津軽の街と風景

 

東京を空襲から守れ=149

2021/3/1 月曜日

 

写真2 和徳村消防組第5分団の手引きガソリンポンプ=1936(昭和11)年・小野久雄さん提供 『弘前・黒石・平川の昭和』いき出版より転載 弘前市と合併後は弘前市消防組(1939年4月から警防団)の第7分団となった(供出ポンプ自動車とは関係ありません)
写真1 大鰐町警防団のポンプ自動車(フォード製)=1939(昭和14)年頃・三浦寛三さん提供 写真は購入時の姿(供出ポンプ自動車とは関係ありません)
写真3 弘前市内・角は宮川デパート付近の防空演習=昭和10年代・玉田亮平さん提供 『弘前・黒石・平川の昭和』いき出版より転載 バケツリレー、火たたき棒は焼夷弾には無力だった。東京下町空襲では、消火の義務を果たそうとして亡くなった人が多かったが、それ以後の空襲では市民は避難を選んだため犠牲者は減少した

 ▽3月10日の大空襲
 1945(昭和20)年3月9日から10日にかけて、東京の下町は米軍のB29爆撃機約300機による大空襲を受けた。焼夷弾が降り注ぎ、一夜にして約9万5千人の民間人が亡くなった。
 前年11月から始まった東京を標的とする空襲は飛行機工場や軍需工場が爆撃目標だった。この方針を大転換したのが東京大空襲(下町空襲)だ。目的は都市を焼き尽くすことに変わり、標的は工場から民間人に変わった。木造家屋に人口が密集する東京下町は最も「効果的」な爆撃目標となった。これ以後の空襲は、無差別に街を焼き払い民間人を大量に死に追いやるものとなった。
 一連の東京空襲の消火活動にあたって、本県の消防ポンプ自動車、手引きガソリンポンプが活躍したことを知る県民は少ない。
 ▽進まぬ消防力増強
 日米開戦前、警視庁消防部(現・東京消防庁)は、41(昭和16)年度「帝都消防整備計画」で、空襲火災の防遏(ぼうあつ)に必要な消防自動車の必要数は3千6百台と見積もった。41年10月に367台だったポンプ自動車は、43(昭和18)年12月には782台に増強されたが、人手と物資は不足しており、消防車の新製は少数にとどまった。
 41年12月、アジア・太平洋戦争に突入すると、ポンプ自動車・手引きポンプの新規購入はおろか、ホースや部品の入手も困難になった。消防力は弱体化した。都市では空襲に備えて消防機械力増強が緊急の課題となった。
 ▽消防車・ポンプの供出
 44(昭和19)年4月、内務省は「防空重要地帯消防ポンプ増強緊急対策」として、地方市町村のポンプ自動車や手引きポンプを有償・無償により譲渡させ、東京や大阪などの官設消防に配置した。本県では「防空上比較的重要でない町村」に供出を割り当てた。4月30日に県議事堂で壮行式を行い、ポンプ車・手引きポンプを送り出した(表1)。
 供出を受けた警視庁は5月17日午後、日比谷公会堂で配置式を行った。会場前には17県から供出されたポンプ車、手引きポンプが県別に勢ぞろいした。当時、消防車は赤色ではなく、上空から識別しにくいように国防色(カーキ色)に塗り替えられていた。
 新聞はポンプ車の供出を報じたが、台数は伏せた。表2の(1)特別消防隊は、宮城(皇居)防衛のために新設された消防隊だ。宮城は51台のポンプ車に加え、本県を含む11県からの供出ポンプ自動車を各1台、都合62台のポンプ車で手厚く防禦(ぼうぎょ)された。
 ▽低下した地方の消防力
 県は「(消防車・ポンプを供出しても)本県の防火力はいささかも減退しない」と強調した。そして「重要指定町村に対しては現在より消防陣が強化される」とし、「各消防ブロックを設定、自動車ポンプを常置せしめ……県下全域に急遽(きゅうきょ)出動し得る体制を整備する」としたが、消防力の低下は明らかだった。
 44(昭和19)年7月1日に福島県飯坂温泉の火事が200戸を全焼する大火となったのは、ポンプの供出、警防団員の出征などが要因だった。飯坂温泉は東京・荒川区からの疎開学童の学寮にもなっていた。幸い子どもたちは無事だったものの、学童再疎開を受け入れていた津軽地方にとっても、他人ごとではなかった。
 45(昭和20)年5月には郡部から青森市へのポンプ供出も実施され、郡部の消防力はさらに低下した(表3)。
 ▽活躍した本県の供出ポンプ
 “帝都”東京には供出ポンプ車を含め、ようやく1100台のポンプ車がそろった。しかし消火能力は標準型に換算すると800台分にしかならなかった。供出ポンプ車や手引きポンプに関する記録はほとんどない。日本橋警防団(現・中央区)の団員は「そのとき(3月10日の空襲)使った手引ポンプは十和田湖の町から供出された精(性)能のよいポンプで、……うなぎ屋の前の消火栓に部署し、放水したが、烈風でとても歯がたたなかった」と証言している(『日本橋消防署百年史』)。十和田村(現十和田市)警防団の手引きポンプのようだ。
 3月10日の東京大空襲(下町空襲)に始まる無差別爆撃は城北、城南、山の手と続いて、東京は徹底的に焼き尽くされた。山の手空襲を最後に米軍は大規模空襲リストから東京を除外した。米軍は6月15日の第4回大阪空襲で6大都市(東京・大阪・神戸・名古屋・横浜・川崎)の実質的な破壊は完了したとし、17日からは鹿児島を皮切りに中小都市空襲を開始した。
 7月には、さらなる空襲攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けしリストアップした。本県では青森・八戸・弘前がリストに含まれる。ただし北緯39度以北の、北海道・本県・秋田県・岩手県の都市についてはマリアナ諸島を基地としての空襲が困難とされた。しかし実態は違う。米軍の硫黄島占領が状況を変えていた。
 ▽本県も標的に
 米軍は6月から占領した硫黄島の飛行場を整備し、P51戦闘機によるB29の日本本土空襲の護衛を開始した。硫黄島はマリアナ基地に戻るB29の不時着、燃料補給にも使われた。空襲に向かう途中に硫黄島を燃料補給基地として使うことで、本県への空襲は可能となったのだ。
 やがてサイパン島の米軍印刷機が青森・八戸の地名を記した予告空襲ビラの印刷を開始する。青森市民は東京空襲の実態を知らされないまま、空襲の日、7月28日を迎ええる。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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大量の遺物や墓出現=148

2021/2/8 月曜日

 

写真1 五月女萢遺跡の全景=2010(平成22)年10月22日撮影(五所川原市教育委員会提供)
写真2 土坑墓の調査(半分に断ち割った様子)=2012(平成24)年7月26日撮影(五所川原市教育委員会提供)
写真3 人面付浅鉢形土器(正面)=2017(平成29)年3月1日撮影(五所川原市教育委員会提供)
写真4 縄文人骨の調査=2013(平成25)年7月26日撮影(五所川原市教育委員会提供)
写真5 集石遺構=2010(平成22)年6月22日撮影(五所川原市教育委員会提供)

 ▽貴重な縄文遺跡
 本県では現在、三内丸山遺跡を中心に「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の世界文化遺産を目指し大いに盛り上がりを見せているが、五所川原市にもこれに劣らない貴重な縄文遺跡の五月女萢(そとめやち)遺跡がある。
 場所は岩木川河口に広がる十三湖の北岸に位置する。日本海からわずか1キロメートル内陸に入った場所にあるため、冬になると北西の強い季節風の影響で海岸に対して直交する縦列砂丘が発達し、起伏が激しい砂丘が連なっている。
 遺跡は砂丘の形成が止まったことを示すクロスナ層の中にある。平安時代以降に堆積した最大3メートルの厚さに及ぶ新期砂丘砂の下から発見され、保存状態が極めて良好だった。
 2010~12(平成22~24)年度にかけて土砂採取工事に伴う緊急発掘の結果、縄文時代晩期のおびただしい量の土器や石器を伴う捨て場に伴って、多くの土坑墓が出現し、注目を集めた。
 その後、遺跡の保存運動に発展したことで、五所川原市は13(平成25)年度に保存目的に切り替え、墓域の範囲確認調査を行った。現在は市有地となり、遺跡の保護が図られている。
 土坑墓は縄文時代後期後葉(約3500年前)から造られ、晩期(約2500年前)までの約千年間にわたって連綿と造られたが、特に晩期の亀ケ岡文化期に最盛期を迎えることが判明した。
 縄文時代の遺構には、土坑墓、墓域に至る参道跡(道路状遺構)、ヤマトシジミの貝塚を含む捨て場、柵木列、殯(もがり)跡とみられる掘立柱建物跡、土偶や石棒など祭祀(さいし)遺物を多く含む集石遺構など、祭祀施設を構成するさまざまな遺構が発見された。
 他方、土坑墓が造られた約千年という長期間にもかかわらず、遺跡内に竪穴住居跡は1軒も見つかっていない。集団墓地を形成した縄文人がどこに集落を造って暮らしていたかは全く不明である。まだまだ謎が多い。
 ▽土坑墓
 注目すべき遺構や遺物を紹介しよう。
 土坑墓は約140基が確認された。その分布をみると、丘陵頂部を取り囲むように、南北40メートル×東西60メートルの範囲にわたって、円環を描くように土坑墓群が分布している。
 墓の特徴は、(1)黄色粘土のマウンドや墓標とみられる自然石を伴うものなど上部構造が明らかなもの(2)埋葬人骨を伴うもの(3)墓の内部に赤色顔料(ベンガラ)を含むもの(4)幼児墓とみられる埋設土器─がある。
 副葬品では、ヒスイや緑色凝灰岩の玉類、耳飾りなどの装身具、石鏃(せきぞく)や磨製石斧(ませいせきふ)の道具類、特殊なものにサメ歯を伴うものが確認されている。ヒスイについては、新潟県糸魚川地域からの搬入品と考えられるが、緑色凝灰岩の玉類は、原石や未成品、加工用具の玉砥石などが多数出土しており、この付近で加工・生産されていたことが判明している。
 ▽捨て場
 土器や石器、ヤマトシジミの食物残滓(ざんし)を集中的に廃棄した捨て場が、これまでに丘陵緩斜面を中心に6カ所確認された。捨て場は、時期により場所を変えて造られるだけでなく、土坑墓と重複して分布した。
 捨て場からは日常的に使用された土器や石器だけでなく、土偶や土面、石棒などの祭祀遺物のほか、緑色凝灰岩の玉原石、赤鉄鉱の原石、メノウ原石、メノウ製ドリルなどがまとまって出土した。
 また、ヤマトシジミの貝塚に伴ってイノシシ、シカ、キツネ、クジラなど多種多様な獣骨や魚骨、ヘアピン(髪飾り)や漁猟に使用した離頭銛などの骨角器、湿地から漆濾(こ)し布、木胎漆器など貴重な自然遺物も発見された。
 この中で特に注目すべきものに「人面付浅鉢形土器」がある。大きさは幅12センチメートル、高さ7センチメートルで、額の上半部は欠損しているが、遮光器形の目をもち、鼻は立体的で、口端に刺青と思われる刻み目がある。顔面には赤色顔料が塗布されている。
 形態はまさに浅鉢形土器であるが、土器底面に顔が表現されているため、自立することはできない。従って、マツリの際に回し飲みに使用された祭器と思われるが、亀ケ岡文化の中でも異彩を放つものである。時期は縄文晩期中葉のものである。
 ▽集石遺構
 丘陵緩斜面からは直径5・5メートルの範囲に、人頭大の自然礫(れき)や拳大のくぼみ石やくびれ石や雨だれ石と呼ばれる奇抜な形をした自然礫を廃棄した集石遺構が出現した。この集石に交じって、破損した土偶、石棒、注口土器の口部分など、男女の性を象徴する特殊な遺物が多数出土した。土偶は何と約100点を数える。
 これは単なる廃棄の場所ではなく、子孫繁栄を願う祭祀行為が行われた場所だろう。縄文晩期中葉から後葉に造られたものである。
 ▽亀ケ岡文化の解明に
 五月女萢遺跡では、砂地に掘られた土坑墓の上部に黄色粘土を盛ってマウンドを形成し、墓標となる自然礫を置いていた事例を多く確認することができた。これは亀ケ岡文化の、ひいては縄文文化の墓地景観を明らかにする貴重な発見といえるだろう。
 また、丘陵頂部を取り囲むように、土坑墓による集団墓地が約千年かけて円環状に形成されていた。その背景には生命や霊魂といったものが、あの世とこの世を円環状に回帰・循環するという意味が込められた、縄文時代における円環的死生観が根本にあったからだろう。
 墓域に形成された捨て場には、万物に霊魂があり、新たな再生を願う「もの送り」の思想がうかがわれる。五月女萢遺跡は、縄文晩期の亀ケ岡文化の社会構造や精神性の解明につながる貴重な遺跡である。
 なお、立佞武多の館2階美術展示ギャラリーで、企画展「五月女萢遺跡と亀ケ岡文化の世界」が3月21日まで開催されている。縄文時代の貴重な遺跡と遺物から、当時の人々との生活に思いを巡らせてみてはどうだろうか。
(五所川原市教育委員会社会教育課文化係主幹・係長・榊原滋高)

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青森でオリンピック=147

2021/1/25 月曜日

 

写真1 青森県立中学校=大正初期・青森市民図書館歴史資料室提供
写真2 青中校舎跡地記念碑(1985〈昭和60〉年8月16日除幕)=2014(平成26)年9月1日・筆者撮影
写真3 青森中学正門=2016(平成28)年6月・筆者撮影
写真4 10マイルマラソンコース試走前の筆者=2020(令和2)年12月12日

 ▽青森市で「オリンピック」開催?
 今夏は1年延期となった東京オリンピックの開催が予定されている。ところで、100年前に青森市で「オリンピック」が開催されたというのはご存知だろうか?
 もっとも、当時は陸上競技大会をオリンピックと呼んでいたらしく、このオリンピックもまた市内有志の発起により企画された陸上競技大会「青森県下オリンピック大会」だった。一説には、この年青森中学(現青森高校)を卒業したばかりの中央大学生梅村一の「策動」で有志が計画を立てたともいうが、裏付ける記録にはたどりついていない。もっとも、参加申し込み先は梅村宅であり、大会運営委員にも名を連ねてはいる。また、競技者として大会に参加し、三段跳びで1位になっている。
 ▽日本体育協会青森県支部が主催
 オリンピックの開催計画と並行して、日本体育協会青森県支部が設立された。これが主催となり1920(大正9)年9月4、5日に青森中学のグラウンドで第1回大会が開催された。参加資格は15歳以上(マラソンは17歳以上)の男子で、競技はトラック、フィールド合わせて22種目で行われた。
 選手は学校やスポーツクラブ的な団体に所属する者のほか、青年団員もいた。長距離走が人気で、10マイルマラソンにエントリーが多かった。なお、小学生が出場できる「小学生競走」も番外的にあり、女子の参加も認められ造道村の女子児童のエントリーを確認できる。
 ここで大会の運営委員に注目してみよう。日本初のマラソン大会である神戸・大阪間マラソンで5位に入賞し、この年青森県師範学校の教諭として赴任した佐々木新七、アントワープオリンピックに出場した金栗四三に見出され、やはりこの年青森師範学校に赴任した秋葉祐之、青森に卓球をもたらした山内元八といったメンバーがいる。このほか、青森中学の卒業生で後に東京大学初代薬学部長となる石館守三(当時は仙台の第二高等学校理科二類生)の名前もみえる。
 ▽秋葉祐之の評価
 大会終了後、秋葉祐之は新聞紙上に「オリンピツク競技を見て」という文章を認めている。秋葉による評価は「トラクの競技にしても、フイルドの競技にしても、何しろ幼稚であることは免れない」と手厳しい。
 短距離走ではスタートの号砲が鳴っても走り出せない、蛇行して走る、長距離走ではペース配分を考えずに走るものだから後半バテて「哀れな敗残者とならなければならぬ」と指摘する。筆者も10マイルマラソンのコースを試走してみたが、折り返し付近にアップダウンがあるので、やみくもに走ると確かに後半バテてしまうだろう。そして、そもそもルールをちゃんと覚えていないから「失格者」が出てしまう。
 一方、レコード(標準記録のことか)を破った者が15名以上もいて「実に嬉しくてたまらない」ともつづっている。つまり、この大会の参加者は梅村のようなエリート選手ばかりでなく、未熟な選手も多く出場していたのだろう。
 近代スポーツが招来されてまだ日が浅いのだから、多くは佐々木新七や秋葉祐之といった実績のある者から指導を受ける機会もなかったはずである。だから、こうした未熟な選手にとって、エリート選手の競技をそばで目にするだけでもいい刺激になったに違いない。この大会は、そうした視点でみると意義あるものだったと思う。
 私事ではあるが、今年の東京オリンピック女子マラソンに出場する前田穂南と鈴木亜由子の両選手とは、ともに優勝した北海道マラソンを走り、どこかですれ違ったはず。ゴールする時間は1時間以上も違うが、エリートランナーの姿を横目で見ながら同じコースを走るのは嬉しくもあり、やはり刺激になる。
 ▽県下の大会から「北日本選手権」へ
 翌21(大正10)年開催の第2回大会は秋田、盛岡、函館からもエントリーがあった。ここから大会の方向性が変わる。つまり、競技性が高くなり、第1回大会のように「まっすぐ走ることができない」ランナーは出場しにくくなった。そして、大会の名称も第3回大会から「北日本選手権」と併記されるようになり、会場の青森中学のグラウンドも大きく改修され「驚異的優秀記録出現は動かす可(べか)らざる」ものになった。
 23(大正12)年の第4回大会は、翌年のパリオリンピックの「日本代表予選会」(地方予選のことか)となり、北は樺太(現サハリン)、南は東京まで「最も秀れたる四百の青年を蒐(あつ)め」て開催となった。そうした選手の一人が、札幌の北海中学(現北海高校)の南部忠平(32年のロサンゼルスオリンピックで金と銅のメダルを獲得)である。彼は100メートルとメドレーリレーで第1位を獲得し、さらに前日の練習では未エントリーの走り幅跳びで「協会記録」を破るというエピソードを残している。
 ▽第2回大会で「彗星」現る
 第2回大会では、前回大会の三段跳びの覇者梅村一に青森中学の後輩岡本喜作が挑んだ。しかし結果は、「彗星的に出現した海の彼方の雄者」函館の教員中西利治が二人を破った。ちなみに岡本は、その後中央大学に進学し、箱根駅伝には、後に青森県知事となる山崎岩男らとともに3度出場している。
 また100メートル走にも彗星が現れた。第1位は八戸学生団の佐藤孝志だったが、第2位となった青森市立商業学校(現青森商業高校)の南勘二が「我競走界に燦然(さんぜん)たる」輝きをもって登場した。技術的な部分はともかく、スピードは佐藤を凌駕(りょうが)していたという。
 南勘二という名前に聞きおよびはないだろうか…。そう、人名辞典に「名のあるスプリンターだった」と紹介された大手スーパーチェーンの創業者となる人物である。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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住民の願いは「開発」=146

2021/1/11 月曜日

 

写真1 断崖絶壁の海岸沿いにあった猿神鼻=昭和戦前期・中園裕提供
写真2 観光客の人気を集めていた頃の猿神鼻=1961(昭和36)年8月・青森県史デジタルアーカイブスより
写真3 防波堤ができつつあった頃の弁天島=昭和戦前期・青森県史デジタルアーカイブスより
写真4 埋め立てられつつも島の面影を残していた頃の弁天島=1969(昭和44)年7月17日・青森県史デジタルアーカイブスより

 ▽開発で失われた景勝地
 1950~60年代の高度経済成長と70~80年代以降の都市計画で、田畑の多くが住宅街や商店街となった。砂利道は舗装道路へと変わった。第1次産業が主体の本県では農地の開拓、山林の伐採、漁港の整備が、生活の安定と向上のため「開発」という名の下に実施された。
 開発が地域の人たちにとって好ましかったのか、適正規模で実施されたのか、そもそも開発する必要があったのかは、個別の事例ごとに検証と考察が必要だろう。しかし、生活の利便向上や豊かさを得た代償として、自然の景勝地が相応に失われたことは共通すると思う。
 ▽深浦町の猿神鼻
 西海岸(日本海)の好漁場を控え、水産業を基幹産業とする深浦町は、五能線を走るリゾートしらかみ号の宣伝効果もあり、西海岸の手つかずの風景が人気を呼んでいる。しかし、町の発展に伴い失われた景勝地があるのも事実だ。
 藩政時代から昭和戦前期にかけて、深浦町では深浦湾の周辺に点在する景勝地を「深浦十二景」と称して宣伝してきた。その一つに猿神鼻(さるかみはな)と称される三つの洞門がある。岩肌の一部が猿の顔に似ているため名付けられたものだ。
 当初、この周辺は断崖絶壁だったので、山沿いの道を通るか海岸を歩かざるを得なかった。道路に自動車を通すため掘られた洞門が猿神鼻だったのである。洞門の外側はすぐ海が迫っていたので、眺望も抜群だった(写真1)
 その後、猿神鼻の外側は埋め立てられ新しく道路ができた(写真2)。それでも三つの洞門が続く光景は観光客に珍しがられ、深浦湾岸観光が盛んだった50~60年代には観光パンフレットの表紙などに掲載された。
 深浦湾岸の埋め立てが築港事業のために本格化し、洞門の外側を通る道路が拡幅舗装されると、自動車は狭く小さい猿神鼻の洞門を通らず、外側の道路を通るようになった。実際に洞門は大型バスが走れる規模ではなかった。洞門からの眺望が失われたこともあり、ガイドブックに掲載されることも少なくなった。
 しかし、平成初期の津軽岩木リゾート構想や白神山地の世界遺産登録などを背景に、北前船や日本海交易の拠点として深浦町の観光開発を目指す動きが高まった。その一環として猿神鼻の復元整備事業が、歴史民俗資料館や北前の館と一体化した観光道路の整備に組み込まれた。94(平成6)年7月、復元整備された猿神鼻は、建設省の「手づくり郷土賞ふるさとを紹介する道三十選」に選ばれた。
 計画は町で考案したものだが、町議からも歴史ある猿神鼻の保存と活用が主張されていた。それは猿神鼻が歴史的に大切な景勝地だったことを示していた。忘れ去られつつあった猿神鼻は、歴史的遺構として再び脚光を浴びるようになったのである。
 ▽岩崎村の弁天島
 平成の大合併で深浦町となった岩崎村にも、深浦町と同様に西海岸に美しい景色がそろっている。その一つに岩崎漁港近くの弁天島がある。
 弁天島は当初文字通りの島だった。遠浅のため干潮時に島へ渡れたが、今日のように陸続きではなかった。その後、人が渡れる程度の橋が架けられた。1896(明治29)年、島に陸軍省陸地測量部の管轄する検潮所が設置され、1972(昭和47)年に廃止されるまで、西海岸の潮流を観測する大事な役割を担った。
 大正末期に弁天島を利用して岩崎漁港の築港が始まった。その後、弁天島に防波堤が築造され、島の一部が埋め立てられた(写真3)。陸地に近い島は漁港建設に利用されることが多い。八戸市の蕪島や外ケ浜町の帯島なども、島を天然の防波堤として利用することで築港してきた歴史がある。
 大規模な埋め立てによる修築・改修事業は戦後になってから本格化した。50(昭和25)年度の漁港修築工事予算は、村の予算額の2倍を超えた。翌年から数次にわたる漁港整備長期計画に基づき、防波堤や船揚場が建設され、護岸が施された。道路の整備や各種の施設も建設された。弁天島周辺の埋め立てが急速に進み、島の面影は失われていった(写真4)
 岩崎村民にとって弁天島の美しい光景は自慢の一つだったと思う。弁天信仰の拠点であり、常に危険と隣り合わせの漁民たちにとって、航海安全を祈願する場でもあった。しかし、それ以上に村民にとっては、港に停泊する漁船や岸壁に建つ漁業施設を高波や津波から防護する頑強な漁港が必要だったのである。
 ▽歴史的景観
 近年、猿神鼻は崩落の危険性があるため通行止めになった。岸壁の一部と化した弁天島が景勝地として語られることは少なくなった。不便な道路交通事情を改善したい深浦町民の願いと、安全で利便性の高い漁港を整備したい岩崎村民の思いが、二つの景勝地の運命を変えたのである。
 しかし、猿神鼻と弁天島のたどった運命は、深浦町や岩崎村で生活してきた人々の暮らしぶりを反映している点で、町や村の歴史的景観とみなせよう。深浦・岩崎両町村が合併し、新たに深浦町となって15年の年月が経過した。改めて二つの町村の歴史を紡いできた猿神鼻と弁天島について、景勝地としての価値観だけでなく、人々の生活に果たしてきた意義や役割についても考えてほしいと思う。
(県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ〈県史担当〉中園裕)

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青森で球史を飾る偉業=145

2020/12/21 月曜日

 

青森市営球場前の完全試合記念碑=工藤大輔さん撮影
昭和20年代後半の青森市営球場=青森県所蔵県史編さん資料
空から見た青森市営球場=1960(昭和35)年10月29日・青森県史デジタルアーカイブスより
青森市営球場周辺を描いた絵地図=1955(昭和30)年頃『新編青森市史通史編第4巻 現代』表紙カバー(青森県所蔵県史編さん資料)より抜粋
土の搬入作業=青森銀行広報室提供
土の敷き詰め作業=青森銀行広報室提供

 ▽青森市営球場と「完全試合」
 青森市の合浦(がっぽ)公園内にある青森市営球場は、読売巨人軍のエース藤本(ふじもと)(中上(なかがみ))英雄(ひでお)が、日本プロ野球史上初の完全試合を達成した球場として知られている。正面入り口前の記念碑は、1994(平成6)年9月に建てられたもので「青森市営球場 日本プロ野球史上初の完全試合達成」と刻まれ、イニングスコアをあしらったプレートがはめ込まれている。
 完全試合とは「先発した投手が安打も四死球も与えず、野手のエラーもなく、一人の走者も得点も許さずに完投勝利する」ことである。ノーヒットノーランに加えて無走者、文字通りパーフェクトに抑え込まなくてはならない。ハードルは格段に高く、投手にとっては最高の栄誉だ。日本プロ野球は36(昭和11)年にスタートしたが、2020年10月時点でノーヒットノーラン達成者は82人(完全試合を含む93試合)がいるのに、完全試合は15人にすぎない。
 ▽歴史的快挙の背景
 青森市営球場の建設は、1948(昭和23)年に始まった。50(昭和25)年には使用可能となり、球場開きの記念として、本県初のプロ野球公式戦を誘致することになった(青森市立図書館歴史資料室メルマガ「あおもり歴史トリビア」164)。
 この年は松竹(しょうちく)ロビンス、広島カープ、西日本パイレーツ、読売巨人軍が東北・北海道へ遠征する計画だった。6月25日に札幌で、同26日に函館で試合をして、次の日に青森ヘ移動する予定を組んだが、雨天順延で日程が詰まってしまった。
 函館での試合は同27日にずれ込み、休む間もなく深夜の青函連絡船「摩周丸(ましゅうまる)」に乗り込んで、記念試合当日となる同28日の午前4時50分に青森着。早朝にもかかわらず桟橋でサイン攻めに遭い、駅前広場では専用バスが立ち往生。浅虫の旅館に入った時は、体調不良を訴える選手が出た。
 待ち切れぬファンは、どこにでもいるものだ。前日夜から球場前に人が集まり、午後11時には200人に達した。やむなく深夜2時から入場させたが、浪打通りまで人があふれる大盛況で、午前10時に札(ふだ)止めとなった。翌日の『読売新聞 青森版』に「白球を追う二万のマブタ」とあるが(『青森県史資料編近現代5』所収)、付近の民家の屋根にかなりの人が上っていたというから、観戦者は優に1万人を超えていた訳だ。
 ▽達成の瞬間は写されず
 正午すぎ、歓声と拍手の中を松竹・広島の選手が入場。青森市長横山実(よこやまみのる)があいさつに立ち、青森県知事津島文治(つしまぶんじ)(太宰治=津島修治の実兄)から松竹・小西得郎(こにしとくろう)監督と広島・石本秀一(いしもとしゅういち)監督へ花束が贈られた。
 午後2時開始の第1試合は6対1で松竹が勝ち、第2試合の巨人対西日本は午後4時14分に始まった。夏場で日が長いとは言え、夕暮れが気になる時間帯だ。巨人軍は先発予定の多田文久三(ただふくぞう)投手が腹痛で、藤本が急きょ登板した。
 スライダーとインシュートを駆使した打たせて取るピッチングがさえ、奪三振7、内野ゴロ11、内野フライ6、外野フライ3、投球数92、スコア4対0という見事な内容で、藤本は9回を投げ切った。終了は午後5時33分で、試合時間は1時間19分。2019(平成31=令和元)年におけるプロ野球の平均試合時間が3時間21分だから、実にスピーディーな進行である。
 この試合の歴史的意義に気付いた人は、いったいどれぐらいいたのだろう。藤本にとっては7年振り2度目のノーヒットノーランだが、「完全試合」という言葉は念頭になかったに違いない。大して興奮した風(ふう)もなく、試合後の「少年巨人軍の会」にも粛々(しゅくしゅく)と参加した。
 翌日の東奥日報は「耀(かがや)く藤本の新記録 西日を〈パーフェクト・ピッチ〉に屠(ほふ)る」の見出しを用意したが(『新編青森市史資料編8 現代』所収)、主たる関心は試合そのものよりも、イベントとしての盛り上がりの方に置かれていたようだ。
 他社の取材陣も、多くが帰社を急いで青森を通過したため、観戦記者は数人、カメラマンは1人もいないという有様(ありさま)だった。当時の写真が1枚も残っていないのは惜しまれる。
 ▽明日を見つめて
 2000(平成12)年6月、青森市営球場は50年ぶりにリニューアルされた。両翼は91メートルから98メートルに拡張され、照明設備や電光スコアボード、外野のラバーフェンスが整備された。同球場は高校野球の県大会や東北大会の舞台となり、ダルビッシュ有(ゆう)(東北高校、現カブス)や坂本勇人(さかもとはやと)(八戸光星学院高校、現巨人)も、ここでプレーした。
 20(令和2)年夏、新型コロナウイルス問題で中止された甲子園予選の代替大会が開かれることになったが、その前に、青森銀行野球部が呼びかけたクラウドファンディング資金を投じて、甲子園球場で使用される土と同じものを市営球場に入れることになった。
 肝心の大会も観客は部員と保護者のみ、大声での応援は禁止という制限付きながら、全試合が滞りなく行われた。「試合をしたい」という球児の思いが多くの人を動かし、高校野球の明日に向けてつながったのである。
(県立青森商業高等学校教諭 本田伸)

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