津軽の街と風景

 

十三湊の歴史と遺産=119

2019/9/16 月曜日

 

写真1 福島城と十三湊=2006(平成18)年9月21日・五所川原市教育委員会提供
写真2(上)・3(下) 山王坊歌舞伎舞踊公演=2012年・筆者撮影
写真4(上)・5(下) 山王坊日吉神社の抜穂祭=2018年・筆者撮影

 ▽十三湊の発掘調査
 十三湊を支配したとされる安藤氏に関する研究は膨大な量に及ぶ。しかし同時代の資料が極めて少ないため、後世の編さん物や伝承に基づいた研究が多く、長らく青森県中世史の多くの部分が謎に包まれたままだった。
 1991(平成3)年、国立歴史民俗博物館による十三湊解明の本格的な学術発掘調査が始まった。2004(平成16)年までに159地点に及ぶ十三湊全域の発掘調査が行われ、十三湊の全体像や変遷を把握することができるようになった。
 調査当初は津波伝承もあり遺跡が消滅、またはほとんど残っていないとさえ言われていた。しかし、畑を区画する地割が一部で中世までさかのぼり、中世の大土塁跡が残っていることや、ほとんど手付かずの状態で遺跡が地下に残されていることが明らかになった。
 こうして十三湊の遺跡は、中世港湾都市の全体像が描ける唯一の遺跡として注目されるようになった。十三湊の解明が、日本列島における北方中世交易史を解明する上で極めて重要な意味を持つことが明らかとなり、2005(平成17)年7月に国史跡に指定された。
 ▽進む安藤氏研究
 十三湖北岸にある安藤氏関連の遺跡調査として05~09(平成17~21)年に福島城跡、06~09(平成18~21)年に山王坊遺跡の発掘調査が進められた。これによって湊町、城館、宗教施設といった中世都市の全容が発掘調査によって明らかとなってきた。
 これに並行して1996(平成8)年から始まった県史編さん事業によって、中世文書の再検討が進められ、安藤氏研究も飛躍的に進んだ。1322(元亨2)年から1328(嘉暦3)年にかけて「津軽大乱」と呼ばれる安藤氏一族の争いが起きた。安藤季久(すえひさ)(のち宗季(むねすえ))と当時総領家だった季長(すえなが)が蝦夷沙汰代官職を巡って、前者が外浜内真部(うちまっぺ)、後者が西浜折曾関(おりそのせき)に拠点を構えて争いを起こし、鎌倉幕府滅亡の要因になったとされる。
 これにより、蝦夷沙汰代官職を持つ安藤氏総領家が交代するとともに、外浜から西浜のある十三湊へ港湾拠点が移ることになったという。発掘調査では、この時期に港湾都市として発展する様子が明らかとなり、文献史学の研究成果と符合することが分かってきた。
 安藤氏は、先祖を前九年の役で朝廷側の源頼義(よりよし)と戦った安部貞任(さだとう)の末裔(まつえい)であるとして、「安倍」を本姓としている。自らを蝦夷のリーダーであると表明し、北方世界を支配する正当性を強調している特異な豪族だった。
 『保暦間記』には、安藤五郎が北条義時の代官として「東夷ノ堅メ」のために津軽に置かれたとされ(蝦夷沙汰代官)、鎌倉時代初めには既に安藤氏の存在がうかがえる。安藤氏はもともと関東の御家人ではなく、津軽海峡を挟んだ北の海で活躍する交易・海民集団と呼べる在地豪族だった。
 ▽中世史研究の進展
 鎌倉時代末期の「津軽大乱」以降、北方交易の拠点として繁栄を極めた十三湊には、外浜から移ってきた新たな安藤氏総領家が支配した。安藤氏の確かな系図を示したものに紀伊国の熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)に伝わる「陸奥国下国殿代々名法日記(むつのくにしものくにどのだいだいみょうほうにっき)」(『米良(めら)文書』)がある。同社の檀那(だんな)だった安藤氏の親子五代にわたる系図を書き留めたものが残されている。それによれば安藤宗季(むねすえ)(季久)―師季(もろすえ)(高季)―法季(のりすえ)―盛季(もりすえ)―泰季(やすすえ)(康季)とあり、下国殿(しものくにどの)と呼称する十三湊安藤氏嫡流が記されている。
 特に盛季・泰季(やすすえ)(康季)が十三湊全盛期とされ、泰季(やすすえ)(康季)は後花園天皇から命じられて福井県小浜の名刹(めいさつ)、羽賀寺本堂を再建し「日之本(ひのもと)将軍」の異名で呼ばれるなど、一目置かれる存在だった。
 また、十三湊安藤氏は室町幕府から「下国屋形」と呼ばれた。守護大名並みの将軍直属御家人となる「京都御扶持衆」の身分を与えられ、室町幕府を支える存在として蝦夷地支配の責任者に取り立てられるのだった。
 四半世紀に及ぶ考古学と文献史学の研究によって、謎のベールに包まれた十三湊や安藤氏の歴史が明らかになってきた。本県の中世史研究が大きく進展したと言えるだろう。その成果は2018(平成30)年刊行の『青森県史通史編1』の第九章「室町・戦国の北奥世界」に詳しく述べられている。中世史に興味、関心がある方はご覧いただきたい。
 ▽歴史遺産を生かす
 歴史研究の進展によって、付加価値が高まってきた十三湖一帯の十三湊安藤氏関連遺跡群であるが、残念ながら平成の市町村合併以降、これらの歴史遺産が地域に十分に生かされていない。
 しかし近年、地域住民の有志がこうした地域に残る歴史遺産を生かした取り組みを行い、地域の誇りを取り戻しつつ地域活性化につなげる取り組みが始まっている。十三湖のある五所川原市市浦地域を愛着の持てる地域にしたいという思いである。
 衰退する地域の地域活性化に取り組む団体(なんでもかだるべし~うら)が、2012(平成24)年10月に、山王坊遺跡において発掘調査で見つかった神社の舞殿跡に舞台をしつらえ、日本舞踊家・立花寶山氏による歌舞伎舞踊公演会を行った。公演には大勢の観客が山王坊遺跡に詰めかけ、中世に繁栄した頃に思いをはせ、その舞踊を堪能することができた。この公演を通じて、改めて市浦の良さや魅力を再認識することができた。
 これをきっかけに、日吉神社宮司の呼びかけで地元有志による実行委員が組織された。2016(平成28)年から、新たな伝統文化を創造する津軽豊年祭(春の御田植祭、秋の抜穂祭)が開催され、現在も続いている。
 祭り行事を通じて、自然に親しみながら地域住民の交流を深める場ができつつある。歴史遺産が持つ魅力を地域の誇りとし、次世代を担う子供たちが愛着の持てる地域となる取り組みにつながっている。ちなみに今年は今月21日(土)に午後1時半から山王坊日吉神社で抜穂祭が行われる。ぜひ訪ねてほしい。
(五所川原市教育委員会社会教育課文化係 主幹・係長 榊原滋高)

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変貌する弘前中心街=118

2019/8/26 月曜日

 

写真1 時敏小学校前の歩道橋=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真2 久一鳴海呉服店=昭和初期・『津軽名勝と産業』弘前市立弘前図書館提供
写真3 和徳町と東長町の商店街、そして岩木山。ここから見る岩木山の美しさは、昔も今も変わらない=1963(昭和38)年6月8日・中園裕提供

 弘前市の中心街である土手町や本町、銀座街や鍛冶町などにつながる街並みにも、さまざまな歴史がある。郊外の大型スーパーを取り巻く住宅街に多くの人々が居住している現在、中心街とその周辺も大きく様変わりした。記録を残すつもりで書いておきたい。
 ▽元寺町
 元寺町は、かつて市役所や警察署があった官庁街だった。繁華街である本町に直結し、土手町や鍛冶町に近いため人通りが多く、戦前から劇場や映画館がそろっていた。中央通りと接する交差点の南西寄りには、かつて弘前東宝映画劇場があった。南隣にはスカラ座、道路を挟んだ東側にはオリオン会館(オリオン座)があった。
 弘前東宝は弘前座と呼ばれた劇場が前身で、歌舞伎や芝居を中心に活動写真も上映していた。活動写真が盛んになった昭和戦前期に映画専門館として改装され、弘前東宝映画劇場と改称した。
 敗戦後、戦時中の抑圧から解放された弘前市民は映画に夢中になった。市内各地には随所に映画の専門館が建った。しかしテレビの普及に伴い映画は衰退していった。従業員の削減や系列館の再編成が行われ、映画館と他の施設が同居する複合経営が主流となった。
 オリオン会館は、1975(昭和50)年に1階建てのオリオン座を3階建ての映画専門館として新築したものだが、1階にパチンコ店を入れざるを得なかった。映画館閉鎖後、現在はオリオン歯科が入居し開業しているが、映画専門館の面影を残す貴重な建物である。
 他にも元寺町には歴史を伝える建築物が残っている。27(昭和2)年建設の三上ビルは、かつて弘前無尽(後に弘前相互銀行)の本店だった建物で、国の登録有形文化財に指定されている。近くの弘前教会は県重宝、その隣の石場旅館は国の登録有形文化財に指定されている。三つの建物は青森県史の編さん事業でも取り上げ、『青森県史文化財編建築』(2015年刊行)で写真と共に解説を付して紹介した。
 失われたものもある。現弘前文化センターの場所は、かつて弘前市立時敏小学校だった。自動車の増加に伴い、子どもたちの安全を確保するため歩道橋が設置された(写真1)。79(昭和54)年に学校が現在地へ移転。現在、この場所に歩道橋はない。
 弘前文化センターも、老朽化のため大規模な改修が検討されている。今後、建物周辺の景観も変わるだろう。
 ▽東長町と和徳町
 弘前文化センターの東側には東長町と和徳町の街並みが続き、和徳町十文字で県道260号に接する。県道はかつて国道7号だった。和徳町は県道(国道)沿いにも町域が続いている。青森市方面からは弘前市への入り口だったため、藩政時代から明治・大正期にかけてにぎわった。今も県道沿いには古い建物が残り、わずかに当時の面影を残している。
 和徳町のにぎわいを象徴する存在が「久一鳴海」の呉服店である。土手町の「角は宮川」や「角み宮川」と並ぶ弘前市三大呉服店と称された。大正初期に立派な蔵造りに店舗を改装。和徳町かいわいで際立つ存在だった(写真2)
 土手町に繁華街が形成され和徳町に陰りが見られると、「久一」も土手町へ店舗を移したが結局廃業。戦後しばらくは他の業者が建物を使用していた。61(昭和36)年に青森市の常光寺が建物を買い取り、その後移築した。青森大空襲で焦土となった青森市の中心街には古い建造物が少ない。当時の住職は歴史ある建物の大切さを痛感し、「久一」の建物を移築することにしたという。
 現在の和徳町にも老舗の店舗がいくつか存在する。写真3に見える川村タンス店は明治期の創業である。戦後復興と高度経済成長で家具屋は重宝されたが、その後に業種を転換。仏壇川村として和徳町を代表する商店の一つとなった。
 写真3の右端に見える竹与雑貨店は戦前から続く老舗商店である。菓子司みしまも同様で、ぶどう、りんご、栗の3種類の羊羹(ようかん)を合わせた「陸奥の園」と、姉妹品の「月の甘露」が、全国菓子大博覧会で名誉大賞を受賞した。
 和徳町から朝陽橋を渡ると東長町である。かつては商店が並んだが、現在は店舗数が減った。それでも写真館ハセガワ(長谷川写真館)は戦前から続く老舗の写真店。お茶の店スルガも店内が美術館的で興味深い。和菓子屋のあずき庵には甘党の客が出入りする。中心街周辺の商店街には、郊外の大型スーパー街にはない個性的な商店があるのだ。
 ▽地元住民の協力
 東長町のフリースペース茶房じゃがいもは、2000(平成12)年8月に開店した喫茶店。地元のなじみ客が足しげく通う憩いの場である。店主の菅原基夫さんが定年後に夫婦で開いた店だ。菅原さんには弘前市内で過ごしてきた思い出や情報を数多くいただいた。
 地元に長く生活してきた住民たちの思い出や、証言ないし体験談は、現代史を執筆編集する上で大切な情報源である。紙に記された諸資料からはうかがえない時代の生々しさを感じ取ることができるからだ。
 思い出や証言の裏付けを取ることは必要である。多くの人たちの証言を得ることも大切な作業だ。聞き取り調査は大変な労力を伴うが、喜んで話をしてくれる人たちの情報は、何らかの形で書き記しておきたい。
 本紙の連載を執筆する上でも、多くの方々の協力をいただいた。いろいろな情報、さまざまな体験談をすべて紙面に掲載できるわけではないが、可能な限り生かしていきたい。地域の現代史は地元住民の協力を得ることで、一層内容が充実するからである。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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東方へ遷移した小泊=117

2019/8/12 月曜日

 

小泊概要図=1948(昭和23)年・米軍撮影
大澗海岸の舫岩=2008(平成20)年・筆者撮影
松前から望む権現崎=2018(平成30)年・筆者撮影
小泊築港工事=1922(大正11)年・中泊町博物館所蔵

 ▽安藤氏の湊「阿曽内」
 時は鎌倉末期…。津軽安藤氏の内紛による「津軽大乱」の処理の不手際によって、鎌倉幕府の権威は回復不能なまでに失墜した。そして1333(元弘3)年、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにより、執権北条高時(ほうじょうたかとき)は自害して幕府は滅亡するのである。混乱は津軽地方にも波及し、豪族たちは互いに朝廷方と幕府方に分かれて争ったが、翌1334(建武元)年、前者の勝利のうちに終結する。
 この年の冬、朝廷方の国代南部師行(なんぶもろゆき)は、降伏した武将の名簿を陸奥国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)に提出した。著名な『津軽降人交名注申状(つがるこうじんきょうみょうちゅうしんじょう)(南部家文書)』である。上段には50人余りの投降人、下段には投降人を預かった武将名が記されている。
 この中で最も多い17人を預かっているのが、安藤宗家の安藤又太郎(あんどうまたたろう)である。安藤又太郎は家督を巡って津軽大乱を引き起こした当事者であり、鎌倉幕府の裁断によって宗家となった人物であるが、幕府が傾くとあっさりと朝廷側に転向した。
 安藤宗家は、そうした先見の明もあって、1335(建武2)年北畠顕家から「湊(みなと)(十三湊ヵ)」「宇曽利郷(うそりごう)(下北)」、現在の西北五地方に相当する「西浜(にしはま)」などの領地を安堵(あんど)された。ただし、西浜のうち「関(せき)」「阿曾(あそ)米」は、宗家とは別の安藤一族の知行地とされている。「関」は安藤氏の根拠地「折曾関(おりそのせき)(深浦)」、「阿曾米」については中泊町小泊の「阿曽内(あそない)」に充てる説が有力である。
 阿曽内海岸の直上には「柴崎城(しばざきじょう)」、東西には「弁天島(べんてんじま)(崎)」「寺屋鋪(てらやしき)」といった中世遺跡が位置する。中世においては、阿曽内ほかの湊が日本海交易の主舞台となり、安藤氏に莫大(ばくだい)な富をもたらしたのである。
 ▽北前船の風待湊「大澗」
 近世になると、阿曽内から弁天島を挟んだ東側の内湾、「大澗(おおま)」が北前船(弁財船)の寄港地として利用された。湾内には、岩礁を繰り抜いた「舫岩(もやいいわ)」が点在する。かつて、入湊した船から綱を体に巻きつけた赤褌(ふんどし)姿の水主(かこ)が飛び込み、貫穴に通した綱を引いて接岸し係留したものだという。
 船乗りたちは、停泊した船から伝馬船(てんません)(艀舟(はしけ))に乗り換えて上陸し、弁天島「弁天宮」や「飛龍大権現(ひりょうだいごんげん)(神明宮)」に航海安全の参拝をしたのち、東側に位置する町屋へ繰り出した。町屋には、目付(めつけ)役人が駐在する「勤番所」や「湊番所」が置かれ、津軽海峡を行き交う旅人ほか、弘前藩の城米や木材、諸国物産などの移出入に目を光らせていた。
 津軽海峡対岸八里の距離にある松前(まつまえ)への渡海適期は、波穏やかな春先から夏にかけてであり、南風もしくは東風を待って出湊した。風待ちは1週間から時によっては2週間以上に及び、小泊は滞留する船乗りや旅人でにぎわった。
 一方、松前から小泊を目指す場合は、北風を利用した。松前から望むと、小泊は日本海に長く突き出した権現崎の根元に位置する。権現崎に針路を取ると、津軽海峡を東流する潮に多少流されながら、小泊にたどり着くという算段である。
 ▽近代的漁港「水澗」
 中世や近世に利用された阿曽内と大澗の両湊は、自然地形を生かしたいわば「天然の良港」である。ただし、防波堤などの港湾設備を持たないため、特に北西の季節風が吹き荒れる冬季に船を係留することが困難だった。
 また近代以降、旅客・物流の主役は鉄道や青函連絡船に代わり、北海道渡航地としての小泊の役割は年々低下していった。一方、漁業についても、かつて大漁に沸いた鰊(にしん)の不漁が続き、沿岸部における水産資源の枯渇が取りざたされると、沖合の新たな漁場開拓が喫緊の課題となった。
 係る懸案の解決策として浮上したのが、交易港から漁港・避難港への転換、具体的には大型動力漁船の導入ならびに当該船の通年係留が可能な港湾整備計画である。候補地として大澗の東方「水澗(みずのま)」に白羽の矢が立てられた。
 大正から昭和初期にかけて小泊村長ならびに小泊港修築期成同盟会会長を務めた秋元金四郎(あきもときんしろう)らの運動によって、1921(大正10)年「小泊築港」が北津軽郡直営事業として採択されるに至った。翌22(大正11)年起工され、郡会ならびに郡役所の廃止によって小泊村に事業移管されるなど多少の紆余(うよ)曲折を経たものの、23(大正12)年無事竣工(しゅんこう)した。
 築港工事は、防波堤・護岸石垣を構築し、港内をしゅんせつする簡易なものだったが、竣工後は大型動力船の通年接岸が可能となり、小泊地域における漁業の近代化を後押しした。
 ▽町屋の拡大
 小泊は古(いにしえ)より北海道渡海の拠点として機能してきたが、主要湊は中世「阿曽内」、近世「大澗」、近現代「水澗」というように、時代とともに東方へ遷移してきた。大火や埋め立てによって、かつての景観は失われているものの、町屋についても基本的には港の東遷とともに東へ拡大していった。
 「浜町」「上町」といった西側地区が古く、本来は「円山(まるやま)」という墓域が東端だったとも考えられる。それから、円山東部に「派立」が成立し、小泊川を越えた東側に「新町」が形成される。さらに海岸・水田の埋め立てや、山林の宅地造成によって、現在の小泊の街並みが完成したというストーリーが看取されるのである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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陸奥湾に飛来する鳥=116

2019/7/29 月曜日

 

ブラキストンが青森県内で採取したマガモの標本(上)とヒシクイの標本=北海道大学植物園・博物館所蔵
平舘上空から津軽海峡を望む=青森県所蔵県史編さん資料

 ▽陸奥湾
 津軽半島と下北半島に挟まれた陸奥湾は、今から約3万年前の氷期には陸地だった。約1万5千年前以降の温暖化により徐々に海面が上昇し、約7千年前の縄文海進期には、現在の海水面よりも約5メートル高くなったと考えられている。
 海水面の変化は、陸奥湾に注ぐ河川にも影響を与えた。海進期には陸奥湾へ流れ込む川の水量が増加した。約5千年前以降、海水面は下がり、約3千年前には現在とほぼ変わらない高さになった。海水面の低下により、海岸線には浜堤が作られ、その内側には後背湿地ができた。
 約7千年前に広がったブナ林で覆われた山から川を伝って栄養が運ばれ、陸奥湾には縄文時代から豊かな水産資源が育まれた。湾に面した湿地は鳥類の生息地に適した場所だったようだ。
 ▽ブラキストン線
 縄文時代の遺跡からはマガモなどのガン・カモ類、オオハクチョウなどの骨が出土している。中にはアホウドリの骨もあり、陸奥湾に飛来した可能性がある。遺跡から出土する鳥類の種類は、現在陸奥湾に生息する鳥類の種類とほぼ変わらず、陸奥湾の豊かさが今まで続いてきたことを示している。
 明治時代の函館で、イギリス人トーマス・ブレーキストンは、貿易商を営む傍ら鳥類の研究を行った。彼が研究のため、千島を含む北海道に生息する鳥類の標本を収集した数は4、5千点といわれている。
 研究の成果から、北海道と本州では鳥類や哺乳類の分布が異なり、津軽海峡が動物分布上の境界線となることを指摘したこれがいわゆる「ブラキストン線」である。
 ブレーキストンの標本のうち324種1338点が、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園に所蔵されている。青森県史を編さんする過程で、本県に関する県内外の資料を調査した。そして、ブレーキストンが収集した標本の中に本県で採取された鳥類の標本も含まれていたことが分かった。
 ▽標本をデータベースで公開
 青森県史デジタルアーカイブスでは、ブレーキストンが収集した県内の標本データ17点を写真とともに公開している。北海道大学は資料目録を刊行し公開している。明治期に生息した鳥類の貴重な資料群である。
 県史デジタルアーカイブスでは『青森県史自然編生物』のテキストデータで、現在青森県内に生息する鳥類と、その分布などについて調べることができる。さらに文化財・自然データベースでは、他館が所蔵する鳥類の標本や化石標本を検索することができる。分野や時代をわたって県内外の資料を調べられることが、このデータベースの特徴である。
 夏休みに入った。自由研究などでお悩みの親子もいるだろう。この機会に親子で県史デジタルアーカイブスを使い、いろいろ検索してもらえれば幸いである。
(青森県教育庁文化財保護課文化財グループ主幹 伊藤由美子)

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米戦艦機による空襲=115

2019/7/8 月曜日

 

図1 1945(昭和20)年7月14、15日の米海軍38機動部隊の攻撃目標=『空襲通信』19号の工藤洋三論文に基づき筆者作成
図2 7月14、15日の空襲による県内の人的被害(警察署別)=『青森県警察史 下巻』より筆者作成
航空母艦「エセックス」最新鋭の空母で90~100機の艦載機を登載する。第38・3任務群の主力艦
改装前の陸奥森田駅舎。1924(大正13)年、五能線五所川原|陸奥森田間開業により建築。2016(平成28)年に改装されたが、〝空襲の証人〟は健在=2014(平成26)年6月26日、中園裕撮影
表 空母「エセックス」艦載機の参加機数と攻撃目標=『戦闘報告書』より筆者作成

 ▽北海道・北日本空襲
 1945(昭和20)年7月14、15日の2日間、アメリカ海軍機動部隊の艦載機が津軽海峡、陸奥湾を襲った。目標は青函連絡船。2日間の銃爆撃(空襲)で飛鸞(ひらん)丸・第二青函丸など8隻が沈没、大破炎上2隻、大破2隻、計12隻が被害を受けて使用不能となり、連絡船は壊滅した。
 人的被害は死者411人(うち乗客52人)、負傷者72人だった。連絡船への空襲は、北海道道南・道東、東北地方の鉄道結節点、軍事施設、青函航路、釜石、室蘭の製鉄施設を攻撃目標とした大規模な空襲の一環だった(図1を参照)。
 空襲にはグラマンF6F艦上戦闘機、ヴォートF4U戦闘機、カーチスSB2C急降下爆撃機、グラマンTBM雷撃機など約千機の艦上機が使われた。
 ▽第38機動部隊の北上
 これらの艦載機は米海軍第3艦隊第38機動部隊の航空母艦(空母)の所属だ。第3艦隊は7月1日、フィリピン群島のレイテ湾を出動。与えられた任務は日本艦隊の残存艦艇と日本航空兵力を撃滅し、併せて戦争継続に寄与する施設や基地を破壊する。それによって日本本土進攻作戦を容易にすることだった。
 第38機動部隊は空母9隻、軽空母6隻、戦艦9隻、その他の戦闘艦を加えると105隻の大艦隊で、第38・1、3、4の3個任務群で構成される。機動部隊は11、12日に関東地方の航空基地と飛行機に大規模な空襲を行い、さらに北上した。北海道・東北空襲は関東地方空襲に引き続き13日から実施する予定だったが、悪天候により14日に延期された。
 14日、尻屋崎南東110浬(かいり)(198キロメートル)の発進海域に到達した空母から発進した第38・3任務群の攻撃目標は、東北北部の飛行場と船舶、港湾施設だった。青森県内で攻撃目標となったのは青函連絡船、大湊・三沢の海軍施設、八戸飛行場、青森・八戸の港湾・船舶・鉄道施設などだ。
 ▽青函連絡船は日本の生命線
 米軍が交通機関に本格的な攻撃を行ったのは、青函連絡船空襲が初めてだ。日本の工業と交通を支えていたのは北海道の石炭だ。東京圏に石炭が届かないと、日本の軍需生産や国民生活は壊滅的な打撃を受ける。発電所、鉄道、そして工場の稼働に必要な燃料が石炭で賄われていたからだ。
 石炭は室蘭港や小樽港などから貨物船で工場地帯に運ばれていた。戦況が不利になると、貨物船は海外航路に転用された。石炭は青函航路を経由する鉄道輸送に転換、多数の機帆船も動員された。
 14、15日の空襲では連絡船を除いても、全被災地合計で500トン以上の船舶46隻(11万トン)と機帆船150隻が撃沈または大破した。北海道炭の毎月の輸送力10万トンを失い、関東・信越地方の石炭供給量は半減。日本政府中枢には大きな衝撃が走った。
 ▽民間人に多数の犠牲者
 図2は本県の人的被害を表したものだ。図1に示した目標にない地域に被害が及んでいる。沿岸部の被害は軍事施設や艦船を狙ったものともいえるが、金木・木造などの内陸部はもともと攻撃目標ではない。金木町朝日町では、F6Fの銃爆撃で24歳の男性と7歳の少女が死亡した。近くには軍事施設も工場もない。
 鉄道では動く機関車、列車が狙われた。大湊線下北駅では列車の乗客1人が死亡、14人が負傷した。東北本線の向山駅などでも被害があった。
 ▽列車銃爆撃は交通破壊か
 15日朝、五能線陸奥森田駅(つがる市)に進入中の弘前発東能代行きの上り列車が艦載機の機銃掃射を受け、乗客3人が死亡、乗客多数と職員2人が負傷した(国鉄資料)。実は列車に対する攻撃は計画的な交通網の破壊ではない。非戦闘員を狙った戦争遂行に何の関係もない攻撃だ。
 青函連絡船への銃爆撃は米軍が初めて行った日本の交通に対する攻撃だったが、この段階でも鉄道に対する本格的な攻撃は計画されていない。鉄道をまひさせるなら、大規模な線路爆破や鉄橋の破壊が効果的だ。
 実際には鉄道施設や線路の被害は空襲当日中に復旧・開通する程度のものだった。橋梁(きょうりょう)・橋脚はほぼ無傷だった。しかも陸奥森田駅はローカル線の小駅で、軍事的には意味はない。北海道炭の輸送に打撃を与えるならば、奥羽本線や東北本線の橋梁を破壊するのが効果的だ。
 ▽臨機目標という名の蛮行
 津軽半島内陸部での銃爆撃は米軍の戦闘報告書には記載がない。乗員は、主目標の攻撃ができない場合「臨機目標」の攻撃を許されていた。F6Fなどの艦上戦闘機は敵の防空勢力を破壊し、爆撃機・攻撃機の護衛と銃爆撃を行う軍用機だ。日本軍の対空戦闘が弱体で目標が見当たらず、戦闘機は搭乗員の判断で戦闘行動を行えたのだ。
 戦闘機による非戦闘員(民間人)への機銃掃射などの殺傷、軍事目標よりも戦意喪失を狙ったB―29戦略爆撃機による無差別都市爆撃、それらが空襲の現実だった。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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