![]() |
写真1 太宰治文学碑(青森市文芸のこみち)=2022(令和4)年5月15日・筆者撮影 |
![]() |
写真2 友情の碑(青森市中央市民センター)=2022(令和4)年5月29日・筆者撮影 |
![]() |
写真3 竹内運平『青森県通史』の関係箇所 |
![]() |
写真4 青森市塩町の文芸館附近から西側の大町を望む。青柳2丁目の現モルトン迎賓館附近から西側の本町5丁目付近=1942(昭和17)年4~5月・青森市民図書館歴史資料室提供 |
▽太宰治が記した「青森開港」
今月は作家太宰治の誕生月である。そして、この原稿の締め切り日6月13日は、私の誕生日でもある。
先日、たまたま『津軽』に目を通していたら、「序編」に次のような一節をみつけた。
なお、引用は『太宰治全集8』(筑摩書房、1998年)からで、一部の漢字は常用漢字に改めた。
この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などと盛んに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、(以下略)
太宰がいわゆる「青森開港(青森の町づくり)」について書き記しているとは思いもよらなかったので、これを目にした時は少なからず驚いた。しかも、「開港(本文では「経営に着手」)」の年代を「寛永元年」としている点に惹(ひ)かれ、「ネタ本は何か」探してみたくなった。
もう少し『津軽』を読み進めて行こう。
▽あっけなく発見
上野からの列車で青森に着いた太宰はバスに乗り換え、友人N君の待つ蟹田へ向かう。その間、彼の筆は蟹田の歴史などに及び、そこに「竹内運平といふ弘前の人の著した『青森県通史』に依れば」というフレーズを見つけた。これは手掛かりになるのではと、早速『青森県通史』のページを繰ってみると…あった(写真3参照)。
青森の新派立は、近来外ヶ浜に上方船多く着岸するやうになつた為と、旧記に説明せられ、寛永元年に着手し、同三年に於て成就した。外ヶ浜奉行森山内蔵之助信実の手に成るものである。家数千十七軒、佐藤理左衛門、村井新助を町頭とし、条目を発布して其経営を計つた。(中略)此の時、近江、越前、越後の商売を招来した。後又安潟の漁師町を開ける里見三郎右衛門が加賀、越前、能登、若狭の漁師を呼び寄せて居る例もある、(傍線は引用者による)
私は傍線を施した箇所を根拠に、太宰はこれを参考にしただろうと考える。同書は東奥日報社から1941(昭和16)年に発刊、一方『津軽』(『新風土記叢書』第7編)の発刊は44(昭和19)年11月だから時間的な矛盾もない。
もっとも、この時までに青森県の歴史を綴(つづ)った本はいくつか発刊されている。そうであるにも関わらずこの『青森県通史』が選ばれたのはなぜか。網羅的な調査をした訳ではないが、おそらくこの本が最新の刊行物であったからだろうと見立てている。つまり、太宰は「最新の研究成果」で『津軽』を執筆したのである。
▽『津軽』発刊時の「青森開港」論事情
「青森開港」の年代をめぐっては、明治末期以降1625(寛永2)年説が通説的位置を占めていた。そして、異論はあるかもしれないが、私は1990年代後半まではこれが通説であったと考えている。ただ、『津軽』の発刊時期とも重なってくる30年代後半以降は、この通説が大きく揺さぶられた時期であった。
というのは、青森市内安方町に拠点を置く青森郷土会が、33(昭和8)年以降、機関誌である『郷土誌うとう』で、通説とは異なる1624(寛永元)年説を唱える論者を輩出していたのである(24〈寛永元〉年説自体は1909〈明治42〉年に示されてはいた)。といっても、これを容(い)れない論者もいて、実は『青森県通史』の著者竹内もそのひとりであった。
ただ、当時の1624(寛永元)年説には「強い追い風」が吹いていたのだろう、たとえば青森市は1937(昭和12)年版の市勢一覧から、これまでの1625(寛永2)年説を捨て、24(寛永元)年説を採用して同市の「沿革」を記すようになった。そして以後、60年以上にわたり青森市の刊行物はこの説を採用し続けた。
だから、竹内が24(寛永元)年説に飲み込まれたのは、やむなき事だったのかもしれない。そして、文献史学の立場からは否定されるべきこの説が、あろうことか一定の支持を得てしまうことになった。
『津軽』の一節は―もちろん太宰の意図するものではなかったであろうが、当時の郷土史研究の「お家事情」を映し出していたのであった。
▽『郷土誌うとう』の主宰者は自説を封印
ところで、『郷土誌うとう』を発刊した青森郷土会の主宰者肴倉弥八は、戦後青森市が発刊した『青森市史』の編者を務めるなど、青森市、東津軽郡の歴史研究に尽力した人物である。「青森開港」の年代でいうと、一貫して1624(寛永元)年説を主張してきた『青森市史』の編者である彼を、この説の第一人者とみる向きもあるだろう。
しかし、それは違った。肴倉は25(寛永2)年説の論者だったのである。『青森市史』や自身の単行本では24(寛永元)年説を採用しているが、個別論文では25(寛永2)年説を主張していた。また、1968(昭和43)年の新聞のインタビュー記事においても「青森開港は(原文は「が」)寛永二年です」と語っていた。彼は両方の説を使い分けていたのである。
推測にすぎないが、肴倉の意図は自説とは異なる見解が多数説であると認められるとき、たとえば『青森市史』など広く一般の目に触れることが予想される書籍では自説に蓋(ふた)をしたのではないか。だとすれば、そうした配慮が一方で24(寛永元)年説を野放しにしてしまったという、皮肉な結果を生んでしまったともいえる。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)