津軽の街と風景

 

幻の青森鉄道管理局=2

2014/4/28 月曜日

 

青函連絡船の貨車航送=1969(昭和44)年9月・青森県史編さん資料
国鉄管理部庁舎=1980年代(筆者所蔵)
青森車掌区の入口=1980年代(筆者所蔵)

 今から40年ほど前、東北新幹線が開業する以前に、青森駅に降り立った旅人の目にどのような景色が映ったのか、筆者の幼い頃の記憶を頼りに少し思い起こしてみたい。
 かつて日本一の長さを誇ったという長いホームに降り立つと、まず何本も並ぶ線路の列を埋めている長い貨車の列が目に入る。控車と呼ばれる変わった車両を連結したディーゼル機関車によって、大きく口を開けた青函連絡船に出し入れされる様子が、昼夜を問わず見ることができた。
 ホームの上を忙しく走り回る、手小荷物や郵便物の入った袋を積んだ台車を引いた、ターレットと呼ばれる運搬車に追い立てられるように跨(こ)線橋の階段を上がり、改札を抜けて駅舎の外に出る。すると、正面にはバスとタクシーの群れの向こうに新町通りのアーケードが連なり、左手、海のほうには停泊している連絡船の巨体、右手に目をやれば道路に沿って、りんご市場の狭い店が肩を寄せ合うように並んでいるのが眺められる。
 そして、まるでりんご市場を足下に従えるかのように、駅前広場に正面を向けて古めかしくも堂々とした建物が立っていた。ここは、青森と国鉄の関わりについて語られるときに忘れてはならない一つの出来事の舞台なのである。
 時は1950(昭和25)年、終戦後の混乱がまだ収まらぬ頃、この建物には仙台鉄道局青森管理部が置かれ、青森県内にある国鉄の路線を一元的に管理していた。
 前年の6月に、それまで国営事業だった鉄道事業は、日本の占領政策を担っていたGHQの意向によって、公共企業体である日本国有鉄道の運営とされていた。その地方組織であった管理部も、この年、大改革の荒波を被ることとなったのである。
 その内容は、地方の管理組織を簡素化し、全国に49あった管理部と9カ所の鉄道局を、27の鉄道管理局に再編しようとするもので、鉄道創業以来の大規模な機構改革といえるものであった。
 とはいえ、東北・奥羽の両本線、そして青函航路という国鉄の大動脈と、貨物の大操車場を擁する、本州北端の鉄道の要であった青森市では、そうした地理的条件から近隣の他都市と比べても有利とされ、誰もが鉄道管理局が設置されることを信じて疑っていなかった。しかし、同年6月14日に発表された国鉄の地方組織改組の内容には、なんと青森への管理局設置は含まれていなかったのである。
 それは「青森鉄道管理局」の看板を用意して、その発表を待っていたという青森にとって、まさに予想だにしない内容であり、現場の国鉄職員をはじめ、県民も「ただ呆然(ぼうぜん)自失」といった状況であったという。
 この後、最終的に県内の国鉄路線は、秋田と盛岡の両鉄道管理局が所管することとなった。だが、当時の新聞に、本県の政治力の貧困と油断の結果であると書かれたこの出来事は、後々まで県内の国鉄の路線に、設備改良やサービス改善等の面から微妙に影を落とし続けることとなった。
 鉄道管理局設置の夢が破れたあとも、旧管理部の庁舎には国鉄の様々な機関が入居していた。その中の一つに青森車掌区があった。筆者の父親は同区に所属する車掌だったので、筆者も幼い頃父親に連れられて庁舎の中に一度だけ入ったことがある。駅前広場に面した立派な正面と違って、りんご市場の店舗の隙間に窮屈そうに開いていた車掌区の入口と、古びた長い廊下だけがなぜか今でも印象に強く残っている。
 現在、連絡船はわずかにメモリアルシップ八甲田丸にその記憶をとどめるに過ぎない。青森駅前も再開発が行われてすっかり姿を変え、りんご市場と旧管理部の庁舎の跡地は、駅前公園の広場と再開発ビルとなっている。だが、駅前に立ってバスを待っていると、ふと、幼い頃に見たりんご市場の雑踏や、その背後の大振りな国鉄の庁舎の姿がまぶたに浮かぶ心地がするのである。
(弘前大学國史研究会会員 石塚雄士)

∆ページの先頭へ

駅設置が鶴田に活気=1

2014/4/7 月曜日

 

陸奥鶴田駅と弘南バス(1961年3月・やぎはし写真館提供)
廻堰大溜池(津軽富士見湖)(1953年4月6日・やぎはし写真館提供)
合併前の鶴田本町通り(19531953年3月21日・やぎはし写真館提供)

 1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行で、青森県内は8つの郡(東津軽・西津軽・中津軽・南津軽・北津軽・上北・下北・三戸)に分けられた。盛岡藩領だった上北・下北・三戸の3郡とは対照的に、弘前藩領だった5つの郡には、すべて津軽の名前が付されている。それだけ津軽地域には共通する歴史背景があるのだろう。しかし当然、津軽の各郡には違いや特徴もある。今回の連載では、5つの津軽地域に見られる街並みや風景の特徴などを、青森県史編さん事業で得られた成果を中心に紹介したい。
 ▽駅と橋
 町制施行前の北津軽郡鶴田村は、岩木川沿いの肥沃(ひよく)な土地を活かした稲作の盛んな農村だった。だが1918(大正7)年に陸奥鉄道(後の五能線)が開通し、陸奥鶴田と鶴泊の2駅が設けられた。
 これ以降、次第に隣村の六郷村や梅沢村から、駅のある鶴田村へと農産物が集積されだした。岩木川に架かる鶴寿橋(かくじゅばし)から陸奥鶴田駅は比較的近く、南方の保安橋からは鶴泊駅に直行できた。このため以前にも増して、鶴田村は西津軽郡各地との交流が盛んになった。
 役場のある陸奥鶴田駅の駅前通りには繁華街が形成された。そして、駅と橋との結びつきによる物流の効果もあり、1941(昭和16)年10月1日、鶴田村は町制を施行した。時に太平洋戦争開戦の2ヶ月前だった。
 ▽五所川原と板柳の間
 1955(昭和30)年3月1日、鶴田町は六郷・梅沢・水元の3村と合併して、新たに鶴田町となった。北津軽郡の鶴田町と六郷・梅沢両村が合併したことはともかく、西津軽郡の水元村が合併に加わったことは異色であろう。
 これには駅や橋による交通事情の他、廻堰(まわりぜき)大溜池の存在が大きく影響している。旧水元村の大半を占める溜池は、水元村はもちろん、周辺の町村の農業に不可欠な存在だったからである。別名津軽富士見湖と呼ばれ、今では鶴田町最大の観光名所にもなっている。
 市町村合併は時に激しい争いを伴う。鶴田町の合併劇は、水増し投票や住民投票問題などで世間をにぎわした。特に前者の問題は、1956(昭和31)年5月11日、自治庁が水増し投票をできないように、町村合併促進法の施行令を一部改正する政令を発した。鶴田町の事例が全国の選挙制度を是正する先例になったのである。
 鶴田町の分町問題は、板柳町に接する大字石野と野中、五所川原市と接する大字梅田と中泉で起こっている。いずれも鶴田町内にありながら、板柳町や五所川原市とも近く、両市町との交流が盛んな地域であった。
 鶴田町が合併と分町で揺れていた時期は、板柳町が市制施行を模索し、すでに五所川原町が合併によって市制施行を遂げ、大幅に市域を広げていた頃だ。両市町に挟まれた鶴田町の位置が、合併問題に際して、町民に不安や心配をもたらしたと考えられよう。
 なお合併問題の基礎資料は、『鶴田町誌 下巻』の他、『青森県史資料編近現代5 復興と改革の時代』にも掲載したので、大いに参照して欲しい。
 ▽鶴の舞う町
 鶴田町には鶴に因(ちな)んだものが豊富にある。鶴寿橋や鶴寿公園などの地名をはじめ、マンホールや銀行の看板、跨(こ)線橋の側壁などに鶴の絵が描かれている。道路上の杭(くい)や柱、郵便ポストの上など、至る所に鶴のオブジェがある。1999(平成11)年1月、陸奥鶴田駅は鶴が舞う形に新築された。廻堰大溜池には有名な鶴の舞橋も架橋された。
 鶴は「もの」だけに留(とど)まらない。絵日記で一躍全国的に有名になった竹浪正造(まさぞう)さんと、「ツル多はげます会」の活動は、全国的にも有名だ。また、町中にある鶴モチーフを見つけながら鶴田町をガイドして歩く、若い女性たちを中心とした「つるた街プロジェクト」も注目を集めている。
 鶴以外にも鶴田町では、2004(平成16)年3月に学校統合で閉校した水元小学校の校舎を、町民の活動拠点である「伝承館」に活用している。木造校舎は歴史的にも貴重な地域遺産である。今ある「もの」を活かした試みとして、大いに評価できよう。
 今回の調査と写真の収集にあたり、陸奥鶴田駅前の喫茶店「珈琲いしむら」のご夫妻と、やぎはし写真館には大変お世話になった。この場を借りてお礼を申し上げたい。
(県庁県史編さんグループ主幹 中園裕)

∆ページの先頭へ

Page: 1 ... 9 10 11 12 13

当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード