津軽の街と風景

 

蟹田川に貴重な遺跡=72

2017/7/3 月曜日

 

大平山元1遺跡=2013(平成25)年・外ケ浜町教育委員会提供
出土遺物(外ケ浜町教育委員会提供)
出土土器片(外ケ浜町教育委員会提供)

 ▽旧石器時代の外ケ浜
 外ケ浜町の蟹田川のそばに廃校になった小学校を利用した「大山ふるさと資料館」がある。ここに大平山元1遺跡から出土した土器がひっそりと展示されている。
 地球は数万年単位で寒暖を繰り返しており、今から約1万2千年前までが氷期に当たり、寒冷な時代だった。その後急激に温暖化し、後氷期である現在のような気候に変化する。氷期の本県は寒冷で乾燥した気候だった。
 蟹田川には約2万年前の旧石器時代の大平山元2・3遺跡もあり、蟹田川で取れる頁岩(けつがん)を利用した石器が出土している。
 ▽土器の出現
 大平山元1遺跡は、局部磨製石斧(せきふ)が畑で拾われたことをきっかけに、1976(昭和51)年に県立郷土館により発掘調査が行われた。その結果、旧石器時代に特徴的な石器とともに、無文の土器と石鏃(せきぞく)が出土した。旧石器時代と縄文時代の区別の要素として、土器の出現がある。そのため、大平山元1遺跡は縄文時代草創期に位置づけられている。
 さらに98(平成10)年の発掘調査で、出土した土器に付着していた炭化物を放射性炭素で年代測定した結果、約1万5千年前の土器であることが判明した。これは国内でも最古のものとされている。
 それまで土器は、ヒトが一定の場所に長く住む「定住」とともに出現するもので、日本では気候が温暖化した後氷期以降であるとされてきた。後氷期以降の日本列島には、ドングリやクリなどの堅果類が含まれる落葉広葉樹林が拡大し、ドングリなどを利用するために土器が使われたと考えられてきたからだ。しかし、大平山元1遺跡の土器は年代から氷期に出現したことになり、現在も考古学者の間で議論が続いている。
 ▽土器出現の環境
 約1万5千年前には、十和田火山がカルデラ噴火するなど、大きな災害が起きている。十和田八戸テフラと呼ばれ、火砕流は北では青森市、南は秋田県の大館市、東は八戸市に及び、火砕流で埋まった埋没林が残されている。
 現代に同じ噴火が起これば、甚大な被害が予想されよう。また火山灰も広く降下し、野辺地町の長者久保遺跡では火山灰の下から、大平山元1遺跡と同じ組み合わせの石器が出土している。
 大平山元1遺跡で火山灰は検出されなかったが、噴火した頃にヒトが生活していたと考えられている。火山噴火は、数年にわたって周辺の植生や動物などの成育に大きな影響を与えている。さらに最近、北海道の内浦湾の海底コアの分析から、1万5千年頃は最も寒かったという結果も明らかになっている。
 ▽新しい一歩
 西アジアでは、土器は肥沃(ひよく)な土地で始められた農耕の開始と共に出現するが、大平山元1遺跡の人々は、火山災害と寒冷化という過酷ともいえる環境下で土器を作り始めた。これは土器作りの始まりの一歩である。
 限られた素材の道具しか持たない人々が、どのように災害を乗り越えたのかは分からない。しかし、その後の本県では三内丸山遺跡や亀ケ岡遺跡などに代表される縄文文化が花開く。
 三内丸山、亀ケ岡の両遺跡は全国に名前を知られている。しかし、青森県には他にも注目すべき遺跡がたくさんある。今回紹介した大平山元1遺跡も、その一つに数えられよう。外ケ浜町の「大山ふるさと資料館」を訪ね、石など限られた道具で災害を乗り越えただけではなく、土器を作る生活を始めた人々に思いをはせてほしい。
(県民生活文化課県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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第8師団シベリアへ=71

2017/6/19 月曜日

 

撤退に向けてウラジオストク市内を進む第8師団の将兵たち=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料
日本軍撤退に伴い引き揚げる在留邦人=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料
弘前市代官町の凱旋門を通過する第8師団の将兵たち=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料

 ▽ロシア革命
 第一次世界大戦の際、ロシア帝国は連合国側に立って参戦した。皇帝ニコライ2世の専制支配と戦争の継続に反対する人々が蜂起し、1917(大正6)年、二月革命(グレゴリオ暦では「三月革命」)が起こった。皇帝が退位してロマノフ王朝は崩壊、社会民主党のケレンスキー内閣が成立した。
 首都ペトログラード(現サンクト・ペテルブルク)の三井物産支店に勤務していた広瀬純一(弘前出身)は二月革命後に一時帰国し「革命後は金持ちも庶民も食料欠乏に悩んでおり、ケレンスキーは人気がない」とドイツの攻勢で混乱するロシアの惨状を伝えた。
 はたしてケレンスキー政権は、十月革命(「十一月革命」)でレーニンの率いるボルシェビキ(社会民主労働党多数派)に打倒され、ロシアには労働者、農民、兵士に支持された世界初の社会主義国家が成立した。レーニンはドイツと単独講和を結び、第一次大戦は終結に向かった。
 ▽シベリア出兵
 フランスやイギリスなどの連合国は革命が自国に波及するのを恐れ、ロシア革命に干渉した。ロシアでは、ボルシェビキの率いる赤軍(労働者農民赤軍)と革命に反対する白軍の間で激しい内戦が展開した。
 1918(大正7)年1月、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣はウラジオストクの日本人保護を名目に軍艦2隻を派遣し、軍事的干渉に乗り出した。寺内内閣はロシア帝国の脅威の消えた北満州、沿海州にまで勢力圏を拡大しようとする膨張策を取り、7月、チェコスロバキア軍の救援を名目にアメリカが共同出兵を提唱すると、8月に米英仏との共同出兵の名の下にシベリア、北満州への派兵を決定した。
 この結果、3個師団(小倉第12、旭川第7、名古屋第3)からなる浦塩(うらじお)派遣軍が編制され、出兵国では最大の7万3400の兵力が派遣された。日本軍はウラジオストクを占領して沿海州を制圧し、9月には第3師団の進攻でバイカル湖以東の広大な地域が日本軍の勢力下に入った(※シベリア出兵関係地図を参照)。
 民衆の支持を得た赤軍は白軍を圧倒していったが、ボリシェビキ政権は日本軍との直接対戦を避けるため、バイカル湖東岸から沿海州に至るシベリア鉄道沿いの領域には赤軍を進撃させず、20(大正9)年2月7日に「極東共和国」という緩衝国家を成立させた。しかし、極東共和国の下で赤軍は攻勢を強めたため、次第に日本軍は勢力範囲を縮小し、ついには沿海州南部のウラジオストク周辺と北樺太を残すのみとなった。
 ▽第8師団の出動
 出兵の長期化で派遣師団は何度も交代した。弘前第8師団は1922(大正11)年5月に交代のため派遣された。第8師団はウラジオストク周辺の守備を継承したが、「極東共和国」と赤軍の勢力が迫っており、日本軍を見るロシア人たちの視線は厳しさを増していた。相次いで撤兵した共同出兵国も、沿海州に居座る日本に対し疑いの目を向けた。
 22年6月2日に成立した加藤友三郎内閣は、シベリア撤兵を10月までに完了する方針と、極東共和国との撤退交渉に応ずることを決定した。この結果、第8師団は最後のシベリア派遣師団となった。
 ▽浦塩派遣軍の撤退
 撤退を決めた政府は8月、浦塩派遣軍に撤退命令を出した。担当するのは唯一の派遣師団である第8師団だ。いわゆる殿(しんがり)部隊である。古来、敵軍が迫る中、犠牲も出さずに軍隊を撤収するのは名だたる武将でも至難の業といわれる。在留日本人の生命と財産保護も重要な任務となった。
 ウラジオストクを極東共和国に引き渡すのに際し、派遣軍は戦闘を避けるため共和国軍の市街地への進入を25日午後4時とした。協定履行を監視するために、海軍は軍艦春日をアムールスキー湾に出動させて監視した。緊張の中派遣軍司令部第8師団の将兵が続々と12隻の船に乗船した。
 同日午前5時、秋田歩兵第17連隊を最後にすべての守備を撤し、午後0時30分に乗船を完了、正午すぎから船団は20分間隔で出港、午後2時40分をもって全部ウラジオストクの埠(ふ)頭(とう)を離れ、無血撤退を完了した。港では待ちかねたロシア人たちが歓声を上げていた。3時30分、歓呼の声とともに赤軍の先遣隊騎兵30騎が市内に入った。殿部隊の重責を果たした第8師団は青森港に入港、盛大な歓迎を受けた。
 シベリア出兵は近代日本が経験した初めての敗戦である。4年間の戦費は約10億円、戦死は約3500人だった。その中で第8師団の戦死者は師団主力到着以前に歩兵第52連隊の1人だけで、戦病死を除くと1人も戦死者を出さずに済んだ。
 ▽社会主義思想と文化の流入
 日本とソビエトは25(大正14)年1月に日ソ基本条約を結んで国交を樹立した。政府は社会主義の国内浸透を恐れて3月、治安維持法を制定した。5月には北樺太からも撤兵した。しかし社会主義思想は日本でも広がりを見せていた。22年、大沢久明らは弘前に北部無産社を設立、その2年後に秋田雨雀がエスペラント(世界共通語)普及を目指して黒石エスペラント会を結成した。これらの運動は人々に社会主義とその理想を広めることを目指していた。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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守り継がれた屏風山=70

2017/5/29 月曜日

 

18世紀ころの屏風山。現在のつがる市筒木坂(どうきざか)・平滝・牛潟(うしがた)地区。写真上部が日本海側。カシワやマツが植林されていたことがわかる=「山沢図解 坤」弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書
平滝沼運動公園内に置かれている野呂武左衛門顕彰碑=2017(平成29)年5月21日・筆者撮影
牛潟池。池の背後(写真奥)に屏風山が見える=1962(昭和37)年11月7日・青森県史編さん資料

 ▽新田開発と植林事業
 屏風(びょうぶ)山は津軽半島西海岸の七里長浜に沿って鯵ケ沢町から十三湖に至る南北約30キロメートル、東西約3~5キロメートルにおよぶ砂丘地帯をいう。日本海から吹き込む激しい潮風と飛砂が、農作物を枯死させる不毛地帯だったが、江戸時代から続けられている植林事業によって防風・防砂林が築かれて、現在はスイカやメロンの産地として有名である。
 屏風山の植林事業は、4代藩主津軽信政が手掛けた津軽半島北部や岩木川下流域の広大な湿地帯開発の一環で行われた。その目的は、防風・防砂および山田川下流の農業用水を確保するための水源涵養(かんよう)だった。
 1681(天和元)年、館岡村(現つがる市木造)の野呂理左衛門を中心に、同村神明山(しんめいさん)へマツ30本余りを植林し、14本の木が育ったことに力を得て、翌年から本格的に植林を命じた。このとき、藩主信政が「屏風山」と命名したという。
 野呂家の由緒書(ゆいしょがき)によると、理左衛門は、82(天和2)年10月に平沢定右衛門や工藤弥兵衛とともに「御立山諸木取扱」を命じられ、翌年から大開(おおひらき)村(現鶴田町)から菰槌(こもつち)村(現つがる市)までの9カ山にマツやスギ3万1336本を植林した。
 彼らは、強烈な潮風をしのぐための囲いを木々の周りに作って苗木を保護し、植林後も巡回を欠かさず行ったことで、幅2キロメートル、長さ40キロメートルにおよぶ防風・防砂林を築いた。なお、1703(元禄16)年までの植え付け本数は計69万376本にも上った。彼らの努力が、大規模な新田開発を完成させる要因になった。
 ▽伐木による荒廃と枯渇
 理左衛門のころから始められた屏風山への植林事業は、孫の弥右衛門まで約70年間行われた。しかし、宝暦年間(1751~64)以降、藩内の山々で盗伐が頻発し山の荒廃が著しくなったため、山下の村々による仕立(したて=植林あるいは樹木の育成)や見継(みつぎ=保護・管理)へと管理体制の移行が進められた。
 さらに、飢饉(ききん)や凶作が頻発し、困窮者支援のために「御救山(おすくいやま)」として山が開放されたことも、森林資源の枯渇を助長させた。1783(天明3)年に発生した天明飢饉の際、木作新田の山々は、無計画な乱伐により廃山になった場所が多かった。
 こうして、屏風山の防風・防砂林は徐々に失われていった。山下の村々ではマツやスギの植林を行っていたが、低地への植林に集中しており、潮風が激しく吹きつける高地には、数本のマツやスギが植えられている場所や木々が全くない場所がほとんどで、風よけとしての役割を十分に果たせていなかった。苗木の保護を行わずに植林したため強風で倒れてしまい、木々が育たなかったようだ。これにより、広須・木作新田のみならず、金木・飯詰・広田組など周辺の村々でも農作物への被害が発生していた。
 ▽屏風山復興への道
 ここで屏風山復興のために植林の任に就いたのが、野呂喜太郎である。彼は、1855(安政2)年2月に「屏風山松木仕立増」の任を森田村(現つがる市森田)の原田忠吉とともに命じられ、マツの植林を進めていった。
 この事業は喜太郎の子武左衛門にも受け継がれた。1866(慶応2)年には武左衛門と忠吉に加えて増田喜右衛門も植林に携わった。翌年、3人は「屏風山新松仕立見継役」に任じられたことで、松の植林と見継の両方を担うようになった。彼らは明治になっても植林を続け、74(明治7)年までの間に177万9400本が植林された。こうして屏風山は復興を遂げた。
 82(明治15)年2月、武左衛門は東京の上野公園で開催された山林共進会で、山林繁殖に力を尽くした人物の一人として2等賞を受賞し、屏風山は2等山林として全国に知られることになった。彼にとって、屏風山は「万民耕作救助之名産」だった。野呂家をはじめ、植林事業に尽くした人たちによってもたらされた恩恵を享受しながらも、彼らの遺志を継ぎ屏風山を後世に守り継いでいくことが求められている。
(青森県史編さん執筆協力員=鯵ケ沢町在住、蔦谷大輔)

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「自宅で婚礼」が普通=69

2017/5/15 月曜日

 

黒留袖を着た花嫁。弘前市の美容師だった野村トシさんが髪を手がけた花嫁。野村さんは着付けにも携わっていた=昭和戦前期・野村英夫さん(ヘアメイクELLE)提供
角樽=蓬田村文化伝承館所蔵。『青森県史民俗編資料津軽』(青森県)より転載
大鰐町の旅館での結婚式=1965(昭和40)年・福士長五郎さん提供。『弘前・黒石・平川の昭和』(いき出版)より転載
婚礼の祝い膳=櫻庭俊美さん撮影。『青森県史民俗編資料津軽』(青森県)より転載
振り袖姿の花嫁と和装の花婿=昭和戦前期・野村英夫さん(ヘアメイクELLE)提供

 ▽昭和初期の結婚
 昭和初期までは、ほとんどの人が結婚した時代である。「生きていくためには結婚しなくてはならなかった」とよく言われ、男性も女性も衣食住や生業のために家庭での労働の役割を担って働き、生活が維持された。
 結婚式は1955(昭和30)年頃まで、自宅で行うのが普通だった。付き合いのある家や親戚の主人が招かれ、結婚式は家に嫁や婿を迎え入れる儀式という意味合いが強く、祝言と呼ばれた。家を守り、次の世代に引き継ぐために結婚は重要だったので、結婚相手の決定には娘も息子も親の意向に沿うことが当たり前と考えられていた。
 人柄が良く働き者であることが良い結婚相手の条件であり、キュウジニンと呼ばれる仲人や口利きの世話で見合いをして、家の格式などの釣り合いを見て相手を決めた。津軽地方では嫁入りを承諾してもらうために、仲人が箱菓子を持参し嫁の家を何度も訪れた。
 結婚相手が決まると、仲人が祝い酒を携えて嫁の家を訪れて「決め酒」の儀礼を行い、結納の日取りを決めた。「結納」では昆布、スルメ、熨(の)しで飾った角樽(つのだる)を持った樽背負い、結納の品を運ぶ荷背負いを仲人が引き連れ、嫁の家へ結納の品を届け、祝言の日取りを決めた。
 ▽結婚の儀礼
 結婚の細かい儀礼の段取りを重んじるのが津軽地方の特色といえる。婚礼の当日、午前中に嫁の実家で嫁の親戚や親しい家の人を招待して嫁やりのフルマイを行った。花嫁を送り出すとき、嫁と仲人・嫁の両親がタチハといって別れの杯を酌み交わした。
 嫁の出立の前に嫁入り道具が運ばれた。荷物運びの責任者サイリョ(宰領)を先頭に荷背負いや荷物担ぎが運んだり、冬にはそり、荷馬車などで運ぶこともあった。その後に仲人と嫁、ソエ嫁やオクリバサマなどの付き添いがついて嫁の行列が出発した。荷物運びは荷物を届けた後、引き返して途中で嫁の行列と行き交うようにし、箪笥(たんす)の鍵を渡した。
 「嫁には婿の家のグシ(軒先)を見せるな」といい、婚家での嫁入りの祝いは夕方から行われた。嫁が婚家に入るとき、仲人や樽背負いと入家の杯事であるカド酒をした。
 祝言では婿方の親戚や親しい家の当主が招かれ、嫁の関係者は出席
しなかった。田舎館村や黒石市、弘前市などでは、ゲンザ(見参)といって嫁方の親戚が数人出席して婚家の様子を見聞するということもあった。
 35(昭和10)年頃までは、婿がフルマイの席に出ないことも多かった。三三九度を行う家は少なかったが、親子名乗りの杯事や千鳥の杯といって盃(さかずき)のやりとりをすることもあった。嫁と婿は宴席で酒を注いで回った。
 祝言の1日目は正式の祝いで客も紋付き羽織で出席し、2日目はアトフキや二日ブルマイといい、手伝いの人や友人たち、親戚の女性たちが自分たちでお膳を作って祝った。
 結婚の儀礼には、細かい点では都市部や農村部など地域的な違いもあった。また、オオヤケと呼ばれる資産のある家では盛大に行われ、祝言は3日間も行われた。弘前市内から尾上に嫁いだ旧家の婚礼では、弘前から尾上まで嫁の行列が続いたという。
 都市部では、早くから花嫁が打ち掛けや振り袖を着るなど華やかに行われ、三三九度も盃のやり取りなど、細かいしきたりを指導する亭主役がついて雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)の子供が酒を注ぎ、厳粛に行われた。
 ▽結婚による親密な付き合い
 自宅での婚礼は、嫁と婿が新たな人生を踏み出す節目であると同時に、家族、親族、地域の人々との共通の体験であるハレの日だった。近所の女性たちが普段着姿で障子に穴を空けて、婚礼の様子をのぞき見る嫁見という習俗があった。これには、ケとしての日常から婚礼というハレの世界を垣間見るという意味合いがあった。
 祝言の料理は料理人が差配して手伝いの人たちが手作りの料理を整えるなど、婚礼には多くの親しい人たちの助力が必要だった。若い2人は、地域の生業を支え次の世代を育てる大事な人材だった。結婚生活は、婚礼に出席した主立った大人たちの支えや近隣の人々との親密な付き合いによって助けられ、維持される時代だったといえよう。
(日本民俗学会会員 長谷川方子)

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交通の結節点 藤崎町=68

2017/4/24 月曜日

 

菅江真澄が描いた平川橋 「藤崎川橋上眺望」秋田県大館市立栗盛記念図書館蔵
伝馬継立場の現状。現鹿島神社の向かい。周辺には「羽州街道」の標柱が立つ。2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社 2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社の太郎左衛門人柱の掲額 1954(昭和29)年・石沢竜峡作

 ▽陸上交通の拠点
 「ふじ」が生まれた地として知られる藤崎町。藤崎の市街地は平川沿いに延びるが、近くで岩木川と2大支流の平川と浅瀬石川が合流する。このような地理的特性から、江戸時代の藤崎は陸上交通と河川交通の結節点だった。
 中世期は安東氏によって藤崎城が築かれ、江戸時代には弘前藩「藤崎組」の代官所が置かれ、周辺18カ村の中心となっていた。1959(昭和34)年にバイパスが完成したので、現在の国道7号は藤崎の市街地を通らないが、前身である羽州街道は藤崎の町を直角に6カ所折れ曲がっており、城下町特有のカギ型の街路を見せる。藤崎城は江戸初期に廃城になったので、戦国時代の後期には既に町が形成されていたと思われる。
 藤崎には公用の荷物の運搬や旅行者の人馬の継ぎ立てをする「伝馬(てんま)」が置かれた。鹿島神社の周辺には「伝馬新田」といって、伝馬に携わる人々が入植した村があり、現在でも「伝馬」の通称地名が残っている。このような「伝馬新田」は油川、浅虫など津軽地方の各地に見られる。
 国道7号の藤崎町と弘前市の境界にある大きな橋が平川橋である。藤崎側には「舟場」の通称地名が残るが、これはかつて渡し場があった名残である。『弘前市史 藩政編』によると、1681(天和元)年に最初の橋が架かったとされる。長さは時期によって異なるが、約130メートルから160メートルくらいである。
 江戸後期の寛政年間(1789~1800)に訪れた菅江真澄は、欄干と人や馬がすれ違えるように、橋の真ん中に待避所を備えた立派な橋の姿を描いている(「錦木雑葉集」)。江戸時代、本県域の羽州街道に架かる橋としては最も大きかった。なお、現在の平川橋は1973(昭和48)年に架け替えられ、84(同59年)に2車線化されている。
 ▽河川交通の拠点
 代官所がある藤崎には、周辺の村々から集めた年貢米を収納する「御蔵」が平川沿いにあった。藤崎組と常盤組の年貢米約3万俵が収納された。集められた年貢米は、羽州街道を利用して青森へ、また岩木川水運を通じて十三(現五所川原市市浦)へ廻漕(かいそう)された。
 弘前藩の本格的な舟運による年貢米輸送は、17世紀中頃から始まると考えられ、藤崎御蔵も1685(貞享2)年に設置されている。このような御蔵は岩木川流域沿いでは、藤崎のほか、石渡(いしわたり、現弘前市)、三世寺(さんぜじ、同)、板屋野木(いたやのき、現板柳町)、五所川原などに置かれた。
 年貢米は冬から早春にかけて十三湊を経由して弘前藩日本海海運の拠点港だった鯵ケ沢湊へ廻漕され、さらに大きな船に積み替えられて、日本海海運により上方方面に運ばれていった。それは弘前藩の大きな財源になっていった。
 しかし、年貢米積出基地としての藤崎の重要性も、やがて新田開発が進んだ板屋野木に取って代わられるようになる。また、岩木川水運自体も陸上交通の発達や、河口である十三湊が土砂の堆積で大きな船の運航が不便になってきたことなどから、次第に衰退していくようになる。
 一方、青森湊からの太平洋海運による運送の方は、江戸藩邸用米が中心だったが、藩邸経費の拡大とともに次第に増加していった。御蔵が設置された藤崎の重要性は変わらなかったのである。現在でも国道7号が町内を貫通し、五所川原へ向かう339号が分岐するなど、陸上交通の拠点としての藤崎の性格は変わっていないように思える。
 余談だが、「ふじ」を生んだ農林省園芸試験場東北支部(1937~61年設置)は、実は藤崎町が積極的に誘致したものでなく、当時激しい誘致合戦を続けていた弘前市、黒石町(現黒石市)、板柳町の中間にあるという理由で決定されたものだった。ここでも四方に道路が発達し、いずれの場所にも行きやすいという藤崎町の地域的特性が反映されたと言える。
 ▽藤崎堰
 津軽平野の真ん中に位置する藤崎には用水路も縦横に発達している。この中でも特に古いのは、黒石市境松に取水口を持つ藤崎堰(ぜき)で、慶長年間(1596~1615)に開削されたと伝えられる。
 ただし、はっきりした同時代資料があるわけではない。藤崎堰は完成後も急流のため何度も決壊するので、1609(慶長14)年に藤崎村の住人堰八安高が自ら人柱になり、藩の検分役の前で壮絶に入水(じゅすい)し、急流は見事に治まったという。
 町内には堰八を祀(まつ)る「堰神社」がある。この神社は藩の資金によって建てられ、藤崎堰およびその下流から取水する横沢堰、枝川堰、五所川原堰の四堰周辺の村人が氏子になった。
 また江戸時代を通じて雨乞いなどの祈祷(きとう)が行われ、藩からの援助もあった。現在でも境内には各土地改良区が奉納した鳥居、狛犬(こまいぬ)などが見られる。このほか、平川の白子周辺で五所川原堰と足水堰が取水し、いわゆる新田地方と言われる西北地方の田畑を潤している。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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