津軽の街と風景

 

鯵ケ沢の戦争「遺産」=13

2014/10/20 月曜日

 

隼の捕獲に関する情報を伝える丸二(まるに)塩屋文書。右は隼を発見したことを伝え、左は発見できないことを掲載したもの=1904(明治37)年7月11、13日、鯵ケ沢町教育委員会提供
監的壕(トーチカ)=2013(平成25)年6月13日、鯵ケ沢町教育委員会提供
山田野演習場=明治末期~大正初期・鯵ケ沢町教育委員会提供

 ▽隼(はやぶさ)と伝書鳩
 鯵ケ沢町は日露戦争以降の戦争の記憶を留める町である。
 1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦を布告した翌日深浦村(現深浦町)の艫作(へなし)崎沖で酒田から小樽に向かう商船・奈古浦丸(なこのうらまる)がロシアのウラジオ艦隊に撃沈され、乗組員2人が溺死した。目の前に広がる海が戦場になった。
 7月11日、深浦の駐在所から鯵ケ沢警察署に「艫作の椿山に隼が住んでいるとの情報を得た」との報告があった。8日の「軍事上必要に付き隼を捕獲せよ」との署長からの通達への回答であった。
 陸軍には情報戦のために隼が必要だった。当時日露両軍は情報伝達手段として伝書鳩を使っていた。帰巣本能を利用して鳩にメモを運ばせるのである。敵の通信を妨害するため、隼に伝書鳩を襲わせる計画である。
 鯵ケ沢町教育委員会には4通の駐在所報告が収蔵されている。情報戦については正史に書かれることが少なく、伝書鳩関係の資料は貴重である。
 ▽山田野演習場
 このように、活用されるのを待っている資料もあるが、実は鯵ケ沢町は戦争にまつわる歴史遺産の活用では青森県でも先進的な自治体なのである。陸軍山田野演習場の諸施設がその第一歩である。
 1898(明治31)年、日露戦争を前に弘前に陸軍第八師団が創設された。日露戦争終結後の1906(明治39)年、第八師団の訓練施設として岩木山麓北方に広がる台地上の原野に山田野演習場が設けられた。広さは約5千ヘクタール、1909(明治42)年頃には廠舎(しょうしゃ=演習用の兵舎)も建てられた。
 演習場内の二ツ森山の頂上に分厚いコンクリートで覆われたドームのような施設が残されている。「監的壕(かんてきごう)」と呼ばれ、砲撃訓練の際に着弾を観測して結果を仮設電話で知らせるための施設である。ユニークな形なので「ふるさと学習」の子供たちに人気がある。監的壕は別に1か所が残存する。
 ▽記憶を後世に
 鯵ケ沢町の山田野演習場跡地には、このほかにも廠舎1棟・衛兵所・将校宿舎などが現存している。そのうち「9号廠舎」は1911(明治44)年の廠舎火災後に建築されたもので、築後百年を経て今も倉庫として使われている。貴重な建築である。記録を残すため、老朽化した廠舎の測量がまもなく開始されるという。
 鯵ケ沢町教委では2006(平成18)年から山田野演習場の調査を開始し、演習地の全体規模や残されている遺構の調査を進めてきた。その成果は小学校の「ふるさと学習」や教職員の「ふるさと研修会」の教材として活用されている。
 山田野演習場を懐かしむ元兵士も、もう僅かになった。戦争の記憶を留める資料や遺構を未来に伝えていこうとする鯵ケ沢町の取り組みに注目していきたい。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

 

 ※今回紹介した廠舎跡の建物や施設はいずれも個人の所有地にありますので、見学等の場合は許可を得てからにしてください。みだりに立ち入ることのないようお願いします。

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北畠氏は浪岡の誇り=12

2014/10/6 月曜日

 

浪岡の旧街道(工藤清泰作成)
北畠まつりの武者行列。下町付近= 2010(平成22)年8月17日・浪岡事務所撮影
浪岡八幡宮の神輿渡御。下町付近=1938年「浪岡町史2」より転載
中世の里の殿堂「中世の館」=2014(平成26)年9月26日・工藤清泰撮影

 ▽浪岡七曲
 浪岡の中心街は、現在でこそ国道や県道・市道が縦横に走る街並みを呈するが、戦前までは「浪岡七曲(ななまがり)」といって、羽州街道・大豆坂(まめさか)街道・乳井通りなどが交錯する煩雑な街路を形成していた交通の要衝であった。
 ちなみに、現在の地図に古い道を重ね合わせると、七曲の意味が理解できると思う。また新たな道がいかに多く造られたかわかるというものである。
 ▽浪岡の土地柄
 浪岡の地は、古来津軽と外浜や西浜との境界・津軽山辺郡を形成、蝦夷島へ向かう要害の土地柄であったまた室町幕府は貴種である北畠氏を浪岡城に配したことも、北方への守りを固める意図があったかもしれない。
 浪岡の人々は、北畠氏が浪岡城にいたことをとても誇りに思っている。明治の王政復古を機に、1882(明治15)年には「北畠古城跡碑」や「北畠累代の墓」を建立して浪岡城北畠氏を顕彰。大正になると浪岡城内館を公園整備して後に観桜会を開催。
 さらに昭和も後半になると浪岡夏祭りを「北畠まつり」に名称変更。そして史跡浪岡城跡の公有化を1969(昭和44)年から始め、2014(平成26)年でほぼ100%達成している。このように明治・大正・昭和・平成と150年近くにわたる累々とした浪岡北畠氏顕彰の営みがあったのである。
 ▽浪岡八幡宮県社昇格
 浪岡城の西の押えとなっている浪岡八幡宮は、793(延暦12)年、坂上田村麻呂創立と伝えられ、弘前藩二代津軽信枚が1614(慶長19)年に再建した時の黒漆塗り棟札(市指定文化財)が残る、由緒ある鎮守の杜である。
 1938(昭和13)年に八幡宮は長年の運動が実を結び、郷社から県社に昇格する栄誉を受けた。その時の祝賀パレードを写した記念絵葉書が各家庭に残っている。『浪岡八幡宮御神輿渡御』と題された絵葉書は、八幡宮を出発し、当時のメーンストリートであった茶屋町・仲町・下町を通り、浪岡駅までの往復を撮影したもので、12枚セットとなっている。
 ▽中世の里
 八幡宮県社昇格の2年後、1940(昭和15)年の紀元節前日である2月10日に、浪岡城跡は県内初の国史跡となり、さらに同年6月1日には浪岡村が町制を施行して正式に「浪岡町」が誕生した。
 ここに地域住民の精神的柱石となった八幡宮
の価値、歴史的存在として浪岡城の国の認知、自治体としての浪岡町の成立は、三位一体となって、現在の「中世の里・浪岡」の礎になっていったと考えることができる。
 ちょうど4半世紀前、「ふるさと創生」が叫ばれる中で、浪岡町は中世の里づくりに邁進(まいしん)した。歴史・文化の殿堂として「中世の館」を建設し、イメージキャラクター「ばさら君」は、本郷だるま凧をベースに、中世の烏帽子を被った子どもであったが、今や23歳の青年に成長した。
 2005(平成17)年、浪岡町は青森市と合併した。あれから早10年を経過しようとしている中で、浪岡駅前をはじめ浪岡事務所(旧役場)周辺付近も整備が進みつつある。人口減少と地域活性化対策に取り組もうとして「地方創生」の掛け声が強くなる昨今、「ばさら君」には、もうひと働きしてもらわなければならないようである。
(元浪岡町史編集委員 工藤清泰)

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板柳の歴史語る建物=11

2014/9/22 月曜日

 

板柳町役場と公会堂=昭和戦前期・青森県史編さん資料
郷土資料館に移築された旧役場庁舎=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
旧役場庁舎2階の内装=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
板柳駅=昭和戦前期・青森県史編さん資料

 ▽小学校から公会堂へ
 板柳町立郷土資料館は、歴史ある板柳町を象徴する建物として紹介されることが多い。資料館の一部に、旧板柳尋常高等小学校の玄関口が移築保存されているからだ。小学校の校舎は、1899(明治32)年に現在の町役場がある場所へ新築されたもの。2階にベランダのついた洋館風の建物は目を引いた。
 1927(昭和2)年小学校が移転新築されるのに伴い、校舎を公会堂に改築し、一部を町役場として利用することになった。翌年9月に町役場、10月には公会堂が完成し、落成式が行われた。
 青森市や弘前市などの大きな市には、政治集会や市民の集会場所として公会堂が設けられた。しかし、ほとんどの村は人口と財政規模の観点から、公会堂を建てるのは難しかった。それゆえ通常は小学校が村民の集会場所となり、政治家たちの会合や村の行事に使われた。村にとって小学校は、役場と同様、村民が集まる地域の大切な場所だったのである。
 村と異なり町の規模になると、大鰐町のように公会堂を有する事例もあった。しかし板柳町には公会堂がなかった。このため小学校の移転が決まった際、かねてから地域の拠点だった小学校舎が、そのまま公会堂となり役場になったわけである。
 ▽町役場から資料館へ
 公会堂となった小学校舎は、戦後も長く使用され続けた。1938(昭和13)年に開校した板柳町立実科高等女学校(現在の青森県立板柳高等学校)が、敗戦後の1948(昭和23)年から、1953(昭和28)年まで公会堂を使用していたこともあった。元々学校の校舎だったので、一時的に先祖返りを果たしたと言えるだろう。
 公会堂は役場が同居し、町議会も開催された建物だった。このため総じて町民は役場と呼んでいた。しかし1972(昭和47)年、築70年を超える明治半ばの建築物は老朽化が避けられず、役場新築計画が浮上。建物は1974(昭和49)年までに解体され、現在の庁舎に替わった。
 小学校時代から町民の集会場所であり、役場や公会堂として議会や町民に活用され、高校の校舎にも代用された建物を、町民は大いに惜しんだ。このため町では建物の解体に際し、正面玄関口を2階のベランダ部分も含め、現在の板柳町立郷土資料館に移築した。町民が当時の面影を偲(しの)べるよう配慮したわけである。
 資料館に移築された旧役場庁舎は、一部とはいえ明治期の趣を残す貴重な遺構である。中に入ることもできるので、訪れたことがない方は資料館に足を運んでほしい。
 ▽板柳駅
 旧役場庁舎以外にも、板柳町には歴史ある建築物が存在する。見過ごされがちだが、実は板柳駅が貴重な建築物なのである。
 板柳駅自体は、陸奥鉄道(後に国鉄の五能線となる)が開通した1918(大正7)年9月に開業。現在の駅舎に新築されたのは1934(昭和9)年1月である。これ以降、部分的な改築改良はあったが、基本的に駅舎本体は当時のものである。今年で築80年となる建築物なのだ。
 五能線は板柳町の発展に大きく寄与した。その意味で駅舎は板柳町の近代化を支え、町の発展を見守ってきたことになろう。旧役場庁舎同様、駅舎は板柳町の貴重な歴史的遺構であり、町民の大切な財産なのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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江戸前期に新田開発=10

2014/9/8 月曜日

 

五所川原堰(五所川原市湊周辺)周辺には国重要文化財指定の豪農平山家住宅がある。平山家は代々五所川原堰奉行を勤めた(筆者撮影)
三新田神社(つがる市木造)4代藩主津軽信政が新田開発の成就を祈り、延宝年間(1673~81年)に現在地に移転させたもの。代官所のすぐ北側にある(筆者撮影)
木造代官所・御仮屋跡(つがる市木造)周辺に土塁を築き堀を巡らし、土塁の内側には松を植樹し、壮大な規模だったという(筆者撮影)

 現在の五所川原市・つがる市地方は「新田地方」とも呼ばれる。この地方は江戸時代前期、新田開発が進展した地域である。現在のような青々とした水田が広がる光景は、この時期にかたち作られたものであった。
 戦国時代が終わり、武力による領土拡張が出来なくなると、全国の諸藩は新田開発による年貢増強を盛んに行ったが、弘前藩はその中でももっとも新田開発が進んだ藩の一つであった。弘前藩の新田開発は、いわゆる「小知行派(こちぎょうはだち)」と呼ばれる在地の有力者による小規模な開発から始まった(派とは新田を示す津軽地方独特の用語)。
 しかし、大がかりな水利工事を伴う開発は個人では限界があるため、17世紀後半には藩が直接指揮する大規模新田開発が積極的に行われるようになった。その成果として17世紀末には米の収穫量は、幕府から公認された表高4万7千石の5倍以上に達している。
 開発の中心は、広大な低湿地が広がっていた岩木川下流域であった。岩木川右岸では五所川原新田(15ケ村 開発時期1665~76年)・金木新田(18ケ村 1698~1705年)・俵元(たわらもと)新田(8ケ村 1704~27年)、左岸では広須(ひろす)新田・木造新田(123ヶ村 1681~1727年)などの新田が開かれた。おおむね現在の五所川原市・つがる市両市にまたがる(村数は「平山日記」による)。
 このうち五所川原新田は、1665(寛文5)年から藩士鳴海勘兵衛が派立頭(はだちがしら=開発の責任者)となって開発が始められた。湊(現五所川原市)で十川をせき止め、そこに取水口を付けて取水していたが、十分な用水の確保が出来なかったためさらに約20キロ上流の現藤崎町白子から五所川原堰を掘削し、1691(元禄4)年に完成した。移住民は領内はもちろん、秋田・山形方面まで募り、家屋の建築材料を与え、3カ年間の食糧や農具を給与して便宜を図った(『青森県土地改良史』)。
 このような開発にあたっては、在地の有力農民が「人寄役(ひとよせやく)」や「堰役」に任命され、彼らの協力が不可欠だった。一方、広須・木造新田は1681(天和元)年から開発に当たらせた。水利はこれ以前から開削が進められていた土淵堰(どえんせき)を利用し、同年には末流である砂堰が完成している。1691~92(元禄4~5)年には広須新田から木造新田が分立したという(「平山日記」)。
 開発の進展に伴い、天和年間(1681~84年)には五所川原や木造(江戸時代には木造を木作とも表記)に代官所が置かれた。木造代官所には水利関係を管理する「土淵奉行」や、藩主が滞在する施設である御仮屋(おかりや)も設けられ、新田地方の拠点として機能した。代官所跡は1972(昭和47)年まで木造高校の敷地であったが、現在は公園になっている。
(青森県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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10年経て青森市誕生=9

2014/8/25 月曜日

 

市制施行後間もない頃の青森市中心街(明治中期・青森県史編さん資料)
浦町の国道通り(明治末期~大正初期・青森市史編さん室提供)
浦町駅の上り最終列車に別れを告げる人々(1968年7月21日・青森市市民政策部広報広聴課提供)

 1889(明治22)年4月1日、市制・町村制が施行された。青森県内では弘前のみが市制を布(し)き、1市5町165村で新制度がスタートした。県庁所在地の青森も、新制度の施行にあわせ、有力者たちが市制施行に向けた運動を展開した。しかし、結果として市制を施行するのは1898(明治31)年4月1日のことで、この時青森は「5町」のひとつとなった。
 青森が市制施行に向けてクリアすべき課題は、市制の要件を満たすべき「人口」の問題だった。具体的には周辺の村々を編入し、合併するという方策が採られた。1897(明治30)年10月1日、青森町は滝内村大字古川および浦町村と合併し、翌年に市制施行を遂げた。ただし、浦町村との合併は難航。一時、青森の市制施行は実現しないと噂(うわさ)されることもあった。
 青森町は、町村制施行後も町村合併を基調として市制の実現を目指していた。しかし、浦町村との間では、少なくとも1892(明治25)年からの4年間は結論を出せずにいたようである。そして1896(明治29)年2月、浦町村が提示した合併条件を青森町側が受け容(い)れたことにより、合併問題は大きく前進した。新聞も数年来の問題となっていた合併問題がついに落着したと報じ、青森町は合併を前提に内務大臣へ市制実施の申請書を提出することになった。
 一方、浦町村でも新年度からの「合併ありき」で、1896(明治29)年度の予算を編成せず、町会すら開かなかった。そのため、村長が郡役所に召喚され叱責を受けるというエピソードが新聞紙上に報じられた。当時の世論は、青森町と浦町村の合併、そして市制施行が目前に迫っていることを疑うことはなかったのである。しかし、そうした想いは打ち砕かれることになった。
 合併がご破算となったのは、浦町村側にかかわることで内務省がこれを認めなかったと推測される。実際に浦町村は態度を硬化させ、青森町との交渉の席につこうとせず、当時の工藤卓爾青森町長は「もはや温和な手段で合併は難しい」と知事に上申したという。浦町村が態度を軟化させ、交渉が再開したのは1897(明治30)年3月後半から4月にかけてのことと考えられよう。その結果、合併問題にひとまず決着がつき、これによって青森の市制が実現するに至ったのである。
 市制記念の祝宴会の席上、最後の町長となった工藤卓爾は「10年の希望を達成し、今日から3万の青森市民は市制の下に立つことになった」と述べ、挨拶(あいさつ)をしめくくった。こうして、市制・町村制の施行から約10年の歳月と紆余(うよ)曲折を経て、ようやく青森市は誕生したのであった。
(青森市市史編さん室長 工藤大輔)

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