津軽の街と風景

 

藩境枢要地の大間越=53

2016/8/15 月曜日

 

大間越番所跡。春先にフクジュソウが咲く。2009(平成21)年3月19日・筆者撮影
大間越番所の遠望。秋田側から見る。国道トンネルの上あたり。2016(平成28)年7月23日・筆者撮影
「御国縮図並弘前其外所々図」より大間越の図。年代不詳だが、地形的特徴をよく伝える。弘前市立博物館蔵(『青森県史資料編近世2』口絵掲載)
大間越の春日祭。漁船から「春日丸」を海に流すところ。2007(平成19)年6月9日・清野耕司さん撮影

 ▽大間越番所
 旧岩崎村(現深浦町)南部の大間越は、秋田県八峰(はっぽう)町と相対する県境の集落である。現在は戸数約120戸と、さして大きな集落ではないが、かつては弘前藩「三関」の一つである枢要の地だった。三関とは、藩が主要な街道においた関所(対外的には「番所」と称した)のことで、西浜街道の大間越、奥州街道の野内(現青森市)、羽州街道の碇ケ関(現平川市碇ケ関)を指す。大間越は秋田藩と接していた。
 この地を通る西浜街道は弘前から鯵ケ沢を経由して、現秋田県の能代に至る街道である。現在の県道31号と国道101号に相当する。今ではローカルな街道のイメージがあるが、江戸時代初期は弘前藩主の参勤交代路だった。
 しかし、その後碇ケ関から矢立峠を越える羽州街道が整備され、1665(寛文5)年以降は同街道が参勤交代路に代わり、幹線路としての機能は薄れた。1718(享保3)年7~8月の津軽三関の通行者数をみても、碇ケ関930人、野内413人に対し、大間越は168人と最も少なかった(『岩崎村史』上巻)。しかし、沿線に鯵ケ沢、深浦という港湾を有し、また幕末には異国船の出没に伴い沿岸警備の藩士の往来も増え、再び通行量は増した。大間越に1805(文化2)年に大砲台場が設置されている。
 大間越は山がすぐ日本海まで迫っている。現在の国道101号や五能線はトンネルで抜けるが、かつての西浜街道は山越えをしていた。その峠に当たる部分に番所が置かれたのである。海岸線を眼下に見下ろし、往来の取り締まりや藩境の警備に適した場所となっている。現在は「福寿草公園」となっており、春先には黄色い花が姿をのぞかせる。跡地には標柱が立ち、番所や柵の配置が想定できる平坦(へいたん)地がある。
 一方、番所北側の山麓にある大間越の集落には、町奉行所や藩主が領内巡検の際に滞在する「御仮屋(おかりや)」が置かれた。町奉行は2人で、4カ月交代で勤務した。跡地は大間越小学校の敷地となっていたが、1972(昭和47)年に廃校となり、現在は大間越地区コミュニティセンターになっている。枝ぶりの良い老松が1本残る。1869(明治2)年の大間越の戸数は60戸で、うち11戸が町奉行所関係の役人だった。
 ▽ガンガラ穴
 旧岩崎村南部は十二湖が著名な観光地であるが、それ以外の名勝もある。森山海岸にある海食洞「ガンガラ穴」は小舟で探索することができるが、幕末期に松浦武四郎(「北海道」命名者)も訪れ、その様子を記録している。
 このガンガラ穴の近くには中世城館茶右衛門館がある。慶長年間(1596~1615)に豪族小野茶右衛門の居館だったとされる。伝承では茶右衛門は地位を利用して海賊行為を働き、2代藩主津軽信枚の代に討伐されたという。ガンガラ穴は小野一党の船の隠し場だったと伝わる。
 森山地区の南にある松神地区、国道101号沿いには津軽地方で珍しい曲屋(まがりや)大屋家住宅が残っている。江戸時代の建築である。大屋家の祖先は南部の七戸から土着したと伝えられ、同家の祖久六は茶右衛門の船頭で、青森県・秋田県の所属問題で争った「久六島」を江戸初期に発見したと言われ、その絵図が同家に残る。
 ▽鹿島祭
 大間越をはじめ、黒崎、松神といった旧岩崎村南部の集落に特徴的な民俗行事に鹿島祭(大間越では春日祭と称す)がある。毎年田植えが終わったころに、疫病退散、豊作・大漁祈願を目的に行われ、1984(昭和59)年に県無形民俗文化財に指定された。
 北関東や東北では、人形に悪神を封じ込めて舟に乗せて海や川に流す「鹿島流し」といわれる習俗があるが、その一種である。県内で現在行われているのはこの3集落のみだが、隣接する秋田県八峰町などでも実施されている。
 海に流すのは、大間越では「春日丸」と呼ばれる北前船を模したミニチュアの船である。ここに乗組員を模した7体の人形やお供えを乗せ、笛や太鼓の囃子(はやし)に合わせ集落を練り歩く。夕方、漁港近くの砂浜から村人が舟を担いで海に入り、その後漁船で沖合に運ばれ、海に流されるのである。
 かつては青年団により行われていたが、1980(昭和55)年に解散してからは大間越郷土芸能保存会のメンバーにより担われている。大間越には他にも、県の無形民俗文化財に指定された獅子舞があるが、これも同メンバーにより続けられている(青森県史叢書『西浜と外ケ浜の民俗』)。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹・中野渡一耕)

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太宰とゆかりの小泊=52

2016/8/1 月曜日

 

小泊漁港。沖合に見えるのは北海道の渡島半島。1958(昭和33)年・青森県史編さん資料
小泊村の漁民たち。1966(昭和41)年11月10日・青森県史編さん資料
イカを干す女性。1966(昭和41)年11月10日・青森県史編さん資料
龍泊ライン。眺瞰台展望台から権現崎方面を望む。2007(平成19)年6月10日・田澤晃さん撮影

 ▽小説『津軽』と小泊
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお座りなりせえ」とたけの傍らに坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。
 これは金木町(現五所川原市)出身の作家太宰治が、1944(昭和19)年に発表した『津軽』のクライマックスで、乳母の「たけ」に再会する学校の運動会の場面である。当時の運動会は村を挙げての大イベントで、村民のほとんどは仕事を休みにし、掛小屋して運動会を見物しに行った。
 筆者は高校教員として勤務しているが、1988(昭和63)年の新採用で最初に赴任したのが金木高校小泊分校だった。そのときも小学校の運動会は小泊村(現中泊町)の人々が集まり、掛小屋も行われていたように記憶している。
 『津軽』ではその後、修治(太宰)とたけが掛小屋の後ろの砂山(地区名)で30年ぶりの再会を喜び、小説は終わる。この場所には1996(平成8)年、小説「津軽」の像記念館が設立され、村内の観光に一役買っている。
 金木町出身の太宰治による津軽風土記として発表された『津軽』は、全国に津軽を紹介するとともに、津軽半島の端に位置する漁村に過ぎなかった小泊村を、幼少期の太宰治(本名、津島修治)の育ての親が暮らした土地として、太宰ファンのみならず、『津軽』の読者に興味を持たせた。
 かく言う筆者も、太宰ファンではないが、『津軽』読後、たけの嫁ぎ先である越野金物店を訪れて、たけの血筋の方に会い、小説に綴(つづ)られるたけを感じようとした一人だった。
 ▽イカの村
 小泊村は1889(明治22)年の市制町村制施行後、2005(平成17)年に中里町と合併して中泊町となるまで、他の町村と合併することなく一村で存続した。主な産業は漁業であり、中でも北海道沿岸でのイカ漁が盛んである。
 小泊村において、北海道沖でのイカ漁が盛んになるのは大正期に入ってからである。小泊や下前の漁民は8月中旬から11月まで、北海道の松前に6~12人ほどが乗り込む船で出漁した。松前でのイカ漁は、一家を挙げて移り、従事した。男はイカ漁、女はスルメ加工を行い、子どもは松前の小学校で委託教育を受けた。そのため漁期になると、小泊や下前の小学校は児童が減り、松前の小学校は増えるため、机が足りなくなったという。
 津軽半島西海岸のイカ漁根拠地となっていた小泊漁港は、古くから松前への風待ちなどに利用された港で、現在は西海岸における唯一の第4種漁港となっている。離島その他辺地にあって、漁場の開発または漁船の避難上特に必要な漁港のことである。
 小泊村の漁民は、漁期になると船上し、八戸港に入ることもあるという。小泊村の漁民にとって、隣村の市浦村(現五所川原市)や中里町(現中泊町)より、海を介して県内各地や北海道の漁港を持つ地域の方が身近に感じていただろう。
 ▽龍泊ライン
 小泊村は産業の基盤を漁業に依存していたが、漁のできない冬季は出稼ぎで収入を得なければならなかった。出稼ぎによる人口減少は、村の活気を失わせるとともに、家庭に長く両親がそろわない状況が子どもの教育問題にもなっていた。
 こうした問題に対して、小泊村は1963(昭和38)年頃から観光開発運動に取り組むことになる。運動の成果は1975(昭和50)年、小泊村を含む津軽地域が津軽国定公園に指定されたことで、一定の効果となって示された。しかし、そのために小泊と龍飛の道路整備が不可欠となった。
 小泊―龍飛間は地図上では道路がありながら、実際には道路がなく、「幻の県道」と呼ばれていた。県道の整備工事は1972(昭和47)年から開始され、3年後に国道339号へ昇格し、1982(昭和57)年に貫通する。小泊―龍飛間は「龍泊ライン」と称され、眺瞰台(ちょうかんだい)から左側に岩木山、七里長浜、権現崎が、右側に龍飛灯台、正面に北海道が一望できる。こうして「龍泊ライン」は小泊村の観光開発に貢献することになった。
 筆者が勤務していた小泊分校は夜間定時制で、生徒は仕事を終えてから登校してきた。その中にイカ漁に従事していた生徒が数人おり、欠席の多くなる漁期の学習を補うため、冬季に漁を切り上げる毎晩遅くまで補習授業を行ったものだった。
 また、生徒の家庭訪問で下前地区に行くと、生徒の自宅の茶の間から海の向こうに岩木山が見えた。その景色の美しさは今も目に焼き付いている。その小泊分校は2008(平成20)年3月、廃校となった。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

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生活に生きる日本刀=51

2016/7/18 月曜日

 

武家屋敷の長押(なげし)に架けられた槍と薙刀。弘前市仲町
袴着の記念写真。1938(昭和13)年、弘前市仲町
弘前藩士の剣技。近世後期、本覚克己流和伝書、弘前市個人蔵
津軽神楽「宝剣」の舞。2008(平成20)年、高照神社祭礼

 ▽身近な存在
 現在、若い女性たちの間でブームとなっている「日本刀」は、現代では特別な「美術工芸品」である。しかし1世紀半前まで、刀剣類は日本人にとって身近な存在であり、長い日本の歴史の中では、ともに暮らしていた時代の方がはるかに長いのである。
 しかしなぜ日本刀が生まれたのかは明らかになっていない。現在の研究では、北海道と東北地方を重要地域として、上古刀、直刀、蕨手刀が影響し「弯刀(わんとう)」「鎬造(しのぎづくり)」「着脱可能な鎺(はばき)がある構造」という、日本刀の基本的構造が、平安期に完成されたという(佐藤矩康『北の出土刀を科学する』)。
 なお、近世の弘前藩士たちの間には「神代には両刃の剣があったが刀は無かった大宝年間(701~704年)から剣を割いて太刀や刀とした」という伝承があった(「卜傳流剣術目録秘書」)。また、日本刀誕生には、舞草(もくさ)鍛冶という、現在の岩手県一関市一帯で活躍した古代の刀工集団が深く関わったとされるが、その流れが津軽にも伝わった。15世紀に浪岡北畠氏の招きで津軽へ移住した刀工森宗がその一派であり、その刀剣類が津軽各地に現存する。
 ▽独自の精神観
 日本刀は独自の精神観も生んだ。古代中国から伝わった剣が、天と地を結ぶ存在となり、平安期に武家と結びつく。中世には修験と結びつき、近世には精神世界のシンボルとなる。やがて神仏の刀剣観、皇位や武の刀剣観、精神を表す刀剣観が融合し、近世武士の剣術伝書類などに反映された(酒井利信「日本精神史としての刀剣観」)。
 一方、現実の日本刀は武具や美術工芸品であり、近世には大小二本を帯びることが武士の証しとなる。当時の弘前藩士たちは「刀剣を帯びなくては武士とはいえない。その技を知らなくては敵を討つことができない。よって修練をして非常を制し治民の一助とする」という心構えがあった(「卜傳流剣術目録秘書」)。
 このため各藩士の家では「袴着(はかまぎ)」といって、5歳になった男子が初めて袴を着けて帯刀する人生儀礼が伝承され、その日から武芸稽古が始まった。帯刀を前提とした礼儀作法の体系が機能していた。かつて藩士たちが集住していた旧弘前城下仲町地区の武家住宅構造や日々の暮らしの中には、いまもなお、その伝承要素が散見される。
 ▽人びとに広く浸透
 一方、日本刀は武士固有のものではなかった。一部の都市民や村落住民の間でも用いられていた。例えば、近世から昭和初期までの津軽地方で、毎年繰り返された夏のネプタ喧嘩(けんか)では、武家奉公人や町人、近代市民の一部までが刀槍を用いた(拙論「争うネブタの伝承」)。また17世紀の弘前藩剣豪浅利伊兵衛は、武士以外にも町人50人にも武芸を教えている(太田尚充『津軽の剣豪』)。
 村落では、刀剣類を模した採り物で災厄を払う「太刀振り」などの民俗芸能が継承され、神社では刀剣を使う津軽神楽が奉納された。さらに近年までの津軽地方には、子どもの誕生や結婚記念に御守刀を注文打ちする人々がいた。葬儀では死者の枕元に刃物や短刀などを供え魔除(まよ)けとした。このように日本刀は公家や大名、武士層だけではなく、神事や民衆の祈願、人生儀礼とともにあった。
 しかし近代初頭、刀剣文化の主な担い手である武士層が解体され、1876(明治9)年の廃刀令で刀剣類の携行が禁止された。日本刀は人々の暮らしから急速に退場し、製作技術の一部が農具製作へと受け継がれた。さらに第2次世界大戦後には、GHQが多くの刀剣類を没収した。1958(昭和33)年には、いわゆる「銃刀法」が施行され、許可された刀剣類以外は原則的に所持が禁止された。
 ▽生きる歴史資料
 このような社会変容に伴い、人々の日本刀へのまなざしが変化していく。例えば、弘前藩士比良野貞彦は1780(安永9)年の「刀剣記」の中で、刀剣の審美眼だけではなく、武具として使えるかどうかも大事だと述べている。
 しかし近代以降は、このような武士としての職能による刀剣観や礼儀作法などの多くが失われた。そして近現代社会の法律と需要に応じて、刀剣類を「美術工芸品」とする観念が主流となる。そのためか、現代では日本刀を貴重な「歴史資料」「美術工芸品」として称賛する一方、家伝の貴重刀剣類であっても「忌まわしい存在」として廃棄処分してしまう事例が少なくない。
 そのような中近年は日本刀が、国内外の若者を中心としたゲームやアニメなどの異分野と結びつき、時に商業的に加工され各種マスメディアによって流布し、全く新しいイメージや活用方法が誕生しつつある。それを受けて日本各地の博物館でも、鑑定眼のある中高年層向けに貴重刀剣類を紹介する従来型の展示とは異なる、新しい趣向の企画展や特別展が開催されている。例えば、青森市の青森県立郷土館でも7月15日(金)から8月28日(日)まで、貴重な刀剣類と周辺文化を多角的に取り上げ、初心者向けの講座も行う特別展「刀剣魂」が開催中だ。
 このように日本刀は現代もなお、社会の変化とともに変容しながら生き続けている歴史資料である。やがて私たちの中から、新しい「日本刀」像が形成されてくるのではないか。
(青森県史編さん執筆協力員・小山隆秀)

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「交流の窓口」今別=50

2016/6/27 月曜日

 

青函トンネルを抜け奥津軽いまべつ駅へ向かう上り一番列車のH5系「はやぶさ10号」3月26日午前7時21分、今別町・青函トンネル入口広場から撮影・陸奥新報社提供
奥津軽いまべつ駅・陸奥新報社提供
山崎遺跡の発掘調査風景。1980(昭和55)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供
三厩湾空撮。1999(平成11)年5月・青森県史編さん資料

 ▽北海道新幹線
 今年3月に北海道新幹線が開業し、奥津軽いまべつ駅は本州最北端の駅として注目を集めている。新幹線は奥津軽いまべつ駅を過ぎると、程なく青函トンネルに入り、津軽海峡を越えて北海道に至る。
 津軽海峡は日本海と太平洋を結び、親潮や津軽暖流の流れに影響を与える重要な海峡である。交通の要衝でもあるが、潮の流れが速く海難事故も多発している。しかし、その障害を越えて旧石器時代から現代まで北海道との交流は盛んに行われていた。
 ▽旧石器時代の津軽海峡
 約2万年前は氷期であり、地球規模で寒冷な時代だった。海水温が下がり日本海は海流が流れ込まず湖のようになった。津軽海峡も最深部を除き、凍った大きな河のようだった。北海道ではナウマンゾウが出土しており、津軽海峡を越えて北海道へ渡った。また、県内の遺跡から出土した旧石器には、北海道を中心に作られた石器があり、北海道から人や技術が伝わったと考えられている。
 今別町の山崎遺跡は、三厩湾に面する海岸段丘上に立地する遺跡であるが、黒曜石で作られた旧石器時代の石器が出土している。石器は北海道を中心に東北地方へ広がった湧別(ゆうべつ)技法という方法で作られていた。北海道から渡ってきた人が持ってきたか、北海道から技術が伝わったと考えられている。
 ▽温暖化による海峡の変化
 約1万5000年前から約1万年前にかけて、急激に気候が暖かくなり、現代の気温に近づき後氷期と呼ばれる時代になった。温暖化により南から黒潮が北上し、約1万1600年前以降に対馬海峡から日本海へと流入した。暖流は日本海を北上し、約1万1200年前以降、津軽海峡へ流れ込んだ。約9000年前以降、暖流の津軽海峡への流入量は増加する。
 その結果、冬期に日本海でシベリアからの寒冷な風が暖流により温められることによって、日本海側沿岸で雪が降るようになる。青森県の日本海側の植生は、降雪により乾燥した場所を好むコナラなどから雪に強いブナを中心とした森林へ変化した。
 地球規模での温暖化は「縄文海進」と呼ばれる海水準の上昇を起こした。約7000年前をピークに徐々に海水準は下がり、約4500年間には気候の寒冷化も加わり、ほぼ現在の海岸線と同じまでになった。 
 ▽縄文時代の今別
 今別町では国道の改良工事などに伴い、浜名遺跡、中宇田遺跡、西田遺跡、五郎兵衛山遺跡、そして前述の山崎遺跡が発掘調査された。いずれも三厩湾に面する海岸段丘で海に注ぐ河川沿いに立地している。遺跡の時期は縄文時代中期中葉から後期初頭、晩期が中心である。
 山崎遺跡では中期中葉から後期初頭の竪穴住居跡や、貯蔵穴と考えられるフラスコ状土坑が土器や石器などの捨て場が見つかり、人々が一定期間住み続けたことを示している。
 約5000年前の縄文時代中期中葉から約4300年前の後期初頭は、徐々に海水準が低下した頃である。実は海水準が上がると陸地の河川での浸食が進み、海水準が下がると河川の埋積が起こる。
 縄文人が河川を利用した遺構が県内から見つかっているが、いずれも流れが穏やかな場所を選んでいる。海退によって流れが緩やかになった小河川を利用できるような場所を選択していたかもしれない。また植物加工に使用した石器が多く出土しており、海に面する場所で暮らしていたが、クリやトチノキなどの植物質食料も多く利用していたことが考えられている。
 中宇田遺跡からは後期中頃の竪穴住居跡が見つかっている。さらに浜名遺跡から晩期の土坑などが見つかっており、縄文時代中期以降、三厩湾に面した段丘上に人が住み続けていたことが考えられている。
 ▽北とのつながり
 青森県の縄文時代前期から中期にかけて隆盛する円筒土器文化は、その範囲が北では道南地方まで広がる。津軽海峡を挟んで技術などを共有し、物の交流も行っていた。例えば北海道でクリはもともとなかったが、縄文時代前期以降、道南地方を中心に遺構からクリの果実やクリの材が出土し、一方で県内の遺跡から北海道産の黒曜石が出土する。縄文時代晩期の亀ケ岡式土器も津軽海峡を挟んだ対岸の遺跡から出土している。
 山崎遺跡では弥生時代の土器も出土している。土器の文様から、津軽・下北両半島と道南地方に分布する二枚橋式土器であることが分かった。その後、北海道の続縄文文化の影響を受けた土器が青森県内に分布する。
 以上のように、発掘調査で見つかった遺跡や遺物などからみても、旧石器時代から弥生時代まで、土器や石器などの道具で暮らしてきた人々は津軽海峡を越えて行き来し、物や情報を共有していた。今別の地は、昔も今も北との交流の窓口であったと思われる。
(青森県県史編さんグループ主幹 伊藤由美子)

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郷土菓子に歴史、風土=49

2016/6/6 月曜日

 

鯵ケ沢町の「鯨餅」と浅虫温泉の「久慈良餅」。「鯨餅」には岩木山と西海岸、「久慈良餅」には湯ノ島や夏泊半島など、郷土の美しい風景が描かれている(中園裕撮影)
各地で作られている梅干菓子。左から弘前市の「干乃梅」、黒石市の「干梅」、五所川原市金木町の「甘露梅」(中園裕撮影)
バナナ最中(『青森の暮らし』401号、グラフ青森より転載)
色々な南部煎餅。津軽地方でも南部煎餅は作られている。南部煎餅には「三階の松」や「菊水紋」の模様が描かれることが多い(下段右2枚)

   ▽餅菓子 ~久慈良と鯨~
 青森県内には多数の郷土菓子が存在する。津軽地方で有名な餅菓子のくじら餅は、1918(大正7)年5月に開催された二市八郡菓子(あめ)品評会で注目された。餅菓子が土産品として携帯性や保存性に優れ、弁当の代用にみなされていたからだった。その時の出品概評で、浅虫温泉の永井源三郎(永井元祖久慈良餅本舗)が作った「久慈良餅」は、手軽で便利な餅菓子だと評価された。
 久慈良餅は1907(明治40)年頃、日露戦後の傷(しょう)痍(い)軍人らが転地療養のため浅虫温泉に滞在したことを契機に誕生した。これ以降「東北の熱海」と称された浅虫温泉の隆盛とともに、久慈良餅を作る菓子屋が増え、土産品として定着した。
 久慈良餅は、鯵ケ沢町の元祖「鯨餅」を作った中村家から製法を習得したものだった。同家の中村順助が作った鯨餅は「順助の鯨餅」と宣伝された。昭和初期には町内で鯨餅を販売する店が増え、町を訪れた人々は必ず鯨餅をお土産にしていた。
 注目すべきは、鯨餅が鳴沢村(現鯵ケ沢町)の山田野演習場の御用菓子であり、軍人らの間食用として納品されていたことである。鯨餅は比較的安価で日持ちがよく、固くなっても炙(あぶ)れば美味(おい)しかった。鯨餅は除隊土産としても人気だった。
 ▽梅干菓子 ~甘露梅・干梅・干乃梅~
 餡(あん)を求(ぎゅう)肥で包み紫蘇(しそ)の葉でくるんだ菓子は、津軽地方に広く見られる。近代では、金木町(現五所川原市)の虎屋「甘露梅」と、黒石町(現黒石市)の松葉堂まつむら「干梅」、弘前市の開雲堂「干乃梅」が著名であろう。いずれも炎暑で腐敗や味が劣化しないよう工夫を施された菓子である。そのため東京のデパートで開催される菓子陳列会や、札幌や小樽の県立物産館など県外へ出品されていた。
 虎屋の甘露梅は、1907年頃に創製された。菓子名を甘露梅と改めさせたのは、皇族から京都瑞龍寺の門跡となった村雲日栄尼だった。虎屋では、村雲御門御用達の看板を掲げ、京都瑞龍寺へ甘露梅を納品していた。現在、金木町内で複数の菓子屋が甘露梅を製造販売している。
 松葉堂まつむらの干梅は、1915(大正4)年に津軽地方で行われた陸軍特別大演習の際、宮内省(現宮内庁)が買い上げた逸品である。その後は、県当局を経由せずに宮内省へ直接納入されることになったという。
 1928(昭和3)年に行われた弘前名物選定の一つが、開雲堂の干乃梅である。選定では、簡易な製造法を公開することが要請されていた。干乃梅は市内多数の菓子屋で作られ、昭和戦前の弘前市における土産品の一つとなった。
 ▽バナナ最中
 バナナ最中は、弘前市富田のいなみや菓子店2代目である稲見與次郎が創製したものである。かつて弘前市の菓子屋では、その年の勅題にちなむ「新菓」を元旦に作る慣習があった。しかし、與次郎は新しいものを求めて上京した。1913(大正2)年、新橋駅から大阪方面の汽車内でバナナの芳香に魅了された彼は、大阪駅に着くと早速バナナを食べた。弘前市に帰った彼は、バナナの芳香と味を持つ菓子作りに励み、1916(大正5年)の元旦に新菓としてバナナ最中を発売した。現在、弘前市をはじめ津軽地方や秋田県北にバナナ最中が分布するのは、いなみや菓子店で修業した菓子職人たちが、各地域で独立開業したからである。
 他方、1916年に創業し、弘前市本町にある旭松堂の初代山本万次郎も、バナナの芳香と味覚に魅了された菓子職人だった。彼は昭和初期にバナナを再現する形でバナナ最中を作り販売した。
 近代の弘前市には第8師団が設置されていた。将兵たちはバナナ最中を弘前市当地の味として、次の赴任地に移ってからも注文した。それほど人気を集めた菓子だった。
 ▽南部煎餅
 菓子類は皇族や軍隊と関わって有名になったものが多い。これに対し南部煎餅は、県南地方や岩手県北の凶作や冷害を受けやすい地域で生まれた。
 1929(昭和4)年、八戸町の市制施行に伴い、南部煎餅は八戸市を代表する菓子として積極的に宣伝された。当初、南部煎餅の由来は坂上田村麻呂の兵糧食と紹介されていた。ところが1935(昭和10)年前後から、長慶天皇の伝説へと変化している。これは当時、八戸市や三戸郡内で長慶天皇や楠木正成、そして根城築城に関する数々の記念祭が挙行されたためだろう。南部煎餅の菊水紋は楠木正成を連想させたに違いない。
 南部煎餅は携帯性や保存性が高い。このため戦時体制の強化に伴い、陸軍の軍用食として採用された。携帯性や保存性に富むという土産物の特質が、軍の携帯食になったことは興味深い。この点は餅菓子に通じるものがあろう。
 ▽歴史と風土を味わえる
 青森県内の郷土菓子には、第8師団が存在しヤマセが強く吹き付ける凶作地帯であるなど、青森県の歴史や風土が大きく関わっている。郷土菓子というと、林檎(りんご)製菓子のように、地域の特産物を材料に用いた菓子を想起する。しかし、くじら餅や梅干菓子、バナナ最中などは、いずれも地域に密着し、特定の地域に分布して名前や形が特有である。そして相応の歴史を有する。南部煎餅には厳しい自然環境を克服してきた特徴も備わっている。郷土菓子は、郷土の歴史と風土が詰まった青森県にとって大切な菓子なのだ。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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