津軽の街と風景

 

「中興の英主」祀る神社=100

2018/10/22 月曜日

 

高照神社・高岡集落の空撮。中央手前の高照神社本殿・拝殿と高岡集落の街路まで軸が通っている。右の建物は高岡の森弘前藩歴史館、左手前は高照神社馬場跡
緑豊かな参道を拝殿・本殿より約200メートル進むと信政の廟所が所在する
高岡の森弘前藩歴史館展示室。やや暗い展示ケースの中でスポットライトを浴びる刀剣類。11月25日まで「高岡の森の刀剣展」を開催中
歴史館整備と併せて復元された馬場跡での活用イベントとして、9月30日に神馬奉納と流鏑馬(やぶさめ)を実施

 ▽津軽信政の死と高照神社の創建
 弘前藩4代藩主津軽信政が開いたとされる造坂(つくりざか)を上ると歴史を感じさせる松並木が続いている。旧百沢(ひゃくざわ)街道は百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社)への参詣道、新法師より西側にそれる高岡街道は高照神社への参詣道である。
 高照神社は、弘前藩の「中興の英主」とされる津軽信政を祀(まつ)った神社。好学の藩主とされる信政は吉川神道を信奉し、奥義を極め「高照霊社」の神号を授けられた。津軽氏が流れをくむ藤原氏の氏神である春日四神を祀る小さな社があったとされる高岡の地を、信政は生前に葬地と定めていた。
 1710(宝永7)年に弘前城中で亡くなった信政を、5代藩主信寿(のぶひさ)は遺命に従って吉川神道に基づいて高岡の地に神葬した。信寿により11~12(正徳元~2)年にかけて廟(びょう)所・社殿群が整えられ、次いで7代信寧(のぶやす)が拝殿を造替し、9代寧親(やすちか)が随神門・廟所門を建立、といったように歴代藩主により今に伝わる社殿群が整えられていった。
 高照神社は社領300石が与えられ、祭司役(さいしやく)や門前集落の配置など藩が維持した特別な神社だった。それは藩の精神的な支柱として信政をとらえていたためであり、歴代藩主が信政の神格化の推進を図っていった(『新編弘前市史通史編岩木地区』)。
 対外危機としての蝦夷地出兵が本格化するに当たり、信政の遺徳を必要とした藩は神社整備を推進し、その最終段階として、神馬(しんめ)奉納の神事を行う馬場を1830(文政13)年に構築している。
 なお、吉川神道の思想に基づく神社は会津藩保科正之(ほしなまさゆき)を祀る土津(はにつ)神社(現福島県猪苗代町)もあるが、同社は戊辰戦争で焼失している。高照神社は江戸時代に吉川神道に基づいて建てられ、現存している歴史的に貴重な建造物として、2006(平成18)年には国指定重要文化財となっている。
 ▽門前集落・高岡
 高照神社の門前集落である高岡は元原村の一部だった所が、高照霊社建立に当たって百沢村に編入され、由緒ある弘前の古名である「高岡」の地名を冠されたとされる。藩は神社の維持管理を行うため門前に掃除小頭(こがしら)1人、掃除小人(こびと)8人を配置するに当たり、1721(享保6)年には祭司役が大工を同道して屋敷割を行っている。宝暦年間(51~64)には、9軒のほか「御神馬付小人」3人が確認でき、明治には20軒と記録されている(『新撰陸奥国誌第二巻』)。
 高岡集落は計画的に配置された集落であり、廟所・神社、集落と東西に1本の軸線が通り、三者の関係性が目に見えるような仕掛けとなっている(『高照神社総合調査報告書』)。
 藩によって神社の管理のために配置された高岡の方々は、現在も神社の維持管理を行っている。毎日の拝殿の開閉や、境内の草刈り、冬季の屋根の雪下ろしなどである。
 門前の道路拡幅や付近にバイパスが開通するなど、周辺の環境は徐々に変化しているが、神社から東西軸を通した集落の基本的な景観は良好に維持されているそして神社の永続性を求めた仕掛けとしての軸線は今も生きていると言えそうであるなお掃除小頭を務めた西家の古文書は県庁県民生活文化課県史編さんグループに収蔵され、現在公開準備が進められているとのことである。
 ▽新資料館の建設
 高照神社には、祭神である津軽信政の遺品をはじめ藩主家一族や重臣たちが奉納した大絵馬、明治時代の津軽為信合祀(ごうし)に際して旧藩士たちから奉納された武具刀剣類を含め、5100点にも及ぶ宝物が所蔵されていた。国指定重要文化財の太刀2口を含む、県指定・市指定文化財約1200点が含まれ、高照神社の宝物は、弘前藩や津軽家の歴史文化を語る上で欠くことのできない資料群である。
 宝物や建造物の保存継承を目的として「高照神社文化財維持保存会後援会」が結成され、刀剣研磨や絵図裏打ちなど資料の修復、加えて展示公開の活動を行ってきた。しかし、保存公開の拠点である宝物殿は築後60年を経て温湿度管理もできず、貴重な文化遺産を継承するのは困難な状況となっていた。
 これら貴重な文化財を良好に後世に伝えていく使命を果たすため、弘前市で2010(平成22)年度から「津軽歴史文化資料展示施設」整備事業に着手、今年2月施設竣工(しゅんこう)を経て、4月1日に「高岡の森弘前藩歴史館」が開館した。資料にとって適切な保存環境を維持しつつ、展示公開を行えるようになった。
 全国でもここでしか見ることのできない貴重な歴史的建造物、江戸時代以来管理を欠かすことなく良好な景観を維持している境内や門前、また神社に奉納され弘前の歴史文化を物語る宝物は、多くの方々の努力によって現代まで伝わってきた。先人たちや現代も務めを果たされている方々の思いを感じつつ、三位一体の歴史的空間をぜひご体感いただきたい。
(弘前市教育委員会高岡の森弘前藩歴史館主幹兼運営係長兼学芸員・鶴巻秀樹)

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本州最北端の稲作文化=99

2018/10/8 月曜日

砂沢遺跡の水田跡の土壌調査(特殊な装置で地層を読む)=2017(平成29)年・筆者撮影
清水森西遺跡での発掘風景=2018(平成30)年9月・筆者撮影
ふるいで採取した微細な遺物の観察=2017(平成29)年・筆者撮影
発見された炭化米=2018(平成30)年・筆者撮影

 ▽貴重なフィールド
 今年の稲の出来は…と気になるこの季節。津軽平野には金色の水田風景が広がる。中緯度地帯にある北日本は過去の環境激変によって、他の地域に比べ、イネをはじめ農作物に大きな影響を受けてきた。縄文時代を含め、北日本地域には世界的に環境激変期の生態系を知る上で貴重な考古学的フィールドが多数眠っている。
 本州最北端の水田跡が見つかった弥生時代前期の砂沢遺跡と、弥生時代中期の垂柳遺跡は、水稲農耕文化が2300年前という弥生時代の早い段階で定着したことを示すだけでなく、南方で栽培化が始まったイネが北緯40度を超えた地域で栽培化に成功していたことを示す。
 例えば、イネが生育する上で必要な日平均気温の積算温度は3500度であり、津軽平野は3000度ほどの所の北に位置する。在来品種では早生品種などでないと栽培が難しいとされてきた。ではなぜ、水稲農耕が弥生時代に津軽平野に定着したのだろうか。
 ▽土器と石器の研究
 北日本の弥生文化の研究は土器と石器の研究が大きくけん引してきた。例えば、弥生時代の初めに西日本で作られた土器を模した遠賀川(おんががわ)系と呼ばれる土器や、大陸系磨製石器と呼ばれる大陸の水稲農耕文化に伴う磨製石器が見つかる点は、西日本から水稲農耕が導入されたことを裏付けることになった。
 一方、土偶などの祭祀(さいし)や、縄文時代以来の堅果類採集や狩猟、漁労に使う道具には変化がない。このことから縄文人が水稲農耕を受け入れつつも複合的な生業を行っていたというのが北日本の大きな特徴である。
 近年、弘前大学北日本考古学研究センターのチームでは全国から出土したイネに注目した研究を進めている。遺跡出土のイネは約2000年間、腐らずに残った貴重なものである。分析の結果、砂沢遺跡と垂柳遺跡のイネが形態的に異なることが分かった。さらに大規模な水田が発見された垂柳遺跡と、その隣の高樋(3)遺跡からは熱帯ジャポニカに相当するDNAが見つかった。熱帯ジャポニカは、さまざまな気候や土壌に強く粗放栽培に向く。つまり、大規模な水田の展開には気候に強い熱帯ジャポニカが重要な役割を果たしたことが明らかとなった。
 ただし、谷間に小規模な水田を営んだ砂沢遺跡の時期から津軽平野の低地に大規模な水田を展開した垂柳遺跡とは、約50から100年の時間的な開きがあり、立地や水田の形だけでなくイネの形質も異なっていた可能性が出てきた。この間にどのような変化があったのだろうか。
 ▽北限更新の瞬間
 今、その謎の解明に向けて遺跡の発掘調査が行われている。2013(平成25)年度から、弘前市教育委員会と共同で砂沢遺跡の調査を約30年ぶりに開始した。今回の調査の結果、これまで推定されていた6枚よりも、少なくてももう1枚分の水田の広がりが確認された。
 もう一つは、砂沢遺跡から500メートルほど北にある清水森西遺跡の調査である。この遺跡は津軽富士見湖として知られる廻堰大溜池の近くに位置する。昨年度秋からの調査の結果、砂沢遺跡の次の時期に当たる遺跡であることが分かった。
 調査で出た土をふるい掛けした。地道な作業だが、やったかいがあった。イネ種子と小さな玉を発見することができた。砂沢遺跡の次に古いイネの検出と弥生時代の出土イネの北限更新の瞬間だった。遺跡の調査、分析はまだまだ続く。今後の展開が期待される。
(弘前大学准教授・上條信彦)

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八戸と鰺ケ沢結ぶ準急=98

2018/9/24 月曜日

 

鰺ケ沢駅での準急「岩木」の出発=1965(昭和40)年10月1日・鰺ケ沢町教育委員会提供
森山海岸を行く混合列車。貨車の後に郵便荷物2等合造客車と2等客車が連結されている。2等は現在の普通車=1966(昭和41)年7月・中園裕さん提供
キハ10系気動車と木造駅。五能線で1957(昭和32)年から79(昭和54)年まで普通列車に使われた気動車。車体が狭く振動も大きかった=1975(昭和50)年頃・青森県史編さん資料
むつ・岩木・よねしろ2号の運転経路=1965(昭和40)年10月1日現在・『交通公社の時刻表』1965(昭和40)年10月号より筆者作成

 ▽「岩木」の登場
 1965(昭和40)年10年1日の国鉄ダイヤ改正で、五能線に準急「岩木」が運行されることになった。当時国鉄には普通列車の他に、特急・急行・準急という3種の優等列車があった。「岩木」は五能線初の優等列車だった。
 下りの「岩木」は鰺ケ沢駅8時15分発、五能線内は木造、五所川原、板柳の各駅に停車。川部駅で方向を転換し、奥羽本線は浪岡駅にだけ停車し、9時48分に青森駅に着く。所要時間は1時間32分。
 上りの「岩木」は青森駅を17時37分発、鰺ケ沢駅着19時15分。五能線沿線の人びとが「岩木」で青森まで往復すれば、川部駅での乗り換えなしで青森駅に着き、市内に約7時間滞在できることになった。
 東能代(秋田県能代市)~川部間147・2キロを結ぶ五能線は、1936(昭和11)年に全通した。戦後、気動車(ディーゼルカー)が導入されたが、1973(昭和48)年までは蒸気機関車の牽(けん)引する混合列車(客車・貨車を併結した列車)が残るローカル線だった。
 リンゴの全国産出量の22%が五能線地区といわれ、ほとんどが鉄道で移出された。冬季のリンゴ積み出し期には多数の臨時貨物列車が運転されていた。混合列車は貨物扱い駅で貨車の入れ換えをしながら走るので、速度は遅かった。
 ▽上り鮫駅発
 五能線と県都青森を直結する「岩木」への期待は大きかった。10月1日、鰺ケ沢駅前で盛大な出発式が行われ、出発時刻になるとブラスバンドの演奏、乗務員への花束贈呈があり、日の丸の小旗が打ち振られた。停車する木造、五所川原、板柳の各駅で歓迎行事があり、列車は遅れ気味だった。
 翌日の本紙は「岩木」を「鰺ケ沢から青森直通」と紹介した。しかしこの説明では物足りない。実は上りの「岩木」は、八戸線の鮫駅発なのである。鮫駅を14時40分に発車。尻内(現・八戸)から東北本線に入り青森駅着17時27分、10分停車の後、発車。19時15分に鰺ケ沢に着くことは前に書いた。
 この列車は、尻内・青森・川部の3駅で列車の前後が変わるというものだった。さらに、八戸線内は普通、尻内―青森間は急行、青森―鰺ケ沢間は準急と、列車種別も2度も変わるややこしさだった。
 「岩木」は県西部の鰺ケ沢町と県南の八戸市鮫とを結ぶ画期的な列車、と言いたいところだが、このことは話題にもならなかったようだ。「岩木」の利用客は青森で入れ替わる。鮫―青森間と青森―鰺ケ沢間の別個の列車が、同じ車両を使って運転されているようなものなので、県南の人びとの関心を呼ばなかったのだろう。
 ▽分割併合列車
 「岩木」には、もう一つ特徴があった。図にあるように、「岩木」は3本の列車が分割・併合(切り離し・連結)する列車として運転されていたのである。
 (1)準急・急行「むつ」仙台―青森―弘前―秋田
 (2)普通・急行・準急「岩木」鮫―青森―鰺ケ沢
 (3)準急「よねしろ2号」盛岡―大館―秋田
 同じ日に運行が始まった弘前発仙台行準急「さんりく」も「よねしろ2号」とも絡む分割・併合列車(多層建て列車ともいう)だった。
 1960年代から70年代には、国鉄が全国に「分割併合列車」を走らせていた。幹線である東北本線と奥羽本線を走る「むつ」を親列車として、五能線に直通する「岩木」、花輪線経由で盛岡と秋田を結ぶ「よねしろ2号」の子列車を分割・併合して走らせることで、支線区の旅客サービスを向上させようとしたのである。
 このような複雑な列車運行ができるようになったのは、気動車が大量に増備されたからである。気動車にはほとんどの車両に運転台があり、自走可能だった。自在に分割・併合できるのが気動車の身軽さである。
 さらに、気動車は逆向きにも連結できるようになっている。電車と違い、架線がない非電化区間を自由に走ることができる。この特性を最大限に引き出したのが、スジ屋と呼ばれるダイヤ編成の職人達だった。
 ▽短命だった「岩木」
 1968(昭和43)年10月、東北本線全線複線電化完成に伴い、国鉄ダイヤは大改正された。「準急」がなくなり「急行」に格上げされた。準急「岩木」は深浦まで延長されて急行「深浦」となった。「深浦」に関連する分割併合列車は9本の急行が離合集散する複雑なものだった。
 ▽消えた分割併合列車
 全盛を誇った「分割併合列車」は、70年代後半から全国で次々に廃止されていった。幹線電化が進み、幹線に気動車を走らせるのが非効率になったこと、新幹線網が拡大して、在来線の優等列車が削減されたことが要因である。さらに合理化が進み、分割併合作業を行う要員がいなくなったことも一因と言える。
 半世紀前には、新幹線中心の鉄道とは違った、手作りのきめ細かいダイヤがあったのだ。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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貴重な旧制木造中講堂=97

2018/9/3 月曜日

 

中央公民館講堂外観。解体の直前に撮影。長年の風雪による損傷が目立つ=2017(平成29)年1月・つがる市教育委員会撮影
講堂内部。ステージの奥に格納所あ。写真は現在のステージで、建設当初は半分に満たない小さなものだった=2017(平成29)年1月・つがる市教育委員会撮影
旧制木造中学校時代の講堂。全校集会中の写真で、ステージで話すのは小野寺重吉初代校長か=昭和初期・県立木造高等学校提供
 戦後の木造高等学校全景。講堂と旧校舎は開校以来の位置。新築の体育館と白い商業科棟は中央公民館に転用される=1964(昭和39)年6月・県立木造高等学校提供
解体中の講堂。トラス構造の屋根は90年近くを経てもなお強固なままだった=2007(平成29)年2月・つがる市教育委員会撮影

 つがる市木造地区は新田開発の拠点として発展し、明治以降は馬の競り市で大変なにぎわいを見せた。この町の中心部にあり、かつて津軽藩が設置した代官所の跡地に建つ「中央公民館講堂」は、1929(昭和4)年に旧制木造中学校の講堂として建てられた歴史的建造物である。
 ▽地域と学校のあゆみ
 旧制木造中学校は、1902(明治35)年に設立された青森県立第四中学校を前身とする。弘前・八戸・青森に次ぐ県内で4番目の「ナンバースクール」であり、制服と制帽をまとった姿は町民の羨望(せんぼう)の的だったという。
 しかし、学生たちの剛勇な気風に加え、他県出身者が多い教師との方言の違いもあり、生徒は教師たちに反発する。校内では授業ストライキなど騒動がたびたび起こり、さらに折からの大凶作も影響して退学者が続出、入学者は減少の一途をたどった。開校からわずか7年後には旧制弘前中学校の分校として統合され、ついには分校も14(大正3)年に廃校となった。
 だが教育に対する地域の熱意もあり、26(大正15)年に県立木造中学校として再発足を遂げ、翌年入学式を挙行する。校舎も新しく全面整備され、現在まで残る講堂はこの一環として新築されたものである。講堂では小林光政県知事や、弘前出身の中村良三海軍大将をはじめとする海軍軍人らが生徒に講話を行った記録がある。
 戦後、旧制木造中学校は学制改革によって、県立木造高等学校へと生まれ変わる。講堂は引き続き使用され、60年代後半には90度向きを変えた上で曳(ひ)き家されている。その後、72(昭和47)年に学校は近隣の新校地へ移転することとなった。大正時代の趣を残す学びやは惜しまれながらも解体されたが、旧校舎の一部は平内町の松風塾高等学校へ、講堂は旧木造町へ譲渡された。
 以降、講堂は校地の一角を転用した木造町中央公民館の施設として利用され、地域の学習の場として現在に至った。92(平成4)年には木造町指定文化財となり、町村合併後はつがる市指定文化財として引き継がれている。県内に現存する学校の講堂としては類似するものがなく、貴重な文化財であるといえる。
 ▽重厚かつ荘厳な建築
 屋根は半切り妻屋根、鉄板瓦棒葺(ぶ)きで、緑色に塗装している。キングポストトラス(三角形を単位として組んだ構造)による小屋組みとすることで、室内に柱のない広い空間を造り出している。
 外壁はモルタル塗りで、ドイツ壁(モルタル掃き付け仕上げ)と刷毛(はけ)引き仕上げが用いられた。これらは大正末から昭和初期にかけ、洋風建築で流行した工法である。屋根を支える柱に、壁を補強するためのバットレス(控え壁)を設け、白く塗り分けている点も特徴である。
 室内は横幅が約15メートル、奥行きが約22メートルで、全体的にシンプルながらも、厳粛な式典が行われるにふさわしい場に仕上がっている。青緑色の柱には柱頭飾りが付き、大きな窓枠が設けられている。天井は2段の折上額縁天井で、漆喰(しっくい)塗仕上げを施す。また、シャンデリアをつるすメダイオン(円形装飾)の壮大なデザインにも目を引かれる。
 ステージの奥には、かつて式典の際に御真影や教育勅語を安置した格納所が設置されている。格納所の左右には、フルーティング(ギリシヤ建築の柱に見られる縦溝状の装飾)を施した西洋風の角柱が立つ。上部の半円型に区画された箇所にはパルメット(シュロの葉をモチーフにした古代の装飾文様)が取り付けられており、装飾性を高めている。
 ▽解体そして復元へ
 建設から90年近くたつ講堂は老朽化も著しく、部材の腐食や剥落など破損も目立っていたため、中央公民館の閉館に伴い昨年1月に解体保存工事が行われた。その際、解体によって新たな事実も判明した。
 ステージは過去2回にわたって増設されており、3つのステージが入れ子状に残されていた。また講堂の設計者、および施行者は不明だったが、屋根の材木には部材番号のほか「成文木材部」や「木造中学校行」といった印が確認され、建設工事の一端が垣間見えた。
 解体された中央公民館講堂は、つがる市生涯学習交流センター「松の館」横へ移築復元の予定であり、今年度より工事着手となる。文化財として長く保存するだけでなく、荘厳な雰囲気を生かし、式典や演奏会の場としても活用が見込まれる。町を長年にわたり見守ってきた講堂は、これからも地域の学びやであり続けるだろう。
(つがる市教育委員会社会教育文化課文化財保護係学芸員・小林和樹)

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出材に重要な深浦湊=96

2018/8/20 月曜日

 

弘前藩の山林地帯区分(『青森県史通史編』2より)。深浦湊は西廻航路の重要な寄港地で、同地域の山林は西之浜通という地帯に区分されていた
山形岳泉写「合浦山水観」(青森県立郷土館蔵)より「無為館より眺望の図」=(上)=と、現在の深浦の様子(写真提供=国土交通省東北地方整備局青森港湾事務所)=(下)=。いずれも港の周囲が山林に囲まれていることが分かる
「山沢考」(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)より黒崎・松神近辺(現深浦町)の山林。各所に「槻アリ」「桂所々アリ」など、生育していた樹種の情報が記されている
黒瀧家文書より、1746(延享3)年8月に当時の福沢屋当主であった惣三郎から、大坂の飛騨屋伊兵衛へ、ツキやカツラの木材を送ることが記された文書の一部

 ▽弘前藩領の山林
 弘前藩は領内の約62%が山林で占められていたとされており、これら豊富な山林資源を活用した木材生産と流通が、江戸時代初期から盛んに行われていた。
 藩の廻米(かいまい)や出材にあたって重要な湊が存在していた深浦周辺の山林では、良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれていた。このため、これら山林からは江戸時代を通じて大量の木が木材として伐(き)り出され、商品として大坂の市場へと運ばれたり、江戸藩邸の建築資材などとして使用されたりした。
 ▽福沢屋黒瀧家
 深浦周辺地域における木材の生産や流通に当たって重要な役割を担っていた商家の一つに、深浦湊より北に位置する追良瀬(おいらせ)村(現深浦町)の黒瀧家が挙げられる。同家は福沢屋を称し、代々木材の移出を担ってきた家である。
 この黒瀧家には多くの古文書が残されており、同地域における江戸時代の木材生産や流通の様相、およびそれに携わった人々の活動を知ることができる。
 深浦周辺地域において木材の伐り出しと移出が盛んに行われたのは、延享期から明和期(1744~72)にかけてだった。この間に、福沢屋黒瀧家は大坂や北陸に向けて多くの木材を回漕(かいそう)した。
 例えば、1746(延享3)年8月にはツキ材の寸甫(すんぽ)(木目の通った丸太を数個に割ったもの)140本と、カツラ材48本が大坂へ向けて送られた。また、1764(宝暦14・明和元)年には、ツキ・カツラ・マツなどの木材計1275本と721本が、大坂と新潟へ向けてそれぞれ移出されている。
 ▽木材をめぐる人々
 木材の具体的な移出先は、大坂の飛騨屋伊兵衛や海松屋吉兵衛、新潟の塩屋弥惣右衛門といった商人たちだった。このうち飛騨屋伊兵衛は、江戸から盛岡藩領大畑(現むつ市大畑)へと進出し、同地を拠点に蝦夷地の山林伐採請負事業を展開していた飛騨屋久兵衛(二代目)の弟である。伊兵衛もまた、木材を取り扱う商人として1733(享保18)年に大坂へ支店を構えていた。
 福沢屋は1747(延享4)年8月に、鯵ケ沢や深浦の商人・船問屋たちとともに木材の伐り出しや販売に関わる仲間を結成した。結成に際しては、仲間内で木材伐り出し費用を平等に負担することや、販売価格を互いに協議したりすることなどが定められている。
 このほかにも、木材移出に当たっては藩領内外のさまざまな人々が関わっていた。例えば、実際に山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちである。そして、木材の回漕を担っていたのは、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちだった。さらに、彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちだった。
 深浦の木材生産や流通は、藩領内外のさまざまな人々が関与していた。これらの点から当時、深浦の木材伐り出しや、領外への移出が盛んに行われていたことが窺(うかが)えよう。
 ▽明和期以後
 明和期(1764~72)に入ると、大坂市場における木材価格の低下や藩領内における不作の影響を受け、福沢屋黒瀧家の経営は次第に困難な状況に陥った。そのため、同家はこの時期に「留山(とめやま)」(領民たちの入山・伐木が禁じられた藩有の山林)への入山や木々の伐採を藩に対してたびたび願い出ている。
 明和期以後、福沢屋の経営をはじめ、深浦における木材の生産や流通のあり方がどのように変化したのかについては、史料の残存状況などの点で追究が難しい。しかし、1846(弘化3)年の段階でも、深浦湊へ木材を積み入れるための船が21艘(そう)入港しているため、幕末に至るまで同地域の木材生産や移出が継続していたように窺える。
 深浦の山林は地域に暮らす人々と藩領内外の人々との間をつなぎ、彼らの生活をあらゆる面で支えていたのである。
(徳川林政史研究所非常勤研究員・萱場 真仁)

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