津軽の街と風景

 

かつて栄えた大鰐温泉=19

2015/2/3 火曜日

 

ありし日の大鰐温泉郷(1969年2月・青森県史編さん資料)平川沿いの2階建ての大きな建物が加賀助旅館。現在跡地は駐車場になっている
ありし日の後藤旅館(2007年7月1日 中園裕氏撮影)弘前の北州楼(1899年頃建築)を移築したという。2011年に解体
戦前の大鰐もやしを売る店(昭和戦前期・青森県史編さん資料)現在、もやしは「鰐come」などで購入できる

 ▽多い共同浴場 
 弘前の奥座敷として利用されてきた大鰐温泉。1954(昭和29)年の大鰐町と蔵舘町の合併以前は、平川を挟んで、大鰐温泉と蔵館温泉(現在のヤマニ仙遊館の辺り)に分かれていたが、市町村合併で一体化している。
 大鰐温泉は昔ながらの共同浴場が多いのが特徴で、大鰐地区に4カ所、蔵館地区に2カ所の計6カ所もあり、さらに2004(平成17)年にオープンした温泉保養施設「鰐come」もある。
 江戸時代の紀行家菅江真澄は、1796(寛政7)年に大鰐へ宿泊した際、湯坪(源泉)は7カ所あると記したが、大湯や山岸の湯(山吹の湯)のように、現在の共同浴場に名前を残しているものもある。
 ▽江戸時代の大鰐温泉
 江戸時代後半の温泉の見立て番付「諸国温泉効能鑑」には、全国86カ所の温泉が挙げられているが、「津軽大鰐の湯」が行事の一人として名前を連ね、別格の扱いである。他に、倉立湯(蔵舘)は「諸病によし」と高い評価である。かように大鰐温泉は江戸時代から名湯として全国に知られていた。
 大鰐は弘前藩主の参勤交代路にあたることから、藩主の湯治場として利用され、滞在のための施設「御仮屋」が置かれた。『大鰐町史』中巻によると、「弘前藩庁日記」等で確認できる歴代藩主の湯治は27回を数えるという。
 特に3代信義は晩年の3年間、津軽生活の半分以上を大鰐に滞在し、大鰐温泉が発展するきっかけを作ったという。1844(天保15)年の時点では、大鰐と蔵館の湯小屋は38軒となり、しばしば湯治客で満員になった(同書)。
 ▽近代の大鰐温泉
 1895(明治28)年に奥羽本線大鰐駅が開業すると、弘前から手軽に行ける温泉地として、大鰐温泉はますます賑(にぎ)わうようになった。江戸時代の大鰐温泉は、藩によって遊女の入りが厳禁されていたが、一転して明治以降になると大鰐は歓楽の地となった。
 大正の初期、現平川市の豪農外川平八が「外川町」という歓楽街を作り、1923(大正12)年には16軒の旗亭(芸妓を置く料理店)があった。温泉の濫掘(らんくつ)が進み、早くも温泉掘削が禁止されるに至ったのもこの時期である。
 現在は解体されたが、大鰐を代表する老舗旅館であった後藤旅館の建物は、この時期弘前の遊郭の建物を移築したものだった。終戦後、1958(昭和33)年には売春禁止法が施行され、大鰐温泉にあった業者も廃業し、温泉街も火の消えたような寂しさになったという(『大鰐町史』下巻(一))。
 加えて度重なる平川の水害、濫掘による湧出量の減少が追い打ちをかけた。そのため、町は1964(昭和39)年から温泉の集中管理に踏み切ったが、維持管理料をめぐって温泉業者と町当局が対立するなど、温泉街の体力を奪ったことは否めない。平成に入っても、「スパガーデン湯~とぴあ」の破綻など苦難の歴史は続いたが、「鰐come」を拠点に町おこしグループ「OH!!鰐 元気隊」が活躍するなど、町活性化のための挑戦が続いている。
 ▽大鰐もやしの歴史 
 大鰐温泉の名物として知られているのが、温泉熱を利用して促成栽培された長もやしである。大鰐もやしのルーツは意外と古い。大鰐は津軽領では南端にあたり、温泉熱も利用できるので、季節的に早くもやしをはじめとする野菜類の栽培ができる。このため藩にとっては貴重な存在であり、大鰐には17世紀中頃から藩主専用の野菜園(御菜園)も造られ、弘前城の台所や江戸屋敷に献上されていた(『大鰐町史』中巻)。
 野菜園の管理人「御菜園守」を勤めていたのは、伝説では大鰐温泉の発見者と言われる加賀助(代々襲名)である。加賀助は御仮屋(おかりや)の管理人も勤めた。加賀助旅館は戦前までは大鰐を代表する老舗だったが、残念ながら1984(昭和59)年に閉館している。
 1788(天明8)年に弘前藩士比良野(ひらの)貞彦が津軽の文物風俗を描いた「奥民図彙(おうみんずい)」では、もやし箱(筥)について紹介されている。もやしは賀田(よしだ)(現弘前市)や大鰐の辺りで多く栽培され、女性が背中に背負って売り歩いたという。昭和期までは湯見舞といって湯治中の人を親戚や友人が見舞う風習もあったが、土産はもやしが多かった(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
 幕末期、大鰐温泉に滞在した家老大道寺族之助(やからのすけ)も、湯見舞客へのお礼として、もやしと木地挽(きじびき)細工物(木工品)を沢山(たくさん)購入している(「金木屋日記」)。木工品もまた大鰐の名物であり、明治になってからはこけしも作られるようになった。現在、大鰐もやし(大豆・そばがある)は伝統野菜として、後継者不足に悩まされながらも、大鰐の名物として定着している。
 温泉に浸かり、地元の味を楽しむのは旅行の醍醐味(だいごみ)である。昨今、団体観光から個人旅行に嗜好(しこう)が移り、旅行者のニーズも多様化し、旧態依然とした温泉地は全国的に苦戦している。大鰐温泉が歓楽街として栄えていたのも今は昔。現在は中心部に大型ホテルも少なく、昔ながらの湯治場の面影を残しているのでないだろうか。車社会の現在だが、日帰り入浴だけでなく、中心部のそぞろ歩きを楽しみ、旅館に泊まってはいかがであろうか。
(県庁県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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戦後に拓かれた「竹田」=18

2015/1/19 月曜日

 

開墾の様子 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
竹田開拓 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
融雪洪水 1955(昭和30)年前後・竹内正一さん撮影・竹内覚さん提供
開拓十周年記念碑 2007(平成19)年・筆者撮影

 ▽「古十三湖(こじゅうさんこ)」から芦野原へ
 湖面を滑る丸木舟と飛び跳ねる魚群―縄文時代前期(約6000年前)、津軽平野北半は「古十三湖」と称される大湖に覆われていた。水上交通の舞台、あるいは水産資源の宝庫として縄文文化を育んだ「古十三湖」は、その後徐々に縮小し、湖水が退(ひ)いたあとには岩木川下流部と広大な湿地帯が形成された。
 平安時代(約1000年前)より進行した岩木川下流部の開拓は、江戸時代中期以降本格化した。弘前藩直営の治水事業が行われるとともに、自然堤防上に金木新田(かなぎしんでん)の村々が続々と拓かれた。
 しかしながら、同地域は水害の常習地帯であり、村々は度重なる冠水に悩まされ、移転を余儀なくされることもあった。梅雨・秋雨による溢水のほか、春先の融雪洪水、そして冬の季節風により、十三湖水戸口が閉塞することによって生じる逆流被害が、毎年のように繰り返された。
 大正時代に始まった岩木川改修工事ならびに十三湖水戸口突堤・湖岸堤工事は、流域の水害を軽減し、十三湖岸の開田を可能ならしめた。しかしながら岩木川下流部の大半は、已然として「若宮(わかみや)原野」と称される芦萱(あしがや=ヨシ)が繁茂する大湿地帯が横たわり、開拓の進展をかたくなに拒んでいたのである。
 ▽芦野原から穀倉地帯へ
 泥濘(ぬかるみ)と風にそよぐ広漠たる芦野原―戦後の食糧難は、従来顧みられることのなかった湿地帯に大規模な干陸計画をもたらした。岩木川下流部、海抜ゼロメートル地帯に位置する通称「竹田」地区は、国営十三湖干拓建設事業に伴う開拓集落であり、戦後まもない時期に入植が始まった。
 入植者の募集は1951(昭和26)年に始められ、翌年には「入植予定地県内在住の海外引揚者又は疎開者等で健康な農業を希望する者」の中から50戸の入植者が決定した。入植者には、水田2町4反歩、畑地2反歩、宅地1反歩の計2町7反歩が均等に配分された。
 かつて「古十三湖」の湖面であった茫漠たる芦野原の中に、50戸の開拓村が造成された。人々は簡素な開拓者住宅に住み、唐鍬や三本鍬など人力で芦萱と格闘しながら農地を整備していった。
 そのほかにも、資材不足、腰切田、地吹雪、融雪洪水、メタンガス混じりの井戸水など、泥炭地の開拓は苦難に満ちたものであったが、官民一体の取り組みによって、10周年記念式典を迎えるころには見渡すかぎりの水田地帯に生まれ変わった。
 秋空のもと頭を垂れる黄金色の稲穂―1952(昭和37)年、旧協和分校前に建立された「開拓十周年記念碑」の表には「開拓魂(かいたくだましい)」の3文字、碑の裏には開拓団のリーダー竹内正一(たけうちしょういち)氏による決意文が刻まれた。「吾人の胸中を去来するものは葦茅の繁茂する標高零の湿地帯十年前の姿と大正年代に水田開発を企てた先人受難の歴史である」「吾人五十名は苦難更に大きいこの泥炭地の開拓を志し選ばれて生涯をこの地に託す」。
 人跡未踏の地に入植を可能ならしめたのは、十三湖干拓建設事業に伴う排水・土壌改良等、ハード面での恩恵もさることながら、入植者達の不屈の精神「開拓魂」が寄与すること大であった。一致団結した50戸の盤石の思いがなければ、これらの難事業は完遂されることはなかったであろう。
 国営十三湖干拓建設事業は、十三湖囲繞堤に囲まれた十三湖面及び内潟(うちがた)沼・低湿地原野の干陸ならびに排水改良を目的として、1948(昭和23)年に着手された。20年以上に及んだ干拓事業は、「鳥も通わぬ十三湖」と形容された岩木川下流部の芦野原を、地域を代表する穀倉地帯へと変貌させ、1970(昭和45)年に竣工した。
 武田(たけだ)その一工区においては、1948(昭和23)年度89%を占めた「湿地・原野」が完全に姿を消し、かわりに10%弱に過ぎなかった水田が79%に拡大した。また排水強化によって地盤強度が増したことによって機械化営農が可能になり、省力化や作業合理化など農業近代化にも貢献することとなったのである。
(中泊町博物館館長補佐 齋藤 淳)

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北海道へニシン場稼ぎ=17

2014/12/29 月曜日

 

利尻島にあった小倉漁場のニシン沖揚げ=1921(大正10)年4月22日撮影・小倉英章さん提供
小倉漁場で遭難した乗組員の葬儀。平舘村で行われた=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供
本覚寺で撮影された小倉漁場の幹部たち=1917(大正6)年7月24日・小倉英章さん提供

 2016(平成28)年3月開業予定の北海道新幹線で、今別町に「奥津軽いまべつ」駅ができる。30年ほど前は人口7千人を超えていた今別町だが、現在はその半分以下となり、高齢化率は県内で最も高い。
 町は「日本一小さい新幹線のまちへ!」とキャンペーンを打ち出しているが、美しい海峡も有名で、とりわけ袰月(ほろづき)海岸は風光明媚(めいび)な海岸である。
 「この村サ一度(イヅド)だて 陽(シ)コあだたごどあるガジャ」。袰月尋常高等小学校で代用教員を務めていた高木恭造(1903~87)の「陽(シ)コあだネ村~津軽半島袰月村で~」は、怒りの言葉で始まる。そして「若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃(ネ)げでまて 頭(アダマ)サ若布(ワガメ)生(ハ)えだえンた爺(ジコ)媼(ババ)ばり ウヂャウヂャてナ」と続く。
 袰月はアイヌ語で「大酒椀(ポロトゥキ)」といい、「大ぶりの酒椀の形に深くえぐれた湾」という意味をもつ。かつてアイヌが暮らしたという津軽半島北辺部の一端にある漁村である。
 青森県から北海道への漁業出稼ぎは、江戸時代中期に幕府が弘前藩と盛岡藩に警備を命じた頃から盛んになり、漁閑期や農閑期の2月から4月にかけて、ニシン場稼ぎと称して北海道の西海岸へ向かった。
 かつて北海道の日本海沿岸は、春先になるとニシンの群れが押し寄せる群来(くき)が現れ、大量のニシンが産卵し放精するため、海面が白濁する現象が見られた。「ヤドイ」(雇い)とか「ヤン衆」と呼ばれていた出稼ぎ労働者は、北海道北端の礼文島や利尻島まで出かけていた今も礼文島にある「津軽町」という地名は、津軽地方からの移住者が住んでいた名残という。
 札幌の北海道開拓記念館に、今別町袰月の小倉みつさん(10代目小倉十兵衛の妻)から寄贈された『小倉家資料目録』がある。これは明治中期から大正期にかけて、北海道利尻島旧沓形村(現種富町)のタネトンナイと礼文島メシコタイにあった小倉漁場(ヤマジュウ)に関わる資料である。
 1989(平成元)年刊行の『利尻町史』によると、袰月に定住していた8代目小倉十兵衛が、1888(明治21)年に利尻島の鬼脇村字野中にニシン漁場を開設。その後、礼文島西海岸と利尻島へ進出したと書かれている。
 礼文島や利尻島の漁場は、津軽半島一帯から移住した漁民や出稼ぎ者の多くが、親方の家に寝泊まりしながら生活を営んでいた。袰月の小倉十兵衛家の土蔵には、現在も大量の漁場関係の資料が残されており、ニシンを求めて北方に渡り暮らしを営んでいた活況ぶりやニシン経営などがうかがえる。
(青森県史編さん調査研究員 小泉敦)

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間口広く懐の深い平賀町=16

2014/12/8 月曜日

 

歩行者天国でにぎわう平賀駅前の商店街(1980年頃・青森県史編さん資料)
平賀駅の地下スーパー(1970年代後半・青森県史編さん資料)
開業した頃の南田温泉と屋外温泉プール (1972年頃・青森県史編さん資料)

 ▽僅か50年
 2006(平成18)年1月1日、平賀町と尾上町と碇ケ関村が合併して平川市が成立した。3町村での平賀町の印象はどうだろうか。碇ケ関村は藩政時代に関所を有し、近代以降も温泉保養地に位置づけられてきた。尾上町は庭園の町・蔵の町として知られ、近年町歩きも盛んだ。これに対し平賀町の印象は、今ひとつ薄いようである。
 平賀町は1955(昭和30)年3月1日、大光寺町・柏木町・尾崎村・町居村・竹館村の5町村が合併して成立した。これだけの町村が合併したのに、中世以来の「平賀郷」に因んだ町名に反対の声はなかった。歴史ある地名に納得し、共感する人々が多かったわけである。
 平成の大合併で平賀町は平川市となった。平賀町誕生以来、僅か50年余りの出来事だった。町の印象がとらえにくい背景として、改めて理解しておきたい事実である。
 ▽弘南鉄道が形成
 1927(昭和2)年9月7日、弘前~津軽尾上間に弘南鉄道が開通した。国鉄を別にすれば、陸奥鉄道・十和田鉄道に次ぐ県内で3番目の鉄道である。しかし、弘南鉄道は敗戦後間もない1948(昭和23)年7月1日、県内で初めて電化を実現している。そして2年後の7月1日には津軽尾上~黒石間を延伸。現在の弘南鉄道弘南線が完成した。
 弘南鉄道の創設者であり初代社長だった菊池武憲は、自らが所有する水田地帯に平賀駅を設置した。これ以後、飲食店や旅館・病院・商店等が建設され繁華街が形成された。平賀町の中心街は弘南鉄道が形成したといってよいだろう。
 ▽駅の地下スーパー
 1962(昭和37)年9月7日、弘南鉄道は開業35周年を迎えた。これを記念して平賀駅舎を新築。駅前に「栄え行く弘南の碑」を建てた。碑文には「交通の発達は文化を進め産業を興す」として、「沿線一帯の産業文化の振興に一層の貢献をなし来つた」弘南鉄道の歴史が刻まれた。
 新築の平賀駅は『陸奥新報』が「私鉄では東北一」と掲載したように、当時の県内各駅に比べて大きく立派だった。そして駅舎の中には、平賀農協と弘南鉄道が共同で経営する地下のスーパーマーケットが造られた。
 駅地下スーパーは品揃えが良く、雨や雪を避けられたので、当時の主婦層から圧倒的な支持を得ていた。床屋もあり、男性サラリーマンに重宝された。駅正面からすぐ地下に入れたから、通学の女子学生たちがパンやお菓子を買いに立ち寄った。彼女たちはスーパーを「駅の穴」と呼んでいた。
 こうして平賀町民に親しまれた駅地下スーパーだが、1986(昭和61)年に現在の駅舎が完成する前には姿を消した。スーパーは旧駅舎を象徴する存在だったのである。
 現駅舎の玄関前はタイル張りになっている。ところが、玄関左側に設置された郵便ポストの周辺だけ、なぜかタイルの色が違う。実は、この色違いのタイルこそが「駅の穴」だったのだ。平賀町民に親しまれた駅地下スーパーの貴重な遺構として記憶されたい。
 ▽新興温泉地
 平賀町には温泉施設が数多く存在する。大半が1962(昭和37)年以降に掘削した温泉である。平賀町は「新興温泉地」といえるだろう。
 1966(昭和41)年の唐竹温泉を筆頭に、翌年には大坊温泉(大坊保養センター)が落成。温泉付きの公民館として有名になった1972(昭和47)年7月には平賀アップルランド南田温泉が開業。大石武学流の庭園や屋外温泉プールを設け、レジャーランド的な施設として人気を集めた。
 このほか、鷹の羽温泉、柏木温泉、館田温泉、平賀観光温泉、新屋温泉、松崎温泉、からんころん温泉、花の湯、芦毛沢温泉、大光寺温泉など、10軒を越える温泉施設が次々に開業した。
 このほか、国道102号を十和田湖方面へ向かった山間に、温川温泉と切明温泉があった。どちらも黒石温泉郷として紹介され、秘境の温泉地として人気があったが、施設自体は平賀町内にあった。間近に流れる浅瀬石川の渓流は「天下の絶景」と称された。平賀町の貴重な財産が黒石温泉郷を支えていたことになろう。
 ▽間近に十和田湖
 5町村が合併して出来た平賀町だが、そのうち4町村はすべて西北部に集中し、いずれも面積は狭い。竹館村だけが南東へ大きく伸び、町内総面積の大半を占めている。竹館村は県内最初のリンゴ専門組合たる竹館産業組合が結成されたことで知られている。
 竹館村の最東部は間近に十和田湖が存在する。事実、平賀町の東端は十和田市と秋田県の小坂町に接し、1キロ余りで湖畔に達する。米とリンゴを中心に田園地帯の印象が強い平賀町だが、実際には町内の多くを山林が占めている。
 平賀町の広報を見ると、十和田湖の展望台として滝ノ沢と御鼻部山がたびたび紹介されている。滝ノ沢展望台は、1960(昭和35)年に建設された休憩所を、1971(昭和46)年に町が県の助成を得て鉄骨平家建てに改築したものだった。残念ながら今は撤去されている。
 これに対し御鼻部山の展望台は「十和田一番の展望台」として、かつては弘南バスのバス停があり、簡素な東屋があった。展望台は1965(昭和40)年8月の国立公園大会に、常陸宮夫妻が来県するため改築され、その後現在に至っている。
 平賀町の町名は50年で消えた。しかし黒石温泉郷の魅力を支え、十和田湖を間近に控える平賀町は、間口が広く、懐の深い町だったのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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アイヌ語と津軽半島=15

2014/11/24 月曜日

 

高野崎(たかのざき)から見た袰月の入江(大きな岩の後方)=2009(平成21)年8月22日・筆者撮影
宇鉄川。国道の近くから上流を撮影したもの=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」
今別町大字奥平部(おくたいらへ)の鬼泊トンネル。奥平部もアイヌ語系地名。「へ」は「ぺ」または「ぺっ」で、川を意味する。事実、トンネルは平舘村(現外ケ浜町)との境界近くにあり、近くには鬼泊川が流れている=1961(昭和36)年10月22日・北海道立アイヌ民族文化研究センター所蔵「山田秀三文庫」

 ▽「狄村」
 北奥地方の歴史的・文化的特質のひとつに、アイヌと和人(アイヌに対する日本人の呼称)との共存があげられる。それは、江戸時代の北奥に生きた本州アイヌと呼ばれる人々が、弘前・盛岡両藩に津軽アイヌ・下北アイヌとして支配され、彼らのアイヌコタン(集落)が津軽半島や夏泊半島、下北半島の各地に確認されていることにも示されている。
 津軽地方についてみると1645(正保2)年の「陸奥国津軽郡之絵図(むつのくにつがるぐんのえず)」の、津軽半島北端、三厩(みんまや)(外ケ浜町三厩)周辺のほか、日本海に面する半島北西端の小泊(中泊町小泊)周辺、陸奥湾に面する夏泊半島北端(平内町)に「狄村(えぞむら)」が記されており、江戸時代初期段階でのアイヌの居住が確認できる。しかし、「狄村」には他の村落と異なり、具体的な村名と村高(一村の生産高)が記されておらず、実体は定かでない。
 ▽津軽一統志
 「津軽一統志(つがるいっとうし)」には、1669(寛文9)年頃の津軽半島のアイヌ居住地と家数の状況として、宇田(うた)村・ほこ崎村(以上、外ケ浜町平舘)、五生塚(ごしょうづか)村・砂ケ森村・袰月(ほろづき)村・小泊(大泊(おおどまり))村・山派(やまはだち)(大川平(おおかわだい))村(以上、今別町)、松ケ崎村・六条間(ろくじょうま)村・藤嶋(ふじしま)村・釜野沢(かまのさわ)村・宇鉄(うてつ)村・竜飛村(以上、外ケ浜町三厩)などが書き上げられている。
 津軽半島北端の広い地域に、アイヌの居住集落が存在していたと理解できる。これらの集落名には、その地形や生活文化に由来して、居住したアイヌの人々の言語で付されたと考えられるものもあり、今もそうしたアイヌ語地名が残っている。そのいくつかを紹介してみよう。
 ▽平舘と今別
 平舘の「宇田」はアイヌ語の「オタ」(砂、砂浜)の訛音と考えられる。幕末の探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)もこの地を訪れた際に「歌村。定めてヲタ村なるべし。此処初めて砂を見る。」(「東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)」)と記している。
 今別の「袰月」は「ポロ・トゥキ」(大きい・坏(つき))であろう。アイヌの人々は和人との交易で「坏=トゥキ」を入手し、酒を入れた「トゥキ」(直径10センチ位の木製の椀)を高台にのせ、イクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))をその上に横たえて飲む独自の飲酒文化を築いた。現在の袰月の入江は半円形の湾であるが、まさに大きな坏に酒を注いだような景観を呈している。
 ▽三厩と宇鉄
 三厩の「六条間」は「ロクンデウ」(大船)に停泊港を意味する日本語の「間」を組み合わせた地名であろう。また、六条間から三厩よりに算用師(さんようし)峠があるが、ここは「サニ・ウシ」(坂のある処)の意であると考えられる。
 「宇鉄」はどうであろうか。宇鉄は江戸時代の津軽アイヌ居住地としてよく知られた地名である。弘前藩は1756(宝暦6)年と1809(文化6)年の2度、津軽アイヌの同化政策を推進したが、「東奥沿海日誌」からは宇鉄に居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込みながらも幕末に至るまで民族としての文化を保持し続けていたことが理解できる。ただし、宇鉄の地名由来は定かではない。「ウワテツ」(群がる)、「ウ・ラシ」(お互い・魚を捕る)、「オタ・エツ」(砂・出崎)、「ウトル・ペツ」(間の・川)のいずれかが日本語に転訛したものとされている(『角川地名大辞典』)。
 ▽山田秀三
 こうしたアイヌの人々の民族文化に由来する地名は、津軽海峡をはさむ北奥地方と北海道で共有されるものであった。戦前の国家官僚で、戦後はアイヌ語地名を追って各地をくまなく踏査した研究家の山田秀三は、津軽海峡をはさむ南北で同地名が多く、北側を歩いていると南側を歩いているような錯覚に陥ったという(『アイヌ語地名の研究』)。津軽海峡をはさむ北奥以北の地は、アイヌの人々にとって民族の一体的空間=アイヌモシリ(アイヌ〈人間〉の大地)であったのである。
(札幌大谷中学校・高等学校教諭 市毛幹幸)

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