津軽の街と風景

 

存在身近なロータリー=6

2014/6/30 月曜日

 

青森市のロータリー 1950年代前半・青森市市民政策部広報広聴課提供
藤崎町の現役のロータリー 2014(平成26)年6月21日・葛西優花さん撮影
五所川原市のロータリー 1964(昭和39)年・白岩昭さん撮影・提供

 「広辞苑」によると、「ロータリー」は「交通頻繁な交差点や駅前に設けた交通整理のための円形地帯。交通島」と定義されている。青森県では戦後になって、各地に設置されるようになった。
 ▽慰霊の場
 戦後間もない1946(昭和21)年、青森市の国道4号と柳町通りの交差点にロータリーが造られた。1948(昭和23)年7月28日、青森大空襲の3周年を記念し、ロータリーの中央へ平和観音像が建立された。被災者を慰霊するためである。柳町の人々を中心に、ロータリーの周辺はいつもきれいに清掃してあった。青森市のロータリーは、交通整理のためだけでなく、慰霊の場所としても機能していたのである。
 五所川原市の駅前から大町通りを西へ進むと十字路に出る。この場所にも、交通整理を意図してロータリーが造られた。そして1957(昭和32)年、青森県平和産業大博覧会(通称五所川原博)が開催。博覧会会場に建立された子供を抱く母親の銅像(母神像)が、ロータリーの中央へ移された。
 博覧会には太平洋戦争の被災者を慰霊し、平和を祈る目的があった。母神像はその象徴的存在だった。母神像がロータリーの真ん中に設置されたことで、五所川原市のロータリーも青森市同様、平和を祈り被災者を慰める場所になった。ちなみに五所川原市のロータリー周辺には、平和食堂と名付けられた食堂もあった。「平和」は戦後を象徴する言葉であり、「平和」を冠した施設は各地に存在していた。
 ▽撤去されるロータリー
 高度経済成長に伴う自動車の激増で、ロータリーの運命は大きく変わった。ロータリーにぶつかる車や、ロータリーを迂回(うかい)せずに、手前で右折して対向車に衝突する車が多かったのだ。交通整理のためのロータリーが、交通事故をもたらす存在になったのは皮肉である。このためロータリーは幹線道路から次々と姿を消していった。
 青森市のロータリーは1963(昭和38)年の暮れに撤去された。国道4号の渋滞緩和と交通事故防止のためである。このため平和観音像は翌年春、やや北寄りに新設された緑地帯の公園内に移された。
 五所川原市のロータリーも、商店街の発展と道路の拡幅舗装のため、1964(昭和39)年9月に撤去。母神像は8月から建設していた五所川原市唯一の緑地公園である柳町公園(現牧水公園)の池に移された。
 二つのロータリーは、1960年代半ばには撤去されたことになる。経済成長の結果、人々は速く便利な自動車を受け入れ、安全対策のためにロータリーを撤去した。平和を祈り、被災者を慰霊する存在だった像は、人々が多数集まる場所から移動させられた。ロータリーに込められていた戦争の記憶が薄らいでいったのではないだろうか。ロータリーは交通整理だけでなく、人々の記憶も整理する役割を果たしていたと思う。
 ▽今も現役
 藤崎町には現役のロータリーがある。この場所は、国道339号バイパスが完成するまで、弘前・青森・五所川原各方面への分岐点だった。津軽地域の大動脈である国道7号と339号が交わる藤崎町は、東・西・中・南・北の各津軽郡へと向かう交通の要所だった。このため、かつてはロータリーの近くに役場があり、町の中心としてにぎわっていた。
 ロータリー周辺は渋滞が多くなり、交通事故も頻繁に起こった。このため1959(昭和34)年に青森県で初めてのバイパスとなる藤崎バイパスが、旧常盤村の矢沢から平川橋付近の舟場の間に完成した。バイパスのおかげで現在のロータリー周辺は静かになった。しかし、今でもロータリーは地元の人々が花を植えるなど、大切に整備しており、町民にとって身近な存在だ。そして今も、青森・弘前・五所川原の分岐点であることに変わりはない。
 津軽地域以外にも、青森県内にはロータリーが存在する。八戸市庁前のロータリーは、1881(明治14)年に明治天皇が八戸へ宿泊した行在所の跡地だ。1933(昭和8)年に史跡指定を受けた後、自動車の往来を避けるため、ロータリーとして造られ2年後に完成している。これ以後、何度か整備され、今は明治天皇巡幸の歴史を記憶する小公園的な場所になった。
 現役のロータリーは、歴史を記憶する場所として定着している。しかし失われて久しい青森市のロータリーも、当時を知る市民の間で愛着を持って語られている。五所川原市のロータリーがあった場所は、その存在を知らない若者でさえ、ロータリーと呼んでいる。ロータリーは撤去された後も、人々の記憶を整理する役割を担っているのかもしれない。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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高度成長期 源泉を開発=5

2014/6/16 月曜日

 

百沢温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供
三本柳温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供
嶽温泉 1955(昭和30)年頃・青森県史編さん資料
湯段温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供

 岩木山麓には百沢、三本柳、嶽、湯段の四つの温泉があり、地域の住民が湯治に利用していた。1950~60年代の高度成長期に、観光開発が全国的に展開されると、これらの温泉はボーリング掘削により源泉が開発され、津軽地域の重要な観光資源となった。そこでこれらの温泉の歴史を紹介していこう。
 ▽百沢温泉
 江戸時代から温泉の湧出が知られており、百沢(ひゃくたく)寺の住職が「しのびの湯」と称して入湯していたという。しかし、温度が低かったため温泉として発展しなかった。
 高度経済成長を受けて、信仰の地だった百沢に鎮座する岩木山神社や高照神社が観光の地となっていくと、観光客の宿泊する旅館に温泉を引くため、1957(昭和32)年、岩木町(現弘前市)が中心となってボーリング泉源の開発が行われた。
 温泉は温泉事業条例に基づき、岩木町が維持・管理した。温泉の供給は、貯湯槽より分湯で行われ、町長の許可を得なければならなかった。供給料金は供給量毎分18リットルにつき、120万円と定められた。泉質は重炭酸土類泉で、効能は神経痛・リウマチ・痛風などとなっている。
 ▽三本柳温泉
 百沢温泉より1キロほど南方に位置する。温泉は1805(文化2)年に発見され、佐藤又右衛門が湯治場を設けたとされる。
 1843(天保14)年の「延命柳の湯因縁記」に三本柳温泉の由緒が記されている。悪戸村(現弘前市悪戸地区)の農家である万左衞門が、大晦日(みそか)の夜に三本柳方面に紫雲がたなびくという霊夢を見た。そこから湧き出る湯で沐浴(もくよく)すると持病が完治した。延命地蔵が安置されている地蔵森から湧き出る温泉のため「延命柳の湯」と名付けられた。
 その後次第に泉温が下がってきたため、1954(昭和29)年から1958(昭和33)年にかけてボーリング泉源の開発が行われた。現在では、田んぼの中に一軒の温泉旅館が建っている。泉質は含石膏(せっこう)弱食塩泉で、効能は神経痛・リウマチ・痛風などとなっている。
 ▽嶽温泉
 百沢温泉から西へ7キロほどのところに位置する。温泉は1674(延宝2)年、百沢村(現弘前市百沢地区)の野呂長五郎がシトゲ森で薪(まき)を取っていたとき、狐(きつね)に握り飯を盗まれた。彼はその狐を追いかけた際、狐が逃げ込んだ鳥海山薬師嶽下から湯が湧き出しているのを発見したという。長五郎はそこに湯小屋を建てた。そこが湯の沢で嶽温泉発祥の地となった。温泉発見のきっかけとなった狐は、温泉守り神として稲荷神社の祭神として祀(まつ)られている。
 現在の場所に温泉が移ったのは1796(寛政8)年である。その後、嶽には旅館が12軒できた。岩木山に近い高い方を上並(うえなみ)、低い方を下並(したなみ)といった。温泉は各旅館の中央部に湯の沢の泉源から引き湯した共同浴場で、各旅館には内湯がなかった。
 百沢に温泉が開発されると温泉客が減少したため1959(昭和34)年までボーリング泉源の開発が行われた。この開発で全旅館に内湯が完備された。泉質は含土類酸性硫化水素泉で、効能は神経痛・リウマチ・糖尿病・婦人病などとなっている。
 ▽湯段温泉
 嶽温泉から西南へ1キロほどのところに位置する。温泉は1724(享保9)年、賀田(よした)村(現弘前市賀田地区)の柴田長兵衛という人物が発見したとされる。また、その昔、ある老人が湯に入りたいといい、木葉を集めて持っていた錫杖(しゃくじょう)を突くと湯が湧いたという。そのため「木の葉の湯」と呼ぶようになったという。この錫杖を突いた人物は弘法大師だという由来がある。
 湯段温泉には本家の長兵衛旅館のほか、別家の湯段の宿、清明館、新栄館がある。1960(昭和35)年、ボーリング泉源の開発が行われた。泉質はアルカリ性弱食塩泉で、効能は皮膚病・泌尿器病・胃腸障害などとなっている。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

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日本海中部地震の日=4

2014/5/27 火曜日

 

漁船が打ち上げられた小泊漁港(1983年5月27日・青森県史編さん資料)
今別町の大川平バイパス(1983年5月27日・青森県史編さん資料)
浪岡八幡宮の被害(1983年5月27日・青森県史編さん資料)

 ▽5月26日が防災の日
 今から30年ほど前の正午頃、晴れた空のもと足下がぐらりと揺れた。1983(昭和58)年5月26日11時58分、秋田県沖の日本海を震源地としたマグニチュード7・7の地震が発生。日本海中部地震である。
 防災の日と言えば、全国的には関東大震災の発生した9月1日である。しかし、秋田県では5月26日を防災の日としている。そのくらい、日本海沿岸のひとびとにとって、この地震と津波は衝撃であった。
 青森県内の震度は最大が深浦町で震度5、津波による青森県の死亡者は17人にのぼった。市浦村(現五所川原市)の十三湖では、釣り客十数人が津波にさらわれ、6人が行方不明となった。鯵ケ沢町の漁港修築工事現場では作業中の20人が海に投げ出され、うち3人が死亡した。小泊村(現中泊町)では釣り客1人が死亡、ワカメ漁をしていた老人ら4人が行方不明となったほか、深浦町と岩崎村(現深浦町)でも釣り客ら3人が行方不明となった。
 ▽日本海の津波
 日本海側には津波がないという油断も大きく影響した。歴史上、何度も三陸津波を経験してきた太平洋岸と違い、日本海沿岸地域では津波に対する危機感と災害文化が育っていなかったとも考えられる。また、日本海岸で発生した津波は、非常に到達時間が短く、津波の第一波が深浦の検潮所において地震発生後約7分で観測されるなど、あっという間におそってきたというのが、沿岸で津波に遭遇した人の実感であった。体験記でも、これが津波だということがわからなかったという証言も見られた。
 岩崎村では地震の直後に村の臨時放送が流れた。「ただ今の地震により、津波警報発令、村民の皆さんは高台に避難してください。繰り返します…」
 地震後に発足した弘前大学日本海中部地震研究会では、地震・津波の実態研究に限らず、農地などへの影響や、災害時および復旧・復興への住民の対応について、全学的な組織をもって総合的な研究を行った。
 ▽一変した景色
 のどかな農漁村だけでなく、道路も街も観光地も学校も一変した。県内でも公共施設や神社仏閣、民家などの損壊が見られた。
 国道のみならず今別蟹田線などの地方道は大きな打撃を受け、岩崎西目屋弘前線も崖崩れと倒木のため通行不能となった。道路の被災箇所数は全県で261路線701箇所にものぼった。
 地震発生時、岩崎村の十二湖や日本キャニオンには鶴田中学校の3年生300余名が遠足にやってきていた。地震により道路は寸断され、バスでの帰宅がままならなくなったのであるが、岩崎村では余震の中、道路の復旧作業を急ぎ、中学校の生徒たちは無事に帰路につくことができた。帰りのバスの中から眺めた沿岸の被災風景を、同中学校の生徒は書き記している。
 小中学校では楽しみなお弁当の時間などが、恐ろしい揺れに襲われることになり、校庭などに避難した後に津波の恐怖がやってきた。深浦町では大戸瀬中学校の校舎などが使用不能となり、同中学校の生徒たちは付近の小学校の廊下や一部を借りて授業を行うなどした。
 ▽記録と教訓の重要性
 西津軽郡教職員組合では、小中学生の寄稿した作文による記録作りを行った。地震発生時、学校などにいた子供たちは、「このままここで死ぬのかなあと思った」「こんなじしんみたことがない」など、地震や津波のときの様子を自分の感性で克明に記録した。子供たちは帰宅後それぞれの家の被害状況を目の当たりにしてショックを受けるとともに、家業の被害に悩む家族を心配して家事手伝いをしながら、日常への復旧を歩んでいくこととなった。
 現在、東日本大震災の記憶が新しく、なかなか日本海沿岸の地震津波対策には気持ちを向けることが難しいかも知れない。しかし、記録をつなぎ防災教育や対策などに生かしていくことは重要なことであろう。
(弘前大学客員研究員・小田桐睦弥)

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風光明媚な芦野公園=3

2014/5/12 月曜日

 

招魂堂前で行われたファッションショー=1963(昭和38)年5月3日・白岩昭さん撮影・提供
観光施設になる前の芦野公園駅=2006(平成18)年8月17日・中園裕撮影
芦野湖と貸しボート=1959(昭和34)年4月21日・青森県史編さん資料

 ▽津軽十景
 芦野公園は藩政時代に灌漑(かんがい)用として造られた藤枝溜池(芦野湖)を中心とした公園である。明治期、芦野湖の周辺には「金木八景」に歌われた「芦野の虫」や「賽の川原の春望」の風景があった。芦野湖周辺は風光明媚(めいび)な名所だったといえよう。
 1920(大正9)年、町制施行により金木町が誕生した。その当時、芦野湖周辺には松や桜が植樹され、金木町は湖の周辺を町の公園にしたいと考えていた。そのため1926(大正15)年に、芦野公園保勝会が結成され、景勝地の保護や整備、宣伝を行った。
 1928(昭和3)年、弘前新聞社は創刊一万号記念事業として「津軽十景」を行い、芦野公園は十景の一つに選ばれた。入選した背景には保勝会の組織票があったと思われる。そして翌年、公園内に津軽十景を記念する石碑が建てられた。芦野公園は新聞のメディアイベントによって、津軽地方の景勝地として宣伝されたのである。
 ▽芦野公園駅
 芦野公園の宣伝と公園整備に拍車をかけたのは、1930(昭和5)年に津軽鉄道(津鉄)の芦野公園駅が開業してからだ。公園名が駅名となった宣伝効果は大きかった。また、津鉄は芦野公園をはじめ沿線の観光案内パンフレットを作成している。
 こうした観光宣伝に一役買ったのが、1931(昭和6)年5月の第1回観桜会の開催である。津鉄は観桜会の観光団を募集し、誘客のため増便や割引を行った。公園の整備も行うなど、観桜会を積極的に後援した。このため観桜会期間中に、開通以来の乗降者数を記録している。
 毎年実施される観桜会では、芸能大会などさまざまな催事が繰り広げられ、カフェ街の形成や夜桜見物などが行われた。芦野公園は着飾った人々が集い、花見をしながら酒を飲み、食べては歌って笑うなど、まさに老若男女が楽しむ娯楽の空間と化した。第1回の観桜会に打ち上げられた花火は、県内最初に行われる花火大会として、現在も続く人気の催事である。なお、観桜会の名称は1961(昭和36)年より「さくらまつり」と改称された。
 ▽屏風山権現崎県立自然公園
 1953(昭和28)年、青森県内の各地に県立公園が誕生した。北津軽郡方面では、1958(昭和33)年10月に、小泊や屏風山、芦野公園を含む地区が「屏風山権現崎県立公園」に指定され、後に県立自然公園となった。公園の名称は日本海側の景勝地を意識したものだが、ここでも津鉄が観光周遊の役割を果たす重要な交通機関となった。
 自然公園となった芦野公園は園内の整備が進んだ。遊歩道やベンチ、休憩所や公衆電話などが整備され、貸しボートも増設された。1961(昭和36)年4月には園内に動物園を開園し、子供達の人気を集めた。1980(昭和55)年6月には、登仙岬と対岸を結ぶ吊り橋の桜松橋が完成した。橋の名称は公園を彩る桜と松を前面に出したものである。
 ▽芦野池沼群県立自然公園
 1968(昭和43)年、津軽地方に国定公園を設置する動きが表面化し、該当する津軽地域の県立自然公園が調査の対象となった。この結果、1975(昭和50)年に、津軽半島の平舘や日本海側沿岸など、岩木山麓を含む地区が津軽国定公園に指定された。
 このとき、溜(た)め池である芦野湖などは人工的な景勝地とされ、国定公園の指定区域から除外された。しかし同年、芦野公園を含む芦野池沼群県立自然公園が誕生している。すでに県民の間で、芦野公園の人気が高かった何よりの証拠であろう。
 現在、芦野湖は「ため池百選」に、公園の桜は「日本さくら名所百選」に選ばれている。津鉄は現在も芦野公園を積極的に宣伝している。満開の桜の下で芦野公園駅を発着する津鉄の構図は、芦野公園を代表する光景である。西北津軽地域を代表する景勝地として、芦野公園は今後も津鉄と共に歩んで行くに違いない。
(青森県史編さん調査研究員 中園美穂)

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幻の青森鉄道管理局=2

2014/4/28 月曜日

 

青函連絡船の貨車航送=1969(昭和44)年9月・青森県史編さん資料
国鉄管理部庁舎=1980年代(筆者所蔵)
青森車掌区の入口=1980年代(筆者所蔵)

 今から40年ほど前、東北新幹線が開業する以前に、青森駅に降り立った旅人の目にどのような景色が映ったのか、筆者の幼い頃の記憶を頼りに少し思い起こしてみたい。
 かつて日本一の長さを誇ったという長いホームに降り立つと、まず何本も並ぶ線路の列を埋めている長い貨車の列が目に入る。控車と呼ばれる変わった車両を連結したディーゼル機関車によって、大きく口を開けた青函連絡船に出し入れされる様子が、昼夜を問わず見ることができた。
 ホームの上を忙しく走り回る、手小荷物や郵便物の入った袋を積んだ台車を引いた、ターレットと呼ばれる運搬車に追い立てられるように跨(こ)線橋の階段を上がり、改札を抜けて駅舎の外に出る。すると、正面にはバスとタクシーの群れの向こうに新町通りのアーケードが連なり、左手、海のほうには停泊している連絡船の巨体、右手に目をやれば道路に沿って、りんご市場の狭い店が肩を寄せ合うように並んでいるのが眺められる。
 そして、まるでりんご市場を足下に従えるかのように、駅前広場に正面を向けて古めかしくも堂々とした建物が立っていた。ここは、青森と国鉄の関わりについて語られるときに忘れてはならない一つの出来事の舞台なのである。
 時は1950(昭和25)年、終戦後の混乱がまだ収まらぬ頃、この建物には仙台鉄道局青森管理部が置かれ、青森県内にある国鉄の路線を一元的に管理していた。
 前年の6月に、それまで国営事業だった鉄道事業は、日本の占領政策を担っていたGHQの意向によって、公共企業体である日本国有鉄道の運営とされていた。その地方組織であった管理部も、この年、大改革の荒波を被ることとなったのである。
 その内容は、地方の管理組織を簡素化し、全国に49あった管理部と9カ所の鉄道局を、27の鉄道管理局に再編しようとするもので、鉄道創業以来の大規模な機構改革といえるものであった。
 とはいえ、東北・奥羽の両本線、そして青函航路という国鉄の大動脈と、貨物の大操車場を擁する、本州北端の鉄道の要であった青森市では、そうした地理的条件から近隣の他都市と比べても有利とされ、誰もが鉄道管理局が設置されることを信じて疑っていなかった。しかし、同年6月14日に発表された国鉄の地方組織改組の内容には、なんと青森への管理局設置は含まれていなかったのである。
 それは「青森鉄道管理局」の看板を用意して、その発表を待っていたという青森にとって、まさに予想だにしない内容であり、現場の国鉄職員をはじめ、県民も「ただ呆然(ぼうぜん)自失」といった状況であったという。
 この後、最終的に県内の国鉄路線は、秋田と盛岡の両鉄道管理局が所管することとなった。だが、当時の新聞に、本県の政治力の貧困と油断の結果であると書かれたこの出来事は、後々まで県内の国鉄の路線に、設備改良やサービス改善等の面から微妙に影を落とし続けることとなった。
 鉄道管理局設置の夢が破れたあとも、旧管理部の庁舎には国鉄の様々な機関が入居していた。その中の一つに青森車掌区があった。筆者の父親は同区に所属する車掌だったので、筆者も幼い頃父親に連れられて庁舎の中に一度だけ入ったことがある。駅前広場に面した立派な正面と違って、りんご市場の店舗の隙間に窮屈そうに開いていた車掌区の入口と、古びた長い廊下だけがなぜか今でも印象に強く残っている。
 現在、連絡船はわずかにメモリアルシップ八甲田丸にその記憶をとどめるに過ぎない。青森駅前も再開発が行われてすっかり姿を変え、りんご市場と旧管理部の庁舎の跡地は、駅前公園の広場と再開発ビルとなっている。だが、駅前に立ってバスを待っていると、ふと、幼い頃に見たりんご市場の雑踏や、その背後の大振りな国鉄の庁舎の姿がまぶたに浮かぶ心地がするのである。
(弘前大学國史研究会会員 石塚雄士)

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