津軽の街と風景

 

青森町で氷ビジネス=109

2019/3/18 月曜日

 

堤川の雪景=大正末期・青森県所蔵県史編さん資料
堤川に架かる旭橋から見た八甲田の峰々=明治末期~大正初期・青森県所蔵県史編さん資料
青森製氷全景=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵)
青森製氷の冷蔵室と冷凍室=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵

 ▽津軽の氷を売り出そう!
 箱館戦争が終結し、青森町から新政府軍が撤退して2カ月ほどがたった1869(明治2)年12月23日、横浜の中川屋嘉兵衛の手代2人が青森町の豪商滝屋伊東家を訪れた。中川屋は、旧幕臣で箱館奉行支配組頭となり五稜郭の築造に携わった河津祐邦(かわづすけくに)と関わりがあり、河津は弘前藩家老(当時は権大参事)大道寺繁禎(しげよし)と昵懇(じっこん)だった。その手づるで中川屋の手代が滝屋を訪ねたわけである。
 そして、その目的は東京で大道寺と河津が面会した時の話にさかのぼる。河津は、横浜に居留している外国人に、「寒国」津軽から切り出した氷を売ることを大道寺にもちかけた。夏の暑い時期の氷販売は外国人に喜ばれ、しかも弘前藩にとっても利益になるのだという。具体的な使途は、医療用・冷蔵用であったようだ。
 当時、氷といえばアメリカのボストンから輸入していた「ボストン氷」なるものがあったが、高価である上に輸送中の目減りが激しかった。そこで、中川屋は氷ビジネスに目を付けた。大道寺はこの話に乗り、青森町の滝屋にこれを申し付けたのだった。
 2人が面会した時期は定かではないが、9月11日付で河津の用人石川喜兵衛から滝屋のもとに青森町での製氷についての書状が届いており、手代訪問の3カ月前には動きだしていた話だった。
 ▽横浜・中川屋の試み
 さて、中川屋嘉兵衛なる人物であるが、彼は三河国額田郡伊賀村の生まれで、横浜開港後に江戸へ出てイギリス公使の厨房(ちゅうぼう)に雇われていた。その後、横浜で牛乳搾取場を開業する傍ら、ヘボン式ローマ字で知られるアメリカ人医師ヘボンらと知遇を得、衛生に関する知識を得たようだ。ヘボンらとの出会いが製氷事業の起業に影響を与えたようである。
 最初の採氷事業は1861(文久元)年に「駿河国富士山ノ地」に500坪の製氷地を求め、氷2000個を江尻(清水)港から横浜へ搬出したものの、すべて解けてしまい失敗に終わった。その後も、信濃国諏訪郡や下野国日光山で製氷を行うものの輸送費が高くこれも失敗した。
 さらに、1865(慶応元)年に陸中国南部釜石で200~300トンの製氷に成功するが、横浜に運び込むことができたのはわずか30トンだった。そして次に中川屋が目を付けたのが青森町だった。
 中川屋では12月上旬までに事前調査を済ませており、氷を切り出す候補地は三内村・石神村が有力であったが青森湊までの輸送費が高いことから、青森町の東端を流れる堤川の川上が選ばれた。しかもこの冬は「至極之極寒」であり厚い氷が期待された。輸送手段についてもすでに手配済みで、中川屋の2人の手代が滝屋を訪れた時点で準備はほぼ整っていた。
 ▽新ビジネスへの期待と挫折
 一方、滝屋はこれが毎年のことになることを念頭に、「横浜通商録」という専用の簿冊を新調するほどであった。津軽には米穀以外に取り立てて産物がないこと、そして幕末以来「青森衰微」が叫ばれ、特に1869(明治2)年は天保の飢饉(ききん)以来と言われるほどの凶作であった。したがって、新しいビジネスとして期待するのは当然のことであったろう。
 氷の切り出し作業は滝屋の別家通称「丸善」と、堤川に近い博労町で荒物販売を行っている森屋伝七に任された。また、利益が大きいことを聞きつけた博労町と蜆(しじみ)貝町の火消組のほか、凶作で苦しんでいた隣村浦町村の窮民たちも作業に加わった。こうして翌1870(明治3)年1月までに、縦横が約60センチで、厚さが15~30センチほどの氷3094枚(3500枚程度とも)を採氷し、あとは船の入港を待つばかりだった。
 ところが、船は入港することなく3月を迎えた。この間、青森町には横浜で戦争や大火があったとのうわさが流れたりもした。横浜からは一切の連絡もなくいたずらに時ばかりが過ぎ、もちろん気温も高くなり、ついには氷を捨てることになった。こうして、中川屋による青森町での採氷は失敗に終わった。さきの手代2人は、陸路で横浜に帰ることになり、滝屋は気の毒がっている。
 しかし、中川屋嘉兵衛の製氷事業は、その後函館で成功した。五稜郭の堀から氷を切り出し「函館氷」として販売したのである。中川屋は輸入氷を扱うバージエス商会との激しい価格競争にも勝利した。そして、1881(明治14)年の内国産業博覧会に函館氷を出品し1等賞を受賞した。その賞牌(しょうはい)には龍の紋章が記されていたことから、これ以降「龍紋氷」というブランドでも知られることになった。
 ▽青森製氷
 ところで、青森町での氷の需要拡大は、鉄道網の発達と関わっていたようだ。すなわち、青森の鮮魚を東京方面へ輸送することになり、その鮮度保持のために氷が必要となった。当初はやはり函館の龍紋氷を使用したようだが、大正期になると三内の笹森堤で採氷するようにもなったという。
 ただ、こうした天然氷は天候に左右され、また氷に含まれる不純物が鮮魚輸送にはマイナスとなった。そこで、「製氷事業」ががぜん注目されるようになり、1920(大正9)年に青森製氷会社が設立された。氷の需要はさらに冷蔵業へと展開し、昭和初頭の青森市の冷蔵業は全国有数の規模となっていた。ちなみに、青森製氷株式会社は、来年創業100年を迎える。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

∆ページの先頭へ

学校の二宮金次郎像=108

2019/2/25 月曜日

 

弘前公園の丑寅櫓近くの金次郎像(筆者撮影)
黒石市立上十川小学校の楠木正成像(筆者撮影)
旧小畑小学校(藤崎町)の金次郎像(筆者撮影)
旧蔵館小学校(大鰐町)の金次郎像(筆者撮影)
旧百沢小学校(弘前市)の座像と立像(筆者撮影)

 今年度から使用されている小学4年道徳教科書に「二宮金次郎の働き」(教育出版社)がある。かつて小学校には、校庭や校門の一角に御真影と呼ばれた天皇・皇后の写真や、教育勅語を奉護する奉安殿と並んで二宮金次郎像(以下、金次郎像)が建っていた。奉安殿が堅牢(けんろう)で近づきがたい威容を持っていたのに対し、金次郎像は子どもたちを引き付ける建造物だった。
 ▽金次郎像
 1787(天明7)年に相模国(神奈川県小田原市)に生まれた二宮金次郎は、14歳で父親を亡くし、一家の家計を支えながら勉学に励んだ。金次郎像の多くが、薪を背負って歩きながら書(『大学』)を読む立像(負薪読書像)である所以(ゆえん)だ。
 1890年代の金次郎は幼少期に勤勉・倹約・忍耐といった徳目を実践した人物として修身教科書に掲載された。1930年代に入り経済不況が進むと、勤労に励む金次郎像はもてはやされ、銅像や石像が学校に寄贈されるようになった。
 日中戦争の長期化に伴い、38(昭和13)年に国家総動員法が制定された。41(昭和16)年8月に金属回収令が発令されると、金次郎像も回収の対象となる。回収は「銅像の応召」と呼ばれ、あたかも金次郎像が戦場へ行くように喧伝(けんでん)されたが、実際は多くが工場へ運ばれて武器として使用された。
 同じくこの時期、学校に設置されていた楠木正成像も回収の対象となるが、戦後金次郎像が建つことはあっても、楠木像が建造されることはなかった。楠木像は現在、黒石市の東英小学校と上十川小学校に残されている。
 全国的に金次郎像の設置は27(昭和2)年ごろから始まり、33(昭和8)年に急増、35~36(昭和10~11)年がピークとなる。地域によっては戦後も48(昭和23)年ごろから設置され、50年代中頃にピークを迎える。
 ▽設置と徳目
 五所川原市やつがる市など西北管内の学校は未踏査であるが、県内で確認できる最古の金次郎像は、台座に「寄贈 大正年代 卒業生一同」と記される旧大川平小(今別町)である。尊徳八十年祭にあたる35(昭和10)年4月、弘前商工会は弘前公園内に金次郎像を設置。37(昭和12)年には柏木小(平川市)に設置された。
 金次郎像は「紀元二千六百年」に当たる40(昭和15)年に激増する。「皇紀二千六百年奉祝記念」の一環で設置されたのは千年小と東目屋小(弘前市)、旧小畑小(藤崎町)、金田小(平川市)、追子野木小と北陽小(黒石市)である。
 それ以降は減少に転じ、紀元2600年を契機とするブームは過ぎる。41(昭和16)年3月に新城中央小(青森市)、43(昭和18)年に旧広船小(平川市)、敗戦直後の45(昭和20)年8月に荒川小学校金浜分教室(青森市)へ設置された。
 その後、53(昭和28)年に長島小と原別小(青森市)、54(昭和29)年に小和森小(平川市)、56(昭和31)年に旧久栗坂小(青森市)、58(昭和33)年に横内小(青森市)、60(昭和35)年に浪岡南小(青森市)、63(昭和38)年に新城小、83(昭和58)年に青柳小(弘前市)、87(昭和62)年に岩木小(弘前市)、93(平成5)年に旧蔵館小(大鰐町)と続く。
 金次郎像は一定の高さをもつ台座に据えられて、来歴や寄贈者、寄贈年月日が記される。寄贈者の思い(徳目)は台座や台石の題字にうかがえる。長島小や浪岡南小など「至誠報徳」と刻む学校が多い。
 原別小と旧久栗坂小は「学問を以(もっ)て己を開き 勤労を以て徳を報ず」と詳しく記し、新城小は「勉学 勤倹 推譲」と簡潔に記している。千年小は「報徳」、東目屋小は「忠誠報徳」、旧広船小は「勤勉」と記載。横内小と東英小は「二宮尊徳先生幼時之像」と記している。そして大成小(旧第二大成小 弘前市)、西目屋小、筒井小と浜館小(青森市)は何も刻まれていない。
 ▽寄贈者と設置の契機
 金次郎像や台座の多くは個人の寄贈であり、村長、篤志家、資産家、学校長、保護者などである。また、卒業生有志、青年団、財産区、周年事業協賛会、報徳会、学校保護者会など団体の寄贈もある。
 寄贈した契機は40(昭和15)年の紀元2600年記念のほか、東目屋小「国民学校制定記念」、岩木小「二宮尊徳生誕二百年祭参列記念」、長島小・旧久栗坂小・小和森小「創立八十年記念」、旧広船小「小学校改築」などである。興味深い事例として、座像と立像の2体がある旧百沢小(弘前市岩木)や役場前に立つ金次郎像(今別町)がある。
 かつては多くの学校に置かれていた金次郎像。このほど、県内出身の五十嵐匠監督が映画「二宮金次郎」を完成させ、今後各地で公開予定という。県内に残る金次郎像を調査していると、新しく建立した学校もあるが、閉校し廃校となった学校に建つ金次郎像は、訪れる人もなく寂しくたたずみ、風化が進んでいる。
(三戸町立杉沢小中学校長・小泉 敦)

∆ページの先頭へ

ラジオ文化の始まり=107

2019/2/11 月曜日

写真 弘前放送局。弘前市大字馬喰町9番地(弘前刑務所跡地)に置かれた。鉄筋コンクリート平屋建。アンテナ鉄塔の高さは35メートル。
図1 全国放送網建設計画(1926年)。数字は送信出力(単位kW)。円は鉱石検波器による可聴予定範囲。ほぼ全国でラジオが聞こえることになるが、実測するとその範囲は図よりも狭かった(日本放送史・上をもとに筆者作成)
図2 放送局の分布(『日本放送史』年表より筆者作成)
図3 JORG受信機感度地図。電界強度を800kHzに換算したもので、聴取者が受信機を選ぶ参考資料。電界強度が弱いほど高性能の受信機が必要だった。単位mV/m(ミリボルト・メートル)(ラヂオ年鑑1938年版より筆者作成地名は当時のもの)
図4 青森県の受信加入者(実数)
図5 受信加入者数の増。1937年度末を100とした指数。放送局の開局が加入者数を増加させていることがわかる(図4・5は各年の『ラヂオ年鑑』などにより筆者作成)

 ▽全国放送網の建設
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年。東京放送局(コールサインJOAK)が開局し、同年中に大阪(JOBK)・名古屋(JOCK)も開局した。翌年には3局が合同して社団法人日本放送協会(以下協会。NHKの前身)となった。
 当初の受信機(ラジオ)は電源不要でレシーバーで聴く鉱石受信機が多かったが、次第に家族そろってスピーカーで聴ける真空管式が普及した。真空管式には電源となる乾電池か蓄電池が必要だったが、やがて電灯線を電源とする交流式が主流となった。いずれにしても受信するにはアンテナが必要だった。
 協会は全国放送網建設計画を決定した。広島・熊本・仙台・札幌・長野に10キロワット放送局、金沢・弘前・野付牛(のつけうし)(北見)に3キロワット放送局、京都・福岡・青森に演奏所(スタジオ)を建設し、ネットワーク放送を実現しようとするものだった=図1=。
 28(昭和3)年11月、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本間全国中継放送が開始された。しかし、同年3月の金融恐慌による経済悪化で、目標とした30(昭和5)年までの計画達成は困難となった。弘前・野付牛放送局、青森演奏所、一部の中継回線などの建設は中止された。弘前局の開設は29(昭和4)年の第2期全国放送網建設計画に持ち越された。
 ▽弘前放送局の開局
 本県で初めて放送電波が発信されたのは36(昭和11)年5月、青森県電気局(県電)主催の「電気知識普及展覧会」での試験放送だ。会場の青森市公会堂に協会が持ち込んだ35ワット移動放送機を使い、会期中の18日から22日まで実施された。
 開局準備を進めていた弘前放送局は37(昭和12)年10月16日から5日間、県電弘前営業所で「ラヂオ知識普及展覧会」を開催した。展覧会では放送用真空管、擬音(ぎおん)機、透光写真、図表、マイクロホンなどを展示してラジオを宣伝した。青森と同じく、35ワット移動放送機を使った試験放送も公開した。市内では明瞭な放送が受信できたという。
 県電は県人口の9割の地域に電気を供給する公営企業だった。一般家庭では電灯1灯ごとに定額を払う定額制が多く、電化製品を使う家庭は使用料を従量制によって支払った。県電は電気の利用拡大を図るため、交流式ラジオの普及を進めた。ラジオ用電灯料金は昼夜間で月額95銭、夜間のみなら47銭。ちなみに電灯は10ワットで月額52銭、60ワットで1円47銭だった(弘前営業所の場合)=35(昭和10)年9月現在=。
 ▽本放送の開始
 38(昭和13)年2月21日、弘前放送局(JORG。以下RG)が開局し本放送が開始された。午後6時、アナウンサーの「JORG、JORG。みなさまこんばんは。弘前放送局もいよいよ今日から開局します」のコールサインが流れた。市内女学校生徒の国歌斉唱、朝陽小学校児童の独唱、合唱へと番組は進行し、6時55分に終了した。
 周波数は中波の840キロヘルツ(当時の単位はキロサイクル)、出力は送信機の完成が遅れたため50ワットで開始。5月29日から300ワットとなり聴取可能地域が広がった=図3=。
 放送時間は4月から10月までは午前6時から午後10時まで、11月から翌年3月までは放送開始が6時30分だった。放送の内容は、(1)報道(気象通報、天気予報、時報、物価・経済市況、ニュースなど)(2)教養(講演、講座、子供の時間、料理献立、ラジオ体操など)(3)慰安・娯楽(和洋音楽、演芸、演劇など)―で、バラエティーに富んでいた。多くは東京・大阪制作の番組で、一部は仙台中央放送局(JOHK)制作の番組だった。RG独自の番組は少なかった。
 ▽受信機(ラジオ)使用は許可制
 ラジオ放送を聴くには、日本放送協会との受信契約と、逓信(ていしん)局の施設許可が必要だった。聴取者は受信機の代金に加え、協会には聴取料、逓信局には許可料を支払う必要があった。
 それでもラジオへの関心は高く、RG開局翌年の39(昭和14)年3月末の弘前市内の百世帯当たり加入数(契約数)は32・1件で、市民の3分の1がラジオを聴くことができた。RGから遠い地域では、感度の良い高価な受信機が必要だった。
 ▽青森放送局の開局
 41(昭和16)年4月17日、青森放送局(JOTG)が開局した。1050キロ㌹、出力は100ワットで、放送時間はRGと同じだった。日中戦争は長期戦となり、政府は国民の戦意昂揚(こうよう)にラジオを利用した。青森市公会堂で行われた記念実演会には流行歌手の岡晴夫と横山郁子が招かれた。横山は「軍国の乙女」「銃後の手」「母と征く」を歌った。題名だけでも時代の雰囲気がうかがえる。
 女学生、児童の合唱で始まったRG開局当時とは社会は大きく変化していた。RG開局の頃は第8師団が中国山西省で優勢に戦いを進めていた。しかし、TGの開局する頃には中国戦線は膠着(こうちゃく)状態となり、国家総動員体制が推進され社会の閉塞感が強まっていた。
 ▽戦争がラジオの普及を促した
 本県で受信機が急速に普及したのは、41(昭和16)年12月のアジア・太平洋戦争開戦後である。42(昭和17)年3月末には弘前市では3分の2、青森市では半数の世帯が受信機を持つようになった。「勝ち戦(いくさ)」の戦果を「大本営発表」で聞きたいという欲求もさることながら、戦争の拡大により日常化した空襲情報を早く知りたいとの思いもあったと思われる。
 普及が進まなかった八戸市や県南地方では、戦時情報・警報伝達のために42(昭和17)年に八戸臨時放送所(出力50ワット)が設置されてから加入数が急速に増加した。
 戦後、50(昭和25)年6月1日の放送法施行に伴い、社団法人日本放送協会は解散し、特殊法人日本放送協会が一切の権利義務を継承した。88(昭和63)年には弘前放送局は弘前放送支局となった。現在はJORGのコールサインは使われていない。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

∆ページの先頭へ

平舘の台場と陣屋跡=106

2019/1/28 月曜日

 

写真1 平舘台場内部
写真2 平舘陣屋跡
写真3 平舘台場跡くぼ地
写真4 平舘台場から対岸の下北半島を望む
写真5 平舘陣屋跡東側堀
写真6 奉納額
写真7 松前街道

 新しい年に入り、大河ドラマの新しいシーズンが始まっている。来る東京オリンピック2020に向け、楽しみなシーズンである。昨年の大河ドラマも大いに盛り上がって終わりを迎えた。やはり幕末は激動した時代ということもあって、人間味あふれる魅力的な人物が登場し人気である。
 ▽異国船
 話題性があって、その盛り上がりや評判は、薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)や京都府などの活発な活動があった中心地だけであろうか?
 そんなことはない。今回紹介する外ケ浜町平舘にも、時代が移り変わる頃の緊張感や背景が分かる史跡がある。県史跡「平舘台場」と町史跡「平舘陣屋跡(お仮屋)」である=写真1・2=。
 江戸時代の後半、18世紀の終わり頃から19世紀の初めにかけて、日本近海はロシア・イギリス・アメリカなどのいわゆる異国船が現れ、その往来が激しくなっていた。通商や捕鯨、薪水(たき木や水)を求めるものであったが、本州の北端の外ケ浜も例外ではなく、北方をめぐる混乱や不安の中に置かれていた。
 幕府は、鎖国政策とアジアの情勢に左右されながら打ち払い令や薪水給付の令を出すなど、取り扱いに苦慮していた(青森県史)。弘前藩も1807~08(文化4~5)年、津軽海峡に面した高台にいくつか「台場」を設置している。
 平舘が話題になったのは、47(弘化4)年に、平舘沖に異国船1艘(そう)が現れ、薪水を求めたのか、8人が上陸したことによる。その時に村人は、ぬか漬け大根を与えたとある(平舘村史)。異国人は、お漬物を食べたのであろうか? 藩は、その翌年に台場の増設を決めている。
 ▽平舘台場
 「平舘台場」は扇形をした土塁(土を盛った小丘)に囲まれ、大筒を据えた所であろう、くぼ地が7カ所(海岸に沿って陸奥湾に向けて)残されている=写真3・4=。西側(海と反対側)の南北に2カ所の出入り口もある。
 特徴はこれまでの台場と違い、平地に造られた西洋式の構造であることだろう(県指定理由)。大きさは図面から、土手高1丈(約3メートル)、土塁の上部5尺(約1・5メートル)、下部4間(約7・2メートル)、東西の幅8間(約14・4メートル)、南北の長さは直接記していないが、土塁の長さを足すと約105メートルになる。
 台場から12・3間(約22メートル)南側に番所がある。佐藤仁氏の調査報告書によると、据えられた大筒は大きいものでは7貫5百目(約28キロ)カルロン、6貫目(約22・5キロ)ホウヰツスル、小さいものでは3百目(約1キロ)野戦などとある。
 ▽平舘陣屋跡
 「平舘陣屋跡」は、49(嘉永2)年に「平舘台場」を警備するための藩士の屯所として翌年に築かれた=写真5=。7反20歩(約7000平方メートル)の敷地面積、南・東・北3方を6尺(1・8メートル)土塀で囲んでいた。北側は朝鮮矢来と呼ばれる竹垣だった。60~70人が勤め、20~25人が交代したといわれている。図面からは、鉄砲蔵や米蔵、番所などが分かる(津軽藩御台場設計絵図)。
 また、陣屋跡近くの「平舘神社」には52(嘉永5)年、藩士の奉納額が残っている。額は二十数人の名前とともに、「練習に励みますので、大砲に八幡様の力が宿るように」と祈願しているものである=写真6=。
 「平舘台場」への海沿いの旧道は、南北1・8キロに延びる松前街道(国道280号)の松が並び=写真7=、その中には町指定文化財「長寿の松」などの巨木もある。これらは古い絵図と一致し、往時の様子がよく分かる。その後幕府は開国の道へと進むが、当時もヤマセがあっただろう、その頃と同じ風が吹いている。現在では海水浴場や公園として整備されており、春頃には散策できる気候になる。待ち遠しい。
※関連施設へのアクセス
 平舘台場(JR東日本 津軽線「蟹田駅」から約17キロ 自動車25分)
 平舘陣屋跡(JR東日本 津軽線「蟹田駅」から約15キロ 自動車20分)
(外ケ浜町教育委員会社会教育課総括班長兼学芸員 駒田透)

∆ページの先頭へ

本県の誇り 戦艦陸奥=105

2019/1/14 月曜日

 

写真1 戦艦「陸奥」絵はがき。竣工当初の姿。竣工時の基準排水量3万3750トン、最大速力2528ノット。青森寄港中の記念スタンプがある(大正期・青森県史編さん資料)
写真2~4 1922(大正9)年9月19日の戦艦「陸奥」青森港入港記念の絵はがき2枚と袋スタンプは同じだが、写真1とは別のシリーズ(大正期・青森県史編さん資料)
写真5・6 1925(大正14)年9月の「帝国艦隊青森入港記念絵はがき」より、戦艦「長門」と袋。長門・陸奥は前年に屈曲煙突に改装された。既製の絵はがきを特製の袋に収めた。県史所蔵分には長門・伊勢など6枚があるが「陸奥」はない。元の所有者が手元に残したか、はがきとして実際に使用したのだろう(大正期・青森県史編さん資料)

 ▽戦艦「陸奥」の誕生
 1905(明治38)年、旧日本海軍は戦艦の名称に旧国名を付けることを定めた。「陸奥」は20(大正9)年に予算が通過した八八(はちはち)艦隊の2番艦に付けられた。八八艦隊とは、アメリカを仮想敵として、艦齢8年未満の新しい戦艦8隻と巡洋戦艦(装甲巡洋艦)8隻を中核戦力とする艦隊のことだ。
 八八艦隊で最初に計画されたのが、長門(ながと)型戦艦(長門・陸奥)で、1番艦の長門は呉(くれ)海軍工廠(こうしょう)、陸奥は横須賀(よこすか)海軍工廠で建造された。世界で初めて口径41センチの主砲8門を備えた新鋭艦だ。
 ▽軍縮で廃艦の危機
 第1次大戦後、大国は軍事予算の巨大化に直面していた。中でも日本は1921(大正10)年度の国家予算の48%(海軍32%、陸軍16%)を軍事費が占めるまでになり、軍縮は不可避だった。
 21(大正10)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約には「未完成艦は廃艦とする」との条件があり、イギリス、アメリカは建造中の陸奥の廃棄を主張した。日本側は完成艦であるとして存続を主張したが、実際は未完成だった。
 最終的に陸奥の保有は認められたが、その見返りとして日本はアメリカの戦艦3隻(1隻は廃棄)の建造変更と建造続行を、イギリスには戦艦2隻の新造を認めることになり、かえって米英に有利な内容となった。
 21(大正10)年10月に就役した陸奥は長門と交互に連合艦隊旗艦の任に当たった。41センチ級の主砲を搭載する7隻の戦艦(長門、陸奥、アメリカの戦艦3隻、イギリスの戦艦2隻)を「世界の七大戦艦」と呼ぶこともあった。
 ▽陸奥の「お国入り」
 1922(大正11)年9月19日、陸奥は第一艦隊の旗艦として初めて青森港に入港した。艦ではこれを「艦のお国入り」と呼んだ。陸奥の名を冠した日本一の戦艦を一目見ようという人々が青森港に押し寄せた。
 陸奥は接岸できなかったので、参観者は艀(はしけ)に乗せられて乗艦、参観した。19日だけでも8376人(うち学生、および団体5133人)に達し、それを1330余人の乗組員が歓迎した。弘前からは弘前中学校など中等学校の生徒が臨時列車で青森に向かった。気の毒なことに、乗組員は青森市内に伝染病が流行中とのことで上陸は許されなかった。
 ▽陸奥神社の創建
 2度目の陸奥の青森入港は1925(大正14)年9月2日だった。今度も大歓迎を受けた。参観客輸送のために東北本線は増結、奥羽本線は青森―弘前間に臨時列車を運転した。
 青森入港中の9日、岩木山神社の石田武雄宮司が碇泊(ていはく)中の陸奥に出張して艦内神社(陸奥神社)への分霊が行われた。翌日にはお礼参りとして、陸奥艦長・米内光政(よないみつまさ)海軍大佐(のちの海軍大臣)と副長以下が岩木山神社を訪れた。
 艦内神社は1920(大正9)年に戦艦伊勢(いせ)に設けられたのが最初といわれる。海軍が制度として規定したものではなく、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈るために艦員の自主的な発意で設けられた。後に内務省神社局が艦内神社(正式には奉齋(ほうさい)所)の中央には伊勢神宮の皇大神宮別大麻(べつたいま)(お札)、向かって右に艦名に由来する氏神神社(陸奥では岩木山神社)、左にその他の神社のお礼を納めるように定めた。海軍省は関与しなかった。
 陸奥神社にも26(昭和元)年12月27日に神宮別大麻が納められたが、艦員は岩木山神社の方に親しみを感じていたようだ。例祭が行われ、朝夕の礼拝が日課だった。
 ▽謎の爆沈
 徴兵制の陸軍兵は原則として郷土部隊に徴集されるが、志願制の海軍兵の出身地はさまざまである。艦員たちは、出身地にかかわらず艦名にちなむ港への「お国入り」を心待ちにしていた。陸奥には大勢の人たちが見学にやって来た。艦側でも「故郷」の人たちを迎えるため、特別の企画も練った。岩木山神社には総員が数班に分かれて、参拝隊を編成して参拝。氏子が氏神様にお詣りする雰囲気と同様だったという。
 陸奥の「お国入り」は40(昭和15)年が最後となった。翌年にはアジア・太平洋戦争が始まり、実戦配備となって「お国入り」どころではなくなったのだ。
 43(昭和18)年6月8日、陸奥は山口県の柱島錨地(はしらじまびょうち)で爆発事故を起こし沈没した。爆発は主砲の砲塔火薬庫で起きた。原因は今もって不明のままである。乗組員は1471人。艦長三好輝彦(みよしてるひこ)大佐以下1121人が死亡、生存者は350人にすぎなかった。
 陸奥の沈没は海軍を驚愕(きょうがく)させた。既に世界最大の戦艦大和型(大和・武蔵)が就役していたが、その存在は秘匿(ひとく)されていた。国民には長門・陸奥が日本を代表する戦艦だと喧伝(けんでん)していたから、陸奥の喪失は絶対に知られてはならなかった。陸奥の生存者はトラック島を経てサイパン、タラワ、マキンなどの激戦地へと送られた。生き残ると別の激戦地が待っていた。戦後作られた戦友会(陸奥生存者の会)の会員は87人だという。
 ▽「お国艦」としての陸奥
 「艦のお国入り」の中でも、陸奥のお国入りは格別のものだったようだ。明治以降の陸奥国はほぼ青森県域で、日本最大最強の戦艦陸奥は県全体の誇りとなった。
 山口県は長門国・周防(すおう)国からなり、お国艦は長門だけではない。ただし戦艦周防は日露戦争で鹵獲(ろかく)したロシア戦艦ポベータを改称したもので、長門と入れ替わるようにワシントン条約で廃棄された。以後周防を名乗る艦は建造されなかった。
 長門型の後継は世界最大の戦艦・大和型(大和・武蔵)であり、大和国つまり奈良県には海がなく「お国入り」はできないし、武蔵国は東京府(都)・埼玉県・神奈川県(一部)に分割され、お国意識は希薄だ。そもそも大和・武蔵は40(昭和15)年の就役から敗戦まで国民には存在すら知らされていなかった。だから陸奥は艦員と県民の関係が最も緊密な特別なお国艦といってもよいだろう。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5 6 7 8 ... 25