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写真1 オセドウ貝塚出土の人骨=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供 |
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写真2 山王坊日吉神社の山王鳥居=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供 |
2017(平成29)年11月12日、山王坊(さんのうぼう)遺跡が国指定史跡となった記念に十三湊(みなと)・山王坊フォーラムが、地元の五所川原市相内で開催された。主催は十三湖一帯に広がる十三湊安藤氏関連の遺跡を観光ガイドする民間団体「安藤の郷応援隊」だった。当日は100人を超える参加者が会場を埋め尽くし、十三湊安藤氏研究の関心の高さを改めて肌で感じることができた。
さて、相内村(後に市浦村、現五所川原市)の歴史については前回、明治から昭和にかけて盛んだった林業について紹介したことがあるが、今回はフォーラムの発表内容を踏まえ、歴史遺産の宝庫である相内村について紹介したい。
▽オセドウ貝塚
相内村は津軽平野北端部、岩木川河口の十三湖北岸に位置しており、水運では岩木川水系と日本海、陸運では江戸時代の下之切(しものきり)街道と十三(じゅうさん)街道が交わる交通の要衝として、縄文時代以来、人々が集住し多くの遺跡が残された地域である。
特に中世には、日本三津七湊(さんしんしちそう)として著名な港湾都市十三湊の一角を占め、当地を支配した豪族安藤氏に関連する福島城(ふくしまじょう)跡や山王坊遺跡など、貴重な中世遺跡群が数多く残されている。相内村は津軽地域の中でも古くから開けた地域だったのである。
実は、こうした歴史遺産の謎を解明する研究は古くから行われていた。特に十三湊や安藤氏に関する研究は青森県中世史解明の鍵とされ、膨大な研究の蓄積がある。古くは1922(大正11)年12月22日、十三湖を中心に当時の十三、相内、内潟三村の有志(郷土史家の奥田順蔵(おくだじゅんぞう)や福士貞蔵(ふくしていぞう)ら)が集まって設立された十三(じゅうさん)史談会による研究が著名である。
翌年の7月6~7日には、十三史談会の要望による北郡初頭教育研究会が相内村で盛大に開催された。その際、研究会に合わせて行われたオセドウ貝塚(縄文時代前期~中期)の発掘調査(23年6月20~25日)によって貴重な縄文人骨が出土した。縄文人骨の発見は注目を浴び、研究会に華を添えるものとなった。
これを契機として、25(大正14)年に当時東北大学の長谷部言人(はせべことんど)や山内清男(やまのうちすがお)による研究者が、層位学的研究に基づいて同貝塚の分層発掘を行った。その後、出土した土器について長谷部は27(昭和2)年に「円筒土器」と命名し、山内は29(昭和4)年に円筒土器を層位的に「円筒上層式」と「円筒下層式」と大別し、土器の編年研究を進めた。オセドウ貝塚は研究史的にも著名な遺跡として知られている。
▽五月女萢遺跡
縄文時代の遺跡に関しては、2010~13(平成22~25)年にかけて発掘調査された五月女萢(そとめやち)遺跡が注目されている。縄文時代後期後葉(約3500年前)から土坑墓が造られ、晩期後葉(約2500年前)までの約1000年間にわたって連綿と土坑墓が造られ、これまでに土坑墓140基が確認された。
分布に特徴があり、丘陵頂部を取り囲むように環状(南北40メートル×東西60メートル)に土坑墓群が巡っている様子が明らかとなったまた墓域に至る参道と思われる道路状遺構1条も確認された。特に黄色粘土を盛ったマウンドを伴う土坑墓の事例が多く確認されたことで、墓の上部構造が非常に良く分かる事例として、亀ケ岡文化の墓地景観に対する見方を大きく塗り替える発見と注目された。
さらに、これまでに7体の埋葬人骨が発見されたことに加え、土坑墓には墓標とみられる自然礫を伴うもの、内部に赤色顔料(ベンガラ)や玉類などの副葬品を伴うもの、底面に周溝を巡らすもの、幼児墓とみられる埋設土器などが見つかった。縄文時代の社会や精神文化、死生観を伺い知る祭祀(さいし)遺跡として学史に残る貴重な発見となったのである。
▽十三史談会
十三史談会の研究に話を戻すことにしよう。1日目に研究発表会、2日目には奥田順蔵と福士貞蔵を案内者にして相内村から十三村にかけて史跡巡りが行われた。その内容は、江戸時代に寺子屋の教科書として利用され、中世十三湊の活況の様子を伝える『十三往来(とさおうらい)』(『津軽一統志(つがるいっとうし)』付巻)に記載されている神社や仏閣、または城館について、現地形との照合や関連遺物の分析を通して現地比定を行うものだった。
これによって『十三往来』に記載される寺社では禅林寺(ぜんりんじ)跡、龍興寺(りゅうこうじ)跡、山王坊阿吽寺(あうんじ)跡、浜(はま)の大明神(だいみょうじん)跡、羽黒権現(はぐろごんげん)跡、それ以外の寺社では檀林寺(だんりんじ)跡・板割(いたわり)(桂川(かつらがわ))猿賀神社(さるかじんじゃ)、磯松五輪塔(いそまつごりんとう)、城館では福島城跡、唐川城(からかわじょう)跡について考察するものだった。
今から95年前に、すでに伝承の域を出なかった中世寺社跡などを現地比定する研究が行われていたのである。現在でも多くの知見を与えてくれるだけでなく、その多くは遺跡として周知されている。
そのおかげもあって、山王坊阿吽寺跡と推定された山王坊遺跡の発掘調査が1982~89(昭和57~平成元)年と2006~09(平成18~21)年に行われた。その結果、礎石建物跡による中世寺社跡の規模や構造など伽藍配置(がらんはいち)の様子が明らかとなった。
存続年代は14世紀後半~15世紀前半(南北朝~室町時代)で、まさに十三湊安藤氏が活躍した時代だった。これまでに奥院(おくのいん)跡、社殿列(しゃでんれつ)跡、仏堂(ぶつどう)跡など、大きく三カ所の性格の異なるエリアが確認された。神仏習合(しんぶつしゅうごう)を如実に示す貴重な遺跡であることが明らかとなり、17(平成29)年2月に国史跡に指定された。
歴史遺産の宝庫である相内村では、地元民の熱意によって古くから地道な調査研究が進められ、その歴史解明が着実に進められてきた。今回の十三湊・山王坊フォーラムは、まさに時宜にかなったものだった。五所川原市市浦地域の歴史や魅力を伝える活動を続けながら、地域活性化を担う安藤の郷応援隊の皆さまに心より敬意を表したい。
(日本考古学協会会員、五所川原市在住 榊原滋高)