津軽の街と風景

 

市民と一体「軍都弘前」=31

2015/8/10 月曜日

 

師団通り。現在の中野・松原付近で、右側の建物は歩兵第52連隊の兵舎。明治末期~大正初期・青森県史編さん資料
弘前駅から出征する第5聯隊。1931(昭和6)年11月・青森県史編さん資料
満州からの凱旋。歩兵第31聯隊の凱旋を祝う百石町の人びと。1934(昭和9)年頃・高橋勝良さん提供
青森師範学校の校舎となった陸軍武器庫。弘前公園内にあった。1947(昭和22)年・片岡通夫さん提供

 ▽第8師団創設
 羽田空港から青森空港に向かう旅客機が着陸態勢に入るころ、運がよいと津軽平野にそびえる岩木山とその麓に広がる弘前の街を眺めることができる。郊外に街が拡大したとはいえ、弘前城を中心とした城下町の街割りが今でも見て取れる。藩政時代の街並みを残していた弘前市街地の景観を変えた最初の出来事が、1898(明治31)年の陸軍第8師団の創設であった。
 日清戦争に勝利した日本は、満州(中国東北部)の支配権をめぐってロシアと対立した。政府はロシアとの緊張関係を背景に、清国からの賠償金の約6割を軍備拡張費に充てて軍備拡張を進めた。陸軍はこれまでの6個師団(近衛師団を除く)に加え第7から第12までの6師団を増設することとした。その一つが弘前第8師団である。
 ▽軍都弘前の誕生
 陸軍師団は軍隊として必要な施設をすべて備え、単独で戦争を継続できる能力を持つ最小の戦略単位である。兵員は平時でも1万人を超え、戦時には2倍に増強される。第8師団は師団司令部、輜重(しちょう)兵第8大隊、衛戍(えいじゅ)病院・憲兵隊など主要な施設を弘前市富田町に、歩兵第31連隊を中津軽郡千年村(現弘前市)に置いた。ほかに歩兵第5連隊(青森市)や歩兵第17連隊(秋田)、騎兵第8連隊(盛岡)などが第8師団の指揮下にあった。兵士は青森・秋田・岩手の各県から徴兵された。
 弘前市内には富田町を中心に軍事施設、陸軍の納入業者や将兵を顧客とするさまざまな商人の街が形成され、新しい都市空間が出現した。商人の中には仙台市(第2師団所在地)から移ってきたものも少なくない。廃藩置県以来人口が減少していた弘前市は師団の経済力に依拠する「軍都」となり、にぎわいを取り戻した。出動する第8師団の歓送迎や年中行事となった歩兵第31連隊の軍旗祭などを通じて、市民は師団に親しみを抱き、やがて郷土師団と市民は一体化していった。
 ▽海外での戦闘
 第8師団の初陣は日露戦争である。1905(明治38)年1月、奉天(瀋陽)南方の黒溝台会戦でロシア軍と対峙(たいじ)した第8師団は、多大の犠牲を払いながらも東北健児の粘り強さでロシア軍を撃退、奉天会戦での勝利を導いた。その功績で第8師団は「国宝師団」と称されるようになった。第8師団は市民の熱狂的な見送りを受けて、シベリア出兵、満州事変などに出陣し、熱烈な歓迎の下に凱旋(がいせん)した。
 1937(昭和12)年、第8師団は満州に移駐した。これ以後、弘前市内には留守師団や補充部隊のみが配置された。日中戦争では増設師団として第108師団や第36師団が弘前市で編成され大陸に渡っていった
 アジア・太平洋戦争中の1944(昭和19)年8月、第8師団は満州からフィリピンに移動、ルソン島(歩兵第5連隊はレイテ島)でアメリカ軍と死闘を展開した。「永久抗戦」を命じられた将兵は栄養失調に苦しみ、餓死者を続出させながらも戦い続けた。師団長がアメリカ軍に降伏して事実上消滅したのは敗戦後の1945(昭和20)年9月8日のことである。わずかに残った将兵は捕虜収容所に収容された後、日本に復員した。
 ▽軍都から学都へ
 戦争末期になると弘前市には補充部隊が一部残留するのみとなっていた。本土防衛のため新設された第50軍司令部は青森市に置かれた。急造された本土決戦師団は、野辺地町から八戸市にかけての太平洋側に配備されていた。弘前市の軍事的重要性は低下していたのである。
 1945(昭和20)年6月、東京・大阪・名古屋の3大都市を焼き尽くしたアメリカ軍は空襲の対象を中小都市に移した。7月14、15日のアメリカ軍艦載機による空襲で青森市や八戸市、そして大湊町(現むつ市)などが被災し、青函連絡船は壊滅した。28日から29日にかけて、B29爆撃機による空襲で青森市は市街地の8割を焼失し、壊滅的な被害を受けた。
 青森県は空襲に備え弘前、八戸両市の建物強制疎開(撤去)と防火帯設置を決めた。弘前市は強制疎開の実施前に敗戦となり、空襲も受けなかったので、市内の伝統的な街並みや歴史的建造物は失われずにすんだ。
 青森空襲で校舎を失った官立青森師範学校と青森医学専門学校が弘前に移ってきた。青森師範学校は時敏・朝陽両国民学校の校舎を借用して授業を再開した後、弘前城内にあった旧第8師団武器庫に移転した。1949(昭和24)年5月、官立弘前高等学校・青森師範・青森医専を基盤として新制弘前大学が開学した。こうして「軍都」は「学都」に生まれ変わっていった。
 旧第8師団の施設の一部は弘前大学の校舎などに転用されて生き残り、戦後の「学都」を支えてきた。しかし、大学施設の整備が進むにしたがい旧陸軍の施設は次々に取り壊され、戦後70年を経てほとんどが姿を消してしまった。第8師団長官舎(弘前市役所敷地内に移築)、弘前偕行社(かいこうしゃ)(陸軍将校らの親睦・厚生施設。弘前厚生学院記念館・弘前市御幸町)は「軍都」の面影を伝える貴重な遺構である。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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岩木山にも観光化の波=30

2015/7/27 月曜日

 

岩木山神社をめざして進む「お山参詣」の行列 2009(平成21)年9月18日・成田敏さん撮影
岩木山の8合目にある展望台 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料
8合目から9合目の鳥海山頂上へ向かうリフト 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料
岩木山の頂上をめざす人びと 1967(昭和42)年8月27日・青森県史編さん資料

 ▽信仰の山とお山参詣
 津軽地域に生活する人は、岩木山を「お山」ないし「お岩木様」と呼び、信仰の対象としている。また、山の残雪の形で農耕の時期を判断し、山にかかる雲で天候を予測し、遠出をする者は岩木山を目印に自分の位置を確認する「山アテ」をしている。さらに山麓に生活する人々は、薪炭材を入手したり、馬の草刈り場として、山の恵みを得ている。
 毎年旧暦8月1日の「八朔(はっさく)」になると「お山参詣」と呼ばれる登山習俗が行われる。かつて岩木山は女人禁制のため、登るのは男に限られていた。その準備は八朔の1週間ほど前から始まる。
 参詣する者は産土(うぶすな)神社にこもり、肉や魚は食さず、川や海などで水浴びして精進潔斎(しょうじんけっさい)する。その後、白装束に大きなボンテンや幟(のぼり)を携えて山頂に登った。津軽の男にとって岩木山に初参りすることは重要で、無事に下山できれば「一人前」とされた。
 岩木山信仰とお山参詣の始まりは明らかではないが、田光(たっぴ)の竜女(りゅうじょ)や安寿姫が岩木山に収まったという伝説がある。岩木山信仰の具体的な姿が明らかになるのは江戸時代からである。岩木山山頂中央の巌鬼山(がんきさん)が阿弥陀如来、東南麓の赤倉山が十一面観音、西方の鳥海山が薬師如来に例えられ、あわせて「岩木山三所大権現(いわきさんさんしょだいごんげん)」とされ、信仰の山となる。
 ▽経済成長と観光開発
 1956(昭和31)年、『経済白書』の結びで述べられた「もはや戦後ではない」とのフレーズは、高度経済成長の始まりを予期する流行語となり、日本は世界でも類を見ない経済成長を達成していった。それとともに国民の生活水準は向上し、レジャーブームが到来することになる。
 1964(昭和39)年に東京オリンピックの開催が決定したことで、海外から来る観光客に対する観光開発が全国的に
活発になっていった。その一つとして1960年代から高山地帯を周遊する観光道路のスカイラインが全国的に整備されていった。富士山の5合目まで登ることのできる
富士山スカイラインや、富士山の絶景を堪能できる箱根・芦ノ湖スカイラインなど、全国に40カ所以上の道路が整備された。
 ▽スカイラインの建設
 1955(昭和30)年、岩木・大浦・駒越の3村が合併。新たに誕生した岩木村は、1961(昭和36)年に町制施行して岩木町(現弘前市)となった。岩木山麓の観光開発が構想されたのはこの頃である。
 山麓の観光開発の始まりは、弘南バス会社による岩木山のスカイライン建設だった。1962(昭和37)年6月から始まる建設工事は、1965(昭和40)年8月25日に完成し、「津軽岩木スカイライン」と名付けられた。
 この道路は全長9・8キロ、69のカーブがあり、岩木山の8合目まで登ることができるようになった。そこから9合目の鳥海山までリフトがあり、さらに徒歩40分ほどで山頂まで登ることができた。
 スカイライン建設まで岩木山登山は、百沢口や嶽口などから登り、登山道の幅は1メートル足らずで勾(こう)配(ばい)が険しく、山頂まで徒歩で3時間半以上もかかっていた。ただし、登頂達成後に山頂から眺める津軽平野や七里長浜、そして世界遺産の白神山地や八甲田連峰などの絶景は、苦労して登頂した者だけの特権だった。それがスカイラインの完成で、老若男女を問わず気軽に登頂が可能になった。観光客は山頂からの絶景を堪能できるとともに、岩木山の雄大な自然に触れる機会が持てるようになった。
 また、ふもとの百沢・嶽・湯段の温泉は入浴する下山客でにぎわいをみせるようになった。こうして津軽岩木スカイラインは、岩木山を「信仰の山」であるとともに、「観光の山」にも変えていったのである。
 ▽岩木山麓開発
 岩木山麓の開発計画は、スカイラインが建設されてから本格化した。1966(昭和41)年、青森県長期経済計画の方向に沿って津軽地域総合開発計画が策定された。この計画は青森県が策定した地域開発の方向性を示すものだった。岩木山周辺地域は、弘前藩に関わる史跡・名勝・重要文化財を有し、風俗・行事・民謡の無形民俗的な観光資源があるということで、開発が進められることになった。
 1969(昭和44)年、新全国総合開発計画(新全総)が策定されると、岩木山麓開発計画はさらに進んだ。5年後、岩木山南麓の大規模都市公園建設が構想された。これは国立公園など自然保護のために指定される自然公園とは別に、自然の有効利用を主眼にした公園のことである。
 岩木山南麓開発計画が具体化するのは1982(昭和57)年からである。この計画は岩木山麓総合開発調査をはじめ、これまで多面的に提案されてきた開発プロジェクトを、山麓地域の一体的開発という視点から再整理し、岩木山麓地域開発の基本的方向を定めたものである。こうして岩木山麓は、国や青森県の計画に沿って開発されていったのである。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

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暮らしの痕跡眠る場所=29

2015/7/6 月曜日

 

出来島最終氷期埋没林(辻誠一郎さん撮影)
田小屋野貝塚から出土した出産痕のある縄文前期の成人女性人骨検出(筆者撮影)
「縄文海進」と「古十三湖」(辻誠一郎さん原図作成・筆者加工)
10周年記念冊子【表】(つがる市教育委員会発行)
10周年記念冊子【裏】(つがる市教育委員会発行)

 ▽屏風山とは
 つがる市は、青森県西部に位置する。中央に津軽平野北部の沖積地が広がり、その東縁を岩木川が、南縁部を岩木山北麓台地が、西縁部を日本海岸の七里長浜に並走して南北約30キロ、東西3~5キロにわたり展開し、標高10~40メートル程度を測る屏風山砂丘台地が画している。
 「屏風山」の名は、江戸時代以後、日本海岸からの猛烈な「飛砂」を防ぐため、クロマツなどの砂防林を、屏風のように植林したことに由来する。
 屏風山砂丘の最上部には、層厚が数メートル~10数メートルに達する縦列砂丘が載り、砂丘の間には「ベンセ湿原」などの湿地や湖沼群が介在している。しかし、これらは平安時代以後形成された景観であり、砂の下には約3万年間に及ぶ環境変遷と2万年に及ぶ人々の暮らしの痕跡が眠っている。
 ▽出来島埋没林
 環境変遷の痕跡としてまず挙げられるのが「出来島埋没林」である。「最終氷期埋没林」とも呼ばれ、約3万年前に、つがる市周辺の気候が現在のサハリン並みに寒冷だった時期に生い茂っていた針葉樹林の痕跡で、その後の温暖化による海面上昇で水没し、立ち枯れたものである。
 屏風山砂丘中ほどの日本海岸の崖面に約1キロにわたり見られ、厚い泥炭層に覆われている。埋没林の直上には約2万8000年前に現在の鹿児島湾に位置する姶(あい)良(ら)カルデラの大噴火によって、はるか千数百キロを越えて飛来した姶良Тn火山灰(通称「AT」)の白色の薄い層が見られる。
 ▽「縄文海進」と縄文遺跡
 つがる市には、112カ所の遺跡が登録されているが、年代的に最も多いのが縄文時代の遺跡であり、82カ所に及ぶ。
 縄文時代の遺跡は、岩木山北麓台地と屏風山砂丘台地に分布していて、津軽平野部からは確認されていない。これは、縄文時代(約1万5000年前~2300年前)の始まりと軌を一にして地球環境の温暖化が始まり、世界的な海面上昇が起こり、海が陸域に広がった現象、「縄文海進」に起因している。
 これによって津軽平野北部は「古十三湖」と呼ばれる内海が広がり、諸説あるがピーク時の縄文時代前期の初めごろ(約7000年前)には、その海岸線は現在のJR五能線の線路付近、五所川原駅~木造駅~陸奥森田駅~越水駅を結ぶラインを南限としていた。それゆえ縄文時代の人々は、「古十三湖」を囲む台地上にムラを営んだのである。
 屏風山砂丘を代表する縄文遺跡が、その東縁中ほどに位置し、ともに「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として、世界文化遺産登録を目指している国の史跡田小屋野貝塚と亀ケ岡石器時代遺跡である。
 ▽田小屋野貝塚から亀ケ岡遺跡へ
 田小屋野貝塚は縄文時代前期中ごろ~中期(約6000~4000年前)の集落遺跡で、前期の段階(6000~5000年前)の貝塚を伴っている。この時期にムラの直下には、広大な「古十三湖」が広がっていた。貝塚を構成するヤマトシジミの貝殻や魚骨、海獣類の骨などは、眼下に広がる内海から得られた食料を反映している。
 また、縄文時代前期の田小屋野貝塚のムラではベンケイガイの貝殻を加工した貝輪(ブレスレット)を作っていたこと、その貝輪は内陸のムラや同時代のベンケイガイ製貝輪が出土する北海道のムラに運ばれたのではないかとも考えられている。田小屋野貝塚からは北海道産の黒曜石も出土しているため、海を越えた交易が行われていたことは容易に推定できる。彼らにとって海は、便利な交通路であり、生きる糧を与えてくれる母なる海原だったのだろう。
 その後、縄文時代の終末に向かい、地球環境は寒冷化が進む。津軽平野北部一帯に広がった「古十三湖」は海退に転じ、海岸線は北に後退、かつての内海は沼沢地となった。これに倣うように人々も動きを見せる。縄文時代中期も終わりに近づくと、田小屋野貝塚のムラから人々は移動し、縄文時代後期~晩期(約4000年~2300年前)には、谷を隔てて南側約200メートルのところにある台地にムラを移した。これが亀ケ岡遺跡である。
 亀ケ岡遺跡にムラを移した人々は、縄文時代晩期(約3000年~2300年前)に、国の重要文化財に指定されている有名な遮光器土偶などに代表される優れた造形美と高い精神性を感じさせる物質文化、「亀ケ岡文化」を生み出した。そのムラの中心部分が1944(昭和19)年に田小屋野貝塚とともに「亀ケ岡石器時代遺跡」として国の史跡に指定された。
 ▽環境変遷と縄文遺跡
 環境変遷と縄文遺跡、この2つをつなぐことはなかなか難しい。しかし、屏風山砂丘はこれらを結び付けられる非常に貴重な場所である。だが、これらを結び付けた資料は今まであるようでなかった。「なければ作ろう!」という発想で作成したのが、『つがる市の環境変遷と縄文遺跡』(つがる市合併10周年記念冊子)。これを読んでいただければ、環境変遷と縄文遺跡の関係が「一目瞭然!」と、一応宣伝しておくことにする。
(つがる市教育委員会社会教育文化課学芸員・佐野忠史)

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太宰を生んだ都市文化=28

2015/6/22 月曜日

 

土手町の繁華街。右奥に見える丸屋根の建物が角は宮川デパート。大正末期~昭和初期・青森県史編さん資料
官立弘前高等学校。大正末期~昭和初期・青森県史編さん資料
青森市にあった歌舞伎座。大正期・青森県史編さん資料
富田大通りから見た慈善館。弘前市最初の活動写真常設館。1941(昭和1616)年・野呂良明さん提供

 ▽官立弘高と学生太宰
 中津軽郡清水村富田に建設された第8師団司令部に隣接するように、1921(大正10)年、官立弘前高等学校が開校した(以下、官立弘高)。場所は現在の弘前大学構内である。官立弘高には、官僚や学者などを嘱望されたえりすぐりの学生らが通学した。
 官立弘高に通っていた学生の一人に、青森市にある県立青森中学校を4年で修了した津島修治(のち作家となる太宰治)がいた。彼は官立弘高近くの藤田家(現太宰治まなびの家)に下宿し、1927(昭和2)年4月から1930(昭和5)年3月まで、文科甲類の学生として在籍した。およそ十代半ば以降を、青森市と弘前市で過ごしたことになる。
 ▽映画とインテリ青年
 都市文化の筆頭は映画、特に洋画であろう。すでに映画は最先端の芸術と位置づけられていたこともあり、都市のインテリ青年などに人気だった。映画が都市文化の人気娯楽であることは、地元新聞による映画関係の記事が拡大していく様相からもうかがえる。
 弘前市には慈善館をはじめ大和館などの映画館や、歌舞伎などを上演する弘前座などがあった。また青森市でも電気館や文芸館、歌舞伎座といった興行場が設けられていた。
 官立弘高は映画研究会が結成され、市内の映画研究団体と協力した映画公開を行うなど、積極的な活動をしている。例えば1927年11月、官立弘高映画研究会が京都帝国大学映画研究会を後援して、弘前座で数本の名画を上映した。その中に、ドイツ表現主義映画の代表作「カリガリ博士」があった。実は、弘前市には青森市とは異なる映画が上映される特徴がある。このことは、官立弘高というエリート学生が通う弘前市ならではの現象として興味深い。
 官立弘高生だった太宰の自筆ノートには、「カリガリ博士」に出演し、のちにドッペルゲンガー現象を題材にした「プラーグの大学生」に主演したコンラート・ファイトの名前と似顔絵が描かれていた。さらに俳優の上山草人(かみやまそうじん)の芸名「Sojin」が記されている。上山は日本人としてハリウッドで活躍した俳優である。2人は、さまざまな役柄をこなす名俳優だった。当時学生だった太宰の好みが垣間見えよう(中園美穂「官立弘前高等学校時代の太宰治」)。
 ▽築地小劇場
 当時、翻訳劇を中心とする「新劇」の先端をいっていたのが、演出家の小山内薫と土方與志(よし)が率いる築地小劇場だった。東京を拠点とした築地小劇場は、1927年8月は青森市のみ、11月には青森市と弘前市へ地方巡演のため来県した。青森市では歌舞伎座、弘前市では弘前座が会場となっている。ただし小山内薫は来県していない。なお、同年7月11日から20日頃まで太宰は東京に行っており、そこで実際に築地小劇場の「郭公(かっこう)」を観劇したという(原仁司「太宰治と近代劇」)。
 1928(昭和3)年8月に、築地小劇場は青森市の歌舞伎座で地方公演を行った。公演日の15日から3日間、青森市新町通りの松木屋デパートでは、菊谷栄(さかえ)が描いた築地小劇場の芝居絵の展覧会が開かれた。デパートでは、映画ポスター展を開催するなど、都市文化を盛り上げる催事も行っていた。
 ▽世界的テノール歌手
 太宰と同級生だった大高勝次郎氏執筆の「弘高時代」には、太宰が「テノールの真似」をして教室を歩き回ったという逸話がある。実は、「われらのテナー」と呼ばれた歌手の藤原義江(よしえ)の独唱会が、1927年9月に青森高等女学校の講堂で、2年後の10月には歌舞伎座で開催された。
 イタリアで声楽を学んだ藤原は、ロンドンのウィグモア・ホールで初舞台をふみ、さらに音楽の殿堂であるロイヤル・アルバート・ホールで歌い、ビクターレコード「レッドシール」のお墨付きを得て、世界的な活躍をみせていた。太宰がテノールのまねをしたというのは、当時飛躍しつつあった藤原に憧れていたのかもしれない。
 青森市と弘前市は映画館や劇場がそろい、デパートや喫茶店が集まる都市空間を形成していた。都市は最先端の文化や芸術が結集する場所でもあった。そして高等教育機関である高等学校をはじめ中学校や女学校があり、銀行や官庁街があった。それらに通う学生や大人たちは、新しい文化や芸術に触れられたのである。
 当時学生だった太宰も、弘前市という都市で生活し、時に青森市へも出掛けていた。そこで最先端の文化や芸術に触れ、世界的に活躍する人々に憧れて刺激を受け、自分の未来を夢見ていたのだろう。弘前市や青森市という都市で過ごした時間は、後年作家となった太宰治の作品に、いろいろな形で反映していると思う。
(青森県史編さん調査研究員・中園美穂)

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にぎわう相内の虫送り=27

2015/6/1 月曜日

 

相内の虫送り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
子どもたちの太刀振り 1969(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
灯籠を持つ子どもたち 1669(昭和44)年6月・青森県史編さん資料
五所川原市藻川の虫送り 2005(平成17)年6月5日・筆者撮影

 ▽無形民俗文化財
 毎年旧暦5月頃の津軽地方では田植え作業が終わり、サナブリといって集落全体で農作業を休む日を迎える。その日に行われてきた行事が虫送りである。これはワラで「ムシ」と呼ばれる蛇体のワラ人形を作り、それを掲げながら、太鼓、笛、鉦(かね)などのにぎやかな囃子(はやし)や、太刀振り踊り、荒馬など芸能も連れ添って集落内を練り歩くもので、最後には村はずれの大きな木や神社の鳥居にムシをかけて終わる行事である。
 虫送りは稲に付く害虫を払うための儀礼だとされてきた。そのルーツとして、近世中期までは藩が「虫除祈祷(むしよけきとう)」と「除札(よけふだ)」(虫除けの御札)を配っていた行事があり、近世後期になると、民衆が独自の虫送りを始め、現在のような習俗へつながっていったことが考えられる。近世の旅行家菅江真澄も、1796(寛政8)年に鯵ケ沢で虫送りの行事を目撃したことを記録している(県立郷土館『東日本の神送り行事』)。
 このような行事は「青森県津軽地方の虫送り」として、2010(平成22)年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。そのなかでも現在、大勢の人々が集まってにぎやかに開催されているのが五所川原市相内の虫送りである。現在の様子を紹介したい。
 ▽相内の虫送り
 相内の虫送りは、相内青年団によって開催されてきた。虫送りの準備として、事前に青年団長名で文書が配布され、団員が各戸を回ってお金と米を集める。毎年6月の第2土曜日がサナブリの時期であり、虫送りの日となる。
 当日は午前中から青年団が青年会館で、長さ5メートルのムシを作り、シトギなどを用意する。団員たちは各村境や用水堰(ぜき)、橋のたもとなどの五カ所に虫札と「倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) 昆虫退散 五穀成就」などと書いた紙の旗を立て、お神酒と灯明、身欠きニシン、菓子などを供えておく。
 午後1時頃、青年会館の準備が終わると祭壇を拝んでから、ムシを台車に乗せた行列が集落内の運行を開始する。ムシの後には荒馬や太刀振りの踊り、太鼓や笛、手平鉦(てひらがね)の囃子、1メートルほどの長さの小さいコムシ、ニシンの切り身やシトギを配る人などが付いてくる。
 途中、各家から酒や漬物、お菓子などが振る舞われると、そこで太刀振りや荒馬を踊る。やがて行列が神明宮に到達すると、ムシを台車から降ろし、境内の木にかける。ムシはこの木の上から一年間、田を見守っているものだという。その後、青年団員たちは神社境内のフキをとり、囃子にあわせて踊る。そして夕方頃まで行事が続く(県民俗文化財等保存活用委員会『津軽・南部の虫送り』)。
 かつてこの行事には、女性や子どもが参加できなかったといい、その代わりとして前夜祭で「ガク」と呼ばれる30センチ四方の灯籠にロウソクを灯(とも)したものを持って歩いたり、昭和40年代に地元小学校が学校行事として太刀振りに参加していたというが、これらの写真はその様子を写したものであろうか。なおこの行事は「相内の虫送り」として、2011(平成23)年に県無形民俗文化財に指定されている。
 ▽虫札を発行
 五所川原市の藻川集落でも虫送りが行われている。その行事の概要は相内のものと似ているが、興味深いのが代々、虫札を発行してきた家があることである。その家の先祖は、かつて夜に岩木川へ入って善光寺様という大石を拾ってきたカミサマ(民間宗教者)であり、虫札の版木を管理してきた(拙論「北五津軽地方における善光寺信仰」)。
 このような虫送りで虫札が配布されている地域として、五所川原市金木、中泊町芦野、旧中里町上高根および深郷田、鶴田町鶴田および石野、旧木造町出精などが確認されている。これらの虫札は虫送りの歴史を考察するうえで貴重な文字史料である。
 しかしこれらの虫札に共通性はなく、それぞれ断片的な宗教的知識が変容したかたちで織り込まれており、それらを分析するにはまだまだ課題が多い。それでもこれらの虫札群は、18世紀半ばに各集落が独自に農耕儀礼を生み出していくなかで発生してきた存在ではないかと推測されている(福眞睦城「北五地域の虫札についての事例報告」)。
 なお五所川原市内では他にも、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などの各集落でもかつて虫送りが行われていたが、衰退したり失われたりしたという伝承があり、その一方で、近隣の虫送り行事の要素をまねして始めたのだ、と語っている地域もある。
 このように津軽地方の虫送りは必ずしも不変の行事ではなく、長い歴史のなかで、中断や再生を繰り返し、さまざまな変化と要素を取り込みながら、現在の習俗を形成してきた状況が考えられるのである。
(青森県史編さん執筆協力員・小山隆秀)

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