津軽の街と風景

 

津軽藩特産のウルシ=121

2019/10/14 月曜日

 

写真1 現西目屋村で漆守を務めた三上家の漆木実数書上帳。1806(文化3)年のウルシ栽培奨励策を受けて作成されたもの(県史編さん収集文書)
写真2 現在の弘前市大沢周辺の漆山絵図。山や川沿いに植えたウルシの本数、自生する本数など書き上げている。幕末期の絵図の写し(県史編さん収集文書)
写真3 本郷村(現青森市浪岡)で漆守を勤めた鎌田家の屋敷。同家は1806(文化3)年に任命された漆守の一人で苗字帯刀、郷士格を許された(明治末期・弘前市石場旅館提供)
写真4 中南地域県民局で実施したウルシ掻き体験ツアーの様子。弘前市岩木地区の弘前市有ウルシ林にて(弘前市教育委員会提供)

 津軽地方の丘陵地帯にはリンゴ畑が広がる。リンゴが導入されたのは明治以降のことであるが、それ以前、弘前藩の数少ない特産物として丘陵などに植え付けが奨励されたのはウルシだった(漆の木はウルシ、樹液は漆と表記する)。
 ▽藩政初期からウルシを栽培
 漆は江戸時代には武具や馬具、あるいは寺社など建築の塗料として利用され、ウルシの実はろうそくの原料となった。藩政初期から盛んに栽培され、寛永年間(1624~)に上方の技術を導入したウルシ栽培が始まったという。
 「漆新田」「漆かき新田」と呼ばれる、ウルシの増殖に伴う移住者の集落も各地に造られた。このような漆新田は、貞享検地(84~87)の頃には、93カ村・766軒に及び、藩内のウルシの総数は32万7158本に達した。
 分布としては横内組(現青森市)、大鰐組(現大鰐町など)、駒越組(現弘前市)など比較的面積が広い山間部に多く、岩木川・平川流域の水田地方には栽培が少ない。後に津軽塗と呼ばれるようになる唐塗りの技術が若狭から導入されたのもこの頃だった。
 ▽漆守制度の導入
 18世紀後半になると天明の飢饉(ききん)の影響もあり、ウルシの栽培は低調になった。1805(文化2)年には藩内のウルシの総数は20万1000本に減少している。そこで藩は飢饉にも強い商品作物としてウルシに目を付け、生産体制と集荷体制の強化を図った。
 領内にウルシ栽培のための農書「漆木家伝書」を配布し、06(文化3)年には漆守制度を導入し、領内の豪農100人に「漆守」として1人あたり3万本のウルシ栽培を請け負わせ、合計で300万本の増殖を図ろうとした。江戸時代、ウルシ栽培の先進地だった会津藩でも最盛期(18世紀中頃)で180万本だったというから、相当な数である。
 漆守にはウルシの個人所有を認め、樹液のうち藩に2割を上納、残りは藩が買い上げることにし、本数に比例して漆生産の利潤が本人のものになる仕組みだった。また栽培経費の見返りとして、免税地も与えられた。このような努力の結果、18(文政元年)には、ウルシは148万本までに増加している。
 一方、地元の掻子(かきこ)(漆掻き職人)の育成も図られた。12(文化9)年には藩士を会津や上方方面に派遣し、技術指導のため掻子の招聘(しょうへい)や道具の購入などをさせている。その後も越後や庄内などから掻子を雇用する体制が続いたが、地域によっては、育成した地域の掻子が活躍した。また、中央市場への漆の販路拡大を目指して、文化年間(04~18)には三都の市場調査が行われ、試験的な販売が行われている。
 ▽ウルシ栽培の試行錯誤
 ウルシは一般的な農作物と違い、生育して樹液が採れるようになるまで10~15年はかかる。加えて、藩による買い上げ価格が安かったため、漆守たちの生産意欲は決して高いとは言えなかった。
 藩が目標とした他領への販売も順調にいかなかった。西国では蝋(ろう)の原料として漆に代わって安価な櫨蝋(はぜろう)の需要が増しており、会津藩や米沢藩といった古くから漆を特産としていた諸藩でも苦戦を強いられていた。
 中央の市場から遠い弘前藩は販路拡大が難しかった。漆守からの買い入れ価格が安いのも、他領に販売する上ではやむを得なかったが、負担増による豪農層の抵抗を招くことになった。
 さらに追い打ちを掛けたのが天保の飢饉(32~38)である。米も採れない状況では漆守たちもウルシを顧みる余裕はなく、さらに飢饉で食糧に事欠いた農民が山を荒らし、多くのウルシが枯死した。
 52(嘉永5)年の藩の調査では、漆山を勝手に杉山や畑に転換した事例や、書面上だけで場所不明になった事例などが上げられていた。漆を他藩に販売するどころか、逆に他藩から購入しなければならない事態になっていた。
 ▽幕末期に再度の奨励策
 藩はこれに懲りず50(嘉永3年)には、ウルシの900万本増殖計画というさらに遠大な計画を打ち出した。これに伴い、制度的改革が行われた。漆守は漆役と改称。世襲制度を廃止して相続の際は査定が行われることになった。
 漆役を統括する役職として「漆大仕立」が設けられ、中層農民についても「漆小仕立」という漆役の見習的役を設けてウルシを栽培させるなど、きめ細かい改革がなされた。植え付け数を増加させるため、荒畑など生産力が極めて低い畑や、河原、あぜ道など有効活用されていなかった土地にも積極的に植えるよう指示されている。
 300万本でさえ膨大な数であるが、900万本増殖計画がどれだけ現実性があったか不明であるが、少なくとも各代官所に報告される数字は確実に増えている。例えば、赤石組(現鯵ケ沢町)の場合、18(文政元)年に5万8000本余だったウルシが、61(文久元)年には146万2000本に達している(『鯵ケ沢町史』2)。
 しかし、この数値には相当数の苗木や幼木が含まれていると思われる。実際に樹液や実を採取できる成木は一握りだっただろう。
 ウルシが十分に生育する前に明治維新を迎えた。維新後も弘前藩は引き続きウルシを楮(こうぞ)や桑と並んで生産を奨励すべき樹木の一つに掲げているが、一方では漆役の栽培の不徹底さを指摘しており、ウルシ栽培を巡る藩と農民の認識の違いは廃藩まで続いた。
 ▽その後のウルシ栽培
 明治期には安価な外国産の漆が輸入されるようになり、藩からの奨励もなくなったウルシ栽培は急速に衰退していった。漆役たちがウルシを植え付けた漆山(藩政時代は私有地同様に扱うのが認められていた)は地租改正の結果、多くが官有地に編入された。
 旧浪岡町で漆役を勤めた鎌田家は、1904(明治37年)に旧漆山の下げ戻しに成功した。しかし、かつて3万本のウルシを植え付けた山は、200本あまりに減少していた。
 現在、国産の漆の占める割合は3%足らずである(「漆の國浄法寺」ホームページ)。津軽塗を特産とする本県津軽地方でもウルシはほとんど栽培されていなかった。しかし、近年、県の中南地域県民局では漆の安定供給に向けた「うるしの森づくり」の推進に取り組んでいる。また、今年の11月15~17日には弘前市で「漆サミット」が開かれる予定である。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹 中野渡一耕)

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伝統の清水森ナンバ=120

2019/9/30 月曜日

 

写真1 『和漢三才図会』の蕃椒の項目。みそにあえると食欲増進効果があるなど、その効用は古くから知られていた=国立国会図書館デジタルコレクション
写真2 1955(昭和30)年に秋田県能代で撮影された清水森のトウガラシ商人=在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会提供
現在も栽培される「清水森ナンバ」=在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会提供

 在来作物とは、ある地域で古くから世代を超えて栽培者によって種苗の保存が行われてきた野菜や穀類などの作物を指す。特定の地域で連綿と作り続けられ保存された品種は「生きた文化財」と称されることもある。本県では、八戸の糠塚きゅうりや津軽の清水森ナンバが代表格とされてきた。
 ▽清水森村について
 清水森村(現弘前市清水森)は、弘前城下の東南にあり、北は門外(かどけ)村、南は松木平村、東は堀越村、西は原ケ平村、北西は大清水村に続く立地で、村の北を大和沢川が北東流している。清水森の地名は、大鰐山地の西股(にしまた)山付近に源を発する大和沢川の伏流水が湧き水となって現れる地点が多いことによるといい、地元ではこの清水を「シツコ」と呼ぶ。
 清水森の地名の初出は1601(慶長6)年である。弘前藩の藩祖津軽為信が清水森に須弥壇(しゅみだん)を設け、津軽統一のために戦死した敵味方の戦死者のため大法会を執行。妙典千部という衆生(しゅうじょう)を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典「大乗妙典」を1000回も独誦(どくしょう)したとの記録がある(「津軽一統志」など)。
 清水森村の江戸時代初めの村高は410石余りだった(「津軽知行高之帳」)。時代は下って、清水森は1889(明治22)年に千年村の大字となり、1955(昭和30)年からは弘前市の大字となる。
 ▽トウガラシの日本伝来
 トウガラシが日本に伝わったのは、それほど古いことではなく、慶長年間にたばこと同時に南蛮から伝わったともいう(『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』写真1)。興福寺の塔頭(たっちゅう)、多聞院住職の日誌『多聞院日記』の1593(文禄2)年の記事には「コセウ(胡椒)」の種が尊識房から来て、これは茄子(なす)の種に似ており、辛きことは無類であると記されている。とは言っても、初期は食用というよりも観賞用などの目的で栽培されたものらしい。
 「唐辛子」の漢字は「唐」つまり外国から伝わった「辛子」の意味と考えられる。同様に「南蛮(なんばん)辛子」、それを略した「南蛮」という呼び方もあり、清水森ナンバの「ナンバ」はこの「南蛮」が語源であろう。
 1879(明治12)年の記録では、清水森の物産は「米・大豆・蕃椒(ばんしょう)」とされている(「共武年表」)。前述の『和漢三才図会』にも「蕃椒」に「たうからし」とふりがなが振られており、これは「南蛮胡椒」の略語から発している。これも外国から来た胡椒という意味であり、この場合の胡椒はトウガラシを指している。
 京都では伏見がトウガラシの産地となった。山城国(現京都府南部)の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』にもトウガラシについて「山城国、伏見辺りで作られたものが有名」と記されている。現在も伏見は、京都の在来野菜である京野菜ブランドの「伏見甘(ふしみあま)」と呼ばれる、実長が長く辛みのないトウガラシの産地である。
 ▽津軽為信とトウガラシ
 1600(慶長5)年の関ケ原の戦い以降、徳川政権の新たな支配秩序がもたらされると、翌年から、為信とその子である信建(のぶたけ)・信枚(のぶひら)の3人は上方で活動を展開し、公家勢力に接近し、伏見で徳川家康に拝謁(はいえつ)している(「時慶卿記(ときよしきょうき)」「三藐院記(さんみゃくいんき)」など)。特に為信は、国元の津軽と上方を何度も往復した。諸大名は自らの生き残りをかけ必死だった(長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」〈同編『津軽藩の基礎的研究』所収〉)。
 古くからの「清水森ナンバ」生産者の間には、この上方行きで為信がトウガラシの種を持ち帰ったという言い伝えがある(『清水森の歴史』)。このトウガラシは、形状や果実の付き方(下向きに着果する)などは伏見甘長など伏見群のトウガラシと類似しており、弘前大学の前田智雄氏らの研究で遺伝子的にも伏見系の品種と近いことが確認されており、故嵯峨紘一氏により「弘前在来トウガラシ」と命名された。
 ▽津軽伝統トウガラシ「清水森ナンバ」
 津軽地方、特に現在の弘前市周辺は江戸時代からトウガラシの栽培が盛んに行われていたといい、収穫されたトウガラシは香辛料だけでなく薬用や防寒用として県外まで広く行商などにより出回っていた(写真2)
 明治から昭和の初期にかけて清水森の特産品としてトウガラシが重きをなしていたのは、その粉はひと背負いで1カ月も商売できるという商品価値の高さにあった。粉売りは大正末期から戦前にかけても、津軽半島から上磯方面、三陸方面など、魚介を扱う沿岸を中心に行商へ行ったものだった。
 辛みが少ないとはいえ、トウガラシを粉にする作業は過酷で、トウガラシのエキスが家中に飛び散り、家内では地獄を見たようだ。後述の中村氏によれば「清水森へは嫁にやるな」と言われて、その過酷さが近隣にまで伝わっていた。
 昭和40年代ごろまでは清水森地区をはじめ、弘前市の周辺で数十ヘクタールのトウガラシ畑があり、全国でも有数の産地だった。そのような中で、清水森ナンバは、地元の年配者にとっては懐かしい味で、津軽に根付いた食文化の一つと言えよう。
 しかし、昭和40年代に海外から価格の安いトウガラシが多く輸入されるようになった。清水森ナンバの生産、販売は縮小の一途をたどり、2003(平成15)年ごろには清水森の吉川兼作氏ただ一戸のみとなった。
 ▽「清水森ナンバ」のこれから
 1997(平成9)年に故嵯峨紘一氏が、その高い栄養性を地域の勉強会で講演したことがきっかけとなり、地元伝統の味を守ろうと2004(平成16)年に地元関係者や学識経験者などの産学官連携による在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会(事務局=青森県特産品センター)が発足した。2008(平成20)年には弘前市の津軽遺産認定実行委員会が決定する「津軽遺産」の一つに認定された。
 同研究会会長の中村元彦氏によれば、清水森ナンバは交雑を避けて品種を保存するために、弘前大学が一括して種を管理しており、土壌調査や土作りなどが丹念に行われている。生産地域も指定され、会員以外の栽培はできない。
 現在では「清水森ナンバ」の商品名で、伝統の一升漬(三升漬)だけでなく、グリーンカレーやソフトクリームなどさまざまな加工品が登場している。
(花巻市博物館学芸員・弘前大学非常勤講師 小田桐睦弥)

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十三湊の歴史と遺産=119

2019/9/16 月曜日

 

写真1 福島城と十三湊=2006(平成18)年9月21日・五所川原市教育委員会提供
写真2(上)・3(下) 山王坊歌舞伎舞踊公演=2012年・筆者撮影
写真4(上)・5(下) 山王坊日吉神社の抜穂祭=2018年・筆者撮影

 ▽十三湊の発掘調査
 十三湊を支配したとされる安藤氏に関する研究は膨大な量に及ぶ。しかし同時代の資料が極めて少ないため、後世の編さん物や伝承に基づいた研究が多く、長らく青森県中世史の多くの部分が謎に包まれたままだった。
 1991(平成3)年、国立歴史民俗博物館による十三湊解明の本格的な学術発掘調査が始まった。2004(平成16)年までに159地点に及ぶ十三湊全域の発掘調査が行われ、十三湊の全体像や変遷を把握することができるようになった。
 調査当初は津波伝承もあり遺跡が消滅、またはほとんど残っていないとさえ言われていた。しかし、畑を区画する地割が一部で中世までさかのぼり、中世の大土塁跡が残っていることや、ほとんど手付かずの状態で遺跡が地下に残されていることが明らかになった。
 こうして十三湊の遺跡は、中世港湾都市の全体像が描ける唯一の遺跡として注目されるようになった。十三湊の解明が、日本列島における北方中世交易史を解明する上で極めて重要な意味を持つことが明らかとなり、2005(平成17)年7月に国史跡に指定された。
 ▽進む安藤氏研究
 十三湖北岸にある安藤氏関連の遺跡調査として05~09(平成17~21)年に福島城跡、06~09(平成18~21)年に山王坊遺跡の発掘調査が進められた。これによって湊町、城館、宗教施設といった中世都市の全容が発掘調査によって明らかとなってきた。
 これに並行して1996(平成8)年から始まった県史編さん事業によって、中世文書の再検討が進められ、安藤氏研究も飛躍的に進んだ。1322(元亨2)年から1328(嘉暦3)年にかけて「津軽大乱」と呼ばれる安藤氏一族の争いが起きた。安藤季久(すえひさ)(のち宗季(むねすえ))と当時総領家だった季長(すえなが)が蝦夷沙汰代官職を巡って、前者が外浜内真部(うちまっぺ)、後者が西浜折曾関(おりそのせき)に拠点を構えて争いを起こし、鎌倉幕府滅亡の要因になったとされる。
 これにより、蝦夷沙汰代官職を持つ安藤氏総領家が交代するとともに、外浜から西浜のある十三湊へ港湾拠点が移ることになったという。発掘調査では、この時期に港湾都市として発展する様子が明らかとなり、文献史学の研究成果と符合することが分かってきた。
 安藤氏は、先祖を前九年の役で朝廷側の源頼義(よりよし)と戦った安部貞任(さだとう)の末裔(まつえい)であるとして、「安倍」を本姓としている。自らを蝦夷のリーダーであると表明し、北方世界を支配する正当性を強調している特異な豪族だった。
 『保暦間記』には、安藤五郎が北条義時の代官として「東夷ノ堅メ」のために津軽に置かれたとされ(蝦夷沙汰代官)、鎌倉時代初めには既に安藤氏の存在がうかがえる。安藤氏はもともと関東の御家人ではなく、津軽海峡を挟んだ北の海で活躍する交易・海民集団と呼べる在地豪族だった。
 ▽中世史研究の進展
 鎌倉時代末期の「津軽大乱」以降、北方交易の拠点として繁栄を極めた十三湊には、外浜から移ってきた新たな安藤氏総領家が支配した。安藤氏の確かな系図を示したものに紀伊国の熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)に伝わる「陸奥国下国殿代々名法日記(むつのくにしものくにどのだいだいみょうほうにっき)」(『米良(めら)文書』)がある。同社の檀那(だんな)だった安藤氏の親子五代にわたる系図を書き留めたものが残されている。それによれば安藤宗季(むねすえ)(季久)―師季(もろすえ)(高季)―法季(のりすえ)―盛季(もりすえ)―泰季(やすすえ)(康季)とあり、下国殿(しものくにどの)と呼称する十三湊安藤氏嫡流が記されている。
 特に盛季・泰季(やすすえ)(康季)が十三湊全盛期とされ、泰季(やすすえ)(康季)は後花園天皇から命じられて福井県小浜の名刹(めいさつ)、羽賀寺本堂を再建し「日之本(ひのもと)将軍」の異名で呼ばれるなど、一目置かれる存在だった。
 また、十三湊安藤氏は室町幕府から「下国屋形」と呼ばれた。守護大名並みの将軍直属御家人となる「京都御扶持衆」の身分を与えられ、室町幕府を支える存在として蝦夷地支配の責任者に取り立てられるのだった。
 四半世紀に及ぶ考古学と文献史学の研究によって、謎のベールに包まれた十三湊や安藤氏の歴史が明らかになってきた。本県の中世史研究が大きく進展したと言えるだろう。その成果は2018(平成30)年刊行の『青森県史通史編1』の第九章「室町・戦国の北奥世界」に詳しく述べられている。中世史に興味、関心がある方はご覧いただきたい。
 ▽歴史遺産を生かす
 歴史研究の進展によって、付加価値が高まってきた十三湖一帯の十三湊安藤氏関連遺跡群であるが、残念ながら平成の市町村合併以降、これらの歴史遺産が地域に十分に生かされていない。
 しかし近年、地域住民の有志がこうした地域に残る歴史遺産を生かした取り組みを行い、地域の誇りを取り戻しつつ地域活性化につなげる取り組みが始まっている。十三湖のある五所川原市市浦地域を愛着の持てる地域にしたいという思いである。
 衰退する地域の地域活性化に取り組む団体(なんでもかだるべし~うら)が、2012(平成24)年10月に、山王坊遺跡において発掘調査で見つかった神社の舞殿跡に舞台をしつらえ、日本舞踊家・立花寶山氏による歌舞伎舞踊公演会を行った。公演には大勢の観客が山王坊遺跡に詰めかけ、中世に繁栄した頃に思いをはせ、その舞踊を堪能することができた。この公演を通じて、改めて市浦の良さや魅力を再認識することができた。
 これをきっかけに、日吉神社宮司の呼びかけで地元有志による実行委員が組織された。2016(平成28)年から、新たな伝統文化を創造する津軽豊年祭(春の御田植祭、秋の抜穂祭)が開催され、現在も続いている。
 祭り行事を通じて、自然に親しみながら地域住民の交流を深める場ができつつある。歴史遺産が持つ魅力を地域の誇りとし、次世代を担う子供たちが愛着の持てる地域となる取り組みにつながっている。ちなみに今年は今月21日(土)に午後1時半から山王坊日吉神社で抜穂祭が行われる。ぜひ訪ねてほしい。
(五所川原市教育委員会社会教育課文化係 主幹・係長 榊原滋高)

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変貌する弘前中心街=118

2019/8/26 月曜日

 

写真1 時敏小学校前の歩道橋=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真2 久一鳴海呉服店=昭和初期・『津軽名勝と産業』弘前市立弘前図書館提供
写真3 和徳町と東長町の商店街、そして岩木山。ここから見る岩木山の美しさは、昔も今も変わらない=1963(昭和38)年6月8日・中園裕提供

 弘前市の中心街である土手町や本町、銀座街や鍛冶町などにつながる街並みにも、さまざまな歴史がある。郊外の大型スーパーを取り巻く住宅街に多くの人々が居住している現在、中心街とその周辺も大きく様変わりした。記録を残すつもりで書いておきたい。
 ▽元寺町
 元寺町は、かつて市役所や警察署があった官庁街だった。繁華街である本町に直結し、土手町や鍛冶町に近いため人通りが多く、戦前から劇場や映画館がそろっていた。中央通りと接する交差点の南西寄りには、かつて弘前東宝映画劇場があった。南隣にはスカラ座、道路を挟んだ東側にはオリオン会館(オリオン座)があった。
 弘前東宝は弘前座と呼ばれた劇場が前身で、歌舞伎や芝居を中心に活動写真も上映していた。活動写真が盛んになった昭和戦前期に映画専門館として改装され、弘前東宝映画劇場と改称した。
 敗戦後、戦時中の抑圧から解放された弘前市民は映画に夢中になった。市内各地には随所に映画の専門館が建った。しかしテレビの普及に伴い映画は衰退していった。従業員の削減や系列館の再編成が行われ、映画館と他の施設が同居する複合経営が主流となった。
 オリオン会館は、1975(昭和50)年に1階建てのオリオン座を3階建ての映画専門館として新築したものだが、1階にパチンコ店を入れざるを得なかった。映画館閉鎖後、現在はオリオン歯科が入居し開業しているが、映画専門館の面影を残す貴重な建物である。
 他にも元寺町には歴史を伝える建築物が残っている。27(昭和2)年建設の三上ビルは、かつて弘前無尽(後に弘前相互銀行)の本店だった建物で、国の登録有形文化財に指定されている。近くの弘前教会は県重宝、その隣の石場旅館は国の登録有形文化財に指定されている。三つの建物は青森県史の編さん事業でも取り上げ、『青森県史文化財編建築』(2015年刊行)で写真と共に解説を付して紹介した。
 失われたものもある。現弘前文化センターの場所は、かつて弘前市立時敏小学校だった。自動車の増加に伴い、子どもたちの安全を確保するため歩道橋が設置された(写真1)。79(昭和54)年に学校が現在地へ移転。現在、この場所に歩道橋はない。
 弘前文化センターも、老朽化のため大規模な改修が検討されている。今後、建物周辺の景観も変わるだろう。
 ▽東長町と和徳町
 弘前文化センターの東側には東長町と和徳町の街並みが続き、和徳町十文字で県道260号に接する。県道はかつて国道7号だった。和徳町は県道(国道)沿いにも町域が続いている。青森市方面からは弘前市への入り口だったため、藩政時代から明治・大正期にかけてにぎわった。今も県道沿いには古い建物が残り、わずかに当時の面影を残している。
 和徳町のにぎわいを象徴する存在が「久一鳴海」の呉服店である。土手町の「角は宮川」や「角み宮川」と並ぶ弘前市三大呉服店と称された。大正初期に立派な蔵造りに店舗を改装。和徳町かいわいで際立つ存在だった(写真2)
 土手町に繁華街が形成され和徳町に陰りが見られると、「久一」も土手町へ店舗を移したが結局廃業。戦後しばらくは他の業者が建物を使用していた。61(昭和36)年に青森市の常光寺が建物を買い取り、その後移築した。青森大空襲で焦土となった青森市の中心街には古い建造物が少ない。当時の住職は歴史ある建物の大切さを痛感し、「久一」の建物を移築することにしたという。
 現在の和徳町にも老舗の店舗がいくつか存在する。写真3に見える川村タンス店は明治期の創業である。戦後復興と高度経済成長で家具屋は重宝されたが、その後に業種を転換。仏壇川村として和徳町を代表する商店の一つとなった。
 写真3の右端に見える竹与雑貨店は戦前から続く老舗商店である。菓子司みしまも同様で、ぶどう、りんご、栗の3種類の羊羹(ようかん)を合わせた「陸奥の園」と、姉妹品の「月の甘露」が、全国菓子大博覧会で名誉大賞を受賞した。
 和徳町から朝陽橋を渡ると東長町である。かつては商店が並んだが、現在は店舗数が減った。それでも写真館ハセガワ(長谷川写真館)は戦前から続く老舗の写真店。お茶の店スルガも店内が美術館的で興味深い。和菓子屋のあずき庵には甘党の客が出入りする。中心街周辺の商店街には、郊外の大型スーパー街にはない個性的な商店があるのだ。
 ▽地元住民の協力
 東長町のフリースペース茶房じゃがいもは、2000(平成12)年8月に開店した喫茶店。地元のなじみ客が足しげく通う憩いの場である。店主の菅原基夫さんが定年後に夫婦で開いた店だ。菅原さんには弘前市内で過ごしてきた思い出や情報を数多くいただいた。
 地元に長く生活してきた住民たちの思い出や、証言ないし体験談は、現代史を執筆編集する上で大切な情報源である。紙に記された諸資料からはうかがえない時代の生々しさを感じ取ることができるからだ。
 思い出や証言の裏付けを取ることは必要である。多くの人たちの証言を得ることも大切な作業だ。聞き取り調査は大変な労力を伴うが、喜んで話をしてくれる人たちの情報は、何らかの形で書き記しておきたい。
 本紙の連載を執筆する上でも、多くの方々の協力をいただいた。いろいろな情報、さまざまな体験談をすべて紙面に掲載できるわけではないが、可能な限り生かしていきたい。地域の現代史は地元住民の協力を得ることで、一層内容が充実するからである。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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東方へ遷移した小泊=117

2019/8/12 月曜日

 

小泊概要図=1948(昭和23)年・米軍撮影
大澗海岸の舫岩=2008(平成20)年・筆者撮影
松前から望む権現崎=2018(平成30)年・筆者撮影
小泊築港工事=1922(大正11)年・中泊町博物館所蔵

 ▽安藤氏の湊「阿曽内」
 時は鎌倉末期…。津軽安藤氏の内紛による「津軽大乱」の処理の不手際によって、鎌倉幕府の権威は回復不能なまでに失墜した。そして1333(元弘3)年、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにより、執権北条高時(ほうじょうたかとき)は自害して幕府は滅亡するのである。混乱は津軽地方にも波及し、豪族たちは互いに朝廷方と幕府方に分かれて争ったが、翌1334(建武元)年、前者の勝利のうちに終結する。
 この年の冬、朝廷方の国代南部師行(なんぶもろゆき)は、降伏した武将の名簿を陸奥国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)に提出した。著名な『津軽降人交名注申状(つがるこうじんきょうみょうちゅうしんじょう)(南部家文書)』である。上段には50人余りの投降人、下段には投降人を預かった武将名が記されている。
 この中で最も多い17人を預かっているのが、安藤宗家の安藤又太郎(あんどうまたたろう)である。安藤又太郎は家督を巡って津軽大乱を引き起こした当事者であり、鎌倉幕府の裁断によって宗家となった人物であるが、幕府が傾くとあっさりと朝廷側に転向した。
 安藤宗家は、そうした先見の明もあって、1335(建武2)年北畠顕家から「湊(みなと)(十三湊ヵ)」「宇曽利郷(うそりごう)(下北)」、現在の西北五地方に相当する「西浜(にしはま)」などの領地を安堵(あんど)された。ただし、西浜のうち「関(せき)」「阿曾(あそ)米」は、宗家とは別の安藤一族の知行地とされている。「関」は安藤氏の根拠地「折曾関(おりそのせき)(深浦)」、「阿曾米」については中泊町小泊の「阿曽内(あそない)」に充てる説が有力である。
 阿曽内海岸の直上には「柴崎城(しばざきじょう)」、東西には「弁天島(べんてんじま)(崎)」「寺屋鋪(てらやしき)」といった中世遺跡が位置する。中世においては、阿曽内ほかの湊が日本海交易の主舞台となり、安藤氏に莫大(ばくだい)な富をもたらしたのである。
 ▽北前船の風待湊「大澗」
 近世になると、阿曽内から弁天島を挟んだ東側の内湾、「大澗(おおま)」が北前船(弁財船)の寄港地として利用された。湾内には、岩礁を繰り抜いた「舫岩(もやいいわ)」が点在する。かつて、入湊した船から綱を体に巻きつけた赤褌(ふんどし)姿の水主(かこ)が飛び込み、貫穴に通した綱を引いて接岸し係留したものだという。
 船乗りたちは、停泊した船から伝馬船(てんません)(艀舟(はしけ))に乗り換えて上陸し、弁天島「弁天宮」や「飛龍大権現(ひりょうだいごんげん)(神明宮)」に航海安全の参拝をしたのち、東側に位置する町屋へ繰り出した。町屋には、目付(めつけ)役人が駐在する「勤番所」や「湊番所」が置かれ、津軽海峡を行き交う旅人ほか、弘前藩の城米や木材、諸国物産などの移出入に目を光らせていた。
 津軽海峡対岸八里の距離にある松前(まつまえ)への渡海適期は、波穏やかな春先から夏にかけてであり、南風もしくは東風を待って出湊した。風待ちは1週間から時によっては2週間以上に及び、小泊は滞留する船乗りや旅人でにぎわった。
 一方、松前から小泊を目指す場合は、北風を利用した。松前から望むと、小泊は日本海に長く突き出した権現崎の根元に位置する。権現崎に針路を取ると、津軽海峡を東流する潮に多少流されながら、小泊にたどり着くという算段である。
 ▽近代的漁港「水澗」
 中世や近世に利用された阿曽内と大澗の両湊は、自然地形を生かしたいわば「天然の良港」である。ただし、防波堤などの港湾設備を持たないため、特に北西の季節風が吹き荒れる冬季に船を係留することが困難だった。
 また近代以降、旅客・物流の主役は鉄道や青函連絡船に代わり、北海道渡航地としての小泊の役割は年々低下していった。一方、漁業についても、かつて大漁に沸いた鰊(にしん)の不漁が続き、沿岸部における水産資源の枯渇が取りざたされると、沖合の新たな漁場開拓が喫緊の課題となった。
 係る懸案の解決策として浮上したのが、交易港から漁港・避難港への転換、具体的には大型動力漁船の導入ならびに当該船の通年係留が可能な港湾整備計画である。候補地として大澗の東方「水澗(みずのま)」に白羽の矢が立てられた。
 大正から昭和初期にかけて小泊村長ならびに小泊港修築期成同盟会会長を務めた秋元金四郎(あきもときんしろう)らの運動によって、1921(大正10)年「小泊築港」が北津軽郡直営事業として採択されるに至った。翌22(大正11)年起工され、郡会ならびに郡役所の廃止によって小泊村に事業移管されるなど多少の紆余(うよ)曲折を経たものの、23(大正12)年無事竣工(しゅんこう)した。
 築港工事は、防波堤・護岸石垣を構築し、港内をしゅんせつする簡易なものだったが、竣工後は大型動力船の通年接岸が可能となり、小泊地域における漁業の近代化を後押しした。
 ▽町屋の拡大
 小泊は古(いにしえ)より北海道渡海の拠点として機能してきたが、主要湊は中世「阿曽内」、近世「大澗」、近現代「水澗」というように、時代とともに東方へ遷移してきた。大火や埋め立てによって、かつての景観は失われているものの、町屋についても基本的には港の東遷とともに東へ拡大していった。
 「浜町」「上町」といった西側地区が古く、本来は「円山(まるやま)」という墓域が東端だったとも考えられる。それから、円山東部に「派立」が成立し、小泊川を越えた東側に「新町」が形成される。さらに海岸・水田の埋め立てや、山林の宅地造成によって、現在の小泊の街並みが完成したというストーリーが看取されるのである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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