津軽の街と風景

 

弘前連隊の雪中行軍=63

2017/1/30 月曜日

 

歩兵第31連隊兵舎で実施された軍旗祭。1915~16(大正4~5)年頃・青森県史編さん資料
黒倉山の難路を越える行軍隊。右上に立つ人物が福島泰蔵大尉1902(明治35)年1月20日(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)
琵琶台(琵琶ノ平)をゆく行軍隊。先頭は案内の木樵、次が竹舘村長の相馬清次郎。1902(明治35)年1月21日(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)
福島泰蔵とキエの結婚記念写真。1902(明治35)年10月(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)

 ▽八甲田雪中行軍
 1902(明治35)年1月、歩兵第31連隊(弘前連隊)の八甲田雪中行軍隊が弘前から十和田・三本木・田代・青森を経て弘前まで、約224キロを踏破。訓練参加者38人のうち、負傷した1人を除く37人が11泊12日の行程を歩き切った。
 弘前連隊の成功は、同時期に起きた歩兵第5連隊の大惨事の陰に隠れて忘れられてきた。近年、弘前隊の行動が明らかにされ、評価も高まった。雪中行軍の背景を探ってみたい。
 1898(明治31)年、第8師団の創設と同時に弘前連隊も設立された。雪国の軍隊である第8師団の各部隊には、想定されるロシアとの戦いでの活躍が期待されていた。陸軍が想定していたのは、厳寒の「満州」(中国東北部)でのロシアとの冬季の戦争、ロシア軍の青森への上陸だった。
 ▽福島泰蔵大尉、弘前連隊へ
 新設された弘前連隊第1大隊第2中隊長として、福島泰蔵という歩兵大尉が配属された。福島は1866(慶応2)年、上野国新田(こうずけにった)郡(群馬県伊勢崎市)に生まれた。私塾で漢学の素養を身につけ、師範学校で地理学を学んだことが彼の一生を決めた。陸軍士官学校を卒業、高崎歩兵第15連隊の見習士官を経て少尉に任官した。
 1897(明治30)年、参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)地形科に転属した。福島は地図の整備と、戦史からロシアの戦術を学ぶことを自己の課題とした。ロシアは南満州の8万4000分の1地図を整備しつつあり、開戦になればスケッチ程度の地図しか持たない日本軍は圧倒的に不利であった。
 福島は弘前連隊に転属すると、弘前周辺の演習用地図の作成と、冬季耐寒訓練に没頭する。当時青森県はまだ5万分の1地図はなく、1901(明治34)年再修正の輯成(しゅうせい)20万分の1地図が最も詳しい図であった。等高線はなく、ケバ図と呼ばれ、くさび形の線で地形を表していた。福島は八甲田雪中行軍にこの地図を携行したが、前年の岩木山雪中行軍でこの地図の限界を十分知っており、地図を過信していなかった。
 ▽雪中行軍・訓練に魅入られて
 弘前連隊では雪中訓練が盛んであった。1899(明治32)年2月に、弘前連隊は小坂・大湯から難所の来満峠・三戸・青森を経て弘前に達する7泊8日の雪中行軍を実施した(一部汽車行軍=地図を参照)。積雪量は平年の半分、好天にも恵まれて行軍は順調だった。
 弘前連隊で最も果敢な挑戦を繰り返したのが福島である。1900(明治33)年2月、福島は弘前市の西方で露営訓練を行い、雪中露営に備えた。翌年2月には2泊3日の岩木山の雪中行軍を実施、岩木山登頂はならなかったものの、1・5メートルを超える雪の中、弘前から鯵ケ沢まで44キロの路(みち)をほぼ丸一日で踏破した。
 福島はこれらの訓練・行軍の報告を『偕行社(かいこうしゃ)記事』『兵事雑誌』など将校向けの雑誌に連載して耐寒訓練で得られた知識・方法を普及しようとした。弘前連隊は軍隊の行軍していないルートを次々と踏破。最も厳しい八甲田だけが未踏破となった。
 ▽八甲田に挑戦
 1902(明治35)年の八甲田雪中行軍は、福島の満を持しての挑戦だった。10泊11日、弘前から反時計回りに三本木(十和田市)・青森を経て弘前まで。前年8月には予備的な行軍も行った。
 軍隊の訓練は冒険でも趣味の登山でもない。軍事的訓練であるから、確実性と隊員の安全が確保されなければならない。38人の隊員は見習士官と長期伍長(再服役志願の伍長)が中心で、指導者の錬成が目的だった。露営の準備はしたが、全泊とも舎営。嚮導(きょうどう)(民間人案内人)を雇う。
 実戦ならともかく、平時の訓練では死傷者を出すことは許されない。宿舎・食糧・嚮導。いずれも民間に協力させるのは当時の軍隊なら当然のことだった。
 豪雪と低温・強風。未曾有の悪天候の中、1日の遅れはあったものの、踏破に成功したのは 福島の周到な準備と、それに基づく成功への確信があったからだろう。
 ▽刊行されなかった行軍報告
 福島の報告書は旅団長や連隊長に高く評価されたが『偕行社記事』などに掲載されることはなかった。歩兵第5連隊の惨事と対比されることを陸軍が恐れたことは想像に難くない。雪中行軍で得られた貴重な情報を将校たちに知らせるよりも、不祥事を目立たせないことが優先されたともいえる。
 ▽日露戦争と福島大尉
 日露戦争が始まると、『偕行社記事』臨時1号に福島の「露国に対する冬期作戦の一慮」が掲載された。ロシア軍の戦術と、厳冬季の服装・食糧・健康などについてまとめたもので、この号はすべての将校に無料配布された。日露戦争を戦う将校が必ず読むべきだと陸軍が認めたのだ。
 福島は最後をこう締めくくっている。「予想外の出来事に対し間違いのない処置できるか否かは、天賦(てんぷ)(生まれつきの才能)に頼るしかないが、日常における準備の良否と注意の深浅とが関係することも疑いない(意訳)」。戦史研究と演習実践を追求した福島の結論だった。
 1905(明治38)年1月28日、満州・黒溝台の戦いで、福島は戦死した。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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津軽の年取りと元日=62

2017/1/16 月曜日

 

】写真1 大正月の年取り膳(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より転載、板柳町高増での再現写真、櫻庭俊美氏撮影)
写真2 昭和年代の年縄奉納の様子(旧常盤村、青森県立郷土館所蔵、野呂善造氏撮影)
写真3 奉納物と年縄を掲げて雪の中練り歩く行列(昭和年代、旧常盤村、青森県立郷土館所蔵、野呂善造氏撮影)
写真4 常盤八幡宮年縄奉納行事(2017<平成>年1月1日、藤崎町常盤、筆者撮影)

 ▽年取りの祝い
 津軽では、三度の年取りを祝うという。サントシといって、大正月(元日)、小正月(15日)に続き、1月のみそかを3回目の年取りとして祝うのだ。大正月、小正月ほどではなくても、をつき、ゆっくりと休む。ひと月余りのうちに、3回も正月がやってくるというのは随分とうらやましく思えてしまうが、かつての農作業では収穫後も脱穀などに手数がかかり、ようやく一段落つくのが年の瀬の頃だったという。
 現在、用いられる太陽暦が明治政府によって採用されたのは1873(明治6)年。それまでは月の運びを基準とする太陰暦が用いられていた。その後も村や家の年中行事では、旧暦として併用されてきた。思えば、旧暦による正月の頃は、一段と底冷えのする吹雪の季節である。春の訪れとともに雪切り作業や堆肥配りが始まるまで、この間に体を休め、正月をじっくり楽しむというのは厳寒の津軽野の人々に培われた知恵なのだろう。
 サントシの風習でも触れたように、県内では「正月を迎える」といった言い回しとともに、「年取り」「年取りを祝う」と言うことが多い。
 正月のお祝いといえば、元日に重箱のおせち料理を囲むといったイメージが一般的かもしれない。一方で、「年取りの飯」「年取り膳」といって、大みそかの夜にお祝いの食事をする風習が東北地方などに広くみられる。県内でも、大みそかに、年取りだといって家族皆で料理を囲んで祝うところが多い。津軽では年取りが遅れると翌年の農作業が遅れるといって、大みそかのまだ日の高いうちから年取りをしたという。
 写真1は、板柳町高増での年取り膳を再現したものである。写真左上から、かまぼこ、焼き魚(マス)、昆布巻き、タコの刺身、なます、人参の子和(あ)え、ごぼうのデンブ、ナマコ酢、飯、煮しめ、酒(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より転載)。子和えは、炒めた人参にたらこを加えて火を通したものである。かつてタラが豊漁だった県内では「タラ1本あれば正月する」といったほどで、刺身や汁物、子和えなど、捨てるところのないタラは正月料理に欠かせない存在だった。
 ▽大みそかの客
 年取りの夜の不思議な客についての昔話がある。1965(昭和40)年刊の森山泰太郎『郷土を科学する 津軽の民俗』から、中津軽郡の砂子瀬で語られた話をかいつまんで紹介しよう。
 大みそかに年取りの支度をしていると、一人のボサマがトボトボと杖(つえ)をついてやって来て宿を貸してくれという。明日の朝は早く起きて、若水をくまねばならないからと断っても、自分がくむというので、仕方なく泊めてやることにした。
 元日になって朝早く、井戸端で若水をくむ音がしていたが、やんでしまう。どうしたのかと行ってみると、ボサマが井戸の中に落ちて死んでいて、その体を運ぼうとするとひどく重い。上り口まで持って来て、そこで思わず落としてしまった。途端にジャンガラと音がしたので、掛けていたコモを取ってみると、黄金の山になっていた、というもので「これから、正月に見知らぬ人が不意にたずねてくると、きっとその家にしあわせを授ける人だから粗末にするな、といわれるようになった」と結ばれている。
 こういった大みそかの客が福をもたらす昔話は一つの話型として昔話研究の中で認められており、県内のいくつかの地域でも採集されている。
 ▽元日の神詣で
 大みそかを開けて、迎える元日。家の中での、大切な行事の一つは先に挙げた昔話にもあるように、若水くみである。元日の朝早く、年男といってその家のオヤジが他の人に会わぬようにして水をくみ、神棚に供える。この水は家族で飲んだり、元日の飯を炊くこともあった。
 いまひとつ、村、集落の中での大切な行事が、若者たちによる年縄奉納だろう。今年も正月に初詣に出掛けたという方も多いだろうが、かつては元日の朝にはまず集落の産土社(うぶすなしゃ)への神詣でがなされ、また村の若者たちによる年縄奉納の裸参りが津軽の各地で行われていた。
 年末のうちから、宿と決めた個人宅に集まり、各戸から集めた藁(わら)で年縄を制作する。元日の朝、厳寒の中をまわし姿の素裸でまず水垢離(みずごり)をとり、神酒・供えなどとともに年縄を担ぎ、「サイギ、サイギ」の掛け声とともに産土様へと奉納して豊年無事を祈る行事である。
 現在でも、年縄奉納が行われているところがいくつかある。そのうちの一つ、藤崎町の常盤では2017(平成29)年1月1日も晴天の中、第354回になるという常盤八幡宮年縄奉納行事が行われた。
 常盤地区コミュニティ活動推進協議会による『年縄奉納の歩み』(1986年刊)によれば、昭和51年に青年団から部落会へと奉納神事が引き継がれ、現在まで続いているという。同書の「としなの昔を語る」座談会では、青年団により行われていた頃の様子が語られている。当時の道路は一本道で、裸になっている時間は10分から15分くらいのものだったという。奉納後の祝賀会では、お神酒廻(まわ)しのときに茶碗鉢を各戸からもらったものを食べ、主として、先に挙げた年取り膳にもあったデンブとなますであったという。
 1970年に刊行された『津軽の民俗』では、鶴田町を例に挙げ、裸参りの後に各戸を訪れる若者たちはどの家でも「福の神が来た」といって喜び迎え、酒さかなで歓待したという。同書では、若者の裸参りは「津軽の各地に多く、近年とみに一種のショー的楽しさを持つ正月行事として復活している」とも指摘されている。伝統行事と呼ばれるものが長く続く、あるいは断続を経てまた復活するのは、そこに続けたくなる訳があるのだろう。今年の正月休みは短く、せわしなく感じた方もおられるのではないだろうか。今年の旧暦での正月元日は1月28日、訪れる客を歓待し招福するかつての正月へ思いをはせてみてはどうだろうか。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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林業と共に生きた相内=61

2016/12/26 月曜日

 

モダンな木造洋風建築だった市浦営林署=2001(平成13)年、筆者撮影
ムシを担ぐ若者たち(相内村の中心街、本町通り)=1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
籠作りにいそしむ女性たち=1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
踊りながら太刀振りに参加する子どもたち(本町通り、浜通り、十三通りの街道が交わる交差点)=1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料

 ▽相内村
 相内(あいうち)村は、岩木川の河口に広がる十三湖北岸に広がる村で、広義には相内・太田・桂川(板割沢)の3カ村からなる。古くは中世港湾都市十三湊の一角を占め、福島城跡や山王坊遺跡をはじめ、城館跡や神社仏閣跡の中世遺跡が数多く残されるなど、津軽地域の中でも古くから開けた地域だった。
 しかし、これらの集落が記録に登場するのは江戸時代になってからである。1645(正保2)年の『津軽知行高之帳』に相打村、相打大田村、板割沢村の3カ村が登場するのが始まりである。その板割沢村は1876(明治9)年に村落が統廃合。太田村は1889(明治22)年の市町村制施行によって、それぞれ相内村に統合した。
 相内村は1955(昭和30)年に近隣の十三村や脇元村と統合して市浦村となり、村名は消滅した。ただし、大字名の「相内」と「太田」が残り、かつての板割沢村は小字の「桂川」が残された。そのため、板割沢村は現在、「桂川」という名称で呼ばれている。その後、平成の大合併により、市浦村は旧五所川原市、金木町と飛び地合併し、現在に至っている。なお、相内村の地名由来は村内を流れる相内川に、かつて多くの鮎(あゆ)が遡上(そじょう)してきたことによる「鮎内川」が地名の由来となっている。
 ▽市浦営林署
 津軽山地を抱える相内村は、明治から昭和にかけて林業が極めて盛んな土地だった。相内村民は国有林と共に生き、計り知れない恩恵を受けてきたのだった。中でも市浦営林署の存在は、地元経済と地域活性化に果たした役割が非常に大きかった。
 市浦営林署が管轄していた国有林の大部分は、旧弘前藩が所有していたもので、全国有数のヒバ地帯だった。その市浦営林署の歴史は、1886(明治19)年の大小林区署制公布により、小泊および相内小林区署が設置されたことに始まる。94(明治27)年には、相内小林区署が小泊内小林区署に統合されたが、1904(明治37)年の日露戦争開始によって、翌年には増伐要請によって製材産業の興隆につながっていった。
 さらに09(明治42)年には、津軽森林鉄道(青森~喜良市間)が開通し、翌年には材木の鉄道運搬が開始された。これに伴い、材木運搬が海から陸に替わったことで、十三湊の海運や水運の衰微を決定づけることになったのは皮肉だった。
 10(明治43)年には小泊小林区署を相内小林区署と改称し、庁舎も相内村吉野へ移転した。この年、津軽森林鉄道相内支線(相内~今泉間)の着工に取り掛かり、12(明治45)年に総延長7356メートルの相内支線が完成し、機械化が大いに進んだという。この間に森林軌道利用組合が創設され、相内~中里間の森林軌道を利用した旅客輸送も行われた。当時の運賃は無料だったため、広く村民から喜ばれたという。
 その後、24(大正13)年、大小林区署制が営林局署制に改められ、相内小林区署は相内営林署と改称された。33(昭和8)年、当時の相内村長、三和五郎兵衛から宅地提供を受けた場所に、モダンで立派な庁舎が建てられ、相内村のシンボル的存在となった。
 55(昭和30)年の市浦村誕生に伴い、その翌年に相内営林署は市浦営林署と改称された。トラック運材が普及した64(昭和39)年には、地域住民の足としても寄与した津軽森林鉄道・相内支線が撤去されたが、一方で林道(車道)の建設は急速に伸びることになった。総収穫量が最大となったのは、65(昭和40)年の4万2800立方メートルだったが、安価な外国産材の輸入の影響を受けて、林業は序々に衰退していった。その結果、67(昭和42)年、津軽森林鉄道の運材が廃止された。
 99(平成11)年に市浦営林署が津軽森林管理署市浦事務所となり、その2年後に事務所は廃止された。相内村の林業興隆のシンボルだった建物は2003(平成15)年に取り壊された。このように相内村は、まさに林業の盛衰と共にあったのである。
 ▽虫送り
 相内地区では、毎年田植えが終わる早苗饗(さなぶり)の頃(現在は毎年6月の第2土曜日)になると、「相内の虫送り」が行われる。相内の虫送りは、津軽地方の虫送りの原型といわれるほど古風で、2011(平成23)年に県無形民俗文化財に指定された。
 虫送りは長さ5メートルほどのワラで作った「ムシ」を載せた台車(かつては人力で担いだという)を先頭に、青年団員が扮(ふん)する「荒馬」と、木でできた太刀を地面に打ち付ける「太刀振り」の踊りを延々と続ける。地元の子供からお年寄りまで、太刀振りに余念がなく、響く太鼓の音に五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災の願いをこめて村内一円を練り歩く様子は圧巻である。沿道から地元民だけでなく、観光客も押し掛けるなど、かつてのにぎわいをほうふつとさせてくれる。相内の虫送りは、林業とともに繁栄した相内村の農業に対する誇りに満ちあふれ、旧相内村の伝統や土地柄を今に伝える伝統行事といえよう。
 相内の虫送りや、かつて繁栄のシンボルだった市浦営林署の姿を思い浮かべるとき痛感する。歴史や伝統文化を生かした地域の誇りを取り戻す活動と林業の再生が、相内地区の地域活性化に必要不可欠である。その思いは日増しに強くなっている。
(五所川原市教育委員会文化スポーツ課主幹、榊原滋高)

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学都充実へ大鰐線計画=60

2016/12/5 月曜日

 

岩木山と弘前電鉄の木造電車=1959(昭和34)年・川村謙吉さん撮影『弘前・黒石・平川の昭和』(いき出版)より転載
大鰐駅にたたずむ弘南鉄道大鰐線=1986(昭和61)年8月30日・白石健二さん撮影・青森県史編さん資料
中央弘前駅=1975(昭和50)年頃『弘南鉄道五十年史』より転載

 ▽文化都市建設
 大鰐と中央弘前とを結ぶ弘南鉄道大鰐線は、1952(昭和27)年に開通した比較的新しい鉄道である。青森県で戦後開通した私鉄は、すでに廃線となった南部縦貫鉄道(七戸―野辺地)と大鰐線の2線だけである。
 大鰐線の前身は弘前電気鉄道株式会社(弘前電鉄)である。弘前電鉄は奥羽本線の大鰐(現大鰐温泉)駅を起点とし、弘前市を経て北津軽郡板柳町の五能線板柳駅に接続する延長29・3キロの地方鉄道を建設する目的で46(昭和21)年に計画された。48(昭和23)年5月7日に運輸省(国土交通省)から発起人に免許が下付され、翌年5月4日に会社が設立された。
 会社設立の中心となったのは当時の弘前市長だった岩淵勉である。弘前市は戦前第8師団の衛戍(えいじゅ)地で、「軍都」として栄えたが、戦後は軍隊そのものが消滅した。代わりに戦災を受けた青森市から青森師範学校(弘前大学教育学部)、青森医学専門学校(同医学部)などが弘前市に移転。新制高校などの中等学校十数校を擁するようになった。岩淵市長は鉄道を充実させることで文化都市の建設を目指した。近い将来には北部東北地方唯一の文化都市になることを構想していたのである。

弘前電鉄路線図=筆者作成

 また、弘前電鉄は地方産業の振興と資源の開発、そして沿線町村の連絡に不可欠な交通機関とも位置づけられた。免許申請の陳情書によると、奥羽本線と五能線の恩恵を受けられない岩木川対岸にある諸集落を結び、通年で利用できる交通機関を整備すること、特産品のリンゴの移出と肥料の移入の不便を解消することが強調された。
 通年での利用というのは、今では分かりにくいかもしれない。戦時中の燃料不足で運休、減便していたバスが戦後に復活し始めていたが、バスには雪国特有の問題があった。それは冬期間の運休である。道路事情が悪く、除雪も思うようにできないことから、季節運休は当たり前だった。 46(昭和21)年度の場合、弘前―大鰐と弘前―黒石の各6往復のバスが、12月1日から4月10日まで運休した。
   ▽難航した建設計画
 当初全線の開通を目指したが、資金が集まらず、さらに朝鮮戦争による特需で資材が高騰したこと、用地買収が思うように進まなかったことなどから、建設を2期に分け、第1期線として、大鰐―弘前の工事を先行することとした。第2期線の弘前―板柳は弘前駅からスイッチバックして弘前市街の北を通って板柳駅に向かう。しかし第1期線は弘前市街地付近を通らないので、51(昭和26)年11月、弘前市の終点を弘前駅付近から市の中央に変更、経路も人口稠密(ちゅうみつ)地を経由することとした。
 第1期線の建設は総合電機メーカーの三菱電機株式会社(東京)の関与の下で進められた。三菱電機は将来東北地方で鉄道事業を行う際の問題点を調査するために弘前電鉄の工事に参画した。土木工事から信号、車両に至るまで建設工事一切が三菱電機の管理の下で進められたのである。三菱電機はあえて最新鋭の技術は使わず、信頼性の高い既存の技術を採用した。
 三菱電機の全面的な協力を得て工事は順調に進み、冬季降雪期にもかかわらず、11カ月で第1期線の工事は完成した。
 ▽郊外電車走りだす
 52(昭和27)年1月26日、弘前電鉄第1期線が開通し、大鰐―中央弘前に電車が走り始めた。大鰐駅では奥羽本線の列車と並ぶ。列車の場合、蒸気機関車の煤(すす)で汚れた車体に気を遣いながら低いホームから車端のデッキに乗り込む。対照的に、ツートンカラーの弘前電鉄は3扉で電気暖房付き、ホームと電車の床との段差は小さく、大都市を走る電車を思わせた。47(昭和22)年に電化された弘南鉄道(弘南線)と合わせ、弘前近郊には2社の電車が走るようになった。
 唯一の欠点は木造車体であることだ。三菱電機は国鉄から譲り受けた電動車3両と秩父鉄道(埼玉県)から購入した制御車3両(荷物室付)を組み合わせ、2両編成3本の電車を造り、それに新品の信頼性の高い自社電動機や制御器などの電装品を取り付けて走らせることにしたのである。電圧は直流1500ボルト、国鉄並の規格だった。
 貨物は多くなく、実質的には旅客鉄道で、定期券利用者が多くを占めた。「学都」の学生や生徒が最も恩恵を受けたのである。
 ▽延長計画を断念
 弘前電鉄は大鰐―中央弘前の部分開業にとどまった。59(昭和34)年12月2日、弘前市内区間と弘前―板柳の事業廃止が運輸省に認められた。開業区間の乗客数は定期客が増加しつつあったが、新線を建設する環境は失われつつあった。
 バスは53(昭和28)年頃には通年運行が常態となっていった。60年代になると青森県では行政による道路除雪体制が確立し、道路の整備や自動車の普及が進んだ。東北地方の中小私鉄もどんどん姿を消していった。70(昭和45)年、弘前電鉄は弘南鉄道に経営権を譲渡して解散した。
 鉄道はいったん廃止すると復活は難しい。確実性・安全性・大量輸送と「乗る楽しさ」を生かした大鰐線の存続が望まれる。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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岩木川改修の大事業=59

2016/11/21 月曜日

 

五所川原の渡し(明治末期~大正初期・青森県史編さん資料)
岩木川治水工事と堤防築造用の掘削機(1921(大正10)年・青森県史編さん資料)
木橋だった頃の乾橋(明治末期~大正初期・青森県史編さん資料)

 ▽岩木川に架橋
 江戸時代は、幕府が主要河川への架橋を禁じていた。それは、河川が関所と同じ役割を果たすからであり、架橋技術が未熟であったという理由によるものであった。
 1884(明治17)年に現五所川原市西部の小曲と寺町を結ぶ乾橋が岩木川に架橋されるまでは、「五所川原の渡し」があった。この架橋の話が持ち上がると、五所川原の商人は、顧客を木造や鯵ケ沢方面の商人に取られてしまうという理由で反対した。しかし、当時の初代北津軽郡長工藤行幹(ゆきとも)はこうした反対を抑え、五所川原の富豪佐々木嘉太郎らから献金を取りまとめるなどして県令郷田兼徳(ごうだかねのり)を動かしたのだった。
 金木町(現五所川原市)の神田橋は1908(明治41)年に完成したが、それ以前は橋から約300メートル下流に「神原の渡し場」があった。1852(嘉永5)年3月、海防の状況を視察するため小泊方面へ向かっていた吉田松陰も、この渡しを利用している。
 ▽洪水との苦闘
 中津軽郡西目屋村の雁森岳(がんもりだけ)を水源として津軽平野を貫流する岩木川は、流域住民に多くの恵みをもたらす「津軽の母」と呼ばれ親しまれてきた。その一方で、毎年のように洪水を引き起こし、住民らは水害との闘いを強いられてきた。
 岩木川上流は河川勾配(こうばい)が急なので、春の雪解け水や夏季の局地的集中豪雨が、勾配の緩やかな下流域に一気に流れ込むと、たちまち洪水となった。また、岩木川が日本海へ流れ出る十三湖水戸口(みとぐち)は、冬期間の日本海の強い西風により砂石でふさがれてしまう。このため行き場を失った水が、岩木川やその支川に逆流することによって、さらに洪水が引き起こされた。
 藩政時代から築堤や掘り替えによって水害に対処し、明治時代に入ると旧三好村(現五所川原市)の初代村長を務めた小野忠造(ちゅうぞう)のような篤志家が現れ、流域住民とともに「小野忠土手(おのちゅうどて)」を築いた。だが、抜本的な解決策にはならなかった。
 ▽岩木川改修期成同盟会
 1880(明治13)年、直接被害を受ける西津軽、北津軽両郡の人々は、県令山田秀典(ひでのり)に対して被害除去の施設を求めた結果、翌年に内務省の御雇工師ローウェンホルスト・ムルデルが測量調査を行った。しかし、その設計工費は県の予算では賄うことができない額となり、着工は実現しなかった。
 そこで、北津軽郡長工藤行幹や、その遺志を受け継いだ県会議員阿部武智雄(むちお)らが、政府に対して岩木川改修請願運動を盛んに展開した。
 1910(明治43)年12月、阿部は県会副議長として西津軽、北津軽両郡選出の県会議員らと協議を重ね、岩木川改修期成同盟会を発足させた。五所川原町(現五所川原市)の郡会議所で創立会が開かれ、会長には阿部が就任した。会員は西津軽、北津軽両郡の関係する33カ村の村長や有志、中津軽、南津軽両郡と弘前市の有志らが名を連ねた。
 ▽10カ年の大事業
 同盟会の熱心な請願活動の結果、1918(大正7)年に岩木川改修工事は10カ年継続の国の直轄事業として認められた。同年12月には五所川原町に内務省所管の岩木川改修事務所が開設された。主任には07(明治40)年以来、岩木川の測量に携わってきた内務省技師の大久保清長が就任した。
 起工式は21(大正10)年9月15日に挙行された。当日は五所川原町はもとより、近隣の町村からの人出でにぎわい、街路は山車、屋台人形、日章旗、イルミネーションなどで彩られ、仮装行列が練り歩いた。
 なお、同事務所は42(昭和17)年に岩木川工事事務所と改称し、戦後は建設省の所管となって54(昭和29)年に津軽工事事務所、64(昭和39)年には国道工事事務所との合併により青森工事事務所と改称、2003(平成15)年には現在の国土交通省東北地方整備局青森河川国道事務所となった。
 ▽改修の目的
 岩木川改修工事の目的は、岩木川の水量を安全に流下させて堤防の決壊や溢水(いっすい)を防ぐことにあった。そのため改修工事は、土砂堆積による河口の閉塞(へいそく)を防ぐため、十三湖水戸口への突堤(とってい)建設をはじめ、川幅の拡張や堤防の増改築、そして岩木川の支川である十川(とがわ)に約7キロメートルの新川を開削し、水量の疎通を改良することだった。
 29(昭和4)年、乾橋は岩木川改修工事のために、コンクリート橋に架け替えられ、62(昭和37)年には長さ346メートルの現在の橋が完成した。
(青森県史編さん調査研究員・竹村俊哉)

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