津軽の街と風景

 

黒石津軽家が陣屋構築=43

2016/3/7 月曜日

 

黒石藩江戸屋敷跡現況。現墨田区立菊川小学校周辺。跡を示すものは何も残されていない。2011(平成23)年6月19日・筆者撮影
冬のこみせ。積雪時に通行人を守る。高橋家周辺。2009(平成21)年2月20日・筆者撮影
黒石尋常小学校。陣屋跡に位置した。明治の校舎が1974(昭和49)年まで87年間使われてきた。大正初期の撮影・中園裕提供

 ▽黒石津軽家の性格
 黒石は弘前藩の分家黒石津軽家1万石の城下町として知られている。幕府の規定により、小大名の本拠地は「城」と呼称することができず、実態は天守や櫓(やぐら)を持たない「陣屋」であった。
 陣屋は、現在の御幸公園および北側の市民文化会館周辺に位置した。浅瀬石川を見下ろす河岸(かがん)段丘上にあり、城下町はその北側に広がる。御幸公園はかつての馬場にあたり、藩主が居住する御殿は市民文化会館(旧黒石小学校敷地)周辺にあった。現在、陣屋の跡をうかがわせるものは一部の土塁以外残っていない。
 黒石津軽家は弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)の次男信英(のぶふさ)を祖とする。1655(明暦元)年に兄である3代信義が亡くなったあと、後継者の4代信政が幼かったため、幕府から後見役を命じられ、翌年2月に弘前藩から黒石周辺および現平内町の5000石(のち4000石)を与えられ、幕府直属の旗本として分家したものである。
 黒石津軽家の主な役割は、徳川将軍家における御三家のように、藩主の血筋が絶えたときの「血のスペア」としての役割と(実際に6代寧親(やすちか)と9代順徳(ゆきのり)が本家の家督を継いでいる)、江戸における本家の名代役が主な役割であった。代々の当主は江戸を生活の本拠とし(本所三ツ目通に江戸屋敷があった)、特に幕府から許可を得た場合でないと、黒石の地を踏むことはなかった。
 旗本としても、このクラスとなると江戸城で日々の勤務があるわけではなく、不定期に江戸城の門番役を務めたりするのが主な業務である。比較的時間的余裕があるせいか、3代当主津軽政兕(まさたけ)のように趣味に生き、日本最古の釣り指南書とされる『何羨録(かせんろく)』を著した当主もいた。
 このような黒石津軽家の立場が変化したのが江戸後期である。1808(文化5)年に本家弘前藩が蝦夷地警備の功により10万石に高直しされたのに連動して、翌年1万石の大名の列に加わる。「黒石藩」と呼ぶのは、これ以後である。
 大名化に伴い、黒石津軽家も定期的な参勤交代を行うようになったが、その時期は本家とずらし、弘前藩主と黒石藩主は交互に在国するようにした。いわば弘前藩の「副藩主」として権威を強化させ、蝦夷地や領内の警固(けいご)にあたらせようとしたのだった。
 黒石津軽家の家臣団は1847(弘化4)年では140名(足軽を除く)、うち黒石在住は107名、家数は28、29軒と、小大名らしくこぢんまりとしたものだった(ただし、幕末期には非常時に備えて家臣数が急増している)。陣屋の三方を取り囲むように集住していたが、諸町の貸家にも武士は住んでいた。
 ▽城下町としての黒石
 黒石陣屋が構築される前から、現在の黒石市中心部には、ある程度の町並みができていたと考えられる。温湯と弘前を結ぶ街道(黒石街道、山形街道)が町を貫通しており、交通の要衝だった。江戸後期、1833(天保4)年では黒石町の人口は4275人で、黒石藩の人口の約半分が居住していた。
 津軽領全体でも、弘前・青森に次ぐ第3の都市だった。黒石藩になる文化年間には各町は山形町組・鍛冶町組・中町組・上町組・下町組に編成され、これが町の行政や消防の単位となった。組にはそれぞれ組名主がおり、組名主の上には名字を許された3名の町年寄がいて、現在の市長の役割を果たしていた。
 黒石は城下町として周辺の村々の領域市場の中心的機能を果たしており、近江商人の進出が見られる。藩政期の代表的な商人が沢屋加藤家で、17世紀後半に彦根加藤家の出店として下山形村(現黒石市)で金融業を営み、寛延年間(1748~50)に黒石城下に移ったという。
 藩にもたびたび御用金を上納しており、この結果、1835(天保6)年には、黒石藩士となり、加藤姓を名乗るのを許された。その後、奉公人の成之助が主家の屋号を継ぎ(『沢屋加藤家略史』)、3代目の加藤宇兵衛は明治初期に大地主になり、現在も町中心部に残る「金平成園(かねひらなりえん)」を造園した。
 有力商人が居住した中町、横町地区には、昔のアーケードといえる「こみせ」を連ねた商家が見られる。1763(宝暦13)年ごろ建築の高橋家住宅、1806(文化3)年創業前の建築といわれる鳴海醸造店が代表的な例である。1839(天保10)年の黒石町内の造酒業者は9軒あったが、このうち稲村屋文四郎(現鳴海醸造店)だけが、現在でも蔵元として存続している。なお、現在の黒石市のもう一軒の蔵元である中村亀吉は、1922(大正11)年の創業である。
 黒石市の夏の風物詩である「ねぷた」や「黒石よされ」は、江戸時代から行われていた。1831(天保2)年からの「分銅組若者日記」(黒石市個人蔵)には、「七夕祭灯籠(とうろう)」として、さまざまな人形型の灯籠が紹介されている。
 また、黒石よされのルーツは盆踊りで、同書には町5組が競って踊り子を出し、不特定多数の男女でにぎわう様子が記録されている。1863(文久3)年には盆踊りは陣屋内にも入り、藩主夫人が見物するなど、藩公認の祭りであった(『黒石市史』通史編1)。
 明治維新により黒石は城下町としての地位を失うが、南津軽郡の郡役所所在地となり、郡役所(1912年)、黒石尋常小学校(1888年)などの洋風建築も建てられ、戦後まで使われていたが、残念ながら現存しない。現在の黒石市中心部は経済的地盤沈下でやや活気がないが、町並みは昔の面影を残し、伝統的な景観を生かした町おこしの取り組みが試みられている。
(県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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伝わる春の「託宣行事」=42

2016/2/22 月曜日

 

おしら様を持ち寄っての祭礼の様子 弘前市乳井、2007(平成19)年4月、青森県史編さん資料
地蔵様 つがる市木造亀ケ岡、『青森県史民俗編 資料津軽』口絵より
百万遍 つがる市木造亀ケ岡の亀山集落、2004(平成16)年4月、櫻庭俊美氏撮影

 2月の終わりから3月にかけて、この頃になると雪解けの津軽野でも春の気配が感ぜられるようになる。厳しい冬を終え、農作業が本格化するまでのこの時期、津軽の村々ではイタコやカミサマなどの民間宗教者を招き、神々の託宣によって村や家に関わる1年の豊凶を占ってもらう行事が行われてきた。その土地では、「イタコ」や「イタコの占い」などと呼ばれていることもある。
 ▽弘前市の例から
 以前、弘前市郊外のある集落で3月に行われた「イタコの占い」に同席させていただいたことがある。事前に知らせを受けた各家から年配の女性たちが集まり、午前10時ごろからおよそ2時間、鯵ケ沢町からいらしたイタコの占いに耳を傾けた。その後、参加者全員でにぎやかに会食をするところまでがひとつの楽しみになっているようで、20人ほどの参加者があった。
 当時すでに老人クラブの主催する行事として行われるようになり10年ほどになるという話であったが、以前は神仏を祭っている家々が代わる代わる、毎年イタコを呼んでいたのだという。
 ▽イタコの占い
 この日は、イタコにより産土(うぶすな)様、岩木様、おしら様、七面様、庚申(こうしん)様、二十三夜様、地蔵様などの神仏が呼ばれた。太鼓をたたき詠唱がなされ、降りてきた神仏が名告(なの)り、「顔合わせてありがたいことだてば」と礼を述べてから、さまざまな託宣を述べていくのである。
 その内容は、地震や風害、農作物の豊凶のほか、新型インフルエンザの流行などの病、事故や火災など多岐にわたる。例えば、病名としてはヘルニアや脳梗塞、心筋梗塞、高血圧などのほか、乳がんや子宮筋腫など女性特有のものもあげられ、いつ頃、どの辺りでそれらに罹患(りかん)する人がでるので気をつけるように、と伝えられるのだ。そのほか、嫁姑(しゅうとめ)や親子の間の関係についての助言も交えられる。
 イタコが神仏を降ろした際と去って行く際には参加者から賽銭(さいせん)が投げられる。贔屓(ひいき)の神様がやってきた際には、55円と切りの良い額を投げ入れるのだという人もいた。
 このときの託宣の数は、57個にも及んだ。参加者のほとんどは中高年の女性であり、彼女たちの関心事に沿った内容なのも面白い。
 ▽七カ所かける寺社巡拝へ
 この占いの場面で、日頃の信心の持ち方についてイタコから話されることが多いようだ。シチカムラなどと言って、近隣の七つの寺社を巡礼する行事も春先の4月ごろよく行われている。貸し切りバスなどを用い七カ所を半日ほどで巡り、帰りは温泉に浸(つ)かるという楽しみの場にもなっている。
 この時に、巡るべき寺社や神仏の御利益などがイタコから語られるのだ。弘前市小沢野元では七カ所の巡拝先は恵方を考慮して決め、3月ごろの春の占いと4月の初め頃の七カ所かける行事、久渡寺へ集落のおしら様を持参しての参拝までが一連の行事で、これらが終わると農作業が本格的に始まるのだ、という(『青森県祭り行事調査報告書』)。
 また、弘前市原では、4月1日、2日に婦人部で七カ所の参詣をするが、当年の干支(えと)を入れて、岩木山、高照神社、羽黒神社、植田愛宕神社、八幡神社、大円寺五重塔、猿賀神社、古懸などをご祈祷(きとう)の札を下げ、ナンバ(唐辛子)をはさめて巡るといい、このお礼とナンバで注連縄(しめなわ)を作るのだという(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
 ▽百万遍
 こうしたイタコの占いや、七カ所かける行事は現在、町内会や老人会の行事として位置づけられていることが多い。各家の婦人たちの交流の場として娯楽の一環になっているとも言えよう。
 これらに参加するような年配の女性たちは、かつての暮らしにおいては村の信心を支える役割を担っていた。津軽のあちらこちらで、集落の境や(つじ)のお堂、墓所などに、化粧をしきれいな衣装を身につけたお地蔵様が祭られているのを見ることができる。こうしたお堂が女性たちのさまざまな信仰や活動の場となり、墓所の管理や百万遍、地蔵様の祭りなどが行われた。こうした集まりを地蔵講とも呼ぶ。
 百万遍は春彼岸の頃にも行われ、イタコの占いと日を同じくすることもあったようだ。街の角やで唱え言をしながら大きな数珠を複数人でまわす。村へ侵入する病や悪いものを祓(はら)うためのものだという。
 ▽家庭のなかで
 百万遍の大きな数珠を回す光景を見ることは少なくなってきたが、現在でもイタコの占いや七カ所かける寺社巡拝に見られるように、信心は伝えられている。
 その一例をあげよう。先にあげたイタコの占いは、筆者の生家がある集落のもので、そこには祖母も参加していた。その日の夕食にて、祖母は数々の託宣のうちから「ダイハツの白い車」が事故に気をつけろと言われたことを話してくれた。当時、筆者が使っていた車に該当するのだが、実は託宣の場では「白い車」としか言われていなかった。与えられた託宣は受け取った参加者たちそれぞれによって取捨選択、あるいは捨象され、そして具体化されることでおのおのの生活に寄り添い信心として伝えられていくのだ。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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「青森」地名伝承の誤解=41

2016/2/1 月曜日

 

米町通りの雪景 昭和戦前期・青森県史編さん資料
青森警察署から見た青森市街地。警察署は現在の県庁北棟の場所にあった。写真の奥が浜町、大町、米町(いずれも現本町)方面。左の茂みがあるところが善知鳥神社。1915(大正4)年・青森県史編さん資料

 ▽善知鳥村
 現在の青森市は、「昔むかし善知鳥村と呼ばれ、藩政時代にその地に新しい町づくりを行った際に『青森』と名づけられた」と一般に膾炙(かいしゃ)されている。すなわち、青森の旧称が「善知鳥村」であるというのである。
 ところが、この善知鳥(鳴呼(うとう))村という村落の存在証明がなされているかといえば、少々心もとないところがある。それは、善知鳥村に関する史料が決定的に足りないからである。史料解釈の上でも善知鳥村ではなく、近年では「鳴呼(うとう)安潟(やすかた)」という村落が沖館川河口部にあったという説もある(『浪岡町史』第2巻)。
 また、そもそも善知鳥村を青森の旧称であると説く叙述においても、善知鳥村と蜆(しじみ)貝村との中間に青森の町割がなされたというような、矛盾をはらんだ記述もみられる(『青森市の歴史』)。つまり、青森誕生に関わる歴史叙述においては、じっくりと検証すべき事柄が思いのほか多いのである。
 ▽実は誤解
 さて、善知鳥村が地名「青森」の旧称であったという、「青森の歴史」の1ページ目に記されるこの叙述は、実は誤解なのである。藩政時代から伝わる地名伝承は、蜆貝川(現平和公園通り)の河口部を核とした辺りに「青森」と呼ばれた小高い丘があり、これにちなんで新しい町の名前としたというものである。
 もちろん、若干の読み替えはあるが、伝承の基本骨格は変わることなく、「青森縁起」という名称で少なくとも明治30年代まではほぼそのままの姿で市井に伝えられていた。そこには、「善知鳥村」の文言はまったくないのであるすなわち青森の地名伝承には善知鳥村は無関係なのである。
 ▽青森市沿革史
 1909(明治42)年、初めて青森市の歴史を綴(つづ)った『青森市沿革史』が刊行された。編者は旧弘前藩士で藩校稽古館にて教鞭(きょうべん)を執った経験を持つ葛西音弥(かさいおとや)である。葛西は、青森の地名の由緒について「旧記」をよりどころに自説を展開した。
 ここでいう旧記とは、おそらく「青森縁起」であると目される。そして、葛西は「青森」が善知鳥村の湾頭にあると解釈し、それに絡めて善知鳥村が青森と改称されたと説いた。これこそが、善知鳥村が青森の旧称となり、藩政時代以来の地名伝承が書き換えられた瞬間であった。なお、葛西が「青森」の「森」は、木が鬱蒼(うっそう)と茂る私たちが広くイメージする森ではなく、津軽地域の方言から「小丘」と解釈したのは卓見である。
 ▽110年が経過
 こうして、「善知鳥村から青森に」という、歴史学的な根拠をほとんど持たない、書き換えられた伝承が定着することになり、約110年が経過した。善知鳥村そのものの問題はさておき、少なくとも地名青森と善知鳥村とは無縁なのである。また、本紙の昨年11月23日付「津軽の街と風景 37」で紹介した、地名の由緒である「青森」が、これとはやはり無関係の米町にあったという青森山に結びつけられ、まったく異なる場所が現在「『青森』発祥の地」とされている。
 このように、青森誕生にまつわる伝承は、その本来の姿が失われて伝えられ、これまでまったく顧みられないまま市民一般に定着してしまっているのである。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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小さな町が都市へ変貌=40

2016/1/18 月曜日

 

買い物客でにぎわうれんばい市場。1963(昭和3838)年頃・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
「横のデパート」街となった本町。左に「中三」、奥に「マルキ飛島」のデパートが見える。1970年代後半・青森県史編さん資料
寺町から錦町を望む。1972(昭和4747)年に完成したアーケードが見える。1977(昭和5252)年33月・白岩昭さん撮影・提供
旭町時代の五所川原市役所。現在の五所川原郵便局の東隣にあった。1955(昭和3030)年頃・中園裕提供

 ▽寺町のれんばい市場
 太平洋戦争の敗戦前後に、五所川原市(当時は五所川原町)は2度の大火を経験した。町の中心部は焼き尽くされ、青森市の大空襲に匹敵する被害となった。それだけに1954(昭和29)年の市制施行と、その3年後の青森県平和産業大博覧会(通称、五所川原博)は、町の復興を象徴する出来事となった。
 しかし五所川原市民の生活に不安や不満がないわけではなかった。このため平和博終了後、外崎千代吉市長は市営魚菜市場の設置を掲げた。市内の魚菜類が割高なため、毎日青森市内へ買い出しに出掛ける市民が多かったからだ。
 1958(昭和33)年8月1日、寺町に「れんばい市場」が店開きした。市営ではなかったが、文字通り魚や野菜を廉売する市場は市民の台所的役割を果たした。寺町は乾橋のたもとにあり、市内外から多くの人びとが集まった。敗戦後には闇市ができ、その後も露天市場が開かれた。れんばい市場は、こうした流れに沿って誕生したのである。
 ▽東町の歓楽街
 大正期から昭和初期にかけて、柏原町(かしわばらまち)や錦町(にしきちょう)には紅灯街が形成された。1918(大正7)年に岩木川大改修が始まり、改修に従事する人びとが料理屋などに集まったわけだ。
 ところが五能線や津軽鉄道などが開通すると、五所川原駅の周辺に人やモノが集まり出した。それらの客を相手に誕生したのがカフェだった。座敷で三味線を聞くより、洋館内でエプロン姿の女性給仕とジャズを聴く方が流行したのだ。こうして昭和戦前期には駅前の大町が繁華街になったのである。
 戦後、カフェで働いていた女性が女将(おかみ)となり、大町隣の東町(あずまちょう)で始めた料亭「富貴」は、同町が歓楽街へと発展する糸口になった。続いて登場したバー「らんぶる」は、東町が別名「らんぶる通り」と呼ばれるほど、歓楽街の象徴的存在になった。
 ネオン街誕生の理由の一つに、当時の市役所が駅前近くの旭町にあったことが挙げられる。町役場は大火で焼失した後、しばらく公会堂に移転。その後、1952(昭和27)年に元の場所へ新築された。建物は市制施行後も市役所として使われた。
 五所川原市は周辺の松島、中川、長橋、三好、栄、飯詰(いいづめ)の6村と合併して誕生した。北津軽郡内の小さな町が大きな市へ変貌(へんぼう)を遂げたのだ。このため周辺の村々から鉄道やバスを使い、駅前や市役所周辺に多くの人やモノが集まった。市役所へ出入りする業者も激増した。こうして大町や東町の繁華街が維持形成されたのである。
 ▽大町と本町のデパート街
 1970年代以降に自動車社会が到来するまでは、小売店を中心とする商店街が全盛期を迎えていた。五所川原市の場合、大町や寺町、本町(ほんちょう)や柏原町に商店街が形成された。商店街の中心は百貨店(デパート)だった。
 五所川原市最大の百貨店は本町の「中三」である。1896(明治29)年創業の老舗呉服店だが、戦後株式会社となり1964(昭和39)年11月に百貨店となった。これに続き、柏原町の「マルキ飛島」が百貨店の認可を取得。店舗を新築拡張して1968(昭和43)年11月に開店した。この他にも、寺町の家具店である「キノシタ」や、大町の「丸友呉服店」など、大型の店舗が五所川原市の商戦の主力をなしていた。
 これらのデパートや大型店舗を核にし、各商店街では売り上げを競うように新企画を打ち出した。その一つが当時流行していたアーケードだった。アーケードは買い物客が自由に横行できるため、当時「横のデパート」と称された。1966(昭和41)年の大町を手始めに、1972(昭和47)年には本町と柏原町が完成し、寺町の一部も完成した。1977(昭和52)年11月には寺町の残りが完成。こうして五所川原市の中心商店街には、十文字型に「横のデパート」が形成され、大いににぎわった。
 ▽市役所と川端町
 昼の繁華街に対し、夜の歓楽街は東町以上に川端町(かわばたまち)がにぎわい出した。これは1971(昭和46)年に、市役所が岩木町(いわきちょう)へ移転新築されたからである。
 企業城下町でない限り、大資本の少ない地方都市では役所の存在が地域産業の鍵を握っていた。
 また五所川原市は、弘前市と黒石市、三沢市と十和田市のように、隣接する大きな都市がなかった。西北津軽郡町村の会合を独占でき、農村の消費人口を吸収できる強みがあったのだ。このため1960~70年代の飲食店販売額調査結果では、青森市と五所川原市で県内の1位と2位を分け合っていた。
 ▽エルムと立佞武多の館
 1980年代以降に全国的な展開を見せた都市計画と、自動車社会の進展に伴い、地方都市の街並みや構造は大きく変貌を遂げた。大手資本による郊外型ショッピングセンターが各地に登場。五所川原市も例外ではなかった。1992(平成4)年、隣の柏村(現つがる市)にイオン柏ショッピングセンターが開設。5年後には市の郊外に「エルムの街ショッピングセンター」もできた。これに伴い五所川原市の中心商店街は衰退していった。
 だが2004(平成16)年、立佞武多の館が完成した。老朽化した「横のデパート」街は解体され、館を中心に中心街の再生活動が実施されつつある。わずかに焼け残った布嘉(ぬのか)御殿の煉瓦(れんが)塀や、作家太宰治に関わる家屋を活用するなど、再生事業は繁華街の遺産を生かした活動といえるだろう。
 繁華街や歓楽街は歴史的に移転する性質を持つ。だからこそ時代ごとに記憶にとどめ、その都度記録に残しておくことが求められよう。現在各地で街場の再興が試みられている。歴史の流れを知ることで、街場の個性や特徴は把握できるのだ。
 未来を開くには、むやみに現在の流行を追うより、過去を知る方が有益なのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

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古くから愛された椿=39

2015/12/28 月曜日

 

椿山海岸 1968(昭和43)年5月4日撮影、青森県史編さん資料
椿神社に集う男女 1970(昭和45)年ごろ、青森県史編さん資料
第4回椿まつりでの歌謡ショー 1972(昭和47)年、平内町役場提供、『青森・東津軽の昭和』(いき出版)より転載

 古くから日本人に愛されてきた花のひとつに、椿(つばき)がある。交配、選抜による品種改良も盛んで数多くの園芸品種があるが、東津軽郡平内町東田沢、夏泊半島の北端に位置する椿山は自生の椿の北限として知られている。
 ここの椿はヤブツバキで、温暖な気候を好んで生育するツバキ科の常緑広葉樹である。日本の南部から中部にかけて分布し、主として海岸に面した傾斜地に群生する。東北地方へ入るに従って、その群生地は少なくなる。この夏泊半島の椿山は大小1万本余りのヤブツバキからなる巨大な群落で、「ツバキ自生北限地帯」として1922(大正11)年に国の天然記念物に指定されている。
 ▽椿は春の木
 津軽で採集されたなぞなぞ遊びに、「春の木、何の木?」というものがある。もちろん、答えは「椿」(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より。以下、『資料 津軽』と記す)。字画をなぞえらたなぞなぞであるが、そこには季節的な共感もうかがえる。
 柳田國男は1928(昭和3)年、「椿は春の木」と題したラジオ放送を行っている。そこで、日本海沿岸にぽつりぽつりと椿の自生地があることに触れ、自生北限として「天然記念物」に指定されたこの椿は、もともと人の手によって運ばれた「史蹟記念物」とでも呼ぶべきものではないかと指摘した。
 イタコの道具のなかに椿の木で造った才槌(さいづち)があることや、越中能登などの若狭の八百比丘尼(人魚の肉を食べて800歳まで長生きしたという逸話の尼)が植えたという言い伝えがあることなどを例にあげ、信仰を持ち運ぶ女人が椿をもたらしたと示唆する。椿が「霜雪を耐へ忍んで、春の歓びを伝へることに鋭敏であった」ため雪国には適していたのだろうという柳田の、その描写は鮮やかである。
 「雪が忽ち霽れて空が青くなりますと、此木の雪だけが滑つて先づ落ちて、日がてらてらとその緑の葉を照らします。(中略)旧三月中頃雪が降り止みますと、もうそろそろ椿の花は咲き始めます。さうして花の盛りが長かったのであります。小湊の椿山は、花の盛りには、緑と紅とがもり上がった様に見えて、それが日に照り水に映る風情は、すばらしいものだと土地の人もよく語り、又稀には書物にも書き伝えて居ります。」
 ▽椿明神伝説
 1795(寛政7)年にこの地を訪れた菅江真澄もまたこの椿山の景観をたたえ、次のように椿山の言い伝えを記している。
 上方から来た船乗りの男が土地の娘と恋に落ち、契りを交わした。娘は都人が髪の手入れに使うという椿油を男にねだり再会の約束としたが、1年また1年と待ちこがれても男の船は訪れず、心変わりを疑った娘は悲嘆に暮れて海に身を投げ、村人たちはその亡骸を横峰に埋めた。やがてやってきた男は娘の死を知り、血の涙を流して悲しみ、持参した椿の実を娘の墓のまわりに撒き、その椿が生い出でて林となった。この椿を手折ろうとする者があれば「きよげなる女」が現れ、ひどく惜しむのでみな恐れ、女の亡き霊を祀るようになったという(「つがろのおく」)。
 この椿山には現在も、椿神社があり、夏泊半島周辺を主として人びとの信仰を集めている。その神社の縁起を『平内御領村々堂開基』に見ると、明暦年間(1655~)に横峰嘉兵衛の妻に毎夜神が乗り移り託宣をしたことに始まり、椿大明神の鳥居を立て、1698(元禄11年)に社を建立したという。真澄の記した由来とは、異なる起源が記されているのである。
 昭和30年代には、近隣集落の女性たちが椿神社のさらに奥に朽ちていた社のようなものを移して祭祀を再開し、椿神社とは別に、石碑とお玉の像が建立されている。
 そして、昭和後期から平成の現在、椿山を紹介する印刷物では、話の大筋は菅江真澄の記録したものと同様ながら、異国から来た船乗りの男は横峰嘉平、土地の娘をお玉とした「悲恋のロマンス」伝説として紹介されていることが多い。椿神社の由来譚は、祭祀の担い手やとりまく環境の変遷によって、多様性を見せている(小池淳一氏『半島空間における民俗宗教の動態に関する調査研究』)。
 ▽北前船が運ぶ
 実は、異国の船乗りの男が土地の娘と恋をして椿を運んだとの内容の伝説は、秋田県の男鹿半島の能登山にも伝えられている。こうした伝承の背景には、北前船の定期的な廻航(かいこう)が前提にあったと推測できよう。常緑種である椿の葉の光沢ある鮮やかな緑は、海上の船乗りにも印象鮮やかな標(しるべ)となったようだ。
 深浦町舮作崎にも椿山があり、ここが日本海沿岸における自生北限の地にあたる。この椿山について、「この山の沖通りに帆船が深浦へ入る時は、椿の花を見て、船中で神酒をあげて拝んだものだ」との採集記録がある。この山の高所に薬師堂があり蛇が群生しているが、薬師様の使い者だといって殺さず、またやはり、椿は花一本でも折ってはいけないのだという(森山泰太郎「津軽の海村」『資料 津軽』所収)。
 ▽椿山のいま
 平内町では、1969(昭和44)年より椿の開花時期に合わせて椿まつりを行ってきた。2014(平成26)年より参加者体験型の磯遊びやホタテ拾いなどのイベントを加え、「ひらないの春まつり」として姿を変え今も椿山の椿は私たちの目を楽しませてくれている。
 柳田は「椿は春の木」において、「天然と信仰とは(中略)相誘ひ相傷け又は相結んで」いくものであり、「そのよい位なバランスの取れた点を、我々が風景と名づけて居るのであります」と述べる。地元の名勝に向き合うとき、その風景には私たちの歴史があるのだ。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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