津軽の街と風景

 

「三都」で羊羹に特徴=47

2016/5/9 月曜日

 

青森市内で作られている昆布羊羹(筆者撮影)
弘前市内と青森市内(左と中央下)で作られている林檎羊羹(筆者撮影)
八戸市内で作られている菊羊羹(中央)と菊を使った和菓子(筆者撮影)
県内各地の特産物を使った羊羹(筆者撮影)

 ▽「三都」の競合と均衡
 近代の青森県は博覧会や共進会などで、羊羹(ようかん、煉り羊羹)を多く出品する県として周知されていた。このため今回は、近代青森県の都市部で見られた羊羹に焦点をあて、近代青森県の羊羹を探ってみよう。
 近代以降、現在にかけて青森県は三つの都市(三都)が競合し、均衡を保ちながら歴史を刻んできた(中園裕「知られざる青森県」『グラフ青森』より)。三都とは、県庁所在地で青函圏の拠点である青森市、旧弘前藩の城下町で第8師団が設置された弘前市、旧八戸藩の城下町でありながら港町として発展した八戸市である。三都にはそれぞれ特徴があるが、それは羊羹自体にも見られる。個別に紹介しておこう。
 ▽青森市~昆布羊羹~
 昆布羊羹は、青森市大町(現本町)の2代目高松藤吉(高松堂)が、東津軽郡三厩産の通称菓子昆布を応用し、1889(明治22)年に創製した逸品である。皇族が購入し、各種博覧会や共進会でも高い評価を得ていた。このため1916(大正5)年の段階で、青森県当局が「本県唯一の名物」と認めた菓子だった。
 東京白木屋呉服店で1916年の第1回から第4回まで行われた全国名産菓子陳列会や、1917(大正6)年以降に東京三越呉服店で開催された東北六県名産品陳列会で、昆布羊羹は必ずと言っていいほど出品された。県外へ宣伝できる名菓の一つとして位置づけられていたわけである。
 昆布羊羹は、高松堂以外の多くの菓子店で製造され販売された。その代表格が1891(明治24)年創業の甘精堂本店(青森市新町)である。創業の翌年に完成したと言う昆布羊羹が明治期に誕生した昆布羊羹の歴史を伝えている。
 ▽弘前市~林檎羊羹~
 林檎(りんご)製菓子の種類は多いが、林檎羊羹はその元祖と言われている。1897(明治30)年、弘前市親方町にあった田邊富吉(万年堂)が林檎羊羹を完成させた。材料には弘前市を取り巻く中津軽郡の村々で生産される林檎のうち、市場に出回りにくい林檎が利用された。林檎羊羹が作られたのは林檎農家の生活を助けるためだったのである。
 林檎羊羹は、弘前市内や青森市などの菓子屋で製造販売されるようになった。昆布羊羹と同様、博覧会や共進会などで入賞し、東京で開催される陳列会へ出品され、札幌や小樽の青森県物産館で販売された。これらを通じて、林檎羊羹は青森県の名菓として宣伝されていった。
 他方、1916年当時の県当局の資料によると、弘前市は林檎製菓子のほか、葡萄(ぶどう)羊羹の生産額が高かった。しかし現在は市内で葡萄羊羹を製造する菓子屋は少ない。その中で弘前市和徳町にある菓子司みしまでは、1935(昭和10)年の第10回全国菓子大博覧会で葡萄羊羹が入賞した歴史を持ち、岩木山麓の山葡萄を使った「陸奥の園」(葡萄羊羹)を製造販売している。
 ▽八戸市~菊羊羹~
 八戸町(1929年=昭和4年に市制施行)では、十三日町にある村福本店の石橋雄太郎と栄太郎親子が、三戸郡平良崎村(現南部町)の特産である阿房宮(あぼうきゅう=食用菊)をつかった菊羊羹を、1905(明治38)年頃に完成させた。阿房宮は食用菊の中でも味や香味がすばらしく、石橋親子は阿房宮のよさを郷土菓子にしようと研究した結果、菊羊羹を創製したのである。
 現在、菊羊羹を作っている店は少なくなったが、林檎製菓子と同様、菊を使った菓子は県南地区で数多い。
 ▽三都周辺の特産物
 近代以降に創製された三都の羊羹は、いずれも周辺の郡部(町村)が有する特産物を応用している。このため他地域には見られず、その地域を代表し宣伝できる羊羹と言えるだろう。
 羊羹の特性は、衛生的で、保存や携帯性から利用価値が高いこと、栄養の豊富さや風趣があることと言われている(守安正『お菓子の歴史』)。衛生面や保存性に優れ、携帯しやすい形状から、地域が生み出す土産物の特徴と重なる。
 全国規模の博覧会などは、東京や大阪など大都市で開催される傾向が強い。だからこそ中央から遠方に位置する本州の最北端の青森県にとって、羊羹は出品しやすい菓子だったに違いない。
 ▽羊羹は地域をあらわす
 作家の谷崎潤一郎が随筆「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」で、羊羹の美しさを洋菓子には見られないものと分析したことは興味深い。形はシンプルだが、そこに陰影の美を映し出す羊羹は、和菓子の神髄そのものなのだろう。
 2016(平成28)年3月には「羊羹コレクション」がパリで開催された羊羹が日本ブランドとして世界へ発信されたことは意義深い。なお羊羹コレクションには、甘精堂本店の昆布羊羹とかしす羊羹が選ばれている。
 地域の特徴を如実に示す昆布・林檎・菊は、羊羹のほか、飴(あめ)や最中さらにカステラなどの菓子類へも応用された。しかし、1950~60年代以降の高度経済成長や衣食住の洋風化は、菓子にも洋風の影響を与えた。その結果、菓子が持つ地域の独自性を衰退させ、全国画一的なものを波及させたと思う。
 見方を変えれば、これらの現象は地域の特徴があいまいになっていることを意味しよう。全国どこに行っても同じような物があふれる現在だからこそ、地域の名産や特産を使った羊羹を見直して欲しい。羊羹は地域の特徴をあらわし、地域を宣伝できる元祖的な和菓子であると思うからである。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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龍飛崎の歴史未来に=46

2016/4/25 月曜日

 

龍飛特設望楼(見張所)の遺構。望楼は1940(昭和15)年に開設。日米開戦直前の1941(昭和16)年9月から軍人5人を配置して海上警戒にあたった。1979(昭和54)年8月の撮影・青森県史編さん資料
陸軍が設けた第2砲台の遺構。2010(平成22)年6月23日・中園裕撮影
龍飛工事基地。1972(昭和47)年7月10日・青森県史編さん資料
青函トンネルの本坑貫通式。式典には当時の北村正●知事(中央)が出席した。1985(昭和60)年3月10日・青森県史編さん資料
※●は「哉」の「ノ」なし

 ▽函館要塞
 三厩村(外ケ浜町)の龍飛崎には、かつて日本陸海軍の軍事施設があった。日清戦争に勝利した日本陸海軍は、ロシア帝国を仮想敵国と位置づけ、軍備を増強した。1901(明治34)年、海軍はロシア艦隊の動きを監視するために、海峡西口の龍飛崎に龍飛望楼を設置した(1918年に廃止)。
 翌年には津軽海峡と函館港を防衛するため、大湊(むつ市)に大湊水雷団を置き、水雷艇4隻で海峡の守備にあたった。一方、陸軍は1899(明治32)年から1902(明治35)年までに、函館山に6カ所の砲台と保塁を設置して函館要塞(ようさい)と名付けた。
 1904(明治37)年2月10日の日露開戦とともに、大湊水雷団は函館に移動して函館港の防衛にあたった。11日にはウラジオストクのロシア
艦隊が艫作(へなし)沖で商船奈
古浦丸を撃沈し、7月には巡洋艦3隻が津軽海峡を横断して太平洋に進出。商船の拿捕(だほ)や撃沈を繰り返して日本海に戻った。ロシア艦隊は函館港に近づかなかった。海峡を通過するだけで函館市民は動揺し、青森・函館間の船舶の航行は停止した。
 ▽津軽要塞
 陸軍は1927(昭和2)年に函館要塞を津軽要塞と改称した。そして函館の砲台を縮小し、1929(昭和4)年の大間崎を皮切りに、汐首岬、白神岬へ砲台を築き、1937(昭和12)年に龍飛崎の砲台を建設した。4砲台には、いずれもカノン砲が備えられた。東口が優先されたのは、仮想敵国がロシアからアメリカに変わったためである。
 龍飛崎を要塞地帯に指定した陸軍は「要塞地帯法」により周辺地域の建造物や構造物の新設・改造などを制限した。写真や模写なども広範囲に禁止し、憲兵が目を光らせた。
 1940(昭和15)年には、海軍が龍飛特設望楼(のち特設見張所)を設置し、双眼鏡で艦船の監視にあたらせた。民間人を監視隊員とする防空監視哨(しょう)も設けられた。
 これらの龍飛崎軍事施設は、ほとんど効果を発揮しなかった。水中の潜水艦はカノン砲の敵ではなく、航空機に対して有効な高射砲の配備はなかった。1945(昭和20)年7月14日、津軽海峡上空に現れたアメリカ海軍艦載機の銃爆撃により、青函連絡船は壊滅した。
 ▽青函トンネル
 戦後、龍飛崎は注目を浴びる。敗戦の翌年、運輸省鉄道総局は津軽海峡連絡隧道(ずいどう)調査委員会を設置し、本州と北海道を結ぶ青函トンネルの建設に動き出したからである。1947(昭和22)年、龍飛崎・吉岡間22キロの調査を開始した。まだ東北本線は大部分単線で、蒸気列車が上野・青森間を14時間以上かけて走っていた頃である。
 1953(昭和28)年に鉄道敷設法別表に三厩・吉岡間の鉄道が追加された。運輸省から分離した国鉄は三厩・福島間延長36・5キロ(海底部22・5キロ)、龍飛崎直下を通る設計案を作成した。ところが、1970(昭和45)年、全国新幹線鉄道整備法ができて、青森市と札幌市を結ぶ北海道新幹線が整備計画線とされた。
 青函トンネルは、新幹線を通すことを前提に最急曲線半径や勾配(こうばい)を緩和した結果、蟹田・木古内間延長53・9キロ(海底部23・3キロ)に変更され、1971(昭和46)年に起工式を迎えた。開通後のトンネルと連絡船の使用方法については未定のままの建設開始であった。
 工事は国鉄が分離した日本鉄道建設公団の手で進められた。先進導坑は公団直轄、作業坑と本坑は主に請負工事によった。吉岡駅に近く、鉄道による資材輸送が可能な北海道側に比べ、本州側の工事基地となった龍飛の場合、道路の整備から進めなければならなかった。
 工事が始まると、龍飛崎の高台に工事基地が設けられ、最盛期には三工区だけでも公団関係者400人、企業体関係800人が工事に従事していた。青函トンネル全体の工事従事者は延べ1389万人に達した。1983(昭和58)年1月、先進導坑が貫通、1985(昭和60)年には本坑が貫通した。
 ▽海峡線から新幹線へ
 1988(昭和63)年3月13日、津軽海峡線が開通し、本州と北海道がレールで結ばれた。前年4月には国鉄分割民営化によりJR各社が発足した。JR北海道が青函トンネルを管理することになり、海峡線開通前日、経営に負担の大きい青函連絡船を廃止した。
 2016(平成28)年3月26日、北海道新幹線が開通した。青函トンネルを通る在来線旅客列車は全廃された。青函トンネルは標準軌の新幹線旅客列車、狭軌の在来線貨物列車が共用する複雑な運用を行うことになった。
 敗戦から71年、青函トンネル完成から29年。戦争の記憶。類をみない海底トンネルで磨かれた技術。建設工事で亡くなった人々の慰霊。龍飛崎には未来に伝えていかなければならないものがたくさん残されている。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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“砂子瀬の暮らし”記録=45

2016/4/4 月曜日

 

写真1 津軽民俗の会が「砂子瀬民俗共同調査」を行ったころの集落=1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真2 ヤライにて、流し木を陸揚げする様子=1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真3 炭スゴを担いだ女性= 1951(昭和26)年8月・手塚勝治氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより
写真4 屋外のかまど、煮釜と簡単な炊事場がある=1951(昭和26)年8月・櫻庭武則氏撮影、森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 3月6日、本紙で「目屋ダム姿を消す」と、2016(平成28)年完成予定の津軽ダムの試験湛水(たんすい)に伴い、目屋ダムが沈んだことが報じられた。目屋ダムは1953 (昭和28)年に建設に着手、1960(昭和35)年に完成している。津軽平野を流れる岩木川流域の治水と利水を半世紀にわたって担ってきた。
 この目屋ダムには、砂子瀬というひとつの集落が沈んでいる。目屋ダム着工前の1951(昭和26)年8月、このダムに沈む村の生活文化を記録しようと大規模な調査が行われた。津軽民俗の会による砂子瀬民俗共同調査である。同会は、戦後の津軽地方における民俗研究の嚆矢(こうし)といわれる。
 同調査の詳細は会誌『津軽民俗』4号で報告され、その後、同調査で民俗班を担当した森山泰太郎氏、櫻庭武則氏、奈良広太郎氏らの連名で発表された『砂子瀬の話』(1953年刊、謄写版)、そして後年、森山氏によってまとめられた『砂子瀬物語』(1968年刊)は津軽地方の山村生活の記録としてだけではなく、日本民俗学における山村生活研究においても重要な資料として高い評価を受けている。砂子瀬は、津軽地方の民俗研究を志す者にとっては忘れ得ぬ村なのだ。
 筆者が事務局として編集に携わった『青森県史民俗編 資料津軽』(2014年刊)では、地域生活のさまざまな側面を新たな調査から明らかにするだけでなく、こうした津軽地方をフィールドに行われてきた民俗研究の歩みを明らかにしようと、過去の研究資料の収集や調査も行った。そこで、やはり重要な位置を占めたのが、津軽民俗の会、そして森山氏による調査であった。その中で、付録CDに収録された「砂子瀬民俗共同調査アルバム」から当時の砂子瀬の暮らしを写した写真を紹介しよう。
 ▽砂子瀬共同調査アルバム
 このアルバムは森山氏によって保管されてきたものである。先述の通り、1951年の夏8月1日~15日の合同調査、そして翌冬1月7日~13日、翌夏8月の順に、400点を超える写真が整理されている。その撮影者は手塚勝治氏、櫻庭氏との記述がある。『津軽民俗』4号では、手塚氏は「記録写真の難しさ」と題した記事を寄せ、「一箇の器物、一枚の仕事着にも村の生活を見せ、労働作業の背後に現れざる村の姿と伝統を撮らねばならぬ」と意気込みを記している。
 これらの写真は、砂子瀬の暮らしを視覚的に伝える貴重な資料だろう。『砂子瀬物語』をはじめ、同じく森山氏が執筆した『日本の民俗 青森』などに掲載された。管見の限りではあるが、初めに広く世に示されたのは調査当時1951年9月16日付の陸奥新報記事「砂子瀬民俗共同調査報告―調査団の行動記録―」だろう。写真2と、写真3によく似たカットの写真が掲載されている。
 写真2はヤライという仕掛けを使った流し木の様子。秋の間に伐木し、2月の堅雪のうちに運び出した薪(まき)材を、八十八夜が過ぎてから春の雪解け水の川に流す。この木材の陸揚げのため、流れに対して斜めに枠を設けて川水をせき止め片岸に導入する仕掛けである。
 写真3は、炭俵を担いだ若い女性。山中の炭小屋から炭を運ぶのは女性たちの仕事であった。1俵はおよそ15キロだというが、写真の女性は3俵背負っている。村から3里の山道を歩いて田代まで売りに行く。
 この乙女たちの姿は、西目屋村の民芸品目屋人形としても象(かたど)られ広く知られている。目屋の女性は、もんぺをはくのが上手で、マカナイ姿(仕事着の着こなし)が格好よかったため、もんぺ姿の女性を「目屋おなご」と呼んだという(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
 ▽津軽ダム建設にかかる生活文化調査
 計画を上回る洪水と灌漑(かんがい)用水、河川環境の保全など新たな水需要への対応のため津軽ダムが計画され、1991(平成3)年度から建設事業に着手された。再度、砂子瀬と川原平の集落はダムに沈むことになった。津軽ダム工事事務所では、森山氏を委員長として「西目屋地域生活文化調査委員会」を設立し調査を進めてきた。その成果は『砂子瀬・川原平の記憶 津軽ダム西目屋地域生活文化調査報告書』(2005年刊)としてまとめられている。また、「写真で見る砂子瀬物語」展と題して、同アルバムの複製写真約360点が砂子瀬の砂川学習館で展示され、多くの人出を集めた。
 今でも、砂子瀬は人びとの耳目を集める存在だ。2012(平成24)年9月、弘前大学において「津軽の民話と風土―西目屋の山の暮らしから」と題する講演会が行われた(青森県民俗の会・弘前大学生涯学習教育研究センター主催)。砂子瀬出身の語り手による昔話を聞くため、集まった人びとの熱気に、“砂子瀬”への思い入れを感じたことが印象に残っている。
 『青森県史民俗編 資料津軽』には、このアルバムをはじめ、関係者の皆さまのご厚意により、先人の研究資料を収録することができた。森山氏に関連する資料としてもう1点、貴重な資料を収録した。自筆資料「津軽の海村」である。津軽半島沿岸の村々を歩き、1950(昭和25)年の夏に書き上げている。編さん時には山海に囲まれた津軽地方の暮らしや風俗を知らせてくれる豊かな資料群に圧倒される思いであった。これを読み解くことが、残されたわれわれの責務なのだろう。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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公益の拠点 鯵ケ沢湊=44

2016/3/21 月曜日

 

北前船が描かれた鯵ケ沢湊図絵馬。1865(慶応元)年・白八幡宮蔵・鯵ケ沢町教育委員会提供
奉行所跡地に建てられた西津軽郡役所(写真右側の建物)。左手前の建物は鯵ケ沢区裁判所。大正期・青森県史編さん資料
白八幡宮大祭。田中町の山車。1919(大正8)年・鯵ケ沢町教育委員会提供
白八幡宮大祭。漁師町を進む山車。1965(昭和40)年頃・鯵ケ沢町教育委員会提供

 ▽「鯵ケ沢」の由来と津軽氏発祥の地
 「鯵ケ沢」という地名は、天文年間(1532~55)の「津軽郡中名字(つがるぐんちゅうみょうじ)」に見える。地名の由来については諸説あるものの、「蘆(あし)ケ沢」がなまったものとする説が有力である。
 また、鯵ケ沢は津軽氏発祥の地として名高い。1491(延徳3)年、大浦光信が種里に入部し、子の盛信は1502(文亀2)年に大浦城(弘前市岩木町)を築く。後に、盛信の養子となった為信は、この地から大浦城、堀越・弘前城(いずれも弘前市)へと進出し、津軽統一を成し遂げたのであった。その歴史的な価値により、2002(平成14)年、種里城跡は国の史跡に指定されている。
 ▽津軽九浦制度と鯵ケ沢
 江戸時代に入ると、弘前藩は、青森、鯵ケ沢、深浦、十三、蟹田、今別の六つの湊(みなと)と碇ケ関、大間越、野内の三つの関所を「九浦(くうら)」と定めた。これらの湊と関所は、寛文から延宝期(1661~81)に成立し、18世紀前半にかけて整備が進んだとされる(九浦制度)。
 この九浦制度は、物資・人・情報の出入り口を九カ所に限定し、移出入品に役銀(通関税)を課す一方で、現地の商人に流通の独占などの特権を与える統制方式であった。各浦々には年貢米を含めた荷物の移出入を監視したり、役銀を徴収する沖横目(おきよこめ)が置かれた。
 この中で、鯵ケ沢は弘前城下から距離的に最も近い湊という特徴があり、年貢米を中心とした同藩最大の米穀積み出しの拠点であった。1671(寛文11)年に東廻(まわ)り航路、翌年に西廻り航路が確立されると、それまでは敦賀へ陸揚げ、琵琶湖・淀川水系を利用して大坂へ運んでいた年貢米は、次第に大坂(大阪)へ直接廻漕(かいそう)されるようになった。
 津軽平野の肥沃(ひよく)な穀倉地帯で収穫された米は、岩木川舟運を利用していったん十三湊に集められた後、鯵ケ沢湊へ送られ、さらに西廻り海運(日本海海運)によって上方へ運ばれた。また、領外からは木綿、古着、塩、荒物(あらもの=日用品)、竹などが移入された。
 「津軽見聞記」(1758(宝暦8年)によると、流通の担い手となった廻船(かいせん)問屋の屋号には、「三国屋」「山城屋」「小浜屋」「能登屋」などが見え、先祖の出身地が日本海沿岸地域にあったことがうかがえる。また、鯵ケ沢には、町奉行所や「御仮屋(おかりや)」(藩主が滞在する施設)も置かれており、町場としても重要視されていた。1764(明和元)年には、戸数730余、人口は4030人余を数えた。
 さて、18世紀後半は北前船が諸国に進出し、全国的に商品流通が活発となった時代である。それに刺激されるように、近接する地域でも同様の動きが起きた。弘前藩領においても、隣接する松前・南部・秋田との間でも物資や人の移動が、以前にも増して盛んに行われるようになった。
 しかし、増加する一方の物資や人の流れの前に、従来の九浦を通す商品流通ルートはあまりに時間と手間がかかりすぎた。町人や農民を中心に、漁船や小舟を利用して、自ら直接商品取引を行うものや、商人の中にも物資をひそかに移出するものが現れた。
 もちろん、これらは違法行為であり、「抜荷(ぬけに)」「抜米(ぬけまい)」「隠津出(かくしつだし)」などと呼ばれた。藩は入港の規制や監視を強化したが、逆に厳しい規制に他国船が入津を避けるようになり、九浦が衰える一因にもなった。藩の領域を越えた経済活動の前に、領主が設けた流通統制である九浦制度は、機能しなくなってゆくのである。
 その後、蝦夷地警備が弘前藩に命じられるとともに、異国船の接近に備え、沿岸警備が強化された。文化年間(1804~18)、鯵ケ沢に御持筒頭(おもちづつがしら)1名、御留守居組士(おるすいくみし)3名、御中小姓(ごちゅうごしょう)7人、足軽5人が常駐するようになり、1832(天保3)年には台場も建設されたのであった。
 ▽海からもたらされた文化
 同町の白八幡宮神社は境内から眼下に湊を一望できる位置にある。社記によると、同社は807(大同2)年に坂上田村麻呂が創設、康元年間(1256~57)に北条時頼が再建したという由緒を持ち、藩政時代は弘前八幡宮、浪岡八幡宮と合わせて津軽三八幡宮の一つに数えられている。
 境内地には、1816(文化13)年奉納の玉垣があり、全国から湊に出入りした商人や廻船問屋たちの名前を見ることができ、往時をしのばせる。
 この白八幡宮神社の祭礼は4年に一度、8月14日から16日にかけて行われる。史料上の初見は1679(延宝7)年であり、天保年間(1830~44)には、鯵ケ沢湊の繁栄を象徴するように、きらびやかに飾られた山車が運行されていたとされる。
 県南地方では広く行われている山車祭りだが、津軽地方で現在も残るのは、鯵ケ沢のみである。西廻り海運による文化移入の好例が山車祭りとされ、鯵ケ沢は人や物資だけではなく、上方の文化をも受容していたのであった。
(三戸町教育委員会事務局 相馬英生)

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黒石津軽家が陣屋構築=43

2016/3/7 月曜日

 

黒石藩江戸屋敷跡現況。現墨田区立菊川小学校周辺。跡を示すものは何も残されていない。2011(平成23)年6月19日・筆者撮影
冬のこみせ。積雪時に通行人を守る。高橋家周辺。2009(平成21)年2月20日・筆者撮影
黒石尋常小学校。陣屋跡に位置した。明治の校舎が1974(昭和49)年まで87年間使われてきた。大正初期の撮影・中園裕提供

 ▽黒石津軽家の性格
 黒石は弘前藩の分家黒石津軽家1万石の城下町として知られている。幕府の規定により、小大名の本拠地は「城」と呼称することができず、実態は天守や櫓(やぐら)を持たない「陣屋」であった。
 陣屋は、現在の御幸公園および北側の市民文化会館周辺に位置した。浅瀬石川を見下ろす河岸(かがん)段丘上にあり、城下町はその北側に広がる。御幸公園はかつての馬場にあたり、藩主が居住する御殿は市民文化会館(旧黒石小学校敷地)周辺にあった。現在、陣屋の跡をうかがわせるものは一部の土塁以外残っていない。
 黒石津軽家は弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)の次男信英(のぶふさ)を祖とする。1655(明暦元)年に兄である3代信義が亡くなったあと、後継者の4代信政が幼かったため、幕府から後見役を命じられ、翌年2月に弘前藩から黒石周辺および現平内町の5000石(のち4000石)を与えられ、幕府直属の旗本として分家したものである。
 黒石津軽家の主な役割は、徳川将軍家における御三家のように、藩主の血筋が絶えたときの「血のスペア」としての役割と(実際に6代寧親(やすちか)と9代順徳(ゆきのり)が本家の家督を継いでいる)、江戸における本家の名代役が主な役割であった。代々の当主は江戸を生活の本拠とし(本所三ツ目通に江戸屋敷があった)、特に幕府から許可を得た場合でないと、黒石の地を踏むことはなかった。
 旗本としても、このクラスとなると江戸城で日々の勤務があるわけではなく、不定期に江戸城の門番役を務めたりするのが主な業務である。比較的時間的余裕があるせいか、3代当主津軽政兕(まさたけ)のように趣味に生き、日本最古の釣り指南書とされる『何羨録(かせんろく)』を著した当主もいた。
 このような黒石津軽家の立場が変化したのが江戸後期である。1808(文化5)年に本家弘前藩が蝦夷地警備の功により10万石に高直しされたのに連動して、翌年1万石の大名の列に加わる。「黒石藩」と呼ぶのは、これ以後である。
 大名化に伴い、黒石津軽家も定期的な参勤交代を行うようになったが、その時期は本家とずらし、弘前藩主と黒石藩主は交互に在国するようにした。いわば弘前藩の「副藩主」として権威を強化させ、蝦夷地や領内の警固(けいご)にあたらせようとしたのだった。
 黒石津軽家の家臣団は1847(弘化4)年では140名(足軽を除く)、うち黒石在住は107名、家数は28、29軒と、小大名らしくこぢんまりとしたものだった(ただし、幕末期には非常時に備えて家臣数が急増している)。陣屋の三方を取り囲むように集住していたが、諸町の貸家にも武士は住んでいた。
 ▽城下町としての黒石
 黒石陣屋が構築される前から、現在の黒石市中心部には、ある程度の町並みができていたと考えられる。温湯と弘前を結ぶ街道(黒石街道、山形街道)が町を貫通しており、交通の要衝だった。江戸後期、1833(天保4)年では黒石町の人口は4275人で、黒石藩の人口の約半分が居住していた。
 津軽領全体でも、弘前・青森に次ぐ第3の都市だった。黒石藩になる文化年間には各町は山形町組・鍛冶町組・中町組・上町組・下町組に編成され、これが町の行政や消防の単位となった。組にはそれぞれ組名主がおり、組名主の上には名字を許された3名の町年寄がいて、現在の市長の役割を果たしていた。
 黒石は城下町として周辺の村々の領域市場の中心的機能を果たしており、近江商人の進出が見られる。藩政期の代表的な商人が沢屋加藤家で、17世紀後半に彦根加藤家の出店として下山形村(現黒石市)で金融業を営み、寛延年間(1748~50)に黒石城下に移ったという。
 藩にもたびたび御用金を上納しており、この結果、1835(天保6)年には、黒石藩士となり、加藤姓を名乗るのを許された。その後、奉公人の成之助が主家の屋号を継ぎ(『沢屋加藤家略史』)、3代目の加藤宇兵衛は明治初期に大地主になり、現在も町中心部に残る「金平成園(かねひらなりえん)」を造園した。
 有力商人が居住した中町、横町地区には、昔のアーケードといえる「こみせ」を連ねた商家が見られる。1763(宝暦13)年ごろ建築の高橋家住宅、1806(文化3)年創業前の建築といわれる鳴海醸造店が代表的な例である。1839(天保10)年の黒石町内の造酒業者は9軒あったが、このうち稲村屋文四郎(現鳴海醸造店)だけが、現在でも蔵元として存続している。なお、現在の黒石市のもう一軒の蔵元である中村亀吉は、1922(大正11)年の創業である。
 黒石市の夏の風物詩である「ねぷた」や「黒石よされ」は、江戸時代から行われていた。1831(天保2)年からの「分銅組若者日記」(黒石市個人蔵)には、「七夕祭灯籠(とうろう)」として、さまざまな人形型の灯籠が紹介されている。
 また、黒石よされのルーツは盆踊りで、同書には町5組が競って踊り子を出し、不特定多数の男女でにぎわう様子が記録されている。1863(文久3)年には盆踊りは陣屋内にも入り、藩主夫人が見物するなど、藩公認の祭りであった(『黒石市史』通史編1)。
 明治維新により黒石は城下町としての地位を失うが、南津軽郡の郡役所所在地となり、郡役所(1912年)、黒石尋常小学校(1888年)などの洋風建築も建てられ、戦後まで使われていたが、残念ながら現存しない。現在の黒石市中心部は経済的地盤沈下でやや活気がないが、町並みは昔の面影を残し、伝統的な景観を生かした町おこしの取り組みが試みられている。
(県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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