津軽の街と風景

 

岩木山にも観光化の波=30

2015/7/27 月曜日

 

岩木山神社をめざして進む「お山参詣」の行列 2009(平成21)年9月18日・成田敏さん撮影
岩木山の8合目にある展望台 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料
8合目から9合目の鳥海山頂上へ向かうリフト 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料
岩木山の頂上をめざす人びと 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料

 ▽信仰の山とお山参詣
 津軽地域に生活する人は、岩木山を「お山」ないし「お岩木様」と呼び、信仰の対象としている。また、山の残雪の形で農耕の時期を判断し、山にかかる雲で天候を予測し、遠出をする者は岩木山を目印に自分の位置を確認する「山アテ」をしている。さらに山麓に生活する人々は、薪炭材を入手したり、馬の草刈り場として、山の恵みを得ている。
 毎年旧暦8月1日の「八朔(はっさく)」になると「お山参詣」と呼ばれる登山習俗が行われる。かつて岩木山は女人禁制のため、登るのは男に限られていた。その準備は八朔の1週間ほど前から始まる。
 参詣する者は産土(うぶすな)神社にこもり、肉や魚は食さず、川や海などで水浴びして精進潔斎(しょうじんけっさい)する。その後、白装束に大きなボンテンや幟(のぼり)を携えて山頂に登った。津軽の男にとって岩木山に初参りすることは重要で、無事に下山できれば「一人前」とされた。
 岩木山信仰とお山参詣の始まりは明らかではないが、田光(たっぴ)の竜女(りゅうじょ)や安寿姫が岩木山に収まったという伝説がある。岩木山信仰の具体的な姿が明らかになるのは江戸時代からである。岩木山山頂中央の巌鬼山(がんきさん)が阿弥陀如来、東南麓の赤倉山が十一面観音、西方の鳥海山が薬師如来に例えられ、あわせて「岩木山三所大権現(いわきさんさんしょだいごんげん)」とされ、信仰の山となる。
 ▽経済成長と観光開発
 1956(昭和31)年、『経済白書』の結びで述べられた「もはや戦後ではない」とのフレーズは、高度経済成長の始まりを予期する流行語となり、日本は世界でも類を見ない経済成長を達成していった。それとともに国民の生活水準は向上し、レジャーブームが到来することになる。
 1964(昭和39)年に東京オリンピックの開催が決定したことで、海外から来る観光客に対する観光開発が全国的に
活発になっていった。その一つとして1960年代から高山地帯を周遊する観光道路のスカイラインが全国的に整備されていった。富士山の5合目まで登ることのできる
富士山スカイラインや、富士山の絶景を堪能できる箱根・芦ノ湖スカイラインなど、全国に40カ所以上の道路が整備された。
 ▽スカイラインの建設
 1955(昭和30)年、岩木・大浦・駒越の3村が合併。新たに誕生した岩木村は、1961(昭和36)年に町制施行して岩木町(現弘前市)となった。岩木山麓の観光開発が構想されたのはこの頃である。
 山麓の観光開発の始まりは、弘南バス会社による岩木山のスカイライン建設だった。1962(昭和37)年6月から始まる建設工事は、1965(昭和40)年8月25日に完成し、「津軽岩木スカイライン」と名付けられた。
 この道路は全長9・8キロ、69のカーブがあり、岩木山の8合目まで登ることができるようになった。そこから9合目の鳥海山までリフトがあり、さらに徒歩40分ほどで山頂まで登ることができた。
 スカイライン建設まで岩木山登山は、百沢口や嶽口などから登り、登山道の幅は1メートル足らずで勾(こう)配(ばい)が険しく、山頂まで徒歩で3時間半以上もかかっていた。ただし、登頂達成後に山頂から眺める津軽平野や七里長浜、そして世界遺産の白神山地や八甲田連峰などの絶景は、苦労して登頂した者だけの特権だった。それがスカイラインの完成で、老若男女を問わず気軽に登頂が可能になった。観光客は山頂からの絶景を堪能できるとともに、岩木山の雄大な自然に触れる機会が持てるようになった。
 また、ふもとの百沢・嶽・湯段の温泉は入浴する下山客でにぎわいをみせるようになった。こうして津軽岩木スカイラインは、岩木山を「信仰の山」であるとともに、「観光の山」にも変えていったのである。
 ▽岩木山麓開発
 岩木山麓の開発計画は、スカイラインが建設されてから本格化した。1966(昭和41)年、青森県長期経済計画の方向に沿って津軽地域総合開発計画が策定された。この計画は青森県が策定した地域開発の方向性を示すものだった。岩木山周辺地域は、弘前藩に関わる史跡・名勝・重要文化財を有し、風俗・行事・民謡の無形民俗的な観光資源があるということで、開発が進められることになった。
 1969(昭和44)年、新全国総合開発計画(新全総)が策定されると、岩木山麓開発計画はさらに進んだ。5年後、岩木山南麓の大規模都市公園建設が構想された。これは国立公園など自然保護のために指定される自然公園とは別に、自然の有効利用を主眼にした公園のことである。
 岩木山南麓開発計画が具体化するのは1982(昭和57)年からである。この計画は岩木山麓総合開発調査をはじめ、これまで多面的に提案されてきた開発プロジェクトを、山麓地域の一体的開発という視点から再整理し、岩木山麓地域開発の基本的方向を定めたものである。こうして岩木山麓は、国や青森県の計画に沿って開発されていったのである。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

∆ページの先頭へ

暮らしの痕跡眠る場所=29

2015/7/6 月曜日

 

出来島最終氷期埋没林(辻誠一郎さん撮影)
田小屋野貝塚から出土した出産痕のある縄文前期の成人女性人骨検出(筆者撮影)
「縄文海進」と「古十三湖」(辻誠一郎さん原図作成・筆者加工)
10周年記念冊子【表】(つがる市教育委員会発行)
10周年記念冊子【裏】(つがる市教育委員会発行)

 ▽屏風山とは
 つがる市は、青森県西部に位置する。中央に津軽平野北部の沖積地が広がり、その東縁を岩木川が、南縁部を岩木山北麓台地が、西縁部を日本海岸の七里長浜に並走して南北約30キロ、東西3~5キロにわたり展開し、標高10~40メートル程度を測る屏風山砂丘台地が画している。
 「屏風山」の名は、江戸時代以後、日本海岸からの猛烈な「飛砂」を防ぐため、クロマツなどの砂防林を、屏風のように植林したことに由来する。
 屏風山砂丘の最上部には、層厚が数メートル~10数メートルに達する縦列砂丘が載り、砂丘の間には「ベンセ湿原」などの湿地や湖沼群が介在している。しかし、これらは平安時代以後形成された景観であり、砂の下には約3万年間に及ぶ環境変遷と2万年に及ぶ人々の暮らしの痕跡が眠っている。
 ▽出来島埋没林
 環境変遷の痕跡としてまず挙げられるのが「出来島埋没林」である。「最終氷期埋没林」とも呼ばれ、約3万年前に、つがる市周辺の気候が現在のサハリン並みに寒冷だった時期に生い茂っていた針葉樹林の痕跡で、その後の温暖化による海面上昇で水没し、立ち枯れたものである。
 屏風山砂丘中ほどの日本海岸の崖面に約1キロにわたり見られ、厚い泥炭層に覆われている。埋没林の直上には約2万8000年前に現在の鹿児島湾に位置する姶(あい)良(ら)カルデラの大噴火によって、はるか千数百キロを越えて飛来した姶良Тn火山灰(通称「AT」)の白色の薄い層が見られる。
 ▽「縄文海進」と縄文遺跡
 つがる市には、112カ所の遺跡が登録されているが、年代的に最も多いのが縄文時代の遺跡であり、82カ所に及ぶ。
 縄文時代の遺跡は、岩木山北麓台地と屏風山砂丘台地に分布していて、津軽平野部からは確認されていない。これは、縄文時代(約1万5000年前~2300年前)の始まりと軌を一にして地球環境の温暖化が始まり、世界的な海面上昇が起こり、海が陸域に広がった現象、「縄文海進」に起因している。
 これによって津軽平野北部は「古十三湖」と呼ばれる内海が広がり、諸説あるがピーク時の縄文時代前期の初めごろ(約7000年前)には、その海岸線は現在のJR五能線の線路付近、五所川原駅~木造駅~陸奥森田駅~越水駅を結ぶラインを南限としていた。それゆえ縄文時代の人々は、「古十三湖」を囲む台地上にムラを営んだのである。
 屏風山砂丘を代表する縄文遺跡が、その東縁中ほどに位置し、ともに「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として、世界文化遺産登録を目指している国の史跡田小屋野貝塚と亀ケ岡石器時代遺跡である。
 ▽田小屋野貝塚から亀ケ岡遺跡へ
 田小屋野貝塚は縄文時代前期中ごろ~中期(約6000~4000年前)の集落遺跡で、前期の段階(6000~5000年前)の貝塚を伴っている。この時期にムラの直下には、広大な「古十三湖」が広がっていた。貝塚を構成するヤマトシジミの貝殻や魚骨、海獣類の骨などは、眼下に広がる内海から得られた食料を反映している。
 また、縄文時代前期の田小屋野貝塚のムラではベンケイガイの貝殻を加工した貝輪(ブレスレット)を作っていたこと、その貝輪は内陸のムラや同時代のベンケイガイ製貝輪が出土する北海道のムラに運ばれたのではないかとも考えられている。田小屋野貝塚からは北海道産の黒曜石も出土しているため、海を越えた交易が行われていたことは容易に推定できる。彼らにとって海は、便利な交通路であり、生きる糧を与えてくれる母なる海原だったのだろう。
 その後、縄文時代の終末に向かい、地球環境は寒冷化が進む。津軽平野北部一帯に広がった「古十三湖」は海退に転じ、海岸線は北に後退、かつての内海は沼沢地となった。これに倣うように人々も動きを見せる。縄文時代中期も終わりに近づくと、田小屋野貝塚のムラから人々は移動し、縄文時代後期~晩期(約4000年~2300年前)には、谷を隔てて南側約200メートルのところにある台地にムラを移した。これが亀ケ岡遺跡である。
 亀ケ岡遺跡にムラを移した人々は、縄文時代晩期(約3000年~2300年前)に、国の重要文化財に指定されている有名な遮光器土偶などに代表される優れた造形美と高い精神性を感じさせる物質文化、「亀ケ岡文化」を生み出した。そのムラの中心部分が1944(昭和19)年に田小屋野貝塚とともに「亀ケ岡石器時代遺跡」として国の史跡に指定された。
 ▽環境変遷と縄文遺跡
 環境変遷と縄文遺跡、この2つをつなぐことはなかなか難しい。しかし、屏風山砂丘はこれらを結び付けられる非常に貴重な場所である。だが、これらを結び付けた資料は今まであるようでなかった。「なければ作ろう!」という発想で作成したのが、『つがる市の環境変遷と縄文遺跡』(つがる市合併10周年記念冊子)。これを読んでいただければ、環境変遷と縄文遺跡の関係が「一目瞭然!」と、一応宣伝しておくことにする。
(つがる市教育委員会社会教育文化課学芸員・佐野忠史)

∆ページの先頭へ

太宰を生んだ都市文化=28

2015/6/22 月曜日

 

土手町の繁華街。右奥に見える丸屋根の建物が角は宮川デパート。大正末期~昭和初期・青森県史編さん資料
官立弘前高等学校。大正末期~昭和初期・青森県史編さん資料
青森市にあった歌舞伎座。大正期・青森県史編さん資料
富田大通りから見た慈善館。弘前市最初の活動写真常設館。1941(昭和1616)年・野呂良明さん提供

 ▽官立弘高と学生太宰
 中津軽郡清水村富田に建設された第8師団司令部に隣接するように、1921(大正10)年、官立弘前高等学校が開校した(以下、官立弘高)。場所は現在の弘前大学構内である。官立弘高には、官僚や学者などを嘱望されたえりすぐりの学生らが通学した。
 官立弘高に通っていた学生の一人に、青森市にある県立青森中学校を4年で修了した津島修治(のち作家となる太宰治)がいた。彼は官立弘高近くの藤田家(現太宰治まなびの家)に下宿し、1927(昭和2)年4月から1930(昭和5)年3月まで、文科甲類の学生として在籍した。およそ十代半ば以降を、青森市と弘前市で過ごしたことになる。
 ▽映画とインテリ青年
 都市文化の筆頭は映画、特に洋画であろう。すでに映画は最先端の芸術と位置づけられていたこともあり、都市のインテリ青年などに人気だった。映画が都市文化の人気娯楽であることは、地元新聞による映画関係の記事が拡大していく様相からもうかがえる。
 弘前市には慈善館をはじめ大和館などの映画館や、歌舞伎などを上演する弘前座などがあった。また青森市でも電気館や文芸館、歌舞伎座といった興行場が設けられていた。
 官立弘高は映画研究会が結成され、市内の映画研究団体と協力した映画公開を行うなど、積極的な活動をしている。例えば1927年11月、官立弘高映画研究会が京都帝国大学映画研究会を後援して、弘前座で数本の名画を上映した。その中に、ドイツ表現主義映画の代表作「カリガリ博士」があった。実は、弘前市には青森市とは異なる映画が上映される特徴がある。このことは、官立弘高というエリート学生が通う弘前市ならではの現象として興味深い。
 官立弘高生だった太宰の自筆ノートには、「カリガリ博士」に出演し、のちにドッペルゲンガー現象を題材にした「プラーグの大学生」に主演したコンラート・ファイトの名前と似顔絵が描かれていた。さらに俳優の上山草人(かみやまそうじん)の芸名「Sojin」が記されている。上山は日本人としてハリウッドで活躍した俳優である。2人は、さまざまな役柄をこなす名俳優だった。当時学生だった太宰の好みが垣間見えよう(中園美穂「官立弘前高等学校時代の太宰治」)。
 ▽築地小劇場
 当時、翻訳劇を中心とする「新劇」の先端をいっていたのが、演出家の小山内薫と土方與志(よし)が率いる築地小劇場だった。東京を拠点とした築地小劇場は、1927年8月は青森市のみ、11月には青森市と弘前市へ地方巡演のため来県した。青森市では歌舞伎座、弘前市では弘前座が会場となっている。ただし小山内薫は来県していない。なお、同年7月11日から20日頃まで太宰は東京に行っており、そこで実際に築地小劇場の「郭公(かっこう)」を観劇したという(原仁司「太宰治と近代劇」)。
 1928(昭和3)年8月に、築地小劇場は青森市の歌舞伎座で地方公演を行った。公演日の15日から3日間、青森市新町通りの松木屋デパートでは、菊谷栄(さかえ)が描いた築地小劇場の芝居絵の展覧会が開かれた。デパートでは、映画ポスター展を開催するなど、都市文化を盛り上げる催事も行っていた。
 ▽世界的テノール歌手
 太宰と同級生だった大高勝次郎氏執筆の「弘高時代」には、太宰が「テノールの真似」をして教室を歩き回ったという逸話がある。実は、「われらのテナー」と呼ばれた歌手の藤原義江(よしえ)の独唱会が、1927年9月に青森高等女学校の講堂で、2年後の10月には歌舞伎座で開催された。
 イタリアで声楽を学んだ藤原は、ロンドンのウィグモア・ホールで初舞台をふみ、さらに音楽の殿堂であるロイヤル・アルバート・ホールで歌い、ビクターレコード「レッドシール」のお墨付きを得て、世界的な活躍をみせていた。太宰がテノールのまねをしたというのは、当時飛躍しつつあった藤原に憧れていたのかもしれない。
 青森市と弘前市は映画館や劇場がそろい、デパートや喫茶店が集まる都市空間を形成していた。都市は最先端の文化や芸術が結集する場所でもあった。そして高等教育機関である高等学校をはじめ中学校や女学校があり、銀行や官庁街があった。それらに通う学生や大人たちは、新しい文化や芸術に触れられたのである。
 当時学生だった太宰も、弘前市という都市で生活し、時に青森市へも出掛けていた。そこで最先端の文化や芸術に触れ、世界的に活躍する人々に憧れて刺激を受け、自分の未来を夢見ていたのだろう。弘前市や青森市という都市で過ごした時間は、後年作家となった太宰治の作品に、いろいろな形で反映していると思う。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

∆ページの先頭へ

にぎわう相内の虫送り=27

2015/6/1 月曜日

 

相内の虫送り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
子どもたちの太刀振り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
灯籠を持つ子どもたち 1669(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
五所川原市藻川の虫送り 2005(平成17)年6月5日・筆者撮影

 ▽無形民俗文化財
 毎年旧暦5月頃の津軽地方では田植え作業が終わり、サナブリといって集落全体で農作業を休む日を迎える。その日に行われてきた行事が虫送りである。これはワラで「ムシ」と呼ばれる蛇体のワラ人形を作り、それを掲げながら、太鼓、笛、鉦(かね)などのにぎやかな囃子(はやし)や、太刀振り踊り、荒馬など芸能も連れ添って集落内を練り歩くもので、最後には村はずれの大きな木や神社の鳥居にムシをかけて終わる行事である。
 虫送りは稲に付く害虫を払うための儀礼だとされてきた。そのルーツとして、近世中期までは藩が「虫除祈祷(むしよけきとう)」と「除札(よけふだ)」(虫除けの御札)を配っていた行事があり、近世後期になると、民衆が独自の虫送りを始め、現在のような習俗へつながっていったことが考えられる。近世の旅行家菅江真澄も、1796(寛政8)年に鯵ケ沢で虫送りの行事を目撃したことを記録している(県立郷土館『東日本の神送り行事』)。
 このような行事は「青森県津軽地方の虫送り」として、2010(平成22)年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。そのなかでも現在、大勢の人々が集まってにぎやかに開催されているのが五所川原市相内の虫送りである。現在の様子を紹介したい。
 ▽相内の虫送り
 相内の虫送りは、相内青年団によって開催されてきた。虫送りの準備として、事前に青年団長名で文書が配布され、団員が各戸を回ってお金と米を集める。毎年6月の第2土曜日がサナブリの時期であり、虫送りの日となる。
 当日は午前中から青年団が青年会館で、長さ5メートルのムシを作り、シトギなどを用意する。団員たちは各村境や用水堰(ぜき)、橋のたもとなどの五カ所に虫札と「倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) 昆虫退散 五穀成就」などと書いた紙の旗を立て、お神酒と灯明、身欠きニシン、菓子などを供えておく。
 午後1時頃、青年会館の準備が終わると祭壇を拝んでから、ムシを台車に乗せた行列が集落内の運行を開始する。ムシの後には荒馬や太刀振りの踊り、太鼓や笛、手平鉦(てひらがね)の囃子、1メートルほどの長さの小さいコムシ、ニシンの切り身やシトギを配る人などが付いてくる。
 途中、各家から酒や漬物、お菓子などが振る舞われると、そこで太刀振りや荒馬を踊る。やがて行列が神明宮に到達すると、ムシを台車から降ろし、境内の木にかける。ムシはこの木の上から一年間、田を見守っているものだという。その後、青年団員たちは神社境内のフキをとり、囃子にあわせて踊る。そして夕方頃まで行事が続く(県民俗文化財等保存活用委員会『津軽・南部の虫送り』)。
 かつてこの行事には、女性や子どもが参加できなかったといい、その代わりとして前夜祭で「ガク」と呼ばれる30センチ四方の灯籠にロウソクを灯(とも)したものを持って歩いたり、昭和40年代に地元小学校が学校行事として太刀振りに参加していたというが、これらの写真はその様子を写したものであろうか。なおこの行事は「相内の虫送り」として、2011(平成23)年に県無形民俗文化財に指定されている。
 ▽虫札を発行
 五所川原市の藻川集落でも虫送りが行われている。その行事の概要は相内のものと似ているが、興味深いのが代々、虫札を発行してきた家があることである。その家の先祖は、かつて夜に岩木川へ入って善光寺様という大石を拾ってきたカミサマ(民間宗教者)であり、虫札の版木を管理してきた(拙論「北五津軽地方における善光寺信仰」)。
 このような虫送りで虫札が配布されている地域として、五所川原市金木、中泊町芦野、旧中里町上高根および深郷田、鶴田町鶴田および石野、旧木造町出精などが確認されている。これらの虫札は虫送りの歴史を考察するうえで貴重な文字史料である。
 しかしこれらの虫札に共通性はなく、それぞれ断片的な宗教的知識が変容したかたちで織り込まれており、それらを分析するにはまだまだ課題が多い。それでもこれらの虫札群は、18世紀半ばに各集落が独自に農耕儀礼を生み出していくなかで発生してきた存在ではないかと推測されている(福眞睦城「北五地域の虫札についての事例報告」)。
 なお五所川原市内では他にも、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などの各集落でもかつて虫送りが行われていたが、衰退したり失われたりしたという伝承があり、その一方で、近隣の虫送り行事の要素をまねして始めたのだ、と語っている地域もある。
 このように津軽地方の虫送りは必ずしも不変の行事ではなく、長い歴史のなかで、中断や再生を繰り返し、さまざまな変化と要素を取り込みながら、現在の習俗を形成してきた状況が考えられるのである。
(青森県史編さん執筆協力員・小山隆秀)

∆ページの先頭へ

油川村の念願の町制施行=26

2015/5/18 月曜日

 

油川村役場跡 2015(平成27)年4月28日・筆者撮影・役場は浄満寺の前にあった。現在は消防団の機械器具置場が建っている
油川町の仲町通り 1933(昭和8)年頃・青森県史編さん資料
イタリア館 1981(昭和56)年7月・青森県史編さん資料・建設当時はファブリの事務所であり住居でもあった
「先人の足跡消えず」の石碑 2015(平成27)年4月28日・筆者撮影・油川村制91年、町制60年、青森市との合併40年を記念し1979(昭和54)年に建てられた

 ▽油川町か大浜町か
 1919(大正8)年4月1日、「油川町」が誕生した。実は、油川村が「町」を目指したのは、この時が初めてではなかったようだ。これを遡ること13年、1906(明治39)年3月28日の村会で、県へ町制施行の出願が許可されたというのである(西田源蔵『油川町誌』)。しかも、4月8日付で、当時の村長西田林八郎は県知事西沢正太郎にあてて「油川村ヲ大浜町ト変更ノ義ニ付稟請」という文書を提出していることが判明した。
 これらを踏まえて注目したいのは、油川村は大浜町と名称を変更した上で町制施行を目指していたことであるでは油川村はどうして「大浜町」と名称を変更しようとしたのであろうか。まずは、この文書を読みながら、油川村の主張に耳を傾けてみることにしよう
 ▽「大浜」への思い
 文書によれば、油川村は数百年も前から市街を形成し、藩政時代には交通の要衝であったしかも古くから大浜港という名前で知られ北海道・下北半島方面はもちろん遠くは加賀・能登・大坂方面の船が大浜港に入り商取引を行っていた。
 そのため、商人たちはみな「津軽大浜」と彫られた印鑑を現在も使っているし、各地からの手紙にも大浜町と書いてあるものが多く、油川という名称は商売上障害となっている。したがって、商業発展のためには油川という名称を、古くから使っている「大浜町」と改称することが村全体の希望であると主張する。
 実際、藩政時代に油川の商人が大浜を名乗っていた事例は多く、「ツカル大ハマ」と刻まれた蝦屋長四郎の印が、青森浜町の豪商滝屋への書状に捺(お)されていることが確認できる。油川村の人々にとっては、大浜の名称が長く通用し、一般に知られていたので、商業振興のためにも、この名称を町の名前にしたかったのであろう。
 しかも、西田が村長に就任した1899(明治32)年、彼は当時「町油川」と呼んでいた地区の伝馬・仲町・館町の字名が浪返となっていたのを、関係機関に働きかけて「大浜」に改正したという(木村愼一『油川町の歴史』)。西田にとって、商業の町を象徴するとでもいうべき大浜という名称への思いは並々ならぬものがあったようだ。
 さて、こうした油川村の主張に対して、町村の監督機関である東津軽郡役所は、大浜は古くから使っている名称であることと、住民の大部分が商業に従事しているので、ほかの農村とは状況が異なるとして、名称の変更は「適当」と判断して県にその考えを示した。
 ところが、県の判断は極めて厳しいものであって、詮議するまでもないとこの文書を受理しなかったのである。こうして、村民の願いともいうべき「大浜町」への改称はついえたのであった。
 ▽町制施行は繁栄の礎
 その後、1917(大正6)年に油川村は、改めて町制施行の方針を立て調査を始めたそして2年後の1919(大正8)年3月21日の臨時村会は、町制施行に向けた最後の会議となった。
 当時の議事録によれば、町制施行については村民の間でも賛否が分かれ、出席議員からも町制は町方には利益があるものの、農家には利益はないという問いが投げかけられた。これに対して、議長(西田村長)も農家には直接の利益がないことを認めるが、町制施行は村民の「興奮剤」であって、これが実現すれば、知らずしらずのうちに村民福利は向上し、地域発展の礎になると説いた。加えて、油川村の商人がほかの市町と取引をする際に、「村」では肩身が狭いとも主張した。
 さきの大浜町のケースもそうであったように、町制施行の意図は商業取引を通じて地域を繁栄させようとする意図があり、まさに商業活性化のための「興奮剤」として町制施行を選択したといっていいだろう。
 なお、この日の村会は、満場一致で町制施行に賛成し、ここに油川村の意思は決定したのであった。そして、翌日から町制施行に向けた手続きに入り、3月31日付で翌4月1日から油川町と改称することが許可されることになった。
 ▽町制施行の意義
 明治初年の弘前藩による「青森振興策」の一環で1871(明治4)年に青森―新城間の直通道路が開削(石神野新道)され、弘前方面から青森町へ向かう際に油川村を経由せずに行くことができるようになったことや、1891(明治24)年の東北本線の開通などによって、油川村の商況は大きな打撃を受けており、村は「頓(とみ)に衰頽(すいたい)を来(きた)す」ありさまであった。
 一方、この頃の油川村では新しい産業が芽生えていた。例えば、秋の背黒イワシを加工して作る「焼干」が、村の特産品として成長していた。さらに、1918(大正7)年に神戸に拠点を置くラザラ・オンベール商会が缶詰工場「フランコ・イタリヤン缶詰会社」を建設して、イタリア人ジュゼッペ・ファブリが運営を任されていた(佐藤直司『白菊物語』)。ここでは、秋冬に群来する中葉イワシを「油漬ノ缶詰」にして外国へ輸出し、「塩製」にしたものを秋田・盛岡方面に移出して利益を得ていた。
 こうして第一次世界大戦のいわゆる「大戦景気」に乗じて頽勢挽回(たいせいばんかい)しようという目論見のなかで企図されたのが、この町制施行であった。こうして油川村は、名称こそ「大浜」とはならなかったものの、1906(明治39)年以来の念願ともいえる町制が1919(大正8)年に布(し)かれることになるのであった。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

∆ページの先頭へ

Page: 1 ... 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23

当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード