津軽の街と風景

 

狩猟生活変えた「垂柳」=35

2015/10/19 月曜日

 

田んぼアート「スターウォーズ・フォースの覚醒」 2015年7月22日・陸奥新報社提供
垂柳遺跡の水田跡 1983(昭和58)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供
水田面に残された足跡 1985(昭和60)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供

 ▽田んぼアート
 田舎館村の田んぼアートが今年「サントリー地域文化賞」を受賞した。田んぼをキャンバスとする新たな文化を生み出し、地域から全国へ広げたことが高く評価された。また、映画会社とコラボしたアートは日本のみならず外国にもSNSなどで発信され、外国人観光客も多数訪れ、青森県の観光名所の一つとなっている。
 田んぼアート第2会場はそのきっかけの一つとなった国史跡垂柳遺跡に近接している。
 ▽学史的な大発見
 垂柳遺跡は、1982(昭和57)年から翌年にかけて、国道102号バイパス建設に伴い青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査を行い、656枚の水田跡と多量の土器・石器などを発見した。出土した遺物から紀元前3世紀、弥生時代中期の遺跡であることがわかった。弥生時代の水田跡は東北地方初の発見で、それまで多くの考古学者が東北地方には弥生文化が到達していなかったと考えていたことから、学会に衝撃がはしった。その後、垂柳遺跡は2000(平成12)年に国史跡に指定されている。
 垂柳遺跡の存在は明治時代から知られており、1958(昭和33)年には東北大学の伊藤信雄により初めての発掘調査が行われ、土器とともに炭化した米などが出土し、伊藤信雄は調査成果から弥生文化が東北地方に及んでいたことを述べていた。
 ▽水田に適した土地
 垂柳遺跡は津軽平野の南東、八甲田山系から流れる浅瀬石川によって造られた扇状地に立地する。この扇状地の堆積物には浅瀬石川の上流にある八甲田や十和田湖が古い時代に噴火して堆積した火山灰が混ざり、ミネラルに富んだ土壌がつくられている。
 1982(昭和57)年以降も田舎館村教育委員会などにより発掘調査や範囲確認調査が行われ、遺跡の範囲も13万平方メートルに及ぶ大規模な水田跡であることがわかった。遺跡付近の地形は、東から西に向かって緩く傾斜している。東から西に向かって水田を広げていたと考えられている。
 近年の研究から、津軽平野の弥生時代の水田跡の多くは、傾斜が緩やかな所に立地する傾向にあることがわかった。当時、開墾する道具や揚水技術も未発達であったため、開墾しやすい地形を選んで造った可能性が指摘されている。
 水田跡には湿地帯が隣接している。河川や水路から直接水田に水を入れずに、いったん湿地帯に導いて水を温めて冷害を防ぐ工夫をしていた可能性が指摘されている。
 ▽引き継がれる縄文
 紀元前10世紀頃、九州地方北部で始まった稲作が、日本海を経由して青森へと伝わったと考えられている。水田跡は大畔(おおあぜ)・小畔(こあぜ)が整然と配置された灌漑(かんがい)水田で、水路跡から農耕具である木製の鍬(くわ)などが出土した。
 一方で石器には矢尻である石鏃(せきぞく)、木製の斧柄(おのえ)と組み合わせて使用する磨製石斧(せきふ)、植物などの加工などに用いたと考えられる磨石(すりいし)・叩石(たたきいし)などが、土製品では土偶が出土している。石器や土偶から縄文時代以来の伝統をもつものも使用していたことがわかった。
 ▽狩猟から農耕へ
 水田跡には無数の足跡が残されており、集団で農作業を行っていたと考えられている。また遺跡の土壌分析により、ハンノキなどの林が生い茂る湿地を開墾して水田を造ったことがわかった。垂柳遺跡の周辺には、五輪野遺跡、前川遺跡など同時期の水田跡が発見されており、灌漑水田による農耕を基盤として多くの人々が周辺で暮らしていたと考えられている。しかし水田から得られる食料はそれほど多くなく、米のみで食料の基盤をつくることはできなかったという説もある。
 弥生時代以前の採集狩猟社会である縄文時代は、青森では約1万年以上ものあいだ続いたが、これは当時の環境に適応して醸成した社会といえよう。採集・狩猟を行い、クリやウルシの栽培など資源を管理し、他地域との交流・交易も盛んに行い、漆器製作など高い技術を持っていた。その集団の規模は弥生時代に比べ、小規模であったと考えられている。
 垂柳遺跡で始まった灌漑水田による農耕は、採集狩猟社会で生きてきた人々にとって大きな変容であった。しかしそれは青森県内全てで始まったわけではなく、そのまま採集狩猟社会を続けていた地域もある。いわば、垂柳遺跡とその周辺の人々は新しい社会を受容し、実践したパイオニアだった。
 ▽穀倉地帯へ
 垂柳遺跡の水田跡などから人々は約200年継続して水田を営んだ後、大規模な洪水にみまわれた。その後弥生時代には水田は造られず、人々は採集狩猟社会に戻ったと考えられている。次に水田が造られたのは古代で、以降津軽平野は穀倉地帯へと発展していく。特に田舎館村は1反当たりの米収穫量が何度も日本一となっている。
 1993(平成5)年から始まった「田んぼアート」は、水田をキャンバスにするという斬新な発想で始まり、今や世界に広がってつくられている。その発想の根源には弥生時代にこの地に生きた人々がもっていたパイオニア精神が受け継がれているのかもしれない。
(青森県県史編さんグループ主幹 伊藤由美子)

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交易の拠点担う深浦湊=34

2015/10/5 月曜日

 

「御国縮図並弘前之図其外所々之図」(弘前市立博物館蔵)より「深浦之図」
深浦町岡町地区から港方面を望む(2015年9月20日 筆者撮影)
「合浦山水観」(県立郷土館蔵)より「深浦港之図」
円覚寺の仁王門(2015年9月20日 筆者撮影)

 ▽天然の良港、深浦湊
 深浦町周辺の海岸部は、岩礁や奇岩に富み、観光名所としても有名である。深浦という地名は、「深く入り込んだ浦」に由来するといわれ、「吹浦(ふくうら)」や「海浦」とも称された。現在の深浦漁港がある袋状の湾はまさに天然の良港であり、鎌倉時代末期には日本海海運の重要湊に位置づけられていた。
 江戸時代、深浦湊は弘前藩の流通統制である九浦制度に組み込まれた。九浦とは、青森・鯵ケ沢・蟹田・今別・十三(じゅうさん)・深浦の六湊と、大間越(おおまごし)・碇ケ関・野内の三関所を指す。いわば物資・人・情報の出入り口であり、各浦では藩による監視と税金徴収が行われた。
 ▽湊町の構造
 深浦湊には町奉行所(町史跡)が置かれ、町奉行・町同心・町年寄などの役人が設置された。町奉行所は藩主の領内巡検の際の御仮屋(おかりや)(宿所)でもあった。1806(文化3)年、九代藩主津軽寧親はこの御仮屋で酒興に乗じて「無為」と書き、それを額として掲げさせたため、以降は「無為館」と呼ばれたという。
 湊町は、台地上の上町(うわまち)(現同町岡町地区)と海岸部の下町(したまち)(現同町浜町地区ほか)に分けられる。町奉行所や湊番所など役所の多くは深浦湊を一望できる上町に置かれた。また、三国屋・伊勢屋・若狭屋・秋田屋などの船問屋の居宅や、荘厳(しょうごん)寺(浄土宗)・浄念寺(真宗大谷派)・宝泉寺(曹洞宗)など寺院・神社もあった。屋敷地以外に畑や水田もあって、わずかながら農作物によって収入を得ていた。
 一方下町には、湾に沿って浜町が延びており、主に漁師が住んでいた。湾の西沿いには、澗口(まぐち)の観音として古くから厚く信仰されている真言宗の円覚寺(えんがくじ)があって、寄港した船乗りたちが参詣に訪れてにぎわっていた。
 なお、深浦十二景の一つとして有名な猿神鼻(さるがみはな)には、幕末期、外国船の出没に備えるための砲術台場が設けられ、沿岸警備の要衝として機能した。
 ▽深浦湊の役割
 深浦湊は、鯵ケ沢湊のように藩内の年貢米の上方への積み出し湊ではなく、風待ち湊であった。風待ち湊とは、風波などによる海難事故防止のための一時的な避難港のことである。深浦湊には、酒田湊(現山形県酒田市)から江戸へ天領の年貢米を運ぶ日の丸船がしばしば入津していた。
 また、深浦湊には木材の積み出し湊としての一面もあった。木材は、追良瀬(おいらせ)村(現深浦町)の福沢屋(黒瀧家)が、藩から許可された山々から木を伐採することによって独占的な流通体系を構築した。1783(天明3)年の大飢饉(ききん)の際は、御救山(おすくいやま)といって、藩から山元の村民へ払い下げられた山を福沢屋が購入し、木材を調達していた。木材は敦賀(現福井県敦賀市)・三国(同坂井市)など日本海沿岸諸湊に売り払われた。
 ▽深浦交易の様相
 藩の記録や船問屋の御用留などを見ると、18世紀後半以降、湊では木材以外にも船内用の米や半紙、干鱈(ほしだら)などの取引も行われていた。1~5年程度の期間で区切り、品目と量を限定した形で行われていた。期間終了後は、船問屋らが新たに願い出ることで取引が延長されていた。1860(万延元)年に藩が達した取引許可・禁止の品目を見ると、瀬戸物や輪島塗など他領の製品や、地元で製造できるロウソクなどは禁止品目に入っており、家業保護の意図が込められていたようである(桜井冬樹『秋田屋御用留』)。
 ▽円覚寺の信仰に見る深浦交易
 深浦湊の西沿いにある円覚寺には、江戸時代後期から明治期にかけて奉納された船絵馬や髷額(まげがく)などの海上信仰資料(国指定重要有形民俗文化財)が所蔵されている。船絵馬の奉納時期からは、1830年代から50年代にかけて奉納のピークがあり、幕末期の藩の支配が揺らいだ時期に交易のピークが当たっていた。さらに、明治期の船絵馬もあって、藩が解体され九浦制度が崩壊した以後も深浦での交易が続いていたことを読み取ることができる。まさに、幕府や藩の支配・統制にかかわらない交易や交流がなされていたのであり、深浦はその拠点として大きな役割を果たしていたのである。
(弘前大学国史研究会会員 蔦谷大輔)

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青函の歩みに接点多く=33

2015/9/21 月曜日

 

にぎわう函館駅前 昭和10年代・中園裕提供
繁華街となった新町通り。左の建物は1935(昭和10)年、現在のアラスカ会館の場所にできた菊屋デパート 昭和10年代・青森県史編さん資料
最後の青函連絡船 1988(昭和63)年3月13日・青森県史編さん資料
撤去されるクレーン 2009(平成21)年6月21日・中園裕撮影

 ▽公園と皇室モニュメント
 青函両市には多くの接点がある。函館公園はイギリス領事ユースデンが渡辺熊四郎に提言してできた道内初の本格的洋式公園である。これに対し青森市の合浦公園は水原衛作が造園し、後に青森市の管理する公園になった。水原は函館で公園の造営や上水道の建設を建白したことがある。彼は当初、洋風の公園を構想していた。また弟の柿崎巳十郎は、函館公園内にあった函館図書館の岡田健蔵館長とも交流があった。
 1930(昭和5)年、青森市の聖徳(せいとく)公園が浜町桟橋付近に着工となり、翌年市へ移管されて開園した。明治天皇の上陸を記念した公園であるため、1937(昭和12)年に史跡となった。公園は青森税関の隣にあったが、戦後幾度か場所を変え、現在は柳町通り最北端の海岸沿いにある。実は1935(昭和10)年、函館市でも函館税関の前に明治天皇御上陸記念碑が造られ、現在も同じ位置にある。青函の皇室モニュメントは、いずれも桟橋と税関の近くに造られ、海の記念日の発祥になっている。
 ▽大火と街並み
 函館市は1934(昭和9)年の大火で街並みの3分の1を失った。真冬の暴風雨と激浪災害が重なり、死者が2000人を超える大惨事だった大火後函館市では都市計画法に準じた復興事業を推進した。現在の函館市の街並みは、これ以後形成されたものだ。青森市でも1910(明治43)年の大火で市街地がほぼ全焼している。このため大火後に防火線が設置され、青森市は耐火性の強い建造物を中心とする街並みへと変わった。
 明治期から昭和戦前期にかけて、函館市の繁華街は西部の東浜桟橋から東部の函館駅周辺へと東進している。反対に青森市の繁華街は浜町桟橋付近の大町や浜町から、次第に青森駅前の新町へと西進している。街並みの形成方向は対照的だが、大火後の復興対策と「青函圏」の隆盛により、街並みが拡大していった点では共通している。
 ▽北の要塞
 日露戦争前、政府は函館港を防衛するため函館山を要塞(ようさい)とした。だが日露戦争では効果を発揮できず、ロシアの大鑑に悠々と津軽海峡を横行された。このため海峡の防衛が重視され、1924(大正13)年7月、北海道の汐首岬と青森県の大間崎が函館要塞に加えられた。1927(昭和2)年4月、要塞名が津軽要塞と変更された。1935(昭和10)年12月には、新たに青森県の龍飛崎と北海道の白神岬が津軽要塞に追加された。
 日中戦争が勃発し、要塞地帯へ兵員や軍需物資を運ぶ目的が生じた。青森県では大畑線を大畑から大間まで延伸する大間鉄道を敷設。北海道では五稜郭と戸井を結ぶ戸井線に着手した。だが太平洋戦争末期、完成を間近に工事は中止。どちらも幻の鉄道に終わった。
 一般庶民の要塞地帯への立ち入りは禁じられた。青函連絡船も旅客制限され軍需輸送の大動脈として活用された。このため1945(昭和20)年7月14日から15日、連絡船はアメリカ軍に空襲され全滅した。だが要塞でもない青森市の市街地が7月28日の大空襲で焦土と化した。類似する青函両市の歴史で、この点だけが大きく異なっている。
 ▽復興と衰退
 戦後、青函両市は再び本州と北海道の玄関口の役割を取り戻し、戦前にも増して「青函圏」は強固な流通経済圏を形成する。しかし青函両市の経済を支えた北洋漁業は、敗戦後に占領軍が日本漁船の出漁を制限したため大打撃を被った。
 このため函館市では、1954(昭和29)年7月10日に「北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)」を開催して挽回をはかった。北洋博自体は好評だったが、肝心の北洋漁業は200カイリ問題で急速に活気を失った。
 だが、北洋博は函館市の新たな側面を引き出した。北洋博会場の函館公園や五稜郭公園が整備され、新たに函館山展望台や駅前観光案内所が建設された。丸井今井デパートは大増築を行い、大門商店街にはアーケードができた。湯の川温泉も旅館を改築した。北洋博の開幕に合わせ、異国情緒あふれる市街地や函館山からの景色が大々的に宣伝された。函館市が観光都市となった原点は、実は北洋博にあったのである。
 ▽歴史と文化の圏域
 1970年代以降、首都圏と北海道を直結する長距離フェリーや大型航空機が進出し、連絡船の独占体制が崩れ始めた。1980(昭和55)年10月、千歳空港駅が開業し、東京と札幌を航空機と鉄道で結ぶ路線が定着した。このことは北海道の玄関口が、函館市から札幌市へ移行したことを決定づけた。
 国内経済は1973(昭和48)年の石油危機を契機に下降線をたどり、自動車や航空機の進出で連絡船の利用数も減少した。こうして1988(昭和63)年3月13日、青函連絡船は廃止され、80年に及ぶ歴史を閉じた。
 青函両市は連絡船廃止の日に開通した青函トンネルを記念し、同年の7月から9月にかけて「青函トンネル開通記念博覧会(青函博覧会)」を開催した。翌年に両市は「青森函館ツインシティ」を締結し、今後の「青函圏」をつなぐ青函トンネルに期待をかけた。
 青函トンネルは貨物輸送の増益をもたらした。だが鉄道と連絡船の乗り継ぎという時間と空間によって形成された駅前の市場や繁華街は、トンネル時代になって活気を失った。連絡船廃止後の桟橋周辺は魚市場が移転して公園化した。函館港では主力の造船業が衰退。港の象徴だった函館どつく会社のクレーンが、2009(平成21)年6月21日に撤去された。流通経済圏としての「青函圏」の時代は、すでに終わっていたのである。
 2010(平成22)年12月に新幹線が新青森駅に到来した。2016(平成28)年には青函トンネルを通って新函館北斗駅まで延伸される。青森市をはじめ県内各地では歴史と文化を掘り起こし、観光事業を通じた誘客が進められている。函館市や道南各地でも新幹線到来を前に、青森県や南東北からの観光客を呼ぼうと懸命だ。新幹線の到来を機会に、歴史と文化を中心とする新たな「青函圏」が生まれつつある。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

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青函の流通経済圏誕生=32

2015/8/31 月曜日

 

旧函館区公会堂から見た函館港。中央の道路は基坂(もといざか) 大正末期~昭和初期・中園裕提供
青函連絡船乗降客待合所。中央の小舟が港と沖合に停泊する連絡船を結ぶ艀(はしけ) 明治末期~大正初期・中園裕提供
T字型桟橋に造られた函館桟橋駅 大正期・中園裕提供
1925(大正1414)年に造られた青森港の連絡船可動橋。1954(昭和2929)年に一部改造されたが、今も青森港に残っている。2011(平成2323)年、「機械遺産」に指定された。 昭和初期・青森県史編さん資料

 ▽桟橋時代
 明治初期の函館は本州との出入り口として隆盛を誇り、当時北海道最大の都市だった。1886(明治19)年の段階で、函館の人口は4万5000人を超えていた。同年の青森は1万5000人で、青森県内第一の都市は3万人を数える弘前だった。
 函館と青森を結ぶ定期航路は、1873(明治6)年に開始されていた。だが函館と、野辺地、八戸、鯵ケ沢を結ぶ航路もあり、青函関係は特別なものではなかった。
 函館は西部地区にあった東浜桟橋(旧桟橋)が外部との接触点だった。現在の西波止場近くで、周辺には金森倉庫があり、多くの観光客でにぎわう場所である。このため当時は桟橋背後の元町が行政の中心で、繁華街は桟橋を中心に展開していたといえよう。これに対し青森は、現在の青森製氷会社近くにあった浜町桟橋が交流の拠点だった。このため当時は桟橋背後の浜町と大町(いずれも現本町)が繁華街だった。
 1891(明治24)年に日本鉄道(後の東北本線)が上野と青森を結び、3年後に奥羽本線が青森と弘前の間に開通した。函館では1904(明治37)年、小樽との間に鉄道が開通している。青森と函館の両駅は鉄道の発着駅となり、同時に航路への出入り口となった。駅は旅客や貨物の滞留地となり、駅前には市場や繁華街が形成された。こうした経済的利点を得て青森は1898(明治31)年に市制施行を遂げた。
 函館は鉄道開通の年に、駅付近へ小さな桟橋を造成している。これに対し青森は、依然として駅から遠い浜町桟橋へ行き、艀(はしけ)で船に乗る手間を要していた。1898(明治31)年、駅付近に船入場を構築したが、艀輸送は続けざるを得なかった。青森市の海岸は遠浅だったため、大型の船が着岸できなかったからである。
 ▽連絡船時代
 1908(明治41)年、国鉄の青函連絡船が就航した。2年後、函館では沖合へT字型に張り出した新桟橋を造成。桟橋にレールを敷設し連絡船の横付けを実現させた。函館の海岸は遠浅で、大型の船が着岸できなかったのである。T字型の長い桟橋は、それを克服する画期的なものだった。そして1915(大正4)年、桟橋にホームが敷設され、函館駅とは別に連絡船乗り継ぎ列車のみ停車する函館桟橋駅ができた。
 1914(大正3)年、青森市は貨車を直接乗せる専用船「車運丸」の使用を開始した(函館でも使用)。しかし、水深の浅い青森港の弊害を根本的に解決するため、青森県や市の政財界関係者が国に要請し、翌年より本格的な築港が始まった。その後、10年もの長期間を経て築港は完成。岸壁に連絡船が接岸された。
 1925(大正14)年、青森駅構内と連絡船の間をつなぐ可動橋が完成した。同年、函館市側でも可動橋が設置され、青函連絡船の貨車航走が本格化することになった。すでに3年前、市制施行を遂げた函館市でも、連絡船の着岸と貨車航送の実現を受け、1930(昭和5)年に桟橋駅と函館駅を統合した。
 貨車航送は鉄路と航路の接続で生じる手間と時間を大幅に減少させ、交通史の観点からは革命的な出来事だった。しかし、便利になることが繁栄をもたらすとは限らない。青函両市が単なる通過点になる恐れもあったからだ。
 すでに函館市は札幌と小樽の両市を中心とする流通経済圏に押され、本州との交易を独占できなくなっていた。青森市は1905(明治38)年に弘前市の人口を抜き、県内第一の都市になったが、その地位は盤石でなかった。
 弘前市は第8師団が置かれた軍都であり、多数の銀行が並ぶ経済都市であった。1929(昭和4)年に市制施行した八戸市も、セメント工場を中心に工業都市として台頭しつつあった。県内では青森、弘前、八戸の三市が「三都」として競合し、青森市の優位性を揺るがしていたのである。
 こうした状況から、青函両市は連絡船を中心に政治的かつ経済的な交流を緊密化することで活路を見いだした。その結果、函館市は青森市との交易を中心に北洋漁業を推進。1940(昭和15)年に札幌市に抜かれるまで北海道最大の都市としてあり続けた。青森市も水産物関係を中心に函館市との交易を最重視し、昭和戦前期を通じて県都の繁栄を強固にしたのである。
 連絡船の発着する青森市と函館市の港は活気を帯び、両駅前には市場や繁華街が形成された。こうして両市には周辺の町村から多くの人と物資が集まり、「青函圏」と呼ばれる独特の流通経済圏が誕生したのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

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市民と一体「軍都弘前」=31

2015/8/10 月曜日

 

師団通り。現在の中野・松原付近で、右側の建物は歩兵第52連隊の兵舎。明治末期~大正初期・青森県史編さん資料
弘前駅から出征する第5聯隊。1931(昭和6)年11月・青森県史編さん資料
満州からの凱旋。歩兵第31聯隊の凱旋を祝う百石町の人びと。1934(昭和9)年頃・高橋勝良さん提供
青森師範学校の校舎となった陸軍武器庫。弘前公園内にあった。1947(昭和22)年・片岡通夫さん提供

 ▽第8師団創設
 羽田空港から青森空港に向かう旅客機が着陸態勢に入るころ、運がよいと津軽平野にそびえる岩木山とその麓に広がる弘前の街を眺めることができる。郊外に街が拡大したとはいえ、弘前城を中心とした城下町の街割りが今でも見て取れる。藩政時代の街並みを残していた弘前市街地の景観を変えた最初の出来事が、1898(明治31)年の陸軍第8師団の創設であった。
 日清戦争に勝利した日本は、満州(中国東北部)の支配権をめぐってロシアと対立した。政府はロシアとの緊張関係を背景に、清国からの賠償金の約6割を軍備拡張費に充てて軍備拡張を進めた。陸軍はこれまでの6個師団(近衛師団を除く)に加え第7から第12までの6師団を増設することとした。その一つが弘前第8師団である。
 ▽軍都弘前の誕生
 陸軍師団は軍隊として必要な施設をすべて備え、単独で戦争を継続できる能力を持つ最小の戦略単位である。兵員は平時でも1万人を超え、戦時には2倍に増強される。第8師団は師団司令部、輜重(しちょう)兵第8大隊、衛戍(えいじゅ)病院・憲兵隊など主要な施設を弘前市富田町に、歩兵第31連隊を中津軽郡千年村(現弘前市)に置いた。ほかに歩兵第5連隊(青森市)や歩兵第17連隊(秋田)、騎兵第8連隊(盛岡)などが第8師団の指揮下にあった。兵士は青森・秋田・岩手の各県から徴兵された。
 弘前市内には富田町を中心に軍事施設、陸軍の納入業者や将兵を顧客とするさまざまな商人の街が形成され、新しい都市空間が出現した。商人の中には仙台市(第2師団所在地)から移ってきたものも少なくない。廃藩置県以来人口が減少していた弘前市は師団の経済力に依拠する「軍都」となり、にぎわいを取り戻した。出動する第8師団の歓送迎や年中行事となった歩兵第31連隊の軍旗祭などを通じて、市民は師団に親しみを抱き、やがて郷土師団と市民は一体化していった。
 ▽海外での戦闘
 第8師団の初陣は日露戦争である。1905(明治38)年1月、奉天(瀋陽)南方の黒溝台会戦でロシア軍と対峙(たいじ)した第8師団は、多大の犠牲を払いながらも東北健児の粘り強さでロシア軍を撃退、奉天会戦での勝利を導いた。その功績で第8師団は「国宝師団」と称されるようになった。第8師団は市民の熱狂的な見送りを受けて、シベリア出兵、満州事変などに出陣し、熱烈な歓迎の下に凱旋(がいせん)した。
 1937(昭和12)年、第8師団は満州に移駐した。これ以後、弘前市内には留守師団や補充部隊のみが配置された。日中戦争では増設師団として第108師団や第36師団が弘前市で編成され大陸に渡っていった
 アジア・太平洋戦争中の1944(昭和19)年8月、第8師団は満州からフィリピンに移動、ルソン島(歩兵第5連隊はレイテ島)でアメリカ軍と死闘を展開した。「永久抗戦」を命じられた将兵は栄養失調に苦しみ、餓死者を続出させながらも戦い続けた。師団長がアメリカ軍に降伏して事実上消滅したのは敗戦後の1945(昭和20)年9月8日のことである。わずかに残った将兵は捕虜収容所に収容された後、日本に復員した。
 ▽軍都から学都へ
 戦争末期になると弘前市には補充部隊が一部残留するのみとなっていた。本土防衛のため新設された第50軍司令部は青森市に置かれた。急造された本土決戦師団は、野辺地町から八戸市にかけての太平洋側に配備されていた。弘前市の軍事的重要性は低下していたのである。
 1945(昭和20)年6月、東京・大阪・名古屋の3大都市を焼き尽くしたアメリカ軍は空襲の対象を中小都市に移した。7月14、15日のアメリカ軍艦載機による空襲で青森市や八戸市、そして大湊町(現むつ市)などが被災し、青函連絡船は壊滅した。28日から29日にかけて、B29爆撃機による空襲で青森市は市街地の8割を焼失し、壊滅的な被害を受けた。
 青森県は空襲に備え弘前、八戸両市の建物強制疎開(撤去)と防火帯設置を決めた。弘前市は強制疎開の実施前に敗戦となり、空襲も受けなかったので、市内の伝統的な街並みや歴史的建造物は失われずにすんだ。
 青森空襲で校舎を失った官立青森師範学校と青森医学専門学校が弘前に移ってきた。青森師範学校は時敏・朝陽両国民学校の校舎を借用して授業を再開した後、弘前城内にあった旧第8師団武器庫に移転した。1949(昭和24)年5月、官立弘前高等学校・青森師範・青森医専を基盤として新制弘前大学が開学した。こうして「軍都」は「学都」に生まれ変わっていった。
 旧第8師団の施設の一部は弘前大学の校舎などに転用されて生き残り、戦後の「学都」を支えてきた。しかし、大学施設の整備が進むにしたがい旧陸軍の施設は次々に取り壊され、戦後70年を経てほとんどが姿を消してしまった。第8師団長官舎(弘前市役所敷地内に移築)、弘前偕行社(かいこうしゃ)(陸軍将校らの親睦・厚生施設。弘前厚生学院記念館・弘前市御幸町)は「軍都」の面影を伝える貴重な遺構である。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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