津軽の街と風景

 

遺跡語る蓬田の生活=56

2016/10/3 月曜日

 

山田(2)遺跡。陸奥湾を望む=青森県埋蔵文化財調査センター提供
山田(2)遺跡出土遺物=青森県埋蔵文化財調査センター提供
蓬田大館遺跡=青森県史編さん資料

 ▽西部の山地と東部の平野
 蓬田村は桃太郎トマトで有名だが、「村の駅 よもっと」を訪ねると季節の野菜、山菜、陸奥湾のアンコウ、ホタテ、イワシ、カレイなど、新鮮な魚がたくさん並んでいて、いつも人でにぎわっている。村の8割を占める豊かな森と村内を流れる川、そして陸奥湾の恵みがもたらしたものである。
 蓬田村は北津軽郡に接する中山山地と、そこから流れる阿弥陀(あみだ)川、広瀬川、蓬田川、瀬辺地川、長科川の各河川によってつくられた海岸平野からなる。村西部が山地、東部が平野という具合だ。また川に沿って所どころに舌状の台地が張り出している。
 現在、平野だったところは、約2万年前以前の氷期には川がより深く削り込み、陸奥湾内は陸地化したと考えられている。村北部の瀬辺地地区の台地から細石刃石器が拾われている。隣接する外ケ浜町には旧石器時代の大平山元2・3遺跡があり、その頃から人がいたと考えられる。
 その後、約1万5千年前から温暖化が始まる。さらに約7千年前には「縄文海進」と呼ばれる海面の上昇が起きた。現在平野である所の一部も海になったと考えられる。
 ▽縄文時代の蓬田
 小川平川と蓬田川に挟まれた台地上に位置する玉松台遺跡では、縄文時代の前期から晩期にかけての遺物が出土した。そのうち、約7千年前の前期初頭の土器とともに、土器片を加工して漁網用の錘(おもり)にした土器片錘が出土した。縄文海進期の最盛期のころ、人々が陸奥湾で漁をしていたことが分かった。台地のすぐ近くまで海があった可能性がある。
 約7千年前以降、徐々に海は退く。玉松台遺跡では遺構は検出されなかったが、土器は晩期まで出土することから、周辺で継続的に人が暮らしていたと推測できる。
 玉松台遺跡の北、小川平川と瀬辺地川に挟まれた舌状台地に位置する山田(2)遺跡は、約5千5百年前の縄文時代前期後葉から後期後葉にかけての多くの遺構と遺物がみつかった。
 中期の集落は竪穴住居跡、貯蔵穴であるフラスコ状土坑、墓、捨て場などがあり、遺構は台地の平坦(へいたん)部に沿って直線的に並んで作られていた。食料などを保存するための貯蔵穴が288基見つかり、通年でこの場所で暮らしていたと考えられている。
 近接する山田(4)遺跡からは中期前半の水場遺構が検出され、周辺からトチノキの種子が出土しており、当時、トチノキの加工を行っていたと考えられている。海退期に谷が埋まりトチノキが生育する場所が増え、それを利用した可能性がある。
 約4千2百年前ころに地球規模でやや寒冷な気候となり、人の生活にも影響があったと考えられている。しかし、山田(2)・(4)遺跡では集落が継続しており、大きな影響は感じられない。
 ▽古代の蓬田
 蓬田川の左岸に位置する蓬田大館遺跡は、10世紀から11世紀にかけての空堀によって区画された防御性集落である。空堀内外から住居跡が検出され、集落が台地上全体に広がっていた。また、住居跡が重複して作られていることから、人々が継続して住み続けたと考えられている。
 遺跡からは鉄製の釣り針、鉄を生産する際にできる鉄滓(てっさい)、製塩土器などが出土していることから、集落内で鉄生産や製塩を行っていたと考えられている。さらに北海道と共通する文様を持つ擦文(さつもん)土器が多量に出土し、北海道との交易の拠点であった可能性もある。
 蓬田大館遺跡より南の、阿弥陀川右岸の標高約10メートルの台地上に、小舘(1)遺跡がある。蓬田大館遺跡とほぼ同時期で、竪穴住居跡、井戸跡、鍛(たん)冶(や)跡などが見つかった。蓬田大館遺跡と同様に擦文土器、鉄生産に関わる遺物が多く出土した。
 ▽海と山の恵み
 古代の遺構は、山田(2)遺跡、玉松台遺跡からも見つかっている。海洋堆積物や土壌分析から、9世紀頃に温暖化があり、縄文時代の温暖化に匹敵する気温上昇であったことが分かってきた。しかし、10世紀以降から徐々に寒冷化する。蓬田大館遺跡、小舘(1)遺跡は、寒冷化が始まる頃から集落が営まれており、縄文時代の山田(2)・(4)遺跡と傾向が類似する。
 海岸に近い舌状台地は、目の前に広がる陸奥湾と背後にある中山山地の双方の資源を利用できる。現に蓬田大館遺跡では、鉄製の釣り針が出土している。縄文時代の山田(2)遺跡では、トチノキなどの堅果類の加工に使用する石器類が多く出土している。
 人々は海の幸、山の幸を利用して、環境の変化に柔軟に適応しながら、長期間にわたって暮らし、それは今にも引き継がれているのである。
(県民生活文化課県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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歴史紡ぐ黒石温泉郷=55

2016/9/19 月曜日

 

温湯温泉の共同浴場=1980~90年代・青森県史編さん資料
落合温泉にあった国民宿舎「西十和田荘」=1961(昭和36)年頃=青森県史編さん資料
板留温泉と川の間近にあった共同浴場「中の湯」(手前)=1950年代・青森県史編さん資料

 1958(昭和33)年、浅瀬石川沿いの温泉群が黒石温泉郷県立公園(後に県立自然公園)に指定された。翌年、弘南バスが弘前~黒石~十和田湖の子ノ口までバス路線を開通させた。そこで青森県や黒石市は、温泉郷を十和田湖への西口(黒石口)路線に位置づけ、観光宣伝に乗り出した。温泉郷の中心を担ったのは温湯、落合、板留の各温泉だ。いずれも近距離に位置するが、それぞれ独特の歴史を紡いできている。
 ▽温湯温泉
 温湯温泉は「鶴の湯」と呼ばれる共同浴場を中心に、周りを客舎が取り巻く典型的な湯治場だった。客舎とは内湯を設けていない宿泊施設をいう。湯治客は共同浴場を使い、客舎で自炊しながら寝泊まりして過ごすわけである。
 湯治は文字通りの療養である。このため長期滞在できるように、温湯には八百屋、魚屋、酒屋をはじめ、呉服店や理髪店、料理屋や家具屋、そして医院など、何でも一通りそろっていた。生活していく上で不自由なことはなかったという。
 59(昭和34)年2月、老朽化した木造の浴場に代わり、新しい浴場が誕生した。源泉が低地に自噴するため、旧浴場と同様に新しい浴場も半地下構造の造りだった。だが娯楽使用のために屋上を設けた点が、当時としては斬新な建物と映った。
 毎年7月の丑湯祭では、客舎や旅館の女将(おかみ)をはじめ温湯の女性たちが、屋上で華やかな踊りを披露した。8月の盆踊りには近辺の集落からも、老若男女が屋上に上がって踊りを楽しんだ。半地下の建物だから、屋上の高さは客舎の1階と2階の間に位置する。湯治客や観光客は、客舎内から浴場の屋上を舞台に見立て、大いに祭りを楽しんだ。
 2001(平成13)年11月、老朽化のため浴場が新築され、現在の浴場となった。機械動力で泉源を引き上げたため、浴場は地上に建てられた。しかし、温湯の娯楽空間として親しまれた屋上はなくなった。
 現在、湯治は温泉利用の主役ではなくなったが、温湯には明治・大正期の客舎や旅館が残っている。後藤客舎や飯塚旅館、盛萬客舎など、いずれも湯治場時代の雰囲気を残す貴重な建物だ。今後、温湯の人々が建物を維持できるように、われわれ利用客が旅館や客舎に宿泊して楽しむことが最善の貢献策になろう。
 ▽落合温泉
 落合温泉に初めて共同浴場ができたのは1934(昭和9)年12月である。当時は自前の泉源がなく、浅瀬石川上流の沖浦と二庄内付近から引湯する小さな温泉場だった。38(昭和13)年、千年孝次郎が内湯や庭園を備えた和風の豪華な落合ホテルを開業後、落合の名は周知され山形温泉郷(現黒石温泉郷)の仲間入りを果たした。
 戦後、自前の泉源を求めて掘削し、隣地の板留との間で「温泉騒動」となったが、双方で平等に掘削することで、55(昭和30)年2月に示談が成立。ようやく落合は自前の泉源を持った。
 61(昭和36)年12月、十和田湖西口(黒石口)の観光路線を強化するため、黒石市営の国民宿舎「西十和田荘」が開業した。当時の厚生省(現厚生労働省)は、国民宿舎の周辺に娯楽施設を設けて国民休暇村とする計画を推進していた。この計画に沿って68(昭和43)年8月、温水プールで南国の雰囲気を売り物にした「サニーランド」が、現在の温泉旅館「花禅の庄」近くに開館した。
 72(昭和47)年8月、板留と落合を結ぶ木橋の嘯月(しょうげつ)橋が鉄筋コンクリート製になり、翌年6月から弘南バスが落合を経由するようになった。巨大な観光施設を有し、交通上の便宜も得た落合は黒石温泉郷の中心的役割を担うようになった。
 しかしサニーランドや西十和田荘などの巨大遊楽施設は、比較的短期間の間に経営難となって閉館した。また、浅瀬石川ダムの建設に伴い、国道102号が黒石温泉郷の背後へ架け替えられ、落合や黒石温泉郷自体は素通りされる懸念が強まった。
 だが80(昭和55)年から、黒石温泉郷周辺の住民は「温湯こけし」を保存し、後世へ伝承するため「こけしの里づくり」を開始した。「全国伝統こけし収集の旅」や「こけしの里マラソン」など、住民活動が根強く続けられた。その成果が行政当局を動かし、88(昭和63)年4月、国民宿舎跡地に「津軽こけし館」が開館した。
 レジャーランド施設がなくなった落合だが、95(平成7)年10月に落合大橋が落成。2000(平成12)年4月には、津軽こけし館に「津軽伝承工芸館」が併設された。地元文化継承施設を中心に、自動車社会にも対応した里山の温泉郷として、落合は今後も黒石温泉郷の重要な一翼を担い続けていくだろう。
 ▽板留温泉
 板留温泉は山並み迫る浅瀬石川河岸の高台に旅館が並ぶ温泉郷だ。かつては、川沿いの上流から下流に向かって、上の湯、中の湯、下の湯と呼ばれる三つの共同浴場が並んでいた。湯治客は三つの浴場を使い分け、浴後には坂や階段を上り、道路沿いに並ぶ客舎で自炊し寝泊まりした。
 湯治場だった板留だが、温湯や落合と同様、高度経済成長に伴い観光利用が強化された。その象徴的存在が、65(昭和40)年5月に開業した県内で初めてのユースホステルであろう。
 しかし板留に最も大きな影響を与えたのはダムである。温泉場の近くには「落し滝」と呼ばれる景勝地があった。実際には浅瀬石川の渓流の一つだが、かつては水量が豊富だったため、滝のような勢いがあった。45(昭和20)年に沖浦ダムができ、水量調節されてから豪快な流れが影を潜めたという。
 沖浦ダムは老朽化と治水機能の低下により、88(昭和63)年の浅瀬石川ダム建設に伴い、沖浦の集落や落し滝とともに水没した。ダム建設の前後から、板留でも湯治より観光利用が中心になり、客舎も内湯を設けて旅館や民宿に変わった。川沿いの共同浴場も、ダムの建設に伴う浅瀬石川の護岸工事とともに、治水と安全対策上から撤去された。代わりに眼前には巨大な浅瀬石川ダムが見えるようになった。
 近年、浅瀬石川ダム管理所は黒石温泉郷と歩み寄り、共存の姿勢を見せている。温泉宿泊者を対象に実施したダム見学会は、多くの観光客が集まり大盛況だった。ダムを間近に控える板留にとって、ダムとの共存は今後の温泉のあり方を考える上で重要な鍵になる。それは落合や温湯も同様であろう。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹・中園裕)

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五能線全線開通80年=54

2016/8/29 月曜日

 

森山海岸を行く蒸気機関車=1966(昭和41)年7月・中園裕所蔵
須郷岬。遠方に五能線の橋とトンネルが見える=1975(昭和50)年9月4日・青森県史編さん資料
開業当時の深浦駅。現在の駅舎は1963(昭和38)年の駅前大火後、新築されたものである=1934(昭和9)年・中園裕所蔵
1980(昭和55)年頃の陸奥森田駅。改装された現在の駅舎も、当時の趣を十分残している=青森県史編さん資料

 1936(昭和11)年7月30日に五能線が全線開通を成し遂げて以来、今年で80周年である。赤字続きの典型的なローカル線だが、「リゾートしらかみ」号が人気を博し、今や全国的に有名なローカル線となった。
 今年は五能線に関する新聞記事の掲載が目立ったが、多くは「リゾートしらかみ」号に関する話題だった。ここでは五能線自体の歴史や沿線の隠れた魅力を紹介したい。
 ▽五所川原線と能代線
 秋田県の東能代駅と青森県の川部駅を結ぶ省営鉄道(省線、後に国鉄、現JR)の五能線は、全線開通までに相当な時間を費やした。最も早く開通したのは能代(現東能代)―能代町(現能代)で、1908(明治41)年7月1日のことだった。翌年に能代線と称された。
 一方、1918(大正7)年9月25日、民営の陸奥鉄道が川部―五所川原に開通した。その後、青森・秋田両県の国会議員や県会議員など、関係者が国へ鉄道敷設の請願を提出した。この結果、五所川原と能代を結ぶ省線の建設が採択され、双方からいくつかの工区に分けて着工となった。
 青森県側では、1924(大正13)年10月21日に五所川原―陸奥森田が開通。五所川原線と称され、翌年5月15日に鯵ケ沢まで開通した。すでに川部には省線の奥羽本線が走っていた。このため輸送力向上に対処しようと、1927(昭和2)年6月1日、陸奥鉄道の経営は国へ移管となった。
 移管によって多額の買収金を得た陸奥鉄道の株主たちは、1930(昭和5)年11月13日、五所川原―津軽中里を結ぶ津軽鉄道を開通させた。津軽鉄道は陸奥鉄道が生み出したことになるわけだ。
 他方、能代線側では1926(大正15)年4月26日、能代―椿(現八森)が開通。同年11月24日に岩館まで開通した。
 ▽西海岸と農村恐慌
 鯵ケ沢まで順調に建設が進んだ五所川原線だが、そこから先は大変時間がかかった。荒波迫り、断崖絶壁が続く西海岸(日本海)。平野の少ない海岸線に線路を敷くのは困難を極めた。最初に開通した鯵ケ沢―陸奥赤石が、1929(昭和4)年11月26日。たった一駅の区間だが、着工から開通まで2年以上かかっている。
 能代線も同様だった。岩館―大間越はわずか一駅だが、開通は1930(昭和5)年12月26日。着工から約3年かかっている。この区間は青森・秋田の県境で須郷岬がある。断崖絶壁の続く県境付近は「リゾートしらかみ」号が徐行運転し、乗客が歓声を上げる場所である。しかし、今日リゾート列車で絶景を堪能できるのは、建設当時の関係者が命がけで線路を敷設したおかげなのだ。
 1931(昭和6)年10月20日、五所川原線の陸奥赤石―北金ケ沢が開通し、北金ケ沢駅が開業した。五所川原・能代双方から遠かった大戸瀬村(現深浦町)にとって、村の中心地に駅ができたことは感慨無量だったろう。ちなみに北金ケ沢駅の駅舎は塗装や修復こそあるが、駅舎自体は当時のままだ。築85年となる現役の駅舎は深浦町民が誇って良いと思う。
 この後、1932(昭和7)年10月14日、能代線の大間越―陸奥岩崎が開通。翌年11月5日、五所川原線の北金ケ沢―大戸瀬が開通した。そして1934(昭和9)年12月13日、大戸瀬―深浦が開通。以前より西海岸の景勝地を宣伝し、町の活性化を図っていた深浦町では、当時としては大変立派な駅舎を建設して開通を喜んだ。
 しかし、五所川原・能代両線が建設されていた時期は、青森県をはじめ東北地方一帯が昭和農村恐慌に陥っていた。特に深浦駅が開通した年は未曾有の大凶作となり、翌年は凶作に加え県全体が大水害に陥った。
 このため五所川原線の深浦―艫作(へなし)、能代線の陸奥岩崎―艫作の建設は遅れた。両工区の建設が終了し、深浦―陸奥岩崎が開通したのは1936(昭和11)年7月30日だった。こうして東能代―川部が全線開通。五所川原・能代両線の頭文字をとり五能線と命名された。両線最後の工区となった艫作駅の近くには「五能線全通記念碑」が建立された。
 ▽田園風景と駅舎
 西海岸の絶景が人気の五能線だが、川部―鯵ケ沢は基本的に田園地帯となる。この区間は津軽平野が広がり、水田の中にリンゴ畑が点在する。そして遠方に壮大な岩木山がそびえる。青森県民、特に津軽地域の人々にとっては見慣れた風景だろう。しかし県外から来た観光客は絶賛し、撮影を繰り返す。見慣れた風景の中に地域の本質があると思う。観光は生活の中に存在するのである。
 生活の中に存在するものとして駅舎がある。陸奥鉄道時代を含めると、五能線は大正時代開業の駅舎がいくつか存在する。現在、五能線で最も古い駅舎は陸奥森田駅である。1924(大正13)年10月21日に開業し、駅舎自体は翌年完成した。
 今回、80周年を機に駅舎の外壁と塗装が古民家風に改装された。しかし駅舎自体の新築ではないので、陸奥森田駅は建設当初の姿を保ち、現役利用されている。五能線全線開通より10年以上も古いのだ。90年を超える駅舎は立派な地域遺産である。旧森田村はもちろん、つがる市の貴重な宝物といえよう。
 快適で人気の高い「リゾートしらかみ」号の走る五能線。西海岸の美しい夕(ゆう)陽(ひ)や、手つかずの自然が残る海岸線、広大な津軽平野にそびえる岩木山は、県外の日本人や外国人が景勝地として絶賛している。青森・秋田両県にとって大切な遺産といえるだろう。
 今日これらの景勝地を堪能できるのは、西海岸沿岸の町村関係者が、鉄道の建設を関係当局に働き続けたからである。厳しい環境下で鉄路を建設し、現在も保線に努めている現場の人たちの労苦も見逃せない。そして五能線が交通不便だった西・北津軽郡や、秋田県北の生活基盤を飛躍的に向上させた歴史的事実こそ、記憶にとどめてほしいと思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹・中園裕)

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藩境枢要地の大間越=53

2016/8/15 月曜日

 

大間越番所跡。春先にフクジュソウが咲く。2009(平成21)年3月19日・筆者撮影
大間越番所の遠望。秋田側から見る。国道トンネルの上あたり。2016(平成28)年7月23日・筆者撮影
「御国縮図並弘前其外所々図」より大間越の図。年代不詳だが、地形的特徴をよく伝える。弘前市立博物館蔵(『青森県史資料編近世2』口絵掲載)
大間越の春日祭。漁船から「春日丸」を海に流すところ。2007(平成19)年6月9日・清野耕司さん撮影

 ▽大間越番所
 旧岩崎村(現深浦町)南部の大間越は、秋田県八峰(はっぽう)町と相対する県境の集落である。現在は戸数約120戸と、さして大きな集落ではないが、かつては弘前藩「三関」の一つである枢要の地だった。三関とは、藩が主要な街道においた関所(対外的には「番所」と称した)のことで、西浜街道の大間越、奥州街道の野内(現青森市)、羽州街道の碇ケ関(現平川市碇ケ関)を指す。大間越は秋田藩と接していた。
 この地を通る西浜街道は弘前から鯵ケ沢を経由して、現秋田県の能代に至る街道である。現在の県道31号と国道101号に相当する。今ではローカルな街道のイメージがあるが、江戸時代初期は弘前藩主の参勤交代路だった。
 しかし、その後碇ケ関から矢立峠を越える羽州街道が整備され、1665(寛文5)年以降は同街道が参勤交代路に代わり、幹線路としての機能は薄れた。1718(享保3)年7~8月の津軽三関の通行者数をみても、碇ケ関930人、野内413人に対し、大間越は168人と最も少なかった(『岩崎村史』上巻)。しかし、沿線に鯵ケ沢、深浦という港湾を有し、また幕末には異国船の出没に伴い沿岸警備の藩士の往来も増え、再び通行量は増した。大間越に1805(文化2)年に大砲台場が設置されている。
 大間越は山がすぐ日本海まで迫っている。現在の国道101号や五能線はトンネルで抜けるが、かつての西浜街道は山越えをしていた。その峠に当たる部分に番所が置かれたのである。海岸線を眼下に見下ろし、往来の取り締まりや藩境の警備に適した場所となっている。現在は「福寿草公園」となっており、春先には黄色い花が姿をのぞかせる。跡地には標柱が立ち、番所や柵の配置が想定できる平坦(へいたん)地がある。
 一方、番所北側の山麓にある大間越の集落には、町奉行所や藩主が領内巡検の際に滞在する「御仮屋(おかりや)」が置かれた。町奉行は2人で、4カ月交代で勤務した。跡地は大間越小学校の敷地となっていたが、1972(昭和47)年に廃校となり、現在は大間越地区コミュニティセンターになっている。枝ぶりの良い老松が1本残る。1869(明治2)年の大間越の戸数は60戸で、うち11戸が町奉行所関係の役人だった。
 ▽ガンガラ穴
 旧岩崎村南部は十二湖が著名な観光地であるが、それ以外の名勝もある。森山海岸にある海食洞「ガンガラ穴」は小舟で探索することができるが、幕末期に松浦武四郎(「北海道」命名者)も訪れ、その様子を記録している。
 このガンガラ穴の近くには中世城館茶右衛門館がある。慶長年間(1596~1615)に豪族小野茶右衛門の居館だったとされる。伝承では茶右衛門は地位を利用して海賊行為を働き、2代藩主津軽信枚の代に討伐されたという。ガンガラ穴は小野一党の船の隠し場だったと伝わる。
 森山地区の南にある松神地区、国道101号沿いには津軽地方で珍しい曲屋(まがりや)大屋家住宅が残っている。江戸時代の建築である。大屋家の祖先は南部の七戸から土着したと伝えられ、同家の祖久六は茶右衛門の船頭で、青森県・秋田県の所属問題で争った「久六島」を江戸初期に発見したと言われ、その絵図が同家に残る。
 ▽鹿島祭
 大間越をはじめ、黒崎、松神といった旧岩崎村南部の集落に特徴的な民俗行事に鹿島祭(大間越では春日祭と称す)がある。毎年田植えが終わったころに、疫病退散、豊作・大漁祈願を目的に行われ、1984(昭和59)年に県無形民俗文化財に指定された。
 北関東や東北では、人形に悪神を封じ込めて舟に乗せて海や川に流す「鹿島流し」といわれる習俗があるが、その一種である。県内で現在行われているのはこの3集落のみだが、隣接する秋田県八峰町などでも実施されている。
 海に流すのは、大間越では「春日丸」と呼ばれる北前船を模したミニチュアの船である。ここに乗組員を模した7体の人形やお供えを乗せ、笛や太鼓の囃子(はやし)に合わせ集落を練り歩く。夕方、漁港近くの砂浜から村人が舟を担いで海に入り、その後漁船で沖合に運ばれ、海に流されるのである。
 かつては青年団により行われていたが、1980(昭和55)年に解散してからは大間越郷土芸能保存会のメンバーにより担われている。大間越には他にも、県の無形民俗文化財に指定された獅子舞があるが、これも同メンバーにより続けられている(青森県史叢書『西浜と外ケ浜の民俗』)。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹・中野渡一耕)

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太宰とゆかりの小泊=52

2016/8/1 月曜日

 

小泊漁港。沖合に見えるのは北海道の渡島半島。1958(昭和33)年・青森県史編さん資料
小泊村の漁民たち。1966(昭和41)年11月10日・青森県史編さん資料
イカを干す女性。1966(昭和41)年11月10日・青森県史編さん資料
龍泊ライン。眺瞰台展望台から権現崎方面を望む。2007(平成19)年6月10日・田澤晃さん撮影

 ▽小説『津軽』と小泊
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお座りなりせえ」とたけの傍らに坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。
 これは金木町(現五所川原市)出身の作家太宰治が、1944(昭和19)年に発表した『津軽』のクライマックスで、乳母の「たけ」に再会する学校の運動会の場面である。当時の運動会は村を挙げての大イベントで、村民のほとんどは仕事を休みにし、掛小屋して運動会を見物しに行った。
 筆者は高校教員として勤務しているが、1988(昭和63)年の新採用で最初に赴任したのが金木高校小泊分校だった。そのときも小学校の運動会は小泊村(現中泊町)の人々が集まり、掛小屋も行われていたように記憶している。
 『津軽』ではその後、修治(太宰)とたけが掛小屋の後ろの砂山(地区名)で30年ぶりの再会を喜び、小説は終わる。この場所には1996(平成8)年、小説「津軽」の像記念館が設立され、村内の観光に一役買っている。
 金木町出身の太宰治による津軽風土記として発表された『津軽』は、全国に津軽を紹介するとともに、津軽半島の端に位置する漁村に過ぎなかった小泊村を、幼少期の太宰治(本名、津島修治)の育ての親が暮らした土地として、太宰ファンのみならず、『津軽』の読者に興味を持たせた。
 かく言う筆者も、太宰ファンではないが、『津軽』読後、たけの嫁ぎ先である越野金物店を訪れて、たけの血筋の方に会い、小説に綴(つづ)られるたけを感じようとした一人だった。
 ▽イカの村
 小泊村は1889(明治22)年の市制町村制施行後、2005(平成17)年に中里町と合併して中泊町となるまで、他の町村と合併することなく一村で存続した。主な産業は漁業であり、中でも北海道沿岸でのイカ漁が盛んである。
 小泊村において、北海道沖でのイカ漁が盛んになるのは大正期に入ってからである。小泊や下前の漁民は8月中旬から11月まで、北海道の松前に6~12人ほどが乗り込む船で出漁した。松前でのイカ漁は、一家を挙げて移り、従事した。男はイカ漁、女はスルメ加工を行い、子どもは松前の小学校で委託教育を受けた。そのため漁期になると、小泊や下前の小学校は児童が減り、松前の小学校は増えるため、机が足りなくなったという。
 津軽半島西海岸のイカ漁根拠地となっていた小泊漁港は、古くから松前への風待ちなどに利用された港で、現在は西海岸における唯一の第4種漁港となっている。離島その他辺地にあって、漁場の開発または漁船の避難上特に必要な漁港のことである。
 小泊村の漁民は、漁期になると船上し、八戸港に入ることもあるという。小泊村の漁民にとって、隣村の市浦村(現五所川原市)や中里町(現中泊町)より、海を介して県内各地や北海道の漁港を持つ地域の方が身近に感じていただろう。
 ▽龍泊ライン
 小泊村は産業の基盤を漁業に依存していたが、漁のできない冬季は出稼ぎで収入を得なければならなかった。出稼ぎによる人口減少は、村の活気を失わせるとともに、家庭に長く両親がそろわない状況が子どもの教育問題にもなっていた。
 こうした問題に対して、小泊村は1963(昭和38)年頃から観光開発運動に取り組むことになる。運動の成果は1975(昭和50)年、小泊村を含む津軽地域が津軽国定公園に指定されたことで、一定の効果となって示された。しかし、そのために小泊と龍飛の道路整備が不可欠となった。
 小泊―龍飛間は地図上では道路がありながら、実際には道路がなく、「幻の県道」と呼ばれていた。県道の整備工事は1972(昭和47)年から開始され、3年後に国道339号へ昇格し、1982(昭和57)年に貫通する。小泊―龍飛間は「龍泊ライン」と称され、眺瞰台(ちょうかんだい)から左側に岩木山、七里長浜、権現崎が、右側に龍飛灯台、正面に北海道が一望できる。こうして「龍泊ライン」は小泊村の観光開発に貢献することになった。
 筆者が勤務していた小泊分校は夜間定時制で、生徒は仕事を終えてから登校してきた。その中にイカ漁に従事していた生徒が数人おり、欠席の多くなる漁期の学習を補うため、冬季に漁を切り上げる毎晩遅くまで補習授業を行ったものだった。
 また、生徒の家庭訪問で下前地区に行くと、生徒の自宅の茶の間から海の向こうに岩木山が見えた。その景色の美しさは今も目に焼き付いている。その小泊分校は2008(平成20)年3月、廃校となった。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

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