津軽の街と風景

 

縄文人骨発見で注目=81

2017/11/27 月曜日

 

写真1 オセドウ貝塚出土の人骨=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供
写真2 山王坊日吉神社の山王鳥居=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供

 2017(平成29)年11月12日、山王坊(さんのうぼう)遺跡が国指定史跡となった記念に十三湊(みなと)・山王坊フォーラムが、地元の五所川原市相内で開催された。主催は十三湖一帯に広がる十三湊安藤氏関連の遺跡を観光ガイドする民間団体「安藤の郷応援隊」だった。当日は100人を超える参加者が会場を埋め尽くし、十三湊安藤氏研究の関心の高さを改めて肌で感じることができた。
 さて、相内村(後に市浦村、現五所川原市)の歴史については前回、明治から昭和にかけて盛んだった林業について紹介したことがあるが、今回はフォーラムの発表内容を踏まえ、歴史遺産の宝庫である相内村について紹介したい。
 ▽オセドウ貝塚
 相内村は津軽平野北端部、岩木川河口の十三湖北岸に位置しており、水運では岩木川水系と日本海、陸運では江戸時代の下之切(しものきり)街道と十三(じゅうさん)街道が交わる交通の要衝として、縄文時代以来、人々が集住し多くの遺跡が残された地域である。
 特に中世には、日本三津七湊(さんしんしちそう)として著名な港湾都市十三湊の一角を占め、当地を支配した豪族安藤氏に関連する福島城(ふくしまじょう)跡や山王坊遺跡など、貴重な中世遺跡群が数多く残されている。相内村は津軽地域の中でも古くから開けた地域だったのである。
 実は、こうした歴史遺産の謎を解明する研究は古くから行われていた。特に十三湊や安藤氏に関する研究は青森県中世史解明の鍵とされ、膨大な研究の蓄積がある。古くは1922(大正11)年12月22日、十三湖を中心に当時の十三、相内、内潟三村の有志(郷土史家の奥田順蔵(おくだじゅんぞう)や福士貞蔵(ふくしていぞう)ら)が集まって設立された十三(じゅうさん)史談会による研究が著名である。
 翌年の7月6~7日には、十三史談会の要望による北郡初頭教育研究会が相内村で盛大に開催された。その際、研究会に合わせて行われたオセドウ貝塚(縄文時代前期~中期)の発掘調査(23年6月20~25日)によって貴重な縄文人骨が出土した。縄文人骨の発見は注目を浴び、研究会に華を添えるものとなった。
 これを契機として、25(大正14)年に当時東北大学の長谷部言人(はせべことんど)や山内清男(やまのうちすがお)による研究者が、層位学的研究に基づいて同貝塚の分層発掘を行った。その後、出土した土器について長谷部は27(昭和2)年に「円筒土器」と命名し、山内は29(昭和4)年に円筒土器を層位的に「円筒上層式」と「円筒下層式」と大別し、土器の編年研究を進めた。オセドウ貝塚は研究史的にも著名な遺跡として知られている。
 ▽五月女萢遺跡
 縄文時代の遺跡に関しては、2010~13(平成22~25)年にかけて発掘調査された五月女萢(そとめやち)遺跡が注目されている。縄文時代後期後葉(約3500年前)から土坑墓が造られ、晩期後葉(約2500年前)までの約1000年間にわたって連綿と土坑墓が造られ、これまでに土坑墓140基が確認された。
 分布に特徴があり、丘陵頂部を取り囲むように環状(南北40メートル×東西60メートル)に土坑墓群が巡っている様子が明らかとなったまた墓域に至る参道と思われる道路状遺構1条も確認された。特に黄色粘土を盛ったマウンドを伴う土坑墓の事例が多く確認されたことで、墓の上部構造が非常に良く分かる事例として、亀ケ岡文化の墓地景観に対する見方を大きく塗り替える発見と注目された。
 さらに、これまでに7体の埋葬人骨が発見されたことに加え、土坑墓には墓標とみられる自然礫を伴うもの、内部に赤色顔料(ベンガラ)や玉類などの副葬品を伴うもの、底面に周溝を巡らすもの、幼児墓とみられる埋設土器などが見つかった。縄文時代の社会や精神文化、死生観を伺い知る祭祀(さいし)遺跡として学史に残る貴重な発見となったのである。
 ▽十三史談会
 十三史談会の研究に話を戻すことにしよう。1日目に研究発表会、2日目には奥田順蔵と福士貞蔵を案内者にして相内村から十三村にかけて史跡巡りが行われた。その内容は、江戸時代に寺子屋の教科書として利用され、中世十三湊の活況の様子を伝える『十三往来(とさおうらい)』(『津軽一統志(つがるいっとうし)』付巻)に記載されている神社や仏閣、または城館について、現地形との照合や関連遺物の分析を通して現地比定を行うものだった。
 これによって『十三往来』に記載される寺社では禅林寺(ぜんりんじ)跡、龍興寺(りゅうこうじ)跡、山王坊阿吽寺(あうんじ)跡、浜(はま)の大明神(だいみょうじん)跡、羽黒権現(はぐろごんげん)跡、それ以外の寺社では檀林寺(だんりんじ)跡・板割(いたわり)(桂川(かつらがわ))猿賀神社(さるかじんじゃ)、磯松五輪塔(いそまつごりんとう)、城館では福島城跡、唐川城(からかわじょう)跡について考察するものだった。
 今から95年前に、すでに伝承の域を出なかった中世寺社跡などを現地比定する研究が行われていたのである。現在でも多くの知見を与えてくれるだけでなく、その多くは遺跡として周知されている。
 そのおかげもあって、山王坊阿吽寺跡と推定された山王坊遺跡の発掘調査が1982~89(昭和57~平成元)年と2006~09(平成18~21)年に行われた。その結果、礎石建物跡による中世寺社跡の規模や構造など伽藍配置(がらんはいち)の様子が明らかとなった。
 存続年代は14世紀後半~15世紀前半(南北朝~室町時代)で、まさに十三湊安藤氏が活躍した時代だった。これまでに奥院(おくのいん)跡、社殿列(しゃでんれつ)跡、仏堂(ぶつどう)跡など、大きく三カ所の性格の異なるエリアが確認された。神仏習合(しんぶつしゅうごう)を如実に示す貴重な遺跡であることが明らかとなり、17(平成29)年2月に国史跡に指定された。
 歴史遺産の宝庫である相内村では、地元民の熱意によって古くから地道な調査研究が進められ、その歴史解明が着実に進められてきた。今回の十三湊・山王坊フォーラムは、まさに時宜にかなったものだった。五所川原市市浦地域の歴史や魅力を伝える活動を続けながら、地域活性化を担う安藤の郷応援隊の皆さまに心より敬意を表したい。
(日本考古学協会会員、五所川原市在住 榊原滋高)

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アスパムの建設過程=80

2017/11/6 月曜日

 

1985(昭和60)年4月8日
4月18日
4月22日
4月29日
5月18日
6月8日

 ▽経過を示す資料
 建物やイベントの開館なり開会の記録は、刊行物などに記され写真もたくさん撮影される。しかし途中経過を示す記録や写真は、直接の関係者が公開や発表でもしない限り、目にすることは少ない。日常生活に追われる中で物事の記録を書き続け、写真を撮影し続けることは難しい。記録を残す意識が強く働かない限り記録は残されないのである。
 今回は青森県史編さんの資料提供者でもある竹内義人さんの写真から、青森港を望む観光物産館アスパムの建設過程を紹介したい。写真は竹内さんの父親である竹内義文さんが、市役所職員時代に撮影したものである。
 アスパムは1984(昭和59)年7月の起工式から2年近くの年月をかけ、86(昭和61)年4月に竣工(しゅんこう)式を迎え開館した。今回掲載した写真は、アスパムの骨格が建設される時期にあった85(昭和60)年の4月から6月にかけて撮影されたものである。
 ▽周辺に見えるもの
 4月8日撮影の写真を見ると、アスパムの中腹あたりまで骨格ができている。八甲通りの北側、現在のアスパム通り中程から撮影したものだ。写真はアスパムの建設過程を記録するために撮影されたものだが、周辺や背後に見えるものが興味深い。
 当時は中央分離帯にガードレールがあった。左右の建物も現在と大幅に違う。特に右側に見える割烹大清(かっぽうたいせい)は青森市民になじみの店だった。59(昭和34)年8月の開店で、店舗名は社長の大道清(だいどうきよし)にちなんだもの。63(昭和38)年に3階建てに拡張。地階は大衆向けの割烹食堂とし、屋上にビアガーデンを開設した。
 特に舞台付きの百畳敷きの大広間は、結婚披露宴に格好の会場になった。当時は披露宴の施設を有するホテルが少なかったからだ。大清は時勢と大衆の心をつかんだ経営方針で事業を拡大していったのである。
 しかし、現在すでに大清の店舗はなく、跡地はホテルJALシティ青森となっている。割烹とホテルでは業態こそ異なるが、披露宴ができる施設を有し人々が集まる晴れの場であることは変わらない。
 4月18日の写真は、新町通り南側の八甲通りから撮影されたものである。中央分離帯にガードレールがあるが、この場所にはかつて水路があった。柳町や北金沢で毎年出水があるため、出水を防ぐとともに市内の防火線にする目的で造られた。しかし、その後の下水道工事によって水路は暗渠(あんきょ)となった。
 ▽記憶装置
 撮影開始半月後となった4月22日、頂上近くまで骨格ができた。青森市の新城に住んでいた竹内さんは、鉄道かバスを使って駅近くで降車し、市役所まで歩く出勤の途中で撮影したと思われる。車や人通りが少なく、影が右(東)から左(西)にかけて長く見えるからだ。周辺の店舗が閉まっているのは朝の出勤時間のためだろう。
 右側の白い建物は昭和30年代からの建物で、当初は喜久寿司(きくずし)が営業していた。69(昭和44)年5月、とんかつ亜希(あき)が入った。亜希はトンカツや揚げ物を独特のタレで食べさせることが評判を呼んだ。現在も昼食時などで混雑する人気店である。
 写真の左側には、貸レコード友&愛青森店の立て看板が見える(店舗は看板左横の和田ビル内にあった)。当時は登場して間もないCDが、既存のLPレコードと共存していた。しかし、どちらも学生や若者たちにとっては少し高価なお買い物。貸しレコード屋で借りたレコードをカセットテープに録音して聴いた人も多かったと思う。
 4月29日、アスパムの頂上部分を組み立てる作業が始まった。右側に銀座ヤマガタの看板が見える。協働社ビルに入っていたテナントだ。協働社は傘と靴を中心に業績を上げ、64(昭和39)年に5階建てのビルを建設。事実上の百貨店経営で一世を風靡(ふうび)した。
 その後、ビルの3階に入ったレストランQは、フロア全体を使ったファミリーレストラン風の雰囲気で、家族連れやサラリーマン層の人気を集めた。八甲通り向かい側のカネ長武田(現さくら野)デパートの職員も、よく食事に来ていたという。いずれも今や思い出の中の出来事だが、写真は過去を現在へ導く記憶装置でもあるのだ。
 ▽記録を残す
 5月18日、アスパムの象徴であるピラミッド型の骨格が完成。6月8日には外壁とエレベーター部分の建設が始まったが、アスパムの写真はこの撮影で終わっている。
 今回紹介した写真は一般市民の残したアスパムの建設記録である。しかし、スマートフォンで気楽に撮影し、撮り直しが容易な現在と異なり、当時はカメラを持参し、撮影後もフィルムを現像してプリントに仕上げる手間と費用がかかった。撮影年月日も別途記録しなければ、時間の経過とともに忘れてしまう。
 竹内さんは撮影年月日も紙に書いてフィルムと一緒に保存していた。記録を残すという意識がなければできないことであり、後世へ残す必要性を熟知しての行為といえるだろう。こうした人々の思いをくみ取り、それを県民市民に分かりやすく解説し、読み物として編集することが歴史研究者に求められている。同時に青森県史の編さん事業に課せられた重要な役割でもある。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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江戸期の中里伝える=79

2017/10/16 月曜日

 

「貞享の絵図(部分)」=中泊町博物館所蔵
「貞享の絵図」概要図=中泊町博物館所蔵
町制施行を祝う派立地区=1941(昭和16)年・加藤俊輔氏提供
中里城に抱かれる向町地区(本村)、右下のアスファルト部分がかつての溜池=1988(昭和63)年・中泊町博物館所蔵

 ▽近世「中里村」の登場
 中泊町中里地区の前身「中里(なかさと)村」は、1640(寛永17)年に弘前藩の3代藩主津軽信義(のぶよし)が家老津軽百助(ももすけ)に48カ村500石の知行を与えたことを示す「津軽信義黒印知行充行(あてがい)状(国立史料館蔵)」に初めて登場する。一方、中里村の生産力(石高)が具体的に分かる史料は、45(正保2)年「陸奥国津軽郡之絵図(青森県立郷土館蔵)」が最初であり、そこでは新田ながら362石と記載されている。87(貞享(じょうきょう)4)年の検地帳「陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳(弘前市立図書館蔵)」では909石となっていることから、およそ40年間で2・5倍に拡大したことが分かる。
 急成長を遂げた中里村の様子は、中泊町博物館所蔵の「貞享の絵図(町指定文化財)」に詳しい。弘前藩は貞享検地に先立って、各村の庄屋に村の見取り図や戸数などを書き上げさせたが、同絵図はその写しと考えられている。
 絵図は「古城」「中里村」を中心に、東を上にして描かれている。右上には「家数八十三軒」とあり、うち「本村」が25軒、「裏屋(借家)」5軒、本村から分かれた「枝(えだ)村」53軒となっている。続けて「貞享元年三月晦日(みそか) 庄屋八右ェ門」と記されていることから、絵図の作成者は豪農として知られる加藤家初代八右衛門(はちえもん)であることが分かる。
 八右衛門は、もともと能登国正院(しょういん)村(石川県珠洲市)の海運商であり、62(寛文2)年に中里村へ移住したとされる。酒屋や材木商を営みながら水田の開拓に従事し、代々奇数代は八右衛門、偶数代は八九郎(はちくろう)を襲名した。
 ▽古絵図に描かれた中里
 絵図の南端には宮野沢川、西端には「福甲田潟(ふこうだがた)」、北端には「森合地子(もりやじし、現在の平山(ひらやま)地区)」、東端には中里川の上流「無澤嶽=むさわだけ)(袴腰岳(はかまごしだけ)か)」が描かれており、これらの内側が中里村の範囲だったことがうかがわれる。「福甲田潟」は、かつて津軽平野北半を覆っていた古十三湖の名残であり、地子新田というのは畑地のみの新田である。
 中央には、南から北に向かう街道(下之切道(しものきりみち))が描かれている。宮野沢(みやのさわ)川と枝村「漆新田(うるししんでん)(派立(はだち)地区)」の間には12本の堰(せき)が流れ、橋が架けられている。8番目の橋付近(駐在所付近)には一里塚があり、「宮野沢」と「五輪(ごりん)村」へ分かれる十字路を過ぎると「漆新田」である。「五輪村」は現在の五林地区であり、五林神社に祀(まつ)られている五輪塔に由来する地名だったことがうかがわれる。
 「漆新田」を過ぎると、「溜(ため)池(わんぱく広場)」を経て、本村「中里村(向町(むかいまち)地区)」である。東方の山手には「寺屋敷(弘法寺(ぐぼうじ))」「伊勢宮(いせぐう)地(旧神明宮)」「古城(中里城)」があり、西側には「荒神宮(こうじんぐう)地」や、現在では見当たらない山々が描かれている。あるいはこの山が、かつて十三湖干拓建設事業の際、土取りによって消滅したとされる「まぎの坂」であろうか。中里川を越えると「森合地子新田」であり、東には「薬師堂」「御鳥屋(おとや=幕府献上用の鷹の捕獲場所)」が見える。
 「貞享の絵図」は、細部を検討すれば不正確な部分も少なからず見受けられる。しかしながら、本村を中心に、用水が網の目のように延び、枝村、寺社、溜め池が同心円状に分布する姿は、大枠においては江戸時代前期の中里地域の様子を如実に伝えていると考えられる。
 ▽旅人が見た中里
 「貞享の絵図」から100年余り、天明飢饉(ききん)からほぼ10年後となる1793(寛政5)年、相内方面から中里入りした常陸国(茨城県)出身の探検家木村(ら)謙次(きむけんじ)は、当時の様子をおおむね次のように記している。
 「今泉村に至るまで2里ばかり十三潟の際を通った。臼市(うすいち、薄市)村は水田が広がっている。高根(たかね)村、新田子(しんでんし)村、上高根村、尾別(おっぺつ)村を経て中里村である。富農が多く、屋敷も新しくきれいである。左の山手に宮野沢村がある。この村も豊かな里である。八幡(はちまん)村には弘前藩の穀倉がある。3棟あり、1棟当たり1万5000俵ほど入るという。水田の右手に彦田(ひこだ)(深郷田(ふこうだ))村があり、八幡宮がある。この辺りは、弘前藩領の中でも地味が肥え、農作物が豊かに実る土地である。(『北行日録』)」
 その数年後の96(寛政8)年初夏には、三河国(愛知県)出身の紀行家菅江真澄(すがえますみ)が訪れ、詳細な記録を残している。概要を記しておこう。
 「水海のような大池(大沢内(おおざわない)溜池)の堤を通り、波知満武邑(八幡村)、深江田(ふこうだ)村、やはたのおほん神(八幡宮)を過ぎて羽立に着いた。途中の水田では、油を使った害虫駆除が行われていた。左手の五倫には寺跡や五倫塔があり、昔は栄えていたと伝えられている。さらに小池(現わんぱく広場)の堤を過ぎて中里村に入った。いささかにぎやかなところである。その日は、加藤なにがし(加藤家五代八右衛門か)の紹介で、米家荘太郎(こめやしょうたろう)宅(井沼(いぬま)家)に宿泊した。(『外浜奇勝』)」
 木村謙次や菅江真澄といった旅人の目に映った中里村は、飢饉直後にしては案外と豊かでにぎやかな村に見えたようである。以来、200有余年の歳月が流れ、町の中心は派立地区に移ったが、城に抱(いだ)かれた古村の佇(たたず)まいは往時のままである。
 「貞享の絵図」は中泊町博物館で常設展示中である。また、博物館では21日から、世界各国の手作り玩具などを紹介する秋の企画展「遊びとおもちゃ―素朴とぬくもり―」を開催予定である(12月17日まで)。この機会に併せてご覧いただきたい。
(中泊町博物館館長補佐 斎藤淳)

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「西北」の形成と発展=78

2017/10/2 月曜日

 

木造町の街並み。千代町(ちよまち)から有楽町(うらくまち)を望む=大正初期・青森県史編さん資料
乾橋。手前が五所川原市で奥が木造町(現つがる市)=1963(昭和38)年3月26日・青森県史編さん資料
五所川原市役所。旭町にあった頃の市役所で、町役場時代の建物をそのまま活用していた=1955(昭和30)年頃・青森県史編さん資料

 「三八(さんぱち)」「上十三(かみとうさん)」「東青(とうせい)」など、青森県内で独特な地域の呼び方がある。津軽地域の「西北」もその一つだ。正式な地名ではなく、県民や市町村民が便宜的に呼び使用してきたものである。
 ▽郡区町村編制法
 廃藩置県後の1876(明治9)年、明治政府は新しい地方制度として大区小区制を導入した。青森県内を10の大区に分け、大区内を5~11の小区に分けた。しかし地域名を数字で示す制度に対し全国各地で騒動が起きた。このため78(明治11)年に郡区町村編制法が施行され、旧来の地方制度を踏襲した新たな地域の枠組みが定められた。
 編制法の施行で大区小区制以前に存在した村の多くが復活したが、津軽郡は東、西、中、南、北の5つに分割された。第4大区が西津軽郡、第5大区が北津軽郡となった。その後、89(明治22)年に市制町村制が施行され、藩政時代以来の村々が数多く合併。これ以降、現在に至るまで何回かの市町村合併を経て今日に至っている。
 ▽郡役所と乾橋
 弘前藩の湊(みなと)として栄えた西津軽郡の鯵ケ沢町は、市制町村制の施行当時、西北両津軽郡で唯一の町だった。このため西津軽郡役所が置かれたが、日本海交易の衰退と陸上交通の整備に伴い活気を失いつつあった。これに対し木造村は、藩政時代以来の新田開発と陸運の発展を生かして台頭。1893(明治26)年、両町村は郡役所の移転をめぐって争った。県の調停で移転は中止されたが、木造村は1901(明治34)年に町制を施行。翌年に町内へ弘前、八戸、青森に続く県立第4中学校を開校させた。
 市制町村制施行時の五所川原村には北津軽郡の郡役所が置かれた。しかし、街場としてのにぎわいは旧街道筋にあった七和村の原子(はらこ)や飯詰村にあった。1884(明治17)年、初代北津軽郡長の工藤行幹(ゆきもと)は岩木川に乾橋を架けた。当初、五所川原村の商人から顧客を木造村や鯵ケ沢町に奪われるとして猛反対されたが、架橋によって五所川原村は西津軽郡各地との流通を深めた。そして98(明治31)年に町制を施行。鯵ケ沢町や木造町を凌ぐ西北両津軽郡の中心地へと発展を遂げた。
 ▽五能線と津軽鉄道
 1918(大正7)年9月、民営の陸奥鉄道が川部と五所川原の間に開通した。12月には五所川原から木造を経て鯵ケ沢に至る「西北鉄道建設の意見書」を、県会が全会一致で決議し政府へ提出している。西北鉄道は後に五能線として実現し、25(大正14)年5月に鯵ケ沢まで開通。27(昭和2)年6月には陸奥鉄道の経営が国へ移管となった。
 移管によって多額の買収金を得た陸奥鉄道の株主たちは、30(昭和5)年11月、五所川原と津軽中里を結ぶ津軽鉄道を開通させた。五能線と津軽鉄道の敷設や開通に関わる一連の経緯は「西北」という地域の存在を県内各地に記憶させることとなった。
 ▽岩木川改修
 岩木川の下流域は東岸が北津軽郡、西岸が西津軽郡の町村であり、いずれも洪水との闘いに明け暮れていた。1910(明治43)年、当時県会副議長だった阿部武智雄(むちお)は、西北両津軽郡選出の県会議員と共に岩木川改修期成同盟会を設立。北津軽郡役所で創立会を開いた。会長には阿部が就任し会員には両郡の町村長が名を連ねた。
 岩木川の改修は18(大正7)年に国の直轄事業となって実現をみた。だが32(昭和7)年と35(昭和10)年の大水害で岩木川が氾濫し、河岸の町村に甚大な被害を及ぼした。このため第2期の改修工事を陳情する動きが高まった。陳情先は東北の救済と振興のため、34(昭和9)年に政府が樹立した東北振興調査会(後に内閣東北局)だった。
 岩木川改修の陳情には平川や浅瀬石川、山田川や金木川など、岩木川支流や他の河川の改修と、逆流して洪水を起こす十三湖に築堤を施すことも含まれていた。このため陳情書には岩木川下流域に位置し、最も水害を被(こうむ)る西北両津軽郡の町村長を中心に、中南両津軽郡の町村長も名を連ねた。一連の陳情活動を通じ、「西北」という地域の存在と一体感は、一層強まることになったと考えられよう。
 ▽市町村合併
 昭和の大合併は地域の形を大きく変えた。五所川原町は松島、中川、長橋、三好、栄、飯詰の6村と、後に七和村を編入して五所川原市となった。鯵ケ沢町は舞戸、鳴沢、中、赤石4村、木造町は越水、柴田、館岡、出精(しゅっせい)、川除(かわよけ)の5村と合併した。
 このほか西津軽郡の水元村が北津軽郡の鶴田町と梅沢、六郷両村と合併。西津軽郡の十三村が北津軽郡の相内、脇元両村と合併するなど、西北両津軽郡の間で郡を越えた合併もあった。岩木川や十三湖の対岸同士で向き合う両郡の町村は、岩木川の改修や十三湖の築堤を通じて交流を深め、相互に共通する利害関係を有した。郡を越えた人的、物的交流があることにも「西北」という地域の一体感が見て取れよう。
 西津軽郡の鯵ケ沢町や深浦町は岩木川流域ではない。しかし、日本海沿岸の北津軽郡の小泊村(現中泊町)や市浦村(現五所川原市)とは類似する環境にある。いずれも藩政時代に日本海交易で栄え、近代以降は漁業を主要産業としてきた。そして深浦、鯵ケ沢方面から五能線や国道101号、小泊、市浦方面から国道339号や津軽鉄道が、それぞれ五所川原市との間を結び、同市を中心とする「西北」地域の一体感を強めている。
 ▽川と海
 五所川原町の市制施行で、「西北」は「西北五」と称されることも多くなった。平成の大合併で西津軽郡の木造町と森田、柏、稲垣、車力の4村が合併してつがる市となった。しかし「西北五つ」とは称されず、「西北五」と「西北」が併用されている。
 津軽平野の中でコメとリンゴを主要な産業とし、平野を縦断する岩木川や十三湖などの湖沼群の改修を通じて「西北」の地域は共通の歴史を歩んできた。他方、県内の日本海沿岸は、いずれも西北津軽郡に属し「西海岸」と称され「西北」の一体感形成に寄与している。「西北」の地域は岩木川水系と西海岸をめぐる環境に大きな影響を受けている。川と海を取り巻く歴史が「西北」という地域を生み出したことになるだろう。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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津軽地方に集団疎開=77

2017/9/18 月曜日

 

浜松から弘前に向かう車中の子どもたち。品川駅では父母と会えたのだろうか。1945(昭和20)年6月1~2日撮影
大鰐温泉の男子学寮。温泉旅館は相対的に設備に恵まれていて、他校の教員にうらやましがられた。1945(昭和20)年6~10月頃撮影
リンゴの木に登る男の子たち。食糧不足の中、静岡県ではミカン、青森県ではリンゴにだけは恵まれた。1945(昭和20)年6~10月頃撮影

 ▽40時間の旅
 アジア・太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月、先生や寮母に率いられた東京都の子どもたちが本県に次々に到着した。渋谷区・荏原(えばら)区(品川区)の子どもたちで、静岡県からの再疎開だった。
 前年の6月30日、政府は「学童疎開促進要項」を閣議決定。都市防衛の強化と学童の生命防護を名目に、縁故疎開のできない東京都など主要都市の国民学校初等科(小学校)の3~6年生を、学校単位で地方に送ることとした。これが学童集団疎開である。東京都の集団疎開学童数は、約23万7千人といわれる。
 ▽静岡県での疎開生活
 44(昭和19)年8月、静岡県には荏原(品川区)、大森(大田区)、蒲田(かまた)(同)、渋谷の4区が割り当てられ、およそ2万2500人が集団疎開した。
 子どもたちの受け入れ先は、伊豆半島など温泉のある地域では旅館が圧倒的に多く、他の地域は寺院であり、例外的に学校の校舎や会社の寮を使った。子どもたちはおおむね午前6時半ごろ起床。洗面、掃除、朝礼、朝食の後、授業や作業。午後8時ごろに夜の反省やあいさつなどを終えて就寝するという集団生活を続けた。最初は旅行気分だった子どもたちも、次第に家が恋しくなり、空腹の連続で元気がなくなっていった。
 ▽狙われる子どもたち
 44年11月、マリアナ基地のB29爆撃機による本土空襲が始まった。B29は富士山を目標に北上し、針路を転じて東京を目指し、通過する町村にも爆弾を投下した。駿河湾への米軍上陸も予想された。静岡県に集団疎開した子どもたちは再疎開させられることになった。渋谷区・荏原区の子どもたちは、富山県と本県に再疎開するよう決められた。
 ▽本県への再疎開
 本県の受け入れ候補地は最初上北郡と南津軽郡だったともいわれる。しかし実際の受け入れ先は青森市と東津軽郡を除く津軽地方となった。児童2745人、職員459人の内、約4分の1が弘前市に集中している。
 大鰐町では大鰐温泉の旅館が学寮となったが、ほとんどの市町村では寺院が学寮に充てられた。弘前市では新寺町の寺院が渋谷区の学寮となった。富ケ谷校は貞昌寺を本部、天徳寺などを学寮として、弘前市の第一大成校で授業を行った。午前は第一大成校、午後は富ケ谷校の二部授業である。
 疎開学童の受け入れとは対照的に、弘前市では縁故疎開が奨励された。父母から離れて近在の農村に疎開し、疎開先の国民学校に転校した弘前市の子どもたちは、7月までに600余人に上った。
 集団疎開の受け入れ先が津軽に限られたのは、青森市以東には陸海軍部隊が展開し、本土決戦に備えていたからである(地図参照)。本県は学童疎開のできる地域と、決戦場になり得る地域とに二分されていたともいえる。しかし、疎開学童のいた金木町(現五所川原市)は7月に艦載機の爆撃を受け、弘前市も米軍の空爆候補都市のリストにあった。戦争を続ける限り、危険でない場所はどこにもなかったのである。
 ▽遠州の名刹から津軽の温泉へ
 荏原区立宮前(みやまえ)国民学校(宮前校)を例に集団疎開の足跡をたどってみる。
 宮前校の疎開先は静岡県引佐(いなさ)郡奥山(おくやま)村(浜松市)の方広(ほうこう)寺で、1323(元享(げんきょう)3)年開山の古刹(こさつ)だった。1944(昭和19)年8月29日・30日に分けて大崎駅から臨時列車で浜松駅に着き、軽便鉄道に乗り換えて方広寺に着いた。疎開児童数は435人。
 5月24日、東京南部に空襲があり、荏原区にも多数の死傷者が出た。宮前校は焼夷(しょうい)弾の直撃を受けて全焼。学校本部を戸越(とごし)校に移した。
 6月1日、再疎開のため、宮前校の児童は15時ごろ、浜松駅から臨時列車で本県に向かった。子どもたちに東京の惨状を見せないように東京着は夜間で、22時に着いた品川駅には父母たちが待っていたが、わが子の名前を叫んで探している間に10分の停車時間が過ぎ、子どもたちの声をホームに残して列車は北上した。
 40時間以上走行と停車を繰り返した列車は奥羽本線経由で弘前駅に着いた。大鰐に疎開した245人中、宮前校の子どもたちは210~220人。静岡県に疎開したときの約半分だった。宮前校の学寮は鶴の屋など4軒の旅館だった。授業の他、リンゴの袋貼りなどの作業もあった。引率してきた職員たちは毎日のように食料調達に追われた。
 ▽焦土の東京に帰る
 8月15日正午、国民は敗戦を知らされた。しかし、東京都は東京の住宅と食糧事情を理由に、疎開校の校長にしばらくの間児童を疎開地にとどめ、児童の食料と燃料を確保するように指示した。子どもたちの生活維持を校長の責任としたのである。
 9月26日、ようやく疎開学童復帰の文部省通達が出された。30日から疎開学童は次々と疎開地から引き揚げた。宮前校の子どもたちは10月20日に帰京した。変わり果てた故郷。中延(なかのぶ)校に間借りしての授業が彼らにとって戦後の始まりだった。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)
 写真は全て宮前校の訓導(小学校教諭)として引率した写真家の中村立行(りっこう)(1912~95年)が撮影(品川区立品川歴史館提供)。表と図は筆者作成。

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