津軽の街と風景

 

駅や築港は国策に翻弄=21

2015/3/9 月曜日

 

可動橋と桟橋があった小湊港「第六青函丸」の着岸試験を行っているところ。1948(昭和23)年10月10日・川村英明さん提供
明治末期の双子島 青森県史編さん資料
現在の双子島 2010(平成22)年6月5日・中園裕撮影

 ▽三つの平内村
 藩政時代の平内町域全体は黒石藩の飛び地であった。それが1889(明治22)年の市制町村制により、東平内・西平内・中平内の三村に分割された。
 東平内村の狩場沢には、盛岡藩と弘前藩(後に黒石藩)の境界を示す藩境塚がある。かつては南部と津軽の対立関係を象徴するような場所だった。しかし、現在そのような対立感情を持つ住民は少ない。むしろ藩境塚は平内町にとっても貴重な史跡である。
 西平内村には1939(昭和14)年開業の西平内駅がある。この駅は、同じ年に施設が完成し、翌年開設する傷痍軍人青森療養所のために造られたものだ。療養所は戦争で負傷した将兵たちを療養する施設だった。夏泊半島の豊かな自然と、浅虫温泉に近いことが立地条件に適ったのだろう。
 戦後、療養所は久栗坂の臨浦園(りんぽえん)と統合され閉鎖された。現在、跡地には社会福祉法人青森県すこやか福祉事業団の障害者総合福祉センターなつどまりが建っている。
 中平内村の小湊は、藩政時代に代官所が置かれたところだ。1891(明治24)年に小湊駅が開業。平内三村で最も人口が多く、流通の拠点だった。昭和天皇の即位記念事業を機会に、1928(昭和3)年10月1日付で町制施行し、小湊町と改称した。
 その後、1955(昭和30)年3月31日、小湊町と東・西平内村が合併し、新たに平内町が誕生した。「三平内」と呼ばれ、歴史的に関係の深い町村の合併交渉は、新町名を小湊町か平内町とするかで論争があった以外、大きな紛糾もなく進められた。
 ▽県都青森の代替地
 1891(明治24)年、日本鉄道(後に国鉄東北本線)が上野と青森の間に全通した。その少し前、青森駅の位置をめぐって、青森町(現青森市)で大論争があった。しびれを切らした日本鉄道会社は、小湊港付近を最終駅にすると主張した。このため青森町長の柿崎忠兵衛は、青森町の安方に駅を設置するとして、何とか論争を収拾させた。
 1943(昭和18)年12月、運輸省が小湊・函館間の貨車航送を実現しようと、関係施設の建設に着手した。青森港や青函航路が空襲で破壊された際の補助航路にするためである。工事は突貫工事で行われ、敗戦後も占領軍の意向で継続された。
 1946(昭和21)年7月1日、仮設の桟橋が完成して小湊・函館間の航路が実現した。8月1日、小湊町民は小湊開港記念と称し、港まつりを開催して大いに喜んだ。2年後には可動橋も建設され、第一貨車航送岸壁が完成。連絡船「第六青函丸」の着岸試験も成功した。
 ところが1949(昭和24)年7月15日、小湊航路は中止となった。この背景には、国鉄が同年6月に独立採算制をとる公共企業体の「日本国有鉄道」となり、運輸省の管轄を離れた事情があった。期待された貨物輸送が伸びず、罹災から復旧した青森港が整備されたため、小湊航路は採算がとれない、と国鉄は判断したのである。
 町民は築港の継続を陳情し続けたが、工事は再開されなかった。既に小湊駅から浅所桟橋駅を経て可動橋のあった埠頭まで引き込み線ができていた。浜子(はまご)地区には小湊操車場も造られていた。けれども、これらの施設は実用化されずに次々と撤去されていった。
 小湊の駅や港は、常に県都青森の代替地として位置づけられ国策に翻弄されてきた。だが、築港が実現しなかったために浅所松島の景観は残された。今では平内町の大切な観光資源になっている。小湊港もホタテの養殖基地に生まれ変わり、町民の生活経済を支え続けている。築港の中止は平内町にとって大きな痛手だったが、結果的に青函連絡船が廃止されて久しい現在、今日の平内町を支える契機になったと言えるだろう。
 ▽浅虫と夏泊半島
 明治期半ば以降、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に基づき各地で景勝地選びが流行した。「三平内」地区でも、雷電宮の松島、白砂(しらす)の秋月(しゅうげつ)、田沢の椿山、大島の漁舟(ぎょしゅう)、双子島の釣磯(つりいそ)、童山の華滝が平内六景に選ばれている。華滝以外はすべて夏泊半島沿岸にある。
 浅虫温泉でも、浅虫八景が選ばれている。八景の内、権現島(鴎島(ごめじま))の浮鴎(うきかもめ)と、双子島の朝霞(あさがすみ)は西平内村の管内にあった。しかし、なぜか浅虫の絵葉書で紹介されることが多かった。浅虫を訪れる温泉客は、温泉街を巡るだけでなく、小さな遊覧船で湯ノ島や茂浦(もうら)島などを巡り、夏泊半島までの海上遊覧を楽しんだのである。
 浅虫の人々と、土屋や茂浦など西平内村の人々は、行政区域を超えて交流が深かった。この関係は今も変わらない。1953(昭和28)年、浅虫夏泊県立公園(後に県立自然公園)が誕生した。行政区域の異なる浅虫温泉と夏泊半島が同じ公園に編成されたことは、歴史的な経緯をふまえれば自然な流れだったのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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猿賀神社の新春の神事=20

2015/2/23 月曜日

 

柳からみ神事 2006 2006(平成18)年2月4日・筆者撮影
ごまの餅撒き神事 2006 2006(平成18)年2月4日・筆者撮影
散供打ち 1965(昭和40)年2月7日・青森県史編さん資料

 来る2月25日の正午から、平川市の猿賀神社で、毎年恒例の「七日堂大祭~柳からみ神事・ごまの餅撒き神事~」が行われる。この祭は、旧暦1月7日に行われる豊凶占いの神事で、弘前市の岩木山神社、鬼神社でも行われる(鬼神社は旧暦1月29日)。
 柳の枝を勢いよく打ち付けて、枝の折れ具合などでその年の天候や作柄を占う行事として知られ、津軽地方でも伝承例が少ない。また、全国的な比較の上でも貴重であるとして、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
 ▽柳からみ神事
 この神事で使用する柳の大枝は、旧暦の大晦日に境内から切り取られ、大祭までの7日間神前で御祈祷される。神事当日は、この柳の大枝を、地元猿賀の三上家当主名代が勢いよく盤面に打ちつけ、このことを「柳からみ」という。
 三上家は、1613(慶長18)年からこの行事を担っていると伝えられている。打つ回数は旧暦の月数で、平年は12回、閏年は13回。枝が早く折れれば豊年、遅いと凶年と言われるが、占いの結果に決まった見方はなく、参拝者それぞれが長年の経験によって判断する。折れた柳の枝は、参拝者が五穀豊穣の御守りとして持ち帰り、種籾に入れたり、田の水口にさして豊作を祈願する。
 ▽ごまの餅撒き神事
 柳からみ神事が終わると、神職が境内の三箇所の櫓から、ごま入りの紅白の餅を群集に向かって撒く。参拝者は、三箇所の櫓を早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)に見立て、撒き終わる遅早によってそれぞれの稲の出来を占う。この餅も柳と同様に7日間神前で御祈祷されたもので、参拝者は、無病息災の護符として持ち帰る。
 ▽鏡ヶ池での散供(さんご)打ち
 参拝者は、境内の池の氷を割り、そこに半紙などを浮かべてその上に小銭や白米をのせ、その沈む遅早によって、豊凶を判断する。
 ▽歴史
 江戸時代の1793(寛政5)年の古文書によると、旧暦1月7日、三上兵衛門が恵方より柳を伐り、御神楽殿にて神秘行法を行ったという記録がある。神秘行法の詳細は不明だが、三上氏が柳を用いた行事ということで、現在の柳からみ神事との関連が窺われる。
 ▽伝説
 坂上田村麻呂が八幡崎に兵を進め、蝦夷の酋長大丈丸と取っ組み合いとなった。その時、身に菰(こも)をまとった大男が駆け付け、傍らの小石を手当り次第投げ打ち、大柳を振り回して、敵軍を退治したという。
 この大男は猿賀神社の神であるといい、小石を投げたのはごまの餅撒き神事、大柳を振り回したのが柳からみ神事の由来であると言われる。このような伝説は、岩木山神社、鬼神社には見られない。
 ▽もう一つの七日堂
 同じ日、神社の門前にある天台宗蓮乗院でも七日堂が行われる。こちらは、柳の枝を用いる行事はなく、密教による護摩焚きとごま入りの紅白の餅が撒かれる。護摩焚きは、三度行われ、参拝者はそれを早稲・中稲・晩稲に見立てて豊凶を占う。
 猿賀神社は、近世まで深沙宮というお宮で、門前の天台宗神宮寺と一体であった。神宮寺は、明治初年に廃寺となったが、その系統を引く蓮乗院で、猿賀神社と同じ日に七日堂を行っていることは、この祭りの変遷を考える上で非常に興味深い。
(青森県史編さん調査研究員 石戸谷 勉)

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かつて栄えた大鰐温泉=19

2015/2/3 火曜日

 

ありし日の大鰐温泉郷(1969年2月・青森県史編さん資料)平川沿いの2階建ての大きな建物が加賀助旅館。現在跡地は駐車場になっている
ありし日の後藤旅館(2007年7月1日 中園裕氏撮影)弘前の北州楼(1899年頃建築)を移築したという。2011年に解体
戦前の大鰐もやしを売る店(昭和戦前期・青森県史編さん資料)現在、もやしは「鰐come」などで購入できる

 ▽多い共同浴場 
 弘前の奥座敷として利用されてきた大鰐温泉。1954(昭和29)年の大鰐町と蔵舘町の合併以前は、平川を挟んで、大鰐温泉と蔵館温泉(現在のヤマニ仙遊館の辺り)に分かれていたが、市町村合併で一体化している。
 大鰐温泉は昔ながらの共同浴場が多いのが特徴で、大鰐地区に4カ所、蔵館地区に2カ所の計6カ所もあり、さらに2004(平成17)年にオープンした温泉保養施設「鰐come」もある。
 江戸時代の紀行家菅江真澄は、1796(寛政7)年に大鰐へ宿泊した際、湯坪(源泉)は7カ所あると記したが、大湯や山岸の湯(山吹の湯)のように、現在の共同浴場に名前を残しているものもある。
 ▽江戸時代の大鰐温泉
 江戸時代後半の温泉の見立て番付「諸国温泉効能鑑」には、全国86カ所の温泉が挙げられているが、「津軽大鰐の湯」が行事の一人として名前を連ね、別格の扱いである。他に、倉立湯(蔵舘)は「諸病によし」と高い評価である。かように大鰐温泉は江戸時代から名湯として全国に知られていた。
 大鰐は弘前藩主の参勤交代路にあたることから、藩主の湯治場として利用され、滞在のための施設「御仮屋」が置かれた。『大鰐町史』中巻によると、「弘前藩庁日記」等で確認できる歴代藩主の湯治は27回を数えるという。
 特に3代信義は晩年の3年間、津軽生活の半分以上を大鰐に滞在し、大鰐温泉が発展するきっかけを作ったという。1844(天保15)年の時点では、大鰐と蔵館の湯小屋は38軒となり、しばしば湯治客で満員になった(同書)。
 ▽近代の大鰐温泉
 1895(明治28)年に奥羽本線大鰐駅が開業すると、弘前から手軽に行ける温泉地として、大鰐温泉はますます賑(にぎ)わうようになった。江戸時代の大鰐温泉は、藩によって遊女の入りが厳禁されていたが、一転して明治以降になると大鰐は歓楽の地となった。
 大正の初期、現平川市の豪農外川平八が「外川町」という歓楽街を作り、1923(大正12)年には16軒の旗亭(芸妓を置く料理店)があった。温泉の濫掘(らんくつ)が進み、早くも温泉掘削が禁止されるに至ったのもこの時期である。
 現在は解体されたが、大鰐を代表する老舗旅館であった後藤旅館の建物は、この時期弘前の遊郭の建物を移築したものだった。終戦後、1958(昭和33)年には売春禁止法が施行され、大鰐温泉にあった業者も廃業し、温泉街も火の消えたような寂しさになったという(『大鰐町史』下巻(一))。
 加えて度重なる平川の水害、濫掘による湧出量の減少が追い打ちをかけた。そのため、町は1964(昭和39)年から温泉の集中管理に踏み切ったが、維持管理料をめぐって温泉業者と町当局が対立するなど、温泉街の体力を奪ったことは否めない。平成に入っても、「スパガーデン湯~とぴあ」の破綻など苦難の歴史は続いたが、「鰐come」を拠点に町おこしグループ「OH!!鰐 元気隊」が活躍するなど、町活性化のための挑戦が続いている。
 ▽大鰐もやしの歴史 
 大鰐温泉の名物として知られているのが、温泉熱を利用して促成栽培された長もやしである。大鰐もやしのルーツは意外と古い。大鰐は津軽領では南端にあたり、温泉熱も利用できるので、季節的に早くもやしをはじめとする野菜類の栽培ができる。このため藩にとっては貴重な存在であり、大鰐には17世紀中頃から藩主専用の野菜園(御菜園)も造られ、弘前城の台所や江戸屋敷に献上されていた(『大鰐町史』中巻)。
 野菜園の管理人「御菜園守」を勤めていたのは、伝説では大鰐温泉の発見者と言われる加賀助(代々襲名)である。加賀助は御仮屋(おかりや)の管理人も勤めた。加賀助旅館は戦前までは大鰐を代表する老舗だったが、残念ながら1984(昭和59)年に閉館している。
 1788(天明8)年に弘前藩士比良野(ひらの)貞彦が津軽の文物風俗を描いた「奥民図彙(おうみんずい)」では、もやし箱(筥)について紹介されている。もやしは賀田(よしだ)(現弘前市)や大鰐の辺りで多く栽培され、女性が背中に背負って売り歩いたという。昭和期までは湯見舞といって湯治中の人を親戚や友人が見舞う風習もあったが、土産はもやしが多かった(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
 幕末期、大鰐温泉に滞在した家老大道寺族之助(やからのすけ)も、湯見舞客へのお礼として、もやしと木地挽(きじびき)細工物(木工品)を沢山(たくさん)購入している(「金木屋日記」)。木工品もまた大鰐の名物であり、明治になってからはこけしも作られるようになった。現在、大鰐もやし(大豆・そばがある)は伝統野菜として、後継者不足に悩まされながらも、大鰐の名物として定着している。
 温泉に浸かり、地元の味を楽しむのは旅行の醍醐味(だいごみ)である。昨今、団体観光から個人旅行に嗜好(しこう)が移り、旅行者のニーズも多様化し、旧態依然とした温泉地は全国的に苦戦している。大鰐温泉が歓楽街として栄えていたのも今は昔。現在は中心部に大型ホテルも少なく、昔ながらの湯治場の面影を残しているのでないだろうか。車社会の現在だが、日帰り入浴だけでなく、中心部のそぞろ歩きを楽しみ、旅館に泊まってはいかがであろうか。
(県庁県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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戦後に拓かれた「竹田」=18

2015/1/19 月曜日

 

開墾の様子 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
竹田開拓 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
融雪洪水 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
開拓十周年記念碑 2007(平成19)年・筆者撮影

 ▽「古十三湖(こじゅうさんこ)」から芦野原へ
 湖面を滑る丸木舟と飛び跳ねる魚群―縄文時代前期(約6000年前)、津軽平野北半は「古十三湖」と称される大湖に覆われていた。水上交通の舞台、あるいは水産資源の宝庫として縄文文化を育んだ「古十三湖」は、その後徐々に縮小し、湖水が退(ひ)いたあとには岩木川下流部と広大な湿地帯が形成された。
 平安時代(約1000年前)より進行した岩木川下流部の開拓は、江戸時代中期以降本格化した。弘前藩直営の治水事業が行われるとともに、自然堤防上に金木新田(かなぎしんでん)の村々が続々と拓かれた。
 しかしながら、同地域は水害の常習地帯であり、村々は度重なる冠水に悩まされ、移転を余儀なくされることもあった。梅雨・秋雨による溢水のほか、春先の融雪洪水、そして冬の季節風により、十三湖水戸口が閉塞することによって生じる逆流被害が、毎年のように繰り返された。
 大正時代に始まった岩木川改修工事ならびに十三湖水戸口突堤・湖岸堤工事は、流域の水害を軽減し、十三湖岸の開田を可能ならしめた。しかしながら岩木川下流部の大半は、已然として「若宮(わかみや)原野」と称される芦萱(あしがや=ヨシ)が繁茂する大湿地帯が横たわり、開拓の進展をかたくなに拒んでいたのである。
 ▽芦野原から穀倉地帯へ
 泥濘(ぬかるみ)と風にそよぐ広漠たる芦野原―戦後の食糧難は、従来顧みられることのなかった湿地帯に大規模な干陸計画をもたらした。岩木川下流部、海抜ゼロメートル地帯に位置する通称「竹田」地区は、国営十三湖干拓建設事業に伴う開拓集落であり、戦後まもない時期に入植が始まった。
 入植者の募集は1951(昭和26)年に始められ、翌年には「入植予定地県内在住の海外引揚者又は疎開者等で健康な農業を希望する者」の中から50戸の入植者が決定した。入植者には、水田2町4反歩、畑地2反歩、宅地1反歩の計2町7反歩が均等に配分された。
 かつて「古十三湖」の湖面であった茫漠たる芦野原の中に、50戸の開拓村が造成された。人々は簡素な開拓者住宅に住み、唐鍬や三本鍬など人力で芦萱と格闘しながら農地を整備していった。
 そのほかにも、資材不足、腰切田、地吹雪、融雪洪水、メタンガス混じりの井戸水など、泥炭地の開拓は苦難に満ちたものであったが、官民一体の取り組みによって、10周年記念式典を迎えるころには見渡すかぎりの水田地帯に生まれ変わった。
 秋空のもと頭を垂れる黄金色の稲穂―1952(昭和37)年、旧協和分校前に建立された「開拓十周年記念碑」の表には「開拓魂(かいたくだましい)」の3文字、碑の裏には開拓団のリーダー竹内正一(たけうちしょういち)氏による決意文が刻まれた。「吾人の胸中を去来するものは葦茅の繁茂する標高零の湿地帯十年前の姿と大正年代に水田開発を企てた先人受難の歴史である」「吾人五十名は苦難更に大きいこの泥炭地の開拓を志し選ばれて生涯をこの地に託す」。
 人跡未踏の地に入植を可能ならしめたのは、十三湖干拓建設事業に伴う排水・土壌改良等、ハード面での恩恵もさることながら、入植者達の不屈の精神「開拓魂」が寄与すること大であった。一致団結した50戸の盤石の思いがなければ、これらの難事業は完遂されることはなかったであろう。
 国営十三湖干拓建設事業は、十三湖囲繞堤に囲まれた十三湖面及び内潟(うちがた)沼・低湿地原野の干陸ならびに排水改良を目的として、1948(昭和23)年に着手された。20年以上に及んだ干拓事業は、「鳥も通わぬ十三湖」と形容された岩木川下流部の芦野原を、地域を代表する穀倉地帯へと変貌させ、1970(昭和45)年に竣工した。
 武田(たけだ)その一工区においては、1948(昭和23)年度89%を占めた「湿地・原野」が完全に姿を消し、かわりに10%弱に過ぎなかった水田が79%に拡大した。また排水強化によって地盤強度が増したことによって機械化営農が可能になり、省力化や作業合理化など農業近代化にも貢献することとなったのである。
(中泊町博物館館長補佐 齋藤 淳)

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北海道へニシン場稼ぎ=17

2014/12/29 月曜日

 

利尻島にあった小倉漁場のニシン沖揚げ=1921(大正10)年4月22日撮影・小倉英章さん提供
小倉漁場で遭難した乗組員の葬儀。平舘村で行われた=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供
本覚寺で撮影された小倉漁場の幹部たち=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供

 2016(平成28)年3月開業予定の北海道新幹線で、今別町に「奥津軽いまべつ」駅ができる。30年ほど前は人口7千人を超えていた今別町だが、現在はその半分以下となり、高齢化率は県内で最も高い。
 町は「日本一小さい新幹線のまちへ!」とキャンペーンを打ち出しているが、美しい海峡も有名で、とりわけ袰月(ほろづき)海岸は風光明媚(めいび)な海岸である。
 「この村サ一度(イヅド)だて 陽(シ)コあだたごどあるガジャ」。袰月尋常高等小学校で代用教員を務めていた高木恭造(1903~87)の「陽(シ)コあだネ村~津軽半島袰月村で~」は、怒りの言葉で始まる。そして「若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃(ネ)げでまて 頭(アダマ)サ若布(ワガメ)生(ハ)えだえンた爺(ジコ)媼(ババ)ばり ウヂャウヂャてナ」と続く。
 袰月はアイヌ語で「大酒椀(ポロトゥキ)」といい、「大ぶりの酒椀の形に深くえぐれた湾」という意味をもつ。かつてアイヌが暮らしたという津軽半島北辺部の一端にある漁村である。
 青森県から北海道への漁業出稼ぎは、江戸時代中期に幕府が弘前藩と盛岡藩に警備を命じた頃から盛んになり、漁閑期や農閑期の2月から4月にかけて、ニシン場稼ぎと称して北海道の西海岸へ向かった。
 かつて北海道の日本海沿岸は、春先になるとニシンの群れが押し寄せる群来(くき)が現れ、大量のニシンが産卵し放精するため、海面が白濁する現象が見られた。「ヤドイ」(雇い)とか「ヤン衆」と呼ばれていた出稼ぎ労働者は、北海道北端の礼文島や利尻島まで出かけていた今も礼文島にある「津軽町」という地名は、津軽地方からの移住者が住んでいた名残という。
 札幌の北海道開拓記念館に、今別町袰月の小倉みつさん(10代目小倉十兵衛の妻)から寄贈された『小倉家資料目録』がある。これは明治中期から大正期にかけて、北海道利尻島旧沓形村(現種富町)のタネトンナイと礼文島メシコタイにあった小倉漁場(ヤマジュウ)に関わる資料である。
 1989(平成元)年刊行の『利尻町史』によると、袰月に定住していた8代目小倉十兵衛が、1888(明治21)年に利尻島の鬼脇村字野中にニシン漁場を開設。その後、礼文島西海岸と利尻島へ進出したと書かれている。
 礼文島や利尻島の漁場は、津軽半島一帯から移住した漁民や出稼ぎ者の多くが、親方の家に寝泊まりしながら生活を営んでいた。袰月の小倉十兵衛家の土蔵には、現在も大量の漁場関係の資料が残されており、ニシンを求めて北方に渡り暮らしを営んでいた活況ぶりやニシン経営などがうかがえる。
(青森県史編さん調査研究員 小泉敦)

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