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中別所の板碑群(公卿塚) |
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正応の板碑 |
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瑞楽園(国名勝) |
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神明宮(富栄)の鳥居の「鬼コ」 |
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前田光世先生出生地之碑 |
▽船沢村の由来
弘前市西郊に、昭和の大合併前に「船沢村」という村があったことをご存じだろうか。
船沢村は1889(明治22)年4月1日の市町村制施行で、蒔苗(まかなえ)・富栄(とみさかえ)・細越(ほそごえ)・折笠・宮館・中別所(なかべっしょ)の6村が合併して誕生した村である。大字は旧村名を継承している。1955(昭和30)年3月1日、弘前市と合併して同市の一地域となったが、役場は富栄に置かれていた。現在は折笠に、船沢公民館に併設して市役所の船沢出張所が置かれている。
富栄は1876(明治9)年に江戸時代の鶴田・三ツ森・四戸野沢(しとのさわ)・小島の4村が合併して生まれた村で、新村が富み栄えることを願って村名にしたという。旧村名は通称としては残るものの、字名としては残っていない。天文年間(1532~55)に成立したという「津軽郡中名字(つがるぐんちゅうみょうじ)」には、宮館・縫笠(おりかさ)・斯戸沢(しとのさわ)がすでに見えている。
蒔苗・細越・折笠・宮館・中別所の5村は、江戸時代の弘前藩の行政区画の一つ、鼻和庄(はなわのしょう)高杉組に属していた。鶴田・三ツ森・四戸野沢・小島の4村も同じである。このうち小島村の村名は、1727(享保12)年頃に村を開発した小島長兵衛の名前にちなむ。
船沢村は岩木山の東麓(とうろく)に位置し、水田耕作とリンゴや蔬菜(そさい)栽培を主とする純農村として発達し、現在もその状態はあまり変わっていない。村名は村の東北端にある中世の館跡、中別所館跡にある堀を通称「船沢」と呼んでおり、これにちなんだと言われている。
村の中央を現在は主要地方道五所川原・岩木線が通る。1939(昭和14)年当時、弘前バスが弘前~船沢間を運行していたが、後に弘南バスに引き継がれた。40(昭和15)に中別所から分かれた岩木山麓の開拓地、弥生を入れ大字は7つとなった。
▽中別所の板碑群と瑞楽園
中別所には石仏(いしぼとけ)・公卿塚(くげづか)と呼ばれる、板碑を50基ほど集めた場所がある。石仏にある1288(正応元)年に建てられた板石塔婆は、国重要美術品に指定され「正応の板碑」と呼ばれている。
建立者高杉郷主源光氏(ごうしゅみなもとのみつうじ)は、弘前市西茂森の長勝寺にある1306(嘉元4)年に鋳造された「銅鐘」(国重文)の寄進者としても名前が見えている。蒔苗にも津軽地方には3基しかない画像板碑が1基ある。
宮館には、津軽地方で独自に発達した庭園技術、大石武学流で造られた国指定名勝「瑞楽園」があり、津軽の豪農の庭園として注目される。当園は1890(明治23)年から15年余をかけて高橋亭山が築庭した後、弟子の池田亭月と亭月の弟子外崎亭陽が増築して現在の姿になった。
また、付近の農家の土蔵などには鏝絵(こてえ)(漆喰(しっくい)を用いて作られる浮き彫り状の絵)を装飾したものが多く、一見の価値がある。現在、この地区には県立弘前第一と第二養護学校もある。
細越にある船沢小学校は、明治期に富栄に建てられた富栄尋常小学校の後身である。富栄にある船沢中学校は1950(昭和25)年、折笠から移転したものである。折笠はリンゴ栽培が盛んで、スターキングの栽培普及に努めた対馬竹五郎の生誕地である。対馬は弥生のリンゴ栽培にも力を入れた人物で、この地区の開拓には船沢村の農家の次・三男が従事した。
▽世界的柔道家コンデ・コマ
富栄は、講道館柔道を世界に広めたコンデ・コマこと前田光世(みつよ)が、1878(明治11)年に生まれた土地である。前田は旧制の県立弘前中学校(現県立弘前高校)から東京専門学校(現早稲田大学)に進み、講道館で柔道を学んで、アメリカやヨーロッパを遍歴し柔道を広めた。
その後7段に昇段し1915(大正4)年にブラジルへ渡り、同国の海軍兵学校の柔道師範をした後、ベレン市に住んだ。そこでアマゾン開発に従事し、同地方への日本人移民を先導した。
41(昭和16)年に同市で永眠したが、彼の業績は弘前公園追手門近くの顕彰碑で知ることができる。また、彼の生家近くにも56(昭和31)年に建てられた出生の地碑がある。碑の近くに鎮座する神明宮の鳥居の額束(がくづか)には「鬼コ」があり、島木と貫(ぬき)を支えている。
(弘前市文化財保護審議委員長 福井敏隆)