津軽の街と風景

 

板柳の歴史語る建物=11

2014/9/22 月曜日

 

板柳町役場と公会堂=昭和戦前期・青森県史編さん資料
郷土資料館に移築された旧役場庁舎=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
旧役場庁舎2階の内装=2012(平成24)年8月25日・中園裕撮影
板柳駅=昭和戦前期・青森県史編さん資料

 ▽小学校から公会堂へ
 板柳町立郷土資料館は、歴史ある板柳町を象徴する建物として紹介されることが多い。資料館の一部に、旧板柳尋常高等小学校の玄関口が移築保存されているからだ。小学校の校舎は、1899(明治32)年に現在の町役場がある場所へ新築されたもの。2階にベランダのついた洋館風の建物は目を引いた。
 1927(昭和2)年小学校が移転新築されるのに伴い、校舎を公会堂に改築し、一部を町役場として利用することになった。翌年9月に町役場、10月には公会堂が完成し、落成式が行われた。
 青森市や弘前市などの大きな市には、政治集会や市民の集会場所として公会堂が設けられた。しかし、ほとんどの村は人口と財政規模の観点から、公会堂を建てるのは難しかった。それゆえ通常は小学校が村民の集会場所となり、政治家たちの会合や村の行事に使われた。村にとって小学校は、役場と同様、村民が集まる地域の大切な場所だったのである。
 村と異なり町の規模になると、大鰐町のように公会堂を有する事例もあった。しかし板柳町には公会堂がなかった。このため小学校の移転が決まった際、かねてから地域の拠点だった小学校舎が、そのまま公会堂となり役場になったわけである。
 ▽町役場から資料館へ
 公会堂となった小学校舎は、戦後も長く使用され続けた。1938(昭和13)年に開校した板柳町立実科高等女学校(現在の青森県立板柳高等学校)が、敗戦後の1948(昭和23)年から、1953(昭和28)年まで公会堂を使用していたこともあった。元々学校の校舎だったので、一時的に先祖返りを果たしたと言えるだろう。
 公会堂は役場が同居し、町議会も開催された建物だった。このため総じて町民は役場と呼んでいた。しかし1972(昭和47)年、築70年を超える明治半ばの建築物は老朽化が避けられず、役場新築計画が浮上。建物は1974(昭和49)年までに解体され、現在の庁舎に替わった。
 小学校時代から町民の集会場所であり、役場や公会堂として議会や町民に活用され、高校の校舎にも代用された建物を、町民は大いに惜しんだ。このため町では建物の解体に際し、正面玄関口を2階のベランダ部分も含め、現在の板柳町立郷土資料館に移築した。町民が当時の面影を偲(しの)べるよう配慮したわけである。
 資料館に移築された旧役場庁舎は、一部とはいえ明治期の趣を残す貴重な遺構である。中に入ることもできるので、訪れたことがない方は資料館に足を運んでほしい。
 ▽板柳駅
 旧役場庁舎以外にも、板柳町には歴史ある建築物が存在する。見過ごされがちだが、実は板柳駅が貴重な建築物なのである。
 板柳駅自体は、陸奥鉄道(後に国鉄の五能線となる)が開通した1918(大正7)年9月に開業。現在の駅舎に新築されたのは1934(昭和9)年1月である。これ以降、部分的な改築改良はあったが、基本的に駅舎本体は当時のものである。今年で築80年となる建築物なのだ。
 五能線は板柳町の発展に大きく寄与した。その意味で駅舎は板柳町の近代化を支え、町の発展を見守ってきたことになろう。旧役場庁舎同様、駅舎は板柳町の貴重な歴史的遺構であり、町民の大切な財産なのである。
(青森県史編さんグループ主幹 中園裕)

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江戸前期に新田開発=10

2014/9/8 月曜日

 

五所川原堰(五所川原市湊周辺)周辺には国重要文化財指定の豪農平山家住宅がある。平山家は代々五所川原堰奉行を勤めた(筆者撮影)
三新田神社(つがる市木造)4代藩主津軽信政が新田開発の成就を祈り、延宝年間(1673~81年)に現在地に移転させたもの。代官所のすぐ北側にある(筆者撮影)
木造代官所・御仮屋跡(つがる市木造)周辺に土塁を築き堀を巡らし、土塁の内側には松を植樹し、壮大な規模だったという(筆者撮影)

 現在の五所川原市・つがる市地方は「新田地方」とも呼ばれる。この地方は江戸時代前期、新田開発が進展した地域である。現在のような青々とした水田が広がる光景は、この時期にかたち作られたものであった。
 戦国時代が終わり、武力による領土拡張が出来なくなると、全国の諸藩は新田開発による年貢増強を盛んに行ったが、弘前藩はその中でももっとも新田開発が進んだ藩の一つであった。弘前藩の新田開発は、いわゆる「小知行派(こちぎょうはだち)」と呼ばれる在地の有力者による小規模な開発から始まった(派とは新田を示す津軽地方独特の用語)。
 しかし、大がかりな水利工事を伴う開発は個人では限界があるため、17世紀後半には藩が直接指揮する大規模新田開発が積極的に行われるようになった。その成果として17世紀末には米の収穫量は、幕府から公認された表高4万7千石の5倍以上に達している。
 開発の中心は、広大な低湿地が広がっていた岩木川下流域であった。岩木川右岸では五所川原新田(15ケ村 開発時期1665~76年)・金木新田(18ケ村 1698~1705年)・俵元(たわらもと)新田(8ケ村 1704~27年)、左岸では広須(ひろす)新田・木造新田(123ヶ村 1681~1727年)などの新田が開かれた。おおむね現在の五所川原市・つがる市両市にまたがる(村数は「平山日記」による)。
 このうち五所川原新田は、1665(寛文5)年から藩士鳴海勘兵衛が派立頭(はだちがしら=開発の責任者)となって開発が始められた。湊(現五所川原市)で十川をせき止め、そこに取水口を付けて取水していたが、十分な用水の確保が出来なかったためさらに約20キロ上流の現藤崎町白子から五所川原堰を掘削し、1691(元禄4)年に完成した。移住民は領内はもちろん、秋田・山形方面まで募り、家屋の建築材料を与え、3カ年間の食糧や農具を給与して便宜を図った(『青森県土地改良史』)。
 このような開発にあたっては、在地の有力農民が「人寄役(ひとよせやく)」や「堰役」に任命され、彼らの協力が不可欠だった。一方、広須・木造新田は1681(天和元)年から開発に当たらせた。水利はこれ以前から開削が進められていた土淵堰(どえんせき)を利用し、同年には末流である砂堰が完成している。1691~92(元禄4~5)年には広須新田から木造新田が分立したという(「平山日記」)。
 開発の進展に伴い、天和年間(1681~84年)には五所川原や木造(江戸時代には木造を木作とも表記)に代官所が置かれた。木造代官所には水利関係を管理する「土淵奉行」や、藩主が滞在する施設である御仮屋(おかりや)も設けられ、新田地方の拠点として機能した。代官所跡は1972(昭和47)年まで木造高校の敷地であったが、現在は公園になっている。
(青森県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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10年経て青森市誕生=9

2014/8/25 月曜日

 

市制施行後間もない頃の青森市中心街(明治中期・青森県史編さん資料)
浦町の国道通り(明治末期~大正初期・青森市史編さん室提供)
浦町駅の上り最終列車に別れを告げる人々(1968年7月21日・青森市市民政策部広報広聴課提供)

 1889(明治22)年4月1日、市制・町村制が施行された。青森県内では弘前のみが市制を布(し)き、1市5町165村で新制度がスタートした。県庁所在地の青森も、新制度の施行にあわせ、有力者たちが市制施行に向けた運動を展開した。しかし、結果として市制を施行するのは1898(明治31)年4月1日のことで、この時青森は「5町」のひとつとなった。
 青森が市制施行に向けてクリアすべき課題は、市制の要件を満たすべき「人口」の問題だった。具体的には周辺の村々を編入し、合併するという方策が採られた。1897(明治30)年10月1日、青森町は滝内村大字古川および浦町村と合併し、翌年に市制施行を遂げた。ただし、浦町村との合併は難航。一時、青森の市制施行は実現しないと噂(うわさ)されることもあった。
 青森町は、町村制施行後も町村合併を基調として市制の実現を目指していた。しかし、浦町村との間では、少なくとも1892(明治25)年からの4年間は結論を出せずにいたようである。そして1896(明治29)年2月、浦町村が提示した合併条件を青森町側が受け容(い)れたことにより、合併問題は大きく前進した。新聞も数年来の問題となっていた合併問題がついに落着したと報じ、青森町は合併を前提に内務大臣へ市制実施の申請書を提出することになった。
 一方、浦町村でも新年度からの「合併ありき」で、1896(明治29)年度の予算を編成せず、町会すら開かなかった。そのため、村長が郡役所に召喚され叱責を受けるというエピソードが新聞紙上に報じられた。当時の世論は、青森町と浦町村の合併、そして市制施行が目前に迫っていることを疑うことはなかったのである。しかし、そうした想いは打ち砕かれることになった。
 合併がご破算となったのは、浦町村側にかかわることで内務省がこれを認めなかったと推測される。実際に浦町村は態度を硬化させ、青森町との交渉の席につこうとせず、当時の工藤卓爾青森町長は「もはや温和な手段で合併は難しい」と知事に上申したという。浦町村が態度を軟化させ、交渉が再開したのは1897(明治30)年3月後半から4月にかけてのことと考えられよう。その結果、合併問題にひとまず決着がつき、これによって青森の市制が実現するに至ったのである。
 市制記念の祝宴会の席上、最後の町長となった工藤卓爾は「10年の希望を達成し、今日から3万の青森市民は市制の下に立つことになった」と述べ、挨拶(あいさつ)をしめくくった。こうして、市制・町村制の施行から約10年の歳月と紆余(うよ)曲折を経て、ようやく青森市は誕生したのであった。
(青森市市史編さん室長 工藤大輔)

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「弘前ねぷた」のルーツ=8

2014/8/4 月曜日

 

子供のねぷた(1955=昭和30=年8月・佐々木直亮氏撮影・青森県立郷土館提供)
ねぷたを担ぐ子供たち(1950年代後半・中園裕提供)
子供ねぷたと大人ねぷた(1950年代後半・中園裕提供)

 ▽ねぷたの由来
 国の重要無形民俗文化財「弘前のねぷた」は、毎年約80団体のねぷたが市内を練り歩き、県内外から160万人が集まる都市祭礼として有名だ。そのルーツには、子供たちが自作して近隣を練り歩く小さなねぷたがあった。
 「弘前藩庁日記」によると弘前城下のねぷたは、18世紀には、運行組織も形態も大型化していたことがわかる(拙論「争うネブタの伝承」)。そのなかに子供たちのねぷたが登場する。
 1728(享保13)年、藩士の子弟たちの乱暴で「子供持ち灯籠」が切り落とされた。1773(安永2)年には「本来は子供の七夕祭である」ねぷたに、藩士や町人が混じり喧嘩(けんか)口論をしている様子がある。1779(安永8)年には「子供らのねぷたは屋敷内でやれ」というお触れが出た。
 同時代の村落でも子供たちのねぷたがあった。旅行家の菅江真澄は、1793(寛政5)年7月に大畑(現むつ市)で子供たちの「ねぷたながし」を、1795(寛政7)年7月には木作(現つがる市木造)で子供たちの「ねぷた」を目撃した。
 すなわち当時のねぷたは、都市部でも村落でも主に子供の行事だったが、都市部では特有の青壮年による大型ねぷた運行が発生していたのだろう。
 ▽近代のねぷた
 1914(大正3)年の弘前ねぷたでは、青壮年たちの喧嘩を防止するため、合同運行が導入され、寄付をもらう門付けも禁じられる。門付けのなかには高圧的で暴言を吐く者がおり、市民から警察へ苦情が出ていたからである。
 明治・大正期の日本各地では、欧米の価値観を基準として、伝統的日常行為が「軽犯罪」として取り締まり対象となり、法的規制や警察による社会管理の力が自律的に強化されていった。ねぷたの習俗も容認される存在ではなくなっていた。それでも、近世以来の名残りである、子供たちによるねぷた行事は残った。
 ▽聞き取り調査から
 「昭和初期、子供のころ、九尺の扇ねぷたを作り『ロウソクけろじゃ、ロウソクけねば、銭でもいい』と歩いた。ナヌカビ(旧7月7日)に岩木山嶽温泉まで行き、湯治客の部屋を回ってお金をもらう。夜は小学校に泊まる。」1921(大正10)年、弘前市新法師生まれ。
 「昭和40年代、子供4人でねぷたを作り、8月1日から1週間『ねぷたこ見でけ』と家々や他のムラを回った。お盆で10円から50円くらいもらう。嶽温泉で泊ってくる。反対に嶽温泉や船沢から町内へ来るねぷたがいた。」1924(大正13)年、弘前市宮地生まれ。
 「昭和40年代、ねぷたの時期になると、中学生のガキ大将が町内の小学生を集めて、1週間、農協裏で灯籠型ねぷたを作った。自分たちで絵を描く。赤く塗ればねぷたらしくなる。見送りにマンガを描く。ねぷたをリヤカーに乗せ、イット缶を太鼓にし、柳の枝をバチにして町内を歩く。笛は無い。普段着に豆絞りの鉢巻をしてハナジロをつけた。大人たちのねぷたとは違い『ワラハンド(子供たち)のねぷた』と呼んだ。お盆を捧(ささ)げ『ねぷたッコ見でけ~』と行くと、各家から、ロウソク、お菓子、10円から100円もらえる。同じような子供のねぷたが目屋や船沢などからも来た。嫌がって明かりを消し居留守を使う家もある。鍛冶町は飲み屋街で怖かったが、酔客は札をくれたものだ。」昭和30年代、弘前市撫牛子生まれ。
 ▽現代のねぷた
 このような地域の子供たちが自律的に行うねぷた制作と運行、門付けの行事は、昭和期まであり「草ねぷた」とも呼ばれた。しかし昭和30年代から、門付けが「物貰(もら)い」だと批判され、各学校を通じて禁止された。昭和40年代には、子供たちだけの夜間外出や金銭授受を伴う草ねぷたが、不良化、非行の原因になるとして、各学校が規制した。ちょうどそれは、各町内が弘前市合同運行に参加するようになった時期に重なるという人もいる。
 しかし昭和50年代には、ねぷたが「青森県の誇るべき伝統の祭りである」として、観光面での活用が提唱されるようになり、大人の指導のもとに、子供の健全育成を計る「教育ねぷた」が登場する。それは、かつての自律的な子供のねぷたとは、性質を異にする新しいねぷただったという人もいた。
(青森県史編さん調査研究員 小山隆秀)

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浪岡まで計画の黒石線=7

2014/7/21 月曜日

 

奥羽本線下り列車(後方)からの乗り換え客を乗せて黒石に向かう国鉄黒石線気動車=1963(昭和38)年7月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
かつての黒石市の玄関・国鉄黒石駅=1970年代・須藤重昭さん撮影・提供
黒石線とその周辺
弘南鉄道黒石線気動車。国鉄時代と同じ4番線が黒石線ホーム=1994(平成6)年8月28日・白石健二さん撮影・青森県史編さん資料

 1998(平成10)年3月31日、青森県から一本の鉄道が消えた。弘南鉄道黒石線である。弘南鉄道黒石線は奥羽本線川部駅・黒石駅間全長6・2キロの単線非電化のミニ鉄道で、中間駅に前田屋敷駅があった。
 黒石線の前身は1912(大正1)年8月に開通した国鉄黒石軽便線(10年後に黒石線と改称)で、奥羽本線の通らなかった黒石にとって初めての鉄道である。前年の帝国議会(国会)で敷設が決定した弘前・黒石間の鉄道が実現したものだが、弘前・黒石間とすると浅瀬石川・平川に架橋する必要があったので、経費節減と建設期間の短縮を考慮して最終的に川部・黒石間となったものである。
 黒石線は「行き止まり」線で、黒石と奥羽本線、特に弘前とを結ぶことが最大の役割であり、黒石から延長などの発展性はなかった。
 この黒石線を脅かす存在となったのは弘南鉄道、すなわち現在の弘南鉄道弘南線である。弘南鉄道は黒石軽便線が川部起点となったため期待した恩恵を受けられなくなった弘南地方、とりわけ尾上の有力者によって1927(昭和2)年9月に開通したものである。弘南地方の利便性を考慮して館田・平賀などを経由する弓なりのルートとなった。
 弘南鉄道は戦後の燃料不足の折りに電化と津軽尾上・黒石・浪岡間の延長を計画した。弘南鉄道が浪岡まで開通していれば、黒石をめぐる鉄道事情は大きく変わっていたと思われる。1950(昭和25)年7月に津軽尾上・弘南黒石間が開通し、黒石は二つの鉄道を持つことになった。弘南鉄道は本数も多く、黒石線にとってはライバルとなった。
 国鉄黒石線の最盛期は1955(昭和30)年頃で、1日平均2500人、年間約90万人の利用者があった。しかし、自動車の普及と弘南鉄道の開通により黒石線の利用客は減少した。1981(昭和56)年、国鉄再建のため黒石線は廃止されることとなり、鉄道を残すか、バスに転換するか選択を迫られた。弘南鉄道は黒石線の譲渡、黒石線と弘南線の一体的運営を提案し受け入れられた。
 1984(昭和59)年11月1日から黒石線は弘南鉄道黒石線となった。弘南鉄道は列車本数を1日上下各13本から20本に増加させ、利便性を高めた。しかし、弘前までの運賃は弘南線380円、黒石線・奥羽本線経由370円と互角で、乗り換えのない弘南線に旅客は移行していった。
 1998(平成10)年、乗客の減少により弘南鉄道黒石線は廃止となり、代替の弘南バスが黒石駅前・川部駅前線が走り始めた。停留所が増えて乗りやすくなったものの、所要時間は弘南線10分からバス20分となった。現在では平日5本、日祝日4本まで減少している。かつての黒石線は高校生でにぎわった。弘南バスは登校時下り1本、下校時の上り1本を黒石商業高校まで延長しているが、現在このルートを利用する生徒は6人である。高校生の進路にも鉄道廃止は影響を与えている。
 黒石線の廃線敷の一部は道路敷に転用され、かつて蒸気機関車や気動車の走っていたことを示す痕跡は年々失われてゆく。津軽地方でも公共交通機関の衰亡は進みつつある。利用しやすい鉄道・バスの交通体系の創造が望まれる。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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