津軽の街と風景

 

郷土菓子に歴史、風土=49

2016/6/6 月曜日

 

鯵ケ沢町の「鯨餅」と浅虫温泉の「久慈良餅」。「鯨餅」には岩木山と西海岸、「久慈良餅」には湯ノ島や夏泊半島など、郷土の美しい風景が描かれている(中園裕撮影)
各地で作られている梅干菓子。左から弘前市の「干乃梅」、黒石市の「干梅」、五所川原市金木町の「甘露梅」(中園裕撮影)
バナナ最中(『青森の暮らし』401号、グラフ青森より転載)
色々な南部煎餅。津軽地方でも南部煎餅は作られている。南部煎餅には「三階の松」や「菊水紋」の模様が描かれることが多い(下段右2枚)

   ▽餅菓子 ~久慈良と鯨~
 青森県内には多数の郷土菓子が存在する。津軽地方で有名な餅菓子のくじら餅は、1918(大正7)年5月に開催された二市八郡菓子(あめ)品評会で注目された。餅菓子が土産品として携帯性や保存性に優れ、弁当の代用にみなされていたからだった。その時の出品概評で、浅虫温泉の永井源三郎(永井元祖久慈良餅本舗)が作った「久慈良餅」は、手軽で便利な餅菓子だと評価された。
 久慈良餅は1907(明治40)年頃、日露戦後の傷(しょう)痍(い)軍人らが転地療養のため浅虫温泉に滞在したことを契機に誕生した。これ以降「東北の熱海」と称された浅虫温泉の隆盛とともに、久慈良餅を作る菓子屋が増え、土産品として定着した。
 久慈良餅は、鯵ケ沢町の元祖「鯨餅」を作った中村家から製法を習得したものだった。同家の中村順助が作った鯨餅は「順助の鯨餅」と宣伝された。昭和初期には町内で鯨餅を販売する店が増え、町を訪れた人々は必ず鯨餅をお土産にしていた。
 注目すべきは、鯨餅が鳴沢村(現鯵ケ沢町)の山田野演習場の御用菓子であり、軍人らの間食用として納品されていたことである。鯨餅は比較的安価で日持ちがよく、固くなっても炙(あぶ)れば美味(おい)しかった。鯨餅は除隊土産としても人気だった。
 ▽梅干菓子 ~甘露梅・干梅・干乃梅~
 餡(あん)を求(ぎゅう)肥で包み紫蘇(しそ)の葉でくるんだ菓子は、津軽地方に広く見られる。近代では、金木町(現五所川原市)の虎屋「甘露梅」と、黒石町(現黒石市)の松葉堂まつむら「干梅」、弘前市の開雲堂「干乃梅」が著名であろう。いずれも炎暑で腐敗や味が劣化しないよう工夫を施された菓子である。そのため東京のデパートで開催される菓子陳列会や、札幌や小樽の県立物産館など県外へ出品されていた。
 虎屋の甘露梅は、1907年頃に創製された。菓子名を甘露梅と改めさせたのは、皇族から京都瑞龍寺の門跡となった村雲日栄尼だった。虎屋では、村雲御門御用達の看板を掲げ、京都瑞龍寺へ甘露梅を納品していた。現在、金木町内で複数の菓子屋が甘露梅を製造販売している。
 松葉堂まつむらの干梅は、1915(大正4)年に津軽地方で行われた陸軍特別大演習の際、宮内省(現宮内庁)が買い上げた逸品である。その後は、県当局を経由せずに宮内省へ直接納入されることになったという。
 1928(昭和3)年に行われた弘前名物選定の一つが、開雲堂の干乃梅である。選定では、簡易な製造法を公開することが要請されていた。干乃梅は市内多数の菓子屋で作られ、昭和戦前の弘前市における土産品の一つとなった。
 ▽バナナ最中
 バナナ最中は、弘前市富田のいなみや菓子店2代目である稲見與次郎が創製したものである。かつて弘前市の菓子屋では、その年の勅題にちなむ「新菓」を元旦に作る慣習があった。しかし、與次郎は新しいものを求めて上京した。1913(大正2)年、新橋駅から大阪方面の汽車内でバナナの芳香に魅了された彼は、大阪駅に着くと早速バナナを食べた。弘前市に帰った彼は、バナナの芳香と味を持つ菓子作りに励み、1916(大正5年)の元旦に新菓としてバナナ最中を発売した。現在、弘前市をはじめ津軽地方や秋田県北にバナナ最中が分布するのは、いなみや菓子店で修業した菓子職人たちが、各地域で独立開業したからである。
 他方、1916年に創業し、弘前市本町にある旭松堂の初代山本万次郎も、バナナの芳香と味覚に魅了された菓子職人だった。彼は昭和初期にバナナを再現する形でバナナ最中を作り販売した。
 近代の弘前市には第8師団が設置されていた。将兵たちはバナナ最中を弘前市当地の味として、次の赴任地に移ってからも注文した。それほど人気を集めた菓子だった。
 ▽南部煎餅
 菓子類は皇族や軍隊と関わって有名になったものが多い。これに対し南部煎餅は、県南地方や岩手県北の凶作や冷害を受けやすい地域で生まれた。
 1929(昭和4)年、八戸町の市制施行に伴い、南部煎餅は八戸市を代表する菓子として積極的に宣伝された。当初、南部煎餅の由来は坂上田村麻呂の兵糧食と紹介されていた。ところが1935(昭和10)年前後から、長慶天皇の伝説へと変化している。これは当時、八戸市や三戸郡内で長慶天皇や楠木正成、そして根城築城に関する数々の記念祭が挙行されたためだろう。南部煎餅の菊水紋は楠木正成を連想させたに違いない。
 南部煎餅は携帯性や保存性が高い。このため戦時体制の強化に伴い、陸軍の軍用食として採用された。携帯性や保存性に富むという土産物の特質が、軍の携帯食になったことは興味深い。この点は餅菓子に通じるものがあろう。
 ▽歴史と風土を味わえる
 青森県内の郷土菓子には、第8師団が存在しヤマセが強く吹き付ける凶作地帯であるなど、青森県の歴史や風土が大きく関わっている。郷土菓子というと、林檎(りんご)製菓子のように、地域の特産物を材料に用いた菓子を想起する。しかし、くじら餅や梅干菓子、バナナ最中などは、いずれも地域に密着し、特定の地域に分布して名前や形が特有である。そして相応の歴史を有する。南部煎餅には厳しい自然環境を克服してきた特徴も備わっている。郷土菓子は、郷土の歴史と風土が詰まった青森県にとって大切な菓子なのだ。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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海と山で栄えた蟹田=48

2016/5/23 月曜日

 

蟹田奉行所跡(2015年9月9日・筆者撮影)。外ケ浜一帯の年貢米を収納する藩の「御蔵」も併設。1889(明治22)年に発足した蟹田村の役場もこの地に置かれた
「東海岸長延略図」(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)。1864(元治元)年。蟹田周辺。中師の台場や、海沿いの勤番所に注目
津軽森林鉄道の蟹田停車場(大正期・青森県史編さん資料)。現在のJR蟹田駅付近にあった。1967(昭和42)年廃止
蟹田橋から観瀾山(右奥)を望む(大正期・青森県史編さん資料)。橋のたもとには和船も見える。江戸期には河口付近に湊番所が置かれた

 ▽江戸時代は海と陸の拠点
 外ケ浜町の中心地蟹田。近年は人口減少でやや活気がないものの、江戸時代には外ケ浜から産出される木材の積み出し港として栄えた。
 旧蟹田町は海のイメージが強いかもしれないが、実際は広範囲な山間部を持つ。合併前の2004(平成16)年の統計では、町域の87・9%が山林であり、藩政時代からヒバの美林が広がっていた。弘前藩は青森や鯵ケ沢など領内の主要な港湾や関所を「九浦(くうら)」と称し、交易の窓口として統制したが、蟹田もその一つだった。
 蟹田は、幕末(1864年)で戸数122戸、船問屋2軒と町場としてはそれほど大きくなかったが、前記の性格から、町と湊(みなと)を管理する役職として町奉行が置かれていた。現存文書で確認できる範囲では、1685(貞享2)年4月に戸田六右衛門ら2人が任命された記録が最も古い。いずれも材木方と兼務であり、蟹田湊の性格を示している。
 町奉行は2人制で4カ月ずつ交代、その下に入港する船や荷物の監視をする湊目付などの役人や、町年寄・町名主など町人の代表の役職が置かれた(弘前市立弘前図書館蔵「寛政律」)。奉行所は江戸後期には現在の蟹田駅近く、商工会館周辺に位置したが、元禄年間(1688~1704年)にはもっと浜手に位置し、湊を望見できる場所にあった。
 陸上交通では、青森と三を結ぶ松前街道が町を貫通し、蝦夷地へ渡る多くの旅人が町を通った。行程の関係で松前藩主が泊まる本陣は平舘に置かれていたが、蟹田は休憩場所とされていた。現在、シロウオ漁で有名な蟹田川は元禄年間には舟渡りであったが、18世紀後半には架橋された。
 明治以降は、函館と青森を直行する蒸気船が運航され、松前街道の位置づけは低下した。津軽海峡線の開通で、蟹田は再び本州と北海道を結ぶ陸上ルートの拠点となったが、北海道新幹線の開業で特急が止まらなくなったのは残念である。
 ▽木材の流通と船問屋
 蟹田湊からの木材の移出先は、若狭(わかさ)・敦賀(つるが)・三国(みくに)(いずれも現福井県)などの北陸諸港をはじめ、江戸や大坂などが主な交易地であった。蟹田湊の商人として塩飽(しわく)牛島(現香川県丸亀市)出身の四国屋丸尾由兵衛、羽州木戸石(きどいし)(現北秋田市)出身の木戸屋久右衛門、幕末期に地元商人から成長した石田小十郎などが知られる。
 四国屋は1663(寛文3)年に蟹田湊口に熊野宮を建立していることから、この時期までには蟹田に移住したらしい。同時期には下北半島川内新町の熊野神社も塩飽出身の商人によって建立されており、西廻(まわ)り航路の発達とともに、塩飽商人が津軽半島や下北半島に定着し、木材などの海運交易に進出していることが分かる。
 豊富な木材を利用しての造船も盛んで「弘前藩庁日記」によると、蟹田では元禄年間には備前岡山(岡山市)、越前新保(しんぼ)(福井県坂井市)などの船頭により造船が行われており、大坂(現大阪市)の豪商鴻池(こうのいけ)安右衛門も船の帆柱用に蟹田の材木を求めている(『蟹田町史』)。
 しかし蟹田湊の主要な産物であった木材も、天明の飢饉(ききん)を転機に次第に衰退に向かう。また、江戸後期には地域間の商取引の活発化や広域化とともに、九浦という特定の窓口だけでは領内外の流通統制ができない状況になり、幕末期に九浦制は形骸化した。
 明治になると、木材移出に関わる藩の保護がなくなり、さらに1906(明治39)年にはわが国初の森林鉄道が蟹田~青森間に開業したことから、木材積み出し港としての性格は失われた。蟹田八幡宮に奉納されている幕末から明治時代の絵馬はかつての繁栄をうかがわせる。
 その後も「小廻(こまわし)船」と呼ばれる陸奥湾岸の地域的輸送船や、三~青森間を結ぶ定期船が寄港していたが、後者は1961(昭和36)年に廃止された。しかし、1980(昭和55)年には蟹田と脇野沢村(現むつ市)を結ぶむつ湾フェリーが就航。津軽半島と下北半島を結ぶ足として活躍している。
 ▽観瀾山と中師台場
 「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」と刻まれる太宰治の碑文がある観瀾(かんらん)山は蟹田川を挟んだ中師(ちゅうし)地区にある。陸奥湾を見下ろす眺望に優れた地であり、1923(大正12)年に久邇宮(くにのみや)邦久(くにひさ)王(香淳皇后の兄)が観覧したことから名付けられた。
 この立地から、古くは1807(文化4)年から翌年にかけ、山の中腹に弘前藩の台場が設置されている。ロシア船の接近に備え領内10カ所に築かれた台場の一つだった。現在は道路工事などで削られ、跡はほとんど残っていない。
 海と山に囲まれた旧蟹田町は、また防衛の拠点でもあったのである。
(県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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「三都」で羊羹に特徴=47

2016/5/9 月曜日

 

青森市内で作られている昆布羊羹(筆者撮影)
弘前市内と青森市内(左と中央下)で作られている林檎羊羹(筆者撮影)
八戸市内で作られている菊羊羹(中央)と菊を使った和菓子(筆者撮影)
県内各地の特産物を使った羊羹(筆者撮影)

 ▽「三都」の競合と均衡
 近代の青森県は博覧会や共進会などで、羊羹(ようかん、煉り羊羹)を多く出品する県として周知されていた。このため今回は、近代青森県の都市部で見られた羊羹に焦点をあて、近代青森県の羊羹を探ってみよう。
 近代以降、現在にかけて青森県は三つの都市(三都)が競合し、均衡を保ちながら歴史を刻んできた(中園裕「知られざる青森県」『グラフ青森』より)。三都とは、県庁所在地で青函圏の拠点である青森市、旧弘前藩の城下町で第8師団が設置された弘前市、旧八戸藩の城下町でありながら港町として発展した八戸市である。三都にはそれぞれ特徴があるが、それは羊羹自体にも見られる。個別に紹介しておこう。
 ▽青森市~昆布羊羹~
 昆布羊羹は、青森市大町(現本町)の2代目高松藤吉(高松堂)が、東津軽郡三厩産の通称菓子昆布を応用し、1889(明治22)年に創製した逸品である。皇族が購入し、各種博覧会や共進会でも高い評価を得ていた。このため1916(大正5)年の段階で、青森県当局が「本県唯一の名物」と認めた菓子だった。
 東京白木屋呉服店で1916年の第1回から第4回まで行われた全国名産菓子陳列会や、1917(大正6)年以降に東京三越呉服店で開催された東北六県名産品陳列会で、昆布羊羹は必ずと言っていいほど出品された。県外へ宣伝できる名菓の一つとして位置づけられていたわけである。
 昆布羊羹は、高松堂以外の多くの菓子店で製造され販売された。その代表格が1891(明治24)年創業の甘精堂本店(青森市新町)である。創業の翌年に完成したと言う昆布羊羹が明治期に誕生した昆布羊羹の歴史を伝えている。
 ▽弘前市~林檎羊羹~
 林檎(りんご)製菓子の種類は多いが、林檎羊羹はその元祖と言われている。1897(明治30)年、弘前市親方町にあった田邊富吉(万年堂)が林檎羊羹を完成させた。材料には弘前市を取り巻く中津軽郡の村々で生産される林檎のうち、市場に出回りにくい林檎が利用された。林檎羊羹が作られたのは林檎農家の生活を助けるためだったのである。
 林檎羊羹は、弘前市内や青森市などの菓子屋で製造販売されるようになった。昆布羊羹と同様、博覧会や共進会などで入賞し、東京で開催される陳列会へ出品され、札幌や小樽の青森県物産館で販売された。これらを通じて、林檎羊羹は青森県の名菓として宣伝されていった。
 他方、1916年当時の県当局の資料によると、弘前市は林檎製菓子のほか、葡萄(ぶどう)羊羹の生産額が高かった。しかし現在は市内で葡萄羊羹を製造する菓子屋は少ない。その中で弘前市和徳町にある菓子司みしまでは、1935(昭和10)年の第10回全国菓子大博覧会で葡萄羊羹が入賞した歴史を持ち、岩木山麓の山葡萄を使った「陸奥の園」(葡萄羊羹)を製造販売している。
 ▽八戸市~菊羊羹~
 八戸町(1929年=昭和4年に市制施行)では、十三日町にある村福本店の石橋雄太郎と栄太郎親子が、三戸郡平良崎村(現南部町)の特産である阿房宮(あぼうきゅう=食用菊)をつかった菊羊羹を、1905(明治38)年頃に完成させた。阿房宮は食用菊の中でも味や香味がすばらしく、石橋親子は阿房宮のよさを郷土菓子にしようと研究した結果、菊羊羹を創製したのである。
 現在、菊羊羹を作っている店は少なくなったが、林檎製菓子と同様、菊を使った菓子は県南地区で数多い。
 ▽三都周辺の特産物
 近代以降に創製された三都の羊羹は、いずれも周辺の郡部(町村)が有する特産物を応用している。このため他地域には見られず、その地域を代表し宣伝できる羊羹と言えるだろう。
 羊羹の特性は、衛生的で、保存や携帯性から利用価値が高いこと、栄養の豊富さや風趣があることと言われている(守安正『お菓子の歴史』)。衛生面や保存性に優れ、携帯しやすい形状から、地域が生み出す土産物の特徴と重なる。
 全国規模の博覧会などは、東京や大阪など大都市で開催される傾向が強い。だからこそ中央から遠方に位置する本州の最北端の青森県にとって、羊羹は出品しやすい菓子だったに違いない。
 ▽羊羹は地域をあらわす
 作家の谷崎潤一郎が随筆「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」で、羊羹の美しさを洋菓子には見られないものと分析したことは興味深い。形はシンプルだが、そこに陰影の美を映し出す羊羹は、和菓子の神髄そのものなのだろう。
 2016(平成28)年3月には「羊羹コレクション」がパリで開催された羊羹が日本ブランドとして世界へ発信されたことは意義深い。なお羊羹コレクションには、甘精堂本店の昆布羊羹とかしす羊羹が選ばれている。
 地域の特徴を如実に示す昆布・林檎・菊は、羊羹のほか、飴(あめ)や最中さらにカステラなどの菓子類へも応用された。しかし、1950~60年代以降の高度経済成長や衣食住の洋風化は、菓子にも洋風の影響を与えた。その結果、菓子が持つ地域の独自性を衰退させ、全国画一的なものを波及させたと思う。
 見方を変えれば、これらの現象は地域の特徴があいまいになっていることを意味しよう。全国どこに行っても同じような物があふれる現在だからこそ、地域の名産や特産を使った羊羹を見直して欲しい。羊羹は地域の特徴をあらわし、地域を宣伝できる元祖的な和菓子であると思うからである。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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龍飛崎の歴史未来に=46

2016/4/25 月曜日

 

龍飛特設望楼(見張所)の遺構。望楼は1940(昭和15)年に開設。日米開戦直前の1941(昭和16)年9月から軍人5人を配置して海上警戒にあたった。1979(昭和54)年8月の撮影・青森県史編さん資料
陸軍が設けた第2砲台の遺構。2010(平成22)年6月23日・中園裕撮影
龍飛工事基地。1972(昭和47)年7月10日・青森県史編さん資料
青函トンネルの本坑貫通式。式典には当時の北村正●知事(中央)が出席した。1985(昭和60)年3月10日・青森県史編さん資料
※●は「哉」の「ノ」なし

 ▽函館要塞
 三厩村(外ケ浜町)の龍飛崎には、かつて日本陸海軍の軍事施設があった。日清戦争に勝利した日本陸海軍は、ロシア帝国を仮想敵国と位置づけ、軍備を増強した。1901(明治34)年、海軍はロシア艦隊の動きを監視するために、海峡西口の龍飛崎に龍飛望楼を設置した(1918年に廃止)。
 翌年には津軽海峡と函館港を防衛するため、大湊(むつ市)に大湊水雷団を置き、水雷艇4隻で海峡の守備にあたった。一方、陸軍は1899(明治32)年から1902(明治35)年までに、函館山に6カ所の砲台と保塁を設置して函館要塞(ようさい)と名付けた。
 1904(明治37)年2月10日の日露開戦とともに、大湊水雷団は函館に移動して函館港の防衛にあたった。11日にはウラジオストクのロシア
艦隊が艫作(へなし)沖で商船奈
古浦丸を撃沈し、7月には巡洋艦3隻が津軽海峡を横断して太平洋に進出。商船の拿捕(だほ)や撃沈を繰り返して日本海に戻った。ロシア艦隊は函館港に近づかなかった。海峡を通過するだけで函館市民は動揺し、青森・函館間の船舶の航行は停止した。
 ▽津軽要塞
 陸軍は1927(昭和2)年に函館要塞を津軽要塞と改称した。そして函館の砲台を縮小し、1929(昭和4)年の大間崎を皮切りに、汐首岬、白神岬へ砲台を築き、1937(昭和12)年に龍飛崎の砲台を建設した。4砲台には、いずれもカノン砲が備えられた。東口が優先されたのは、仮想敵国がロシアからアメリカに変わったためである。
 龍飛崎を要塞地帯に指定した陸軍は「要塞地帯法」により周辺地域の建造物や構造物の新設・改造などを制限した。写真や模写なども広範囲に禁止し、憲兵が目を光らせた。
 1940(昭和15)年には、海軍が龍飛特設望楼(のち特設見張所)を設置し、双眼鏡で艦船の監視にあたらせた。民間人を監視隊員とする防空監視哨(しょう)も設けられた。
 これらの龍飛崎軍事施設は、ほとんど効果を発揮しなかった。水中の潜水艦はカノン砲の敵ではなく、航空機に対して有効な高射砲の配備はなかった。1945(昭和20)年7月14日、津軽海峡上空に現れたアメリカ海軍艦載機の銃爆撃により、青函連絡船は壊滅した。
 ▽青函トンネル
 戦後、龍飛崎は注目を浴びる。敗戦の翌年、運輸省鉄道総局は津軽海峡連絡隧道(ずいどう)調査委員会を設置し、本州と北海道を結ぶ青函トンネルの建設に動き出したからである。1947(昭和22)年、龍飛崎・吉岡間22キロの調査を開始した。まだ東北本線は大部分単線で、蒸気列車が上野・青森間を14時間以上かけて走っていた頃である。
 1953(昭和28)年に鉄道敷設法別表に三厩・吉岡間の鉄道が追加された。運輸省から分離した国鉄は三厩・福島間延長36・5キロ(海底部22・5キロ)、龍飛崎直下を通る設計案を作成した。ところが、1970(昭和45)年、全国新幹線鉄道整備法ができて、青森市と札幌市を結ぶ北海道新幹線が整備計画線とされた。
 青函トンネルは、新幹線を通すことを前提に最急曲線半径や勾配(こうばい)を緩和した結果、蟹田・木古内間延長53・9キロ(海底部23・3キロ)に変更され、1971(昭和46)年に起工式を迎えた。開通後のトンネルと連絡船の使用方法については未定のままの建設開始であった。
 工事は国鉄が分離した日本鉄道建設公団の手で進められた。先進導坑は公団直轄、作業坑と本坑は主に請負工事によった。吉岡駅に近く、鉄道による資材輸送が可能な北海道側に比べ、本州側の工事基地となった龍飛の場合、道路の整備から進めなければならなかった。
 工事が始まると、龍飛崎の高台に工事基地が設けられ、最盛期には三工区だけでも公団関係者400人、企業体関係800人が工事に従事していた。青函トンネル全体の工事従事者は延べ1389万人に達した。1983(昭和58)年1月、先進導坑が貫通、1985(昭和60)年には本坑が貫通した。
 ▽海峡線から新幹線へ
 1988(昭和63)年3月13日、津軽海峡線が開通し、本州と北海道がレールで結ばれた。前年4月には国鉄分割民営化によりJR各社が発足した。JR北海道が青函トンネルを管理することになり、海峡線開通前日、経営に負担の大きい青函連絡船を廃止した。
 2016(平成28)年3月26日、北海道新幹線が開通した。青函トンネルを通る在来線旅客列車は全廃された。青函トンネルは標準軌の新幹線旅客列車、狭軌の在来線貨物列車が共用する複雑な運用を行うことになった。
 敗戦から71年、青函トンネル完成から29年。戦争の記憶。類をみない海底トンネルで磨かれた技術。建設工事で亡くなった人々の慰霊。龍飛崎には未来に伝えていかなければならないものがたくさん残されている。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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“砂子瀬の暮らし”記録=45

2016/4/4 月曜日

 

写真1 津軽民俗の会が「砂子瀬民俗共同調査」を行ったころの集落=1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真2 ヤライにて、流し木を陸揚げする様子=1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真3 炭スゴを担いだ女性= 1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真4 屋外のかまど、煮釜と簡単な炊事場がある=1951(昭和26)年8月・櫻庭武則氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 3月6日、本紙で「目屋ダム姿を消す」と、2016(平成28)年完成予定の津軽ダムの試験湛水(たんすい)に伴い、目屋ダムが沈んだことが報じられた。目屋ダムは1953 (昭和28)年に建設に着手、1960(昭和35)年に完成している。津軽平野を流れる岩木川流域の治水と利水を半世紀にわたって担ってきた。
 この目屋ダムには、砂子瀬というひとつの集落が沈んでいる。目屋ダム着工前の1951(昭和26)年8月、このダムに沈む村の生活文化を記録しようと大規模な調査が行われた。津軽民俗の会による砂子瀬民俗共同調査である。同会は、戦後の津軽地方における民俗研究の嚆矢(こうし)といわれる。
 同調査の詳細は会誌『津軽民俗』4号で報告され、その後、同調査で民俗班を担当した森山泰太郎氏、櫻庭武則氏、奈良広太郎氏らの連名で発表された『砂子瀬の話』(1953年刊、謄写版)、そして後年、森山氏によってまとめられた『砂子瀬物語』(1968年刊)は津軽地方の山村生活の記録としてだけではなく、日本民俗学における山村生活研究においても重要な資料として高い評価を受けている。砂子瀬は、津軽地方の民俗研究を志す者にとっては忘れ得ぬ村なのだ。
 筆者が事務局として編集に携わった『青森県史民俗編 資料津軽』(2014年刊)では、地域生活のさまざまな側面を新たな調査から明らかにするだけでなく、こうした津軽地方をフィールドに行われてきた民俗研究の歩みを明らかにしようと、過去の研究資料の収集や調査も行った。そこで、やはり重要な位置を占めたのが、津軽民俗の会、そして森山氏による調査であった。その中で、付録CDに収録された「砂子瀬民俗共同調査アルバム」から当時の砂子瀬の暮らしを写した写真を紹介しよう。
 ▽砂子瀬共同調査アルバム
 このアルバムは森山氏によって保管されてきたものである。先述の通り、1951年の夏8月1日~15日の合同調査、そして翌冬1月7日~13日、翌夏8月の順に、400点を超える写真が整理されている。その撮影者は手塚勝治氏、櫻庭氏との記述がある。『津軽民俗』4号では、手塚氏は「記録写真の難しさ」と題した記事を寄せ、「一箇の器物、一枚の仕事着にも村の生活を見せ、労働作業の背後に現れざる村の姿と伝統を撮らねばならぬ」と意気込みを記している。
 これらの写真は、砂子瀬の暮らしを視覚的に伝える貴重な資料だろう。『砂子瀬物語』をはじめ、同じく森山氏が執筆した『日本の民俗 青森』などに掲載された。管見の限りではあるが、初めに広く世に示されたのは調査当時1951年9月16日付の陸奥新報記事「砂子瀬民俗共同調査報告―調査団の行動記録―」だろう。写真2と、写真3によく似たカットの写真が掲載されている。
 写真2はヤライという仕掛けを使った流し木の様子。秋の間に伐木し、2月の堅雪のうちに運び出した薪(まき)材を、八十八夜が過ぎてから春の雪解け水の川に流す。この木材の陸揚げのため、流れに対して斜めに枠を設けて川水をせき止め片岸に導入する仕掛けである。
 写真3は、炭俵を担いだ若い女性。山中の炭小屋から炭を運ぶのは女性たちの仕事であった。1俵はおよそ15キロだというが、写真の女性は3俵背負っている。村から3里の山道を歩いて田代まで売りに行く。
 この乙女たちの姿は、西目屋村の民芸品目屋人形としても象(かたど)られ広く知られている。目屋の女性は、もんぺをはくのが上手で、マカナイ姿(仕事着の着こなし)が格好よかったため、もんぺ姿の女性を「目屋おなご」と呼んだという(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
 ▽津軽ダム建設にかかる生活文化調査
 計画を上回る洪水と灌漑(かんがい)用水、河川環境の保全など新たな水需要への対応のため津軽ダムが計画され、1991(平成3)年度から建設事業に着手された。再度、砂子瀬と川原平の集落はダムに沈むことになった。津軽ダム工事事務所では、森山氏を委員長として「西目屋地域生活文化調査委員会」を設立し調査を進めてきた。その成果は『砂子瀬・川原平の記憶 津軽ダム西目屋地域生活文化調査報告書』(2005年刊)としてまとめられている。また、「写真で見る砂子瀬物語」展と題して、同アルバムの複製写真約360点が砂子瀬の砂川学習館で展示され、多くの人出を集めた。
 今でも、砂子瀬は人びとの耳目を集める存在だ。2012(平成24)年9月、弘前大学において「津軽の民話と風土―西目屋の山の暮らしから」と題する講演会が行われた(青森県民俗の会・弘前大学生涯学習教育研究センター主催)。砂子瀬出身の語り手による昔話を聞くため、集まった人びとの熱気に、“砂子瀬”への思い入れを感じたことが印象に残っている。
 『青森県史民俗編 資料津軽』には、このアルバムをはじめ、関係者の皆さまのご厚意により、先人の研究資料を収録することができた。森山氏に関連する資料としてもう1点、貴重な資料を収録した。自筆資料「津軽の海村」である。津軽半島沿岸の村々を歩き、1950(昭和25)年の夏に書き上げている。編さん時には山海に囲まれた津軽地方の暮らしや風俗を知らせてくれる豊かな資料群に圧倒される思いであった。これを読み解くことが、残されたわれわれの責務なのだろう。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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