陸奥鶴田駅と弘南バス(1961年3月・やぎはし写真館提供)
廻堰大溜池(津軽富士見湖)(1953年4月6日・やぎはし写真館提供)
合併前の鶴田本町通り(19531953年3月21日・やぎはし写真館提供)

 1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行で、青森県内は8つの郡(東津軽・西津軽・中津軽・南津軽・北津軽・上北・下北・三戸)に分けられた。盛岡藩領だった上北・下北・三戸の3郡とは対照的に、弘前藩領だった5つの郡には、すべて津軽の名前が付されている。それだけ津軽地域には共通する歴史背景があるのだろう。しかし当然、津軽の各郡には違いや特徴もある。今回の連載では、5つの津軽地域に見られる街並みや風景の特徴などを、青森県史編さん事業で得られた成果を中心に紹介したい。
 ▽駅と橋
 町制施行前の北津軽郡鶴田村は、岩木川沿いの肥沃(ひよく)な土地を活かした稲作の盛んな農村だった。だが1918(大正7)年に陸奥鉄道(後の五能線)が開通し、陸奥鶴田と鶴泊の2駅が設けられた。
 これ以降、次第に隣村の六郷村や梅沢村から、駅のある鶴田村へと農産物が集積されだした。岩木川に架かる鶴寿橋(かくじゅばし)から陸奥鶴田駅は比較的近く、南方の保安橋からは鶴泊駅に直行できた。このため以前にも増して、鶴田村は西津軽郡各地との交流が盛んになった。
 役場のある陸奥鶴田駅の駅前通りには繁華街が形成された。そして、駅と橋との結びつきによる物流の効果もあり、1941(昭和16)年10月1日、鶴田村は町制を施行した。時に太平洋戦争開戦の2ヶ月前だった。
 ▽五所川原と板柳の間
 1955(昭和30)年3月1日、鶴田町は六郷・梅沢・水元の3村と合併して、新たに鶴田町となった。北津軽郡の鶴田町と六郷・梅沢両村が合併したことはともかく、西津軽郡の水元村が合併に加わったことは異色であろう。
 これには駅や橋による交通事情の他、廻堰(まわりぜき)大溜池の存在が大きく影響している。旧水元村の大半を占める溜池は、水元村はもちろん、周辺の町村の農業に不可欠な存在だったからである。別名津軽富士見湖と呼ばれ、今では鶴田町最大の観光名所にもなっている。
 市町村合併は時に激しい争いを伴う。鶴田町の合併劇は、水増し投票や住民投票問題などで世間をにぎわした。特に前者の問題は、1956(昭和31)年5月11日、自治庁が水増し投票をできないように、町村合併促進法の施行令を一部改正する政令を発した。鶴田町の事例が全国の選挙制度を是正する先例になったのである。
 鶴田町の分町問題は、板柳町に接する大字石野と野中、五所川原市と接する大字梅田と中泉で起こっている。いずれも鶴田町内にありながら、板柳町や五所川原市とも近く、両市町との交流が盛んな地域であった。
 鶴田町が合併と分町で揺れていた時期は、板柳町が市制施行を模索し、すでに五所川原町が合併によって市制施行を遂げ、大幅に市域を広げていた頃だ。両市町に挟まれた鶴田町の位置が、合併問題に際して、町民に不安や心配をもたらしたと考えられよう。
 なお合併問題の基礎資料は、『鶴田町誌 下巻』の他、『青森県史資料編近現代5 復興と改革の時代』にも掲載したので、大いに参照して欲しい。
 ▽鶴の舞う町
 鶴田町には鶴に因(ちな)んだものが豊富にある。鶴寿橋や鶴寿公園などの地名をはじめ、マンホールや銀行の看板、跨(こ)線橋の側壁などに鶴の絵が描かれている。道路上の杭(くい)や柱、郵便ポストの上など、至る所に鶴のオブジェがある。1999(平成11)年1月、陸奥鶴田駅は鶴が舞う形に新築された。廻堰大溜池には有名な鶴の舞橋も架橋された。
 鶴は「もの」だけに留(とど)まらない。絵日記で一躍全国的に有名になった竹浪正造(まさぞう)さんと、「ツル多はげます会」の活動は、全国的にも有名だ。また、町中にある鶴モチーフを見つけながら鶴田町をガイドして歩く、若い女性たちを中心とした「つるた街プロジェクト」も注目を集めている。
 鶴以外にも鶴田町では、2004(平成16)年3月に学校統合で閉校した水元小学校の校舎を、町民の活動拠点である「伝承館」に活用している。木造校舎は歴史的にも貴重な地域遺産である。今ある「もの」を活かした試みとして、大いに評価できよう。
 今回の調査と写真の収集にあたり、陸奥鶴田駅前の喫茶店「珈琲いしむら」のご夫妻と、やぎはし写真館には大変お世話になった。この場を借りてお礼を申し上げたい。
(県庁県史編さんグループ主幹 中園裕)