津軽の街と風景

 

弘前市官庁街の建物=89

2018/4/16 月曜日

 

写真1 1915(大正4)年の弘前市官庁街=青森県史編さん資料
写真2 一番町から見た弘前警察署=大正期・青森県史編さん資料
写真3 親方町にあった頃の第五十九銀行本店=明治末期・青森県史編さん資料
写真4 旧弘前市役所庁舎とりんごの女神像。当時、庁舎は弘前市の農協が利用していた=1963(昭和38)年6月8日・提供=中園裕

 ▽三つの建物
 1915(大正4)年に撮影された弘前市街の写真を見ると、市街地の背後に三つの洋館風な建物が並んでいる(写真1)。このうち写真中央の望楼付きの建物が弘前警察署で、その左に五つの三角屋根が重なって見えるのが弘前市役所だ。いずれも元寺町にあったが、その左隣の大きな建物は親方町にあった第五十九銀行(後に青森銀行)の本店だ。背後の茂みは弘前公園である。
 時代によって多少異なるが、戦前から戦後の高度経済成長期まで、元寺町周辺が弘前市の官庁街だった。ここは繁華街である土手町より高台にある。このため「お役所」の建物は市民の集まる街場から「お高い」位置にあった。
 写真1は土手町の「角は宮川呉服店」から撮影したものである。「角は」は23(大正12)年に百貨店(デパート)となり、お役所に並ぶ高さを誇った。
 ▽弘前警察署
 弘前警察署は土手町から一番町の坂を上った突き当たりに建っていた(写真2)。このため「突き当たり」と呼ばれていた。1875(明治8)年の第三大区警察出張所が、2年後に弘前警察署となり、92(明治25)年の大火で焼失。同じ場所に再建された。
 しかし1958(昭和33)年まで突き当たりの場所にあった警察署は、老朽化と手狭なために、翌年新しい警察署へ移転となった。跡地には都市計画で道路が造られ、土手町と公園を結ぶ「桜大通り」が誕生した。
 当初、警察署は役所などの間近にあり、街中にあることが多かった。しかし高度経済成長を経て、自動車社会の浸透や警察事務の激増により、郊外へ移転新設されることが多くなった。このため庶民生活との距離は遠くなった印象がある。現在、桜大通りの中央北側には弘前中央交番がある。
 ▽第五十九銀行(青森銀行)
 堀江佐吉が手がけた青森銀行記念館の前身は第五十九銀行本店である。当初は現在地ではなく、警察署や市役所と一緒の並びにあった(写真3)。第五十九銀行は官庁ではないが、県や弘前市の公金を取り扱うなど、県内では別格的な存在だった。庶民的には官庁のような存在だったといえよう。
 第五十九銀行は太平洋戦争さなかの1943(昭和18)年、大蔵省(現財務省)推進の銀行合同で県内の銀行を吸収合併。新たに青森銀行となった。このとき本店は県都青森市の大町(現本町)に移り、旧第五十九銀行の本店は青森銀行弘前支店となった。
 しかし、建物の老朽化と機能性の観点から、65(昭和40)年に店舗を新設。旧支店は取り壊すことになった。しかし、保存を望む声を受けて50メートルほど後方の元長町へ移転。建物も通りに面して90度右に回転させた。その後、67(昭和42)年に青森銀行記念館となり、72(昭和47)年に国の重要文化財指定を受けた。
 今年、記念館は弘前市に寄贈された。堀江佐吉が手がけ04(明治37)年に完成した建物は、銀行として約60年、記念館となってから50年以上が経過している。あと数年で記念館時代の方が長くなる。時代を超越する建物になりつつあるといえよう。
 ▽弘前市役所
  現在の弘前市役所の庁舎は1959(昭和34)年の1月に竣工し、4月5日の市制施行70周年記念式典と併せて落成式が行われた。設計者は前川國男である。
 華麗な新庁舎に比べ、旧庁舎は1892(明治25)年の大火で類焼した後に再建され、70年近くの年月が経過していた。当初はバルコニー付きで屋根の鬼板が五つもある斬新な姿が評判を呼んだ。泊まりがけで見物に来た人もいたという。22(大正11)年に大改築し、その後も改築修繕が施されてきたが、総じて老朽化は否めなかった。
 新庁舎が完成した後、旧庁舎は市の図書館や農協など市の関係施設をはじめ、弘南バスなどが新館建設までの仮住まいとして利用してきた。旧庁舎は重宝されたのだ。図書館が60(昭和35)年に新館へ移転後、旧庁舎は解体と報じられた。しかし、結果的には76(昭和51)年に解体されるまで、80年以上も弘前市の官庁街に存在し続けた。
 旧庁舎の跡地は市民中央広場となった。広場には「りんごの女神像」がある。62(昭和37)年4月、国際ライオンズ弘前クラブの創立3周年を記念し市に寄贈したものだ。当初は現弘前地方裁判所前にあったが、道路拡張のため旧庁舎前に移設された(写真4)。白亜の新しい女神像と木造の古い庁舎の対比が印象的だった。
 旧庁舎解体後、跡地が市民中央広場になるまで、女神像は工事現場に取り残される形となった。その無残な姿が観光客から同情されたこともあったが、中央広場ができた現在、すっかり風景に溶け込んだ。しかし、今後広場へ旧市立図書館の建物が移設される計画があるなど、かつての官庁街を取り巻く環境は再び変わりつつある。
 ▽都市構造と官庁街
 近代以降の都市には、役場を中心に警察署や消防署などの公的機関が集約され、郵便局や電話局などが近接するなど、いわゆる「官庁街」が存在した。しかし郵便局や電話局などが民営化され、警察署や消防署は自動車社会に対応して郊外へ移転するようになった。弘前市の官庁街は、警察署が郊外の八幡町に移転し、市役所は少し離れた上白銀町に移転。第五十九銀行は本店が青森市に移った。間近にあった郵便局も移転した。
 かつては諸官庁と取引する企業や業者が、官庁街に近接する飲食店などを利用することで商店街や歓楽街が形成された。しかし郊外の大型ショッピングセンターが全国各地に進出する現在、こうした都市構造は過去のものになりつつある。都市にも変化の歴史があり、時代ごとに構造が異なる。都市の歴史は世相を知る上で大きな鍵になると思う。
 官庁街という概念自体が揺らいでいる昨今だが、超高齢化社会の到来を前に、免許返納や公共交通の不備などで交通難民が増大する懸念も強まっている。今後の街づくりや街の在り方は、官庁街の存在価値も含め、都市史の観点を生かしつつ、市民生活重視の立場から検討する必要があるだろう。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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弘前最大の繁華街=88

2018/3/26 月曜日

 

写真1 かくは宮川デパートと下土手町=1950年代・中園裕提供
写真2 こみせがあった頃の中土手町=1963(昭和38)年6月8日・中園裕提供
写真3 「横のデパート」となった中土手町から下土手町を望む=1982(昭和57)年6月21日・青森県史編さん資料
写真4 上土手町上空。右上に第一大成小学校が見える=1960(昭和35)年5月9日・青森県史編さん資料

 ▽三つの土手町
 土手町は弘前市最大の繁華街として歴史を刻んできた。行政的には一つの大字だが、便宜的に三つの地区に分けられている。公園近くの一番町や百石町と接する十字路から蓬莱橋までが下土手町、橋から代官町と接する十字路までが中土手町、そこから松森町と接する十字路までが上土手町と称している。いずれも通称だが、三つの土手町はおのおの興味深い歴史を有している。
 ▽デパート街となった下土手町
 下土手町は土手町最大の繁華街だった。その中心にあったのが宮川呉服店である。1923(大正12)年にデパートとして誕生。37(昭和12)年に5階建てに増改築し、豊富な商品を販売し、新しい仕掛けを講じて人気を集めた(写真1)。
 60(昭和35)年、店舗改装を機に社名を宮川呉服店から、かくは宮川と改めた。これまでも「かくは」として親しまれていたため、お客に愛されるデパート経営を見える形で示したのだろう。
 かくはが人気を集めたのは、女性と子どもの心をつかんでいたからだ。特に子どもたちにとって、5階にあった遊技場はこの上ないぜいたくな遊び場だった。子どもたちが遊技場に行きたいとねだるので、大人たちも一緒に出掛けることになる。デパート側も、財布のヒモを握る女性たち(特に母親)の購買心をくすぐる流行の衣装や化粧品などを取り入れた。こうしてかくはは、他の追随を許さぬ存在となったのである。
 かくはに続き66(昭和41)年にナカニシデパートが誕生した。これに対し68(昭和43)年8月、中土手町にスーパーのヤマダイがデパートとして再出発した。すると下土手町へ支店を出していた中三が、同年9月に店舗を大改装してデパートとなり、2年後にナカニシを吸収した。そして71(昭和46)年には、下土手町にカネ長武田の弘前支店が開店した。
 デパート合戦が繰り広げられる中で、下土手町にアーケードが設置された。これはアーケードを真っ先に設置した中土手町への対抗意識もあったからだろう。
 ▽「横のデパート」中土手町
 中土手町は下土手町と並ぶ繁華街である。デパートが林立する下土手町とは異なり、開雲堂や一戸時計店など、古くからの老舗の小売店舗が多かった。
 中土手町では、各商店が協力し合い弘前市で最初にアーケードを設置。「横のデパート」として多くの買い物客を集めた。小売専門店が並ぶ商店街を、雨や雪を気にせずに買い物できるアーケードは大変好都合だった。
 アーケード建設のもう一つの理由は、こみせにあった。現在こみせというと、黒石市が最も有名で、旧木造町(現つがる市)の有楽町(うらくまち)商店街にも存在する。しかし当時は弘前市や他の町にもこみせがあった(写真2)。
 こみせは雨や雪、特に冬の降雪を防ぐための設備として有効だった。しかし老朽化の他に、都市開発の観点から道路の拡幅工事で撤去されることも多かった。事実、下土手町は早い段階でこみせを全廃している。
 また、こみせの中は薄暗かった。中土手町では50(昭和25)年8月に鈴蘭(すずらん)灯を落成点灯し、明るい商店街であることを宣伝。好評を得ていた。戦時中の灯火管制や敗戦後の物資難の時代には、夕方から朝にかけては今日と比べようがないほど暗かった。このため戦後の復興時代には、ネオンアーチをはじめ派手な照明灯を用い、明るい印象を持つことが豊かさの反映とされたのである。
 アーケードは61(昭和36)年から建設され65(昭和40)年に完成。12月18日の落成式には藤森睿(さとる)市長をはじめ、関係者がアーケードを渡り初めした。中土手町の町会や商店街にとって、弘前市初のアーケードは大変な誇りだったのである(写真3)。
 ▽こみせの残る上土手町
 上土手町は下土手町や中土手町に比べると、繁華街としてのにぎわいは少ない。このため下土手町にデパートが林立し、中土手町がアーケード街になっても、上土手町は以前とあまり変わらない街並みを維持していた。こみせも数多く存在し、二つの土手町とは異なる風情を残していた(写真4)。
 上土手町の古き情緒ある街並みを象徴していたのが赤湯旅館である。公衆浴場を兼ねた旅館で、土手町や近辺の人々が足しげく通う憩いの場だった。旅館自体は86(昭和61)年に廃業し、その後は蔵を生かした居酒屋になった。しかし建物の老朽化や駅前と上土手町の都市計画により、91(平成3)年に惜しまれつつ解体された。
 都市計画の結果、上土手町はカフェや美容院など、洋風の雰囲気あふれる個人経営の店舗が軒を並べる街並みに変わった。老朽化が目立っていたデパート街の下土手町やアーケード街の中土手町とは対照的だった。しかし赤湯をはじめ、上土手町の特徴でもあったこみせや古い家屋のあった光景は失われた。
 ▽三つの個性
 中心街の衰退が叫ばれて久しい。土手町もその例に漏れないが、関係者の努力や工夫により、近年再び注目を集めつつある。興味深いのは、三つの土手町が今も個性的な街並みを維持し続けていることである。
 三つの土手町は競争意識のあまり、足を引っ張り合ったり、協力意識に欠けることがあった。しかし、相手の立場や全体の利益を考えての競争ならば、お互いの発展を生み出す。三つの土手町も協力できることは協力し、異なる特徴や個性を競い合っているように思える。今後も街並み作りのお手本になれるような土手町であり続けてほしいと思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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青函トンネル30周年=87

2018/3/12 月曜日

 

津軽線の三厩開業を祝い今別町大泊地区の主婦会が仮装行列=1958(昭和33)年10月24日・澤田瑞穂さん提供
津軽線車内で談笑する行商の女性たち。津軽線の開通は女性たちに現金収入の途をもたらした。腕時計をさりげなく身につける。旅客列車は1957(昭和32)年4月25日から気動車化された=1979(昭和54)年6月・青森県史編さん資料
建設が進む青函トンネル。1966(昭和41)年3月に調査斜坑(本州側)の掘削が開始された。。調査水平坑(先進導坑)、本坑へと工事が進み、1985(昭和60)年3月に貫通した=1968(昭和43)年5月撮影・青森県史編さん資料
津軽海峡線開業を祝う今別町の八幡町主婦会有志=1988(昭和63)年3月13日・境谷毬子さん提供

 1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルが開通した。今年で30周年を迎えた。本州と北海道を海底トンネルで結ぶ。その構想は第一次大戦後、陸軍から始まった。青函連絡船で貨車航送が始まる25(大正14)年よりも前のことである。
 第一次大戦は連合国と枢軸国が国家の総力を挙げて戦った。日本陸軍は大戦直後の17(大正6)年に、敗れたドイツの戦時動員を分析し、資源の乏しい日本が資源、生産力、人間のすべてを投入しなければならない戦争を想定して「国家総動員」の研究を始めた。
 参謀本部の小磯国昭少佐(後首相)を班長とする兵要地史班は「帝国国防資源」という冊子を印刷し、部内に配布した。この中で小磯は外地との安全な輸送路として九州~朝鮮半島南部を結ぶ海底トンネル、北海道からの動員のために青函海底トンネルの建設の必要性を説いた。ただし、当時の資金や技術力から見てもこれは机上の空論にすぎなかった。しかし、戦前の青函トンネル構想が軍事目的で始まったことは知っておいてよい。
 22(大正11)年、立憲政友会の高橋是清内閣は地域開発と振興を旗印に改正鉄道敷設法を成立させた。その別表には、国鉄が建設すべき全国150路線が載っている。青函トンネルに該当する路線はないが、津軽海峡を挟んだ青函圏には5つの予定線が書き込まれた(地図参照)。どの線も地域振興が目的だが、やがてこれらの路線は海底トンネルをめぐる夢と混乱に巻き込まれていく。
 ▽津軽半島か? 下北半島か?
 青函トンネルには西ルート(津軽半島の龍飛崎~松前半島の福島〈吉岡〉)経由か、東ルート(下北半島の大間崎~亀田半島の汐首岬)経由かの選択肢があった。
 単純に比較すると、西ルートは直線距離で22キロメートル、東ルートは19キロメートルで、東ルートの方が短い。野辺地~大湊間には大湊線が開通しており、そこから大間まで延長すれば済む。東京~札幌間で見ると60キロほど短い。重要資源である北海道炭を東京ないし京浜工業地帯まで輸送することを考慮すると、下北半島が有力となる。
 海底トンネルはまだ先のことだったが、下北半島では日中戦争が始まった37(昭和12)年に下北~大間間(大間線)、五稜郭~戸井間(戸井線)の建設が開始された。それぞれ大間崎と汐首岬の要塞(ようさい)建設資材輸送や青函航路途絶に備えての代替海上輸送ルート確保が目的だ。しかし、アジア・太平洋戦争が拡大すると資材や労働力の不足が深刻となり、43(昭和18)年に両線とも建設が中止された。
 他方、別表にある「青森県青森より三厩、小泊を経て五所川原に至る鉄道」は奥羽本線や五能線と合わせて津軽半島を一周する鉄道だ。五所川原(現・津軽五所川原)~津軽中里間は私鉄の津軽鉄道により30(昭和5)年に開通した。
 38(昭和13)年に国鉄が着工した青森~三厩間(津軽線)は「不急路線」と判定された。翌年までに駅舎・線路などの一部が完成、工事進捗(しんちょく)率50%に達していたにもかかわらず、建設は中止。敷かれたレールも撤去、転用されてしまった。
 ▽津軽線の建設再開とトンネル研究
 敗戦後、運輸省(国鉄)は46(昭和21)年度から戦災復興と民政安定に必要な11線の建設を決めた。津軽線は半島の森林や水産資源の開発に必要だとして建設が再開された。
 同じ頃、国鉄では非公式の青函トンネル研究委員会が動き出した。委員会は東ルートについて、(1)海峡の水深が約300メートルに達し、トンネル延長が長くなる(2)海底を那須火山帯が走り、地質に不安がある―などの理由から西ルートのみを検討することにした。その結果、47~49(昭和22~24)年には地上部のボーリング調査、地震探査、地質踏査などが進められた。
 51(昭和26)年12月に津軽線青森~蟹田間の24・7キロが開通した。53(昭和28)年8月には鉄道敷設法別表の予定線に「三厩・吉岡間の鉄道」(青函トンネル)が追加されて、津軽線は青函ルートの一部になることが確定した。
 58(昭和33)年10月21日、蟹田~三厩間が開通して、現在の津軽線(55・8キロ)が全通した。三厩駅が集落から離れているのは、小泊方面への延長を考慮したためだ。ちなみに当初の駅の呼称は「みうまや」だったが、91(平成3)年に「みんまや」に変更された。
 全線開通により、沿線の人々の生活は大きく変わった。とりわけバスの運休する冬季には、1日1便の青森~三厩間の定期航路しか交通手段はなかった。それが青森~三厩間1日5往復、青森~蟹田間10往復の列車で容易に青森に出られるようになった。冬季の運休もない。3日がかりの青森出張も日帰りで済み、高校生の通学圏も広がった。
 ▽新幹線への変身
 国鉄は三厩~福島間延長36・5キロ(海底部22・5キロ)、龍飛崎直下を通る設計案を作成した。ところが70(昭和45)年、全国新幹線鉄道整備法ができて北海道新幹線(青森市~札幌市)が整備計画線とされた。
 青函トンネルは、新幹線を前提に最急曲線半径や勾配を緩和した結果、蟹田~木古内間延長53・9キロ(海底部23・3キロ)に変更された。ただし、北海道新幹線が実現するまでは在来線で青森~函館間を開通させることになり、津軽線と松前線が接続線として電化、線路も整備強化された。
 87(昭和62)年4月、国鉄分割民営化によりJR各社が発足した。その翌年3月13日、津軽線の青森~中小国信号場間が津軽海峡線とつながり、本州と北海道を結ぶ大動脈になった。そして2010(平成22)年12月4日、東北新幹線が新青森まで全線開通した。
 16(平成28)年3月26日、北海道新幹線(JR北海道。新青森~新函館北斗間)が開通。津軽線はローカル線に戻った。奥津軽と新幹線との接点は今別町の奥津軽いまべつ駅のみ。公共交通機関をどう再構築するか。英知が求められる。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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板柳から縄文の遺跡=86

2018/2/26 月曜日

 

土井(1)遺跡出土籃胎漆器のX線CT画像(弘前大学人文学部北日本考古学研究センター提供)
土井(1)遺跡出土品(関根達人弘前大学教授撮影)

 ▽りんごの里
 板柳町は、1876(明治9)年にリンゴが植えられて以来、リンゴとともに歩んできた町である。町は本県最大の平野である津軽平野の南部に位置し、そのほとんどが平坦(へいたん)地で、農産物が栽培されている。
 今から約9000年前以降、約7000年前をピークに地球規模で温暖化し、海面が上昇する縄文海進が起こる。十三湖は五所川原市付近まで拡大し、内湾化した。板柳町付近は岩木川の河口近くとなり、河川が頻繁に流路を変えることで後背湿地と自然堤防が造られた。その後、徐々に海面が低くなり十三湖も縮小する。
 岩木川は板柳町より上流の藤崎町付近で浅瀬石川、平川と合流し十三湖に注ぐが、津軽平野のほぼ中央を蛇行しながら流れるため、たびたび水害をもたらした。一方で上流から栄養豊かな土壌が供給され、コメやリンゴなど農産物の栽培に適した環境がつくられた。
 ▽土井(1)遺跡
 土井(1)遺跡は板柳町役場から北西へ約200メートル、岩木川の右岸からは東へ約100メートルの自然堤防上に立地する。遺跡は現在水田が造られている高さより2メートルほど高い約18メートルにある。
 1961(昭和36)年、町の上水道貯水槽設置工事に伴い、現在の地表面2メートル下より縄文時代後期末から晩期の遺物が出土したことで、遺跡の存在が明らかになった。その後、66(昭和41)年と70(昭和45)年に町史編さんに伴って村越潔氏、工藤泰博氏らが中心となって学術調査が行われ、72(昭和47)年には貯水槽増設工事に伴う緊急発掘調査が行われた。
 調査により、縄文時代後期から晩期の遺物に含まれる層が、何層も重なっていることが明らかになった。さらに、地下水によって残りにくい木製品や漆器なども保存されていた。
 3回の発掘調査で土器約360個体、土偶31点、石器・石製品約470点に加えて、籃胎(らんたい)漆器16点、赤漆塗りの櫛(くし)9点、赤漆塗りの腕輪1点も出土した。出土遺物の量と質では、同じ時期の亀ケ岡遺跡や是川中居遺跡と肩を並べる。 
 ▽出土遺物の再検討
 近年、考古学でも科学的分析が飛躍的に進歩している。出土した籃胎漆器、赤漆塗り櫛、赤漆塗り腕輪などについて、弘前大学人文学部の片岡太郎講師と上條信彦准教授が中心となってX線CT撮影、顔料などの粉末のX線回折、蛍光X線分析などが行われた。
 その結果、籃胎漆器・赤漆塗り櫛の内部構造や顔料に使われた鉱物をはじめ、籠(かご)の素材などを明らかにすることができた。籃胎漆器はござ目編みや網(あ)代(じろ)編みなど、現代でも編まれている方法で作られていた。櫛は髪をすく部分である歯と持ち手の部分を分けて作っており、紐(ひも)状のもので結ばれているものもあった。
 顔料はベンガラと呼ばれる赤鉄鉱と辰砂(しんしゃ)と呼ばれる水銀朱が使われていた。赤鉄鉱は今別町赤根沢に産地があり、そこから運ばれた可能性がある。一方、水銀朱は県内に産地がなく、産地がある北海道や秋田県などの県外からもたらされた可能性がある。
 籃胎漆器が乾燥した状態で長く保存されてきたため、籠の素材が消失したものもあったが、ごくわずかに残っていた組織で同定された。笹竹類で作られたものが2点、イラクサ科で作られたものが1点だった。縄文時代の日本列島に竹は分布しておらず、どのような植物で作られたかの解明は今後の課題になっている。
 ▽蘇(よみがえ)る遺物
 縄文時代の籃胎漆器は、全国でも十数点と出土例が少ないが、当時、どのように漆や胎となる植物が利用されたかを知る重要な手がかりである。一緒に出土した土器から年代を知ることができ、亀ケ岡遺跡や是川遺跡と比較できる。縄文時代晩期の物作りを知る
貴重な遺跡である。またこれらの出土品は発掘から数十年を経て、最新の科学分析により、新たな知見を得ることができた。
 弘前大学人文学部では土井(1)遺跡出土品の保存修復も行い、一部は県立郷土館や板柳町郷土資料館で展示されている。ぜひ足を運んで見ていただきたい。
 また、縄文時代の漆や植物利用については、3月に刊行される予定の『青森県史通史編1』にも書かれている。
(青森県県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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「八甲田山」大ヒット=85

2018/2/12 月曜日

 

映画の9割は本県内で撮影された。残りは新潟県新発田市ロケと東京・東宝スタジオのセットなど、県外で撮影。。橋本忍映画「八甲田山」の世界などから作成
先行公開を実施した青森市の映画館「ミラノ」(左端の建物)。県庁近くの銀映会館内に「ミラノ」と「みゆき座」と2つの映画館があった。1984(昭和59)年12月26日・青森県史編さん資料
「銀映ニュース」(当時の映画広告・部分)。前売券は全国で150万枚も売れた。男性向きと思われがちだが、女性客が約4割を占めた=1977(昭和52)年5月20日発行・竹内義人さん提供
1977(昭和52)年5月29日発行の陸奥新報掲載

 ▽現地ロケを決断
 新田次郎(にったじろう)のベストセラー小説『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』(以下『彷徨』)は、1977(昭和52)年に映画化された。それまでの日本映画の記録を破る観客動員500万人、配給収入25億円(制作費は7億円)の空前のヒットとなった。
 『彷徨』に注目したのは「砂の器」を撮った野村芳太郎(のむらよしたろう)監督である。「砂の器」は黒澤明(くろさわあきら)の名作「七人の侍」や「日本沈没」などの脚本を書いた橋本忍(はしもとしのぶ)が設立した橋本プロの第1回作品である。橋本は『彷徨』の映画化を決め、新田から映画化権を得た。監督には「日本沈没」の森谷司郎(もりやしろう)を選んだ。
 74(昭和49)年2月、「砂の器」の親子が冬の日本海岸を旅するシーンの撮影が龍飛崎から始まった。橋本と森谷は撮影隊と別れ、八甲田をロケハンした。橋本は群馬県や長野県など、東京に近い雪山で撮影するつもりでいた。春になってから実際に2つの行軍隊のコースを1週間程かけて道順通りに歩いてみた。フィルムに映るのは空気である、何年かけても現地で撮影しなければ嘘になる。橋本は長期の撮影を覚悟した。
 ▽小説と映画
 小説と映画では表現方法がまるで違う。『彷徨』は歩兵第31連隊の徳島隊(モデルは福島隊)の行軍を、弘前から三本木(十和田市)を経て増沢に着くまで一気に描いた。そこで時間を戻し、第5連隊神田隊(モデルは神成隊)の青森出発から遭難に至る経過を追ってゆく。
 読者は第31連隊(徳島隊)の行軍を追体験し、徳島大尉とともに第5連隊(神田隊)の行軍について思い巡らす。小説として優れた構成である。橋本はこの両隊の行動を同時並行で描くことにした。徳島隊が出発。その後、神田隊が出発する。カットバックという技法で、苦闘しながらも着実に進む徳島隊と、次第に迷路に入り込んでいく神田隊を対比させる映画ならではの手法だ。
 徳島大尉は高倉健。そう決めて橋本は脚本を書いた。一読した高倉は出演を決めた。対する神田大尉は最終的に北大路欣也に決まった。また、徳島隊の人数を38人(同行記者を含む)から28人(同)に減らした。映画を見ると28人は画像として収まりが良く、少人数による柔軟な行軍にふさわしいと分かる。同じ軍装で紛らわしいが、まるで巨竜が次第に体を持て余し消耗してゆくような神田隊と対照的な映像表現となった。
 ▽本県ロケは20回
 小説では前年10月上旬に雪中行軍の「競争」が決まった弘前第4旅団での会議を除き、冬が舞台だが、橋本は津軽の四季を織り込んだ。そのためロケは冬を中心に、75(昭和50)年の6月から77年の2月まで断続的に20回にも及んだ。八甲田山系の田茂萢岳(たもやちだけ)頂上ロケでは標高1500メートル、気温氷点下20度、風速17メートル、体感温度氷点下37度だった。
 撮影は黒澤明の信任が厚かった木村大作キャメラマン。冬の八甲田を撮るため、橋本はアメリカからパナビジョンカメラを取り寄せた。レンズが明るく、解像力とシャープさがスタッフを満足させた。使用したフィルムの長さは30万フィート(約9万1440メートル)で、上映時間の20倍に当たる。
 撮影のエピソードは事欠かない。例えば、発狂した兵士が服を脱ぎ捨て、ふんどし一つで雪の中で凍死するシーン。保温のためにワセリンを体中にすり込んだが、氷点下15度の猛吹雪で大変危険な撮影だ。撮影が始まると役者の顔は冷気のためすぐに真っ赤に、やがてどす黒く変色していく。「カット」の声が掛かるとすぐにロケバスに収容。マッサージすると皮がむけるので、毛布越しに代わるがわる抱いて少しずつ温めたという(村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』)。
 「砂の器」は8カ月で完成して74(昭和49)年10月にロードショー公開された。橋本は「八甲田山」に全力を投入して3度の冬の八甲田で撮影。その間にも津軽の四季を撮り、3年4カ月をかけてすべての作業を終えた。
 ▽青森県先行公開
 「八甲田山」は77年6月18日に全国一斉公開されたが、本県では4日から先行公開となった。弘前では元寺町のニューオリオンと弘前駅前の弘前宝塚の2館で上映された。「八甲田山」の上映時間は2時間48分。この長さでは普通は1日3回上映だが、両館とも土日は1日に5回上映した。土曜日は最終回が1時30分からで、オールナイトと呼ばれた。日曜日は朝8時に1回目の上映開始となった。
 ▽キネ旬ベストテン4位
 当時、映画賞といえば映画雑誌「キネマ旬報」のベストテンだった。77年度で、映画評論家たちの選んだ日本映画の1位は「幸福の黄色いハンカチ」(監督・山田洋次(やまだようじ)、主演・高倉健)、2位は「竹山ひとり旅」(監督・新藤兼人(しんどうかねと)、主演・林隆三(はやしりゅうぞう))。「八甲田山」は4位だった。
 この年、津軽を舞台にした2作品が上位を占めたのだ。主演男優賞は「ハンカチ」「八甲田山」2作品の主役で文句なく高倉健。森谷は84(昭和59)年に53歳で急逝。新藤は98歳で「一枚のハガキ」を撮り、2011(平成23)年に100歳の長寿を全うした。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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