津軽の街と風景

 

戦後に拓かれた「竹田」=18

2015/1/19 月曜日

 

開墾の様子 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
竹田開拓 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
融雪洪水 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
開拓十周年記念碑 2007(平成19)年・筆者撮影

 ▽「古十三湖(こじゅうさんこ)」から芦野原へ
 湖面を滑る丸木舟と飛び跳ねる魚群―縄文時代前期(約6000年前)、津軽平野北半は「古十三湖」と称される大湖に覆われていた。水上交通の舞台、あるいは水産資源の宝庫として縄文文化を育んだ「古十三湖」は、その後徐々に縮小し、湖水が退(ひ)いたあとには岩木川下流部と広大な湿地帯が形成された。
 平安時代(約1000年前)より進行した岩木川下流部の開拓は、江戸時代中期以降本格化した。弘前藩直営の治水事業が行われるとともに、自然堤防上に金木新田(かなぎしんでん)の村々が続々と拓かれた。
 しかしながら、同地域は水害の常習地帯であり、村々は度重なる冠水に悩まされ、移転を余儀なくされることもあった。梅雨・秋雨による溢水のほか、春先の融雪洪水、そして冬の季節風により、十三湖水戸口が閉塞することによって生じる逆流被害が、毎年のように繰り返された。
 大正時代に始まった岩木川改修工事ならびに十三湖水戸口突堤・湖岸堤工事は、流域の水害を軽減し、十三湖岸の開田を可能ならしめた。しかしながら岩木川下流部の大半は、已然として「若宮(わかみや)原野」と称される芦萱(あしがや=ヨシ)が繁茂する大湿地帯が横たわり、開拓の進展をかたくなに拒んでいたのである。
 ▽芦野原から穀倉地帯へ
 泥濘(ぬかるみ)と風にそよぐ広漠たる芦野原―戦後の食糧難は、従来顧みられることのなかった湿地帯に大規模な干陸計画をもたらした。岩木川下流部、海抜ゼロメートル地帯に位置する通称「竹田」地区は、国営十三湖干拓建設事業に伴う開拓集落であり、戦後まもない時期に入植が始まった。
 入植者の募集は1951(昭和26)年に始められ、翌年には「入植予定地県内在住の海外引揚者又は疎開者等で健康な農業を希望する者」の中から50戸の入植者が決定した。入植者には、水田2町4反歩、畑地2反歩、宅地1反歩の計2町7反歩が均等に配分された。
 かつて「古十三湖」の湖面であった茫漠たる芦野原の中に、50戸の開拓村が造成された。人々は簡素な開拓者住宅に住み、唐鍬や三本鍬など人力で芦萱と格闘しながら農地を整備していった。
 そのほかにも、資材不足、腰切田、地吹雪、融雪洪水、メタンガス混じりの井戸水など、泥炭地の開拓は苦難に満ちたものであったが、官民一体の取り組みによって、10周年記念式典を迎えるころには見渡すかぎりの水田地帯に生まれ変わった。
 秋空のもと頭を垂れる黄金色の稲穂―1952(昭和37)年、旧協和分校前に建立された「開拓十周年記念碑」の表には「開拓魂(かいたくだましい)」の3文字、碑の裏には開拓団のリーダー竹内正一(たけうちしょういち)氏による決意文が刻まれた。「吾人の胸中を去来するものは葦茅の繁茂する標高零の湿地帯十年前の姿と大正年代に水田開発を企てた先人受難の歴史である」「吾人五十名は苦難更に大きいこの泥炭地の開拓を志し選ばれて生涯をこの地に託す」。
 人跡未踏の地に入植を可能ならしめたのは、十三湖干拓建設事業に伴う排水・土壌改良等、ハード面での恩恵もさることながら、入植者達の不屈の精神「開拓魂」が寄与すること大であった。一致団結した50戸の盤石の思いがなければ、これらの難事業は完遂されることはなかったであろう。
 国営十三湖干拓建設事業は、十三湖囲繞堤に囲まれた十三湖面及び内潟(うちがた)沼・低湿地原野の干陸ならびに排水改良を目的として、1948(昭和23)年に着手された。20年以上に及んだ干拓事業は、「鳥も通わぬ十三湖」と形容された岩木川下流部の芦野原を、地域を代表する穀倉地帯へと変貌させ、1970(昭和45)年に竣工した。
 武田(たけだ)その一工区においては、1948(昭和23)年度89%を占めた「湿地・原野」が完全に姿を消し、かわりに10%弱に過ぎなかった水田が79%に拡大した。また排水強化によって地盤強度が増したことによって機械化営農が可能になり、省力化や作業合理化など農業近代化にも貢献することとなったのである。
(中泊町博物館館長補佐 齋藤 淳)

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北海道へニシン場稼ぎ=17

2014/12/29 月曜日

 

利尻島にあった小倉漁場のニシン沖揚げ=1921(大正10)年4月22日撮影・小倉英章さん提供
小倉漁場で遭難した乗組員の葬儀。平舘村で行われた=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供
本覚寺で撮影された小倉漁場の幹部たち=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供

 2016(平成28)年3月開業予定の北海道新幹線で、今別町に「奥津軽いまべつ」駅ができる。30年ほど前は人口7千人を超えていた今別町だが、現在はその半分以下となり、高齢化率は県内で最も高い。
 町は「日本一小さい新幹線のまちへ!」とキャンペーンを打ち出しているが、美しい海峡も有名で、とりわけ袰月(ほろづき)海岸は風光明媚(めいび)な海岸である。
 「この村サ一度(イヅド)だて 陽(シ)コあだたごどあるガジャ」。袰月尋常高等小学校で代用教員を務めていた高木恭造(1903~87)の「陽(シ)コあだネ村~津軽半島袰月村で~」は、怒りの言葉で始まる。そして「若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃(ネ)げでまて 頭(アダマ)サ若布(ワガメ)生(ハ)えだえンた爺(ジコ)媼(ババ)ばり ウヂャウヂャてナ」と続く。
 袰月はアイヌ語で「大酒椀(ポロトゥキ)」といい、「大ぶりの酒椀の形に深くえぐれた湾」という意味をもつ。かつてアイヌが暮らしたという津軽半島北辺部の一端にある漁村である。
 青森県から北海道への漁業出稼ぎは、江戸時代中期に幕府が弘前藩と盛岡藩に警備を命じた頃から盛んになり、漁閑期や農閑期の2月から4月にかけて、ニシン場稼ぎと称して北海道の西海岸へ向かった。
 かつて北海道の日本海沿岸は、春先になるとニシンの群れが押し寄せる群来(くき)が現れ、大量のニシンが産卵し放精するため、海面が白濁する現象が見られた。「ヤドイ」(雇い)とか「ヤン衆」と呼ばれていた出稼ぎ労働者は、北海道北端の礼文島や利尻島まで出かけていた今も礼文島にある「津軽町」という地名は、津軽地方からの移住者が住んでいた名残という。
 札幌の北海道開拓記念館に、今別町袰月の小倉みつさん(10代目小倉十兵衛の妻)から寄贈された『小倉家資料目録』がある。これは明治中期から大正期にかけて、北海道利尻島旧沓形村(現種富町)のタネトンナイと礼文島メシコタイにあった小倉漁場(ヤマジュウ)に関わる資料である。
 1989(平成元)年刊行の『利尻町史』によると、袰月に定住していた8代目小倉十兵衛が、1888(明治21)年に利尻島の鬼脇村字野中にニシン漁場を開設。その後、礼文島西海岸と利尻島へ進出したと書かれている。
 礼文島や利尻島の漁場は、津軽半島一帯から移住した漁民や出稼ぎ者の多くが、親方の家に寝泊まりしながら生活を営んでいた。袰月の小倉十兵衛家の土蔵には、現在も大量の漁場関係の資料が残されており、ニシンを求めて北方に渡り暮らしを営んでいた活況ぶりやニシン経営などがうかがえる。
(青森県史編さん調査研究員 小泉敦)

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間口広く懐の深い平賀町=16

2014/12/8 月曜日

 

歩行者天国でにぎわう平賀駅前の商店街(1980年頃・青森県史編さん資料)
平賀駅の地下スーパー(1970年代後半・青森県史編さん資料)
開業した頃の南田温泉と屋外温泉プール (1972年頃・青森県史編さん資料)

 ▽僅か50年
 2006(平成18)年1月1日、平賀町と尾上町と碇ケ関村が合併して平川市が成立した。3町村での平賀町の印象はどうだろうか。碇ケ関村は藩政時代に関所を有し、近代以降も温泉保養地に位置づけられてきた。尾上町は庭園の町・蔵の町として知られ、近年町歩きも盛んだ。これに対し平賀町の印象は、今ひとつ薄いようである。
 平賀町は1955(昭和30)年3月1日、大光寺町・柏木町・尾崎村・町居村・竹館村の5町村が合併して成立した。これだけの町村が合併したのに、中世以来の「平賀郷」に因んだ町名に反対の声はなかった。歴史ある地名に納得し、共感する人々が多かったわけである。
 平成の大合併で平賀町は平川市となった。平賀町誕生以来、僅か50年余りの出来事だった。町の印象がとらえにくい背景として、改めて理解しておきたい事実である。
 ▽弘南鉄道が形成
 1927(昭和2)年9月7日、弘前~津軽尾上間に弘南鉄道が開通した。国鉄を別にすれば、陸奥鉄道・十和田鉄道に次ぐ県内で3番目の鉄道である。しかし、弘南鉄道は敗戦後間もない1948(昭和23)年7月1日、県内で初めて電化を実現している。そして2年後の7月1日には津軽尾上~黒石間を延伸。現在の弘南鉄道弘南線が完成した。
 弘南鉄道の創設者であり初代社長だった菊池武憲は、自らが所有する水田地帯に平賀駅を設置した。これ以後、飲食店や旅館・病院・商店等が建設され繁華街が形成された。平賀町の中心街は弘南鉄道が形成したといってよいだろう。
 ▽駅の地下スーパー
 1962(昭和37)年9月7日、弘南鉄道は開業35周年を迎えた。これを記念して平賀駅舎を新築。駅前に「栄え行く弘南の碑」を建てた。碑文には「交通の発達は文化を進め産業を興す」として、「沿線一帯の産業文化の振興に一層の貢献をなし来つた」弘南鉄道の歴史が刻まれた。
 新築の平賀駅は『陸奥新報』が「私鉄では東北一」と掲載したように、当時の県内各駅に比べて大きく立派だった。そして駅舎の中には、平賀農協と弘南鉄道が共同で経営する地下のスーパーマーケットが造られた。
 駅地下スーパーは品揃えが良く、雨や雪を避けられたので、当時の主婦層から圧倒的な支持を得ていた。床屋もあり、男性サラリーマンに重宝された。駅正面からすぐ地下に入れたから、通学の女子学生たちがパンやお菓子を買いに立ち寄った。彼女たちはスーパーを「駅の穴」と呼んでいた。
 こうして平賀町民に親しまれた駅地下スーパーだが、1986(昭和61)年に現在の駅舎が完成する前には姿を消した。スーパーは旧駅舎を象徴する存在だったのである。
 現駅舎の玄関前はタイル張りになっている。ところが、玄関左側に設置された郵便ポストの周辺だけ、なぜかタイルの色が違う。実は、この色違いのタイルこそが「駅の穴」だったのだ。平賀町民に親しまれた駅地下スーパーの貴重な遺構として記憶されたい。
 ▽新興温泉地
 平賀町には温泉施設が数多く存在する。大半が1962(昭和37)年以降に掘削した温泉である。平賀町は「新興温泉地」といえるだろう。
 1966(昭和41)年の唐竹温泉を筆頭に、翌年には大坊温泉(大坊保養センター)が落成。温泉付きの公民館として有名になった1972(昭和47)年7月には平賀アップルランド南田温泉が開業。大石武学流の庭園や屋外温泉プールを設け、レジャーランド的な施設として人気を集めた。
 このほか、鷹の羽温泉、柏木温泉、館田温泉、平賀観光温泉、新屋温泉、松崎温泉、からんころん温泉、花の湯、芦毛沢温泉、大光寺温泉など、10軒を越える温泉施設が次々に開業した。
 このほか、国道102号を十和田湖方面へ向かった山間に、温川温泉と切明温泉があった。どちらも黒石温泉郷として紹介され、秘境の温泉地として人気があったが、施設自体は平賀町内にあった。間近に流れる浅瀬石川の渓流は「天下の絶景」と称された。平賀町の貴重な財産が黒石温泉郷を支えていたことになろう。
 ▽間近に十和田湖
 5町村が合併して出来た平賀町だが、そのうち4町村はすべて西北部に集中し、いずれも面積は狭い。竹館村だけが南東へ大きく伸び、町内総面積の大半を占めている。竹館村は県内最初のリンゴ専門組合たる竹館産業組合が結成されたことで知られている。
 竹館村の最東部は間近に十和田湖が存在する。事実、平賀町の東端は十和田市と秋田県の小坂町に接し、1キロ余りで湖畔に達する。米とリンゴを中心に田園地帯の印象が強い平賀町だが、実際には町内の多くを山林が占めている。
 平賀町の広報を見ると、十和田湖の展望台として滝ノ沢と御鼻部山がたびたび紹介されている。滝ノ沢展望台は、1960(昭和35)年に建設された休憩所を、1971(昭和46)年に町が県の助成を得て鉄骨平家建てに改築したものだった。残念ながら今は撤去されている。
 これに対し御鼻部山の展望台は「十和田一番の展望台」として、かつては弘南バスのバス停があり、簡素な東屋があった。展望台は1965(昭和40)年8月の国立公園大会に、常陸宮夫妻が来県するため改築され、その後現在に至っている。
 平賀町の町名は50年で消えた。しかし黒石温泉郷の魅力を支え、十和田湖を間近に控える平賀町は、間口が広く、懐の深い町だったのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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アイヌ語と津軽半島=15

2014/11/24 月曜日

 

高野崎(たかのざき)から見た袰月の入江(大きな岩の後方)=2009(平成21)年8月22日・筆者撮影
宇鉄川。国道の近くから上流を撮影したもの=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」
今別町大字奥平部(おくたいらへ)の鬼泊トンネル。奥平部もアイヌ語系地名。「へ」は「ぺ」または「ぺっ」で、川を意味する。事実、トンネルは平舘村(現外ケ浜町)との境界近くにあり、近くには鬼泊川が流れている=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」

 ▽「狄村」
 北奥地方の歴史的・文化的特質のひとつに、アイヌと和人(アイヌに対する日本人の呼称)との共存があげられる。それは、江戸時代の北奥に生きた本州アイヌと呼ばれる人々が、弘前・盛岡両藩に津軽アイヌ・下北アイヌとして支配され、彼らのアイヌコタン(集落)が津軽半島や夏泊半島、下北半島の各地に確認されていることにも示されている。
 津軽地方についてみると1645(正保2)年の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」の、津軽半島北端、三厩(みんまや)(外ケ浜町三厩)周辺のほか、日本海に面する半島北西端の小泊(中泊町小泊)周辺、陸奥湾に面する夏泊半島北端(平内町)に「狄村(えぞむら)」が記されており、江戸時代初期段階でのアイヌの居住が確認できる。しかし、「狄村」には他の村落と異なり、具体的な村名と村高(一村の生産高)が記されておらず、実体は定かでない。
 ▽津軽一統志
 「津軽一統志(つがるいっとうし)」には、1669(寛文9)年頃の津軽半島のアイヌ居住地と家数の状況として、宇田(うた)村・ほこ崎村(以上、外ケ浜町平舘)、五生塚(ごしょうづか)村・砂ケ森村・袰月(ほろづき)村・小泊(大泊(おおどまり))村・山派(やまはだち)(大川平(おおかわだい))村(以上、今別町)、松ケ崎村・六条間(ろくじょうま)村・藤嶋(ふじしま)村・釜野沢(かまのさわ)村・宇鉄(うてつ)村・竜飛村(以上、外ケ浜町三厩)などが書き上げられている。
 津軽半島北端の広い地域に、アイヌの居住集落が存在していたと理解できる。これらの集落名には、その地形や生活文化に由来して、居住したアイヌの人々の言語で付されたと考えられるものもあり、今もそうしたアイヌ語地名が残っている。そのいくつかを紹介してみよう。
 ▽平舘と今別
 平舘の「宇田」はアイヌ語の「オタ」(砂、砂浜)の訛音と考えられる。幕末の探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)もこの地を訪れた際に「歌村。定めてヲタ村なるべし。此処初めて砂を見る。」(「東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)」)と記している。
 今別の「袰月」は「ポロ・トゥキ」(大きい・坏(つき))であろう。アイヌの人々は和人との交易で「坏=トゥキ」を入手し、酒を入れた「トゥキ」(直径10センチ位の木製の椀)を高台にのせ、イクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))をその上に横たえて飲む独自の飲酒文化を築いた。現在の袰月の入江は半円形の湾であるが、まさに大きな坏に酒を注いだような景観を呈している。
 ▽三厩と宇鉄
 三厩の「六条間」は「ロクンデウ」(大船)に停泊港を意味する日本語の「間」を組み合わせた地名であろう。また、六条間から三厩よりに算用師(さんようし)峠があるが、ここは「サニ・ウシ」(坂のある処)の意であると考えられる。
 「宇鉄」はどうであろうか。宇鉄は江戸時代の津軽アイヌ居住地としてよく知られた地名である。弘前藩は1756(宝暦6)年と1809(文化6)年の2度、津軽アイヌの同化政策を推進したが、「東奥沿海日誌」からは宇鉄に居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込みながらも幕末に至るまで民族としての文化を保持し続けていたことが理解できる。ただし、宇鉄の地名由来は定かではない。「ウワテツ」(群がる)、「ウ・ラシ」(お互い・魚を捕る)、「オタ・エツ」(砂・出崎)、「ウトル・ペツ」(間の・川)のいずれかが日本語に転訛したものとされている(『角川地名大辞典』)。
 ▽山田秀三
 こうしたアイヌの人々の民族文化に由来する地名は、津軽海峡をはさむ北奥地方と北海道で共有されるものであった。戦前の国家官僚で、戦後はアイヌ語地名を追って各地をくまなく踏査した研究家の山田秀三は、津軽海峡をはさむ南北で同地名が多く、北側を歩いていると南側を歩いているような錯覚に陥ったという(『アイヌ語地名の研究』)。津軽海峡をはさむ北奥以北の地は、アイヌの人々にとって民族の一体的空間=アイヌモシリ(アイヌ〈人間〉の大地)であったのである。
(札幌大谷中学校・高等学校教諭 市毛幹幸)

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面積広げた合浦公園=14

2014/11/3 月曜日

 

木村荘助頌徳之碑(しょうとくのひ)(2014年9月29日・筆者撮影)木村荘助(しょうすけ)は水原の公園創設事業に対する最大の有志者である。西向きに配置されたのは、廃棄道を活用した公園創設の原点を振り返るためと考えられる
不老亭から眺めた公園(明治末期から大正初期・青森県史編さん資料)右側の大きな松が公園創設の拠点である「三誉(みよ)の松」。当時の公園が「松の公園」だったことがわかる
歓迎桜の碑(2014年9月29日・筆者撮影)裏面には「明治廿九年五月一日 留守歩兵第四旅団司令部将校下士」とある。1896(明治29)年5月に、公園内で招魂祭が挙行される際に、陸軍が桜を数株植えたという

 ▽水原衛作の青森公園
 合浦(がっぽ)公園は、青森市街地の東部沿岸に位置する市民の憩いの場である。また都市部には珍しい海の公園として有名である。
 公園は、1881(明治14)年に、もと弘前藩士の水原衛作(えいさく)が青森の豪商である木村荘助(しょうすけ)ら有志者と公園を創設しようとしたことに始まる。このとき認められた公園は、現合浦公園を東西に走る旧奥州街道の廃棄道だった。1873(明治6)年に公布された公園制度に見合う条件を満たさねばならなかったからだ。このため当初の公園は、形や規模が現在の公園とはだいぶ違っていた。
 廃棄道の半分以上が公園とされたが、廃棄道を利用しただけでは東西に長すぎる公園となってしまう。このため水原は公園の北側と南側に、公園よりもはるかに広い彼自身の所有地(後に公園附属地となる)を接続させた。公園として体裁のよい広さと形を確保しようとしたのだろう。
 だが当時の公園制度では、水原の所有地は私有地であるため、正式な公園とは認められなかった。そのため水原にとって、公園を創設するということは、彼の所有地を含めた造園を意味した。彼が造園を進めていた頃の公園の正門は、今日と異なり、青森町(現青森市)に近い公園の西端箇所にあった。現在、公園の正門は国道4号に通じる南側に置かれている。水原が公園を創設した当初とはだいぶ違っていたのである。
 ▽青森市の合浦公園
 水原は公園創設に命をかけるが、公園の完成を見ることなく、1885(明治18)年に亡くなった。翌年に、実弟の柿崎巳十郎(みじゅうろう)が兄の遺志を継承し造園に励んだ。
 しかし柿崎も、兄の水原と同様に協力者不足や資金難に苦しんだ。このため1890(明治23)年には、公園附属地(水原の所有地など)を青森町へ寄付する意向を見せた。これに対して青森町は、公園が町に必要であると考え、附属地を含む公園全体を町の公園とみなし、同年には公園を海浜側へ拡大しようと目論んでいた。
 1895(明治28)年、青森町が公園を拡大するにあたり、柿崎は正式に青森町へ公園附属地を寄付した。水原が描いた公園を完成させるためだった。事実、柿崎はその後も園丁として公園を整備する作業に関わり続けた。
 翌年、それまで青森公園と呼ばれていた公園が、青森町によって合浦公園と改称された。しかし、合浦公園の名称には創設者の水原が大いに関係していたと思う。彼は俳号「鬼笑」を持っていた。公園創設の拠点となった「三誉(みよ)の松」の近くには句碑も存在する。合浦の名称は俳諧集「合浦集」や「合浦舎利母石(がっぽしゃりもいし)」のほか、画集「合浦山水観」などの表題にも登場し、東津軽郡沿岸の呼称と言われていた。
 そして何よりも、彼は生前から遺書に相当する文書へ「合浦公園」と著していた。こうした背景から、水原が合浦公園の名称を考え、それが青森町(後に市制施行)の公園になっても継承されたわけである。
 しかし、青森公園から合浦公園と名称が変わったことは、同時に公園が水原の公園から青森市の公園として整備される始まりでもあった。1901(明治34)年、青森市は従来の公園面積では狭すぎるとして、公園の面積を海岸まで拡大した。合浦公園は津軽の海の公園と考えられるので、この時点で名実共に津軽の海の公園が誕生したことになろう。そして、これ以降も合浦公園の面積は拡大されていった。
 水原が造園を始めた頃の合浦公園は、松の公園と呼ばれるほど松が多かった。だが、戦争や皇室に関わる記念行事が開催される度に桜が植樹された。合浦公園保勝会が観桜会を主催するなど、合浦公園は桜の公園として市民に愛されていった。そして今もなお、合浦公園は青森市を代表する春まつりの会場として、また夏の海水浴場として市民に親しまれている。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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