津軽の街と風景

 

板柳から縄文の遺跡=86

2018/2/26 月曜日

 

土井(1)遺跡出土籃胎漆器のX線CT画像(弘前大学人文学部北日本考古学研究センター提供)
土井(1)遺跡出土品(関根達人弘前大学教授撮影)

 ▽りんごの里
 板柳町は、1876(明治9)年にリンゴが植えられて以来、リンゴとともに歩んできた町である。町は本県最大の平野である津軽平野の南部に位置し、そのほとんどが平坦(へいたん)地で、農産物が栽培されている。
 今から約9000年前以降、約7000年前をピークに地球規模で温暖化し、海面が上昇する縄文海進が起こる。十三湖は五所川原市付近まで拡大し、内湾化した。板柳町付近は岩木川の河口近くとなり、河川が頻繁に流路を変えることで後背湿地と自然堤防が造られた。その後、徐々に海面が低くなり十三湖も縮小する。
 岩木川は板柳町より上流の藤崎町付近で浅瀬石川、平川と合流し十三湖に注ぐが、津軽平野のほぼ中央を蛇行しながら流れるため、たびたび水害をもたらした。一方で上流から栄養豊かな土壌が供給され、コメやリンゴなど農産物の栽培に適した環境がつくられた。
 ▽土井(1)遺跡
 土井(1)遺跡は板柳町役場から北西へ約200メートル、岩木川の右岸からは東へ約100メートルの自然堤防上に立地する。遺跡は現在水田が造られている高さより2メートルほど高い約18メートルにある。
 1961(昭和36)年、町の上水道貯水槽設置工事に伴い、現在の地表面2メートル下より縄文時代後期末から晩期の遺物が出土したことで、遺跡の存在が明らかになった。その後、66(昭和41)年と70(昭和45)年に町史編さんに伴って村越潔氏、工藤泰博氏らが中心となって学術調査が行われ、72(昭和47)年には貯水槽増設工事に伴う緊急発掘調査が行われた。
 調査により、縄文時代後期から晩期の遺物に含まれる層が、何層も重なっていることが明らかになった。さらに、地下水によって残りにくい木製品や漆器なども保存されていた。
 3回の発掘調査で土器約360個体、土偶31点、石器・石製品約470点に加えて、籃胎(らんたい)漆器16点、赤漆塗りの櫛(くし)9点、赤漆塗りの腕輪1点も出土した。出土遺物の量と質では、同じ時期の亀ケ岡遺跡や是川中居遺跡と肩を並べる。 
 ▽出土遺物の再検討
 近年、考古学でも科学的分析が飛躍的に進歩している。出土した籃胎漆器、赤漆塗り櫛、赤漆塗り腕輪などについて、弘前大学人文学部の片岡太郎講師と上條信彦准教授が中心となってX線CT撮影、顔料などの粉末のX線回折、蛍光X線分析などが行われた。
 その結果、籃胎漆器・赤漆塗り櫛の内部構造や顔料に使われた鉱物をはじめ、籠(かご)の素材などを明らかにすることができた。籃胎漆器はござ目編みや網(あ)代(じろ)編みなど、現代でも編まれている方法で作られていた。櫛は髪をすく部分である歯と持ち手の部分を分けて作っており、紐(ひも)状のもので結ばれているものもあった。
 顔料はベンガラと呼ばれる赤鉄鉱と辰砂(しんしゃ)と呼ばれる水銀朱が使われていた。赤鉄鉱は今別町赤根沢に産地があり、そこから運ばれた可能性がある。一方、水銀朱は県内に産地がなく、産地がある北海道や秋田県などの県外からもたらされた可能性がある。
 籃胎漆器が乾燥した状態で長く保存されてきたため、籠の素材が消失したものもあったが、ごくわずかに残っていた組織で同定された。笹竹類で作られたものが2点、イラクサ科で作られたものが1点だった。縄文時代の日本列島に竹は分布しておらず、どのような植物で作られたかの解明は今後の課題になっている。
 ▽蘇(よみがえ)る遺物
 縄文時代の籃胎漆器は、全国でも十数点と出土例が少ないが、当時、どのように漆や胎となる植物が利用されたかを知る重要な手がかりである。一緒に出土した土器から年代を知ることができ、亀ケ岡遺跡や是川遺跡と比較できる。縄文時代晩期の物作りを知る
貴重な遺跡である。またこれらの出土品は発掘から数十年を経て、最新の科学分析により、新たな知見を得ることができた。
 弘前大学人文学部では土井(1)遺跡出土品の保存修復も行い、一部は県立郷土館や板柳町郷土資料館で展示されている。ぜひ足を運んで見ていただきたい。
 また、縄文時代の漆や植物利用については、3月に刊行される予定の『青森県史通史編1』にも書かれている。
(青森県県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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「八甲田山」大ヒット=85

2018/2/12 月曜日

 

映画の9割は本県内で撮影された。残りは新潟県新発田市ロケと東京・東宝スタジオのセットなど、県外で撮影。。橋本忍映画「八甲田山」の世界などから作成
先行公開を実施した青森市の映画館「ミラノ」(左端の建物)。県庁近くの銀映会館内に「ミラノ」と「みゆき座」と2つの映画館があった。1984(昭和59)年12月26日・青森県史編さん資料
「銀映ニュース」(当時の映画広告・部分)。前売券は全国で150万枚も売れた。男性向きと思われがちだが、女性客が約4割を占めた=1977(昭和52)年5月20日発行・竹内義人さん提供
1977(昭和52)年5月29日発行の陸奥新報掲載

 ▽現地ロケを決断
 新田次郎(にったじろう)のベストセラー小説『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』(以下『彷徨』)は、1977(昭和52)年に映画化された。それまでの日本映画の記録を破る観客動員500万人、配給収入25億円(制作費は7億円)の空前のヒットとなった。
 『彷徨』に注目したのは「砂の器」を撮った野村芳太郎(のむらよしたろう)監督である。「砂の器」は黒澤明(くろさわあきら)の名作「七人の侍」や「日本沈没」などの脚本を書いた橋本忍(はしもとしのぶ)が設立した橋本プロの第1回作品である。橋本は『彷徨』の映画化を決め、新田から映画化権を得た。監督には「日本沈没」の森谷司郎(もりやしろう)を選んだ。
 74(昭和49)年2月、「砂の器」の親子が冬の日本海岸を旅するシーンの撮影が龍飛崎から始まった。橋本と森谷は撮影隊と別れ、八甲田をロケハンした。橋本は群馬県や長野県など、東京に近い雪山で撮影するつもりでいた。春になってから実際に2つの行軍隊のコースを1週間程かけて道順通りに歩いてみた。フィルムに映るのは空気である、何年かけても現地で撮影しなければ嘘になる。橋本は長期の撮影を覚悟した。
 ▽小説と映画
 小説と映画では表現方法がまるで違う。『彷徨』は歩兵第31連隊の徳島隊(モデルは福島隊)の行軍を、弘前から三本木(十和田市)を経て増沢に着くまで一気に描いた。そこで時間を戻し、第5連隊神田隊(モデルは神成隊)の青森出発から遭難に至る経過を追ってゆく。
 読者は第31連隊(徳島隊)の行軍を追体験し、徳島大尉とともに第5連隊(神田隊)の行軍について思い巡らす。小説として優れた構成である。橋本はこの両隊の行動を同時並行で描くことにした。徳島隊が出発。その後、神田隊が出発する。カットバックという技法で、苦闘しながらも着実に進む徳島隊と、次第に迷路に入り込んでいく神田隊を対比させる映画ならではの手法だ。
 徳島大尉は高倉健。そう決めて橋本は脚本を書いた。一読した高倉は出演を決めた。対する神田大尉は最終的に北大路欣也に決まった。また、徳島隊の人数を38人(同行記者を含む)から28人(同)に減らした。映画を見ると28人は画像として収まりが良く、少人数による柔軟な行軍にふさわしいと分かる。同じ軍装で紛らわしいが、まるで巨竜が次第に体を持て余し消耗してゆくような神田隊と対照的な映像表現となった。
 ▽本県ロケは20回
 小説では前年10月上旬に雪中行軍の「競争」が決まった弘前第4旅団での会議を除き、冬が舞台だが、橋本は津軽の四季を織り込んだ。そのためロケは冬を中心に、75(昭和50)年の6月から77年の2月まで断続的に20回にも及んだ。八甲田山系の田茂萢岳(たもやちだけ)頂上ロケでは標高1500メートル、気温氷点下20度、風速17メートル、体感温度氷点下37度だった。
 撮影は黒澤明の信任が厚かった木村大作キャメラマン。冬の八甲田を撮るため、橋本はアメリカからパナビジョンカメラを取り寄せた。レンズが明るく、解像力とシャープさがスタッフを満足させた。使用したフィルムの長さは30万フィート(約9万1440メートル)で、上映時間の20倍に当たる。
 撮影のエピソードは事欠かない。例えば、発狂した兵士が服を脱ぎ捨て、ふんどし一つで雪の中で凍死するシーン。保温のためにワセリンを体中にすり込んだが、氷点下15度の猛吹雪で大変危険な撮影だ。撮影が始まると役者の顔は冷気のためすぐに真っ赤に、やがてどす黒く変色していく。「カット」の声が掛かるとすぐにロケバスに収容。マッサージすると皮がむけるので、毛布越しに代わるがわる抱いて少しずつ温めたという(村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』)。
 「砂の器」は8カ月で完成して74(昭和49)年10月にロードショー公開された。橋本は「八甲田山」に全力を投入して3度の冬の八甲田で撮影。その間にも津軽の四季を撮り、3年4カ月をかけてすべての作業を終えた。
 ▽青森県先行公開
 「八甲田山」は77年6月18日に全国一斉公開されたが、本県では4日から先行公開となった。弘前では元寺町のニューオリオンと弘前駅前の弘前宝塚の2館で上映された。「八甲田山」の上映時間は2時間48分。この長さでは普通は1日3回上映だが、両館とも土日は1日に5回上映した。土曜日は最終回が1時30分からで、オールナイトと呼ばれた。日曜日は朝8時に1回目の上映開始となった。
 ▽キネ旬ベストテン4位
 当時、映画賞といえば映画雑誌「キネマ旬報」のベストテンだった。77年度で、映画評論家たちの選んだ日本映画の1位は「幸福の黄色いハンカチ」(監督・山田洋次(やまだようじ)、主演・高倉健)、2位は「竹山ひとり旅」(監督・新藤兼人(しんどうかねと)、主演・林隆三(はやしりゅうぞう))。「八甲田山」は4位だった。
 この年、津軽を舞台にした2作品が上位を占めたのだ。主演男優賞は「ハンカチ」「八甲田山」2作品の主役で文句なく高倉健。森谷は84(昭和59)年に53歳で急逝。新藤は98歳で「一枚のハガキ」を撮り、2011(平成23)年に100歳の長寿を全うした。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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「八甲田山死の彷徨」=84

2018/1/22 月曜日

 

厳冬の北八甲田連峰=昭和戦前期・青森県史編さん資料
雪中行軍遭難記念銅像(大熊氏廣作)。後藤房之助伍長がモデルとなった=昭和戦前期・青森県史編さん資料
遭難将兵の墓地(青森市幸畑)=昭和戦前期・青森県史編さん資料
【2つの雪中行軍地図】Aは福島泰蔵大尉が輯成20万分の1地図に記した行軍経路。最も信頼できるが、地形・方位は誤りが大きい。十和田湖の湖岸線に注目。Bは『八甲田山死の彷徨』付図の行軍経路。小説の徳島大尉の行軍経路で、新田による創作を含む。地形・方位は正確。道路などは1968年以降のもの

 ▽二つの雪中行軍
 1971(昭和46)年、青森歩兵第5連隊の雪中行軍遭難事件を題材とした新田次郎(にったじろう)の小説『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』(以下、『彷徨』)が刊行された。『彷徨』は発売後順調に版を重ね、新田が亡くなる82(昭和57)年までに、公称161万部のミリオンセラーとなった。新田の最高傑作とも評されている。
 日露戦争開戦を控えた02(明治35)年1月、第5連隊雪中行軍隊(中隊指揮官は神成(かんなり)文吉大尉、大隊本部が随行)が、筒井村(現青森市)の兵営から田代(同)まで1泊2日の雪中行軍を実施した。行軍初日に天候が急変し、未曾有の豪雪に遭遇した行軍隊は遭難し、210人中199人が凍死する大惨事となった。
 新田は第5連隊が刊行した『遭難始末』を偶然古書店で入手した。取材を進めた新田は、事件とほぼ同時期に、弘前歩兵第31連隊雪中行軍隊(指揮官は福島泰蔵(ふくしまたいぞう)大尉)の39人(内2人は途中離脱)が、弘前-三本木(十和田市)-青森-弘前のルートで八甲田踏破に成功したことを知った。第5、第31連隊は弘前第8師団第4旅団に属する、いわば兄弟連隊である。
 新田はこの二つの雪中行軍を結びつけ「豪雪の中、二つの雪中行軍隊が競争し、一方は生還し、他方は遭難した」というプロットの小説『彷徨』を書き上げた。
 ▽巧みなリアリティー
 成功と失敗という明快なプロットがあり、極限における自然と人間との壮絶な闘いを巧みな描写で一気に読ませる。評論家の小松伸六(こまつしんろく)が「山、雪、風のおそろしさが峻烈なリアリティをもって描かれてゆく。……明治の行軍の一面がうきぼりにされているノンフィクション・ノベルである」と新聞で評したくらいだから、多くの読者は『彷徨』の内容を事実として読んだ。漢文の素養のある福島泰蔵大尉の簡潔な記録をもとに、自然と人間の営みをリアルに描いて読者を引き込む新田の筆力は見事である。
 ▽富士山頂観測所
 行軍隊の指揮官である徳島、神田両大尉は、実在の福島大尉と神成大尉を参考にして創作された。新田次郎(本名・藤原寛人(ふじわらひろと))は中央気象台に就職し、32(昭和7)年から40(昭和15)年まで富士山頂観測所(富士山測候所)に勤務した。
 富士山頂観測員は1班6人が1ケ月交代で年3、4回山頂に勤務した。冬季の交代登頂時、厳しい風雪に飛ばされて殉職者が出たこともあった。屋外の観測器具点検で指が真っ白になると、備え付けの藁(わら)を使って数時間マッサージして凍傷を防ぐという、雪中行軍さながらの勤務だった。小説に描かれた徳島大尉の周到な準備と沈着な行動力は、実体験から学んだ新田自身のものだろう。
 中央気象台の技手(ぎて)だった新田は、帝国大学卒ではないため技師になれる見込みはなかった。43(昭和18)年、満州国観象台に移ることで技師になれた。小説に登場する神田大尉は教導団出身で、士官学校を出ていない負い目から大隊長に遠慮し、指揮系統の乱れを招いた。官僚組織に対する新田の思いが神田大尉に投影されているようだ。
 「厳しい自然に立ち向かった人間が、どう変わっていったか……八甲田山では人間の真価を問われた」「団体におけるマネジメント-個人の権限が試される……第五連隊の遭難は、権限と責任が乱れた故の結果に他ならない」という新田の執筆意図は、徳島、神田両大尉像で具体化された。他の人物、人間関係も丁寧に描き込まれている。
 ▽人体実験
 新田は雪中行軍を評して「日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人体実験がこの悲惨事を生み出
した最大の原因であった」とまで書いた。激しい軍隊批判は異例である。根深いものがありそうだ。
 弘前第8師団は日露戦争に出征し、黒溝台(こつこうだい)会戦に勝利して日本軍を勝利に導き、「国宝師団」と呼ばれた。ロシアの勢力を満州から排除した日本は、後に満州国を樹立して自己の勢力下に置いた。
 45(昭和20)年8月、ソ連軍が満州に進攻すると、関東軍幹部は居留日本人を守ることなくいち早く逃亡した。新田は妻子とともに満州から北朝鮮に疎開していたが、ソ連軍に捕まり軍服を着せられ、日本軍捕虜とともにシベリアに送られるところだった。
 幸い1年間満州の延吉(えんきつ)(中国吉林省)の収容所に抑留されただけで日本に帰還した。妻子は苦労しながらも日本に帰り着く。妻(藤原てい)が書いた満州脱出手記『流れる星は生きている』はベストセラーになり、刺激を受けた新田は小説家になった。
 新田の日本の軍隊に対する見方は、この満州での体験で形づくられた
のであろう。民間人案内人を危険にさらし、北東北の若者たちを八甲田の雪に埋めた明治の軍隊は、満州で開拓団など多数の民間人を置き去りにし、シベリア抑留では多数の兵士の命を失わせた昭和の軍隊の根源である。「人体実験」という厳しい言葉は、日本の軍隊に向けられた新田の怒りの声なのかもしれない。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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海が育んだ東青地域=83

2018/1/8 月曜日

 

海底観光船「大島丸」=1966(昭和41)年前後=青森県史編さん資料
一本松。後方が一本松踏切=2009(平成21)年11月2日=中園裕撮影
龍飛周辺の洞門=1966(昭和41)年5月=青森県史編さん資料
津軽線の今別駅開業=1958(昭和33)年10月21日=今別町立今別小学校提供

 ▽「東青」の誕生
 1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行により、青森県内には東、西、中、南、北の各津軽郡が存在するようになった。しかし必ずしも方角通りに町村が配置されていないので、県外から来る人々が戸惑うことも多い。津軽の各郡の配置は県庁のある青森ではなく、旧弘前藩主(津軽家)がいた弘前を中心に構成されているのである。
 89(明治22)年の市制町村制施行により弘前市が誕生。その他の町村は各郡の下に編制された。県庁の置かれた青森町も東津軽郡に属していた。2年後に日本鉄道(後に国鉄東北本線、現青い森鉄道)が上野と青森の間に開通。青森町は発展のきっかけをつかみ、98(明治31)年に市制施行を遂げた。
 この後、青森市と東津軽郡の町村(平内町、今別町、外ケ浜町、蓬田村)は交流を深めて現在に至っている。このため「東青(とうせい)」地域と称されることが多い。
 ▽夏泊半島
 平内町内には狩場沢の藩境塚をはじめ、浅所の松島や白鳥渡来地など、史跡や名所が多い。夏泊半島は景勝地に恵まれている。町内の景勝地を六つにまとめた「平内六景」のうち、五つはすべて半島沿岸にある。このため1953(昭和28)年、夏泊半島一帯は青森市の浅虫温泉と一緒に浅虫夏泊県立公園(後に県立自然公園)に指定された。
 夏泊半島先端に位置する大島は、ピクニックやキャンプの好適地だった。島の周辺は好漁場で釣りの名所でもあった。65(昭和40)年頃、船底をガラス張りにした海底観光船「大島丸」が人気を集めた。しかし夏場だけの営業のため、数年で中止になった。
 ▽陸奥湾
 蓬田村は東青地域で唯一の村だが、小さな村である割に川が多い。川は集落の形成に大きく影響を及ぼし境界線にもなる。村内には南から中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬の大字があるが、大字名はすべて川の名称にもなっている。また、村内を縦断する津軽線には中沢、蓬田、郷沢、瀬辺地の4駅が存在する。
 青森市から蓬田村や外ケ浜町へと続く陸奥湾沿岸は、砂や砂利の浜が広がっていた夏は海水浴秋はタコやカレイを釣るなど、子どもたちの格好の遊び場だった。しかし波浪や高潮で船小屋が流され、砂や砂利が田畑や家屋に舞い込む被害も多かった。このため1960年代半ばから護岸が施され、砂浜はコンクリート岸壁や消波ブロックに変わった。美しい景観は失われたが、沿岸の人々が波浪災害に悩まされることは少なくなった。
 ▽ヤマセと松
 外ケ浜町は2005(平成17)年に蟹田町と平舘、三厩両村が合併して誕生した。旧蟹田町の観(かん)瀾(らん)山は太宰治の文学碑で有名になったが、1923(大正12)年に久邇宮邦久が観瀾山と命名した後に公園として整備されたものだ。「瀾」の文字は横に波頭のつらなる波という意味がある。ヤマセが強く吹き付ける海岸の光景を彷彿(ほうふつ)させよう。
 そのヤマセにも負けず、現在も美しい姿を保っている松が蟹田小学校近くの名松「一本松」である。当初は鍛冶屋の一本松と言われ、個人の所有物だったが、43(昭和18)年に蟹田自治会に寄贈された。町民に愛された松らしく、周辺には一本松の名前を冠(かん)した踏切や橋、そして公園が存在する。
 旧平舘村の松並木は松前街道の面影を残している。藩政時代末期に築かれた台場の跡地も存在する。近くには1899(明治32)年4月に点灯した平舘灯台がある。本県では尻屋埼灯台に次いで古い灯台だ。ただし現在の灯台は1960(昭和35)年に改築されたものである。
 忘れてはならないのが、津軽半島最古の温泉である不老不死温泉だ。かつて陸奥湾運河の開削を提唱した実業家の小宮山利三郎が、深浦町の黄金崎不老不死温泉と共に経営していた。現在は経営者が代わったが、良質の湯と地元産の食事で人気を集めている。
 ▽道路と鉄道
 旧三厩村の龍飛崎や階段国道には多くの観光客がやってくる。しかし、かつて龍飛周辺には満足な道路がなく、人々は往来に船を利用していた。大正末期から断崖絶壁に洞門を掘り、戦後に道路や洞門を拡幅。ようやく59(昭和34)年に青森市営バスが龍飛まで走れるようになった。龍飛への道は道路掘削の歴史でもある。
 津軽半島は陸上交通の整備が遅れていた。このため51(昭和26)年12月に、津軽線が青森と蟹田の間に開通したことは大きな意義があった。当然、今別町や三厩村の人々は、津軽線の延長を強く望んだ。津軽線が今別を経由し三厩まで開通したのは、7年後の58(昭和33)年10月だった。掲載した写真からは、今別町民の歓喜の声が聞こえてきそうである。
 北海道新幹線が開通し、かつて函館行きの特急が走った津軽線は、再び特急の走らないローカル線となった。蟹田から三厩までは未電化区間で、列車本数も1日上下5往復である。しかし五能線のように、ローカル線は今後の活用次第で価値が向上するもの。沿線の長閑(のどか)な風景は都会の人々にとって魅力あるものと思う。
 ▽東青地域の源泉
 75(昭和50)年、津軽半島の海岸線の一部が津軽国定公園の指定を受けた。東青地域では護岸が続く陸奥湾沿岸ではなく、半島北部の津軽海峡沿岸が対象範囲となった。袰月海岸の高野崎周辺を中心に、今別町内には砂浜や岩礁の海岸が広く残され、国定公園に指定されている。陸奥湾と津軽海峡は東青地域の歴史と魅力を生み出す源泉なのである。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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軍都弘前伝える遺構=82

2017/12/18 月曜日

 

御仮邸の庭園=1935(昭和10)年「秩父宮御仮屋写真帖」より
旧菊池氏庭園=2007(平成19)年5月16日、弘前市教委撮影
須藤家庭園=2017(平成29)年6月23日、弘前市教委撮影
文化財庭園保存技術者協議会技術見学会の様子=17年6月24日、弘前市教委撮影

 ▽軍都の記憶
 ご存知の通り、弘前市には「軍都」としての歴史がある。陸軍第8師団司令部の設置から先の敗戦まで、弘前は約半世紀にわたって軍事戦略上重要な位置にあった。
 戦後、軍関係の施設は教育施設等へ転用され、その後の弘前の「学都」への転身に大きく寄与した。それらの施設の多くも現在ではほとんど失われ、急速にまちから「軍都」としての記憶は失われつつある。その中で、旧第8師団長官舎(登録有形文化財)と御幸町の旧弘前偕行社(重要文化財)とが、往時の様子を伝える貴重な遺構として現存している。
 旧第8師団長官舎は戦後、3分の2ほど解体の上で現在の市役所敷地の南側へ移築。2012(平成24)年度までに、弘前市庁舎の増築に先立って、市役所敷地北側へ曳(ひき)屋の上で耐震化を含む保存修理を実施した。現在は喫茶店が営業しており、登録文化財という制度の特性を生かした保護手法の好例として一定の評価を受けている。
 旧弘前偕行社は、保育園の園舎や弘前厚生学院の教場として活用されたが、01(平成13)年に重要文化財指定を受けた。13(平成25)年度から、所有者である弘前厚生学院によって大規模な保存修理を継続中だが、1907(明治40)年建築当初の姿に復原される計画である。規模的にも意匠的にも、ひときわ目立つ建物で弘前の歴史性をアピールできる中核的な施設として、活用が大いに期待されるところだ。
 ▽大石武学流庭園
 軍都弘前にゆかりのある遺構は建物だけではない。旧弘前偕行社が全国的にみて極めて価値が高いのは、偕行社の建物に付随した庭園が現存していることである。現在も池泉や築山などの形状が残り、往時の様子の一端を伝えているが、軍都弘前の時代は実は弘前にとって、庭園文化の興隆した時期でもあった。
 弘前を中心に津軽地方における庭園文化の一大潮流を築いた大石武学流庭園は、始原がどこにあるのか不明である。しかし、その様式を継承する宗家と呼ばれるリーダーたちによる活動が明確に把握できるのは、明治に入ってからである。現在、文化財指定などの一定の価値付けが行われている大石武学流庭園は、明治期に大石武学流宗家によって作庭されているものが多い。
 他にも、現在残っている大石武学流庭園の名園は、明治から昭和初期にかけて宗家が最も活動的だった時代に多いように思われる。そして、その時期は弘前が軍都として機能していた時期にも重なってくるのである。
 ▽秩父宮と庭園
 軍都弘前における実際の戦争以外の大きな出来事の一つに、秩父宮雍人の赴任があげられる。秩父宮は昭和天皇の弟宮で、31(昭和6)年に陸軍大学校を卒業後、35(昭和10)年8月に、歩兵第31連隊第3大隊長に任官した。
 赴任地の弘前では、その御仮邸として紺屋町の菊池長之の別邸が供された。現在の弘前明の星幼稚園の場所である。
 この御仮邸に付随していた庭が、現在も残る国の登録記念物旧菊池氏庭園(弘前明の星幼稚園庭園)である。この庭は大石武学流5代宗家の池田亭月により作庭されたと考えられるもので、秩父宮は御仮邸で起居するとき、この庭を眺めて過ごしていたであろう。
 御仮邸は47(昭和22)年に主屋を焼失、往時の様子を現在に伝えるのはこの庭だけである。弘前の「軍都」としての歴史を示す、貴重な遺構の一つに数えられるものだ。
 秩父宮はスポーツに造詣が深く、中でもスキーの技術は卓越したものがあったという。弘前赴任中は奉迎スキー大会が開催されるなど、スキーに深く関わった日々だったようだが、同時にスキーによる耐寒行軍を実施している。
 この耐寒行軍によって秩父宮と結びつく、もう一つの大石武学流庭園が弘前市前坂の須藤家庭園である。大石武学流宗家4代小幡亭樹が、明治末年頃に作庭したと伝えられる大石武学流庭園を代表する庭の一つで、2017(平成29)年6月、国の選定保存技術保持団体である文化財庭園保存技術者協議会の技術研修会が弘前を会場に開催された際、技術見学会の会場となったことでも知られている。
 須藤家庭園には、庭そのものの特徴もさることながら、ひときわ強い印象を残す高さ2メートルの石碑と、大石武学流庭園にはあまり見ない寄棟造の特徴的な建物がある。これらは作庭当初から庭にあったわけではなく、1936(昭和11)年以降に庭に付加されたものである。
 ▽記憶を次代へ
 36(昭和11)年1月31日、秩父宮率いる第3大隊は耐寒訓練のため、中津軽郡裾野村(現弘前市)の鬼沢方面に行軍を実施した。朝8時55分に開始した行軍は途中、正午に高杉村の須藤繁文宅で昼食休憩を取った。須藤は医師として活躍し、明治末年頃には村を代表する名士として知られていた。
 37(昭和12)年刊行の「秩父宮殿下御高徳録」に寄せられた須藤繁文の手記によると、休憩の際再三座敷へ上がっていただくよう頼む須藤に対し、「此処で結構だ」と屋敷の玄関で休憩を取り、出発に際しては「どうもありがとう」と会釈するなど、その様子に「誠に恐懼感激」としている。
 その後、須藤は秩父宮が訪れた記念碑のほか、休憩の際に使用した机や椅子、火鉢、茶器を保管する記念堂を、それぞれ庭園内に建立した。41(昭和16)年刊行の「秩父宮殿下御在県記念誌」には、秩父宮に関連する記念碑等を建立した個人の記録が掲載されているが、記念堂の建立などを行ったのは須藤のみである。
 一連の行為には高杉村の名誉としたい考え方もあっただろうが、須藤家の感激ぶりが伝わってくる行動でもある。同時に、そうした記憶を庭の中にとどめた点に当時の人々が記憶を次代へつなげ、維持していく場として庭園を認識していたとも考えられよう。
 軍都としての記憶が薄れていく中で、庭園のように往時の記憶が刻み込まれている物や場所は確実に存在する。今後は、それらをどのように次代へつなげていくのかを検討していく必要があるだろう。
(弘前市教育委員会文化財課主幹 小石川透)

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