津軽の街と風景

 

岩木川改修の大事業=59

2016/11/21 月曜日

 

五所川原の渡し(明治末期~大正初期・青森県史編さん資料)
岩木川治水工事と堤防築造用の掘削機(1921(大正10)年・青森県史編さん資料)
木橋だった頃の乾橋(明治末期~大正初期・青森県史編さん資料)

 ▽岩木川に架橋
 江戸時代は、幕府が主要河川への架橋を禁じていた。それは、河川が関所と同じ役割を果たすからであり、架橋技術が未熟であったという理由によるものであった。
 1884(明治17)年に現五所川原市西部の小曲と寺町を結ぶ乾橋が岩木川に架橋されるまでは、「五所川原の渡し」があった。この架橋の話が持ち上がると、五所川原の商人は、顧客を木造や鯵ケ沢方面の商人に取られてしまうという理由で反対した。しかし、当時の初代北津軽郡長工藤行幹(ゆきとも)はこうした反対を抑え、五所川原の富豪佐々木嘉太郎らから献金を取りまとめるなどして県令郷田兼徳(ごうだかねのり)を動かしたのだった。
 金木町(現五所川原市)の神田橋は1908(明治41)年に完成したが、それ以前は橋から約300メートル下流に「神原の渡し場」があった。1852(嘉永5)年3月、海防の状況を視察するため小泊方面へ向かっていた吉田松陰も、この渡しを利用している。
 ▽洪水との苦闘
 中津軽郡西目屋村の雁森岳(がんもりだけ)を水源として津軽平野を貫流する岩木川は、流域住民に多くの恵みをもたらす「津軽の母」と呼ばれ親しまれてきた。その一方で、毎年のように洪水を引き起こし、住民らは水害との闘いを強いられてきた。
 岩木川上流は河川勾配(こうばい)が急なので、春の雪解け水や夏季の局地的集中豪雨が、勾配の緩やかな下流域に一気に流れ込むと、たちまち洪水となった。また、岩木川が日本海へ流れ出る十三湖水戸口(みとぐち)は、冬期間の日本海の強い西風により砂石でふさがれてしまう。このため行き場を失った水が、岩木川やその支川に逆流することによって、さらに洪水が引き起こされた。
 藩政時代から築堤や掘り替えによって水害に対処し、明治時代に入ると旧三好村(現五所川原市)の初代村長を務めた小野忠造(ちゅうぞう)のような篤志家が現れ、流域住民とともに「小野忠土手(おのちゅうどて)」を築いた。だが、抜本的な解決策にはならなかった。
 ▽岩木川改修期成同盟会
 1880(明治13)年、直接被害を受ける西津軽、北津軽両郡の人々は、県令山田秀典(ひでのり)に対して被害除去の施設を求めた結果、翌年に内務省の御雇工師ローウェンホルスト・ムルデルが測量調査を行った。しかし、その設計工費は県の予算では賄うことができない額となり、着工は実現しなかった。
 そこで、北津軽郡長工藤行幹や、その遺志を受け継いだ県会議員阿部武智雄(むちお)らが、政府に対して岩木川改修請願運動を盛んに展開した。
 1910(明治43)年12月、阿部は県会副議長として西津軽、北津軽両郡選出の県会議員らと協議を重ね、岩木川改修期成同盟会を発足させた。五所川原町(現五所川原市)の郡会議所で創立会が開かれ、会長には阿部が就任した。会員は西津軽、北津軽両郡の関係する33カ村の村長や有志、中津軽、南津軽両郡と弘前市の有志らが名を連ねた。
 ▽10カ年の大事業
 同盟会の熱心な請願活動の結果、1918(大正7)年に岩木川改修工事は10カ年継続の国の直轄事業として認められた。同年12月には五所川原町に内務省所管の岩木川改修事務所が開設された。主任には07(明治40)年以来、岩木川の測量に携わってきた内務省技師の大久保清長が就任した。
 起工式は21(大正10)年9月15日に挙行された。当日は五所川原町はもとより、近隣の町村からの人出でにぎわい、街路は山車、屋台人形、日章旗、イルミネーションなどで彩られ、仮装行列が練り歩いた。
 なお、同事務所は42(昭和17)年に岩木川工事事務所と改称し、戦後は建設省の所管となって54(昭和29)年に津軽工事事務所、64(昭和39)年には国道工事事務所との合併により青森工事事務所と改称、2003(平成15)年には現在の国土交通省東北地方整備局青森河川国道事務所となった。
 ▽改修の目的
 岩木川改修工事の目的は、岩木川の水量を安全に流下させて堤防の決壊や溢水(いっすい)を防ぐことにあった。そのため改修工事は、土砂堆積による河口の閉塞(へいそく)を防ぐため、十三湖水戸口への突堤(とってい)建設をはじめ、川幅の拡張や堤防の増改築、そして岩木川の支川である十川(とがわ)に約7キロメートルの新川を開削し、水量の疎通を改良することだった。
 29(昭和4)年、乾橋は岩木川改修工事のために、コンクリート橋に架け替えられ、62(昭和37)年には長さ346メートルの現在の橋が完成した。
(青森県史編さん調査研究員・竹村俊哉)

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岩木山北麓の遺跡群=58

2016/10/31 月曜日

 

「縄文海進」の頃のつがる市=辻誠一郎氏原図・筆者改編
木造高校生が原図を作成した矢伏長根遺跡配石遺構=古代 第10号・1952年発行より転載
1967(昭和42)年の石神遺跡の調査。地元の人々が多く参加している
石神遺跡の盛土遺構=2001(平成13)年・森田村教育委員会調査
木造高校生(右から3人目)による森田歴史民俗資料館のガイド=2016(平成28)年10月8日・藤本久美教諭提供

 ▽岩木山北麓とは
 青森県西部に位置するつがる市は、その中央部に江戸時代以後の開発で、木作(木造)新田・広須新田と呼ばれる水田景観を形成してきた津軽平野北部の沖積地が広がっている。その東縁を岩木川、西縁を日本海に並行する屏風山砂丘、北縁を十三湖、そして南縁を秀峰岩木山から続く岩木山北麓台地がそれぞれ画している。
 平野部は、縄文時代前期の初め(約7000年前)がピークとされる「縄文海進」によって、「古十三湖」と呼ばれる内海が広がっていた。現在の十三湖を入り口とするその水域は約30キロも南に広がり、JR五能線の線路付近にまで達していた。それゆえ、つがる市域では、縄文時代のムラはこの内海を囲む西岸と南岸の台地上に営まれていた。西岸の屏風山砂丘には国の史跡田小屋野貝塚と亀ケ岡石器時代遺跡などがあり、南岸の岩木山北麓には石神遺跡などがある。
 ▽縄文遺跡群
 「縄文海進」の際の「古十三湖」の南岸付近を走る五能線の線路を越え、さらに南進すると間もなく、山頂に向け高度を増す岩木山北麓台地の北端部に達する。山麓に発する河川は、この台地を刻みながら北流し「古十三湖」に到達する。往時の海岸線に近いこの河川流域の台地上に多くの縄文遺跡が位置している。
 旧森田村(現つがる市森田地区)に当たるこの地域では、縄文時代草創期の爪形文系土器片や、早期の貝殻文系土器片が八重菊(1)遺跡などから出土し、1万数千年前からの人々の痕跡が認められる。しかし遺構が発見されず草創期~早期のムラの姿は明瞭ではない。
 住居跡などの遺構が見つかり、ムラの姿が明らかになるのは縄文時代前期中頃、「縄文海進」のピークをやや過ぎた約6000年前以後、バケツのような形で、見たままズバリにネーミングされた前期中頃~中期中頃(約6000~4500年前)の「円筒土器文化」の段階の遺跡からである。この段階の遺跡は、それ以前より一歩「古十三湖」寄りの低位~中位段丘上に位置する。その代表例が石神遺跡である。
 ▽石神遺跡の歴史
 石神遺跡は明治時代から中央の学界に知られ、地元の人々も古くから中央の学者の遺跡や収集遺物の調査に協力していた。また戦前は、その南側に連続する藤山(1)遺跡と合わせ、所在地の大字を冠して「床舞(とこまい)遺跡」と呼ばれることも多く、土偶・土製品など、主に縄文時代後期~晩期(約4000~2300年前)の優れた遺物が出土する遺跡とされていた。
 円筒土器も出土することが一般に知られるようになったのは、1951(昭和26)年の早稲田大学の調査以後である。早大の調査は翌々年まで森田村内で続き、縄文時代後期の配石遺構が発見された矢伏長根(やぶしながね)遺跡、平安時代の竪穴住居跡が確認された八重菊(1)遺跡などが調査された。これらの調査には地元の人々が協力を惜しまず、木造高校の生徒らが調査に加わっている。
 ▽円筒土器の石神遺跡
 石神遺跡=円筒土器文化の代表的遺跡との図式が確立されたのは、1965、67、69(昭和40、42、44)年の慶応大学の江坂輝弥氏と弘前大学の村越潔氏による発掘調査以後のことである。
 調査は遺跡上で行われた開田によって、円筒土器が大量に散乱した事件に端を発した。遺跡破壊を恐れ、後の「石神遺跡保存会」を組織した地元床舞の佐藤時男、佐藤三郎、石田吉四郎氏らが中心となり、散乱した遺物を採取すると同時に森田村当局に遺跡の保存を訴え、同時に地元出身で考古学者でもあった東京の医師、平山久夫氏を通じ江坂氏らに調査を働きかけた。これに森田村当局や江坂氏らが応え調査が実現した。
 調査の結果、円筒土器が編年体系通りに古いものから新しいものまで層位的に出土し、ヤマトシジミを主体とする縄文時代前期の小規模な貝塚が発見され、遺跡北東部より住居跡も確認された。
 1996~2007(平成8~19)年には森田村とつがる市教育委員会による調査が継続され、江坂、村越両氏の調査で円筒土器が層位的に出土した場所は、前期中頃~中期(約6000~4000年前)の「盛土遺構」の中であり、貝塚はそれに内包される前期中頃のものということも分かった。さらに遺跡北部が居住域、遺跡南部からこれに連続する藤山(1)遺跡北部が当時の墓域という、円筒土器文化期のムラの構造が明らかになった。
 ▽地元とのかかわり
 岩木山北麓の遺跡には、明治時代以後、地元の人々の積極的な関わりがあった。その結果、多くの出土品や記録が地元に残った。この点が屏風山砂丘地区の亀ケ岡遺跡などとの大きな違いだろう。円筒土器が大半を占める石神遺跡の出土品約4千点以上が今も森田歴史民俗資料館に収蔵され、うち219点が90(平成2)年に「青森県石神遺跡出土品」として国の重要文化財に指定されている。
 近年、授業の一環や世界遺産登録推進事業に関わり、かつての石神遺跡などの調査に参加した人々の後輩である木造高校生たちが、縄文遺跡のガイドを積極的に行っている。遺物などの「モノ」だけではなく、遺跡を語れる「ヒト」を地元に残すことも大事なことだと感じている。
(つがる市教育委員会社会教育文化課学芸員・佐野忠史)

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軍都弘前に教育機関=57

2016/10/17 月曜日

 

弘前大学教育学部附属小学校の子どもたち=1962(昭和37)年頃弘前・黒石・平川の昭和(いき出版)より転載
弘前大学教育学部があった頃の弘前公園=1960(昭和35)年5月9日・青森県史編さん資料
弘前大学野辺地分校。青森青年師範学校が前身=1950(昭和25)年前後・横浜陽一さん提供

 ▽「三都」の近現代史
 青森県の近代は、県庁所在地である「県都」青森市、第8師団を有する「軍都」弘前市、そして昭和初期の新興都市八戸市と、三つの都市(三都)が互いに競合し合い、均衡を保ちながら形成されてきた。三都の競合と均衡は戦後も続いた。
 弘前市は軍都と称されながら空襲に遭わず、広大な軍事施設が残された。八戸市は蕪島周辺の海軍施設が空襲を受けたが、市街地自体は空襲を免れた。そして戦後は東北有数の工業都市へと発展し、「工都」八戸市と称された。
 これに対し軍都でもなかった青森市は、1945(昭和20)年7月28日の青森大空襲で市街地の大半を焼失した。青森市の戦後復興は大幅に遅れ、県都に設置されるべき高等教育機関が、焼け野原の青森市に設置できなくなった。このことは戦後青森県の社会構造を考える上で重大な問題をもたらすことになる。
 ▽「学都」の誕生
 青森県の高等教育機関には、官立弘前高等学校、青森師範学校、青森青年師範学校、青森医学専門学校があった。48(昭和23)年に弘前医科大学が誕生したが、文部省から一府県一大学の方針が示され、各学校は総合大学の設立へ動いた。
 5校中、弘前市にあったのは弘高と医大だけで、青森師範と医専は青森市、青年師範は野辺地町にあった。一府県一大学の国立大学は通常ならば県都に設立される。青森県でも、青森市にあった青森師範と医専は同市での存続を願っていた。だが青森師範は空襲で校舎を焼失したため、医専と共に師団の跡地があった弘前市に移転した。
 こうして49(昭和24)年5月、青森県の高等教育機関が統合する形で国立弘前大学が開学した。弘高は文理学部、青森師範と青年師範は教育学部、医専と医大は統合されて医学部となった。第8師団司令部の敷地には農学部が入り、弘前公園三の丸の兵器部には教育学部が入った。歩兵第31連隊は弘前市立商業高校、野砲兵第8連隊は柴田女子高校や弘前市立第3中学校、騎兵第8連隊は弘前市立松原小学校が、それぞれ跡地を使用した。衛戍(えいじゅ)病院は国立弘前病院となり、倉庫類は学校や病院の施設の一部となった。師団の建築物で学校に使用されなかったのは、輜重兵(しちょうへい)第8大隊と工兵第8大隊くらいだった。
 戦後間もない頃、弘前公園の三の丸に造られた運動場や野球場は、公園近くの学校が体育の授業や運動会などで使用していた。極度の食糧難や資材難で満足な施設がなかった時代に、弘前公園と第8師団の広大な施設は、民主主義教育の普及を目指した教育施設に活用された。こうして軍都弘前市は、学都弘前市へと生まれ変わったのである。
 ▽弘大野辺地分校
 弘前大学の位置は青森県域の中で西寄りに位置する。八戸市をはじめ、三八上北や下北地域からの通学は困難だった。このため弘前大学は設置当初から野辺地町に分校を設けていた。藩政時代以来の旧弘前・八戸両藩の歴史的関係や、日本海側と太平洋側の地理的・気候的相違などを考慮しての配慮だった。
 野辺地町は津軽地域と南部地域の境界に位置し、下北地域との接点があった。分校は三八上北や下北地域の教員養成や文化の担い手になり、南部と津軽両地域の対立を融和する架け橋にもなっていた。
 53(昭和28)年、文部省が全国的に分校を統合し、本校を充実させる意向を示した。大学側も経営上の合理化対策から、それを受け入れた。このため三八上北や下北地域の市町村や選出議員から、猛烈な反対運動が起こった。だが、60(昭和35)年3月に野辺地分校は廃止され、短い歴史を閉じた。
 ▽八戸高専
 工都八戸市は、国立工業短期大学の設置を進めていた国の方針を受け、国立短大の誘致に乗り出した。61(昭和36)年6月、国会で5年制高等専門学校(高専)の設置法案が公布されると、八戸市では短大を高専と改題して誘致を陳情した。
 そこへ高専法案の成立を待っていたかのように、青森市が誘致に名乗りを上げた。全国の都道府県で国公立の大学や専門学校がない唯一の県都だった青森市は、是が非でも高専が欲しかった。これに対し八戸市は、弘大野辺地分校が廃止さ
れたことで、高等教育
機関の津軽地域偏在を痛感していた。三八地域のみならず、上北や下北地域の活性化のためにも高専を必要としたのである。
 青森・八戸両市の誘致合戦は県議会に持ち込まれ、津軽と南部の選出議員が対立する異常事態となった。議会では7月に特別委員会を設置し調整を図ったが対立は収まらない。そのうちに津軽選出議員の多数派工作が奏功し、8月に委員会は青森市への誘致を決定。南部選出議員が欠席する本会議で強行採決し、青森市誘致を可決した。
 だが文部省は紛争が起きている青森県への誘致を保留し、高専の設置を見送った。このため委員会は誘致場所の選定を文部省に一任し、政府や与党幹部へ青森県への誘致を訴え続けた。
 この過程で八戸市誘致派は、岩手県選出の国会議員や岩手県北の市町村長などの全面協力を得て情勢を有利に展開した。その結果、63(昭和38)年1月に文部省裁定で八戸市への設置が決定。4月に八戸工業高等専門学校が誕生した。
 3年後の10月、第1回八戸高専祭が開かれた。八戸市街地には三社大祭の山車と並び、青森ねぶたや弘前ねぷたが一緒に運行された。高専には青森県の全域、そして岩手県や秋田県から生徒が入学した。祭りの企画や運営は生徒自らが行った。高専の生徒たちにとって津軽と南部の対立は無縁だった。事実、ねぶたの運行は20年近く続いた。
 その後、青森市への公立高等教育機関設置には時間が掛かったが、93(平成5)年に青森公立大学、6年後には青森県立保健大学が開学して宿願は果たされた。しかし実は高専設置前後、青森市には多数の私立大学が開学し、県都の高等教育を支えていた。現在の青森市には、県都にふさわしく数多くの高等教育機関が存在している。
(県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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遺跡語る蓬田の生活=56

2016/10/3 月曜日

 

山田(2)遺跡。陸奥湾を望む=青森県埋蔵文化財調査センター提供
山田(2)遺跡出土遺物=青森県埋蔵文化財調査センター提供
蓬田大館遺跡=青森県史編さん資料

 ▽西部の山地と東部の平野
 蓬田村は桃太郎トマトで有名だが、「村の駅 よもっと」を訪ねると季節の野菜、山菜、陸奥湾のアンコウ、ホタテ、イワシ、カレイなど、新鮮な魚がたくさん並んでいて、いつも人でにぎわっている。村の8割を占める豊かな森と村内を流れる川、そして陸奥湾の恵みがもたらしたものである。
 蓬田村は北津軽郡に接する中山山地と、そこから流れる阿弥陀(あみだ)川、広瀬川、蓬田川、瀬辺地川、長科川の各河川によってつくられた海岸平野からなる。村西部が山地、東部が平野という具合だ。また川に沿って所どころに舌状の台地が張り出している。
 現在、平野だったところは、約2万年前以前の氷期には川がより深く削り込み、陸奥湾内は陸地化したと考えられている。村北部の瀬辺地地区の台地から細石刃石器が拾われている。隣接する外ケ浜町には旧石器時代の大平山元2・3遺跡があり、その頃から人がいたと考えられる。
 その後、約1万5千年前から温暖化が始まる。さらに約7千年前には「縄文海進」と呼ばれる海面の上昇が起きた。現在平野である所の一部も海になったと考えられる。
 ▽縄文時代の蓬田
 小川平川と蓬田川に挟まれた台地上に位置する玉松台遺跡では、縄文時代の前期から晩期にかけての遺物が出土した。そのうち、約7千年前の前期初頭の土器とともに、土器片を加工して漁網用の錘(おもり)にした土器片錘が出土した。縄文海進期の最盛期のころ、人々が陸奥湾で漁をしていたことが分かった。台地のすぐ近くまで海があった可能性がある。
 約7千年前以降、徐々に海は退く。玉松台遺跡では遺構は検出されなかったが、土器は晩期まで出土することから、周辺で継続的に人が暮らしていたと推測できる。
 玉松台遺跡の北、小川平川と瀬辺地川に挟まれた舌状台地に位置する山田(2)遺跡は、約5千5百年前の縄文時代前期後葉から後期後葉にかけての多くの遺構と遺物がみつかった。
 中期の集落は竪穴住居跡、貯蔵穴であるフラスコ状土坑、墓、捨て場などがあり、遺構は台地の平坦(へいたん)部に沿って直線的に並んで作られていた。食料などを保存するための貯蔵穴が288基見つかり、通年でこの場所で暮らしていたと考えられている。
 近接する山田(4)遺跡からは中期前半の水場遺構が検出され、周辺からトチノキの種子が出土しており、当時、トチノキの加工を行っていたと考えられている。海退期に谷が埋まりトチノキが生育する場所が増え、それを利用した可能性がある。
 約4千2百年前ころに地球規模でやや寒冷な気候となり、人の生活にも影響があったと考えられている。しかし、山田(2)・(4)遺跡では集落が継続しており、大きな影響は感じられない。
 ▽古代の蓬田
 蓬田川の左岸に位置する蓬田大館遺跡は、10世紀から11世紀にかけての空堀によって区画された防御性集落である。空堀内外から住居跡が検出され、集落が台地上全体に広がっていた。また、住居跡が重複して作られていることから、人々が継続して住み続けたと考えられている。
 遺跡からは鉄製の釣り針、鉄を生産する際にできる鉄滓(てっさい)、製塩土器などが出土していることから、集落内で鉄生産や製塩を行っていたと考えられている。さらに北海道と共通する文様を持つ擦文(さつもん)土器が多量に出土し、北海道との交易の拠点であった可能性もある。
 蓬田大館遺跡より南の、阿弥陀川右岸の標高約10メートルの台地上に、小舘(1)遺跡がある。蓬田大館遺跡とほぼ同時期で、竪穴住居跡、井戸跡、鍛(たん)冶(や)跡などが見つかった。蓬田大館遺跡と同様に擦文土器、鉄生産に関わる遺物が多く出土した。
 ▽海と山の恵み
 古代の遺構は、山田(2)遺跡、玉松台遺跡からも見つかっている。海洋堆積物や土壌分析から、9世紀頃に温暖化があり、縄文時代の温暖化に匹敵する気温上昇であったことが分かってきた。しかし、10世紀以降から徐々に寒冷化する。蓬田大館遺跡、小舘(1)遺跡は、寒冷化が始まる頃から集落が営まれており、縄文時代の山田(2)・(4)遺跡と傾向が類似する。
 海岸に近い舌状台地は、目の前に広がる陸奥湾と背後にある中山山地の双方の資源を利用できる。現に蓬田大館遺跡では、鉄製の釣り針が出土している。縄文時代の山田(2)遺跡では、トチノキなどの堅果類の加工に使用する石器類が多く出土している。
 人々は海の幸、山の幸を利用して、環境の変化に柔軟に適応しながら、長期間にわたって暮らし、それは今にも引き継がれているのである。
(県民生活文化課県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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歴史紡ぐ黒石温泉郷=55

2016/9/19 月曜日

 

温湯温泉の共同浴場=1980~90年代・青森県史編さん資料
落合温泉にあった国民宿舎「西十和田荘」=1961(昭和36)年頃=青森県史編さん資料
板留温泉と川の間近にあった共同浴場「中の湯」(手前)=1950年代・青森県史編さん資料

 1958(昭和33)年、浅瀬石川沿いの温泉群が黒石温泉郷県立公園(後に県立自然公園)に指定された。翌年、弘南バスが弘前~黒石~十和田湖の子ノ口までバス路線を開通させた。そこで青森県や黒石市は、温泉郷を十和田湖への西口(黒石口)路線に位置づけ、観光宣伝に乗り出した。温泉郷の中心を担ったのは温湯、落合、板留の各温泉だ。いずれも近距離に位置するが、それぞれ独特の歴史を紡いできている。
 ▽温湯温泉
 温湯温泉は「鶴の湯」と呼ばれる共同浴場を中心に、周りを客舎が取り巻く典型的な湯治場だった。客舎とは内湯を設けていない宿泊施設をいう。湯治客は共同浴場を使い、客舎で自炊しながら寝泊まりして過ごすわけである。
 湯治は文字通りの療養である。このため長期滞在できるように、温湯には八百屋、魚屋、酒屋をはじめ、呉服店や理髪店、料理屋や家具屋、そして医院など、何でも一通りそろっていた。生活していく上で不自由なことはなかったという。
 59(昭和34)年2月、老朽化した木造の浴場に代わり、新しい浴場が誕生した。源泉が低地に自噴するため、旧浴場と同様に新しい浴場も半地下構造の造りだった。だが娯楽使用のために屋上を設けた点が、当時としては斬新な建物と映った。
 毎年7月の丑湯祭では、客舎や旅館の女将(おかみ)をはじめ温湯の女性たちが、屋上で華やかな踊りを披露した。8月の盆踊りには近辺の集落からも、老若男女が屋上に上がって踊りを楽しんだ。半地下の建物だから、屋上の高さは客舎の1階と2階の間に位置する。湯治客や観光客は、客舎内から浴場の屋上を舞台に見立て、大いに祭りを楽しんだ。
 2001(平成13)年11月、老朽化のため浴場が新築され、現在の浴場となった。機械動力で泉源を引き上げたため、浴場は地上に建てられた。しかし、温湯の娯楽空間として親しまれた屋上はなくなった。
 現在、湯治は温泉利用の主役ではなくなったが、温湯には明治・大正期の客舎や旅館が残っている。後藤客舎や飯塚旅館、盛萬客舎など、いずれも湯治場時代の雰囲気を残す貴重な建物だ。今後、温湯の人々が建物を維持できるように、われわれ利用客が旅館や客舎に宿泊して楽しむことが最善の貢献策になろう。
 ▽落合温泉
 落合温泉に初めて共同浴場ができたのは1934(昭和9)年12月である。当時は自前の泉源がなく、浅瀬石川上流の沖浦と二庄内付近から引湯する小さな温泉場だった。38(昭和13)年、千年孝次郎が内湯や庭園を備えた和風の豪華な落合ホテルを開業後、落合の名は周知され山形温泉郷(現黒石温泉郷)の仲間入りを果たした。
 戦後、自前の泉源を求めて掘削し、隣地の板留との間で「温泉騒動」となったが、双方で平等に掘削することで、55(昭和30)年2月に示談が成立。ようやく落合は自前の泉源を持った。
 61(昭和36)年12月、十和田湖西口(黒石口)の観光路線を強化するため、黒石市営の国民宿舎「西十和田荘」が開業した。当時の厚生省(現厚生労働省)は、国民宿舎の周辺に娯楽施設を設けて国民休暇村とする計画を推進していた。この計画に沿って68(昭和43)年8月、温水プールで南国の雰囲気を売り物にした「サニーランド」が、現在の温泉旅館「花禅の庄」近くに開館した。
 72(昭和47)年8月、板留と落合を結ぶ木橋の嘯月(しょうげつ)橋が鉄筋コンクリート製になり、翌年6月から弘南バスが落合を経由するようになった。巨大な観光施設を有し、交通上の便宜も得た落合は黒石温泉郷の中心的役割を担うようになった。
 しかしサニーランドや西十和田荘などの巨大遊楽施設は、比較的短期間の間に経営難となって閉館した。また、浅瀬石川ダムの建設に伴い、国道102号が黒石温泉郷の背後へ架け替えられ、落合や黒石温泉郷自体は素通りされる懸念が強まった。
 だが80(昭和55)年から、黒石温泉郷周辺の住民は「温湯こけし」を保存し、後世へ伝承するため「こけしの里づくり」を開始した。「全国伝統こけし収集の旅」や「こけしの里マラソン」など、住民活動が根強く続けられた。その成果が行政当局を動かし、88(昭和63)年4月、国民宿舎跡地に「津軽こけし館」が開館した。
 レジャーランド施設がなくなった落合だが、95(平成7)年10月に落合大橋が落成。2000(平成12)年4月には、津軽こけし館に「津軽伝承工芸館」が併設された。地元文化継承施設を中心に、自動車社会にも対応した里山の温泉郷として、落合は今後も黒石温泉郷の重要な一翼を担い続けていくだろう。
 ▽板留温泉
 板留温泉は山並み迫る浅瀬石川河岸の高台に旅館が並ぶ温泉郷だ。かつては、川沿いの上流から下流に向かって、上の湯、中の湯、下の湯と呼ばれる三つの共同浴場が並んでいた。湯治客は三つの浴場を使い分け、浴後には坂や階段を上り、道路沿いに並ぶ客舎で自炊し寝泊まりした。
 湯治場だった板留だが、温湯や落合と同様、高度経済成長に伴い観光利用が強化された。その象徴的存在が、65(昭和40)年5月に開業した県内で初めてのユースホステルであろう。
 しかし板留に最も大きな影響を与えたのはダムである。温泉場の近くには「落し滝」と呼ばれる景勝地があった。実際には浅瀬石川の渓流の一つだが、かつては水量が豊富だったため、滝のような勢いがあった。45(昭和20)年に沖浦ダムができ、水量調節されてから豪快な流れが影を潜めたという。
 沖浦ダムは老朽化と治水機能の低下により、88(昭和63)年の浅瀬石川ダム建設に伴い、沖浦の集落や落し滝とともに水没した。ダム建設の前後から、板留でも湯治より観光利用が中心になり、客舎も内湯を設けて旅館や民宿に変わった。川沿いの共同浴場も、ダムの建設に伴う浅瀬石川の護岸工事とともに、治水と安全対策上から撤去された。代わりに眼前には巨大な浅瀬石川ダムが見えるようになった。
 近年、浅瀬石川ダム管理所は黒石温泉郷と歩み寄り、共存の姿勢を見せている。温泉宿泊者を対象に実施したダム見学会は、多くの観光客が集まり大盛況だった。ダムを間近に控える板留にとって、ダムとの共存は今後の温泉のあり方を考える上で重要な鍵になる。それは落合や温湯も同様であろう。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹・中園裕)

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