津軽の街と風景

 

守り継がれた屏風山=70

2017/5/29 月曜日

 

18世紀ころの屏風山。現在のつがる市筒木坂(どうきざか)・平滝・牛潟(うしがた)地区。写真上部が日本海側。カシワやマツが植林されていたことがわかる=「山沢図解 坤」弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書
平滝沼運動公園内に置かれている野呂武左衛門顕彰碑=2017(平成29)年5月21日・筆者撮影
牛潟池。池の背後(写真奥)に屏風山が見える=1962(昭和37)年11月7日・青森県史編さん資料

 ▽新田開発と植林事業
 屏風(びょうぶ)山は津軽半島西海岸の七里長浜に沿って鯵ケ沢町から十三湖に至る南北約30キロメートル、東西約3~5キロメートルにおよぶ砂丘地帯をいう。日本海から吹き込む激しい潮風と飛砂が、農作物を枯死させる不毛地帯だったが、江戸時代から続けられている植林事業によって防風・防砂林が築かれて、現在はスイカやメロンの産地として有名である。
 屏風山の植林事業は、4代藩主津軽信政が手掛けた津軽半島北部や岩木川下流域の広大な湿地帯開発の一環で行われた。その目的は、防風・防砂および山田川下流の農業用水を確保するための水源涵養(かんよう)だった。
 1681(天和元)年、館岡村(現つがる市木造)の野呂理左衛門を中心に、同村神明山(しんめいさん)へマツ30本余りを植林し、14本の木が育ったことに力を得て、翌年から本格的に植林を命じた。このとき、藩主信政が「屏風山」と命名したという。
 野呂家の由緒書(ゆいしょがき)によると、理左衛門は、82(天和2)年10月に平沢定右衛門や工藤弥兵衛とともに「御立山諸木取扱」を命じられ、翌年から大開(おおひらき)村(現鶴田町)から菰槌(こもつち)村(現つがる市)までの9カ山にマツやスギ3万1336本を植林した。
 彼らは、強烈な潮風をしのぐための囲いを木々の周りに作って苗木を保護し、植林後も巡回を欠かさず行ったことで、幅2キロメートル、長さ40キロメートルにおよぶ防風・防砂林を築いた。なお、1703(元禄16)年までの植え付け本数は計69万376本にも上った。彼らの努力が、大規模な新田開発を完成させる要因になった。
 ▽伐木による荒廃と枯渇
 理左衛門のころから始められた屏風山への植林事業は、孫の弥右衛門まで約70年間行われた。しかし、宝暦年間(1751~64)以降、藩内の山々で盗伐が頻発し山の荒廃が著しくなったため、山下の村々による仕立(したて=植林あるいは樹木の育成)や見継(みつぎ=保護・管理)へと管理体制の移行が進められた。
 さらに、飢饉(ききん)や凶作が頻発し、困窮者支援のために「御救山(おすくいやま)」として山が開放されたことも、森林資源の枯渇を助長させた。1783(天明3)年に発生した天明飢饉の際、木作新田の山々は、無計画な乱伐により廃山になった場所が多かった。
 こうして、屏風山の防風・防砂林は徐々に失われていった。山下の村々ではマツやスギの植林を行っていたが、低地への植林に集中しており、潮風が激しく吹きつける高地には、数本のマツやスギが植えられている場所や木々が全くない場所がほとんどで、風よけとしての役割を十分に果たせていなかった。苗木の保護を行わずに植林したため強風で倒れてしまい、木々が育たなかったようだ。これにより、広須・木作新田のみならず、金木・飯詰・広田組など周辺の村々でも農作物への被害が発生していた。
 ▽屏風山復興への道
 ここで屏風山復興のために植林の任に就いたのが、野呂喜太郎である。彼は、1855(安政2)年2月に「屏風山松木仕立増」の任を森田村(現つがる市森田)の原田忠吉とともに命じられ、マツの植林を進めていった。
 この事業は喜太郎の子武左衛門にも受け継がれた。1866(慶応2)年には武左衛門と忠吉に加えて増田喜右衛門も植林に携わった。翌年、3人は「屏風山新松仕立見継役」に任じられたことで、松の植林と見継の両方を担うようになった。彼らは明治になっても植林を続け、74(明治7)年までの間に177万9400本が植林された。こうして屏風山は復興を遂げた。
 82(明治15)年2月、武左衛門は東京の上野公園で開催された山林共進会で、山林繁殖に力を尽くした人物の一人として2等賞を受賞し、屏風山は2等山林として全国に知られることになった。彼にとって、屏風山は「万民耕作救助之名産」だった。野呂家をはじめ、植林事業に尽くした人たちによってもたらされた恩恵を享受しながらも、彼らの遺志を継ぎ屏風山を後世に守り継いでいくことが求められている。
(青森県史編さん執筆協力員=鯵ケ沢町在住、蔦谷大輔)

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「自宅で婚礼」が普通=69

2017/5/15 月曜日

 

黒留袖を着た花嫁。弘前市の美容師だった野村トシさんが髪を手がけた花嫁。野村さんは着付けにも携わっていた=昭和戦前期・野村英夫さん(ヘアメイクELLE)提供
角樽=蓬田村文化伝承館所蔵。『青森県史民俗編資料津軽』(青森県)より転載
大鰐町の旅館での結婚式=1965(昭和40)年・福士長五郎さん提供。『弘前・黒石・平川の昭和』(いき出版)より転載
婚礼の祝い膳=櫻庭俊美さん撮影。『青森県史民俗編資料津軽』(青森県)より転載
振り袖姿の花嫁と和装の花婿=昭和戦前期・野村英夫さん(ヘアメイクELLE)提供

 ▽昭和初期の結婚
 昭和初期までは、ほとんどの人が結婚した時代である。「生きていくためには結婚しなくてはならなかった」とよく言われ、男性も女性も衣食住や生業のために家庭での労働の役割を担って働き、生活が維持された。
 結婚式は1955(昭和30)年頃まで、自宅で行うのが普通だった。付き合いのある家や親戚の主人が招かれ、結婚式は家に嫁や婿を迎え入れる儀式という意味合いが強く、祝言と呼ばれた。家を守り、次の世代に引き継ぐために結婚は重要だったので、結婚相手の決定には娘も息子も親の意向に沿うことが当たり前と考えられていた。
 人柄が良く働き者であることが良い結婚相手の条件であり、キュウジニンと呼ばれる仲人や口利きの世話で見合いをして、家の格式などの釣り合いを見て相手を決めた。津軽地方では嫁入りを承諾してもらうために、仲人が箱菓子を持参し嫁の家を何度も訪れた。
 結婚相手が決まると、仲人が祝い酒を携えて嫁の家を訪れて「決め酒」の儀礼を行い、結納の日取りを決めた。「結納」では昆布、スルメ、熨(の)しで飾った角樽(つのだる)を持った樽背負い、結納の品を運ぶ荷背負いを仲人が引き連れ、嫁の家へ結納の品を届け、祝言の日取りを決めた。
 ▽結婚の儀礼
 結婚の細かい儀礼の段取りを重んじるのが津軽地方の特色といえる。婚礼の当日、午前中に嫁の実家で嫁の親戚や親しい家の人を招待して嫁やりのフルマイを行った。花嫁を送り出すとき、嫁と仲人・嫁の両親がタチハといって別れの杯を酌み交わした。
 嫁の出立の前に嫁入り道具が運ばれた。荷物運びの責任者サイリョ(宰領)を先頭に荷背負いや荷物担ぎが運んだり、冬にはそり、荷馬車などで運ぶこともあった。その後に仲人と嫁、ソエ嫁やオクリバサマなどの付き添いがついて嫁の行列が出発した。荷物運びは荷物を届けた後、引き返して途中で嫁の行列と行き交うようにし、箪笥(たんす)の鍵を渡した。
 「嫁には婿の家のグシ(軒先)を見せるな」といい、婚家での嫁入りの祝いは夕方から行われた。嫁が婚家に入るとき、仲人や樽背負いと入家の杯事であるカド酒をした。
 祝言では婿方の親戚や親しい家の当主が招かれ、嫁の関係者は出席
しなかった。田舎館村や黒石市、弘前市などでは、ゲンザ(見参)といって嫁方の親戚が数人出席して婚家の様子を見聞するということもあった。
 35(昭和10)年頃までは、婿がフルマイの席に出ないことも多かった。三三九度を行う家は少なかったが、親子名乗りの杯事や千鳥の杯といって盃(さかずき)のやりとりをすることもあった。嫁と婿は宴席で酒を注いで回った。
 祝言の1日目は正式の祝いで客も紋付き羽織で出席し、2日目はアトフキや二日ブルマイといい、手伝いの人や友人たち、親戚の女性たちが自分たちでお膳を作って祝った。
 結婚の儀礼には、細かい点では都市部や農村部など地域的な違いもあった。また、オオヤケと呼ばれる資産のある家では盛大に行われ、祝言は3日間も行われた。弘前市内から尾上に嫁いだ旧家の婚礼では、弘前から尾上まで嫁の行列が続いたという。
 都市部では、早くから花嫁が打ち掛けや振り袖を着るなど華やかに行われ、三三九度も盃のやり取りなど、細かいしきたりを指導する亭主役がついて雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)の子供が酒を注ぎ、厳粛に行われた。
 ▽結婚による親密な付き合い
 自宅での婚礼は、嫁と婿が新たな人生を踏み出す節目であると同時に、家族、親族、地域の人々との共通の体験であるハレの日だった。近所の女性たちが普段着姿で障子に穴を空けて、婚礼の様子をのぞき見る嫁見という習俗があった。これには、ケとしての日常から婚礼というハレの世界を垣間見るという意味合いがあった。
 祝言の料理は料理人が差配して手伝いの人たちが手作りの料理を整えるなど、婚礼には多くの親しい人たちの助力が必要だった。若い2人は、地域の生業を支え次の世代を育てる大事な人材だった。結婚生活は、婚礼に出席した主立った大人たちの支えや近隣の人々との親密な付き合いによって助けられ、維持される時代だったといえよう。
(日本民俗学会会員 長谷川方子)

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交通の結節点 藤崎町=68

2017/4/24 月曜日

 

菅江真澄が描いた平川橋 「藤崎川橋上眺望」秋田県大館市立栗盛記念図書館蔵
伝馬継立場の現状。現鹿島神社の向かい。周辺には「羽州街道」の標柱が立つ。2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社 2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社の太郎左衛門人柱の掲額 1954(昭和29)年・石沢竜峡作

 ▽陸上交通の拠点
 「ふじ」が生まれた地として知られる藤崎町。藤崎の市街地は平川沿いに延びるが、近くで岩木川と2大支流の平川と浅瀬石川が合流する。このような地理的特性から、江戸時代の藤崎は陸上交通と河川交通の結節点だった。
 中世期は安東氏によって藤崎城が築かれ、江戸時代には弘前藩「藤崎組」の代官所が置かれ、周辺18カ村の中心となっていた。1959(昭和34)年にバイパスが完成したので、現在の国道7号は藤崎の市街地を通らないが、前身である羽州街道は藤崎の町を直角に6カ所折れ曲がっており、城下町特有のカギ型の街路を見せる。藤崎城は江戸初期に廃城になったので、戦国時代の後期には既に町が形成されていたと思われる。
 藤崎には公用の荷物の運搬や旅行者の人馬の継ぎ立てをする「伝馬(てんま)」が置かれた。鹿島神社の周辺には「伝馬新田」といって、伝馬に携わる人々が入植した村があり、現在でも「伝馬」の通称地名が残っている。このような「伝馬新田」は油川、浅虫など津軽地方の各地に見られる。
 国道7号の藤崎町と弘前市の境界にある大きな橋が平川橋である。藤崎側には「舟場」の通称地名が残るが、これはかつて渡し場があった名残である。『弘前市史 藩政編』によると、1681(天和元)年に最初の橋が架かったとされる。長さは時期によって異なるが、約130メートルから160メートルくらいである。
 江戸後期の寛政年間(1789~1800)に訪れた菅江真澄は、欄干と人や馬がすれ違えるように、橋の真ん中に待避所を備えた立派な橋の姿を描いている(「錦木雑葉集」)。江戸時代、本県域の羽州街道に架かる橋としては最も大きかった。なお、現在の平川橋は1973(昭和48)年に架け替えられ、84(同59年)に2車線化されている。
 ▽河川交通の拠点
 代官所がある藤崎には、周辺の村々から集めた年貢米を収納する「御蔵」が平川沿いにあった。藤崎組と常盤組の年貢米約3万俵が収納された。集められた年貢米は、羽州街道を利用して青森へ、また岩木川水運を通じて十三(現五所川原市市浦)へ廻漕(かいそう)された。
 弘前藩の本格的な舟運による年貢米輸送は、17世紀中頃から始まると考えられ、藤崎御蔵も1685(貞享2)年に設置されている。このような御蔵は岩木川流域沿いでは、藤崎のほか、石渡(いしわたり、現弘前市)、三世寺(さんぜじ、同)、板屋野木(いたやのき、現板柳町)、五所川原などに置かれた。
 年貢米は冬から早春にかけて十三湊を経由して弘前藩日本海海運の拠点港だった鯵ケ沢湊へ廻漕され、さらに大きな船に積み替えられて、日本海海運により上方方面に運ばれていった。それは弘前藩の大きな財源になっていった。
 しかし、年貢米積出基地としての藤崎の重要性も、やがて新田開発が進んだ板屋野木に取って代わられるようになる。また、岩木川水運自体も陸上交通の発達や、河口である十三湊が土砂の堆積で大きな船の運航が不便になってきたことなどから、次第に衰退していくようになる。
 一方、青森湊からの太平洋海運による運送の方は、江戸藩邸用米が中心だったが、藩邸経費の拡大とともに次第に増加していった。御蔵が設置された藤崎の重要性は変わらなかったのである。現在でも国道7号が町内を貫通し、五所川原へ向かう339号が分岐するなど、陸上交通の拠点としての藤崎の性格は変わっていないように思える。
 余談だが、「ふじ」を生んだ農林省園芸試験場東北支部(1937~61年設置)は、実は藤崎町が積極的に誘致したものでなく、当時激しい誘致合戦を続けていた弘前市、黒石町(現黒石市)、板柳町の中間にあるという理由で決定されたものだった。ここでも四方に道路が発達し、いずれの場所にも行きやすいという藤崎町の地域的特性が反映されたと言える。
 ▽藤崎堰
 津軽平野の真ん中に位置する藤崎には用水路も縦横に発達している。この中でも特に古いのは、黒石市境松に取水口を持つ藤崎堰(ぜき)で、慶長年間(1596~1615)に開削されたと伝えられる。
 ただし、はっきりした同時代資料があるわけではない。藤崎堰は完成後も急流のため何度も決壊するので、1609(慶長14)年に藤崎村の住人堰八安高が自ら人柱になり、藩の検分役の前で壮絶に入水(じゅすい)し、急流は見事に治まったという。
 町内には堰八を祀(まつ)る「堰神社」がある。この神社は藩の資金によって建てられ、藤崎堰およびその下流から取水する横沢堰、枝川堰、五所川原堰の四堰周辺の村人が氏子になった。
 また江戸時代を通じて雨乞いなどの祈祷(きとう)が行われ、藩からの援助もあった。現在でも境内には各土地改良区が奉納した鳥居、狛犬(こまいぬ)などが見られる。このほか、平川の白子周辺で五所川原堰と足水堰が取水し、いわゆる新田地方と言われる西北地方の田畑を潤している。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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「西海岸」の歴史遺産=67

2017/4/3 月曜日

 

北金ヶ沢駅で列車を待つ人々=1972(昭和47)年3月・堀越庸夫さん撮影提供
千畳敷駅に降り立つ観光客=1961(昭和36)年8月・青森県史編さん資料
沢辺の稲荷神社で催された宵宮=1966(昭和41)年7月・中園裕所蔵
森山にある賽の河原=1966(昭和41)年7月・中園裕所蔵

 ▽大戸瀬村
 2005(平成17)年3月31日、深浦町と岩崎村が合併し、新たに深浦町が誕生。青森県で最も西側に位置し、広大な町域を誇る町となった。しかし、その50年前までは、深浦町域の北部に大戸瀬村があった。村は1955(昭和30)年7月29日に深浦町と合併し、その歴史に終止符を打った。
 大戸瀬村で最も有名な存在は大渡瀬崎周辺の千畳敷だろう。戦前から村を象徴する存在で、絵はがきにもよく登場した。戦後、高度経済成長の影響で全国的に観光が盛んになった54(昭和29)年、臨時駅として千畳敷駅が設置された。通常駅となって久しい現在、一部の「リゾートしらかみ」が停車する。春から夏に大勢の人々が集まるが、冬に駅ホーム背後の岩肌に連なる大氷柱も人気を集めている。
 大戸瀬の名前は深浦町の大字をはじめ、駅や郵便局に存在する。しかし村役場は大戸瀬ではなく、少し南東寄りの北金ケ沢にあった。役場があっただけに、今も大きな集落を形成している。また、西海岸の恵まれた漁場があるため、北金ケ沢港は大謀網の好漁港で、マグロやブリ、タイ、スズキなどの高級魚が多数水揚げされる。
 意外に知られていないのが北金ケ沢駅舎の歴史的価値である。部分的な改良はあるが、31(昭和6)年10月20日に開業した当時の駅舎なのだ。85年以上の歳月が経過し、今なお現役で使用され、五能線でも古い駅舎の一つである。
 駅の近くには「垂乳根(たらちね)のイチョウ」と呼ばれる大イチョウがあり、その存在は内外で有名だ。毎年イチョウが黄色に色づく初冬には大勢の見物客が訪れる。2004(平成16)年に国指定の天然記念物となった。
 イチョウの見物に北金ケ沢駅を使う県民は少ないだろう。しかし観光客はおおむね駅を使う。イチョウの知名度に隠れがちな駅自体の歴史的価値を知らせてほしい。同時に県民も地元の歴史遺産として大切にしてほしいと思う。
 ▽岩崎村
 平成の大合併で深浦町となった岩崎村は、現深浦町の南部に位置する。秋田県との境には須郷岬がある。岩崎村は大戸瀬村と同様、平野が少なく狭い海岸線に五能線と国道が走っている。漁業中心の生活形態で、岩崎漁港は北金ケ沢港とならび、西海岸の重要な漁港である。
 村で最も有名な存在は十二湖と白神山地だろう。十二湖の中では、色の美しさから青池が大人気だ。毎年多くの観光客が訪れる。また周辺にそびえる「日本キャニオン」も、この地域の観光客動員に大きく寄与している。
 十二湖駅は春から秋にかけて観光客でいっぱいとなる。しかし、この駅は五能線が敷設された当初には存在しなかった。戦後に十二湖を訪れる観光客が多くなった1959(昭和34)年、ようやく湖の入り口近くに簡易的な臨時駅が設置された。ホームが一つあるだけの小さな駅だった。
 97(平成9)年の秋田新幹線開業を機に、JR東日本が西海岸の景勝と夕日を観賞する目的で、「リゾートしらかみ」を走らせた。沿線観光が大きく宣伝される中で十二湖の人気は高まり、十二湖駅は2005(平成17)年に観光案内所や産直販売施設を伴った大きな駅舎となった。現在は「リゾートしらかみ」の到着ごとに大にぎわいである。
 他方、白神山地は世界遺産に登録されて以来、各地から多くの入山客が押し寄せるようになった。このためJR東日本では、2000(平成12)年に陸奥黒崎駅を白神岳登山口駅と改称。駅は白神岳登山への誘致に一役買っている。
 岩崎村は南北に長く連なる村域を有していた。藩政時代以来の日本海交易と、西海岸の厳しい自然の中で漁業や林業に携わってきた歴史が存在する。このため大間越の春日祭や獅子舞、松神や黒崎の鹿島祭、岩崎の花上げ踊りや裸参りなど、西海岸の各集落には個性あふれる祭事が継承されている。
 また、集落ごとに存在する神社の祭礼行事も豊かで、大間越関所跡や賽(さい)の河原など、史跡が随所に存在する。そして興味深いのは、それらの多くが「リゾートしらかみ」の停車しない駅周辺に存在することであろう。
 ▽「地元駅」の周辺
 五能線は陸上交通に恵まれなかった西海岸の町村が、県や国に対して請願や陳情を繰り返し、運動を継続した結果敷設された鉄道である。鉄道は沿線に住む人々や集落に計り知れないほどの便宜を与えた。それ故、当初設置された駅は主に集落の人々が利用する「地元駅」として現在に至っている。
 これに対し十二湖駅やウェスパ椿山駅は、観光地化の進む自然の景勝地へ誘客を図るため、新たに設置された「観光駅」である。当然、利用する人々は地元客よりも観光客が中心で、利用客は普通列車より観光列車の「リゾートしらかみ」の方が多い。
 観光列車が通過する「地元駅」に、観光客が降りることは少ないだろう。当然、彼らが沿線集落に継承されてきた民俗芸能を堪能し、集落内の史跡を訪ねる機会は乏しい。
 過疎化が進む深刻な環境下で、旧岩崎村域に存在する史跡や民俗芸能を後世へ伝える人々の労苦は並大抵ではない。それだけに現在も継承され、そこに存在する史跡や芸能の価値は、景勝地に勝るとも劣らない価値を有する。
 限られた日程と予算の中で動く観光客に、「リゾートしらかみ」が通過する「地元駅」へ降りてもらうのは難しい。しかし地域観光対策の多様化が叫ばれている中で、今後「地元駅」の周辺に観光客を誘致する工夫が求められるだろう。
 定番の景勝地や誘客施設に観光客を招くことは大事である。しかし、見逃されがちな地域の歴史や民俗芸能の価値が共有できれば誘客の幅も広がると思う。誘客次第では、後継者難に苦しむ地域の伝統行事や民俗芸能を後世へ伝える効果が生まれるかもしれない。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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鉄道と駅前スーパー=66

2017/3/20 月曜日

 

ショッピングおのえ=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
ショッピングおのえの店内=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
コープ尾上店があった頃の津軽尾上駅=2006(平成18)年7月11日・筆者撮影
津軽尾上駅と快速列車=1980年代後半・青森県史編さん資料

 1927(昭和2)年9月7日、弘南鉄道弘南線が弘前と津軽尾上の間に開通した。実は、今年の9月で開業90周年を迎える。今回は弘南鉄道の社史に書かれていない鉄道と地域に関する話題を提供したい。
 ▽平賀駅の地下スーパー
 62(昭和37)年9月7日、弘南鉄道は開業35周年を記念して平賀駅を新築した。その際、地下に平賀農協と共同経営のスーパーマーケットを設けた。
 まだ自家用車が普及する前の時代だった。近距離の人は徒歩か自転車、遠方の人はバスや鉄道を使って買い物するのが常だった。平賀駅は駅と周辺地域を結ぶバスが集まる拠点である。駅前には小売店を中心とした商店街が形成され、買い物客でにぎわった。
 駅地下のスーパーは、一つの店舗で多種多様の買い物ができた。雨や雪が避けられるので主婦層に評判が良かった。駅併設のため通勤通学のサラリーマンや学生も利用した。お菓子やパンを買い求め、足しげく通った女子学生たちは、地下のスーパーを親しみを込めて「駅の穴」と呼んだ。
 ▽開業50周年
 70年代半ば以降、自家用車の普及に伴い鉄道の利用は下降線をたどった。対応を迫られた弘南鉄道では自動券売機を設置。除雪車を積極的に投入するなど、利用客の便宜を図り沿線の保線強化を行った。75(昭和50)年には、輸送力強化のため快速列車を運行した。停車駅は弘前、南弘前(現弘前東高前)、平賀、津軽尾上、弘南黒石(現黒石)だった。
 77(昭和52)年に開催される「あすなろ国体」を前に、県内各地では道路や街並みの整備が進められた。この年、弘南鉄道は南弘前と新里(にさと)の間に運動公園前駅を開業した。弘前運動公園の利用に供するためだった。
 あすなろ国体開催の年は、弘南鉄道にとって開業50周年の記念すべき年だった。このため9月7日に式典を開催。社史として『弘南鉄道五十年史』を刊行している。
 ▽津軽尾上駅の新築
 あすなろ国体は青森県を全国に紹介する絶好の機会だった。県内の各市町村でも地域宣伝のため、各種のインフラ整備を進め観光地の宣伝を強化した。
 尾上町(現平川市)では国体の開催以前から、猿賀神社に併設する形で猿賀公園を整備していた。猿賀神社は尾上町をはじめ、周辺市町村からも信仰を集め「猿賀さま」と呼ばれ親しまれていた。町では由緒ある神社に参拝する人々を、隣接する公園に回遊させることで、町の魅力を引き出そうとしたわけである。
 町では猿賀神社への入り口となる駅前の開発に着手した。この動きに弘南鉄道が呼応し、津軽尾上の駅舎を新築することになった。その際、樽沢武任社長は猿賀神社の拝殿を模した破風(はふ)型の屋根を取り入れ、駅舎を猿賀神社の玄関にふさわしい姿とした。
 弘南鉄道にとっても、猿賀神社は66(昭和41)年8月21日に、創業以来初めて社運の隆昌(りゅうしょう)と従業員の安全を祈願して幟(のぼり)を奉納した特別な存在だった。こうして新しい駅舎は、開業52周年の79(昭和54)年9月7日に落成式を迎えた。
 ▽津軽尾上駅のスーパー
 79年9月30日、新築された駅舎に併設する形で建設が進められていた「ショッピングおのえ」が開業した。協同組合ショッピングおのえが経営する地上2階建てのスーパーマーケットで、食料品や衣料をはじめ日用雑貨、菓子屋、食堂や喫茶店など10数軒の店舗が入った。
 すでにスーパーが商店街などに進出していた時期でもあり、尾上町民は開業に期待をしていた。平賀駅の地下スーパーが盛況だったことも影響していただろう。このため駅併設のスーパーは、駅を利用する人々を中心に大いに利用された。菓子屋やスポーツ用品、音楽用品など、各種の店舗がそろっていたため主婦層を中心に若者も集まった。
 スーパー開業の頃は自家用車が普及し始めていたとはいえ、人々の移動手段は鉄道や徒歩、自転車などに依拠していた。まだ大手資本による郊外の大型ショッピングセンターが、本格的に展開していなかった時代だった。尾上町にはデパートもなかったため、駅に隣接するスーパーは魅力的な存在だったのである。
 ▽人の集まる拠点
 都市計画の進行と自動車の進出は予想以上に早かった。郊外の大型ショッピングセンターが各地に進出するのに伴い、小さな地元のスーパーマーケットは閉店に追い込まれていった。事実、86(昭和61)年に現在の平賀駅舎ができた際、駅地下のスーパーは閉鎖された。ショッピングおのえも、その後コープ尾上店に変わって営業を続けていたが、間もなく閉店。数年前に建物も撤去された。買い物の移動には自家用車が当たり前の時代になり、駐車場の狭い駅併設のスーパーマーケットは不便になったのである。
 しかし現在、高齢化社会が予想以上に早く進み、「買い物難民」が各地で深刻な問題になっている。大手資本に対抗する地元スーパーでは、トラックを活用した移動スーパーを展開し、コンビニエンスストアも随所に店舗を設けて惣菜(そうざい)を販売するなど、新しい戦術を展開している。このため郊外の大型ショッピングセンターは、必ずしも経営的に安泰とはいえなくなっている。事実、全国各地で大型店舗が統廃合を繰り返しつつある。
 平賀駅では駅近くのコープ平賀店が閉店した後、別のスーパーが入居している。駅前開発で立ち退きや閉店した店が商店街には多かった。駅周辺に住む買い物客にとって、スーパーは有り難い存在になっている。
 地域には人の集まる拠点が必要だ。そこは生活上必要な食材や日用雑貨などが購入できる場所がふさわしい。自家用車を持たない人々が買い物できるショッピングおのえのような駅前スーパーが、高齢化社会に対応する施設として注目される余地はあると思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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