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津軽十景で第一位となった目屋渓=昭和戦前期・青森県史編さん資料 |
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西海岸を走る五能線と景勝地の吾妻浜=昭和戦前期・青森県史編さん資料 |
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鷹揚園(弘前公園)と岩木山=昭和戦前期・青森県史編さん資料 |
▽津軽十景と組織票
1928(昭和3)年に弘前新聞社が1万号記念事業として行った津軽十景の選定は、津軽地方(青森市、弘前市、中・東・西・南・北各津軽郡)の景勝地を一般からの投票順で決定するものだった。これは27(昭和2)年に東京日日・大阪毎日両新聞社が行った「日本新八景」の選定イベントからヒントを得たものだろう。
十景の風景には山岳、湖沼、河川、海岸、公園、神社仏閣という風景の分類があった。このような風景の分類が存在したことからも、津軽十景には日本新八景の影響が考えられよう。
投票は、新聞紙面に印刷された専用の投票用紙あるいは官製はがきを使用した。津軽十景に当選した景勝地に対しては、一般に宣伝紹介するため標木が設置されるという。このため各地から自慢の景勝地を推薦する多くの投票がなされた。
投票経過を見ていこう。目屋渓や弘前公園、法峠が1位をめぐり争っていた。また津軽富士と呼ばれる岩木山は、当初上位を占めたが、後に10位以下に落ちている。しかし、弘前山岳会といった組織があるためか、再び十景へ返り咲いた。芦野公園も26(大正15)年に芦野公園保勝会が組織されており、一時的に1位になっている。
投票経過から垣間見えるのは、保勝会のような団体が関わった組織票の存在である。保勝会の役割は景勝地の保護や宣伝、そして観光客の誘致などである。会にとって津軽十景に入選することは必要不可欠であり、組織を挙げて対応した。また神社仏閣は信仰を背景にした組織力で入選を目指した。このため候補となった法峠、愛宕山、久渡寺、乳井神社は安定した順位であり続けた。
最終的な順位は目屋渓、座頭石、法峠、弘前公園、乳井神社、岩木山、芦野公園、愛宕山、御幸公園、久渡寺で、これらが最終的に津軽十景となった。入選した景勝地の多くは保勝会のような組織を有しており、組織票の影響力は大きかった。
なお、西津軽郡の大戸瀬海岸や東津軽郡の龍飛崎などは10位以内に入ることもありながら、入選できなかった。このため十景の中に「海岸」は入選していない。
▽各郡市代表景勝地の選定
1936(昭和11)年2月、十和田湖と奥入瀬渓流、および八甲田山麓をはじめとする十和田国立公園が指定された。青森駅から十和田湖畔までを結ぶ省営自動車が開通し、多くの人々が国立公園の素晴らしさを満喫した。
他方、4月には、青森県当局が国から県立公園の指定候補地を照会され、県立公園の予備調査を始めた。候補地は目屋渓流、岩木山一帯、十二湖付近、恐山付近、龍飛崎付近、種差海岸、小泊付近、椿山付近だった。
こうした動きに対し、5月に東奥日報社が各郡市代表景勝地を官製はがきで投票させ、さらに青森県代表景勝地「青森県八景」を選定する新聞イベントを開催した。好評を博した弘前新聞社による津軽十景を東奥日報社が意識していたのは想像に難くない。国や県で県立公園の指定について準備を進めていたことも大きいだろう。
投票に当たり、国立公園内の有名景勝地と県立公園の候補地である岩木山は対象から除外された。投票が始まると深浦海岸や権現崎、十二湖が首位をめぐり争った。特に西津軽郡各地域では、7月に五能線が全線開通するため、沿線の景勝地を入選させようと積極的だった。
こうして6月、各郡市を代表した24カ所の景勝地が発表された。津軽十景の時と同様、保勝会などの組織を持つ景勝地は有利に事を運んだ。津軽地域だけでも、北津軽郡の権現崎には小泊保勝会、中津軽郡の目屋渓には目屋渓保勝会、南津軽郡の梵珠山には梵珠山保勝会、西津軽郡の深浦海岸には深浦風光会が存在していた。
▽青森県八景の誕生
36年、24カ所の各郡市代表景勝地の中から専門家による審査を経て、青森県の代表的な8つの景勝地を選ぶ「青森県八景」が誕生した。八景は夏泊半島(東郡)、西海岸(西郡)、目屋渓(中郡)、浅瀬石川温泉渓谷(南郡)、権現崎(北郡)、恐山と薬研温泉(下北郡)、鷹揚(おうよう)園(弘前市)、種差海岸(八戸市)だった。
ここで注意したいのは、八景はそれぞれが単体としての景勝地ではなく、必ず隣接ないし近郊に別の景勝地を含み、一定の範囲を回遊できる性質を有していることだった。例えば夏泊半島には小湊周辺の海岸と浅虫温泉を範囲とし、西海岸には十二湖を含んでいた。鷹揚園(弘前公園)には岩木山の眺望が含まれていた。
同年11月、国から受けた県立公園の候補地は、種差海岸、霊場恐山、十二湖、岩木山だった。いずれも青森県八景に相当するか八景に付随する景勝地が選ばれた。岩木山のように津軽十景以来、選出され続けてきた景勝地もあり、新聞イベントが大きな影響力を与えていたことが理解できよう。
結局、その後日本が戦争に突入し県立公園の誕生は見送られたが、敗戦後数年を経た53(昭和28)年、種差海岸、恐山、深浦十二湖、浅虫夏泊、大鰐蔵館碇ケ関温泉郷の各県立公園が指定された。その後、屏風山権現崎、黒石温泉郷、岩木山各県立公園も誕生している。各県立公園内の景勝地が、津軽十景や青森県八景などで入選を果たしたものであることが分かる。昭和戦前期に新聞が講じた景勝地選定イベントは、読者の関心を引きつけ、それがやがて県立公園誕生の素地となっていったことが見て取れると思う。
(青森県史編さん執筆協力員 中園美穂)