津軽の街と風景

 

にぎわう相内の虫送り=27

2015/6/1 月曜日

 

相内の虫送り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
子どもたちの太刀振り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
灯籠を持つ子どもたち 1669(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
五所川原市藻川の虫送り 2005(平成17)年6月5日・筆者撮影

 ▽無形民俗文化財
 毎年旧暦5月頃の津軽地方では田植え作業が終わり、サナブリといって集落全体で農作業を休む日を迎える。その日に行われてきた行事が虫送りである。これはワラで「ムシ」と呼ばれる蛇体のワラ人形を作り、それを掲げながら、太鼓、笛、鉦(かね)などのにぎやかな囃子(はやし)や、太刀振り踊り、荒馬など芸能も連れ添って集落内を練り歩くもので、最後には村はずれの大きな木や神社の鳥居にムシをかけて終わる行事である。
 虫送りは稲に付く害虫を払うための儀礼だとされてきた。そのルーツとして、近世中期までは藩が「虫除祈祷(むしよけきとう)」と「除札(よけふだ)」(虫除けの御札)を配っていた行事があり、近世後期になると、民衆が独自の虫送りを始め、現在のような習俗へつながっていったことが考えられる。近世の旅行家菅江真澄も、1796(寛政8)年に鯵ケ沢で虫送りの行事を目撃したことを記録している(県立郷土館『東日本の神送り行事』)。
 このような行事は「青森県津軽地方の虫送り」として、2010(平成22)年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。そのなかでも現在、大勢の人々が集まってにぎやかに開催されているのが五所川原市相内の虫送りである。現在の様子を紹介したい。
 ▽相内の虫送り
 相内の虫送りは、相内青年団によって開催されてきた。虫送りの準備として、事前に青年団長名で文書が配布され、団員が各戸を回ってお金と米を集める。毎年6月の第2土曜日がサナブリの時期であり、虫送りの日となる。
 当日は午前中から青年団が青年会館で、長さ5メートルのムシを作り、シトギなどを用意する。団員たちは各村境や用水堰(ぜき)、橋のたもとなどの五カ所に虫札と「倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) 昆虫退散 五穀成就」などと書いた紙の旗を立て、お神酒と灯明、身欠きニシン、菓子などを供えておく。
 午後1時頃、青年会館の準備が終わると祭壇を拝んでから、ムシを台車に乗せた行列が集落内の運行を開始する。ムシの後には荒馬や太刀振りの踊り、太鼓や笛、手平鉦(てひらがね)の囃子、1メートルほどの長さの小さいコムシ、ニシンの切り身やシトギを配る人などが付いてくる。
 途中、各家から酒や漬物、お菓子などが振る舞われると、そこで太刀振りや荒馬を踊る。やがて行列が神明宮に到達すると、ムシを台車から降ろし、境内の木にかける。ムシはこの木の上から一年間、田を見守っているものだという。その後、青年団員たちは神社境内のフキをとり、囃子にあわせて踊る。そして夕方頃まで行事が続く(県民俗文化財等保存活用委員会『津軽・南部の虫送り』)。
 かつてこの行事には、女性や子どもが参加できなかったといい、その代わりとして前夜祭で「ガク」と呼ばれる30センチ四方の灯籠にロウソクを灯(とも)したものを持って歩いたり、昭和40年代に地元小学校が学校行事として太刀振りに参加していたというが、これらの写真はその様子を写したものであろうか。なおこの行事は「相内の虫送り」として、2011(平成23)年に県無形民俗文化財に指定されている。
 ▽虫札を発行
 五所川原市の藻川集落でも虫送りが行われている。その行事の概要は相内のものと似ているが、興味深いのが代々、虫札を発行してきた家があることである。その家の先祖は、かつて夜に岩木川へ入って善光寺様という大石を拾ってきたカミサマ(民間宗教者)であり、虫札の版木を管理してきた(拙論「北五津軽地方における善光寺信仰」)。
 このような虫送りで虫札が配布されている地域として、五所川原市金木、中泊町芦野、旧中里町上高根および深郷田、鶴田町鶴田および石野、旧木造町出精などが確認されている。これらの虫札は虫送りの歴史を考察するうえで貴重な文字史料である。
 しかしこれらの虫札に共通性はなく、それぞれ断片的な宗教的知識が変容したかたちで織り込まれており、それらを分析するにはまだまだ課題が多い。それでもこれらの虫札群は、18世紀半ばに各集落が独自に農耕儀礼を生み出していくなかで発生してきた存在ではないかと推測されている(福眞睦城「北五地域の虫札についての事例報告」)。
 なお五所川原市内では他にも、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などの各集落でもかつて虫送りが行われていたが、衰退したり失われたりしたという伝承があり、その一方で、近隣の虫送り行事の要素をまねして始めたのだ、と語っている地域もある。
 このように津軽地方の虫送りは必ずしも不変の行事ではなく、長い歴史のなかで、中断や再生を繰り返し、さまざまな変化と要素を取り込みながら、現在の習俗を形成してきた状況が考えられるのである。
(青森県史編さん執筆協力員・小山隆秀)

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油川村の念願の町制施行=26

2015/5/18 月曜日

 

油川村役場跡 2015(平成27)年4月28日・筆者撮影・役場は浄満寺の前にあった。現在は消防団の機械器具置場が建っている
油川町の仲町通り 1933(昭和8)年頃・青森県史編さん資料
イタリア館 1981(昭和56)年7月・青森県史編さん資料・建設当時はファブリの事務所であり住居でもあった
「先人の足跡消えず」の石碑 2015(平成27)年4月28日・筆者撮影・油川村制91年、町制60年、青森市との合併40年を記念し1979(昭和54)年に建てられた

 ▽油川町か大浜町か
 1919(大正8)年4月1日、「油川町」が誕生した。実は、油川村が「町」を目指したのは、この時が初めてではなかったようだ。これを遡ること13年、1906(明治39)年3月28日の村会で、県へ町制施行の出願が許可されたというのである(西田源蔵『油川町誌』)。しかも、4月8日付で、当時の村長西田林八郎は県知事西沢正太郎にあてて「油川村ヲ大浜町ト変更ノ義ニ付稟請」という文書を提出していることが判明した。
 これらを踏まえて注目したいのは、油川村は大浜町と名称を変更した上で町制施行を目指していたことであるでは油川村はどうして「大浜町」と名称を変更しようとしたのであろうか。まずは、この文書を読みながら、油川村の主張に耳を傾けてみることにしよう
 ▽「大浜」への思い
 文書によれば、油川村は数百年も前から市街を形成し、藩政時代には交通の要衝であったしかも古くから大浜港という名前で知られ北海道・下北半島方面はもちろん遠くは加賀・能登・大坂方面の船が大浜港に入り商取引を行っていた。
 そのため、商人たちはみな「津軽大浜」と彫られた印鑑を現在も使っているし、各地からの手紙にも大浜町と書いてあるものが多く、油川という名称は商売上障害となっている。したがって、商業発展のためには油川という名称を、古くから使っている「大浜町」と改称することが村全体の希望であると主張する。
 実際、藩政時代に油川の商人が大浜を名乗っていた事例は多く、「ツカル大ハマ」と刻まれた蝦屋長四郎の印が、青森浜町の豪商滝屋への書状に捺(お)されていることが確認できる。油川村の人々にとっては、大浜の名称が長く通用し、一般に知られていたので、商業振興のためにも、この名称を町の名前にしたかったのであろう。
 しかも、西田が村長に就任した1899(明治32)年、彼は当時「町油川」と呼んでいた地区の伝馬・仲町・館町の字名が浪返となっていたのを、関係機関に働きかけて「大浜」に改正したという(木村愼一『油川町の歴史』)。西田にとって、商業の町を象徴するとでもいうべき大浜という名称への思いは並々ならぬものがあったようだ。
 さて、こうした油川村の主張に対して、町村の監督機関である東津軽郡役所は、大浜は古くから使っている名称であることと、住民の大部分が商業に従事しているので、ほかの農村とは状況が異なるとして、名称の変更は「適当」と判断して県にその考えを示した。
 ところが、県の判断は極めて厳しいものであって、詮議するまでもないとこの文書を受理しなかったのである。こうして、村民の願いともいうべき「大浜町」への改称はついえたのであった。
 ▽町制施行は繁栄の礎
 その後、1917(大正6)年に油川村は、改めて町制施行の方針を立て調査を始めたそして2年後の1919(大正8)年3月21日の臨時村会は、町制施行に向けた最後の会議となった。
 当時の議事録によれば、町制施行については村民の間でも賛否が分かれ、出席議員からも町制は町方には利益があるものの、農家には利益はないという問いが投げかけられた。これに対して、議長(西田村長)も農家には直接の利益がないことを認めるが、町制施行は村民の「興奮剤」であって、これが実現すれば、知らずしらずのうちに村民福利は向上し、地域発展の礎になると説いた。加えて、油川村の商人がほかの市町と取引をする際に、「村」では肩身が狭いとも主張した。
 さきの大浜町のケースもそうであったように、町制施行の意図は商業取引を通じて地域を繁栄させようとする意図があり、まさに商業活性化のための「興奮剤」として町制施行を選択したといっていいだろう。
 なお、この日の村会は、満場一致で町制施行に賛成し、ここに油川村の意思は決定したのであった。そして、翌日から町制施行に向けた手続きに入り、3月31日付で翌4月1日から油川町と改称することが許可されることになった。
 ▽町制施行の意義
 明治初年の弘前藩による「青森振興策」の一環で1871(明治4)年に青森―新城間の直通道路が開削(石神野新道)され、弘前方面から青森町へ向かう際に油川村を経由せずに行くことができるようになったことや、1891(明治24)年の東北本線の開通などによって、油川村の商況は大きな打撃を受けており、村は「頓(とみ)に衰頽(すいたい)を来(きた)す」ありさまであった。
 一方、この頃の油川村では新しい産業が芽生えていた。例えば、秋の背黒イワシを加工して作る「焼干」が、村の特産品として成長していた。さらに、1918(大正7)年に神戸に拠点を置くラザラ・オンベール商会が缶詰工場「フランコ・イタリヤン缶詰会社」を建設して、イタリア人ジュゼッペ・ファブリが運営を任されていた(佐藤直司『白菊物語』)。ここでは、秋冬に群来する中葉イワシを「油漬ノ缶詰」にして外国へ輸出し、「塩製」にしたものを秋田・盛岡方面に移出して利益を得ていた。
 こうして第一次世界大戦のいわゆる「大戦景気」に乗じて頽勢挽回(たいせいばんかい)しようという目論見のなかで企図されたのが、この町制施行であった。こうして油川村は、名称こそ「大浜」とはならなかったものの、1906(明治39)年以来の念願ともいえる町制が1919(大正8)年に布(し)かれることになるのであった。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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変貌し続ける弘前駅前=25

2015/5/4 月曜日

 

弘前駅前から代官町方面へと登校する学生たち 1950年代後半・中園裕提供
駅前を行くトテ馬車 1957(昭和32)年7月12日・佐々木直亮氏撮影・青森県立郷土館提供
駅前商店街のアーケード。現在のイトーヨーカドー前から弘前駅方面を望む。1968(昭和43)年11月26日・青森県史編さん資料
開発される前の大町地区 1957(昭和32)年7月・佐々木直亮氏撮影・青森県立郷土館提供

 ▽駅に集まる人々
 戦前の弘前市は、第8師団の関連施設が林立し「軍都」と称されていた。しかし青森市のように空襲で罹災することもなく戦後を迎えた。第8師団の跡地は弘前大学をはじめ、小学校や中学校の敷地として利用された。このため戦後の弘前市は「学都」と称された
 学都となってからの弘前市には、市外から弘前大学や弘前学院聖愛高校、柴田女子高校などへ通学する学生たちが集まった。多くの学生たちが鉄道を使うので、朝の弘前駅前は制服を着た学生たちで埋め尽くされた。
 弘前市の中心街は土手町通りにあり、官公庁は弘前公園の周辺にある。駅から歩くには少々遠い。このため駅からバスやタクシーを利用する人々も多かった。1959(昭和34)年からは、弘南バスが黒石市の市街地や虹の湖を経由し、十和田湖へと向かう遠距離バスを運行した。こうして駅前には人々の集まる空間ができたのである。
 戦後の一時期、駅前にはトテ馬車が走っていた。バスやタクシーなどが足早に走り抜ける中を、1頭の馬がゆっくりと車を曳(ひ)いて行く。新旧の風習や文化が同居していた高度経済成長前後の時代を象徴するような光景だ。
 高度経済成長は早さと効率を重視する社会だった。このためバスやタクシーの普及に伴い、トテ馬車の利用客は減少。1958(昭和33)年には5台にまで減っていた。しかし、その希少性から馬車は恰好(かっこう)の被写体だった。
 ここに掲載した写真は、弘前大学教授の佐々木直亮が県外から招いた教授たちと共に撮影したものだ。ちなみに佐々木教授も1954(昭和29)年に県外から赴任している。
 ▽「横のデパート」街
 弘前市の中心街である土手町通りは三つの商店街に分かれていた。こみせ風な屋根が並ぶ上土手町、市内で真っ先にアーケードを導入した中土手町、デパートを中心とした下土手町という具合に、互いの商店街は個性を競い合っていた。
 中土手町のアーケードは1965(昭和40)年に完成。6年後に下土手町のアーケードも完成した。当時アーケードは「横のデパート」と称され商店街振興の象徴だった。
 こうした土手町の繁栄を受けて、弘前駅前商店街振興組合は1966(昭和41)年からアーケードの建設に着手した。商店どうしの利害関係からアーケードの高さが揃(そろ)わず、途切れる場所もあったが、3期にわたる工事を経て1973(昭和48)年に完成した。駅前から代官町までをつなぐ「横のデパート」は、商店街の繁栄に一役買った。特に雪をしのげるアーケードは買い物客に好評だった。
 ▽自動車社会と都市計画
 全国各地の都市と同様に、弘前市でも高度経済成長を通じて、市街地の整備や郊外への宅地造成が進められた。これに拍車をかけたのが自家用車の普及だった。
 これまでの移動手段は歩行か自転車が中心で、遠距離への移動は鉄道とバスだった。ところが1970年代以降に自家用車が普及し、街並みにも影響が生じてきた。歩行者中心の道路に自動車が増え、交通事故が頻繁に起きた。街中に駐車場がないため、しばしば渋滞が生じた。1970年代以降に都市計画が促進された背景には、高度経済成長以前の街並みが自動車社会と相容れない、という実態があったのである。
 自家用車の普及と共に、東京に本社を持つ大手資本のショッピングセンターが地方都市に進出し出した。1976(昭和51)年、弘前市にもイトーヨーカドーが弘南バスのターミナルを併設して開店し、市の商工業界に衝撃を与えた。事実、下土手町の角は宮川デパートは打撃を受け、1978(昭和53)年に閉店。有名テナントを揃えたハイローザに取って代わった。
 地方都市に進出した大手のショッピングセンターは、地域の中心商店街よりも郊外へ店舗を設けた。かつては不便と思われた郊外も、消費者自身が自家用車を所有することで移動は容易となった。地価の安い郊外には、広い駐車場を備えた大型の建物が容易に建てられる。自家用車の普及と大手企業の郊外進出は相互補完関係にあったと言えよう。
 ▽変わりゆく駅前
 自動車社会の浸透と共に、闇市時代以来の街並みが残る駅前に対し、市民からの批判が高まった。この結果、1979(昭和54)年から都市計画の名の下に、弘前駅前地区土地区画整理事業が始まった。
 これ以後、駅前の区割りは大幅に変更され、駅前商店街のアーケードは撤去された。小売店舗中心の商店街は姿を消し、大規模なホテルやデパートが建ち並んだ。久しぶりに弘前駅前を訪ねた人が“迷子になった”と証言するほど、駅前周辺は大変貌を遂げた。
 中心商店街への集客策が叫ばれて久しい。だが近年、土手町通りの活性化事業は一定程度の成果を上げてきた。2013(平成25)年7月、駅前界隈にも弘前市駅前再開発ビルとしてHIRORO(ヒロロ)が開店。市内各地で新たな動きが見え始めている。
 そして現在、かつてアーケードがあった駅前商店街の北側(駅前2丁目界隈)が、再開発地区として大幅に変貌を遂げようとしている。変わりゆく弘前駅前の姿は、今後の都市計画を考える上で大事な鍵を握っているのだ。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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五能線駆けたハチロク=24

2015/4/28 火曜日

 

深浦駅で撮影された五能線最後の蒸気機関車 1973(昭和48)年3月26日・山本千鶴子さん撮影・提供
海沿いの築堤をゆくハチロク 1970年代初期・白岩昭さん撮影・提供
五能線岩木川橋梁を渡る貨物列車 1971(昭和46)年・白岩昭さん撮影・提供

 西海岸地方にお住まいの方であれば、数年前まで鯵ケ沢町役場の裏手に、1両の蒸気機関車が置かれていたことを覚えているだろう。また「リゾートしらかみ」号などで五能線を旅された方の中には、途中のウェスパ椿山駅に、やはり蒸気機関車が1両展示されているのに気づいた方もいるだろう。どちらも同じ「8620」という形式の機関車だが、五能線の沿線に、この形の機関車が保存されていたことにはもちろん理由がある。
 8620形蒸気機関車、愛称「ハチロク」は、1914(大正3)年から製造が始まり、1929(昭和4)年までの間に、国鉄向けとして計672両が製造された機関車である。
 これ以前、1872(明治5)年10月14日に新橋と横浜の間で日本初の鉄道が正式営業を開始して以来、明治期を通じて日本は、外国から蒸気機関車を輸入して列車の運行に必要な機関車を確保してきた。それとともに、それらの優秀な機関車を研究し、日本国内でも機関車を製造できるように技術を蓄積している状況にあった。
 その後、明治の末に至って、それまで主力として活躍してきた輸入機関車が老朽化し、新しい機関車で代替する必要が生じた。そして国産の機関車が一定の性能を発揮出来ることが確かめられたことから、蒸気機関車の国産化技術の確立を目指して設計、製造された機関車がハチロクなのである。
 設計に当たっては、明治末期に輸入された機関車が参考とされた。ハチロクは日本の実情に合った性能で、全国の路線で使用出来るよう汎用性を追求して設計された。比較的平坦な路線での長距離運用に適した客貨両用の機関車でもあった。大正生まれのベテランであったが、蒸気機関車の最末期まで、全国津々浦々で活躍を続けるほど長く愛用されることとなった。
 五能線においてもハチロクは、蒸気機関車がディーゼル車に置き換えられる1973(昭和48)年まで、春夏秋冬365日、旅客貨物の別を問わずに列車を牽(ひ)き続け、沿線の住民に親しまれていたのである。
 深浦駅前の写真は、五能線が無煙化される日に撮影されたハチロク、58666号機の姿である。時代と共に原型から改造されてはいるものの、よく手入れされた車体は半世紀余の風雪をくぐり抜けてきたとは思えぬ美しさを保っている。前述の鯵ケ沢町役場に置かれていた48640号機も、この写真が撮影された同日まで、五能線で走り続けていたハチロクのうちの1両なのである。
 ちなみに番号を一見しても、なぜそうなるのか非常にわかりづらいと思われるが、58666号機は447両目、48640号機は341両目のハチロクとなる。これは8620形の製造が始まった時点で、既に8700形という別の形の機関車があったことから、番号の重複を避けるために、80両ごとに万の位の数字を1つずつ繰り上げて付番したことによるものである。
 48640号機は、海のそばという潮風が当たる場所であったことも災いして、かなり老朽化が進んでいた。だが、数年前にNPO団体の手で、弘前市の弘南鉄道新里駅に移設され、化粧直しを受けて、大正生まれのスマートな姿を今に伝えている。
 また、ウェスパ椿山駅に展示されている、もう1両のハチロクである78653号機も、同じNPO団体が五能線での動態保存を目指して搬入したものである。こちらは今にも走り出しそうな程に、手入れされた美しい姿を五能線の車窓から見ることが出来る。
 動態保存の実現にはハードルが高いのも事実である。しかし、春はりんごの白い花をかき分けるように、夏は海辺を青い波しぶきを浴びるように、秋は田面を黄金色の波にもまれるように、そして冬は鉛色の空の下で激しい地吹雪を突っ切って、四季折々の景色の中を颯爽と駆け抜けるハチロクの姿を再び見てみたいと思うのは筆者だけだろうか。
(弘前大学国史研究会員・石塚雄士)

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紙漉沢の長慶天皇伝説=23

2015/4/6 月曜日

 

旧長慶天皇御陵墓参考地 2006(平成18)年11月・筆者撮影
紙漉沢獅子舞 2014(平成26)年6月・筆者撮影
環境美化運動の様子 2012(平成24)年5月6日

 ▽陵墓参考地
 弘前市紙漉沢(旧相馬村)には上皇宮(じょうこうぐう)という神社がある。社殿の奥の急峻(きゅうしゅん)な山道を登っていくと、四方を柵に囲われた空間が現れる。その手前の木柱には、旧長慶天皇御陵墓参考地と記されている。
 「陵墓」とは、皇室の各種の墳墓の総称であり、被葬者については宮内庁によって定められている。それとは別に、宮内庁によって皇族の墳墓であるとされながら、被葬者が特定されていない陵墓を陵墓参考地という(外池昇『事典 陵墓参考地』)。紙漉沢の旧長慶天皇御陵墓参考地は、現在では参考地ではなくなっているため、「旧」を付けて通称されているのである。
 ▽長慶天皇の潜幸伝説
 長慶天皇とは、大正年間の研究によって在位が確証づけられ、1926(大正15)年に皇統に加えられるまで、即位の事実すら不詳であった天皇である。南北朝の動乱期に南朝3代目の天皇として即位したとされるが、晩年の状況はほとんどわからず、全国各地に潜幸伝説が生まれた。青森県内に限っても、南部町の恵光院(けいこういん)及び有末光塚(うばこうづか)や青森市浪岡の広峰神社、そして紙漉沢に長慶天皇終焉(えん)の地の伝説が残っている。
 伝説は現在に伝わる旧相馬村地区内の地名の由来にも大きな影響を与えている。例えば、紙漉沢という地名は、長慶天皇に同行した人物によって紙漉(す)き技術が伝えられた場所であるといい、同地区内の五所という地名は、長慶天皇の御所があったことに由来するなど、伝説に絡めた地名が多く存在する。また、地元に残る紙漉沢獅子舞は、長慶天皇に同行した人物が伝えたものであると伝えられており、伝説は様々(さまざま)に旧相馬村地区内の自己認識に影響を与えているといえよう。
 ▽御陵を目指して
 1882(明治15)年に宮内省(当時)が、被葬者を特定できないながら陵墓の見込みのある墳墓を「御陵墓見込地」というかたちで整理して保護することを決めた。1888(明治21)年に「御陵墓伝説参考地」という分類が加えられ、紙漉沢の「ウヘノウ堂(上皇堂)」は「相馬御陵墓伝説参考地」として決定された(相馬村誌編集委員会編『相馬村誌』)。
 これは、皇統に加えられるはるか以前に、長慶天皇を被葬者に想定して決定されたことになるが、それまで青森県令や宮内大臣に対して地元から度々(たびたび)上申があり、1888(明治21)年9月に諸陵助(諸陵寮次官)によって現地調査が行われた(『相馬村誌』)ことなどが決め手となったと思われる。1895(明治28)年には「御陵墓伝説参考地」は「御陵墓参考地」と改称された。
 その後、地元では御陵造営の気運が盛り上がったようである。詳細は不明だが、御陵の復元的な整備を目指したものだったのだろうか。地元出身の郷土史家である成田末五郎が、1934(昭和9)年に著した「長慶天皇御陵墓参考記」(『相馬村誌』所収)には、1905~06(明治38~39)年頃、外崎覚をはじめとする研究者の来訪や、多くの参拝者があり、「今にも御陵の造営が行われる」と、幼心に感じたことが述べられている。しかし、運動は下火になったようで、陵墓参考地の景観は、「有志で植えた数千本の桜もわずかに数本」という寂しい状態になってしまったようだ。
 相馬御陵墓参考地にとって、大きな契機となったのが1935(昭和10)年の臨時陵墓調査委員会の発足だった。同委員会は、陵墓や陵墓参考地に関する宮内大臣の諮問について答申することを目的として組織されたものだった。特に、長慶天皇の御陵の調査審議については、大きな役割を担ったようだ(『事典 陵墓参考地』)。
 当時、長慶天皇陵だとする宮内省への上申は百数十箇所を超えていたが、相馬陵墓参考地と、和歌山県の河根(かね)陵墓参考地(現和歌山県九度山町)については、可能性が最も高いと認識されていた。しかし臨時陵墓調査委員会の調査の過程で、現在の長慶天皇陵(京都市右京区)の地が注目され、1944(昭和19)年に長慶天皇嵯峨東陵として決定することとなった。それに伴い相馬陵墓参考地は廃止されることとなった。
 ▽地域の核として
 2012(平成24)年5月9日付けの「陸奥新報」に、相馬地区環境美化委員会が旧長慶天皇御陵墓参考地周辺の環境を整備した記事が掲載されている。地域の住民が40人ほど参加し、アジサイや桜を植えたとあるが、参考地廃止から70年を経過した現在であっても、旧陵墓参考地を大切に思う地元の人々の気持ちは途切れることなく続いているようだ。
 今後も、旧相馬村地区の人々にとって、伝説とロマンに彩られた旧陵墓参考地は、地域を結節させる核であり続けるのではないだろうか。
(弘前市教育委員会文化財課・小石川透)

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