津軽の街と風景

 

五能線駆けたハチロク=24

2015/4/28 火曜日

 

深浦駅で撮影された五能線最後の蒸気機関車 1973(昭和48)年3月26日・山本千鶴子さん撮影・提供
海沿いの築堤をゆくハチロク 1970年代初期・白岩昭さん撮影・提供
五能線岩木川橋梁を渡る貨物列車 1971(昭和46)年・白岩昭さん撮影・提供

 西海岸地方にお住まいの方であれば、数年前まで鯵ケ沢町役場の裏手に、1両の蒸気機関車が置かれていたことを覚えているだろう。また「リゾートしらかみ」号などで五能線を旅された方の中には、途中のウェスパ椿山駅に、やはり蒸気機関車が1両展示されているのに気づいた方もいるだろう。どちらも同じ「8620」という形式の機関車だが、五能線の沿線に、この形の機関車が保存されていたことにはもちろん理由がある。
 8620形蒸気機関車、愛称「ハチロク」は、1914(大正3)年から製造が始まり、1929(昭和4)年までの間に、国鉄向けとして計672両が製造された機関車である。
 これ以前、1872(明治5)年10月14日に新橋と横浜の間で日本初の鉄道が正式営業を開始して以来、明治期を通じて日本は、外国から蒸気機関車を輸入して列車の運行に必要な機関車を確保してきた。それとともに、それらの優秀な機関車を研究し、日本国内でも機関車を製造できるように技術を蓄積している状況にあった。
 その後、明治の末に至って、それまで主力として活躍してきた輸入機関車が老朽化し、新しい機関車で代替する必要が生じた。そして国産の機関車が一定の性能を発揮出来ることが確かめられたことから、蒸気機関車の国産化技術の確立を目指して設計、製造された機関車がハチロクなのである。
 設計に当たっては、明治末期に輸入された機関車が参考とされた。ハチロクは日本の実情に合った性能で、全国の路線で使用出来るよう汎用性を追求して設計された。比較的平坦な路線での長距離運用に適した客貨両用の機関車でもあった。大正生まれのベテランであったが、蒸気機関車の最末期まで、全国津々浦々で活躍を続けるほど長く愛用されることとなった。
 五能線においてもハチロクは、蒸気機関車がディーゼル車に置き換えられる1973(昭和48)年まで、春夏秋冬365日、旅客貨物の別を問わずに列車を牽(ひ)き続け、沿線の住民に親しまれていたのである。
 深浦駅前の写真は、五能線が無煙化される日に撮影されたハチロク、58666号機の姿である。時代と共に原型から改造されてはいるものの、よく手入れされた車体は半世紀余の風雪をくぐり抜けてきたとは思えぬ美しさを保っている。前述の鯵ケ沢町役場に置かれていた48640号機も、この写真が撮影された同日まで、五能線で走り続けていたハチロクのうちの1両なのである。
 ちなみに番号を一見しても、なぜそうなるのか非常にわかりづらいと思われるが、58666号機は447両目、48640号機は341両目のハチロクとなる。これは8620形の製造が始まった時点で、既に8700形という別の形の機関車があったことから、番号の重複を避けるために、80両ごとに万の位の数字を1つずつ繰り上げて付番したことによるものである。
 48640号機は、海のそばという潮風が当たる場所であったことも災いして、かなり老朽化が進んでいた。だが、数年前にNPO団体の手で、弘前市の弘南鉄道新里駅に移設され、化粧直しを受けて、大正生まれのスマートな姿を今に伝えている。
 また、ウェスパ椿山駅に展示されている、もう1両のハチロクである78653号機も、同じNPO団体が五能線での動態保存を目指して搬入したものである。こちらは今にも走り出しそうな程に、手入れされた美しい姿を五能線の車窓から見ることが出来る。
 動態保存の実現にはハードルが高いのも事実である。しかし、春はりんごの白い花をかき分けるように、夏は海辺を青い波しぶきを浴びるように、秋は田面を黄金色の波にもまれるように、そして冬は鉛色の空の下で激しい地吹雪を突っ切って、四季折々の景色の中を颯爽と駆け抜けるハチロクの姿を再び見てみたいと思うのは筆者だけだろうか。
(弘前大学国史研究会員・石塚雄士)

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紙漉沢の長慶天皇伝説=23

2015/4/6 月曜日

 

旧長慶天皇御陵墓参考地 2006(平成18)年11月・筆者撮影
紙漉沢獅子舞 2014(平成26)年6月・筆者撮影
環境美化運動の様子 2012(平成24)年5月6日

 ▽陵墓参考地
 弘前市紙漉沢(旧相馬村)には上皇宮(じょうこうぐう)という神社がある。社殿の奥の急峻(きゅうしゅん)な山道を登っていくと、四方を柵に囲われた空間が現れる。その手前の木柱には、旧長慶天皇御陵墓参考地と記されている。
 「陵墓」とは、皇室の各種の墳墓の総称であり、被葬者については宮内庁によって定められている。それとは別に、宮内庁によって皇族の墳墓であるとされながら、被葬者が特定されていない陵墓を陵墓参考地という(外池昇『事典 陵墓参考地』)。紙漉沢の旧長慶天皇御陵墓参考地は、現在では参考地ではなくなっているため、「旧」を付けて通称されているのである。
 ▽長慶天皇の潜幸伝説
 長慶天皇とは、大正年間の研究によって在位が確証づけられ、1926(大正15)年に皇統に加えられるまで、即位の事実すら不詳であった天皇である。南北朝の動乱期に南朝3代目の天皇として即位したとされるが、晩年の状況はほとんどわからず、全国各地に潜幸伝説が生まれた。青森県内に限っても、南部町の恵光院(けいこういん)及び有末光塚(うばこうづか)や青森市浪岡の広峰神社、そして紙漉沢に長慶天皇終焉(えん)の地の伝説が残っている。
 伝説は現在に伝わる旧相馬村地区内の地名の由来にも大きな影響を与えている。例えば、紙漉沢という地名は、長慶天皇に同行した人物によって紙漉(す)き技術が伝えられた場所であるといい、同地区内の五所という地名は、長慶天皇の御所があったことに由来するなど、伝説に絡めた地名が多く存在する。また、地元に残る紙漉沢獅子舞は、長慶天皇に同行した人物が伝えたものであると伝えられており、伝説は様々(さまざま)に旧相馬村地区内の自己認識に影響を与えているといえよう。
 ▽御陵を目指して
 1882(明治15)年に宮内省(当時)が、被葬者を特定できないながら陵墓の見込みのある墳墓を「御陵墓見込地」というかたちで整理して保護することを決めた。1888(明治21)年に「御陵墓伝説参考地」という分類が加えられ、紙漉沢の「ウヘノウ堂(上皇堂)」は「相馬御陵墓伝説参考地」として決定された(相馬村誌編集委員会編『相馬村誌』)。
 これは、皇統に加えられるはるか以前に、長慶天皇を被葬者に想定して決定されたことになるが、それまで青森県令や宮内大臣に対して地元から度々(たびたび)上申があり、1888(明治21)年9月に諸陵助(諸陵寮次官)によって現地調査が行われた(『相馬村誌』)ことなどが決め手となったと思われる。1895(明治28)年には「御陵墓伝説参考地」は「御陵墓参考地」と改称された。
 その後、地元では御陵造営の気運が盛り上がったようである。詳細は不明だが、御陵の復元的な整備を目指したものだったのだろうか。地元出身の郷土史家である成田末五郎が、1934(昭和9)年に著した「長慶天皇御陵墓参考記」(『相馬村誌』所収)には、1905~06(明治38~39)年頃、外崎覚をはじめとする研究者の来訪や、多くの参拝者があり、「今にも御陵の造営が行われる」と、幼心に感じたことが述べられている。しかし、運動は下火になったようで、陵墓参考地の景観は、「有志で植えた数千本の桜もわずかに数本」という寂しい状態になってしまったようだ。
 相馬御陵墓参考地にとって、大きな契機となったのが1935(昭和10)年の臨時陵墓調査委員会の発足だった。同委員会は、陵墓や陵墓参考地に関する宮内大臣の諮問について答申することを目的として組織されたものだった。特に、長慶天皇の御陵の調査審議については、大きな役割を担ったようだ(『事典 陵墓参考地』)。
 当時、長慶天皇陵だとする宮内省への上申は百数十箇所を超えていたが、相馬陵墓参考地と、和歌山県の河根(かね)陵墓参考地(現和歌山県九度山町)については、可能性が最も高いと認識されていた。しかし臨時陵墓調査委員会の調査の過程で、現在の長慶天皇陵(京都市右京区)の地が注目され、1944(昭和19)年に長慶天皇嵯峨東陵として決定することとなった。それに伴い相馬陵墓参考地は廃止されることとなった。
 ▽地域の核として
 2012(平成24)年5月9日付けの「陸奥新報」に、相馬地区環境美化委員会が旧長慶天皇御陵墓参考地周辺の環境を整備した記事が掲載されている。地域の住民が40人ほど参加し、アジサイや桜を植えたとあるが、参考地廃止から70年を経過した現在であっても、旧陵墓参考地を大切に思う地元の人々の気持ちは途切れることなく続いているようだ。
 今後も、旧相馬村地区の人々にとって、伝説とロマンに彩られた旧陵墓参考地は、地域を結節させる核であり続けるのではないだろうか。
(弘前市教育委員会文化財課・小石川透)

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遊興地となる浅虫温泉=22

2015/3/23 月曜日

 

馬場山から見た湯ノ島と浅虫駅(昭和戦前期・青森県史編さん資料)
亀甲浜と潮干狩り(大正中期~昭和戦前期・中園裕提供)
東北帝国大学の浅虫臨海実験所と附属水族館(昭和10年代・中園裕提供)
清遊館の庭園(昭和戦前期・青森県史編さん資料)

 ▽療養の温泉
 明治期の浅虫温泉は気候的に夏涼しく冬暖かいことや、目の前に海が広がり後背には山がある地形の特徴から、静岡県の熱海(あたみ)温泉に似ていると言われた。
 日露戦争後、浅虫温泉は県都青森市から近く、交通至便で転地療養に適した温泉地として紹介された。1909(明治42)年5月からは、第2師団(仙台に師団司令部が設置)と第8師団(弘前に師団司令部が設置)に所属する軍人のため、臨時の浅虫転地療養所が開設されるなど、民間以外にも利用された。
 こうした背景のもとに、浅虫温泉では温泉の効能や周辺の名所などを記載した案内誌を発行している。案内誌が刊行されたことは、浅虫温泉の宣伝にも大いに役立ったと考えられる。
 ▽浅虫八景
 浅虫温泉の宣伝の一つに「浅虫八景」の選定がある。1911(明治44)年、地元新聞社の記者が浅虫を代表する八つの風景を選んだ。夏泊半島を含む八つの風景を題材に、俳句や漢詩が新聞紙面で紹介され、絵葉書も発行された。
 浅虫八景とは、(1)湯ノ島の秋月(しゅうげつ)、(2)稲荷山の夜雨(やう)、(3)夢宅寺(むたくじ)の晩鐘、(4)八幡山の晴嵐(せいらん)、(5)亀甲浜の汐干(しおひ)、(6)権現島の浮鷗(うきかもめ)、(7)双子島の朝霞(あさがすみ)、(8)善知鳥前(うとうまい)の躑躅(つつじ)である。
 浅虫温泉は八景という一組の風景として宣伝されたわけである。この中で「亀甲浜の汐干」でうたわれる潮干狩りは、旧暦三月三日を選んで行われた。弘前市や野辺地町などから多くの人々が訪れるなど、浅虫海岸での潮干狩りは春の風物詩だった。
 ▽水族館と清遊館
 1924(大正13)年7月、裸島の近くに東北帝国大学の浅虫臨海実験所と附属水族館が開設された。水族館は浅虫温泉を代表する文化施設となり、多くの人々が訪れた。浅虫温泉には海水浴場もあるので、夏の行楽でもにぎわった。
 1925(大正14)年、浅虫温泉株式会社が馬場山の東側に、遊興や接待のほか、集会や宴会に利用できる「清遊館(せいゆうかん)」を開業した。劇場の浅虫座を併設し、内湯や展望台をはじめ、大食堂や娯楽室などを備え、低料金で過ごせる施設だった。
 このため好評を博し、翌年には増築して新たに旅館部を設けた。清遊館の開業をうけて、増築や新築する旅館も増えたと言われた。清遊館が周辺に与えた影響は大きく、しだいに浅虫温泉は文化施設や娯楽施設を兼備する、県内でも有数の温泉地となっていった。
 ▽東北の熱海
 昭和戦前期の浅虫温泉は、春から秋にかけて水族館が開館し、春には潮干狩り、夏には海水浴場、秋には花火大会が行われ、冬にはスキー場が開いた。浅虫温泉は四季を通じて楽しめる温泉地となった。
 1936(昭和11)年、省営自動車の浅虫線が十和田国立公園の指定を受けて開通。文化や行楽施設のある浅虫温泉は、自然をめぐる十和田湖の観光周遊にはない魅力を付け足した。
 熱海温泉にも海水浴場があり、1925(大正14)年の熱海線開通や、1934(昭和9)年の丹那トンネルの開通を背景にして、飛躍的に客足が伸びた。旅館や歓楽施設が増加し、熱海温泉は有数の遊興地になっていった。
 浅虫温泉は戦後の高度経済成長期に「東北の熱海」と呼ばれ、全国的にも有名だった。しかし、実は戦前から「東北の熱海」と称されていた。明治期には気候や地形の類似性を指摘されていた浅虫温泉だが、昭和戦前期には遊興地である点が熱海温泉に似ていると言われたのだった。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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駅や築港は国策に翻弄=21

2015/3/9 月曜日

 

可動橋と桟橋があった小湊港「第六青函丸」の着岸試験を行っているところ。1948(昭和23)年10月10日・川村英明さん提供
明治末期の双子島 青森県史編さん資料
現在の双子島 2010(平成22)年6月5日・中園裕撮影

 ▽三つの平内村
 藩政時代の平内町域全体は黒石藩の飛び地であった。それが1889(明治22)年の市制町村制により、東平内・西平内・中平内の三村に分割された。
 東平内村の狩場沢には、盛岡藩と弘前藩(後に黒石藩)の境界を示す藩境塚がある。かつては南部と津軽の対立関係を象徴するような場所だった。しかし、現在そのような対立感情を持つ住民は少ない。むしろ藩境塚は平内町にとっても貴重な史跡である。
 西平内村には1939(昭和14)年開業の西平内駅がある。この駅は、同じ年に施設が完成し、翌年開設する傷痍軍人青森療養所のために造られたものだ。療養所は戦争で負傷した将兵たちを療養する施設だった。夏泊半島の豊かな自然と、浅虫温泉に近いことが立地条件に適ったのだろう。
 戦後、療養所は久栗坂の臨浦園(りんぽえん)と統合され閉鎖された。現在、跡地には社会福祉法人青森県すこやか福祉事業団の障害者総合福祉センターなつどまりが建っている。
 中平内村の小湊は、藩政時代に代官所が置かれたところだ。1891(明治24)年に小湊駅が開業。平内三村で最も人口が多く、流通の拠点だった。昭和天皇の即位記念事業を機会に、1928(昭和3)年10月1日付で町制施行し、小湊町と改称した。
 その後、1955(昭和30)年3月31日、小湊町と東・西平内村が合併し、新たに平内町が誕生した。「三平内」と呼ばれ、歴史的に関係の深い町村の合併交渉は、新町名を小湊町か平内町とするかで論争があった以外、大きな紛糾もなく進められた。
 ▽県都青森の代替地
 1891(明治24)年、日本鉄道(後に国鉄東北本線)が上野と青森の間に全通した。その少し前、青森駅の位置をめぐって、青森町(現青森市)で大論争があった。しびれを切らした日本鉄道会社は、小湊港付近を最終駅にすると主張した。このため青森町長の柿崎忠兵衛は、青森町の安方に駅を設置するとして、何とか論争を収拾させた。
 1943(昭和18)年12月、運輸省が小湊・函館間の貨車航送を実現しようと、関係施設の建設に着手した。青森港や青函航路が空襲で破壊された際の補助航路にするためである。工事は突貫工事で行われ、敗戦後も占領軍の意向で継続された。
 1946(昭和21)年7月1日、仮設の桟橋が完成して小湊・函館間の航路が実現した。8月1日、小湊町民は小湊開港記念と称し、港まつりを開催して大いに喜んだ。2年後には可動橋も建設され、第一貨車航送岸壁が完成。連絡船「第六青函丸」の着岸試験も成功した。
 ところが1949(昭和24)年7月15日、小湊航路は中止となった。この背景には、国鉄が同年6月に独立採算制をとる公共企業体の「日本国有鉄道」となり、運輸省の管轄を離れた事情があった。期待された貨物輸送が伸びず、罹災から復旧した青森港が整備されたため、小湊航路は採算がとれない、と国鉄は判断したのである。
 町民は築港の継続を陳情し続けたが、工事は再開されなかった。既に小湊駅から浅所桟橋駅を経て可動橋のあった埠頭まで引き込み線ができていた。浜子(はまご)地区には小湊操車場も造られていた。けれども、これらの施設は実用化されずに次々と撤去されていった。
 小湊の駅や港は、常に県都青森の代替地として位置づけられ国策に翻弄されてきた。だが、築港が実現しなかったために浅所松島の景観は残された。今では平内町の大切な観光資源になっている。小湊港もホタテの養殖基地に生まれ変わり、町民の生活経済を支え続けている。築港の中止は平内町にとって大きな痛手だったが、結果的に青函連絡船が廃止されて久しい現在、今日の平内町を支える契機になったと言えるだろう。
 ▽浅虫と夏泊半島
 明治期半ば以降、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に基づき各地で景勝地選びが流行した。「三平内」地区でも、雷電宮の松島、白砂(しらす)の秋月(しゅうげつ)、田沢の椿山、大島の漁舟(ぎょしゅう)、双子島の釣磯(つりいそ)、童山の華滝が平内六景に選ばれている。華滝以外はすべて夏泊半島沿岸にある。
 浅虫温泉でも、浅虫八景が選ばれている。八景の内、権現島(鴎島(ごめじま))の浮鴎(うきかもめ)と、双子島の朝霞(あさがすみ)は西平内村の管内にあった。しかし、なぜか浅虫の絵葉書で紹介されることが多かった。浅虫を訪れる温泉客は、温泉街を巡るだけでなく、小さな遊覧船で湯ノ島や茂浦(もうら)島などを巡り、夏泊半島までの海上遊覧を楽しんだのである。
 浅虫の人々と、土屋や茂浦など西平内村の人々は、行政区域を超えて交流が深かった。この関係は今も変わらない。1953(昭和28)年、浅虫夏泊県立公園(後に県立自然公園)が誕生した。行政区域の異なる浅虫温泉と夏泊半島が同じ公園に編成されたことは、歴史的な経緯をふまえれば自然な流れだったのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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猿賀神社の新春の神事=20

2015/2/23 月曜日

 

柳からみ神事 2006 2006(平成18)年2月4日・筆者撮影
ごまの餅撒き神事 2006 2006(平成18)年2月4日・筆者撮影
散供打ち 1965(昭和40)年2月7日・青森県史編さん資料

 来る2月25日の正午から、平川市の猿賀神社で、毎年恒例の「七日堂大祭~柳からみ神事・ごまの餅撒き神事~」が行われる。この祭は、旧暦1月7日に行われる豊凶占いの神事で、弘前市の岩木山神社、鬼神社でも行われる(鬼神社は旧暦1月29日)。
 柳の枝を勢いよく打ち付けて、枝の折れ具合などでその年の天候や作柄を占う行事として知られ、津軽地方でも伝承例が少ない。また、全国的な比較の上でも貴重であるとして、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
 ▽柳からみ神事
 この神事で使用する柳の大枝は、旧暦の大晦日に境内から切り取られ、大祭までの7日間神前で御祈祷される。神事当日は、この柳の大枝を、地元猿賀の三上家当主名代が勢いよく盤面に打ちつけ、このことを「柳からみ」という。
 三上家は、1613(慶長18)年からこの行事を担っていると伝えられている。打つ回数は旧暦の月数で、平年は12回、閏年は13回。枝が早く折れれば豊年、遅いと凶年と言われるが、占いの結果に決まった見方はなく、参拝者それぞれが長年の経験によって判断する。折れた柳の枝は、参拝者が五穀豊穣の御守りとして持ち帰り、種籾に入れたり、田の水口にさして豊作を祈願する。
 ▽ごまの餅撒き神事
 柳からみ神事が終わると、神職が境内の三箇所の櫓から、ごま入りの紅白の餅を群集に向かって撒く。参拝者は、三箇所の櫓を早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)に見立て、撒き終わる遅早によってそれぞれの稲の出来を占う。この餅も柳と同様に7日間神前で御祈祷されたもので、参拝者は、無病息災の護符として持ち帰る。
 ▽鏡ヶ池での散供(さんご)打ち
 参拝者は、境内の池の氷を割り、そこに半紙などを浮かべてその上に小銭や白米をのせ、その沈む遅早によって、豊凶を判断する。
 ▽歴史
 江戸時代の1793(寛政5)年の古文書によると、旧暦1月7日、三上兵衛門が恵方より柳を伐り、御神楽殿にて神秘行法を行ったという記録がある。神秘行法の詳細は不明だが、三上氏が柳を用いた行事ということで、現在の柳からみ神事との関連が窺われる。
 ▽伝説
 坂上田村麻呂が八幡崎に兵を進め、蝦夷の酋長大丈丸と取っ組み合いとなった。その時、身に菰(こも)をまとった大男が駆け付け、傍らの小石を手当り次第投げ打ち、大柳を振り回して、敵軍を退治したという。
 この大男は猿賀神社の神であるといい、小石を投げたのはごまの餅撒き神事、大柳を振り回したのが柳からみ神事の由来であると言われる。このような伝説は、岩木山神社、鬼神社には見られない。
 ▽もう一つの七日堂
 同じ日、神社の門前にある天台宗蓮乗院でも七日堂が行われる。こちらは、柳の枝を用いる行事はなく、密教による護摩焚きとごま入りの紅白の餅が撒かれる。護摩焚きは、三度行われ、参拝者はそれを早稲・中稲・晩稲に見立てて豊凶を占う。
 猿賀神社は、近世まで深沙宮というお宮で、門前の天台宗神宮寺と一体であった。神宮寺は、明治初年に廃寺となったが、その系統を引く蓮乗院で、猿賀神社と同じ日に七日堂を行っていることは、この祭りの変遷を考える上で非常に興味深い。
(青森県史編さん調査研究員 石戸谷 勉)

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