津軽の街と風景

 

10年経て青森市誕生=9

2014/8/25 月曜日

 

市制施行後間もない頃の青森市中心街(明治中期・青森県史編さん資料)
浦町の国道通り(明治末期~大正初期・青森市史編さん室提供)
浦町駅の上り最終列車に別れを告げる人々(1968年7月21日・青森市市民政策部広報広聴課提供)

 1889(明治22)年4月1日、市制・町村制が施行された。青森県内では弘前のみが市制を布(し)き、1市5町165村で新制度がスタートした。県庁所在地の青森も、新制度の施行にあわせ、有力者たちが市制施行に向けた運動を展開した。しかし、結果として市制を施行するのは1898(明治31)年4月1日のことで、この時青森は「5町」のひとつとなった。
 青森が市制施行に向けてクリアすべき課題は、市制の要件を満たすべき「人口」の問題だった。具体的には周辺の村々を編入し、合併するという方策が採られた。1897(明治30)年10月1日、青森町は滝内村大字古川および浦町村と合併し、翌年に市制施行を遂げた。ただし、浦町村との合併は難航。一時、青森の市制施行は実現しないと噂(うわさ)されることもあった。
 青森町は、町村制施行後も町村合併を基調として市制の実現を目指していた。しかし、浦町村との間では、少なくとも1892(明治25)年からの4年間は結論を出せずにいたようである。そして1896(明治29)年2月、浦町村が提示した合併条件を青森町側が受け容(い)れたことにより、合併問題は大きく前進した。新聞も数年来の問題となっていた合併問題がついに落着したと報じ、青森町は合併を前提に内務大臣へ市制実施の申請書を提出することになった。
 一方、浦町村でも新年度からの「合併ありき」で、1896(明治29)年度の予算を編成せず、町会すら開かなかった。そのため、村長が郡役所に召喚され叱責を受けるというエピソードが新聞紙上に報じられた。当時の世論は、青森町と浦町村の合併、そして市制施行が目前に迫っていることを疑うことはなかったのである。しかし、そうした想いは打ち砕かれることになった。
 合併がご破算となったのは、浦町村側にかかわることで内務省がこれを認めなかったと推測される。実際に浦町村は態度を硬化させ、青森町との交渉の席につこうとせず、当時の工藤卓爾青森町長は「もはや温和な手段で合併は難しい」と知事に上申したという。浦町村が態度を軟化させ、交渉が再開したのは1897(明治30)年3月後半から4月にかけてのことと考えられよう。その結果、合併問題にひとまず決着がつき、これによって青森の市制が実現するに至ったのである。
 市制記念の祝宴会の席上、最後の町長となった工藤卓爾は「10年の希望を達成し、今日から3万の青森市民は市制の下に立つことになった」と述べ、挨拶(あいさつ)をしめくくった。こうして、市制・町村制の施行から約10年の歳月と紆余(うよ)曲折を経て、ようやく青森市は誕生したのであった。
(青森市市史編さん室長 工藤大輔)

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「弘前ねぷた」のルーツ=8

2014/8/4 月曜日

 

子供のねぷた(1955=昭和30=年8月・佐々木直亮氏撮影・青森県立郷土館提供)
ねぷたを担ぐ子供たち(1950年代後半・中園裕提供)
子供ねぷたと大人ねぷた(1950年代後半・中園裕提供)

 ▽ねぷたの由来
 国の重要無形民俗文化財「弘前のねぷた」は、毎年約80団体のねぷたが市内を練り歩き、県内外から160万人が集まる都市祭礼として有名だ。そのルーツには、子供たちが自作して近隣を練り歩く小さなねぷたがあった。
 「弘前藩庁日記」によると弘前城下のねぷたは、18世紀には、運行組織も形態も大型化していたことがわかる(拙論「争うネブタの伝承」)。そのなかに子供たちのねぷたが登場する。
 1728(享保13)年、藩士の子弟たちの乱暴で「子供持ち灯籠」が切り落とされた。1773(安永2)年には「本来は子供の七夕祭である」ねぷたに、藩士や町人が混じり喧嘩(けんか)口論をしている様子がある。1779(安永8)年には「子供らのねぷたは屋敷内でやれ」というお触れが出た。
 同時代の村落でも子供たちのねぷたがあった。旅行家の菅江真澄は、1793(寛政5)年7月に大畑(現むつ市)で子供たちの「ねぷたながし」を、1795(寛政7)年7月には木作(現つがる市木造)で子供たちの「ねぷた」を目撃した。
 すなわち当時のねぷたは、都市部でも村落でも主に子供の行事だったが、都市部では特有の青壮年による大型ねぷた運行が発生していたのだろう。
 ▽近代のねぷた
 1914(大正3)年の弘前ねぷたでは、青壮年たちの喧嘩を防止するため、合同運行が導入され、寄付をもらう門付けも禁じられる。門付けのなかには高圧的で暴言を吐く者がおり、市民から警察へ苦情が出ていたからである。
 明治・大正期の日本各地では、欧米の価値観を基準として、伝統的日常行為が「軽犯罪」として取り締まり対象となり、法的規制や警察による社会管理の力が自律的に強化されていった。ねぷたの習俗も容認される存在ではなくなっていた。それでも、近世以来の名残りである、子供たちによるねぷた行事は残った。
 ▽聞き取り調査から
 「昭和初期、子供のころ、九尺の扇ねぷたを作り『ロウソクけろじゃ、ロウソクけねば、銭でもいい』と歩いた。ナヌカビ(旧7月7日)に岩木山嶽温泉まで行き、湯治客の部屋を回ってお金をもらう。夜は小学校に泊まる。」1921(大正10)年、弘前市新法師生まれ。
 「昭和40年代、子供4人でねぷたを作り、8月1日から1週間『ねぷたこ見でけ』と家々や他のムラを回った。お盆で10円から50円くらいもらう。嶽温泉で泊ってくる。反対に嶽温泉や船沢から町内へ来るねぷたがいた。」1924(大正13)年、弘前市宮地生まれ。
 「昭和40年代、ねぷたの時期になると、中学生のガキ大将が町内の小学生を集めて、1週間、農協裏で灯籠型ねぷたを作った。自分たちで絵を描く。赤く塗ればねぷたらしくなる。見送りにマンガを描く。ねぷたをリヤカーに乗せ、イット缶を太鼓にし、柳の枝をバチにして町内を歩く。笛は無い。普段着に豆絞りの鉢巻をしてハナジロをつけた。大人たちのねぷたとは違い『ワラハンド(子供たち)のねぷた』と呼んだ。お盆を捧(ささ)げ『ねぷたッコ見でけ~』と行くと、各家から、ロウソク、お菓子、10円から100円もらえる。同じような子供のねぷたが目屋や船沢などからも来た。嫌がって明かりを消し居留守を使う家もある。鍛冶町は飲み屋街で怖かったが、酔客は札をくれたものだ。」昭和30年代、弘前市撫牛子生まれ。
 ▽現代のねぷた
 このような地域の子供たちが自律的に行うねぷた制作と運行、門付けの行事は、昭和期まであり「草ねぷた」とも呼ばれた。しかし昭和30年代から、門付けが「物貰(もら)い」だと批判され、各学校を通じて禁止された。昭和40年代には、子供たちだけの夜間外出や金銭授受を伴う草ねぷたが、不良化、非行の原因になるとして、各学校が規制した。ちょうどそれは、各町内が弘前市合同運行に参加するようになった時期に重なるという人もいる。
 しかし昭和50年代には、ねぷたが「青森県の誇るべき伝統の祭りである」として、観光面での活用が提唱されるようになり、大人の指導のもとに、子供の健全育成を計る「教育ねぷた」が登場する。それは、かつての自律的な子供のねぷたとは、性質を異にする新しいねぷただったという人もいた。
(青森県史編さん調査研究員 小山隆秀)

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浪岡まで計画の黒石線=7

2014/7/21 月曜日

 

奥羽本線下り列車(後方)からの乗り換え客を乗せて黒石に向かう国鉄黒石線気動車=1963(昭和38)年7月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
かつての黒石市の玄関・国鉄黒石駅=1970年代・須藤重昭さん撮影・提供
黒石線とその周辺
弘南鉄道黒石線気動車。国鉄時代と同じ4番線が黒石線ホーム=1994(平成6)年8月28日・白石健二さん撮影・青森県史編さん資料

 1998(平成10)年3月31日、青森県から一本の鉄道が消えた。弘南鉄道黒石線である。弘南鉄道黒石線は奥羽本線川部駅・黒石駅間全長6・2キロの単線非電化のミニ鉄道で、中間駅に前田屋敷駅があった。
 黒石線の前身は1912(大正1)年8月に開通した国鉄黒石軽便線(10年後に黒石線と改称)で、奥羽本線の通らなかった黒石にとって初めての鉄道である。前年の帝国議会(国会)で敷設が決定した弘前・黒石間の鉄道が実現したものだが、弘前・黒石間とすると浅瀬石川・平川に架橋する必要があったので、経費節減と建設期間の短縮を考慮して最終的に川部・黒石間となったものである。
 黒石線は「行き止まり」線で、黒石と奥羽本線、特に弘前とを結ぶことが最大の役割であり、黒石から延長などの発展性はなかった。
 この黒石線を脅かす存在となったのは弘南鉄道、すなわち現在の弘南鉄道弘南線である。弘南鉄道は黒石軽便線が川部起点となったため期待した恩恵を受けられなくなった弘南地方、とりわけ尾上の有力者によって1927(昭和2)年9月に開通したものである。弘南地方の利便性を考慮して館田・平賀などを経由する弓なりのルートとなった。
 弘南鉄道は戦後の燃料不足の折りに電化と津軽尾上・黒石・浪岡間の延長を計画した。弘南鉄道が浪岡まで開通していれば、黒石をめぐる鉄道事情は大きく変わっていたと思われる。1950(昭和25)年7月に津軽尾上・弘南黒石間が開通し、黒石は二つの鉄道を持つことになった。弘南鉄道は本数も多く、黒石線にとってはライバルとなった。
 国鉄黒石線の最盛期は1955(昭和30)年頃で、1日平均2500人、年間約90万人の利用者があった。しかし、自動車の普及と弘南鉄道の開通により黒石線の利用客は減少した。1981(昭和56)年、国鉄再建のため黒石線は廃止されることとなり、鉄道を残すか、バスに転換するか選択を迫られた。弘南鉄道は黒石線の譲渡、黒石線と弘南線の一体的運営を提案し受け入れられた。
 1984(昭和59)年11月1日から黒石線は弘南鉄道黒石線となった。弘南鉄道は列車本数を1日上下各13本から20本に増加させ、利便性を高めた。しかし、弘前までの運賃は弘南線380円、黒石線・奥羽本線経由370円と互角で、乗り換えのない弘南線に旅客は移行していった。
 1998(平成10)年、乗客の減少により弘南鉄道黒石線は廃止となり、代替の弘南バスが黒石駅前・川部駅前線が走り始めた。停留所が増えて乗りやすくなったものの、所要時間は弘南線10分からバス20分となった。現在では平日5本、日祝日4本まで減少している。かつての黒石線は高校生でにぎわった。弘南バスは登校時下り1本、下校時の上り1本を黒石商業高校まで延長しているが、現在このルートを利用する生徒は6人である。高校生の進路にも鉄道廃止は影響を与えている。
 黒石線の廃線敷の一部は道路敷に転用され、かつて蒸気機関車や気動車の走っていたことを示す痕跡は年々失われてゆく。津軽地方でも公共交通機関の衰亡は進みつつある。利用しやすい鉄道・バスの交通体系の創造が望まれる。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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存在身近なロータリー=6

2014/6/30 月曜日

 

青森市のロータリー 1950年代前半・青森市市民政策部広報広聴課提供
藤崎町の現役のロータリー 2014(平成26)年6月21日・葛西優花さん撮影
五所川原市のロータリー 1964(昭和39)年・白岩昭さん撮影・提供

 「広辞苑」によると、「ロータリー」は「交通頻繁な交差点や駅前に設けた交通整理のための円形地帯。交通島」と定義されている。青森県では戦後になって、各地に設置されるようになった。
 ▽慰霊の場
 戦後間もない1946(昭和21)年、青森市の国道4号と柳町通りの交差点にロータリーが造られた。1948(昭和23)年7月28日、青森大空襲の3周年を記念し、ロータリーの中央へ平和観音像が建立された。被災者を慰霊するためである。柳町の人々を中心に、ロータリーの周辺はいつもきれいに清掃してあった。青森市のロータリーは、交通整理のためだけでなく、慰霊の場所としても機能していたのである。
 五所川原市の駅前から大町通りを西へ進むと十字路に出る。この場所にも、交通整理を意図してロータリーが造られた。そして1957(昭和32)年、青森県平和産業大博覧会(通称五所川原博)が開催。博覧会会場に建立された子供を抱く母親の銅像(母神像)が、ロータリーの中央へ移された。
 博覧会には太平洋戦争の被災者を慰霊し、平和を祈る目的があった。母神像はその象徴的存在だった。母神像がロータリーの真ん中に設置されたことで、五所川原市のロータリーも青森市同様、平和を祈り被災者を慰める場所になった。ちなみに五所川原市のロータリー周辺には、平和食堂と名付けられた食堂もあった。「平和」は戦後を象徴する言葉であり、「平和」を冠した施設は各地に存在していた。
 ▽撤去されるロータリー
 高度経済成長に伴う自動車の激増で、ロータリーの運命は大きく変わった。ロータリーにぶつかる車や、ロータリーを迂回(うかい)せずに、手前で右折して対向車に衝突する車が多かったのだ。交通整理のためのロータリーが、交通事故をもたらす存在になったのは皮肉である。このためロータリーは幹線道路から次々と姿を消していった。
 青森市のロータリーは1963(昭和38)年の暮れに撤去された。国道4号の渋滞緩和と交通事故防止のためである。このため平和観音像は翌年春、やや北寄りに新設された緑地帯の公園内に移された。
 五所川原市のロータリーも、商店街の発展と道路の拡幅舗装のため、1964(昭和39)年9月に撤去。母神像は8月から建設していた五所川原市唯一の緑地公園である柳町公園(現牧水公園)の池に移された。
 二つのロータリーは、1960年代半ばには撤去されたことになる。経済成長の結果、人々は速く便利な自動車を受け入れ、安全対策のためにロータリーを撤去した。平和を祈り、被災者を慰霊する存在だった像は、人々が多数集まる場所から移動させられた。ロータリーに込められていた戦争の記憶が薄らいでいったのではないだろうか。ロータリーは交通整理だけでなく、人々の記憶も整理する役割を果たしていたと思う。
 ▽今も現役
 藤崎町には現役のロータリーがある。この場所は、国道339号バイパスが完成するまで、弘前・青森・五所川原各方面への分岐点だった。津軽地域の大動脈である国道7号と339号が交わる藤崎町は、東・西・中・南・北の各津軽郡へと向かう交通の要所だった。このため、かつてはロータリーの近くに役場があり、町の中心としてにぎわっていた。
 ロータリー周辺は渋滞が多くなり、交通事故も頻繁に起こった。このため1959(昭和34)年に青森県で初めてのバイパスとなる藤崎バイパスが、旧常盤村の矢沢から平川橋付近の舟場の間に完成した。バイパスのおかげで現在のロータリー周辺は静かになった。しかし、今でもロータリーは地元の人々が花を植えるなど、大切に整備しており、町民にとって身近な存在だ。そして今も、青森・弘前・五所川原の分岐点であることに変わりはない。
 津軽地域以外にも、青森県内にはロータリーが存在する。八戸市庁前のロータリーは、1881(明治14)年に明治天皇が八戸へ宿泊した行在所の跡地だ。1933(昭和8)年に史跡指定を受けた後、自動車の往来を避けるため、ロータリーとして造られ2年後に完成している。これ以後、何度か整備され、今は明治天皇巡幸の歴史を記憶する小公園的な場所になった。
 現役のロータリーは、歴史を記憶する場所として定着している。しかし失われて久しい青森市のロータリーも、当時を知る市民の間で愛着を持って語られている。五所川原市のロータリーがあった場所は、その存在を知らない若者でさえ、ロータリーと呼んでいる。ロータリーは撤去された後も、人々の記憶を整理する役割を担っているのかもしれない。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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高度成長期 源泉を開発=5

2014/6/16 月曜日

 

百沢温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供
三本柳温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供
嶽温泉 1955(昭和30)年頃・青森県史編さん資料
湯段温泉 1960(昭和35)年頃・中園裕提供

 岩木山麓には百沢、三本柳、嶽、湯段の四つの温泉があり、地域の住民が湯治に利用していた。1950~60年代の高度成長期に、観光開発が全国的に展開されると、これらの温泉はボーリング掘削により源泉が開発され、津軽地域の重要な観光資源となった。そこでこれらの温泉の歴史を紹介していこう。
 ▽百沢温泉
 江戸時代から温泉の湧出が知られており、百沢(ひゃくたく)寺の住職が「しのびの湯」と称して入湯していたという。しかし、温度が低かったため温泉として発展しなかった。
 高度経済成長を受けて、信仰の地だった百沢に鎮座する岩木山神社や高照神社が観光の地となっていくと、観光客の宿泊する旅館に温泉を引くため、1957(昭和32)年、岩木町(現弘前市)が中心となってボーリング泉源の開発が行われた。
 温泉は温泉事業条例に基づき、岩木町が維持・管理した。温泉の供給は、貯湯槽より分湯で行われ、町長の許可を得なければならなかった。供給料金は供給量毎分18リットルにつき、120万円と定められた。泉質は重炭酸土類泉で、効能は神経痛・リウマチ・痛風などとなっている。
 ▽三本柳温泉
 百沢温泉より1キロほど南方に位置する。温泉は1805(文化2)年に発見され、佐藤又右衛門が湯治場を設けたとされる。
 1843(天保14)年の「延命柳の湯因縁記」に三本柳温泉の由緒が記されている。悪戸村(現弘前市悪戸地区)の農家である万左衞門が、大晦日(みそか)の夜に三本柳方面に紫雲がたなびくという霊夢を見た。そこから湧き出る湯で沐浴(もくよく)すると持病が完治した。延命地蔵が安置されている地蔵森から湧き出る温泉のため「延命柳の湯」と名付けられた。
 その後次第に泉温が下がってきたため、1954(昭和29)年から1958(昭和33)年にかけてボーリング泉源の開発が行われた。現在では、田んぼの中に一軒の温泉旅館が建っている。泉質は含石膏(せっこう)弱食塩泉で、効能は神経痛・リウマチ・痛風などとなっている。
 ▽嶽温泉
 百沢温泉から西へ7キロほどのところに位置する。温泉は1674(延宝2)年、百沢村(現弘前市百沢地区)の野呂長五郎がシトゲ森で薪(まき)を取っていたとき、狐(きつね)に握り飯を盗まれた。彼はその狐を追いかけた際、狐が逃げ込んだ鳥海山薬師嶽下から湯が湧き出しているのを発見したという。長五郎はそこに湯小屋を建てた。そこが湯の沢で嶽温泉発祥の地となった。温泉発見のきっかけとなった狐は、温泉守り神として稲荷神社の祭神として祀(まつ)られている。
 現在の場所に温泉が移ったのは1796(寛政8)年である。その後、嶽には旅館が12軒できた。岩木山に近い高い方を上並(うえなみ)、低い方を下並(したなみ)といった。温泉は各旅館の中央部に湯の沢の泉源から引き湯した共同浴場で、各旅館には内湯がなかった。
 百沢に温泉が開発されると温泉客が減少したため1959(昭和34)年までボーリング泉源の開発が行われた。この開発で全旅館に内湯が完備された。泉質は含土類酸性硫化水素泉で、効能は神経痛・リウマチ・糖尿病・婦人病などとなっている。
 ▽湯段温泉
 嶽温泉から西南へ1キロほどのところに位置する。温泉は1724(享保9)年、賀田(よした)村(現弘前市賀田地区)の柴田長兵衛という人物が発見したとされる。また、その昔、ある老人が湯に入りたいといい、木葉を集めて持っていた錫杖(しゃくじょう)を突くと湯が湧いたという。そのため「木の葉の湯」と呼ぶようになったという。この錫杖を突いた人物は弘法大師だという由来がある。
 湯段温泉には本家の長兵衛旅館のほか、別家の湯段の宿、清明館、新栄館がある。1960(昭和35)年、ボーリング泉源の開発が行われた。泉質はアルカリ性弱食塩泉で、効能は皮膚病・泌尿器病・胃腸障害などとなっている。
(青森県史編さん調査研究員 宮本利行)

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