津軽の街と風景

 

アイヌ語と津軽半島=15

2014/11/24 月曜日

 

高野崎(たかのざき)から見た袰月の入江(大きな岩の後方)=2009(平成21)年8月22日・筆者撮影
宇鉄川。国道の近くから上流を撮影したもの=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」
今別町大字奥平部(おくたいらへ)の鬼泊トンネル。奥平部もアイヌ語系地名。「へ」は「ぺ」または「ぺっ」で、川を意味する。事実、トンネルは平舘村(現外ケ浜町)との境界近くにあり、近くには鬼泊川が流れている=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」

 ▽「狄村」
 北奥地方の歴史的・文化的特質のひとつに、アイヌと和人(アイヌに対する日本人の呼称)との共存があげられる。それは、江戸時代の北奥に生きた本州アイヌと呼ばれる人々が、弘前・盛岡両藩に津軽アイヌ・下北アイヌとして支配され、彼らのアイヌコタン(集落)が津軽半島や夏泊半島、下北半島の各地に確認されていることにも示されている。
 津軽地方についてみると1645(正保2)年の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」の、津軽半島北端、三厩(みんまや)(外ケ浜町三厩)周辺のほか、日本海に面する半島北西端の小泊(中泊町小泊)周辺、陸奥湾に面する夏泊半島北端(平内町)に「狄村(えぞむら)」が記されており、江戸時代初期段階でのアイヌの居住が確認できる。しかし、「狄村」には他の村落と異なり、具体的な村名と村高(一村の生産高)が記されておらず、実体は定かでない。
 ▽津軽一統志
 「津軽一統志(つがるいっとうし)」には、1669(寛文9)年頃の津軽半島のアイヌ居住地と家数の状況として、宇田(うた)村・ほこ崎村(以上、外ケ浜町平舘)、五生塚(ごしょうづか)村・砂ケ森村・袰月(ほろづき)村・小泊(大泊(おおどまり))村・山派(やまはだち)(大川平(おおかわだい))村(以上、今別町)、松ケ崎村・六条間(ろくじょうま)村・藤嶋(ふじしま)村・釜野沢(かまのさわ)村・宇鉄(うてつ)村・竜飛村(以上、外ケ浜町三厩)などが書き上げられている。
 津軽半島北端の広い地域に、アイヌの居住集落が存在していたと理解できる。これらの集落名には、その地形や生活文化に由来して、居住したアイヌの人々の言語で付されたと考えられるものもあり、今もそうしたアイヌ語地名が残っている。そのいくつかを紹介してみよう。
 ▽平舘と今別
 平舘の「宇田」はアイヌ語の「オタ」(砂、砂浜)の訛音と考えられる。幕末の探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)もこの地を訪れた際に「歌村。定めてヲタ村なるべし。此処初めて砂を見る。」(「東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)」)と記している。
 今別の「袰月」は「ポロ・トゥキ」(大きい・坏(つき))であろう。アイヌの人々は和人との交易で「坏=トゥキ」を入手し、酒を入れた「トゥキ」(直径10センチ位の木製の椀)を高台にのせ、イクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))をその上に横たえて飲む独自の飲酒文化を築いた。現在の袰月の入江は半円形の湾であるが、まさに大きな坏に酒を注いだような景観を呈している。
 ▽三厩と宇鉄
 三厩の「六条間」は「ロクンデウ」(大船)に停泊港を意味する日本語の「間」を組み合わせた地名であろう。また、六条間から三厩よりに算用師(さんようし)峠があるが、ここは「サニ・ウシ」(坂のある処)の意であると考えられる。
 「宇鉄」はどうであろうか。宇鉄は江戸時代の津軽アイヌ居住地としてよく知られた地名である。弘前藩は1756(宝暦6)年と1809(文化6)年の2度、津軽アイヌの同化政策を推進したが、「東奥沿海日誌」からは宇鉄に居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込みながらも幕末に至るまで民族としての文化を保持し続けていたことが理解できる。ただし、宇鉄の地名由来は定かではない。「ウワテツ」(群がる)、「ウ・ラシ」(お互い・魚を捕る)、「オタ・エツ」(砂・出崎)、「ウトル・ペツ」(間の・川)のいずれかが日本語に転訛したものとされている(『角川地名大辞典』)。
 ▽山田秀三
 こうしたアイヌの人々の民族文化に由来する地名は、津軽海峡をはさむ北奥地方と北海道で共有されるものであった。戦前の国家官僚で、戦後はアイヌ語地名を追って各地をくまなく踏査した研究家の山田秀三は、津軽海峡をはさむ南北で同地名が多く、北側を歩いていると南側を歩いているような錯覚に陥ったという(『アイヌ語地名の研究』)。津軽海峡をはさむ北奥以北の地は、アイヌの人々にとって民族の一体的空間=アイヌモシリ(アイヌ〈人間〉の大地)であったのである。
(札幌大谷中学校・高等学校教諭 市毛幹幸)

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面積広げた合浦公園=14

2014/11/3 月曜日

 

木村荘助頌徳之碑(しょうとくのひ)(2014年9月29日・筆者撮影)木村荘助(しょうすけ)は水原の公園創設事業に対する最大の有志者である。西向きに配置されたのは、廃棄道を活用した公園創設の原点を振り返るためと考えられる
不老亭から眺めた公園(明治末期から大正初期・青森県史編さん資料)右側の大きな松が公園創設の拠点である「三誉(みよ)の松」。当時の公園が「松の公園」だったことがわかる
歓迎桜の碑(2014年9月29日・筆者撮影)裏面には「明治廿九年五月一日 留守歩兵第四旅団司令部将校下士」とある。1896(明治29)年5月に、公園内で招魂祭が挙行される際に、陸軍が桜を数株植えたという

 ▽水原衛作の青森公園
 合浦(がっぽ)公園は、青森市街地の東部沿岸に位置する市民の憩いの場である。また都市部には珍しい海の公園として有名である。
 公園は、1881(明治14)年に、もと弘前藩士の水原衛作(えいさく)が青森の豪商である木村荘助(しょうすけ)ら有志者と公園を創設しようとしたことに始まる。このとき認められた公園は、現合浦公園を東西に走る旧奥州街道の廃棄道だった。1873(明治6)年に公布された公園制度に見合う条件を満たさねばならなかったからだ。このため当初の公園は、形や規模が現在の公園とはだいぶ違っていた。
 廃棄道の半分以上が公園とされたが、廃棄道を利用しただけでは東西に長すぎる公園となってしまう。このため水原は公園の北側と南側に、公園よりもはるかに広い彼自身の所有地(後に公園附属地となる)を接続させた。公園として体裁のよい広さと形を確保しようとしたのだろう。
 だが当時の公園制度では、水原の所有地は私有地であるため、正式な公園とは認められなかった。そのため水原にとって、公園を創設するということは、彼の所有地を含めた造園を意味した。彼が造園を進めていた頃の公園の正門は、今日と異なり、青森町(現青森市)に近い公園の西端箇所にあった。現在、公園の正門は国道4号に通じる南側に置かれている。水原が公園を創設した当初とはだいぶ違っていたのである。
 ▽青森市の合浦公園
 水原は公園創設に命をかけるが、公園の完成を見ることなく、1885(明治18)年に亡くなった。翌年に、実弟の柿崎巳十郎(みじゅうろう)が兄の遺志を継承し造園に励んだ。
 しかし柿崎も、兄の水原と同様に協力者不足や資金難に苦しんだ。このため1890(明治23)年には、公園附属地(水原の所有地など)を青森町へ寄付する意向を見せた。これに対して青森町は、公園が町に必要であると考え、附属地を含む公園全体を町の公園とみなし、同年には公園を海浜側へ拡大しようと目論んでいた。
 1895(明治28)年、青森町が公園を拡大するにあたり、柿崎は正式に青森町へ公園附属地を寄付した。水原が描いた公園を完成させるためだった。事実、柿崎はその後も園丁として公園を整備する作業に関わり続けた。
 翌年、それまで青森公園と呼ばれていた公園が、青森町によって合浦公園と改称された。しかし、合浦公園の名称には創設者の水原が大いに関係していたと思う。彼は俳号「鬼笑」を持っていた。公園創設の拠点となった「三誉(みよ)の松」の近くには句碑も存在する。合浦の名称は俳諧集「合浦集」や「合浦舎利母石(がっぽしゃりもいし)」のほか、画集「合浦山水観」などの表題にも登場し、東津軽郡沿岸の呼称と言われていた。
 そして何よりも、彼は生前から遺書に相当する文書へ「合浦公園」と著していた。こうした背景から、水原が合浦公園の名称を考え、それが青森町(後に市制施行)の公園になっても継承されたわけである。
 しかし、青森公園から合浦公園と名称が変わったことは、同時に公園が水原の公園から青森市の公園として整備される始まりでもあった。1901(明治34)年、青森市は従来の公園面積では狭すぎるとして、公園の面積を海岸まで拡大した。合浦公園は津軽の海の公園と考えられるので、この時点で名実共に津軽の海の公園が誕生したことになろう。そして、これ以降も合浦公園の面積は拡大されていった。
 水原が造園を始めた頃の合浦公園は、松の公園と呼ばれるほど松が多かった。だが、戦争や皇室に関わる記念行事が開催される度に桜が植樹された。合浦公園保勝会が観桜会を主催するなど、合浦公園は桜の公園として市民に愛されていった。そして今もなお、合浦公園は青森市を代表する春まつりの会場として、また夏の海水浴場として市民に親しまれている。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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鯵ケ沢の戦争「遺産」=13

2014/10/20 月曜日

 

隼の捕獲に関する情報を伝える丸二(まるに)塩屋文書。右は隼を発見したことを伝え、左は発見できないことを掲載したもの=1904(明治37)年7月11、13日、鯵ケ沢町教育委員会提供
監的壕(トーチカ)=2013(平成25)年6月13日、鯵ケ沢町教育委員会提供
山田野演習場=明治末期~大正初期・鯵ケ沢町教育委員会提供

 ▽隼(はやぶさ)と伝書鳩
 鯵ケ沢町は日露戦争以降の戦争の記憶を留める町である。
 1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦を布告した翌日深浦村(現深浦町)の艫作(へなし)崎沖で酒田から小樽に向かう商船・奈古浦丸(なこのうらまる)がロシアのウラジオ艦隊に撃沈され、乗組員2人が溺死した。目の前に広がる海が戦場になった。
 7月11日、深浦の駐在所から鯵ケ沢警察署に「艫作の椿山に隼が住んでいるとの情報を得た」との報告があった。8日の「軍事上必要に付き隼を捕獲せよ」との署長からの通達への回答であった。
 陸軍には情報戦のために隼が必要だった。当時日露両軍は情報伝達手段として伝書鳩を使っていた。帰巣本能を利用して鳩にメモを運ばせるのである。敵の通信を妨害するため、隼に伝書鳩を襲わせる計画である。
 鯵ケ沢町教育委員会には4通の駐在所報告が収蔵されている。情報戦については正史に書かれることが少なく、伝書鳩関係の資料は貴重である。
 ▽山田野演習場
 このように、活用されるのを待っている資料もあるが、実は鯵ケ沢町は戦争にまつわる歴史遺産の活用では青森県でも先進的な自治体なのである。陸軍山田野演習場の諸施設がその第一歩である。
 1898(明治31)年、日露戦争を前に弘前に陸軍第八師団が創設された。日露戦争終結後の1906(明治39)年、第八師団の訓練施設として岩木山麓北方に広がる台地上の原野に山田野演習場が設けられた。広さは約5千ヘクタール、1909(明治42)年頃には廠舎(しょうしゃ=演習用の兵舎)も建てられた。
 演習場内の二ツ森山の頂上に分厚いコンクリートで覆われたドームのような施設が残されている。「監的壕(かんてきごう)」と呼ばれ、砲撃訓練の際に着弾を観測して結果を仮設電話で知らせるための施設である。ユニークな形なので「ふるさと学習」の子供たちに人気がある。監的壕は別に1か所が残存する。
 ▽記憶を後世に
 鯵ケ沢町の山田野演習場跡地には、このほかにも廠舎1棟・衛兵所・将校宿舎などが現存している。そのうち「9号廠舎」は1911(明治44)年の廠舎火災後に建築されたもので、築後百年を経て今も倉庫として使われている。貴重な建築である。記録を残すため、老朽化した廠舎の測量がまもなく開始されるという。
 鯵ケ沢町教委では2006(平成18)年から山田野演習場の調査を開始し、演習地の全体規模や残されている遺構の調査を進めてきた。その成果は小学校の「ふるさと学習」や教職員の「ふるさと研修会」の教材として活用されている。
 山田野演習場を懐かしむ元兵士も、もう僅かになった。戦争の記憶を留める資料や遺構を未来に伝えていこうとする鯵ケ沢町の取り組みに注目していきたい。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

 

 ※今回紹介した廠舎跡の建物や施設はいずれも個人の所有地にありますので、見学等の場合は許可を得てからにしてください。みだりに立ち入ることのないようお願いします。

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北畠氏は浪岡の誇り=12

2014/10/6 月曜日

 

浪岡の旧街道(工藤清泰作成)
北畠まつりの武者行列。下町付近= 2010(平成22)年8月17日・浪岡事務所撮影
浪岡八幡宮の神輿渡御。下町付近=1938年「浪岡町史2」より転載
中世の里の殿堂「中世の館」=2014(平成26)年9月26日・工藤清泰撮影

 ▽浪岡七曲
 浪岡の中心街は、現在でこそ国道や県道・市道が縦横に走る街並みを呈するが、戦前までは「浪岡七曲(ななまがり)」といって、羽州街道・大豆坂(まめさか)街道・乳井通りなどが交錯する煩雑な街路を形成していた交通の要衝であった。
 ちなみに、現在の地図に古い道を重ね合わせると、七曲の意味が理解できると思う。また新たな道がいかに多く造られたかわかるというものである。
 ▽浪岡の土地柄
 浪岡の地は、古来津軽と外浜や西浜との境界・津軽山辺郡を形成、蝦夷島へ向かう要害の土地柄であったまた室町幕府は貴種である北畠氏を浪岡城に配したことも、北方への守りを固める意図があったかもしれない。
 浪岡の人々は、北畠氏が浪岡城にいたことをとても誇りに思っている。明治の王政復古を機に、1882(明治15)年には「北畠古城跡碑」や「北畠累代の墓」を建立して浪岡城北畠氏を顕彰。大正になると浪岡城内館を公園整備して後に観桜会を開催。
 さらに昭和も後半になると浪岡夏祭りを「北畠まつり」に名称変更。そして史跡浪岡城跡の公有化を1969(昭和44)年から始め、2014(平成26)年でほぼ100%達成している。このように明治・大正・昭和・平成と150年近くにわたる累々とした浪岡北畠氏顕彰の営みがあったのである。
 ▽浪岡八幡宮県社昇格
 浪岡城の西の押えとなっている浪岡八幡宮は、793(延暦12)年、坂上田村麻呂創立と伝えられ、弘前藩二代津軽信枚が1614(慶長19)年に再建した時の黒漆塗り棟札(市指定文化財)が残る、由緒ある鎮守の杜である。
 1938(昭和13)年に八幡宮は長年の運動が実を結び、郷社から県社に昇格する栄誉を受けた。その時の祝賀パレードを写した記念絵葉書が各家庭に残っている。『浪岡八幡宮御神輿渡御』と題された絵葉書は、八幡宮を出発し、当時のメーンストリートであった茶屋町・仲町・下町を通り、浪岡駅までの往復を撮影したもので、12枚セットとなっている。
 ▽中世の里
 八幡宮県社昇格の2年後、1940(昭和15)年の紀元節前日である2月10日に、浪岡城跡は県内初の国史跡となり、さらに同年6月1日には浪岡村が町制を施行して正式に「浪岡町」が誕生した。
 ここに地域住民の精神的柱石となった八幡宮
の価値、歴史的存在として浪岡城の国の認知、自治体としての浪岡町の成立は、三位一体となって、現在の「中世の里・浪岡」の礎になっていったと考えることができる。
 ちょうど4半世紀前、「ふるさと創生」が叫ばれる中で、浪岡町は中世の里づくりに邁進(まいしん)した。歴史・文化の殿堂として「中世の館」を建設し、イメージキャラクター「ばさら君」は、本郷だるま凧をベースに、中世の烏帽子を被った子どもであったが、今や23歳の青年に成長した。
 2005(平成17)年、浪岡町は青森市と合併した。あれから早10年を経過しようとしている中で、浪岡駅前をはじめ浪岡事務所(旧役場)周辺付近も整備が進みつつある。人口減少と地域活性化対策に取り組もうとして「地方創生」の掛け声が強くなる昨今、「ばさら君」には、もうひと働きしてもらわなければならないようである。
(元浪岡町史編集委員 工藤清泰)

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板柳の歴史語る建物=11

2014/9/22 月曜日

 

板柳町役場と公会堂=昭和戦前期・青森県史編さん資料
郷土資料館に移築された旧役場庁舎=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
旧役場庁舎2階の内装=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
板柳駅=昭和戦前期・青森県史編さん資料

 ▽小学校から公会堂へ
 板柳町立郷土資料館は、歴史ある板柳町を象徴する建物として紹介されることが多い。資料館の一部に、旧板柳尋常高等小学校の玄関口が移築保存されているからだ。小学校の校舎は、1899(明治32)年に現在の町役場がある場所へ新築されたもの。2階にベランダのついた洋館風の建物は目を引いた。
 1927(昭和2)年小学校が移転新築されるのに伴い、校舎を公会堂に改築し、一部を町役場として利用することになった。翌年9月に町役場、10月には公会堂が完成し、落成式が行われた。
 青森市や弘前市などの大きな市には、政治集会や市民の集会場所として公会堂が設けられた。しかし、ほとんどの村は人口と財政規模の観点から、公会堂を建てるのは難しかった。それゆえ通常は小学校が村民の集会場所となり、政治家たちの会合や村の行事に使われた。村にとって小学校は、役場と同様、村民が集まる地域の大切な場所だったのである。
 村と異なり町の規模になると、大鰐町のように公会堂を有する事例もあった。しかし板柳町には公会堂がなかった。このため小学校の移転が決まった際、かねてから地域の拠点だった小学校舎が、そのまま公会堂となり役場になったわけである。
 ▽町役場から資料館へ
 公会堂となった小学校舎は、戦後も長く使用され続けた。1938(昭和13)年に開校した板柳町立実科高等女学校(現在の青森県立板柳高等学校)が、敗戦後の1948(昭和23)年から、1953(昭和28)年まで公会堂を使用していたこともあった。元々学校の校舎だったので、一時的に先祖返りを果たしたと言えるだろう。
 公会堂は役場が同居し、町議会も開催された建物だった。このため総じて町民は役場と呼んでいた。しかし1972(昭和47)年、築70年を超える明治半ばの建築物は老朽化が避けられず、役場新築計画が浮上。建物は1974(昭和49)年までに解体され、現在の庁舎に替わった。
 小学校時代から町民の集会場所であり、役場や公会堂として議会や町民に活用され、高校の校舎にも代用された建物を、町民は大いに惜しんだ。このため町では建物の解体に際し、正面玄関口を2階のベランダ部分も含め、現在の板柳町立郷土資料館に移築した。町民が当時の面影を偲(しの)べるよう配慮したわけである。
 資料館に移築された旧役場庁舎は、一部とはいえ明治期の趣を残す貴重な遺構である。中に入ることもできるので、訪れたことがない方は資料館に足を運んでほしい。
 ▽板柳駅
 旧役場庁舎以外にも、板柳町には歴史ある建築物が存在する。見過ごされがちだが、実は板柳駅が貴重な建築物なのである。
 板柳駅自体は、陸奥鉄道(後に国鉄の五能線となる)が開通した1918(大正7)年9月に開業。現在の駅舎に新築されたのは1934(昭和9)年1月である。これ以降、部分的な改築改良はあったが、基本的に駅舎本体は当時のものである。今年で築80年となる建築物なのだ。
 五能線は板柳町の発展に大きく寄与した。その意味で駅舎は板柳町の近代化を支え、町の発展を見守ってきたことになろう。旧役場庁舎同様、駅舎は板柳町の貴重な歴史的遺構であり、町民の大切な財産なのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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