津軽の街と風景

 

古くから愛された椿=39

2015/12/28 月曜日

 

椿山海岸 1968(昭和43)年5月4日撮影、青森県史編さん資料
椿神社に集う男女 1970(昭和45)年ごろ、青森県史編さん資料
第4回椿まつりでの歌謡ショー 1972(昭和47)年、平内町役場提供、『青森・東津軽の昭和』(いき出版)より転載

 古くから日本人に愛されてきた花のひとつに、椿(つばき)がある。交配、選抜による品種改良も盛んで数多くの園芸品種があるが、東津軽郡平内町東田沢、夏泊半島の北端に位置する椿山は自生の椿の北限として知られている。
 ここの椿はヤブツバキで、温暖な気候を好んで生育するツバキ科の常緑広葉樹である。日本の南部から中部にかけて分布し、主として海岸に面した傾斜地に群生する。東北地方へ入るに従って、その群生地は少なくなる。この夏泊半島の椿山は大小1万本余りのヤブツバキからなる巨大な群落で、「ツバキ自生北限地帯」として1922(大正11)年に国の天然記念物に指定されている。
 ▽椿は春の木
 津軽で採集されたなぞなぞ遊びに、「春の木、何の木?」というものがある。もちろん、答えは「椿」(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より。以下、『資料 津軽』と記す)。字画をなぞえらたなぞなぞであるが、そこには季節的な共感もうかがえる。
 柳田國男は1928(昭和3)年、「椿は春の木」と題したラジオ放送を行っている。そこで、日本海沿岸にぽつりぽつりと椿の自生地があることに触れ、自生北限として「天然記念物」に指定されたこの椿は、もともと人の手によって運ばれた「史蹟記念物」とでも呼ぶべきものではないかと指摘した。
 イタコの道具のなかに椿の木で造った才槌(さいづち)があることや、越中能登などの若狭の八百比丘尼(人魚の肉を食べて800歳まで長生きしたという逸話の尼)が植えたという言い伝えがあることなどを例にあげ、信仰を持ち運ぶ女人が椿をもたらしたと示唆する。椿が「霜雪を耐へ忍んで、春の歓びを伝へることに鋭敏であった」ため雪国には適していたのだろうという柳田の、その描写は鮮やかである。
 「雪が忽ち霽れて空が青くなりますと、此木の雪だけが滑つて先づ落ちて、日がてらてらとその緑の葉を照らします。(中略)旧三月中頃雪が降り止みますと、もうそろそろ椿の花は咲き始めます。さうして花の盛りが長かったのであります。小湊の椿山は、花の盛りには、緑と紅とがもり上がった様に見えて、それが日に照り水に映る風情は、すばらしいものだと土地の人もよく語り、又稀には書物にも書き伝えて居ります。」
 ▽椿明神伝説
 1795(寛政7)年にこの地を訪れた菅江真澄もまたこの椿山の景観をたたえ、次のように椿山の言い伝えを記している。
 上方から来た船乗りの男が土地の娘と恋に落ち、契りを交わした。娘は都人が髪の手入れに使うという椿油を男にねだり再会の約束としたが、1年また1年と待ちこがれても男の船は訪れず、心変わりを疑った娘は悲嘆に暮れて海に身を投げ、村人たちはその亡骸を横峰に埋めた。やがてやってきた男は娘の死を知り、血の涙を流して悲しみ、持参した椿の実を娘の墓のまわりに撒き、その椿が生い出でて林となった。この椿を手折ろうとする者があれば「きよげなる女」が現れ、ひどく惜しむのでみな恐れ、女の亡き霊を祀るようになったという(「つがろのおく」)。
 この椿山には現在も、椿神社があり、夏泊半島周辺を主として人びとの信仰を集めている。その神社の縁起を『平内御領村々堂開基』に見ると、明暦年間(1655~)に横峰嘉兵衛の妻に毎夜神が乗り移り託宣をしたことに始まり、椿大明神の鳥居を立て、1698(元禄11年)に社を建立したという。真澄の記した由来とは、異なる起源が記されているのである。
 昭和30年代には、近隣集落の女性たちが椿神社のさらに奥に朽ちていた社のようなものを移して祭祀を再開し、椿神社とは別に、石碑とお玉の像が建立されている。
 そして、昭和後期から平成の現在、椿山を紹介する印刷物では、話の大筋は菅江真澄の記録したものと同様ながら、異国から来た船乗りの男は横峰嘉平、土地の娘をお玉とした「悲恋のロマンス」伝説として紹介されていることが多い。椿神社の由来譚は、祭祀の担い手やとりまく環境の変遷によって、多様性を見せている(小池淳一氏『半島空間における民俗宗教の動態に関する調査研究』)。
 ▽北前船が運ぶ
 実は、異国の船乗りの男が土地の娘と恋をして椿を運んだとの内容の伝説は、秋田県の男鹿半島の能登山にも伝えられている。こうした伝承の背景には、北前船の定期的な廻航(かいこう)が前提にあったと推測できよう。常緑種である椿の葉の光沢ある鮮やかな緑は、海上の船乗りにも印象鮮やかな標(しるべ)となったようだ。
 深浦町舮作崎にも椿山があり、ここが日本海沿岸における自生北限の地にあたる。この椿山について、「この山の沖通りに帆船が深浦へ入る時は、椿の花を見て、船中で神酒をあげて拝んだものだ」との採集記録がある。この山の高所に薬師堂があり蛇が群生しているが、薬師様の使い者だといって殺さず、またやはり、椿は花一本でも折ってはいけないのだという(森山泰太郎「津軽の海村」『資料 津軽』所収)。
 ▽椿山のいま
 平内町では、1969(昭和44)年より椿の開花時期に合わせて椿まつりを行ってきた。2014(平成26)年より参加者体験型の磯遊びやホタテ拾いなどのイベントを加え、「ひらないの春まつり」として姿を変え今も椿山の椿は私たちの目を楽しませてくれている。
 柳田は「椿は春の木」において、「天然と信仰とは(中略)相誘ひ相傷け又は相結んで」いくものであり、「そのよい位なバランスの取れた点を、我々が風景と名づけて居るのであります」と述べる。地元の名勝に向き合うとき、その風景には私たちの歴史があるのだ。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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温泉施設を通じて交流=38

2015/12/7 月曜日

 

碇ケ関温泉会館 1970(昭和4545)年頃・青森県史編さん資料
平川に架かる三笠橋と柴田旅館、旅館の手前が共同浴場(明治末期・青森県史編さん資料)。碇ケ関村は秋田県北との関係が深い。この写真も大館郷土博物館を通じて大館市民から寄贈されたものである
温泉会館3階の食堂 1968(昭和4343)年・青森県史編さん資料
中の島児童公園にあったプール。左奥の建物は碇ケ関村役場 1961(昭和3636)年8月・佐々木直亮氏撮影・青森県立郷土館提供

 2006(平成18)年1月1日、碇ケ関村は平賀町、尾上町と合併し、新たに平川市碇ケ関となった。合併で村名が消えると、村時代の歴史は印象が薄くなりがちだ。今回は碇ケ関村の近現代史を振り返り、碇ケ関地区の個性と特長を考えてみたい。
 ▽温泉保養地
 碇ケ関村は平川沿いと山間部に温泉施設が集中していた。隣村の大鰐村や蔵館村(いずれも現大鰐町)に比べ、遊興的な温泉郷というより温泉保養地としての性格が強かった。実際に日清戦争後の1896(明治29)年、陸軍が傷病兵を社会復帰させるために転地療養所を設置している。
 転地療養所は平川に架かる現在の三笠橋の近くにあった。付近には柴田旅館や葛原旅館など、古くからの温泉旅館が並んでいた。傷病兵が多いときは、これらの旅館も療養所として活用されたという。
 ▽プールと洗濯場
 平川に架かる三笠橋と朝霧橋の間の河原には温泉が湧いていた。この温泉を利用して洗濯場が造られた。洗濯場は冬場もお湯で洗濯ができるため村の主婦たちに重宝がられた。家庭を預かる女性たちが多数集まったことから、洗濯場は女性たちの格好の社交場となった。今でも洗濯場での楽しい思い出を語る女性たちは多い。
 1956(昭和31)年、洗濯場の隣りに子ども用の温水プールが造られた。プールは平川河川敷に造られた中の島児童公園の一部だった。当時、学校にプールはほとんどなく、温水プール自体が大変珍しい存在だった。このためプールは子どもたちに大人気で、常に「芋の子を洗う」状態だった。村外の子どもたちが多数集まってきたから、地元の子どもたちは平川で泳ぐことも多かったという。
 プールがあまりにも人気だったため、碇ケ関村では60万円の予算をかけ、25メートルで6コースを持つ大きなプールを造り、1959(昭和34)年7月30日にプール開きを行った。河川敷のプールは碇ケ関村を象徴する存在だったのである。
 ▽水害と復興
 現在は平川上流のダムで水量調節をしているため、平川が氾濫することはほとんどなくなった。しかし、それまでの平川は氾濫を繰り返し、碇ケ関村内に大きな被害を及ぼした。特に1963(昭和38)年と1966(昭和41)年の水害は、河川敷の公園やプールを濁流に呑(の)み込み、三笠橋や朝霧橋を押し流した。長年村民に親しまれてきた共同浴場の大湯(下の湯)も甚大な被害を受けた。
 このため村当局を中心に新たな形で復興が進められた。まず1967(昭和42)年、郵政省簡易保険保養センターの敷地内に村営の温水プールができた。村では1958(昭和33)年に温泉統合を果たしており、湧出量を確保できたことが幸いした。
 村民生活に欠かせない三笠橋は1967(昭和42)年12月、橋桁が高く橋脚のない鉄筋の吊(つ)り橋として生まれ変わった。2年後の12月、朝霧橋も同様に架け替えられた。この前後数年の間に他の橋も永久橋として架け替えられた。
 ▽温泉付き公民館
 1968(昭和43)年12月、碇ケ関村の中心街を走る国道沿いに碇ケ関温泉会館が開業した。木造だった大湯に代わる新たな共同浴場は、鉄筋コンクリート造りの4階建てだった。しかし1階の浴場は国道裏側の河川敷に沿って建てられたので、国道側の正面玄関は2階となり、売店や事務室があった。表からは3階建てに見えるが、裏から見れば4階建てというわけである。
 3階は食堂で、風呂上がりに仲間と一杯飲んで楽しむ人も多かった。4階は大広間であり、村の行事や催事に活用され、ここで結婚式を挙げた村民もいた。いずれも営業時間は午前8時から午後10時までで、1階の浴場が午前5時から午後10時だった。温泉会館はほぼ終日営業していたわけだ。屋上では地元の人びとで結成したバンドが演奏したり、夏にはビアガーデンが開催された。温泉会館は常に村民が集まる公民館的役割を果たしていたのである。
 温泉会館が落成した頃は、自家用車が普及し始めていたとはいえ、まだ鉄道やバスが移動手段の主役だった。このため温泉会館の2階は弘南バス待合所を兼ねていた。会館前から弘前や黒石行きのバスが発着した。秋田県境にある碇ケ関村の温泉施設には、秋田県北からも多数の利用客が集まった。村を象徴する施設は、河川敷のプールから温泉会館へと移り変わったといえるだろう。
 ▽碇ケ関の象徴と特長
 温泉会館全盛期には、風呂上がりに食堂で飲食した人びとが、それには飽きたらず、三笠食堂をはじめ、会館周辺の飲食店などに立ち寄って楽しんだという。しかし、35年を経過した温泉会館は老朽化が目立ってきた。このため2003(平成15)年6月10日、三笠橋近くの平川沿いに新しく現在の温泉会館が開業した。旧温泉会館は農協の支店として活用されたが、2007(平成19)年に取り壊された。
 現在の温泉会館は、かつて転地療養所があった場所に建っている。しかし浴場の利用が主で、娯楽的要素の強かった旧会館時代とは違う雰囲気だ。これは2005(平成17)年7月29日、碇ケ関駅近くに温泉交流館の御仮屋御殿が開業したことを考慮せねばならない。道の駅いかりがせきに併設し、自家用車で駆けつけ、買い物や食事もできる施設は村民にも魅力的な施設だったのである。
 しかし、温泉施設を通じた交流は歴史にちなんだ碇ケ関地区の特長といえよう。現在の温泉会館も、転地療養所、河川敷のプール、旧温泉会館へと至る歴史の重みを持っている。道の駅とともに、碇ケ関の人びとが交流する場として活用されることを期待したい。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

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「青森」に関わる仮説=37

2015/11/23 月曜日

 

【善知鳥神社の沼】 1955(昭和30)年初頭・青森県史編さん資料
【明治末期の堤川】 堤橋より国鉄の堤鉄橋と八甲田山を望む・青森県史編さん資料
【青森発祥の地付近】 旧米町にあった日本勧業銀行青森支店の周辺。同支店は道路整備のため建物が半分となり、現在は孔雀苑となっているが、銀行時代の面影を残している。2015(平成27)年10月23日・筆者撮影
【現在の善知鳥沼】 2015(平成27)年10月23日・筆者撮影

 ▽堤弾正の「荒川開削」
 最近の研究によると、藩政時代に「青森」と名付けられた町が陸奥湾沿岸に誕生する以前、青森市街地東部の堤川の河岸に、堤浦を核とした港町の存在があらわになってきた。そして、この一帯を支配していたのが堤弾正という人物であった。堤弾正は謎の多い人物であるが、さらに彼の事績として知られる「荒川開削」のエピソードもまた謎に満ちている。
 このエピソードは青森市の歴史を綴(つづ)るさまざまな書物に載っており、いわば「『青森』前史」の有名な一コマといっていいものである。ここでは、まず『青森市史』第10巻社寺編(1972年)の記述から、その内容を簡単に紹介することにしよう。
 現在、善知鳥神社の境内にある善知鳥沼はかつて安潟といい、堤川の上流にあたる荒川がそこに注ぎ込み、周囲が5~6里にもおよぶ大きなものであった。ところが、堤弾正が荒川を開削して流路を変え、堤川に流したことにより安潟の干潟化が進み、わずかに善知鳥沼に往時の痕跡を留(とど)めるばかりになったのだという。
 さて、このくだりについて、安潟は1644(正保元)年に江戸幕府が提出を求めた国絵図「正保国絵図」の控えの写しである「陸奥国津軽郡之絵図」に、青森村と沖館村との間に描かれる「やすかた」という池沼にその面影を残しているようだ。
 一方、堤弾正による荒川開削については、史料を繰ってもその記録を見いだすことはできない。しかし、この地の夏を彩る青森ねぶたの素材になるなど、一般に膾炙(かいしゃ)した歴史ストーリーであることは間違いあるまい。このギャップはどう説明すべきか。
 ▽「荒川開削」は仮説
 実は、堤弾正による荒川開削は、歴史史料によって実証的に確定された歴史的事実ではないのである。1909(明治42)年に刊行された『青森市沿革史』の編者葛西音弥が、かつての安潟
が小さくなった理由として考えた仮説であり、そこにはまったく史料的な根拠はなかったのである。
 この仮説に関する評価は、まず1934(昭和9)年に小友叔夫が言及している。彼は、開削年代とそのルートについては否定的で、特にルートについては「実地の調査もせず、地勢をも弁へざる机上の空論」と断じているが、開削そのものにつては肯定的に評価している。さらに、1958(昭和33)年には肴倉弥八が「堤弾正が横内・鏡城(横内城―引用者注)の外廓(がいかく)に荒川河を開さくしたという説には賛成しかねる」と述べている。
 もちろん、両氏の見解も何らかの歴史学的な根拠があってのものではなかった。その後はこの仮説に関して論じられることもないまま(検証する手だてがなかったとも言えよう)、ついに仮説は通説化されていくことになった。さきの『青森市史』社寺編においても、「史家は善知鳥沼の縮小の原因は、天変地異の災害によるものでなく、人為によるものであるとみなしている」と、葛西の仮説を肯定的に紹介している。
 ところが、2010(平成22)年から翌年にかけて、駒込ダム建設所の方々が「理科系」の視点からこれにアプローチし、堤弾正によって開削されたと考えられる地点では、自然地形が改変された形跡がないと結論づけた。つまり、安潟(善知鳥沼)の干潟化と荒川開削には、何らの因果関係も見いだせないことになる。
 堤弾正による荒川開削は、「歴史のない町」と自ら認めてしまう傾向にある青森市民にとって(『平成24年度第3回青森市民意識調査』)、数少ない「歴史ロマン」として魅力を感じるのかもしれない。しかしながら、これは歴史的な背景を持ったものではないのである。
 ▽仮説の展開と地名伝承
 一方、葛西は自説をさらに展開させていた。荒川の開削により安潟の干潟化が進んだものの、藩政時代にこの地に新しい町づくりが始まった時点においても、いまだ辺りには池沼があったのだと説く。そこで現在の本町2丁目付近にあった「青森山」を切り崩し、青森町の中心部となる米町、大町、浜町を造成したと結論づけた。
 ただし、「青森山」について、その存在を示す記録や伝承に、まだ私は触れたことはない。つまり、かつて安潟と呼ばれた大きな湖沼があった
地に、新たな町「青森」が誕生したということを合理的に説明しようと
して立てた仮説が「荒川開削」であり、「青森山」であったと理解したい。
 青森山はこの後青森の地名伝承と結びつくことになる。地名伝承そのものは藩政時代からあり、これが「青森縁起」と名付けられ『青森市沿革史』の編さん時点までは多少の読み替えはあるものの、ほぼ藩政時代の伝承の姿で継承されてきた。
 ところが、1910(明治43)年5月の青森大火以降、大正~昭和の初め頃と見立てているのだが、「青森山」が地名伝承の核心部分「青い森(丘)」に置き換えられることになった。そして、現在青森山があったとされる場所は「『青森』発祥の地」として知られている。しかし、そこは本来の地名伝承とはまったく縁もゆかりもない場所なのである。
 さらに、現在私たちが目にする耳にする地名「青森」の由来には、もうひとつ大きな誤伝を含んでいた!…これはまた別の機会に。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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県都郊外の町村の歩み=36

2015/11/2 月曜日

 

上北鉱山の架空索道「鉄索(てっさく)」 1963(昭和38)年1月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
酸ケ湯温泉から雲谷まで運行されていた馬そり 1965(昭和40)年2月18日・小山内文雄さん撮影・『写文集 愛しの昭和 青森市』にも掲載
津軽新城駅 昭和40年代・『日本の駅』より転載
奥内海水浴場 1967(昭和42)年・青森市提供・『新青森市史 通史編第4巻 現代』にも掲載

 ▽市町村合併
 青森市に住む年配の方々なら、かつて「東北本線の南は田んぼばかりだ」という言葉をよく聞いたと思う。東北本線(現青い森鉄道)の南側には、昭和の大合併で青森市域となった筒井町や荒川村などの町村が連なっていた。いずれの町村も水田耕作を中心とする農村だった。
 今日の青森市郊外を構成している町や村の歴史は、実はあまり知られていない。しかし、どこの町や村にも歴史は確実に存在する。ただ、現在の青森市民が意識しなくなっただけである。
 1955(昭和30)年前後に実施された昭和の大合併前、青森市の東部地区には東岳村、原別村、野内村があった。南部地区には筒井町のほか、大野村、浜館村、横内村、荒川村、高田村があった。西部地区には滝内村と新城村があり、北部地区には奥内村、後潟村があった。
 ▽青森市東部
 青森市を代表する温泉地の一つに浅虫温泉がある。実は同温泉は青森市最東部の野内村にあった。「東北の熱海」と異名をとり、全国的に名前を知られた浅虫温泉だが、有名になった最初の契機は、他ならぬ東北本線の開通である。
 移転前の野内駅周辺には、1906(明治39)年にイギリス資本のライジングサン会社が設けた石油貯蔵タンク基地が、今もずらりと並んでいる。また、天間林村(現七戸町)にあった上北鉱山からの銅鉱と東岳からの石灰岩が、それぞれ架空索道(ロープウエー)によって野内駅と野内港に運ばれていた。
 どちらの索道も現在は存在しないが、かつて野内村は温泉と天然資源の供給地として村勢を維持していた。このため青森市との合併に反対する声が強く、合併論議は紛糾した。最終的に青森市と合併したのは1962(昭和37)年であった。
 ▽青森市南部
 青森市内においしい水を供給する横内浄水場は、文字通り当初は横内村に属していた。1909(明治42)年の完成で、全国では13番目。青森県内では初めての浄水施設である。今でも機能を果たしているので歴史的に重要な施設といえるだろう。
 同じ南部地区の荒川村には、国民温泉第1号に指定された酸ケ湯温泉があった。酸ケ湯温泉は、戦前の青森市を紹介する絵はがきなどに頻繁に登場していた。このため県外の人びとは、今も昔も青森市の温泉と思っていただろう。
 道路が整備された現在、自動車で通年行ける酸ケ湯温泉だが、かつては冬から春にかけて馬そりが運行されていた。1965(昭和40)年の酸ケ湯温泉の案内書によれば、酸ケ湯から雲谷まで運行され、5時間を要したという。
 ▽青森市西部
 新青森駅に新幹線が延伸されて以来、青森市の西部地区は注目されることが多くなった。しかし、ここでは隣駅の津軽新城駅に注目したい。開業日は青森~弘前間に奥羽本線が開通した1894(明治27)年12月1日である。1909(明治42)年に開設された北部保養院へ通う人たちが利用した大事な駅だった。北部保養院は今も松丘保養園として重要な役割を果たしている。また駅近くにはスキー場が設けられ、多くの青森市民が通って楽しんだ。スキー場は現在の新城中学校付近にあった。
 津軽新城の駅舎は、開業後に改築されたと思われるが、現段階で詳細な年代が不明である。しかし残された写真資料から、少なくとも昭和40年代の駅舎が現在まで使用されていることがわかる。当時の面影が残された歴史的に貴重な駅舎といえるだろう。
 ▽青森市北部
 青森市の北側に位置する奥内村や後潟村は、いずれも陸奥湾沿いにある村だった。このため陸奥湾との関わりが深い。その中で奥内村の海岸地帯は、一時期海水浴場としてにぎわっていたことがあった。
 海水浴場は1963(昭和38)年7月、青森市立奥内小学校の敷地内に設けられた。奥内小のみならず、学区内の児童生徒の体力向上と健康増進のために、親たちの願いによって設けられた。海岸地帯に敷地のある奥内小学校らしいが、実は砂浜を有する学校は大変珍しかったのだ。
 1967(昭和42)年、合浦公園の海水浴場が海水汚染で閉鎖された際、奥内海水浴場には市内外から多くの人びとが集まった。海水浴場はPTAなど、奥内小学校を取り巻く人たちが維持と管理を行った。地域が支えた海水浴場だったのである。
 しかし奥内の海水浴場も海水汚染がひどくなり、1972(昭和47)年に閉鎖された。その後、砂浜は護岸されホタテ養殖場へと変わった。1970年代以降、学校内にプールが建設され始め、1978(昭和53)年には奥内小学校にもプールができた。
 ▽郊外の歴史
 地域に残された歴史資料は、各地域の中心地区に多く存在する。必然的に市町村史の記述内容は中心街に比重が置かれる。それは青森市も同様である。しかし青森市の郊外を形成する町村にも、重要な歴史があることは理解いただけたと思う。「郊外=田舎=何もない」と一言で片付けてしまうのではなく、いろいろと歴史をひもといて欲しい。
 昭和・平成の大合併で各自治体の面積は飛躍的に拡大した。合併で消えた町村は、新市の郊外として位置づけられることが多い。それ故、合併前より注目されなくなり、旧町村時代の歴史も忘れられていってしまう。だからこそ、改めて郊外の歴史に着目したい。歴史を知ることで、地域が抱える問題が明らかになることは多いからである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園 裕)

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狩猟生活変えた「垂柳」=35

2015/10/19 月曜日

 

田んぼアート「スターウォーズ・フォースの覚醒」 2015年7月22日・陸奥新報社提供
垂柳遺跡の水田跡 1983(昭和58)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供
水田面に残された足跡 1985(昭和60)年・青森県埋蔵文化財調査センター提供

 ▽田んぼアート
 田舎館村の田んぼアートが今年「サントリー地域文化賞」を受賞した。田んぼをキャンバスとする新たな文化を生み出し、地域から全国へ広げたことが高く評価された。また、映画会社とコラボしたアートは日本のみならず外国にもSNSなどで発信され、外国人観光客も多数訪れ、青森県の観光名所の一つとなっている。
 田んぼアート第2会場はそのきっかけの一つとなった国史跡垂柳遺跡に近接している。
 ▽学史的な大発見
 垂柳遺跡は、1982(昭和57)年から翌年にかけて、国道102号バイパス建設に伴い青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査を行い、656枚の水田跡と多量の土器・石器などを発見した。出土した遺物から紀元前3世紀、弥生時代中期の遺跡であることがわかった。弥生時代の水田跡は東北地方初の発見で、それまで多くの考古学者が東北地方には弥生文化が到達していなかったと考えていたことから、学会に衝撃がはしった。その後、垂柳遺跡は2000(平成12)年に国史跡に指定されている。
 垂柳遺跡の存在は明治時代から知られており、1958(昭和33)年には東北大学の伊藤信雄により初めての発掘調査が行われ、土器とともに炭化した米などが出土し、伊藤信雄は調査成果から弥生文化が東北地方に及んでいたことを述べていた。
 ▽水田に適した土地
 垂柳遺跡は津軽平野の南東、八甲田山系から流れる浅瀬石川によって造られた扇状地に立地する。この扇状地の堆積物には浅瀬石川の上流にある八甲田や十和田湖が古い時代に噴火して堆積した火山灰が混ざり、ミネラルに富んだ土壌がつくられている。
 1982(昭和57)年以降も田舎館村教育委員会などにより発掘調査や範囲確認調査が行われ、遺跡の範囲も13万平方メートルに及ぶ大規模な水田跡であることがわかった。遺跡付近の地形は、東から西に向かって緩く傾斜している。東から西に向かって水田を広げていたと考えられている。
 近年の研究から、津軽平野の弥生時代の水田跡の多くは、傾斜が緩やかな所に立地する傾向にあることがわかった。当時、開墾する道具や揚水技術も未発達であったため、開墾しやすい地形を選んで造った可能性が指摘されている。
 水田跡には湿地帯が隣接している。河川や水路から直接水田に水を入れずに、いったん湿地帯に導いて水を温めて冷害を防ぐ工夫をしていた可能性が指摘されている。
 ▽引き継がれる縄文
 紀元前10世紀頃、九州地方北部で始まった稲作が、日本海を経由して青森へと伝わったと考えられている。水田跡は大畔(おおあぜ)・小畔(こあぜ)が整然と配置された灌漑(かんがい)水田で、水路跡から農耕具である木製の鍬(くわ)などが出土した。
 一方で石器には矢尻である石鏃(せきぞく)、木製の斧柄(おのえ)と組み合わせて使用する磨製石斧(せきふ)、植物などの加工などに用いたと考えられる磨石(すりいし)・叩石(たたきいし)などが、土製品では土偶が出土している。石器や土偶から縄文時代以来の伝統をもつものも使用していたことがわかった。
 ▽狩猟から農耕へ
 水田跡には無数の足跡が残されており、集団で農作業を行っていたと考えられている。また遺跡の土壌分析により、ハンノキなどの林が生い茂る湿地を開墾して水田を造ったことがわかった。垂柳遺跡の周辺には、五輪野遺跡、前川遺跡など同時期の水田跡が発見されており、灌漑水田による農耕を基盤として多くの人々が周辺で暮らしていたと考えられている。しかし水田から得られる食料はそれほど多くなく、米のみで食料の基盤をつくることはできなかったという説もある。
 弥生時代以前の採集狩猟社会である縄文時代は、青森では約1万年以上ものあいだ続いたが、これは当時の環境に適応して醸成した社会といえよう。採集・狩猟を行い、クリやウルシの栽培など資源を管理し、他地域との交流・交易も盛んに行い、漆器製作など高い技術を持っていた。その集団の規模は弥生時代に比べ、小規模であったと考えられている。
 垂柳遺跡で始まった灌漑水田による農耕は、採集狩猟社会で生きてきた人々にとって大きな変容であった。しかしそれは青森県内全てで始まったわけではなく、そのまま採集狩猟社会を続けていた地域もある。いわば、垂柳遺跡とその周辺の人々は新しい社会を受容し、実践したパイオニアだった。
 ▽穀倉地帯へ
 垂柳遺跡の水田跡などから人々は約200年継続して水田を営んだ後、大規模な洪水にみまわれた。その後弥生時代には水田は造られず、人々は採集狩猟社会に戻ったと考えられている。次に水田が造られたのは古代で、以降津軽平野は穀倉地帯へと発展していく。特に田舎館村は1反当たりの米収穫量が何度も日本一となっている。
 1993(平成5)年から始まった「田んぼアート」は、水田をキャンバスにするという斬新な発想で始まり、今や世界に広がってつくられている。その発想の根源には弥生時代にこの地に生きた人々がもっていたパイオニア精神が受け継がれているのかもしれない。
(青森県県史編さんグループ主幹 伊藤由美子)

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