津軽の街と風景

 

太宰記した青森開港=175

2022/6/27 月曜日

 

写真1 太宰治文学碑(青森市文芸のこみち)=2022(令和4)年5月15日・筆者撮影
写真2 友情の碑(青森市中央市民センター)=2022(令和4)年5月29日・筆者撮影
写真3 竹内運平『青森県通史』の関係箇所
写真4 青森市塩町の文芸館附近から西側の大町を望む。青柳2丁目の現モルトン迎賓館附近から西側の本町5丁目付近=1942(昭和17)年4~5月・青森市民図書館歴史資料室提供

 ▽太宰治が記した「青森開港」
 今月は作家太宰治の誕生月である。そして、この原稿の締め切り日6月13日は、私の誕生日でもある。
 先日、たまたま『津軽』に目を通していたら、「序編」に次のような一節をみつけた。
 なお、引用は『太宰治全集8』(筑摩書房、1998年)からで、一部の漢字は常用漢字に改めた。
この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などと盛んに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、(以下略)
 太宰がいわゆる「青森開港(青森の町づくり)」について書き記しているとは思いもよらなかったので、これを目にした時は少なからず驚いた。しかも、「開港(本文では「経営に着手」)」の年代を「寛永元年」としている点に惹(ひ)かれ、「ネタ本は何か」探してみたくなった。
 もう少し『津軽』を読み進めて行こう。
 ▽あっけなく発見
 上野からの列車で青森に着いた太宰はバスに乗り換え、友人N君の待つ蟹田へ向かう。その間、彼の筆は蟹田の歴史などに及び、そこに「竹内運平といふ弘前の人の著した『青森県通史』に依れば」というフレーズを見つけた。これは手掛かりになるのではと、早速『青森県通史』のページを繰ってみると…あった(写真3参照)。
青森の新派立は、近来外ヶ浜に上方船多く着岸するやうになつた為と、旧記に説明せられ、寛永元年に着手し、同三年に於て成就した。外ヶ浜奉行森山内蔵之助信実の手に成るものである。家数千十七軒、佐藤理左衛門、村井新助を町頭とし、条目を発布して其経営を計つた。(中略)此の時、近江、越前、越後の商売を招来した。後又安潟の漁師町を開ける里見三郎右衛門が加賀、越前、能登、若狭の漁師を呼び寄せて居る例もある、(傍線は引用者による)
 私は傍線を施した箇所を根拠に、太宰はこれを参考にしただろうと考える。同書は東奥日報社から1941(昭和16)年に発刊、一方『津軽』(『新風土記叢書』第7編)の発刊は44(昭和19)年11月だから時間的な矛盾もない。
 もっとも、この時までに青森県の歴史を綴(つづ)った本はいくつか発刊されている。そうであるにも関わらずこの『青森県通史』が選ばれたのはなぜか。網羅的な調査をした訳ではないが、おそらくこの本が最新の刊行物であったからだろうと見立てている。つまり、太宰は「最新の研究成果」で『津軽』を執筆したのである。
 ▽『津軽』発刊時の「青森開港」論事情
 「青森開港」の年代をめぐっては、明治末期以降1625(寛永2)年説が通説的位置を占めていた。そして、異論はあるかもしれないが、私は1990年代後半まではこれが通説であったと考えている。ただ、『津軽』の発刊時期とも重なってくる30年代後半以降は、この通説が大きく揺さぶられた時期であった。
 というのは、青森市内安方町に拠点を置く青森郷土会が、33(昭和8)年以降、機関誌である『郷土誌うとう』で、通説とは異なる1624(寛永元)年説を唱える論者を輩出していたのである(24〈寛永元〉年説自体は1909〈明治42〉年に示されてはいた)。といっても、これを容(い)れない論者もいて、実は『青森県通史』の著者竹内もそのひとりであった。
 ただ、当時の1624(寛永元)年説には「強い追い風」が吹いていたのだろう、たとえば青森市は1937(昭和12)年版の市勢一覧から、これまでの1625(寛永2)年説を捨て、24(寛永元)年説を採用して同市の「沿革」を記すようになった。そして以後、60年以上にわたり青森市の刊行物はこの説を採用し続けた。
 だから、竹内が24(寛永元)年説に飲み込まれたのは、やむなき事だったのかもしれない。そして、文献史学の立場からは否定されるべきこの説が、あろうことか一定の支持を得てしまうことになった。
 『津軽』の一節は―もちろん太宰の意図するものではなかったであろうが、当時の郷土史研究の「お家事情」を映し出していたのであった。
 ▽『郷土誌うとう』の主宰者は自説を封印
 ところで、『郷土誌うとう』を発刊した青森郷土会の主宰者肴倉弥八は、戦後青森市が発刊した『青森市史』の編者を務めるなど、青森市、東津軽郡の歴史研究に尽力した人物である。「青森開港」の年代でいうと、一貫して1624(寛永元)年説を主張してきた『青森市史』の編者である彼を、この説の第一人者とみる向きもあるだろう。
 しかし、それは違った。肴倉は25(寛永2)年説の論者だったのである。『青森市史』や自身の単行本では24(寛永元)年説を採用しているが、個別論文では25(寛永2)年説を主張していた。また、1968(昭和43)年の新聞のインタビュー記事においても「青森開港は(原文は「が」)寛永二年です」と語っていた。彼は両方の説を使い分けていたのである。
 推測にすぎないが、肴倉の意図は自説とは異なる見解が多数説であると認められるとき、たとえば『青森市史』など広く一般の目に触れることが予想される書籍では自説に蓋(ふた)をしたのではないか。だとすれば、そうした配慮が一方で24(寛永元)年説を野放しにしてしまったという、皮肉な結果を生んでしまったともいえる。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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青森の空襲と消防隊=174

2022/6/6 月曜日

 

図1 1万2500分の1都市図「青森」(部分)。日本陸軍陸地測量部作成2万5000分の1地形図や民間市街地図などの資料をもとに、米軍が作成した多色刷り地図。本県関係では他に「弘前」「八戸」がある=1945(昭和20)年作成・テキサス大学図書館所蔵
写真1 米軍占領下の青森市消防隊。後方は車庫代用のテント=1945(昭和20)年・撮影場所不明(米国戦略爆撃調査団報告書の「焼夷弾爆撃の有効性・八つの都市の例」より転載)
写真2 空襲後の青森市街地を撮影した空中写真(部分)=9月11日撮影、ほぼ図1の範囲に相当する。7月26日撮影の空爆前の写真と対照して爆撃効果を判定した(米国戦略爆撃調査団報告書・国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
写真3 古川国民学校。警視庁消防隊が第2防禦目標としたが、校舎はコンクリート構造体を残して焼失した=『写真集(改訂版)青森大空襲の記録』青森空襲を記録する会より転載

 ▽常備消防隊の設置
 1945(昭和20)年7月28日夜、マリアナ基地の米第21爆撃集団所属のB29爆撃機61機が青森市を襲った。迎え撃つ陸海軍機の姿はなく、わずかな砲弾による対空砲火も全く効果はなかった。投下された新型のM74焼夷弾約8万3千本の巻き起こす火災に敢然と立ち向かったのが消防隊だ。
 当時、消防は警察署長の指揮下にある警防団が担っていた。警防団の前身、消防組は非常備の消防・防災機関だった。青森市では16(大正5)年に消防組常備消防部を設置して常勤の常備消防手を置き、消防力を抜本的に強化した。
 現在は消防本部と消防団は別組織だが、当時の常備消防部は警防団の一組織だった。36(昭和11)年には常備消防手47人、消防手(非常備の消防組員)244人、自動車ポンプ5台が防火・防災の任に当たっていた(以後の統計なし)。
 ▽防空の強化
 39(昭和14)年に消防組は警防団となり、防空が任務に加わった。青森市の防空が本格化するのは、米軍の本土爆撃が現実のものとなった44(昭和19)年からだ。防空演習が頻繁に実施され、350カ所といわれる公共用の防空壕の建設が進められた。
 5月には青森市では県内各町村から供出された自動車ポンプを常備消防部に、ガソリンポンプを警防団消防部に配置した。さらに常備消防部は沖館と浪打に屯所を新設、常備消防部員を新採用して、消防力の強化に努めた。
 ▽B29、青森を空爆
 45年7月28日22時10分、青森県地区空襲警報発令。県庁に隣接した常備消防本部の望楼(常時火災を監視する塔)は3人体制となった。まもなく西方からB29の編隊が出現。望楼からは三内国民学校(三内小学校)付近、続いて野内橋付近、火葬場通り鉄興社付近、税務署通りの海岸の4カ所に照明弾が投下されるのが視認された。これを目印として61機のB29から波状的に焼夷弾が投下された。
 寺町、米町から出火。待機していた第2号消防車が出動した。炎との戦いの始まりだった。やがて市の中心部、県庁とそれに隣接する常備消防本部まで炎上した。各消防車は放水、待避、部署変更を繰り返して消火に当たった。2、3時間後には火はおおかた静まったようだが、おおむね鎮火したのは29日6時ごろとされている。
 米軍公式記録では22時37分から23時48分までの1時間11分が爆撃時間だ。29日0時22分に空襲警報は解除された。B29の大編隊は546・5トンの焼夷弾を投下し、市街地の8割を失わせた。
 8月1日付の知事報告には消防関係者の行動を「警視庁消防官吏、常備消防部、警防団第二分団第一部の敢闘は真に死生を超越」と讃えている。
 ▽警視庁消防官の殉職
 青森空襲での殉職者は警察官8人(巡査練習所練習生)、警防団員4人、警視庁応援消防官吏1人、防空監視隊本部員(女性)6人などだ。警視庁応援消防官吏とは、警視庁消防曹長(殉職後消防士補に一階級特進)佐々木芳雄のことだ。なぜ警視庁消防部(現・東京消防庁)の職員が青森市にいたのか。
 米軍は44年11月に開始した本土空爆により、大都市は6月15日までにほぼ焼き尽し、17日からは中小都市空爆に移行した。これまで大都市に集中されていた消防力は、もはや護るべき対象がなくなった。
 そこで、7月に入るや内務省は全国の中小都市の防空体制を強化するために、大都市の大型ポンプ自動車と消防要員の一部を中小都市防衛のために応援配置することとした。本県は警視庁消防部から、青森市へ26人の要員とポンプ車6台、八戸市へ36人と6台の応援配置を受けた。派遣者には応援県出身者が選ばれた(派遣人数については諸説ある)。
 青森市防衛の応援隊(警視庁消防部青森中隊)の隊長は鎌田豊消防士補(品川消防署)で、青森警察署長の指揮下に入った。空襲当時、青森中隊の防禦(ぼうぎょ)部署は県庁だった。
 7月28日23時5分頃、B29の爆撃により県庁、消防本部、青森市役所などが焼夷弾の直撃を受けた。青森中隊第1小隊第1分隊長の佐々木は、部下とともに県庁東方の建物2階に進入して消火にあたった。
 波状攻撃により随所に火災が発生して一面火の海となった。危険が迫ったので佐々木らの隊は第2防禦目標に定められていた古川国民学校(古川小学校)に転戦しようと火炎の中を西進中、大正町で火炎に包囲されて進退不能となった。佐々木は「隊員に脱出を命じ、自身は喞筒(そくとう)=ポンプ=と運命を共にし、壮烈な殉職をとげた」(『東京空襲時における消防隊の活躍』)。地方に派遣された警視庁消防隊員の殉職者は佐々木が唯一だ。
 ▽最前線の隊員たち
 戦争のさなかでも、武器の開発は進む。M74焼夷弾はナパームに黄燐(おうりん)を加えた最新型で、38本を束ねたE48集束焼夷弾として青森市に投下された。「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」と米国戦略爆撃調査団は結論づけている。非人道的な焼夷弾に、限られた消火資材で対抗するのは困難だった。
 青森空襲から77年がたとうとしている。しかし、世界では今もって無差別爆撃が繰り返され、消火・人命救助にあたる消防隊員の姿が連日のように放映されている。頼もしい姿だが、あってはならないことだ。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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弘前藩の蝦夷地警護=173

2022/5/23 月曜日

 

写真1 1859(安政6)年蝦夷地6藩分領図=『青森県史通史編2』648頁より転載
写真2 幕府の東北6藩への蝦夷地分与を伝える=「弘前藩庁日記(御国)」安政6年10月10日条(弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書)
写真3 1916(大正5)年のスッツ陣屋跡実測図=『北海道史』附録地図第3類第7より転載
 
写真4 スッツ陣屋の名を留める「陣屋橋」=2021(令和3)年9月20日・筆者撮影
 
写真5 町内の歌棄から寿都湾越しに寿都市街地を望む=2021(令和3)年9月20日・筆者撮影

 ▽津軽領に準じる地
 原発から出る「核のごみ」最終処分場選定にかかわって、全国で初の文献調査が進む北海道寿都町。この寿都(以下、スッツ)町域は幕末の一時期、弘前藩の「津軽領に準じる」地だった。
 1854(安政元)年に日米和親条約が締結され、箱館(現函館)が開港地になると、幕府は一層と対外危機感を強め、箱館奉行を再置して弘前藩と盛岡藩に箱館警衛を命じた。その後、ロシアとの国境交渉が妥結して日露和親条約が結ばれると、翌年幕府は渡島半島の一部を除く蝦夷地を再び直轄化し、松前・弘前・盛岡・秋田・仙台の各藩に警衛を命じた。
 弘前藩は箱館市街地から恵山岬(えさんみさき、現函館市)と、乙部(おとべ)村(現乙部町)から神威岬(かむいみさき、現積丹町)までを持ち場とした。そして箱館千代ケ台(ちよがだい)に元陣屋(駐屯基地)を設置して勤番兵206人を、スッツに出張(でばり)陣屋(出張所)を設置して110人を、それぞれ派遣して警衛に当たらせた。
 スッツに派遣された勤番人数は、西蝦夷地(北海道の日本海側)全体の援兵としての任務にも当たったという(『新編弘前市史』通史編2)。ちなみに1972(昭和47)年、1856(安政3)年から58(同5)年の間に病気などで没したとみられる弘前藩兵5人の墓石が、寿都町営墓地で発見されている(『寿都町史』)。
 ▽蝦夷地警護と漁場経営
 59(安政6)年、幕府は鶴岡・会津両藩にも蝦夷地警衛を命じ、松前藩と東北6藩による蝦夷地警衛体制を整備した。幕府は秋田・仙台・鶴岡・会津の各藩には蝦夷地内の警衛担当区域の内に「領分(りょうぶん)」を、弘前・盛岡両藩には陣屋の設置場所周辺に「相(そう)応之地所(おうのじしょ)」を与えると通達した。この措置は、蝦夷地警衛を担う諸藩の、軍役(ぐんやく)負担への見返りであり、全蝦夷地が幕藩制国家の領域であることを示威するものだった。
 ただし、弘前藩では「領分」「相応之地所」のそれぞれについて、「領分」を与えられた諸藩は蝦夷地奥地の開拓を担うのであり、弘前・盛岡両藩の警衛地域は幕府領であって、そこに所在する漁場(ぎょば)の支配権を与えられるものと解釈した。つまり、両藩は漁場を経営する請負商人からの運上金収入を分与されるに過ぎなかったのである(『青森県史』通史編2)。
 こうして、弘前藩は箱館付近の警衛のほかに、スッツ陣屋に付属する「地所」として、スッツ領からセタナイ(現瀬棚町)領の漁場運上金を与えられ、セタナイから幕府領の乙部村までの警衛に当たることになった。冒頭で「津軽領に準じる」と記したのにはこうした訳があったのである。
 その後、弘前藩は60(万延元)年に藩独自の裁量で箱館詰の定数を184人、スッツ詰を90人に縮小。66(慶応2)年には箱館詰定数を154人、スッツ詰を77人に削減した。
 後者の際、弘前藩庁では幕府から問い合わせがあった場合に、箱館奉行所との折衝に当たる藩の箱館詰留守居役から、病気を理由に通知するなどと取り繕うことが申し合わされたという(『新編弘前市史』通史編2)。
 それまで「北狄(ほくてき)の押(おさ)へ」の自己認識のもと、幕藩制国家権力の蝦夷地支配と向き合ってきた弘前藩の役割や立場は、蝦夷地情勢の変化と、より大きな軍事力を期待できる東北諸藩の蝦夷地への展開によって、相対的に低下し後退していたといえよう。
 ▽陣屋の構築と構造
 現在、弘前藩スッツ陣屋は遺構が残っておらず、実相があまり知られていない。スッツ陣屋は現在の寿都市街地の南端の、市街地より一段高い、寿都湾を一望する段丘(だんきゅう)上に55(安政2)年から翌年にかけて構築された。
 東西約140メートル、南北約90メートルの約1ヘクタールの敷地面積に、背後の山裾を開削して防壁とし、東・西・北面の三方を土塁と溝で取り囲むようにして、津軽大工により建設されたという(『寿都町文化財調査報告書2』)。
 陣屋内部には、本陣・二陣・三陣の主要な大型建物のほか、武芸場、武器庫、兵糧蔵、雑物蔵、炭蔵などがあった。3カ所に門が設けられ、特に東端の表門は桝形虎口(ますがたこぐち、侵入者に対して側面攻撃できる構造)となっていた。さらに焔硝(えんしょう)蔵が敷地北西隅に所在し、四方を土塁で囲った出丸で厳重に守られていた(戸祭由美夫『絵図にみる幕末の北辺防備』)。
 陣屋跡地は1978(昭和53)年、一部分の発掘調査が行われ、井戸跡や土塁の排水溝跡、柱穴、銭、陶磁器、鉄製品などが出土している。このほか、陣屋から北西に約4キロ離れた弁慶岬付近に烽火台(のろしだい)を設置したと伝えられるが、その位置は不明である。
 さらに、蝦夷地警衛や開拓の上で道路開削が急務とされたが、1856(安政3)年にはオシャマンベ(現長万部町)からクロマツナイ(現黒松内町)を通り、スッツ手前まで開削が進み、翌年には陣屋前を通る「六条澗(ろくじょうま)道」が開通している。加えて、同年には道路開通とともに宿駅や駅逓も設置され、駅馬が物資輸送に利用された(『寿都町文化財調査報告書2』)。
 ▽その後の陣屋
 68(慶応4)年に入ると、弘前藩は、幕府瓦解後の箱館奉行所から、蝦夷地統治を引き継いだ箱館府(箱館裁判所を改称)より蝦夷地警衛御免・帰藩勝手次第と申し渡される。弘前藩は同年8月に箱館・スッツから退去(菊池勇夫『五稜郭の戦い』)、スッツ陣屋もその歴史的役割を終えた。 
 明治維新後、スッツ陣屋の跡地は寿都小学校運動場、次いで町営グラウンドとして利用された。1916(大正5)年の実測図には陣屋の遺構がよく留(とど)められており、戦後数年までは残存していたようである。
 しかし、国道229号線のバイパス工事と区画整理によって、スッツ陣屋跡地は寿都町総合文化センター(ウィズコム)の敷地となり、その痕跡は完全に失われた。僅(わず)かに、総合文化センター敷地に「津軽藩出張陣屋跡」の説明板(文字の剥落が著しい)があるのと、陣屋敷地と寿都市街地を結ぶ「陣屋橋」、「陣屋団地」にその名を留めるだけである。
(札幌大谷中学校・高等学校教諭・市毛幹幸)

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移り変わる平賀駅前=172

2022/5/2 月曜日

 

写真1 平賀駅前の商店街。写真右端には尾上に本店を有する新し屋の支店が見える=1994(平成6)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真2 平賀駅と駅前商店街。歩道の目の前まで店舗が張り出していた=1994(平成6)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真3 拡幅整備が進む道路=1994(平成6)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真4 駅前通りの商店街。アイボリーカラーの歩道は、商店街活性化のため1987(昭和62)年7月に完成したもの=1994(平成6)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真5 現在の駅前通り=2022(令和4)年3月25日・筆者撮影
※写真5を除き、いずれも佐藤正治さん撮影の青森県所蔵県史編さん資料

 ▽鉄道とバスの時代
 1962(昭和37)年、弘南鉄道開通35周年を記念して平賀駅舎が新築された。駅舎の地下には、平賀町農業協同組合と弘南鉄道が共同で経営するスーパーマーケットができた。
 当時県内唯一だった地下スーパーは品ぞろえが良く、風雪を避けて買い物ができたため主婦たちに喜ばれた。通学で駅を利用する女子学生たちは、パンやお菓子をよく買いに来た。彼女たちは駅の地下にあったスーパーを「駅の穴」と呼んでいた。
 60年代は自家用車が普及する前の時代であり、通勤通学や買い物は鉄道やバスが中心だった。このため駅とバスが接続する平賀駅前に多数の商店が集まり、駅前商店街が形成された。しかし、自家用車の普及で駅前の様子は大きく変わることになった。
 ▽自家用車普及の衝撃
 86(昭和61)年12月、現在の平賀駅舎が完成。弘南鉄道の本社と平賀町農協が併設する大きく立派な駅舎が完成した。しかし交通手段の主役は、すでに鉄道から自動車へと移りつつあった。
 自家用車の普及で鉄道の利用客は減少の一途をたどった。鉄道網の発達した首都圏とは異なり、弘南鉄道は1時間に1~2本程度。それに比べ、いつでも自由に移動が可能な自家用車は大変便利だった。それが鉄道の利用客減少に拍車をかけた。
 次第に減少していく鉄道の利用客と相反し、駅前商店街には多数の自動車が駐留するようになった。以前はバスや自転車を使っていた買い物客が自家用車で来店するため、店舗前や道路脇に駐停車する自動車が増えたからだ(写真1・2)
 しかし、こうした駅前商店街の形態は平賀駅独自のものではなく、他の駅前でも普通に見られた姿だった。駅前に小売商店が並ぶ街並みは、鉄道やバスで買い物に訪れ、徒歩か自転車で立ち寄るには便利だったからである。
 ▽道路の拡幅整備
 90年代の平賀駅前には商店街のにぎわいが見て取れる(写真1・2)。しかし、すでに駅の近くまで道路の拡幅整備が進んでいた。
 駅前通りの県道282号(小国本町線)は、駅前こそ道幅が狭かったが、県道109号(弘前平賀線)の交差点から東側は大幅に拡幅工事が進んでいた。写真3に見える「この先段差あり」の立て看板より左側が整備された部分である。右側が整備前の道幅だ。写真では見えないが、拡幅部分には歩道も新設されている。
 道路を拡幅整備するためには道路脇の商店が店舗を後退させねばならなかった。しかし敷地の一部を公道に加えて得られる費用だけでは、店舗の移動や建て替え費用をまかなえない場合が多かった。このため拡幅整備を機に移転や廃業を決めた商店も結構あった。写真3に並ぶ商店も、この後ずいぶん様子が変わっている。
 ▽団結する商店街
 91(平成3)年に大店法(大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律)が改正され、大型店舗の出店規制が緩和された。これ以後、弘前市の城東地区をはじめ、各地に大型商業施設が進出し始めた。それに伴い弘前市への顧客流出が平賀駅前商店街に脅威を与えていた。
 すでに84(昭和59)年12月の段階で、平賀町にも大型商業施設の「いとく」が平賀店を出店。後に店舗前を県道13号バイパス(主要地方道大鰐浪岡線)が開通して、自家用車を所有する人たちの買い物に便宜を与えていた。
 弘前市への顧客流出や大型店舗の進出に対し、93(平成5)年3月、駅前商店街では既存の平賀駅前商店会を解散。新たに法人組織として平賀町中央商店街協同組合を設立した。組合では平賀町共通商品券を売り出して加盟店での利用を図り、駅前駐車場の整備や街路灯の整備などを実施した。商店街が団結することで郊外の大型店舗に対抗しようとしたのである。
 ▽過去の事例に学ぶ
 道路の拡幅整備は家屋や店舗の撤去と改築を伴うため、駅前を再開発する事業に等しかった。整備前の駅前商店街を撮影した写真4は、開発前の最後の姿といえるだろう。
 30年近い年月が過ぎてから撮影した写真5は、再開発が実質的に完了した現在の姿である。道路が拡幅整備され、歩道から店舗が大幅に後退し、店舗前に駐車場の敷地が設けられている。移転した店があれば、コンビニエンスストアに転身した店舗もある。電柱の地中化作業で見通しは良くなった。しかし店舗数の減少で往時のにぎわいは薄れた。
 昨今少子高齢化が加速化し、自動車を運転できなくなる世代が増えつつある。郊外の大型商業施設を維持することは大事だが、バス路線網を充実させなければ買物難民を生み出しかねない。しかし、経営難が続くバス会社に路線網の充実を求めるのは限界がある。
 それならば、駅前商店街の素地が残る平賀駅前を再利用し、歩行者中心の街並みとして磨き上げたらどうだろう。再開発事業で全国チェーンの大型施設を呼び込むより、今ある店舗を生かし、今後魅力ある店舗を少しずつ増やしていけば人の集まる余地が生じよう。少子高齢化が進む現在の社会事情にも適した街作りだと思う。
 かつての駅前商店街には多種多様の個性的な店があった。店側の工夫や努力のたまものといえるが、利用客の口コミや宣伝で評判を上げた店も多かった。街並みは人々の生活の中で徐々に形作られるもの。過去の事例に学びたい。
 今回紹介した写真家の佐藤正治(せいじ)さん撮影の写真には、活気ある店が並び徒歩や自転車で買い物をする人たちの元気な姿が写っている。今後の街作りに参考となる事例も多い。時代を過去には戻せない。しかし過去の良い部分を取り入れることは可能である。
(県民生活文化課〈県史担当〉総括主幹・中園裕)

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最中に見る郷土の形=171

2022/4/18 月曜日

 

写真1 津軽地方で見られるさまざまなリンゴの形を模した最中=中園裕撮影
写真2 メロン最中(左)とつがーるちゃん最中(右)。後者の餡には、つがるブランド生産農家の作ったリンゴが使用されている=中園裕撮影
写真3 黒石米(左)と発芽玄米チョコ(右)=中園裕撮影
写真4 たまご最中。黄身の部分に金柑を使い、白餡で白身の部分を再現している=中園裕撮影
写真5 ホタテの形を模した最中。青森市(中央)と鯵ケ沢町(左)と弘前市(右)の菓子屋が作っている=筆者撮影

 ▽菓子の原材料と地域の特徴
 菓子類には地域の特徴を反映するものがある。特に原材料には地域の特産物が使われることが多い。
 青森市の菓子屋が作った昆布羊羹(ようかん)は、東津軽郡三厩村(現外ケ浜町)産の菓子昆布を使った。弘前市の菓子屋が作った林檎羊羹は中津軽郡産のリンゴを用い、八戸市の菓子屋が作った菊羊羹は、三戸郡平良崎村(現南部町)産の阿房宮(食用菊)を使っていた。いずれの原材料も都市の周辺部で収穫される特産物だった。
 しかし、羊羹自体は棹物(さおもの)と呼ばれるように一定の形状で成り立つ菓子である。このため外見の形から地域の特徴を見出すのは難しい。
 ▽最中の形
 こうした羊羹に対し、地域の特徴を形で訴える菓子類に落雁や最中(らくがんもなか)がある。落雁や最中の形は、まるで手に取れる浮き彫り細工や彫刻作品のようである。落雁は日持ちがきく干菓子に当てはまり、最中はある程度の日持ちがする半生菓子に分類される。
 落雁は押物や打物(おしものうちもの)と呼ばれ、菓子木型に材料を押し固めて乾燥させる。その形状や色彩は美しいが、食べる以上、適宜な厚さや硬さでなければならない。
 外側の皮(最中種)と中身の餡から成り立つ最中は、歯を痛める厚さや硬さの心配がない。しかも落雁以上に立体感あふれる形を表現できる。外見の形から特産物や名所、祭事など地域の特徴が見受けられるのである。
 本県の特産物であるリンゴやホタテの形を模した最中は、複数の菓子屋で作られている。他方、十和田湖のヒメマス、小川原湖のワカサギ、大間のアワビ、大畑のイカなど、その地域の特産物を模した最中が、現地の菓子屋で作られる場合がある。多種多様な最中を見ていると、本県が豊かな食材に恵まれていることを彷彿(ほうふつ)させよう。
 ▽リンゴ
 青森県はリンゴの特産地である。特に津軽地方ではリンゴを使った菓子が、和菓子や洋菓子を問わず豊富にそろっている。リンゴの古い品種に「印度(インド)」がある。明治初年に弘前で生まれた品種である。このため弘前市の菓子屋が「印度最中」を作っているのもうなずけよう。
 リンゴは品種改良が進み、ふじや王林のほか、いろいろな種類のリンゴを目にするようになった。それを反映するように、津軽地方の菓子屋を訪問すると、形の多様なリンゴ最中が手に入り、とても興味深い(写真1)。中身がリンゴ餡であるものも多く、リンゴの最中はリンゴを視覚と味覚で堪能できる。
 ▽メロンとつがるブランド
 つがる市はメロンの特産地である。同市のメロンは、つがるブランド農産物の一つに位置づけられ、作付面積が本県で7割以上を占める。このメロンを使って、つがる市富萢町の菓子屋が「メロン最中」を作っている。
 つがる市のマスコットキャラクターを題材にしたものに「つがーるちゃん最中」がある(写真2)。つがーるちゃんは、つがるブランド農産物であるメロンのほか、米、スイカ、リンゴ、トマト、ネギ、ゴボウ、ナガイモを身にまとったマスコットキャラクターである。つがーるちゃん最中は多数の特産物を反映した最中であり、つがるブランド認定加工品でもある。
 ▽米と玉子
 津軽地方は県内有数の米どころである。黒石市の菓子屋では米俵の形をした最中を作っている。中身はつぶ餡と餅だ。平川市の尾上地区も米どころである。平川市尾上の菓子屋では農家蔵をイメージし、米俵を模した最中を作っているが、中身はチョコがけの発芽玄米パフ。米俵の形状が同じでも中身は異なる。最中の面白さの一つである(写真3)
 従来、寒冷地では大規模な養鶏場を営むのが難しいとされていた。しかし現在の青森県では養鶏業が定着している。特に南津軽郡藤崎町の常盤地区には、トキワ養鶏(常盤村養鶏農業協同組合)などがある。高品質な卵を生産することで常盤地区の卵は有名だ。藤崎町常盤の菓子屋が特産の卵をイメージして「たまご最中」を作ったのも納得できると思う(写真4)
 ▽ホタテ
 青森県は三方を海に囲まれており、海産物の養殖業が盛んである。県を代表する特産物の一つにホタテがある。リンゴの最中が津軽地方に多く見られるのに対し(写真1)、ホタテの最中は青森市、弘前市、八戸市、むつ市、西津軽郡鯵ケ沢町、上北郡野辺地町などの各菓子屋で見られる(写真5)。県内に点在する特徴があるようだ。
 ▽郷土の形
 菓子は香り、味、形、色彩が基本である。特に形と色彩は食べる前に認知される菓子の情報源となりやすい。その意味で、最中は視覚から郷土の形を強く訴える菓子とみなせよう。比較的日持ちがするため、土産品としても十分な役割を果たしてきた。
 土産品として長く愛好されてきた最中だからこそ、菓子屋は郷土に対する思いを込めながら作り上げるのだろう。最中を食べる際、郷土の形には地域の歴史や風土がつまっていることに気付いて欲しいと思う。
(弘前大学非常勤講師・中園美穂)

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