津軽の街と風景

 

「青森」に関わる仮説=37

2015/11/23 月曜日

 

【善知鳥神社の沼】 1955(昭和30)年初頭・青森県史編さん資料
【明治末期の堤川】 堤橋より国鉄の堤鉄橋と八甲田山を望む・青森県史編さん資料
【青森発祥の地付近】 旧米町にあった日本勧業銀行青森支店の周辺。同支店は道路整備のため建物が半分となり、現在は孔雀苑となっているが、銀行時代の面影を残している。2015(平成27)年10月23日・筆者撮影
【現在の善知鳥沼】 2015(平成27)年10月23日・筆者撮影

 ▽堤弾正の「荒川開削」
 最近の研究によると、藩政時代に「青森」と名付けられた町が陸奥湾沿岸に誕生する以前、青森市街地東部の堤川の河岸に、堤浦を核とした港町の存在があらわになってきた。そして、この一帯を支配していたのが堤弾正という人物であった。堤弾正は謎の多い人物であるが、さらに彼の事績として知られる「荒川開削」のエピソードもまた謎に満ちている。
 このエピソードは青森市の歴史を綴(つづ)るさまざまな書物に載っており、いわば「『青森』前史」の有名な一コマといっていいものである。ここでは、まず『青森市史』第10巻社寺編(1972年)の記述から、その内容を簡単に紹介することにしよう。
 現在、善知鳥神社の境内にある善知鳥沼はかつて安潟といい、堤川の上流にあたる荒川がそこに注ぎ込み、周囲が5~6里にもおよぶ大きなものであった。ところが、堤弾正が荒川を開削して流路を変え、堤川に流したことにより安潟の干潟化が進み、わずかに善知鳥沼に往時の痕跡を留(とど)めるばかりになったのだという。
 さて、このくだりについて、安潟は1644(正保元)年に江戸幕府が提出を求めた国絵図「正保国絵図」の控えの写しである「陸奥国津軽郡之絵図」に、青森村と沖館村との間に描かれる「やすかた」という池沼にその面影を残しているようだ。
 一方、堤弾正による荒川開削については、史料を繰ってもその記録を見いだすことはできない。しかし、この地の夏を彩る青森ねぶたの素材になるなど、一般に膾炙(かいしゃ)した歴史ストーリーであることは間違いあるまい。このギャップはどう説明すべきか。
 ▽「荒川開削」は仮説
 実は、堤弾正による荒川開削は、歴史史料によって実証的に確定された歴史的事実ではないのである。1909(明治42)年に刊行された『青森市沿革史』の編者葛西音弥が、かつての安潟
が小さくなった理由として考えた仮説であり、そこにはまったく史料的な根拠はなかったのである。
 この仮説に関する評価は、まず1934(昭和9)年に小友叔夫が言及している。彼は、開削年代とそのルートについては否定的で、特にルートについては「実地の調査もせず、地勢をも弁へざる机上の空論」と断じているが、開削そのものにつては肯定的に評価している。さらに、1958(昭和33)年には肴倉弥八が「堤弾正が横内・鏡城(横内城―引用者注)の外廓(がいかく)に荒川河を開さくしたという説には賛成しかねる」と述べている。
 もちろん、両氏の見解も何らかの歴史学的な根拠があってのものではなかった。その後はこの仮説に関して論じられることもないまま(検証する手だてがなかったとも言えよう)、ついに仮説は通説化されていくことになった。さきの『青森市史』社寺編においても、「史家は善知鳥沼の縮小の原因は、天変地異の災害によるものでなく、人為によるものであるとみなしている」と、葛西の仮説を肯定的に紹介している。
 ところが、2010(平成22)年から翌年にかけて、駒込ダム建設所の方々が「理科系」の視点からこれにアプローチし、堤弾正によって開削されたと考えられる地点では、自然地形が改変された形跡がないと結論づけた。つまり、安潟(善知鳥沼)の干潟化と荒川開削には、何らの因果関係も見いだせないことになる。
 堤弾正による荒川開削は、「歴史のない町」と自ら認めてしまう傾向にある青森市民にとって(『平成24年度第3回青森市民意識調査』)、数少ない「歴史ロマン」として魅力を感じるのかもしれない。しかしながら、これは歴史的な背景を持ったものではないのである。
 ▽仮説の展開と地名伝承
 一方、葛西は自説をさらに展開させていた。荒川の開削により安潟の干潟化が進んだものの、藩政時代にこの地に新しい町づくりが始まった時点においても、いまだ辺りには池沼があったのだと説く。そこで現在の本町2丁目付近にあった「青森山」を切り崩し、青森町の中心部となる米町、大町、浜町を造成したと結論づけた。
 ただし、「青森山」について、その存在を示す記録や伝承に、まだ私は触れたことはない。つまり、かつて安潟と呼ばれた大きな湖沼があった
地に、新たな町「青森」が誕生したということを合理的に説明しようと
して立てた仮説が「荒川開削」であり、「青森山」であったと理解したい。
 青森山はこの後青森の地名伝承と結びつくことになる。地名伝承そのものは藩政時代からあり、これが「青森縁起」と名付けられ『青森市沿革史』の編さん時点までは多少の読み替えはあるものの、ほぼ藩政時代の伝承の姿で継承されてきた。
 ところが、1910(明治43)年5月の青森大火以降、大正~昭和の初め頃と見立てているのだが、「青森山」が地名伝承の核心部分「青い森(丘)」に置き換えられることになった。そして、現在青森山があったとされる場所は「『青森』発祥の地」として知られている。しかし、そこは本来の地名伝承とはまったく縁もゆかりもない場所なのである。
 さらに、現在私たちが目にする耳にする地名「青森」の由来には、もうひとつ大きな誤伝を含んでいた!…これはまた別の機会に。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

∆ページの先頭へ

県都郊外の町村の歩み=36

2015/11/2 月曜日

 

上北鉱山の架空索道「鉄索(てっさく)」 1963(昭和38)年1月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
酸ケ湯温泉から雲谷まで運行されていた馬そり 1965(昭和40)年2月18日・小山内文雄さん撮影・『写文集 愛しの昭和 青森市』にも掲載
津軽新城駅 昭和40年代・『日本の駅』より転載
奥内海水浴場 1967(昭和42)年・青森市提供・『新青森市史 通史編第4巻 現代』にも掲載

 ▽市町村合併
 青森市に住む年配の方々なら、かつて「東北本線の南は田んぼばかりだ」という言葉をよく聞いたと思う。東北本線(現青い森鉄道)の南側には、昭和の大合併で青森市域となった筒井町や荒川村などの町村が連なっていた。いずれの町村も水田耕作を中心とする農村だった。
 今日の青森市郊外を構成している町や村の歴史は、実はあまり知られていない。しかし、どこの町や村にも歴史は確実に存在する。ただ、現在の青森市民が意識しなくなっただけである。
 1955(昭和30)年前後に実施された昭和の大合併前、青森市の東部地区には東岳村、原別村、野内村があった。南部地区には筒井町のほか、大野村、浜館村、横内村、荒川村、高田村があった。西部地区には滝内村と新城村があり、北部地区には奥内村、後潟村があった。
 ▽青森市東部
 青森市を代表する温泉地の一つに浅虫温泉がある。実は同温泉は青森市最東部の野内村にあった。「東北の熱海」と異名をとり、全国的に名前を知られた浅虫温泉だが、有名になった最初の契機は、他ならぬ東北本線の開通である。
 移転前の野内駅周辺には、1906(明治39)年にイギリス資本のライジングサン会社が設けた石油貯蔵タンク基地が、今もずらりと並んでいる。また、天間林村(現七戸町)にあった上北鉱山からの銅鉱と東岳からの石灰岩が、それぞれ架空索道(ロープウエー)によって野内駅と野内港に運ばれていた。
 どちらの索道も現在は存在しないが、かつて野内村は温泉と天然資源の供給地として村勢を維持していた。このため青森市との合併に反対する声が強く、合併論議は紛糾した。最終的に青森市と合併したのは1962(昭和37)年であった。
 ▽青森市南部
 青森市内においしい水を供給する横内浄水場は、文字通り当初は横内村に属していた。1909(明治42)年の完成で、全国では13番目。青森県内では初めての浄水施設である。今でも機能を果たしているので歴史的に重要な施設といえるだろう。
 同じ南部地区の荒川村には、国民温泉第1号に指定された酸ケ湯温泉があった。酸ケ湯温泉は、戦前の青森市を紹介する絵はがきなどに頻繁に登場していた。このため県外の人びとは、今も昔も青森市の温泉と思っていただろう。
 道路が整備された現在、自動車で通年行ける酸ケ湯温泉だが、かつては冬から春にかけて馬そりが運行されていた。1965(昭和40)年の酸ケ湯温泉の案内書によれば、酸ケ湯から雲谷まで運行され、5時間を要したという。
 ▽青森市西部
 新青森駅に新幹線が延伸されて以来、青森市の西部地区は注目されることが多くなった。しかし、ここでは隣駅の津軽新城駅に注目したい。開業日は青森~弘前間に奥羽本線が開通した1894(明治27)年12月1日である。1909(明治42)年に開設された北部保養院へ通う人たちが利用した大事な駅だった。北部保養院は今も松丘保養園として重要な役割を果たしている。また駅近くにはスキー場が設けられ、多くの青森市民が通って楽しんだ。スキー場は現在の新城中学校付近にあった。
 津軽新城の駅舎は、開業後に改築されたと思われるが、現段階で詳細な年代が不明である。しかし残された写真資料から、少なくとも昭和40年代の駅舎が現在まで使用されていることがわかる。当時の面影が残された歴史的に貴重な駅舎といえるだろう。
 ▽青森市北部
 青森市の北側に位置する奥内村や後潟村は、いずれも陸奥湾沿いにある村だった。このため陸奥湾との関わりが深い。その中で奥内村の海岸地帯は、一時期海水浴場としてにぎわっていたことがあった。
 海水浴場は1963(昭和38)年7月、青森市立奥内小学校の敷地内に設けられた。奥内小のみならず、学区内の児童生徒の体力向上と健康増進のために、親たちの願いによって設けられた。海岸地帯に敷地のある奥内小学校らしいが、実は砂浜を有する学校は大変珍しかったのだ。
 1967(昭和42)年、合浦公園の海水浴場が海水汚染で閉鎖された際、奥内海水浴場には市内外から多くの人びとが集まった。海水浴場はPTAなど、奥内小学校を取り巻く人たちが維持と管理を行った。地域が支えた海水浴場だったのである。
 しかし奥内の海水浴場も海水汚染がひどくなり、1972(昭和47)年に閉鎖された。その後、砂浜は護岸されホタテ養殖場へと変わった。1970年代以降、学校内にプールが建設され始め、1978(昭和53)年には奥内小学校にもプールができた。
 ▽郊外の歴史
 地域に残された歴史資料は、各地域の中心地区に多く存在する。必然的に市町村史の記述内容は中心街に比重が置かれる。それは青森市も同様である。しかし青森市の郊外を形成する町村にも、重要な歴史があることは理解いただけたと思う。「郊外=田舎=何もない」と一言で片付けてしまうのではなく、いろいろと歴史をひもといて欲しい。
 昭和・平成の大合併で各自治体の面積は飛躍的に拡大した。合併で消えた町村は、新市の郊外として位置づけられることが多い。それ故、合併前より注目されなくなり、旧町村時代の歴史も忘れられていってしまう。だからこそ、改めて郊外の歴史に着目したい。歴史を知ることで、地域が抱える問題が明らかになることは多いからである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

∆ページの先頭へ

狩猟生活変えた「垂柳」=35

2015/10/19 月曜日

 

田んぼアート「スターウォーズ・フォースの覚醒」 2015年7月22日・陸奥新報社提供
垂柳遺跡の水田跡 1983(昭和58)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供
水田面に残された足跡 1985(昭和60)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供

 ▽田んぼアート
 田舎館村の田んぼアートが今年「サントリー地域文化賞」を受賞した。田んぼをキャンバスとする新たな文化を生み出し、地域から全国へ広げたことが高く評価された。また、映画会社とコラボしたアートは日本のみならず外国にもSNSなどで発信され、外国人観光客も多数訪れ、青森県の観光名所の一つとなっている。
 田んぼアート第2会場はそのきっかけの一つとなった国史跡垂柳遺跡に近接している。
 ▽学史的な大発見
 垂柳遺跡は、1982(昭和57)年から翌年にかけて、国道102号バイパス建設に伴い青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査を行い、656枚の水田跡と多量の土器・石器などを発見した。出土した遺物から紀元前3世紀、弥生時代中期の遺跡であることがわかった。弥生時代の水田跡は東北地方初の発見で、それまで多くの考古学者が東北地方には弥生文化が到達していなかったと考えていたことから、学会に衝撃がはしった。その後、垂柳遺跡は2000(平成12)年に国史跡に指定されている。
 垂柳遺跡の存在は明治時代から知られており、1958(昭和33)年には東北大学の伊藤信雄により初めての発掘調査が行われ、土器とともに炭化した米などが出土し、伊藤信雄は調査成果から弥生文化が東北地方に及んでいたことを述べていた。
 ▽水田に適した土地
 垂柳遺跡は津軽平野の南東、八甲田山系から流れる浅瀬石川によって造られた扇状地に立地する。この扇状地の堆積物には浅瀬石川の上流にある八甲田や十和田湖が古い時代に噴火して堆積した火山灰が混ざり、ミネラルに富んだ土壌がつくられている。
 1982(昭和57)年以降も田舎館村教育委員会などにより発掘調査や範囲確認調査が行われ、遺跡の範囲も13万平方メートルに及ぶ大規模な水田跡であることがわかった。遺跡付近の地形は、東から西に向かって緩く傾斜している。東から西に向かって水田を広げていたと考えられている。
 近年の研究から、津軽平野の弥生時代の水田跡の多くは、傾斜が緩やかな所に立地する傾向にあることがわかった。当時、開墾する道具や揚水技術も未発達であったため、開墾しやすい地形を選んで造った可能性が指摘されている。
 水田跡には湿地帯が隣接している。河川や水路から直接水田に水を入れずに、いったん湿地帯に導いて水を温めて冷害を防ぐ工夫をしていた可能性が指摘されている。
 ▽引き継がれる縄文
 紀元前10世紀頃、九州地方北部で始まった稲作が、日本海を経由して青森へと伝わったと考えられている。水田跡は大畔(おおあぜ)・小畔(こあぜ)が整然と配置された灌漑(かんがい)水田で、水路跡から農耕具である木製の鍬(くわ)などが出土した。
 一方で石器には矢尻である石鏃(せきぞく)、木製の斧柄(おのえ)と組み合わせて使用する磨製石斧(せきふ)、植物などの加工などに用いたと考えられる磨石(すりいし)・叩石(たたきいし)などが、土製品では土偶が出土している。石器や土偶から縄文時代以来の伝統をもつものも使用していたことがわかった。
 ▽狩猟から農耕へ
 水田跡には無数の足跡が残されており、集団で農作業を行っていたと考えられている。また遺跡の土壌分析により、ハンノキなどの林が生い茂る湿地を開墾して水田を造ったことがわかった。垂柳遺跡の周辺には、五輪野遺跡、前川遺跡など同時期の水田跡が発見されており、灌漑水田による農耕を基盤として多くの人々が周辺で暮らしていたと考えられている。しかし水田から得られる食料はそれほど多くなく、米のみで食料の基盤をつくることはできなかったという説もある。
 弥生時代以前の採集狩猟社会である縄文時代は、青森では約1万年以上ものあいだ続いたが、これは当時の環境に適応して醸成した社会といえよう。採集・狩猟を行い、クリやウルシの栽培など資源を管理し、他地域との交流・交易も盛んに行い、漆器製作など高い技術を持っていた。その集団の規模は弥生時代に比べ、小規模であったと考えられている。
 垂柳遺跡で始まった灌漑水田による農耕は、採集狩猟社会で生きてきた人々にとって大きな変容であった。しかしそれは青森県内全てで始まったわけではなく、そのまま採集狩猟社会を続けていた地域もある。いわば、垂柳遺跡とその周辺の人々は新しい社会を受容し、実践したパイオニアだった。
 ▽穀倉地帯へ
 垂柳遺跡の水田跡などから人々は約200年継続して水田を営んだ後、大規模な洪水にみまわれた。その後弥生時代には水田は造られず、人々は採集狩猟社会に戻ったと考えられている。次に水田が造られたのは古代で、以降津軽平野は穀倉地帯へと発展していく。特に田舎館村は1反当たりの米収穫量が何度も日本一となっている。
 1993(平成5)年から始まった「田んぼアート」は、水田をキャンバスにするという斬新な発想で始まり、今や世界に広がってつくられている。その発想の根源には弥生時代にこの地に生きた人々がもっていたパイオニア精神が受け継がれているのかもしれない。
(青森県県史編さんグループ主幹 伊藤由美子)

∆ページの先頭へ

交易の拠点担う深浦湊=34

2015/10/5 月曜日

 

「御国縮図並弘前之図其外所々之図」(弘前市立博物館蔵)より「深浦之図」
深浦町岡町地区から港方面を望む(2015年9月20日 筆者撮影)
「合浦山水観」(県立郷土館蔵)より「深浦港之図」
円覚寺の仁王門(2015年9月20日 筆者撮影)

 ▽天然の良港、深浦湊
 深浦町周辺の海岸部は、岩礁や奇岩に富み、観光名所としても有名である。深浦という地名は、「深く入り込んだ浦」に由来するといわれ、「吹浦(ふくうら)」や「海浦」とも称された。現在の深浦漁港がある袋状の湾はまさに天然の良港であり、鎌倉時代末期には日本海海運の重要湊に位置づけられていた。
 江戸時代、深浦湊は弘前藩の流通統制である九浦制度に組み込まれた。九浦とは、青森・鯵ケ沢・蟹田・今別・十三(じゅうさん)・深浦の六湊と、大間越(おおまごし)・碇ケ関・野内の三関所を指す。いわば物資・人・情報の出入り口であり、各浦では藩による監視と税金徴収が行われた。
 ▽湊町の構造
 深浦湊には町奉行所(町史跡)が置かれ、町奉行・町同心・町年寄などの役人が設置された。町奉行所は藩主の領内巡検の際の御仮屋(おかりや)(宿所)でもあった。1806(文化3)年、九代藩主津軽寧親はこの御仮屋で酒興に乗じて「無為」と書き、それを額として掲げさせたため、以降は「無為館」と呼ばれたという。
 湊町は、台地上の上町(うわまち)(現同町岡町地区)と海岸部の下町(したまち)(現同町浜町地区ほか)に分けられる。町奉行所や湊番所など役所の多くは深浦湊を一望できる上町に置かれた。また、三国屋・伊勢屋・若狭屋・秋田屋などの船問屋の居宅や、荘厳(しょうごん)寺(浄土宗)・浄念寺(真宗大谷派)・宝泉寺(曹洞宗)など寺院・神社もあった。屋敷地以外に畑や水田もあって、わずかながら農作物によって収入を得ていた。
 一方下町には、湾に沿って浜町が延びており、主に漁師が住んでいた。湾の西沿いには、澗口(まぐち)の観音として古くから厚く信仰されている真言宗の円覚寺(えんがくじ)があって、寄港した船乗りたちが参詣に訪れてにぎわっていた。
 なお、深浦十二景の一つとして有名な猿神鼻(さるがみはな)には、幕末期、外国船の出没に備えるための砲術台場が設けられ、沿岸警備の要衝として機能した。
 ▽深浦湊の役割
 深浦湊は、鯵ケ沢湊のように藩内の年貢米の上方への積み出し湊ではなく、風待ち湊であった。風待ち湊とは、風波などによる海難事故防止のための一時的な避難港のことである。深浦湊には、酒田湊(現山形県酒田市)から江戸へ天領の年貢米を運ぶ日の丸船がしばしば入津していた。
 また、深浦湊には木材の積み出し湊としての一面もあった。木材は、追良瀬(おいらせ)村(現深浦町)の福沢屋(黒瀧家)が、藩から許可された山々から木を伐採することによって独占的な流通体系を構築した。1783(天明3)年の大飢饉(ききん)の際は、御救山(おすくいやま)といって、藩から山元の村民へ払い下げられた山を福沢屋が購入し、木材を調達していた。木材は敦賀(現福井県敦賀市)・三国(同坂井市)など日本海沿岸諸湊に売り払われた。
 ▽深浦交易の様相
 藩の記録や船問屋の御用留などを見ると、18世紀後半以降、湊では木材以外にも船内用の米や半紙、干鱈(ほしだら)などの取引も行われていた。1~5年程度の期間で区切り、品目と量を限定した形で行われていた。期間終了後は、船問屋らが新たに願い出ることで取引が延長されていた。1860(万延元)年に藩が達した取引許可・禁止の品目を見ると、瀬戸物や輪島塗など他領の製品や、地元で製造できるロウソクなどは禁止品目に入っており、家業保護の意図が込められていたようである(桜井冬樹『秋田屋御用留』)。
 ▽円覚寺の信仰に見る深浦交易
 深浦湊の西沿いにある円覚寺には、江戸時代後期から明治期にかけて奉納された船絵馬や髷額(まげがく)などの海上信仰資料(国指定重要有形民俗文化財)が所蔵されている。船絵馬の奉納時期からは、1830年代から50年代にかけて奉納のピークがあり、幕末期の藩の支配が揺らいだ時期に交易のピークが当たっていた。さらに、明治期の船絵馬もあって、藩が解体され九浦制度が崩壊した以後も深浦での交易が続いていたことを読み取ることができる。まさに、幕府や藩の支配・統制にかかわらない交易や交流がなされていたのであり、深浦はその拠点として大きな役割を果たしていたのである。
(弘前大学国史研究会会員 蔦谷大輔)

∆ページの先頭へ

青函の歩みに接点多く=33

2015/9/21 月曜日

 

にぎわう函館駅前 昭和10年代・中園裕提供
繁華街となった新町通り。左の建物は1935(昭和10)年、現在のアラスカ会館の場所にできた菊屋デパート 昭和10年代・青森県史編さん資料
最後の青函連絡船 1988(昭和63)年3月13日・青森県史編さん資料
撤去されるクレーン 2009(平成21)年6月21日・中園裕撮影

 ▽公園と皇室モニュメント
 青函両市には多くの接点がある。函館公園はイギリス領事ユースデンが渡辺熊四郎に提言してできた道内初の本格的洋式公園である。これに対し青森市の合浦公園は水原衛作が造園し、後に青森市の管理する公園になった。水原は函館で公園の造営や上水道の建設を建白したことがある。彼は当初、洋風の公園を構想していた。また弟の柿崎巳十郎は、函館公園内にあった函館図書館の岡田健蔵館長とも交流があった。
 1930(昭和5)年、青森市の聖徳(せいとく)公園が浜町桟橋付近に着工となり、翌年市へ移管されて開園した。明治天皇の上陸を記念した公園であるため、1937(昭和12)年に史跡となった。公園は青森税関の隣にあったが、戦後幾度か場所を変え、現在は柳町通り最北端の海岸沿いにある。実は1935(昭和10)年、函館市でも函館税関の前に明治天皇御上陸記念碑が造られ、現在も同じ位置にある。青函の皇室モニュメントは、いずれも桟橋と税関の近くに造られ、海の記念日の発祥になっている。
 ▽大火と街並み
 函館市は1934(昭和9)年の大火で街並みの3分の1を失った。真冬の暴風雨と激浪災害が重なり、死者が2000人を超える大惨事だった大火後函館市では都市計画法に準じた復興事業を推進した。現在の函館市の街並みは、これ以後形成されたものだ。青森市でも1910(明治43)年の大火で市街地がほぼ全焼している。このため大火後に防火線が設置され、青森市は耐火性の強い建造物を中心とする街並みへと変わった。
 明治期から昭和戦前期にかけて、函館市の繁華街は西部の東浜桟橋から東部の函館駅周辺へと東進している。反対に青森市の繁華街は浜町桟橋付近の大町や浜町から、次第に青森駅前の新町へと西進している。街並みの形成方向は対照的だが、大火後の復興対策と「青函圏」の隆盛により、街並みが拡大していった点では共通している。
 ▽北の要塞
 日露戦争前、政府は函館港を防衛するため函館山を要塞(ようさい)とした。だが日露戦争では効果を発揮できず、ロシアの大鑑に悠々と津軽海峡を横行された。このため海峡の防衛が重視され、1924(大正13)年7月、北海道の汐首岬と青森県の大間崎が函館要塞に加えられた。1927(昭和2)年4月、要塞名が津軽要塞と変更された。1935(昭和10)年12月には、新たに青森県の龍飛崎と北海道の白神岬が津軽要塞に追加された。
 日中戦争が勃発し、要塞地帯へ兵員や軍需物資を運ぶ目的が生じた。青森県では大畑線を大畑から大間まで延伸する大間鉄道を敷設。北海道では五稜郭と戸井を結ぶ戸井線に着手した。だが太平洋戦争末期、完成を間近に工事は中止。どちらも幻の鉄道に終わった。
 一般庶民の要塞地帯への立ち入りは禁じられた。青函連絡船も旅客制限され軍需輸送の大動脈として活用された。このため1945(昭和20)年7月14日から15日、連絡船はアメリカ軍に空襲され全滅した。だが要塞でもない青森市の市街地が7月28日の大空襲で焦土と化した。類似する青函両市の歴史で、この点だけが大きく異なっている。
 ▽復興と衰退
 戦後、青函両市は再び本州と北海道の玄関口の役割を取り戻し、戦前にも増して「青函圏」は強固な流通経済圏を形成する。しかし青函両市の経済を支えた北洋漁業は、敗戦後に占領軍が日本漁船の出漁を制限したため大打撃を被った。
 このため函館市では、1954(昭和29)年7月10日に「北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)」を開催して挽回をはかった。北洋博自体は好評だったが、肝心の北洋漁業は200カイリ問題で急速に活気を失った。
 だが、北洋博は函館市の新たな側面を引き出した。北洋博会場の函館公園や五稜郭公園が整備され、新たに函館山展望台や駅前観光案内所が建設された。丸井今井デパートは大増築を行い、大門商店街にはアーケードができた。湯の川温泉も旅館を改築した。北洋博の開幕に合わせ、異国情緒あふれる市街地や函館山からの景色が大々的に宣伝された。函館市が観光都市となった原点は、実は北洋博にあったのである。
 ▽歴史と文化の圏域
 1970年代以降、首都圏と北海道を直結する長距離フェリーや大型航空機が進出し、連絡船の独占体制が崩れ始めた。1980(昭和55)年10月、千歳空港駅が開業し、東京と札幌を航空機と鉄道で結ぶ路線が定着した。このことは北海道の玄関口が、函館市から札幌市へ移行したことを決定づけた。
 国内経済は1973(昭和48)年の石油危機を契機に下降線をたどり、自動車や航空機の進出で連絡船の利用数も減少した。こうして1988(昭和63)年3月13日、青函連絡船は廃止され、80年に及ぶ歴史を閉じた。
 青函両市は連絡船廃止の日に開通した青函トンネルを記念し、同年の7月から9月にかけて「青函トンネル開通記念博覧会(青函博覧会)」を開催した。翌年に両市は「青森函館ツインシティ」を締結し、今後の「青函圏」をつなぐ青函トンネルに期待をかけた。
 青函トンネルは貨物輸送の増益をもたらした。だが鉄道と連絡船の乗り継ぎという時間と空間によって形成された駅前の市場や繁華街は、トンネル時代になって活気を失った。連絡船廃止後の桟橋周辺は魚市場が移転して公園化した。函館港では主力の造船業が衰退。港の象徴だった函館どつく会社のクレーンが、2009(平成21)年6月21日に撤去された。流通経済圏としての「青函圏」の時代は、すでに終わっていたのである。
 2010(平成22)年12月に新幹線が新青森駅に到来した。2016(平成28)年には青函トンネルを通って新函館北斗駅まで延伸される。青森市をはじめ県内各地では歴史と文化を掘り起こし、観光事業を通じた誘客が進められている。函館市や道南各地でも新幹線到来を前に、青森県や南東北からの観光客を呼ぼうと懸命だ。新幹線の到来を機会に、歴史と文化を中心とする新たな「青函圏」が生まれつつある。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

∆ページの先頭へ

Page: 1 ... 14 15 16 17 18 19 20 21 22 ... 25