津軽の街と風景

 

郊外の歴史にも光を=125

2019/12/23 月曜日

 

中郷村にあった完成間近の黒石駅=明治末期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスの絵はがき・写真類データベースで閲覧可能)
六郷村域の高館に並ぶ屋敷群=2019(令和元)年11月2日・筆者撮影
浅瀬石城跡から見た舘神社と岩木山=2019(令和元)年11月2日・筆者撮影
牡丹平小学校の旧校舎=1960(昭和35)年頃『黒石市大観』より転載

 1954(昭和29)年7月1日、黒石町と中郷、六郷、浅瀬石、山形の4村が合併して黒石市が誕生した。中町のこみせなど中心街の街並みが有名な黒石市だが、郊外の歴史や魅力に光を当てたい。
 ▽中郷村
 中郷村は1889(明治22)年の市制・町村制施行で黒石、株梗木(ぐみのき)、東野添、野際、上目内沢、下目内沢、小屋敷、飛内、北田中、東馬場尻、西馬場尻、境松の各村が合併して誕生した。黒石町を取り囲むように存在し、黒石駅をはじめ今日の黒石市の重要な施設はほとんど中郷村域にあった。当初、黒石町にあった警察署や病院も後に中郷村域に移った。
 昭和の大合併が浮上した際、真っ先に黒石町との合併が叫ばれた。黒石町としても中郷村と合併しなければ不便を来すため、両町村の合併が黒石市誕生の鍵となった。
 中郷村域は黒石市の発展と共に大きく変貌した。特に東野添地区は都市計画や区画整理などで各地に住宅街が形成された。現在の角田、八甲、青山、あけぼの町、松原などは、70年代以降に東野添を改名して誕生した新興住宅街である。
 ▽六郷村
 六郷村は上十川、赤坂、三島、高館、竹鼻、二双子の6村が合併して成立。6村合併にちなんで村名が選ばれた。村域は現在の黒石市北部である。
 六郷村には大地主や豪農が多かった。中でも戦前に活躍した上十川の宇野清左衛門と勇作は、親子で貴族院議員を務めた大地主であり、資産家として数多くの要職に就いたことで知られる。
 上十川の宇野家の他、特に高館には大平家や木立家など、六郷村時代に村の幹部職を務めた家系の立派な屋敷が数多く存在する。高い塀に取り囲まれた大きな母屋と数多くの蔵、整備された庭園など通りからうかがえる屋敷群は見応えがある。
 村の東端に位置する法峠は、1928(昭和3)年に弘前新聞が実施した「津軽十景」で3位になった景勝地。間近に日蓮宗僧侶の日持が開いた法峠寺がある。現在、上十川から法峠を経て酸ケ湯に至る「幻の県道」探索ハイキングが毎年実施されている。その際には六郷村域の屋敷群も鑑賞してもらえればと思う。
 ▽浅瀬石村
 浅瀬石村は浅瀬石川の南側に広がる村で、中川、浅瀬石、高賀野(こがの)が合併して成立した。村南部の高賀野には浅瀬石城跡がある。津軽為信の津軽統一を支えた千徳家が城主だったが、後に津軽家によって滅ぼされた。
 69(昭和44)年に結成された浅瀬石地区史蹟保存会は、同年中に城跡や歴代城主らを祭る舘神社(たてがみしゃ)を建立した。75(昭和50)年には落城時に残ったとされる一本杉の史跡指定に尽力した。城跡周辺に大看板を設置し、毎年草取りをするなど、城跡の宣伝と維持管理を継続している。
 民謡の「津軽じょんから節」は、浅瀬石城の落城から生まれたと言われる。浅瀬石地区周辺では「じょんからのふる里」を宣伝している。高賀野から石名坂へ向かう途中、浅瀬石川に架かる上川原橋は「じょうがわらばし」と読み、それが「じょんから」のゆえんになったという。一本杉も「じょんから杉」と称すことがあるが、現在の一本杉は東北自動車道の建設に際し、現在の場所に移植されたものだ。
 浅瀬石城跡周辺からの眺めは美しく、特に岩木山の眺望は素晴らしい。浅瀬石川の河原から眺める周辺の景色も美しい。いずれも黒石市が定める「くろいし景観資産」に指定できる光景である。
 ▽山形村
 山形村は牡丹平、石名坂、豊岡、花巻、下山形、上山形、袋、温湯、南中野、大川原、板留、二庄内、沖浦の各村が合併してできた文字通りの山村である。1平方キロに満たない小さな黒石町が210平方キロを超す大きな黒石市になった最大の要因は、160平方キロ近くあった山形村と合併したからである。
 山形村を語る上で山形温泉郷(現黒石温泉郷)の歴史は欠かせない。本連載で温泉郷の歴史を紹介したが、温泉郷は観光地である前に、現地の人たちにとって生活の場であることを忘れがちだ。
 山形村域には温湯、落合、板留の各温泉近くに東英小中学校があり、二庄内、沖浦両温泉近くに沖浦小中学校があった。街場に位置し最も大きかった牡丹平小学校をはじめ、山中には大川原小学校、開拓集落には厚目内小中学校があった。分校を入れれば、その数はもっと多い。それだけ多くの人々が生活し、子どもたちの数も多かったのだ。彼らは観光を主たる収入源にしているのではなく、元から各集落で生活してきたのである。
 しかし、浅瀬石川ダムの建設や過疎化に伴い、山形村域にあった学校の多くは閉校ないし統廃合されていった。2020(令和2)年4月から、牡丹平小学校は黒石東、追子野木、浅瀬石の各小学校と統合し、新たに黒石東小学校となる。同じく中郷、六郷両村域でも、黒石、中郷、北陽の各小学校が統合し、新たに黒石小学校となる。
 ▽学校資料
 学校、特に小学校が地域共同体の維持に大切であることは言うまでもない。廃校の利活用と小学校に代わる地域の拠点を真剣に考えねばならない時代が来たのである。
 廃校の利活用に際し、沿革史や学校運営に関する諸資料と、子どもたちの成長を記した学校文集や写真アルバムを廃棄せずに保存し、地域作りのために活用してほしい。昭和の大合併前に存在した町村の歴史を知る資料として、学校に残されている文集や写真類は大変役に立つからである。
 入学式に始まり、運動会や文化祭、そして卒業式に至るまでの学校の行事は、小さな町や村にとって大きな出来事である。学校の記憶は学校に通っていた子ども時分よりも、親世代になって年齢を重ねるほど、かけがえのない思い出となり宝物になるはずだ。
 学校のあった地区の公民館などで資料が保存活用できれば望ましいが、黒石市では図書館新設の動きがある。学校資料を保存し、市民が利用できる仕組みがあれば新設図書館の目玉になろう。郷土資料を豊富に所蔵することは市町村図書館の利点になる。廃校舎をはじめ図書館や公民館を、地域の人々が集まる拠点に位置づけることも有効な選択肢であると思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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国民学校と長い戦争=124

2019/12/2 月曜日

 

1943年の中学校令により高等学校は2年制、中学校は4年制に短縮された。
写真1 日米開戦1周年「大詔奉戴日」の授業風景。金木町(現五所川原市)の金木国民学校=1942(昭和17)年『五所川原・つがる・西北津軽の昭和』いき出版、2018年より転載
写真2 尾上町(現平川市)の金(かな)田(た)国民学校女子学童たちの弓道練習。国民学校では武道が正課とされ、女子は弓道や薙刀(なぎなた)を習った。足元には学校菜園の畑が見える=1943(昭和18)年『弘前・黒石・平川の昭和』いき出版、2014年より転載
写真3 鶴田町の水元国民学校高等科児童。水元校では校地の一部を割いて学校農園を設けた=1941~45(昭和16~20)年頃『五所川原・つがる・西北津軽の昭和』いき出版、2018年より転載

 ▽臨時ニュース
 1941(昭和16)年12月8日、月曜日の午前7時、ラジオからは時報に続き、臨時ニュースを告げるチャイムが流れた。アナウンサーの声の調子はいつもと違っていた。
 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋上においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」
 大本営は戦時または事変に設置される最高統帥(とうすい)機関で、戦況の公式発表は大本営が行った。家庭にラジオのある子どもたちは、この放送を聞いて登校した。ラジオ加入者数は弘前市で世帯数の6割強、青森市でも5割弱に達していた。ほとんどの学校にはラジオがあった。多くの学校では、担任が戦争について話したり、校長が児童を集めて勝利に向けた訓話をしたりした。
 戦争はこの日から始まった訳ではない。37(昭和12)年以来、中国との戦争が続いていて、その戦争がアメリカ・イギリスとの戦争に拡大したのだ。日中戦争が始まると、弘前で編成された第8師団、第36師団などが続々と中国大陸に出動。小学生は出征部隊の歓送迎、勤労奉仕などに駆り出され、学校は戦死した兵士の市町村葬の会場ともなっていた。すでに子どもたちの周囲には戦争があふれていた。
 ▽小学校から国民学校へ
 41(昭和16)年の4月から小学校は国民学校と改称されていた。初等科6年(小学校尋常科に相当=義務教育)と高等科2年。国民学校は「皇国の道」に則(のっと)って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成をなすことを目的としたもので、国家主義的な教育が徹底されることになった。
 翌年1月から毎月8日は「大詔奉戴(たいしようほうたい)日」とされた。天皇の対英米開戦の詔書(しょうしょ)が出された12月8日を忘れず、戦争目的完遂を目指そうという日だ。学校でも詔書奉読、校長講話、国旗掲揚などの行事があった。
 開戦1年目の大詔奉戴日の教室を写した写真がある(写真1)。日本の勝利が続き、太平洋は「大日本洋」となったとの説明だ。しかし、6月のミッドウエー海戦で日本海軍は航空母艦4隻を失い、アメリカ軍の反攻が始まっていた。
 海戦の敗北以後、大本営発表は事実を伝えなくなった。先生も子どもたちも勝利を信じていた。
 ▽労働力も食糧も足りなかった
 日本が対英米戦を決意したのは、41(昭和16)年8月にアメリカが日本に対して石油輸出全面禁止などの経済制裁を強めたことにある。これは日本が仏印・フランス領インドシナ(現ベトナム・ラオス・カンボジア)の南部に進駐したことへの対抗措置だった。日本は進駐の中止ではなく、戦争の道を選択した。英米との戦いは、資源の乏しい日本が資源を確保するための「自存自衛」のやむを得ない戦争だと政府は説明した。
 しかし、足りなかったのは資源だけではない。長い戦争で労働力と食糧の欠乏が深刻になった。中等学校(中学校・高等女学校・農業学校など)以上の学生・生徒は学徒勤労動員されていた。県内の中等学校生徒の動員先は、大湊(むつ市)の海軍工廠(こうしょう)、県内や神奈川県の軍需工場などだった。残った働き手は国民学校の児童だけになった。
 ついに国民学校高等科の勤労動員が始まった。44(昭和19)年5月、軍需工場の増えた青森市では、県の第一陣として浦町国民学校高等科女子300人が缶詰工場、航空機関連工場などに通年動員された。鯵ケ沢町の西海国民学校では前年から田植え、造林、薬草採集、水産物の乾燥作業などの勤労奉仕をしていたから、そのまま農林水産関係に動員されたのだろう。
 国民学校は県からヒマ(トウゴマ)の栽培も指示された。油(ヒマシ油)を航空機エンジンの潤滑油として使うためだった。食糧どころか、軍事物資まで子どもたちに依存したのだ。
 ▽食糧増産も国民学校頼み
 45(昭和20)年3月には国民学校初等科以外の授業は4月から1年間停止と決まった。
 5月。県は船沢村(弘前市)の開墾地の一部の農耕地を弘前市内各国民学校に割り当てた。県は(1)児童1人当たり10本の南瓜(かぼちゃ)を植え(2)1本当たり1貫(3・75キログラム)の収穫を目標としてその半量を供出すること(3)土地と種子は各自用意することと通牒(つうちょう)した。子どもたち自身が用意した種子で南瓜を作らせ、その半分を取り上げるという虫のよい政策だ。
 弘前市内各国民学校5、6年の男女児童は片道10キロも離れた開墾地まで隊列を組んで行進し、農作業に取り組んだ。食糧不足と重労働で倒れる児童もあった。
 8月15日も子どもたちは働いていた。開墾地からの帰り道、敗戦を知った先生も子どもたちも途方に暮れてただ座り込むしかなかったという。
 戦後、収穫期に子どもたちが開墾地に行ってみると、南瓜は跡形もなく消えていた。
 47(昭和22)年3月31日、日本国憲法に基づく教育基本法と学校教育法が公布された。4月1日から国民学校に代わり六三制(小学校6年・新制中学校3年)の9年間の義務教育が始まった。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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中泊の「大宅」宮越家=123

2019/11/18 月曜日

 

写真1 宮越家主屋=1912(大正元)年・中泊町博物館提供
写真2 宮越正治夫妻と安達謙蔵逓信大臣=1926(大正15)年・中泊町博物館提供
写真3 宮越家離れの庭園=2018(平成30)年・筆者撮影
写真4 涼み座敷ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供
写真5 円窓ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供

 ▽豪農から地主へ
 宮越(みやこし)家は中泊町尾別(おっぺつ)に所在する旧家である。先祖は加賀国(石川県)江沼(えぬま)郡宮(みや)ノ越(こし)の出身で、江戸時代前期、金木組尾別村(後の内潟(うちがた)村)に移住したと伝えられる。当主は代々七兵衛(しちべえ)を襲名し、庄屋を務めた。豪農として知られ、1833(天保4)年に弘前藩から200両の御用金を命じられたほか、70(明治3)年に弘前藩士の救済措置として実施された「余田買上げ(帰田法)」の際には、37町歩に及ぶ田畑を提供した。
 半ば強制的に土地を取り上げられたことにより、近世豪農の多くが家勢を削(そ)がれる中、宮越家においては中興の祖と謳(うた)われる8代目要三郎(ようざぶろう)を中心に立て直しを図り、以前にも増して興隆の時代を迎えることになる。
 例えば、97(明治30)年の地価換算に基づいた北津軽郡の大地主として1、2位だった五所川原村の佐々木喜太郎(ささききたろう)と嘉太郎(かたろう)(布嘉(ぬのか))、4位だった金木村の津嶋惣助(つしまそうすけ)(太宰治の曽祖父)らとともに、内潟村の宮越要三郎が8位に名を連ねている(『東奥日報』1897年4月15日)。
 要三郎の子正治(まさはる)の代も同様で、1924(大正13)年の津軽地方における100町歩以上地主一覧には、五所川原町の佐々木嘉太郎、金木町の津島文治(つしまぶんじ)(太宰治の兄)、黒石町の加藤宇兵衛(かとううへえ)(金平成園(かねひらなりえん)施主)らとともに、内潟村の宮越正治の名が見える(『青森県農地改革史』)。近代地主へと成長した宮越家の姿を垣間見ることができよう。
 ▽黒塀地主「宮越家」
 津軽地方の近代地主には、「黒塀(くろべい)地主」と「レンガ塀(べい)地主」の2類型がみられるという(工藤睦男「津軽地方における地主制の発達とその特色」『コローキアム太宰治論』)。前者は、近世以来の長い伝統と歴史を有するいわゆる「大宅(おおやけ)」で、一族や地域の精神的支柱である。
 後者は、商業・金融資本を基に急速に土地の集積を進め、自らの威容を誇るため、あるいは小作争議から身を守るために高いレンガ塀で屋敷を囲んだ新興地主である。レンガ塀地主の多くが、戦後の農地改革などを経て没落する一方、黒塀地主は、土地を失い黒塀が朽ちかけても、今なお隠然たる影響力を保持しているという。
 宮越家は、黒塀地主の典型といってよいであろう。黒塀を巡らせた外観もさることながら、地域と一体となって歩んできた歴史がそれを物語っている。例えば1739(元文4)年七兵衛は現在の神明宮(しんめいぐう)に寺子屋を開設し、飯米などの支給も行いながら村内の子弟に読み書きそろばんを習わせたとされる。
 1881(明治14)年に尾別小学校が開設される際は、要三郎が学校用地を無償で提供したほか、校舎新築費・学校運営費をはじめ、教員の給料まで助成した。その後も代々にわたって、校舎建設や備品購入に際して後援を行うなど、宮越家は、物心両面から地域教育を支え続けてきたのである。
 宮越家は芸術文化の良き理解者でもあった。9代目当主の正治は、漢詩に秀で「機山(きざん)」と号した。詩文も能(よ)くした書家の奥田抱生(おくだほうせい)に師事し、長勝寺(ちょうしょうじ)(弘前市)住職らとも漢詩を介した交友があった。夫人イハは、五所川原湊の名門、衆議院議員平山為之助(ひらやまためのすけ)の実妹である。女流歌人として知られ、「麗子(れいこ)」と号した。旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄(やとみはまお)に師事するとともに、他地域の歌人と交流して作歌の道を究(きわ)めた。
 ▽宮越家離れと庭園
 宮越家離れ「詩夢庵(しむあん)」は、1920(大正9)年に宮越正治が、イハの誕生日の贈り物として設計・建築した瀟洒(しょうしゃ)な木造平屋建て住宅である。比較的シンプルな外装と比べ、建具や調度は贅(ぜい)が凝らされている。襖(ふすま)絵は狩野山楽(かのうさんらく)や岩佐又兵衛(いわさまたべえ)(あるいは土佐光起(とさみつおき)とも)作画と伝えられるほか、床板・天井・欄間などにも高級な素材・技法が用いられている。
 中でも目を引くのが、わが国のステンドグラスのパイオニア、小川三知(おがわさんち)制作のステンドグラス作品群である。「涼(すず)み座敷(ざしき)」の窓を飾る大型作品にはアジサイとコブシ、「円窓(まるまど)」には十三湖を思わせる景観、「風呂」にはアヤメとカワヤナギ・カワセミが配される。
 これらの作品は、当時のデザイン潮流を意識しながらも、借景・障子・余白・植物・山水など「和」の意匠を巧みに取り入れ、技巧的なガラス技術の粋が盛り込まれており、三知の最高傑作として評価されている。
 庭園「静川園(せいせんえん)」は、26(大正15)年に逓信大臣安達謙蔵(あだちけんぞう)が訪問した名園としても知られる。「離れ」を囲むように、「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)庭園(明治頃)」「枯山水(かれさんすい)庭園(大正)」「池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園(大正)」の3時期3種類の庭園が確認され、古今の庭園を巧みに融合させながら形成された複合庭園と評価される。
 木彫が施された優美な建築物である「達磨堂(だるまどう)」は、池泉庭園の築山(つきやま)奥に位置する。長勝寺(弘前市)将来とされる「厨子(ずし)」および「達磨像(だるまぞう)」など、一級の美術品が安置されている。
 ▽保存整備と一般公開
 中泊町は宮越家の協力を得ながら、離れ・庭園の調査・保存整備を進めており、築100周年を迎える2020(令和2)年秋に限定公開を行う予定だ。大正浪漫(ろまん)溢(あふ)れる遺産との邂逅(かいこう)まで、今しばらくお待ちいただければ幸いである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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「軍都」から「学都」へ=122

2019/10/28 月曜日

 

写真1 野砲兵第8連隊の営門。今も第三中学校の正面南側に門柱が残っている=明治末期~大正初期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスで閲覧可能)
写真2 富野町時代の旧弘前市立図書館。門前に今では殆ど見かけられなくなった行商人の姿がある=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真3 文京歩道橋から見た桝形の交差点。右上に富野町時代の旧弘前市立図書館が見える=1980(昭和55)年・藤田本太郎さん撮影弘前の散歩みち北方新社、1996年より転載
写真4 騎兵第8連隊の覆馬場を使用していた生活協同組合コープあおもり松原店=2013(平成25)年9月22日・筆者撮影
写真5 覆馬場の煉瓦塀と説明板=2019(令和元)年9月28日・筆者撮影

 ▽師団通り
 土手町から弘前大学、松原方面へ向かう県道127号は、桝形(ますがた)を境に北側が富田大通り、南側が松原通りと称している。しかし、戦前までは師団通りとも呼ばれていた。沿道に第8師団の関係施設が並んでいたからである。
 戦前まで第8師団の関連施設が集中し、軍都と称されてきた弘前市は、敗戦を経て弘前大学を中心に多数の学校が集まる学都として生まれ変わった。師団司令部の敷地は弘前大学農学部(現農学生命科学部)となり、他の師団関係施設も学校の敷地となった。
 桝形の南東に柴田学園高等学校と弘前市立第三中学校が東西に並ぶ。両校の敷地には戦前まで野砲兵第8連隊があった。対岸に位置する弘前市立文京小学校の敷地には、陸軍倉庫と衛戌(えいじゅ)監獄があった。そこから少し南の県立弘前実業高等学校の敷地には、戦前まで歩兵第31連隊があった。桝形の南方に集中する学校施設は、軍都から学都となった弘前市の歴史を象徴する場所なのである。
 第3中学校正門の南側に「野砲兵第八聯隊之跡」と題する石碑がある。1968(昭和43)年に、明治100年と弘前市制施行80年を記念して連隊関係者が建立したものだ。石碑の後ろには連隊時代の営門が残っている。軍都時代を物語る貴重な遺構である。
 ▽旧弘前市立図書館
 弘前大学理工学部と向かい合うように弘前富田郵便局がある。かつて郵便局裏側の住宅街には旧弘前市立図書館の建物があった。06(明治39)年に堀江佐吉の設計と斎藤主(つかさ)らの資金によって、当時の東奥義塾構内(現在の追手門広場)に建てられたものだ。
 図書館は日露戦争の戦勝記念として弘前市に寄付された。31(昭和6)年、東奥義塾校舎の拡張に伴い民間に払い下げられ、富野町に移された。移転に伴い図書館ではなくなったので、建物が実質的に図書館として利用されたのはわずか25年間である。
 富野町に移った旧図書館は、歴代の所有者が下宿や喫茶店として利用してきた。大幅に改築されず、ほぼ原形をとどめ続けてきたことは、この建物が大切にされてきたことを物語っていよう。
 『富野町会史』は旧図書館に関する項目を設け、所有者の思いや記憶を掲載している。旧図書館は富野町に60年近く建っていた。図書館時代の倍以上の時間である。戦前までは畑や空き地の多かった富野町で、3階建ての西洋風建築は大変目立ったと思う。富野町会が建物に相当な敬意を払っていたことは、町会史の記述からうかがえる。
 90(平成2)年、弘前市制施行100周年の記念事業に際し、旧図書館は現在地へと移築復元された。それから30年近く経過したが、現時点で図書館時代を合わせても富野町時代の方が長い。今後、富野町時代の記録を掘り起こす必要があるだろう。
 ▽桝形と文京歩道橋
 桝形は藩政時代の歴史的遺構の一つだが、弘前市内で地名として残され、最も有名なのが弘前大学の南側に位置する富田の桝形である。東西南北へと向かうロータリー的な役割を担っており、交通の要所である。
 67(昭和42)年12月、桝形のすぐ南側の交差点沿いに、第三中学校と文京小学校をつなぐ形で横断歩道橋が設けられた。文京歩道橋と称され、弘前市で最初の歩道橋である。
 文京歩道橋は、青森市の浦町小学校前や八戸市の八戸小学校前に設置された歩道橋と並び、県内では最も早い段階で設置された歩道橋の一つだった。ちなみに浦町小学校前の歩道橋は撤去されて今はない。八戸小学校前の歩道橋は「すずかけのはし」と称され現役だが、小学校自体は移転している。
 ▽遺構の維持活用
 実業高校の南側にも、かつて第8師団の施設があった。現在の生活協同組合コープあおもり松原店の場所にあった騎兵第8連隊である。ここには連隊時代の貴重な建物だった覆馬場(おおいばば)が最近まで残っていた。軍馬の訓練や乗馬の練習のために使われた施設で、煉瓦(れんが)塀の重厚な建物だった。
 建物は生協の松原店が実際に店舗として使用していたが、建築から100年以上が経過。老朽化のために2016(平成28)年に解体された。軍都時代の面影を残す建物が消えたことは非常に残念だが、老朽化した建物の維持には莫大(ばくだい)な費用がかかる。安全面の配慮も必要だ。個人資産の場合、権利関係などで非常に難しい問題も生じてくる。
 それでも生協と有志の協力により、煉瓦塀の一部が説明板と共に敷地内に保存された。看板には覆馬場時代の写真も掲載され、往時をしのぶことができる。新築された生協の松原店も、建物の外壁を煉瓦塀の色にするなど、貴重な遺構に相応の配慮をしている。
 文化財や歴史的遺構を残すには相応の費用と人員が必要である。限られた予算と人員の中でできることには、おのずと制限がある。歴史的遺構の維持や活用には、行政の関与だけでなく、関係者や地域住民の配慮と協力、そして互いに歩み寄る姿勢が求められよう。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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津軽藩特産のウルシ=121

2019/10/14 月曜日

 

写真1 現西目屋村で漆守を務めた三上家の漆木実数書上帳。1806(文化3)年のウルシ栽培奨励策を受けて作成されたもの(県史編さん収集文書)
写真2 現在の弘前市大沢周辺の漆山絵図。山や川沿いに植えたウルシの本数、自生する本数など書き上げている。幕末期の絵図の写し(県史編さん収集文書)
写真3 本郷村(現青森市浪岡)で漆守を勤めた鎌田家の屋敷。同家は1806(文化3)年に任命された漆守の一人で苗字帯刀、郷士格を許された(明治末期・弘前市石場旅館提供)
写真4 中南地域県民局で実施したウルシ掻き体験ツアーの様子。弘前市岩木地区の弘前市有ウルシ林にて(弘前市教育委員会提供)

 津軽地方の丘陵地帯にはリンゴ畑が広がる。リンゴが導入されたのは明治以降のことであるが、それ以前、弘前藩の数少ない特産物として丘陵などに植え付けが奨励されたのはウルシだった(漆の木はウルシ、樹液は漆と表記する)。
 ▽藩政初期からウルシを栽培
 漆は江戸時代には武具や馬具、あるいは寺社など建築の塗料として利用され、ウルシの実はろうそくの原料となった。藩政初期から盛んに栽培され、寛永年間(1624~)に上方の技術を導入したウルシ栽培が始まったという。
 「漆新田」「漆かき新田」と呼ばれる、ウルシの増殖に伴う移住者の集落も各地に造られた。このような漆新田は、貞享検地(84~87)の頃には、93カ村・766軒に及び、藩内のウルシの総数は32万7158本に達した。
 分布としては横内組(現青森市)、大鰐組(現大鰐町など)、駒越組(現弘前市)など比較的面積が広い山間部に多く、岩木川・平川流域の水田地方には栽培が少ない。後に津軽塗と呼ばれるようになる唐塗りの技術が若狭から導入されたのもこの頃だった。
 ▽漆守制度の導入
 18世紀後半になると天明の飢饉(ききん)の影響もあり、ウルシの栽培は低調になった。1805(文化2)年には藩内のウルシの総数は20万1000本に減少している。そこで藩は飢饉にも強い商品作物としてウルシに目を付け、生産体制と集荷体制の強化を図った。
 領内にウルシ栽培のための農書「漆木家伝書」を配布し、06(文化3)年には漆守制度を導入し、領内の豪農100人に「漆守」として1人あたり3万本のウルシ栽培を請け負わせ、合計で300万本の増殖を図ろうとした。江戸時代、ウルシ栽培の先進地だった会津藩でも最盛期(18世紀中頃)で180万本だったというから、相当な数である。
 漆守にはウルシの個人所有を認め、樹液のうち藩に2割を上納、残りは藩が買い上げることにし、本数に比例して漆生産の利潤が本人のものになる仕組みだった。また栽培経費の見返りとして、免税地も与えられた。このような努力の結果、18(文政元年)には、ウルシは148万本までに増加している。
 一方、地元の掻子(かきこ)(漆掻き職人)の育成も図られた。12(文化9)年には藩士を会津や上方方面に派遣し、技術指導のため掻子の招聘(しょうへい)や道具の購入などをさせている。その後も越後や庄内などから掻子を雇用する体制が続いたが、地域によっては、育成した地域の掻子が活躍した。また、中央市場への漆の販路拡大を目指して、文化年間(04~18)には三都の市場調査が行われ、試験的な販売が行われている。
 ▽ウルシ栽培の試行錯誤
 ウルシは一般的な農作物と違い、生育して樹液が採れるようになるまで10~15年はかかる。加えて、藩による買い上げ価格が安かったため、漆守たちの生産意欲は決して高いとは言えなかった。
 藩が目標とした他領への販売も順調にいかなかった。西国では蝋(ろう)の原料として漆に代わって安価な櫨蝋(はぜろう)の需要が増しており、会津藩や米沢藩といった古くから漆を特産としていた諸藩でも苦戦を強いられていた。
 中央の市場から遠い弘前藩は販路拡大が難しかった。漆守からの買い入れ価格が安いのも、他領に販売する上ではやむを得なかったが、負担増による豪農層の抵抗を招くことになった。
 さらに追い打ちを掛けたのが天保の飢饉(32~38)である。米も採れない状況では漆守たちもウルシを顧みる余裕はなく、さらに飢饉で食糧に事欠いた農民が山を荒らし、多くのウルシが枯死した。
 52(嘉永5)年の藩の調査では、漆山を勝手に杉山や畑に転換した事例や、書面上だけで場所不明になった事例などが上げられていた。漆を他藩に販売するどころか、逆に他藩から購入しなければならない事態になっていた。
 ▽幕末期に再度の奨励策
 藩はこれに懲りず50(嘉永3年)には、ウルシの900万本増殖計画というさらに遠大な計画を打ち出した。これに伴い、制度的改革が行われた。漆守は漆役と改称。世襲制度を廃止して相続の際は査定が行われることになった。
 漆役を統括する役職として「漆大仕立」が設けられ、中層農民についても「漆小仕立」という漆役の見習的役を設けてウルシを栽培させるなど、きめ細かい改革がなされた。植え付け数を増加させるため、荒畑など生産力が極めて低い畑や、河原、あぜ道など有効活用されていなかった土地にも積極的に植えるよう指示されている。
 300万本でさえ膨大な数であるが、900万本増殖計画がどれだけ現実性があったか不明であるが、少なくとも各代官所に報告される数字は確実に増えている。例えば、赤石組(現鯵ケ沢町)の場合、18(文政元)年に5万8000本余だったウルシが、61(文久元)年には146万2000本に達している(『鯵ケ沢町史』2)。
 しかし、この数値には相当数の苗木や幼木が含まれていると思われる。実際に樹液や実を採取できる成木は一握りだっただろう。
 ウルシが十分に生育する前に明治維新を迎えた。維新後も弘前藩は引き続きウルシを楮(こうぞ)や桑と並んで生産を奨励すべき樹木の一つに掲げているが、一方では漆役の栽培の不徹底さを指摘しており、ウルシ栽培を巡る藩と農民の認識の違いは廃藩まで続いた。
 ▽その後のウルシ栽培
 明治期には安価な外国産の漆が輸入されるようになり、藩からの奨励もなくなったウルシ栽培は急速に衰退していった。漆役たちがウルシを植え付けた漆山(藩政時代は私有地同様に扱うのが認められていた)は地租改正の結果、多くが官有地に編入された。
 旧浪岡町で漆役を勤めた鎌田家は、1904(明治37年)に旧漆山の下げ戻しに成功した。しかし、かつて3万本のウルシを植え付けた山は、200本あまりに減少していた。
 現在、国産の漆の占める割合は3%足らずである(「漆の國浄法寺」ホームページ)。津軽塗を特産とする本県津軽地方でもウルシはほとんど栽培されていなかった。しかし、近年、県の中南地域県民局では漆の安定供給に向けた「うるしの森づくり」の推進に取り組んでいる。また、今年の11月15~17日には弘前市で「漆サミット」が開かれる予定である。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹 中野渡一耕)

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