津軽の街と風景

 

交通の結節点 藤崎町=68

2017/4/24 月曜日

 

菅江真澄が描いた平川橋 「藤崎川橋上眺望」秋田県大館市立栗盛記念図書館蔵
伝馬継立場の現状。現鹿島神社の向かい。周辺には「羽州街道」の標柱が立つ。2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社 2017(平成29)年4月12日・筆者撮影
堰神社の太郎左衛門人柱の掲額 1954(昭和29)年・石沢竜峡作

 ▽陸上交通の拠点
 「ふじ」が生まれた地として知られる藤崎町。藤崎の市街地は平川沿いに延びるが、近くで岩木川と2大支流の平川と浅瀬石川が合流する。このような地理的特性から、江戸時代の藤崎は陸上交通と河川交通の結節点だった。
 中世期は安東氏によって藤崎城が築かれ、江戸時代には弘前藩「藤崎組」の代官所が置かれ、周辺18カ村の中心となっていた。1959(昭和34)年にバイパスが完成したので、現在の国道7号は藤崎の市街地を通らないが、前身である羽州街道は藤崎の町を直角に6カ所折れ曲がっており、城下町特有のカギ型の街路を見せる。藤崎城は江戸初期に廃城になったので、戦国時代の後期には既に町が形成されていたと思われる。
 藤崎には公用の荷物の運搬や旅行者の人馬の継ぎ立てをする「伝馬(てんま)」が置かれた。鹿島神社の周辺には「伝馬新田」といって、伝馬に携わる人々が入植した村があり、現在でも「伝馬」の通称地名が残っている。このような「伝馬新田」は油川、浅虫など津軽地方の各地に見られる。
 国道7号の藤崎町と弘前市の境界にある大きな橋が平川橋である。藤崎側には「舟場」の通称地名が残るが、これはかつて渡し場があった名残である。『弘前市史 藩政編』によると、1681(天和元)年に最初の橋が架かったとされる。長さは時期によって異なるが、約130メートルから160メートルくらいである。
 江戸後期の寛政年間(1789~1800)に訪れた菅江真澄は、欄干と人や馬がすれ違えるように、橋の真ん中に待避所を備えた立派な橋の姿を描いている(「錦木雑葉集」)。江戸時代、本県域の羽州街道に架かる橋としては最も大きかった。なお、現在の平川橋は1973(昭和48)年に架け替えられ、84(同59年)に2車線化されている。
 ▽河川交通の拠点
 代官所がある藤崎には、周辺の村々から集めた年貢米を収納する「御蔵」が平川沿いにあった。藤崎組と常盤組の年貢米約3万俵が収納された。集められた年貢米は、羽州街道を利用して青森へ、また岩木川水運を通じて十三(現五所川原市市浦)へ廻漕(かいそう)された。
 弘前藩の本格的な舟運による年貢米輸送は、17世紀中頃から始まると考えられ、藤崎御蔵も1685(貞享2)年に設置されている。このような御蔵は岩木川流域沿いでは、藤崎のほか、石渡(いしわたり、現弘前市)、三世寺(さんぜじ、同)、板屋野木(いたやのき、現板柳町)、五所川原などに置かれた。
 年貢米は冬から早春にかけて十三湊を経由して弘前藩日本海海運の拠点港だった鯵ケ沢湊へ廻漕され、さらに大きな船に積み替えられて、日本海海運により上方方面に運ばれていった。それは弘前藩の大きな財源になっていった。
 しかし、年貢米積出基地としての藤崎の重要性も、やがて新田開発が進んだ板屋野木に取って代わられるようになる。また、岩木川水運自体も陸上交通の発達や、河口である十三湊が土砂の堆積で大きな船の運航が不便になってきたことなどから、次第に衰退していくようになる。
 一方、青森湊からの太平洋海運による運送の方は、江戸藩邸用米が中心だったが、藩邸経費の拡大とともに次第に増加していった。御蔵が設置された藤崎の重要性は変わらなかったのである。現在でも国道7号が町内を貫通し、五所川原へ向かう339号が分岐するなど、陸上交通の拠点としての藤崎の性格は変わっていないように思える。
 余談だが、「ふじ」を生んだ農林省園芸試験場東北支部(1937~61年設置)は、実は藤崎町が積極的に誘致したものでなく、当時激しい誘致合戦を続けていた弘前市、黒石町(現黒石市)、板柳町の中間にあるという理由で決定されたものだった。ここでも四方に道路が発達し、いずれの場所にも行きやすいという藤崎町の地域的特性が反映されたと言える。
 ▽藤崎堰
 津軽平野の真ん中に位置する藤崎には用水路も縦横に発達している。この中でも特に古いのは、黒石市境松に取水口を持つ藤崎堰(ぜき)で、慶長年間(1596~1615)に開削されたと伝えられる。
 ただし、はっきりした同時代資料があるわけではない。藤崎堰は完成後も急流のため何度も決壊するので、1609(慶長14)年に藤崎村の住人堰八安高が自ら人柱になり、藩の検分役の前で壮絶に入水(じゅすい)し、急流は見事に治まったという。
 町内には堰八を祀(まつ)る「堰神社」がある。この神社は藩の資金によって建てられ、藤崎堰およびその下流から取水する横沢堰、枝川堰、五所川原堰の四堰周辺の村人が氏子になった。
 また江戸時代を通じて雨乞いなどの祈祷(きとう)が行われ、藩からの援助もあった。現在でも境内には各土地改良区が奉納した鳥居、狛犬(こまいぬ)などが見られる。このほか、平川の白子周辺で五所川原堰と足水堰が取水し、いわゆる新田地方と言われる西北地方の田畑を潤している。
(県民生活文化課県史編さんグループ主幹 中野渡一耕)

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「西海岸」の歴史遺産=67

2017/4/3 月曜日

 

北金ヶ沢駅で列車を待つ人々=1972(昭和47)年3月・堀越庸夫さん撮影提供
千畳敷駅に降り立つ観光客=1961(昭和36)年8月・青森県史編さん資料
沢辺の稲荷神社で催された宵宮=1966(昭和41)年7月・中園裕所蔵
森山にある賽の河原=1966(昭和41)年7月・中園裕所蔵

 ▽大戸瀬村
 2005(平成17)年3月31日、深浦町と岩崎村が合併し、新たに深浦町が誕生。青森県で最も西側に位置し、広大な町域を誇る町となった。しかし、その50年前までは、深浦町域の北部に大戸瀬村があった。村は1955(昭和30)年7月29日に深浦町と合併し、その歴史に終止符を打った。
 大戸瀬村で最も有名な存在は大渡瀬崎周辺の千畳敷だろう。戦前から村を象徴する存在で、絵はがきにもよく登場した。戦後、高度経済成長の影響で全国的に観光が盛んになった54(昭和29)年、臨時駅として千畳敷駅が設置された。通常駅となって久しい現在、一部の「リゾートしらかみ」が停車する。春から夏に大勢の人々が集まるが、冬に駅ホーム背後の岩肌に連なる大氷柱も人気を集めている。
 大戸瀬の名前は深浦町の大字をはじめ、駅や郵便局に存在する。しかし村役場は大戸瀬ではなく、少し南東寄りの北金ケ沢にあった。役場があっただけに、今も大きな集落を形成している。また、西海岸の恵まれた漁場があるため、北金ケ沢港は大謀網の好漁港で、マグロやブリ、タイ、スズキなどの高級魚が多数水揚げされる。
 意外に知られていないのが北金ケ沢駅舎の歴史的価値である。部分的な改良はあるが、31(昭和6)年10月20日に開業した当時の駅舎なのだ。85年以上の歳月が経過し、今なお現役で使用され、五能線でも古い駅舎の一つである。
 駅の近くには「垂乳根(たらちね)のイチョウ」と呼ばれる大イチョウがあり、その存在は内外で有名だ。毎年イチョウが黄色に色づく初冬には大勢の見物客が訪れる。2004(平成16)年に国指定の天然記念物となった。
 イチョウの見物に北金ケ沢駅を使う県民は少ないだろう。しかし観光客はおおむね駅を使う。イチョウの知名度に隠れがちな駅自体の歴史的価値を知らせてほしい。同時に県民も地元の歴史遺産として大切にしてほしいと思う。
 ▽岩崎村
 平成の大合併で深浦町となった岩崎村は、現深浦町の南部に位置する。秋田県との境には須郷岬がある。岩崎村は大戸瀬村と同様、平野が少なく狭い海岸線に五能線と国道が走っている。漁業中心の生活形態で、岩崎漁港は北金ケ沢港とならび、西海岸の重要な漁港である。
 村で最も有名な存在は十二湖と白神山地だろう。十二湖の中では、色の美しさから青池が大人気だ。毎年多くの観光客が訪れる。また周辺にそびえる「日本キャニオン」も、この地域の観光客動員に大きく寄与している。
 十二湖駅は春から秋にかけて観光客でいっぱいとなる。しかし、この駅は五能線が敷設された当初には存在しなかった。戦後に十二湖を訪れる観光客が多くなった1959(昭和34)年、ようやく湖の入り口近くに簡易的な臨時駅が設置された。ホームが一つあるだけの小さな駅だった。
 97(平成9)年の秋田新幹線開業を機に、JR東日本が西海岸の景勝と夕日を観賞する目的で、「リゾートしらかみ」を走らせた。沿線観光が大きく宣伝される中で十二湖の人気は高まり、十二湖駅は2005(平成17)年に観光案内所や産直販売施設を伴った大きな駅舎となった。現在は「リゾートしらかみ」の到着ごとに大にぎわいである。
 他方、白神山地は世界遺産に登録されて以来、各地から多くの入山客が押し寄せるようになった。このためJR東日本では、2000(平成12)年に陸奥黒崎駅を白神岳登山口駅と改称。駅は白神岳登山への誘致に一役買っている。
 岩崎村は南北に長く連なる村域を有していた。藩政時代以来の日本海交易と、西海岸の厳しい自然の中で漁業や林業に携わってきた歴史が存在する。このため大間越の春日祭や獅子舞、松神や黒崎の鹿島祭、岩崎の花上げ踊りや裸参りなど、西海岸の各集落には個性あふれる祭事が継承されている。
 また、集落ごとに存在する神社の祭礼行事も豊かで、大間越関所跡や賽(さい)の河原など、史跡が随所に存在する。そして興味深いのは、それらの多くが「リゾートしらかみ」の停車しない駅周辺に存在することであろう。
 ▽「地元駅」の周辺
 五能線は陸上交通に恵まれなかった西海岸の町村が、県や国に対して請願や陳情を繰り返し、運動を継続した結果敷設された鉄道である。鉄道は沿線に住む人々や集落に計り知れないほどの便宜を与えた。それ故、当初設置された駅は主に集落の人々が利用する「地元駅」として現在に至っている。
 これに対し十二湖駅やウェスパ椿山駅は、観光地化の進む自然の景勝地へ誘客を図るため、新たに設置された「観光駅」である。当然、利用する人々は地元客よりも観光客が中心で、利用客は普通列車より観光列車の「リゾートしらかみ」の方が多い。
 観光列車が通過する「地元駅」に、観光客が降りることは少ないだろう。当然、彼らが沿線集落に継承されてきた民俗芸能を堪能し、集落内の史跡を訪ねる機会は乏しい。
 過疎化が進む深刻な環境下で、旧岩崎村域に存在する史跡や民俗芸能を後世へ伝える人々の労苦は並大抵ではない。それだけに現在も継承され、そこに存在する史跡や芸能の価値は、景勝地に勝るとも劣らない価値を有する。
 限られた日程と予算の中で動く観光客に、「リゾートしらかみ」が通過する「地元駅」へ降りてもらうのは難しい。しかし地域観光対策の多様化が叫ばれている中で、今後「地元駅」の周辺に観光客を誘致する工夫が求められるだろう。
 定番の景勝地や誘客施設に観光客を招くことは大事である。しかし、見逃されがちな地域の歴史や民俗芸能の価値が共有できれば誘客の幅も広がると思う。誘客次第では、後継者難に苦しむ地域の伝統行事や民俗芸能を後世へ伝える効果が生まれるかもしれない。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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鉄道と駅前スーパー=66

2017/3/20 月曜日

 

ショッピングおのえ=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
ショッピングおのえの店内=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
コープ尾上店があった頃の津軽尾上駅=2006(平成18)年7月11日・筆者撮影
津軽尾上駅と快速列車=1980年代後半・青森県史編さん資料

 1927(昭和2)年9月7日、弘南鉄道弘南線が弘前と津軽尾上の間に開通した。実は、今年の9月で開業90周年を迎える。今回は弘南鉄道の社史に書かれていない鉄道と地域に関する話題を提供したい。
 ▽平賀駅の地下スーパー
 62(昭和37)年9月7日、弘南鉄道は開業35周年を記念して平賀駅を新築した。その際、地下に平賀農協と共同経営のスーパーマーケットを設けた。
 まだ自家用車が普及する前の時代だった。近距離の人は徒歩か自転車、遠方の人はバスや鉄道を使って買い物するのが常だった。平賀駅は駅と周辺地域を結ぶバスが集まる拠点である。駅前には小売店を中心とした商店街が形成され、買い物客でにぎわった。
 駅地下のスーパーは、一つの店舗で多種多様の買い物ができた。雨や雪が避けられるので主婦層に評判が良かった。駅併設のため通勤通学のサラリーマンや学生も利用した。お菓子やパンを買い求め、足しげく通った女子学生たちは、地下のスーパーを親しみを込めて「駅の穴」と呼んだ。
 ▽開業50周年
 70年代半ば以降、自家用車の普及に伴い鉄道の利用は下降線をたどった。対応を迫られた弘南鉄道では自動券売機を設置。除雪車を積極的に投入するなど、利用客の便宜を図り沿線の保線強化を行った。75(昭和50)年には、輸送力強化のため快速列車を運行した。停車駅は弘前、南弘前(現弘前東高前)、平賀、津軽尾上、弘南黒石(現黒石)だった。
 77(昭和52)年に開催される「あすなろ国体」を前に、県内各地では道路や街並みの整備が進められた。この年、弘南鉄道は南弘前と新里(にさと)の間に運動公園前駅を開業した。弘前運動公園の利用に供するためだった。
 あすなろ国体開催の年は、弘南鉄道にとって開業50周年の記念すべき年だった。このため9月7日に式典を開催。社史として『弘南鉄道五十年史』を刊行している。
 ▽津軽尾上駅の新築
 あすなろ国体は青森県を全国に紹介する絶好の機会だった。県内の各市町村でも地域宣伝のため、各種のインフラ整備を進め観光地の宣伝を強化した。
 尾上町(現平川市)では国体の開催以前から、猿賀神社に併設する形で猿賀公園を整備していた。猿賀神社は尾上町をはじめ、周辺市町村からも信仰を集め「猿賀さま」と呼ばれ親しまれていた。町では由緒ある神社に参拝する人々を、隣接する公園に回遊させることで、町の魅力を引き出そうとしたわけである。
 町では猿賀神社への入り口となる駅前の開発に着手した。この動きに弘南鉄道が呼応し、津軽尾上の駅舎を新築することになった。その際、樽沢武任社長は猿賀神社の拝殿を模した破風(はふ)型の屋根を取り入れ、駅舎を猿賀神社の玄関にふさわしい姿とした。
 弘南鉄道にとっても、猿賀神社は66(昭和41)年8月21日に、創業以来初めて社運の隆昌(りゅうしょう)と従業員の安全を祈願して幟(のぼり)を奉納した特別な存在だった。こうして新しい駅舎は、開業52周年の79(昭和54)年9月7日に落成式を迎えた。
 ▽津軽尾上駅のスーパー
 79年9月30日、新築された駅舎に併設する形で建設が進められていた「ショッピングおのえ」が開業した。協同組合ショッピングおのえが経営する地上2階建てのスーパーマーケットで、食料品や衣料をはじめ日用雑貨、菓子屋、食堂や喫茶店など10数軒の店舗が入った。
 すでにスーパーが商店街などに進出していた時期でもあり、尾上町民は開業に期待をしていた。平賀駅の地下スーパーが盛況だったことも影響していただろう。このため駅併設のスーパーは、駅を利用する人々を中心に大いに利用された。菓子屋やスポーツ用品、音楽用品など、各種の店舗がそろっていたため主婦層を中心に若者も集まった。
 スーパー開業の頃は自家用車が普及し始めていたとはいえ、人々の移動手段は鉄道や徒歩、自転車などに依拠していた。まだ大手資本による郊外の大型ショッピングセンターが、本格的に展開していなかった時代だった。尾上町にはデパートもなかったため、駅に隣接するスーパーは魅力的な存在だったのである。
 ▽人の集まる拠点
 都市計画の進行と自動車の進出は予想以上に早かった。郊外の大型ショッピングセンターが各地に進出するのに伴い、小さな地元のスーパーマーケットは閉店に追い込まれていった。事実、86(昭和61)年に現在の平賀駅舎ができた際、駅地下のスーパーは閉鎖された。ショッピングおのえも、その後コープ尾上店に変わって営業を続けていたが、間もなく閉店。数年前に建物も撤去された。買い物の移動には自家用車が当たり前の時代になり、駐車場の狭い駅併設のスーパーマーケットは不便になったのである。
 しかし現在、高齢化社会が予想以上に早く進み、「買い物難民」が各地で深刻な問題になっている。大手資本に対抗する地元スーパーでは、トラックを活用した移動スーパーを展開し、コンビニエンスストアも随所に店舗を設けて惣菜(そうざい)を販売するなど、新しい戦術を展開している。このため郊外の大型ショッピングセンターは、必ずしも経営的に安泰とはいえなくなっている。事実、全国各地で大型店舗が統廃合を繰り返しつつある。
 平賀駅では駅近くのコープ平賀店が閉店した後、別のスーパーが入居している。駅前開発で立ち退きや閉店した店が商店街には多かった。駅周辺に住む買い物客にとって、スーパーは有り難い存在になっている。
 地域には人の集まる拠点が必要だ。そこは生活上必要な食材や日用雑貨などが購入できる場所がふさわしい。自家用車を持たない人々が買い物できるショッピングおのえのような駅前スーパーが、高齢化社会に対応する施設として注目される余地はあると思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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にぎわう黒石中心街=65

2017/3/6 月曜日

 

正月の横町商店街。1963(昭和38)年1月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
市ノ町の銀座通り。中央右に「イチロク」の看板、手前に長崎屋(ラーメン屋)の自転車が見える。1963(昭和38)年3月26日・青森県史編さん資料
甲徳兵衛町にあった黒石劇場。1960(昭和35)年頃・青森県史編さん資料
宇野酒造のこみせ。前町の角から山形町を撮影したもの。1963(昭和38)年6月8日・中園裕所蔵
元町通り。うどんと書かれた建物が製麺会社のやぶや。1960(昭和35)年頃・青森県史編さん資料

 太平洋戦争の敗戦は国家の体制や社会の価値観を大きく変えた。しかし人々の生活に関わる衣食住は、1950年代半ば以降の高度経済成長で激変し、街並みも70年代半ば以降の都市計画で大変貌(へんぼう)する。今回は、その前の時代に当たる50~60年代の黒石市中心街について紹介したい。
 ▽横町と市ノ町
 横町は戦後から高度経済成長期前後にかけて、黒石市中心街で最もにぎわった商店街だった。ここへ来れば大抵の日用品がそろったといわれた。ソフニ書店、ストゼンのゲタコ(下駄(げた)屋)、七兵衛サマ薬局など、個性あふれる名前を有する商店が多数あった。
 それらの中で食料品店のまるよしは、後に日用雑貨を幅広くそろえ、スーパーマーケット的な店構えで主婦層の人気を集めた。これにモリトミ食品店も倣い、小型スーパー的な存在となって買い物客に重宝された。
 横町の南に隣接する市ノ町は官庁街だが、戦後は銀座街と呼ばれた。町を南北に貫通する通りには銀座通り商店街が形
成された。その中で象徴的な存在が、1970(昭和45)年11月6日に開店した大黒デパート
である。地下1階に食品売り場、3階建ての最上階に大食堂やおもちゃ売り場を設け、女性や子どもの人気を集めた。74(昭和49)年には4階建てに増改築。銀座街のにぎわいに大きく貢献した。
 このほか市民に愛された店に、黒石市最初の喫茶店であるイチロクがあった。本店は山形町で宮地家が営む菓子屋の一六光月堂である。屋号の一六は、初代の主人が藩政時代にそば屋を営業。通常1杯8文を6文で売ったことに起因するという。その後、宮地正逸が菓子屋として献上名菓「一宮(ひとみや)」を生み出し、菓子業界で有名な存在となった。一宮は黒石市の土産物としても重宝された。
 市ノ町にあった支店のイチロクは、官庁街にあったことからサラリーマン層や女性客に親しまれた。菓子屋営業の喫茶店らしく、おしるこなども出していた。大黒デパートができてからはデパート内で営業を続けていた。 
 ▽甲徳兵衛町と乙徳兵衛町
 甲徳兵衛(こうとくべえ)町と乙徳兵衛(おつとくべえ)町と町名は類似するが、街の構造は大きく異なる。前者は黒石市最大の歓楽街で、横町との間に「よされ横丁」と称する長屋風の飲み屋街を有していた。後者は商店もあるが、黒石駅の南側に並ぶ寺院群を有し、小さな大字である寺小路を取り囲む住宅街である。
 甲徳兵衛町で一世を風靡(ふうび)したのが黒石劇場だ。1921(大正10)年に創業した映画館で、36(昭和11)年に全焼。翌年再建し戦後も隆盛を極めた。この他にも黒石市内には横町に東映劇場、上町(かんまち)に文化劇場、乙大工町に黒石館、市ノ町に黒石東映の映画館があった。
 しかしテレビの登場で映画は斜陽となり、黒石劇場は68(昭和43)年に閉館。跡地を青森市のカネ長武田デパートが買収し、翌年11月1日に黒石店として開店した。1階が食料雑貨、2階が衣料、3階が食堂と遊技場、4階がボウリング場(12月開館)だった。また、黒石市初のエスカレーターを導入するなど、斬新な企画で主婦層や若者の人気を集めた。開店時には大変な人出となり、黒石警察署員が交通整理を行ったという。
 ▽山形町と元町
 山形町を横断する道路は、藩政時代には山形村(現黒石市)の温湯や板留などの温泉郷へ通じることから山形街道と称された。近代以降、十和田湖への道が開削され、国道となってからは十和田通りとも称された。現在は県道だが、かつては黒石温泉郷から十和田湖へと通じる国道102号だった。
 このため山形町は黒石城下では元町と並び多くの人口を抱えていた。また銘酒「清の松」の宇野酒造、同じく「玉鶴」の黒石酒造など、大きな酒造会社が屋敷を構え、長いこみせが連なっていた。その様子は、かつての黒石城下の街並みを思わせる雰囲気だった。
 山形町と並び古くから開けていた元町は、かつては弘前市や藤崎町方面からの玄関口だった。このため元町には、小間物や化粧品などを売るマッコヤ商店や、平打ちの独特な麺を製造するやぶやなど、大小さまざまな商店が軒を並べていた。やぶやはうどんやそばの他に、「黒石やきそば」の麺を製造するなど、今も現役である。
 元町にも山形町と同様にこみせが存在する。中町ほどまとまってはいないが、今も随所に当時の趣を残している。特に銘酒「初駒」で知られた佐藤酒造の建物には立派なこみせがある。佐藤酒造自体は廃業したが、屋敷とこみせを修復して活用し、貴重な建築物を後世に残そうとNPO法人が活躍中である。
 ▽街の歴史と魅力
 1970年代半ば以降の都市計画で、黒石市の中心街周辺は道路整備が進み、新興の住宅街が造成された。自動車社会となり市民の生活や利便性は向上した。だが、昔日の街並みや景観が失われたのも事実である。
 近年、黒石城下を形成していた中心街の歴史ある街並みを生かそうと、さまざまな団体が各種の事業に取り組んでいる。中町の松の湯や元町の佐藤酒造など、旧家の屋敷を再活用する試みも、その一つだ。いずれも黒石市中心街の魅力が、歴史ある建築物や街並みにあると理解しての活動といえよう。
 街並みや景観の維持に取り組む側には、活動の継続が必要である。地元で生活する市民が理解を示すことも大切だ。双方の歩み寄りと協力が大事なのは言うまでもない。街はいろいろな人々が集まり、協力し合って形成されている。まずは街の歴史を知ってほしい。知れば魅力に気がつき、それが理解や協力、そして実践力を生み出すからである。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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黒石中心街の近代史=64

2017/2/20 月曜日

 

内町の金平成園=大正初期・中園裕所蔵
市ノ町にあった南津軽郡役所=大正初期・中園裕所蔵
上町通りと黒石銀行=大正初期・中園裕所蔵
前町通りの商家=大正初期・中園裕所蔵

 城下町の街並みは、藩政時代を中心に数多くの専門書や概説書があり、新聞や雑誌などで多数紹介されている。それに比べると、近代以降の歴史は紹介されることが少ない。太平洋戦争後の現代になればなおさらだ。
 しかし同じ城下町だった弘前市の場合、第8師団の置かれた「軍都」として、近代の歴史が相応に紹介されている。これに対し、近代以降の黒石市の街並みについては研究が少ない。そこで今回は、黒石市中心街の近代史を紹介したい。
 ▽内町
 内町には黒石藩の陣屋が置かれていた。陣屋のあった場所は現在の御幸(みゆき)公園と市民文化会館の周辺にあった。御幸公園は1900(明治33)年に皇太子嘉仁(よしひと)(後の大正天皇)の結婚を記念に造営された。当時は黒石公園と称されていたが、15(大正4)年の陸軍大演習で大正天皇の御野立所(おのだてしょ)とされた場所だった。このことが縁で御幸公園と命名され今日に至っている。
 このほか内町には黒石町(現黒石市)の実力者で、貴族院議院(多額納税議員)でもあった加藤宇兵衛の屋敷がある。加藤は自邸に「金平成園(かねひらなりえん)」と称する壮麗な庭園を築いた。前述の陸軍大演習では、加藤が大山巌元帥をはじめ陸軍の幹部たちを招待している。
 金平成園は戦後に料亭として使われたが、その後建物が老朽化し庭園も荒廃していた。近年、現在の所有者が市や関係者の協力を得て庭園を修復し、建物も建設当初の形に復元した。屋敷と庭園は季節の節目に臨時的に一般公開されている。黒石市の至宝ともいえる庭園の復旧に対して、所有者と関係者へ敬意を払いたい。
 ▽市ノ町
 市ノ町は内町の東側に位置し、南津軽郡役所や黒石町役場が置かれた。1923(大正12)年4月1日に郡制が廃止され、郡役所自体は26(大正15)年6月30日に廃庁となった。このため南津軽郡役所の隣にあった町役場が郡役所の建物に移った。
 戦後に黒石町が市制施行した後も、町役場の建物は引き続き市役所として使用された。望楼の隣にあった時報用のサイレンは、31(昭和6)年に取り付けられたもので、戦時中には空襲警報の役割を果たし、水害や火災の発生にも使用された。
 サイレンは午前5時、正午、午後5時、午後8時に鳴り響いた。戦後に市長を務めた高樋竹次郎が、サイレンをチャイムに変えようとした。だが多くの市民から、サイレンの方が耳に慣れ親しみ、遠方まで聞こえるとして反対された。そのサイレンも、68(昭和43)年12月に市役所が現在の建物へ移転新築された際にチャイムに切り替えられた。
 その後、旧市役所は黒石商工会議所が買収し、黒石商工会館として使用していた。だが老朽化のため解体され、83(昭和58)年に現在の黒石市産業会館が新築された。
 ▽上町
 上町と書いて「かんまち」と呼ぶ。町の中央を県道38号が走り、古くからの繁華街であり、商業活動の盛んな地だった。上町の商業を支えた象徴的な存在は、1897(明治30)年8月に加藤宇兵衛が設立し、10月に開業した黒石銀行だった。木造平屋建ての家屋が立ち並ぶ中で、鉄筋コンクリート製の二階建て洋風建築は大変目を引いた。
 黒石銀行は1919(大正8)年7月に第59銀行と合併し、同行の黒石支店となるが、頭取は創立時から合併時まで加藤が務めた。そして43(昭和18)年10月、第59銀行が青森銀行となって以来現在に至っている
 現在の青森銀行黒石支店は建物こそ新しく建設されたものだが、場所は黒石銀行創業以来常に変わらなかった。歴史ある場所に建っているわけだ。
 ▽中町
 中町と前町は藩政時代からの繁華街であり、それは近代以降も継続している。中町は別名「こみせ通り」と称されている木製のアーケードともいえる「こみせ」と、「前堰(まえぜき)」が並ぶ街並みは黒石町独特の風情だった。堰は田畑の灌漑(かんがい)や町内の防火が目的で、藩政時代に造られたものだという。
 こみせは他の地域にも存在するが、黒石町のものは規模が大きく現存するものが多い点に特徴がある。大正期までは、冬になるとこみせに木製の横戸が二枚合わせになった「連子(れんじ)(連子窓)」や、雪よけの横戸である「蔀(しとみ)」をはめた。連子の下の戸は板張りだが、上の戸は明かり取りのために紙を貼っていた。紙は古い大福帳や反故(ほご)紙を用いたという。
 中町には国の重要文化財となっている高橋家住宅、黒石市の老舗醸造店である鳴海醸造店や中村酒造などが、こみせのある家屋の代表格として観光客の目を引きつけている。そして、こみせの前には前堰が流れている。
 ▽前町
 前町は中町の南側に位置し、中町同様商家が多かった。大正初期の写真を見ると、左手前の商店は小間物雑貨商で、後にリンゴ移出業も営む「鳴海久蔵」である。店舗にはこみせがあり前堰も確認できる。
 電柱や電灯が見えるが、大正初期の段階で黒石町には電話番号が1番から50番まであった。ちなみに1番は前述した中町の鳴海醸造店だ。鳴海久蔵は17番、南津軽郡役所は21番、黒石警察署は22番だった。1912(大正元)年に開業した黒石停車場(黒石駅)は29番で、町の有力者だった加藤宇兵衛は4番だった。
 前町には大正時代から営業を続けている上原呉服店など、中町同様に老舗が多い。また改築改良こそ経ているが、こみせや前堰が今も残っており風情を残している。
 現在の黒石市中心街には、藩政時代の遺構が残され、近代以降の建築物や風情が数多く残されている。これこそ黒石市の歴史文化遺産として誇るべきものと思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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