近世三』)。
 維新期になると、青森から箱館(現函館市)へ直行する蒸気船が運航されるようになり、三厩の繁栄は次第に失われていった。しかし、山田家の古文書は県立郷土館や県立図書館で所蔵され、本陣経営を知る貴重な資料となっている。また、松前藩主の書状も多数所有している。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹・中野渡一耕)

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