津軽の街と風景

 

弘前公園を桜の名所に=130

2020/3/9 月曜日

 

弘前観桜会。西濠の桜と遊覧ボート=大正中期~昭和初期・青森県所蔵県史編さん資料
(左から2つずつ)りんご羊羹、干の梅、うす雪=中園裕撮影
『陸奥曲』に掲載された「弘前の桜」=昭和初期・青森県所蔵県史編さん資料

 ▽弘前名物の誕生
 近代の弘前市は、1909(明治42)年に開市三百年祝賀式が開催されるなど、県内有数の長い歴史を誇っていた。その一方で基幹産業に乏しく、商工業が振るわなかったことから、これといった名物がなかった。これを遺憾に思った弘前商業会議所が、12(大正元)年に弘前名物を懸賞募集した。
 審査は公平を期すため実業之日本社に依頼し、ベストセラー『食道楽』で有名な村井弦斎(むらいげんさい)の意見が反映された。その結果、弘前名物は林檎(りんご)砂糖漬、岩木餅、桜桃羊羹(さくらんぼようかん)が選ばれた。いずれも風味が良く価格、形状、材料が適格だった。
 弘前名物は弘前市を象徴し、宣伝できるものとして期待された。林檎砂糖漬は、原料のリンゴが弘前市や中津軽郡の特産であり、岩木餅は岩木山の名前を菓子名に取り入れたことで、それぞれ弘前名物として定着したと考えられる。しかし、桜桃羊羹は定着したのか疑問が残る。
 ▽観桜会と花見みやげ
 18(大正7)年から、弘前商工会の主催する弘前観桜会が、毎年春に弘前公園で開催されるようになった。弘前商工会は、12(明治45)年に弘前市の商業と工業の発達を促進するため設立された組織である。
 18年4月、弘前商工会は観桜会にやって来る客の土産物を作るため、弘前名物の花見みやげを懸賞募集した。1等に該当するものはなかったが、2等と3等が決定した。花見みやげは毎春募集され、毎年違うものが選定された。花見みやげの募集は市内の菓子屋を触発し、花見、桜、吉野など観桜会を意識した名前を含む菓子が出品された。
 募集規定によると、(1)出品は飲食品や玩具など、みやげ物に適するもの(2)材料は弘前地方の豊富な生産物であること(3)価格は50銭以内で、単位は5銭・10銭とすること(4)携帯しやすい包装とすること―などが決められていた。
 例えば、19(大正8)年の花見みやげには、「喜楽団子」(木村甚之助=開雲堂)や「花見だんご」(菊地熊七=甘栄堂)が2等に選ばれた。24(大正13)年は、1等が「花見だるま」(石崎峰吉=石崎弥生堂)だった。花見だるまはダルマ状のオコシを桜の枝に結びつけた菓子で、子どものお土産に合うと称賛された。
 花見みやげは弘前市、および弘前観桜会の紹介と宣伝を兼ねる役割を果たし、好評を博した。現在も弘前さくらまつり開催時期になると、開雲堂では花見みやげの歴史がある「つともち」や「小桜団子」が販売されている。
 ▽弘前名物再び…
 28(昭和3)年、再び弘前商工会は弘前名物を選定することにした。12(大正元)年の弘前名物選定とは異なり、今回の選定には弘前観桜会という催事が控えていた。すでに弘前観桜会は、あらゆる社会階級が楽しむ春の最大の催事へと成長していた。こうした事情を背景に、弘前名物の選定が再度行われたと考えられよう。
 興味深いのは、12(大正元)年当時との相違である。今回の弘前名物は、簡単な製法を旨とし、その製法は公開が前提とされ、包装や菓子名を弘前商工会が調整するからである。選定された弘前名物を市内の多数の店で広く販売させ、ポスターや看板等を通じて、一般に広く宣伝することが約束された。弘前商工会が積極的に宣伝に関与したことになろう。
 この結果、弘前名物には(1)「アップル」=百石町の西澤菓子店(2)「干の梅」=元寺町の木村甚之助(開雲堂。当時は元寺町に本店があった)(3)「林檎羊羹」=富田の稲見屋(いなみや菓子店)(4)「名所煎餅」=富田の松本鶴之助―が選定された。
 リンゴ製の菓子が2点選ばれたのは、豊富な材料が規定の一つだからである。特に林檎羊羹は、すでに弘前市の「名菓」として複数の菓子屋で製造販売されていた。干の梅や名所煎餅も、複数の菓子屋で製造販売されていたと考えられる。
 他方、菓子屋側からすれば、創製した菓子の製法を公開するのは、勇気が要る行動だったに違いない。そうした状況下で、弘前名物のために創製されたのがアップルである。リンゴ製のアップルはリンゴを無駄なく使用し、通年で製造販売ができた。形状は輪切りのリンゴのようである。特産であるリンゴを応用し、形状まで似せたアップルの菓子名は「薄雪(うす雪)」と改名された。
 菓子名からは、薄く雪が積もった弘前の情景が想起されよう。その後、薄雪は、弘前市内の複数の菓子屋で販売されるようになった。創製された菓子や一般的な菓子が、弘前観桜会や弘前市を宣伝できる弘前名物に選ばれた訳である。
 ▽新たな宣伝
 宣伝策は誘客に結びつく。そのため、当時の奥羽本線や東北本線を管轄していた仙台鉄道局は、弘前公園(弘前城)を桜の名所として、管内の各駅にポスターを貼る宣伝策を講じた。弘前観桜会へは、花見の臨時列車が運転されるほど、県内外から多くの観光客がやってきた。
 他方、30(昭和5)年に鉄道省が国際観光局を組織し、翌年には国際観光協会ができた。その影響で、同年に仙台鉄道局が東北地方の名所を写真と英和文で紹介する『陸奥曲(みちのくぶり)』を刊行したと考えられる。
 『陸奥曲』の巻頭は弘前城の天守と桜である。城や桜は、海外へ日本文化を発信できる最良の文化資源に選ばれやすいのだろう。事実、31(昭和6)年度に、6種作成された国際観光局ポスターのうちの1枚が弘前城の天守と桜である。
 弘前商工会のほか交通機関や国の国際観光機関が加わることで、弘前公園(弘前城)は県内外のみならず海外へ発信される文化資源へと発展し、国内有数の桜の名所として知られるようになった。
 弘前名物は弘前市や観桜会を宣伝する土産物だったが、弘前公園の観桜会が有名になるにつれ、弘前名物も内外に定着し浸透していったと思われる。名物や土産物は観光宣伝の手段の一つとして生み出されたものだが、観光効果の向上と共に定着し普及していったことにもなるだろう。
(弘前大学国史研究会会員・中園美穂)

∆ページの先頭へ

弘前藩の蝦夷地警備=129

2020/2/24 月曜日

 

松前城(福山城)本丸御門と復元天守。弘前藩蝦夷地警備兵士供養碑は城の北側に位置する法源寺に今もたたずんでいる
弘前藩蝦夷地兵士供養碑(松前町法源寺墓地)。正面が物頭2人、向かって右側が兵士、左側が兵卒役夫の石碑
「中興の英主」とされた弘前藩四代藩主の津軽信政を祀る高照神社本殿
文化4年5月24日の御告書付。幕府から蝦夷地警備を命じられた際のもの(高照神社蔵、高岡の森弘前藩歴史館寄託)
高岡の森弘前藩歴史館で展示中の「松前之図」(当館蔵)

 ▽クナシリ・メナシの戦い
 泰平(たいへい)の世が続くかに見えた江戸時代後期、争いの知らせは蝦夷地(北海道、サハリン、千島の総称)からもたらされた。1789(寛政元)年、クナシリ(国後島=くなしりとう)、メナシ(北海道標津町=しべつちょう、羅臼町=らうすちょう周辺)地方で、アイヌの人々による和人殺害事件(クナシリ・メナシの戦い)が発生したのである。
 蝦夷地での対アイヌ交易権と漁業権を得た場所請負人飛騨屋(ひだや)のアイヌに対する強制労働や、本州からの出稼ぎ和人による横暴が原因とされ、殺害された和人71人の中には弘前藩領出身者3人が含まれていた。
 事件の知らせを受けた幕府は、蝦夷地を支配していた松前藩に鎮圧を命じるとともに弘前、盛岡、八戸の各藩に対して松前藩からの要請があり次第、援軍を派遣するようにと指示した。
 幕府は以前からラッコやテンの毛皮を求めて千島列島を南下していたロシア商人が、アイヌの人々と連携しているのではないかという疑いも持っていた。結果的に事件とロシア人との関係はなく、アイヌたちは松前藩によって鎮圧されたため、実際の派兵には至らなかった。
 ▽対外危機の高まり
 その後も、ロシア船やイギリス船が度々蝦夷地を訪れる動きが見られ、幕府から弘前藩と盛岡藩は蝦夷地に警備拠点である勤番所を設け、外国船来航に備えるように命じられた。
 こうした中で1804(文化元年)、ロシア使節レザノフの交易交渉を目的とする長崎来航、06~07(文化3~4)年、レザノフが幕府から交渉を断られた報復として、その部下フヴォストフがカラフト、およびエトロフ(択捉島)の松前藩や弘前藩と盛岡藩の勤番所を襲撃する事件が起こった。
 幕府は、07(文化4)年に松前地と蝦夷地を松前藩から召し上げて幕府の直轄領とし、弘前、盛岡両藩に蝦夷地の永久警備が命じられた。この時期、日露関係の緊張は最高潮に達し、両藩から蝦夷地にそれぞれ1000人を超える人々が派兵された。
 日露間の緊張緩和に伴って徐々に勤番地の数や派兵人数が減少されたものの21(文政4)年、松前家の松前地と蝦夷地の復領、翌年に松前勤番兵士の撤収が完了するまで蝦夷地警備体制は継続された。
 ▽蝦夷地警備兵士の死と供養
 蝦夷地警備に関して、シャリ(北海道斜里町)で大勢の弘前藩兵士が亡くなったという話を耳にした方もいるかもしれない。07(文化4)年から翌年にかけてシャリで越冬した約100人のうち、栄養失調が原因と思われる「浮腫病(ふしゅびょう)」で多数が亡くなり、その約7割が蝦夷地警備のために集められた百姓や町人だった。シャリのほか、弘前藩が警備を担当した各勤番地でも多数の死者が出た(『新編弘前市史』通史編2 近世1)。
 生まれ故郷の津軽から遠く離れた地で亡くなった人々を供養するための石碑が、北海道松前町に今も残されている。供養碑がある法源寺は曹洞宗寺院で、墓地の奥に弘前藩蝦夷地警備兵士を祀(まつ)った「弘前者頭(ものがしら) 北原内匠源高門・工藤杢左衛門墓」「弘前兵士合墓之碑」「弘前兵卒役夫合墓之碑」の3基が向かい合う形で配置されている。
 者(物)頭とは足軽頭、役夫は軍隊に伴う人夫を指す。石碑の大きさは物頭2人を祀ったものが154センチで一番大きく、兵卒役夫の碑が最も小さい。3基とも22(文政5)年に建てられ、兵士、および兵卒役夫の石碑裏面には蝦夷地警備で病死した弘前藩兵士らの菩提(ぼだい)を弔うため、石碑を建てたとある。これらの石碑は、勤番地撤収に当たって弘前藩が建てたものと考えられる(『松前の墓石から見た近世日本』)。
 ▽高照神社にみる蝦夷地警備
 蝦夷地や松前から離れ、津軽に目を向けてみよう。岩木山麓にある高照神社(たかてるじんじゃ、弘前市大字高岡)は、弘前藩四代藩主の津軽信政(1646~1710)を祭神として創建された。
 この神社は弘前藩の精神的支柱とされ、藩の重大事項を神となった信政に報告する「御告御用(おつげごよう)」が行われていた。特に、蝦夷地警備体制期において集中的に行われ、藩が使者を立てて重要事項を報告した文書「御告書付」が現存している。
 ▽蝦夷地からの帰還者が残したもの
 高照神社には蝦夷地に関わるものとして、蝦夷地派兵を経験した弘前藩士貴田惟邦(きだこれくに)の「松前之図」がある。この図は松前だけでなく北海道や千島列島などの地名や距離を詳細に記したもので、惟邦が派兵の際に入手した図に1799(寛政11)年に改定を加え、1833(天保4)年に孫の惟良(これよし)が筆写し補足している。
 貴田家は兵学師範の家柄で、兵学研究のために領国絵図や城絵図などを筆写し収集しており、99(明治32)年に惟良の孫に当たる稲城(いなき)が絵図書籍類(「貴田稲城氏奉納資料」)を高照神社に奉納した。惟邦は蝦夷地への旅から無事に生還することができたため、兵学者の知見を生かして蝦夷地の地理的な情報を残そうとした。
 この図は、高岡の森弘前藩歴史館で開催中の企画展「江戸の旅と観光」で展示しており、江戸時代の人が北海道を含む北方地域をどのように認識していたか、垣間見ることができる。
 ※企画展は3月22日(日)まで、休館日は3月16日(月)。
(弘前市教育委員会 高岡の森弘前藩歴史館主事兼学芸員・澁谷悠子)

∆ページの先頭へ

弘前の「映画事始め」=128

2020/2/3 月曜日

 

茂森座。大正末年に廃業した=明治~大正期・弘前市立弘前図書館所蔵
柾木座。1880(明治13)年5月に焼失。再建後の姿。茂森座をしのぐ劇場になった=明治~大正期・弘前市立弘前図書館所蔵
弘前座。1917(大正6)年、再び焼失した柾木座の跡地に1919(大正8)年8月に開業。歌舞伎や芝居の他に活動写真も上映した。後に弘前東宝劇場となった=大正中期~昭和初期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスの「絵はがき・写真類データベース」で閲覧可能)
駒田好洋来演のポスター。「天上天下唯我独尊・頗る非常大博士」は、名キャッチコピー=1904(明治37)年頃・国立映画アーカイブ所蔵
駒田好洋(1877~1935)。「駒田好洋来演」のポスターより、肖像部分を拡大したもの=1904(明治37)年頃・国立映画アーカイブ所蔵

 ▽活動写真と説明弁士
 明治時代の娯楽施設といえば芝居小屋(劇場)と寄席だった。明治後期、弘前には藩政時代から続く茂森町の茂森座と、1872(明治5)年に元寺町に創建された柾木座の2つの芝居小屋があった。
 芝居小屋では歌舞伎、義太夫などが演じられた。興行主が座主から小屋を借りて数日から1カ月間位の興行を打つもので、夜興行が一般的だった。興行がない時、小屋は休業していた。このような近世から続く娯楽を大きく変えたのが映画だ。
 フィルムに撮られた動く映像をスクリーンに投影する映画の起源は95(明治28)年、フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフに始まる。間もなくアメリカのエジソンが同じ原理のヴァイタスコープを公開することで、欧米に広まった。日本には97(明治30)年にシネマトグラフ、ヴァイタスコープがほぼ同時に輸入、公開された。映画は活動写真と命名されて普及していく。
 当時の映画は黒白、サイレント(無声)で、フィルムは50ないし100フィート(30・5メートル)の短いものだった。この短いフィルムを付け替えながら何本も上映し、興行として成り立たせるためには、映画の原理や映写機の説明などで間をつなぎ、場を盛り上げる説明者が必要だった。説明者は口上(こうじよう)を述べ、話術で公演を進行させた。これが日本独自の活動写真説明弁士(活弁(かつべん))の由来だ。
 ▽駒田好洋の巡回興行
 活動写真の巡回興行で最も有名な人物は、駒田好洋(こまだこうよう)(本名万次郎)だろう。駒田は77(明治10)年大阪生まれ。上京して広告業者広目屋(ひろめや)の店員となった。広目屋が映画興行をするようになってからは、駒田がもっぱらその業務に携わった。駒田はもともと口上言いが得意で、映画興行に転じて人気を得た。説明に「頗(すこぶ)る非常」という言葉を頻発し、それが評判となり、駒田は「頗る非常大博士」と名乗るようになった。
 好洋一派が初めて弘前に現れたのは98(明治31)年のことだ。6月から始めた北海道興行では函館、小樽、札幌などの都市だけでなく利尻(りしり)、礼文(れぶん)、根室なども訪れた。10月末には北海道から青森に渡り青森座で、11月1日から5日間は弘前の茂森座で興行した。
 この時の弘前興行の詳細は分からない。新聞記事で確認したくても、弘前新聞や東奥日報は残っていない。東京では「頗る非常」で通用した駒田も、まだ地方では無名だった。北海道の小樽新聞などによると、記事にも広告にも駒田の名はなく、広告は「畏多(おそれおお)くも皇太子殿下の御上覧」と権威づけ「教育美術軍事上の一大参考」などと、活動写真の効用をうたったものだった。上映作品は欧米の作品や日本の実写風景などだろう。ちなみに皇太子は後の大正天皇である。
 ▽町回りで派手な宣伝
 芝居の一座が町に着くと、宣伝のために役者一行が人力車などで町回りを行う。活動写真興行もこれをまねた。時期によって変化はあったが、駒田巡業隊は先乗り(交渉係)1人と本隊(映写技師1、弁士2、音楽師3~5、合計10人くらい)で編成された。
 まず先乗りが小屋に先行し、興行の段取りを整え予告のビラを要所に貼る。いよいよ興行の日には全員でブラスバンド、真ちゅうの楽器を高々と胸に抱えて演奏しながら町回りを始める。長身で美ぼうな駒田は、シルクハットに燕尾(えんび)服といった格好に軽快な指揮棒を持って、その先頭をさっそうと行進した。
 初期の活動写真興行はこのように大仰なものだった。駒田の弘前興行は続いたが、やがて活動写真は常設館(活動写真専門館)で上映されるようになり、大衆娯楽の中心に位置づけられるようになった。弘前では1914(大正3)年に富田大通りに最初の常設館である慈善館が開館した。巡回興行も常設館を会場とすることもあった。
 ▽頗る大博士・駒田好洋の魅力
 駒田の巡回興行は30年近くに及んだ。いつごろ彼の興行形式が定着したのかは詳(つまび)らかではないが、静岡県浜松の織物問屋に生まれ育った内田晴康(1902~84年)が、会場の様子を書き記している(『おまじない物語』)。公演は次のように始まった。
 「『満場の皆さん、今晩はすこぶる非常に大勢の方にお出(い)でを頂きまして』と、まず第一にすこぶる非常が出ると、観客はわあっといって喜んで拍手をした。続いて『私は勿論(もちろん)座員一同すこぶる非常に喜んでおります』と、また第二のすこぶる非常が出ると拍手がなりやまなかった。しばらくして挨拶(あいさつ)が始まった」
 駒田は、地方の人々を喜ばせるすべを心得ていた。内田の聴いた口上は次のようなものだ。試みに「浜松」を「弘前」に置き換えて読んでみて頂きたい。
 「私はどこを旅行しておりましても、浜松の皆様のことは一刻も忘れたことはありません。私を歓迎してくれるのは、日本全国の中で浜松が第一番であります。一番可愛(かわい)がってくれ、一番ひいきにしてくれるのは浜松であります。すこぶる非常に光栄に思っております(拍手)。また活動写真のよしあしをこれほどよく見てくれるお客さまは、日本にはほかに一カ所もありません」
 「浜松で評判をとればもう大丈夫だと弁士仲間では言われるくらい、浜松の皆さんはお目が高く、お耳が肥えております」
 これで約3分の1。まだまだ耳に心地よい名調子は続く。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

∆ページの先頭へ

懐かしの「青森行進曲」=127

2020/1/20 月曜日

 

昭和初期の油川町=青森県所蔵県史編さん資料
青森飛行場=1933(昭和8)年頃・青森県所蔵県史編さん資料
青森市の新町通りを走るバスとタクシー=昭和戦前期・青森県所蔵県史編さん資料
聖徳公園=昭和戦前期・青森県所蔵県史編さん資料

 ▽青森市域の拡張
 昭和初期、不況対策を打開するための財政基盤を強固にする措置として、全国各地で市域の整備と町村合併が着手された。
 1927(昭和2)年4月1日、青森市西部の滝内村大字沖館、新田、古川と、青森市東部の造道村大字造道、八重田が青森市に合併された。これによって市域は青森湾に沿って東西方向に拡張した。32(昭和7)年6月1日には、市街南方の大野村字北片岡と北金沢が青森市と合併し、市内南部を通る東北本線がすべて市域に包摂された。
 戦前期の市域の拡張を大きく前進させたのが、39(昭和14)年6月の青森市西部に位置し青森湾に面した油川町との合併だった。
 ▽青森飛行場(油川飛行場)
 青森市との合併前には油川町と東京、仙台、札幌を結ぶ定期航空路が存在した。
 32(昭和7)年7月、油川町から政府に対して「青森飛行場ヲ油川町ニ建設サレタキ件」の陳情がなされた。その頃、凶作によって疲弊した東北、北海道地方の救済策の一環として、東京と札幌の間に航空路を新設し、青森市付近の郊外に飛行場を新設するという計画が政府で持ち上がった。青森市に隣接する油川町でも、不況や凶作による町民の生計は苦境に立たされていた。
 こうした陳情が認められ、同年11月23日には青森飛行場の起工式が挙行された。翌年3月11日には逓信省飛行場として開所され、4月1日から日本航空輸送株式会社が経営する6人乗りの旅客機による定期航空路が開通したのである。
 ▽昭和初期の青森市
 32(昭和7)年に発表された「青森行進曲」は、港町青森の風物を軽快なメロディーで歌ったものだ。作詞は東奥日報社記者の相馬重一、作曲は東京在住の貝塚正治郎、歌はコロムビアレコード専属のバリトン歌手である次田勝がそれぞれ担当し、コロムビアレコードから売り出された。
 デパートが建ち、市営バスが行き来する当時の青森市街の近代化された様子や風俗を描写した言葉が、歌詞の随所にちりばめられている。
 ▽市営バスの営業
 市営バスの営業は青森市内で乗合自動車業を営んでいた篠原善次郎の寄付により始まった。篠原は1855(安政2)年の鹿児島生まれ、同郷の北海道開拓長官黒田清隆の命により農学を修めたのち、北海道庁に奉職した。82(明治15)年に青森に移住し、実業を志して翌年に青森、弘前間の乗合馬車事業に乗り出した。
 1924(大正13)年に、乗合自動車の運行を思いつき、市に対してバス5台を寄付。それをもとに市営事業とすることを申し出たが許可されず、自らその経営に当たることにした。市域西端にある青森駅から東端の合浦公園までのルートに、大町経由と国道経由の2路線を設置し経営した。
 行進曲の歌詞に出てくる「モダン大町」は、青森市の金融や商業の中心地だった。事業は順調に収益を挙げたので、26(大正15)年3月、再び市に対してバス6台と運営資金として現金1万5000円を添えて寄付を申し出て受理された。翌月、市では交通部を新設して、市営バス事業が始まった。
 ▽パニクラパイプ
 1番の歌詞に出てくる「パニクラ」とは、昭和初期、青森県師範学校手工科教諭の西館弥輔が考案した喫煙パイプのことである。材料の根曲竹(ねまがりたけ)の学名が「パニクラタ」なので当初は「パニクラタパイプ」と呼ばれていたが、言いにくいことから「パニクラパイプ」となった。当時の大衆たばこだったゴールデンバット用のホルダーの一種で、隣県の秋田や岩手からも需要があったという。
 2番の歌詞にある「競馬」は、31(昭和6)年に始まった青森競馬のことである。第1回は8月2日から3日間開催され、市内佃の競馬場には2万人の競馬ファンが押し寄せた。
 ▽聖徳公園
 3番の歌詞には「聖徳公園」が登場する。浜町桟橋(現在の中央埠頭(ふとう)付近)は明治天皇が東北巡幸の際に3度にわたり乗船、上陸した地であることから、28(昭和3)年に有志が「明治天皇御巡幸御渡海記念碑建設会」を設立。30(昭和5)年11月3日に浜町旧桟橋西側の建設場所で落成、除幕式が挙行された。
 その記念碑の周辺に小公園が整備され、31(昭和6)年7月8日(開園式は7月16日)に「聖徳(せいとく)公園」として開園した。公園名は記念碑正面の閑院宮殿下揮毫(きごう)による「景仰聖徳(けいこうせいとく)」の題字から命名された。
 このように県都として発展した青森市は、青函ルートにおける連絡口として重要視され、太平洋戦争では函館市と同様に空襲の標的となった。だが函館市と異なり、青森市は中心市街地の多くが焦土となり、行進曲で歌われた繁栄は失われた。
(弘前大学國史研究会会員 竹村俊哉)

∆ページの先頭へ

神人一体の七日堂祭=126

2020/1/6 月曜日

 

御柳神事=2016(平成28)年2月14日・筆者撮影
御宝印神事=2016(平成28)年2月14日・筆者撮影
三拍子神事=2008(平成20)年2月13日・筆者撮影

 ▽岩木山神社
 岩木山神社、猿賀神社、鬼神社では、旧暦1月に「七日堂祭」と呼ばれる神事が行われる。中でも柳の大枝を盤に突き立てたり、打ち付けることでその年の農作物の豊凶や天候を占う「柳の神事」はこの神事を代表するものとして知られており、毎年多数の参詣者が訪れて占いの結果に一喜一憂する。岩木山神社と猿賀神社では旧暦1月7日、鬼神社では旧暦1月29日に行われる。
 これらの神事は、三社それぞれで名称や内容に差異はあるものの「津軽の七日堂祭」として2009(平成21)年、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。ここでは、岩木山神社の七日堂祭についてご紹介しよう。
 同社では「七日堂神賑祭(なぬかどうしんじんさい)」と称し、拝殿で行われる。神事が行われる旧暦1月7日は、冬の中でも特に寒さが厳しい頃と言われる。天候は毎年異なるが、拝殿には暖房器具はほとんどなく扉も開いたまま行われるため、何といっても寒い中行われる神事である。岩木山大神と神職、氏子そして参詣者たちが、まさに神人一体となって行われる神事と言っても過言ではないだろう。
 ▽特徴ある行事
 神事の中でも御柳(みやなぎ)神事、御宝印(ごほういん)神事、御神燈点火(ごしんとうてんか)神事、三拍子神事、散米神事が七日堂祭としての特徴ある行事である。
 御柳神事は稲作を中心とした五穀の豊凶占いとされ、長さ1・8メートルもある柳の大枝を神職が呪言を高唱してから持ち上げ、勢いよく木盤に突き立てる。突き立てたときに柳が傾かず、また稲穂のように飾り付けた御札類が落ちなければ吉とする。
 3度行い、これらを早稲・中稲・晩稲の稲の出来や年間の天候などに見立てたりする。決まった見方はなく、参詣者それぞれが長年の経験によって判断する。例えば、柳が倒れた年には洞爺丸台風が来たとか、御札が多数落ちた年にはリンゴに大きな被害をもたらした台風19号が津軽地方を直撃したなどである。参詣者それぞれのデータの蓄積があるのだ。
 御宝印神事は、長さ1・8メートルもある胡桃(くるみ)の若生の先端に神社に伝わる牛玉宝印の料紙(「岩木山宝印」と刷られる)を巻き付けた杖(つえ)を、天地四方と参詣者一人一人の額に捺(お)し向けるもので魑魅魍魎(ちみもうりょう)の退散を祈願する。
 御神燈点火神事は、火打ち石を用いて火を採る神事である。何回目で着火するか、神職の手元に注目が集まる。この火は次に行われる三拍子神事で使用される。
 三拍子神事は年間の天候を占うもので、有力な氏子によって行われる。風を表す大御幣の振り納めと、暑気を表す大鍋の護摩の火を蓋(ふた)で押さえるのと、雷雨を表す太鼓の打ち止めのタイミングが一致するか否かで占う。3度行い早稲、中稲、晩稲の出来や年間の天候を占う。
 散米神事は、神職が呪言を高唱してから御神米を天地四方に蒔き浄(きよ)めるものである。
 ▽七日堂という名称
 行事の名称である「七日堂」という特定の建物は存在しない。この名称は、行事が行われる「七日」に建物を意味する「堂」という言葉が付いたものである。資料としては弘前市賀田に住んだ豪商金木屋の日記の1854(嘉永7)年1月7日条「今日、百沢七日堂、参詣人見ゆる」という記事が最も古いもののようだ。
 ただし、読み方は神社側ではナヌカドウと呼ぶのに対し、一般的にはナノカドウと呼ばれることが多い。日本語ではナヌカが標準語とされるが、津軽地方では、「ヌ」が「ノ」に転訛(てんか)することがあり、それによってナノカドウとも呼ばれている。
 ▽稲は柳に生ず
 七日堂祭では、柳が神事の中心的な役割を持つ。江戸時代前期の農学者宮崎安貞の『農業全書』には「稲は柳に生ずとて、楊柳のさかゆる歳が稲のよきものなり」、すなわち稲は柳とともに成長すると言われ、柳の生育が盛んな年に稲は豊作とされていると記されている。柳と稲作には深い関わりがあると考えられていたようだ。まさに稲作の出来を占うに適した植物であろう。
 ところで、江戸時代に岩木山神社の前身である下居宮の別当を務めた百沢寺の資料に「正月七日修正導師作法」「牛玉導師作法」というものが記録されている。修正会や修二会とよばれる新年に行われる儀礼は奈良時代以来、法隆寺、興福寺、薬師寺といった都の大寺院などで行われており、中でも東大寺の修二会は「お水取り」として著名である。これらの特徴として「柳」「牛玉宝印」「新しい火」を用いることが挙げられる。
 「柳」は祈りの言葉を唱(とな)えて加持することで、籠(こ)もっている呪術(じゅじゅつ)的な力をさらに強いものにして使用する。「牛玉宝印」は、修正会や修二会の時だけに刷られる特別な御札であるが、紙に捺印(なついん)した御札よりも「印」そのものを直接体に捺(お)すのが古い形であるという。薬師寺でも参詣者の額に直接印を押し当て、東大寺でも参加した僧侶の額に直接押し当てている。「新しい火を採る」ことは、年の初めの行事として重要な意味を持つのである。
 岩木山神社の七日堂祭でも、柳を用いて作占いをし、参詣者一人一人の額に牛玉宝印を押し向け、火打ち石で新しい火を採ることは、奈良時代以来の修正会としての要素をしっかりと伝えていることが分かる。
 この神事は、津軽地方における修正会の伝播(でんぱ)と北奥地域における宗教史を考える上でも欠くことができない神事である。さらには、古代以来の日本の宗教儀礼と比較研究する上でも重要な行事と言える。
 今年の岩木山神社七日堂神賑祭は、1月31日(金)午前11時から斎行される。参詣は自由なので、この機会にご覧いただければと思う。
(日本民俗学会会員 石戸谷勉)

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5 6 7 ... 28