津軽の街と風景

 

中泊の「大宅」宮越家=123

2019/11/18 月曜日

 

写真1 宮越家主屋=1912(大正元)年・中泊町博物館提供
写真2 宮越正治夫妻と安達謙蔵逓信大臣=1926(大正15)年・中泊町博物館提供
写真3 宮越家離れの庭園=2018(平成30)年・筆者撮影
写真4 涼み座敷ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供
写真5 円窓ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供

 ▽豪農から地主へ
 宮越(みやこし)家は中泊町尾別(おっぺつ)に所在する旧家である。先祖は加賀国(石川県)江沼(えぬま)郡宮(みや)ノ越(こし)の出身で、江戸時代前期、金木組尾別村(後の内潟(うちがた)村)に移住したと伝えられる。当主は代々七兵衛(しちべえ)を襲名し、庄屋を務めた。豪農として知られ、1833(天保4)年に弘前藩から200両の御用金を命じられたほか、70(明治3)年に弘前藩士の救済措置として実施された「余田買上げ(帰田法)」の際には、37町歩に及ぶ田畑を提供した。
 半ば強制的に土地を取り上げられたことにより、近世豪農の多くが家勢を削(そ)がれる中、宮越家においては中興の祖と謳(うた)われる8代目要三郎(ようざぶろう)を中心に立て直しを図り、以前にも増して興隆の時代を迎えることになる。
 例えば、97(明治30)年の地価換算に基づいた北津軽郡の大地主として1、2位だった五所川原村の佐々木喜太郎(ささききたろう)と嘉太郎(かたろう)(布嘉(ぬのか))、4位だった金木村の津嶋惣助(つしまそうすけ)(太宰治の曽祖父)らとともに、内潟村の宮越要三郎が8位に名を連ねている(『東奥日報』1897年4月15日)。
 要三郎の子正治(まさはる)の代も同様で、1924(大正13)年の津軽地方における100町歩以上地主一覧には、五所川原町の佐々木嘉太郎、金木町の津島文治(つしまぶんじ)(太宰治の兄)、黒石町の加藤宇兵衛(かとううへえ)(金平成園(かねひらなりえん)施主)らとともに、内潟村の宮越正治の名が見える(『青森県農地改革史』)。近代地主へと成長した宮越家の姿を垣間見ることができよう。
 ▽黒塀地主「宮越家」
 津軽地方の近代地主には、「黒塀(くろべい)地主」と「レンガ塀(べい)地主」の2類型がみられるという(工藤睦男「津軽地方における地主制の発達とその特色」『コローキアム太宰治論』)。前者は、近世以来の長い伝統と歴史を有するいわゆる「大宅(おおやけ)」で、一族や地域の精神的支柱である。
 後者は、商業・金融資本を基に急速に土地の集積を進め、自らの威容を誇るため、あるいは小作争議から身を守るために高いレンガ塀で屋敷を囲んだ新興地主である。レンガ塀地主の多くが、戦後の農地改革などを経て没落する一方、黒塀地主は、土地を失い黒塀が朽ちかけても、今なお隠然たる影響力を保持しているという。
 宮越家は、黒塀地主の典型といってよいであろう。黒塀を巡らせた外観もさることながら、地域と一体となって歩んできた歴史がそれを物語っている。例えば1739(元文4)年七兵衛は現在の神明宮(しんめいぐう)に寺子屋を開設し、飯米などの支給も行いながら村内の子弟に読み書きそろばんを習わせたとされる。
 1881(明治14)年に尾別小学校が開設される際は、要三郎が学校用地を無償で提供したほか、校舎新築費・学校運営費をはじめ、教員の給料まで助成した。その後も代々にわたって、校舎建設や備品購入に際して後援を行うなど、宮越家は、物心両面から地域教育を支え続けてきたのである。
 宮越家は芸術文化の良き理解者でもあった。9代目当主の正治は、漢詩に秀で「機山(きざん)」と号した。詩文も能(よ)くした書家の奥田抱生(おくだほうせい)に師事し、長勝寺(ちょうしょうじ)(弘前市)住職らとも漢詩を介した交友があった。夫人イハは、五所川原湊の名門、衆議院議員平山為之助(ひらやまためのすけ)の実妹である。女流歌人として知られ、「麗子(れいこ)」と号した。旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄(やとみはまお)に師事するとともに、他地域の歌人と交流して作歌の道を究(きわ)めた。
 ▽宮越家離れと庭園
 宮越家離れ「詩夢庵(しむあん)」は、1920(大正9)年に宮越正治が、イハの誕生日の贈り物として設計・建築した瀟洒(しょうしゃ)な木造平屋建て住宅である。比較的シンプルな外装と比べ、建具や調度は贅(ぜい)が凝らされている。襖(ふすま)絵は狩野山楽(かのうさんらく)や岩佐又兵衛(いわさまたべえ)(あるいは土佐光起(とさみつおき)とも)作画と伝えられるほか、床板・天井・欄間などにも高級な素材・技法が用いられている。
 中でも目を引くのが、わが国のステンドグラスのパイオニア、小川三知(おがわさんち)制作のステンドグラス作品群である。「涼(すず)み座敷(ざしき)」の窓を飾る大型作品にはアジサイとコブシ、「円窓(まるまど)」には十三湖を思わせる景観、「風呂」にはアヤメとカワヤナギ・カワセミが配される。
 これらの作品は、当時のデザイン潮流を意識しながらも、借景・障子・余白・植物・山水など「和」の意匠を巧みに取り入れ、技巧的なガラス技術の粋が盛り込まれており、三知の最高傑作として評価されている。
 庭園「静川園(せいせんえん)」は、26(大正15)年に逓信大臣安達謙蔵(あだちけんぞう)が訪問した名園としても知られる。「離れ」を囲むように、「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)庭園(明治頃)」「枯山水(かれさんすい)庭園(大正)」「池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園(大正)」の3時期3種類の庭園が確認され、古今の庭園を巧みに融合させながら形成された複合庭園と評価される。
 木彫が施された優美な建築物である「達磨堂(だるまどう)」は、池泉庭園の築山(つきやま)奥に位置する。長勝寺(弘前市)将来とされる「厨子(ずし)」および「達磨像(だるまぞう)」など、一級の美術品が安置されている。
 ▽保存整備と一般公開
 中泊町は宮越家の協力を得ながら、離れ・庭園の調査・保存整備を進めており、築100周年を迎える2020(令和2)年秋に限定公開を行う予定だ。大正浪漫(ろまん)溢(あふ)れる遺産との邂逅(かいこう)まで、今しばらくお待ちいただければ幸いである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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「軍都」から「学都」へ=122

2019/10/28 月曜日

 

写真1 野砲兵第8連隊の営門。今も第三中学校の正面南側に門柱が残っている=明治末期~大正初期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスで閲覧可能)
写真2 富野町時代の旧弘前市立図書館。門前に今では殆ど見かけられなくなった行商人の姿がある=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真3 文京歩道橋から見た桝形の交差点。右上に富野町時代の旧弘前市立図書館が見える=1980(昭和55)年・藤田本太郎さん撮影弘前の散歩みち北方新社、1996年より転載
写真4 騎兵第8連隊の覆馬場を使用していた生活協同組合コープあおもり松原店=2013(平成25)年9月22日・筆者撮影
写真5 覆馬場の煉瓦塀と説明板=2019(令和元)年9月28日・筆者撮影

 ▽師団通り
 土手町から弘前大学、松原方面へ向かう県道127号は、桝形(ますがた)を境に北側が富田大通り、南側が松原通りと称している。しかし、戦前までは師団通りとも呼ばれていた。沿道に第8師団の関係施設が並んでいたからである。
 戦前まで第8師団の関連施設が集中し、軍都と称されてきた弘前市は、敗戦を経て弘前大学を中心に多数の学校が集まる学都として生まれ変わった。師団司令部の敷地は弘前大学農学部(現農学生命科学部)となり、他の師団関係施設も学校の敷地となった。
 桝形の南東に柴田学園高等学校と弘前市立第三中学校が東西に並ぶ。両校の敷地には戦前まで野砲兵第8連隊があった。対岸に位置する弘前市立文京小学校の敷地には、陸軍倉庫と衛戌(えいじゅ)監獄があった。そこから少し南の県立弘前実業高等学校の敷地には、戦前まで歩兵第31連隊があった。桝形の南方に集中する学校施設は、軍都から学都となった弘前市の歴史を象徴する場所なのである。
 第3中学校正門の南側に「野砲兵第八聯隊之跡」と題する石碑がある。1968(昭和43)年に、明治100年と弘前市制施行80年を記念して連隊関係者が建立したものだ。石碑の後ろには連隊時代の営門が残っている。軍都時代を物語る貴重な遺構である。
 ▽旧弘前市立図書館
 弘前大学理工学部と向かい合うように弘前富田郵便局がある。かつて郵便局裏側の住宅街には旧弘前市立図書館の建物があった。06(明治39)年に堀江佐吉の設計と斎藤主(つかさ)らの資金によって、当時の東奥義塾構内(現在の追手門広場)に建てられたものだ。
 図書館は日露戦争の戦勝記念として弘前市に寄付された。31(昭和6)年、東奥義塾校舎の拡張に伴い民間に払い下げられ、富野町に移された。移転に伴い図書館ではなくなったので、建物が実質的に図書館として利用されたのはわずか25年間である。
 富野町に移った旧図書館は、歴代の所有者が下宿や喫茶店として利用してきた。大幅に改築されず、ほぼ原形をとどめ続けてきたことは、この建物が大切にされてきたことを物語っていよう。
 『富野町会史』は旧図書館に関する項目を設け、所有者の思いや記憶を掲載している。旧図書館は富野町に60年近く建っていた。図書館時代の倍以上の時間である。戦前までは畑や空き地の多かった富野町で、3階建ての西洋風建築は大変目立ったと思う。富野町会が建物に相当な敬意を払っていたことは、町会史の記述からうかがえる。
 90(平成2)年、弘前市制施行100周年の記念事業に際し、旧図書館は現在地へと移築復元された。それから30年近く経過したが、現時点で図書館時代を合わせても富野町時代の方が長い。今後、富野町時代の記録を掘り起こす必要があるだろう。
 ▽桝形と文京歩道橋
 桝形は藩政時代の歴史的遺構の一つだが、弘前市内で地名として残され、最も有名なのが弘前大学の南側に位置する富田の桝形である。東西南北へと向かうロータリー的な役割を担っており、交通の要所である。
 67(昭和42)年12月、桝形のすぐ南側の交差点沿いに、第三中学校と文京小学校をつなぐ形で横断歩道橋が設けられた。文京歩道橋と称され、弘前市で最初の歩道橋である。
 文京歩道橋は、青森市の浦町小学校前や八戸市の八戸小学校前に設置された歩道橋と並び、県内では最も早い段階で設置された歩道橋の一つだった。ちなみに浦町小学校前の歩道橋は撤去されて今はない。八戸小学校前の歩道橋は「すずかけのはし」と称され現役だが、小学校自体は移転している。
 ▽遺構の維持活用
 実業高校の南側にも、かつて第8師団の施設があった。現在の生活協同組合コープあおもり松原店の場所にあった騎兵第8連隊である。ここには連隊時代の貴重な建物だった覆馬場(おおいばば)が最近まで残っていた。軍馬の訓練や乗馬の練習のために使われた施設で、煉瓦(れんが)塀の重厚な建物だった。
 建物は生協の松原店が実際に店舗として使用していたが、建築から100年以上が経過。老朽化のために2016(平成28)年に解体された。軍都時代の面影を残す建物が消えたことは非常に残念だが、老朽化した建物の維持には莫大(ばくだい)な費用がかかる。安全面の配慮も必要だ。個人資産の場合、権利関係などで非常に難しい問題も生じてくる。
 それでも生協と有志の協力により、煉瓦塀の一部が説明板と共に敷地内に保存された。看板には覆馬場時代の写真も掲載され、往時をしのぶことができる。新築された生協の松原店も、建物の外壁を煉瓦塀の色にするなど、貴重な遺構に相応の配慮をしている。
 文化財や歴史的遺構を残すには相応の費用と人員が必要である。限られた予算と人員の中でできることには、おのずと制限がある。歴史的遺構の維持や活用には、行政の関与だけでなく、関係者や地域住民の配慮と協力、そして互いに歩み寄る姿勢が求められよう。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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津軽藩特産のウルシ=121

2019/10/14 月曜日

 

写真1 現西目屋村で漆守を務めた三上家の漆木実数書上帳。1806(文化3)年のウルシ栽培奨励策を受けて作成されたもの(県史編さん収集文書)
写真2 現在の弘前市大沢周辺の漆山絵図。山や川沿いに植えたウルシの本数、自生する本数など書き上げている。幕末期の絵図の写し(県史編さん収集文書)
写真3 本郷村(現青森市浪岡)で漆守を勤めた鎌田家の屋敷。同家は1806(文化3)年に任命された漆守の一人で苗字帯刀、郷士格を許された(明治末期・弘前市石場旅館提供)
写真4 中南地域県民局で実施したウルシ掻き体験ツアーの様子。弘前市岩木地区の弘前市有ウルシ林にて(弘前市教育委員会提供)

 津軽地方の丘陵地帯にはリンゴ畑が広がる。リンゴが導入されたのは明治以降のことであるが、それ以前、弘前藩の数少ない特産物として丘陵などに植え付けが奨励されたのはウルシだった(漆の木はウルシ、樹液は漆と表記する)。
 ▽藩政初期からウルシを栽培
 漆は江戸時代には武具や馬具、あるいは寺社など建築の塗料として利用され、ウルシの実はろうそくの原料となった。藩政初期から盛んに栽培され、寛永年間(1624~)に上方の技術を導入したウルシ栽培が始まったという。
 「漆新田」「漆かき新田」と呼ばれる、ウルシの増殖に伴う移住者の集落も各地に造られた。このような漆新田は、貞享検地(84~87)の頃には、93カ村・766軒に及び、藩内のウルシの総数は32万7158本に達した。
 分布としては横内組(現青森市)、大鰐組(現大鰐町など)、駒越組(現弘前市)など比較的面積が広い山間部に多く、岩木川・平川流域の水田地方には栽培が少ない。後に津軽塗と呼ばれるようになる唐塗りの技術が若狭から導入されたのもこの頃だった。
 ▽漆守制度の導入
 18世紀後半になると天明の飢饉(ききん)の影響もあり、ウルシの栽培は低調になった。1805(文化2)年には藩内のウルシの総数は20万1000本に減少している。そこで藩は飢饉にも強い商品作物としてウルシに目を付け、生産体制と集荷体制の強化を図った。
 領内にウルシ栽培のための農書「漆木家伝書」を配布し、06(文化3)年には漆守制度を導入し、領内の豪農100人に「漆守」として1人あたり3万本のウルシ栽培を請け負わせ、合計で300万本の増殖を図ろうとした。江戸時代、ウルシ栽培の先進地だった会津藩でも最盛期(18世紀中頃)で180万本だったというから、相当な数である。
 漆守にはウルシの個人所有を認め、樹液のうち藩に2割を上納、残りは藩が買い上げることにし、本数に比例して漆生産の利潤が本人のものになる仕組みだった。また栽培経費の見返りとして、免税地も与えられた。このような努力の結果、18(文政元年)には、ウルシは148万本までに増加している。
 一方、地元の掻子(かきこ)(漆掻き職人)の育成も図られた。12(文化9)年には藩士を会津や上方方面に派遣し、技術指導のため掻子の招聘(しょうへい)や道具の購入などをさせている。その後も越後や庄内などから掻子を雇用する体制が続いたが、地域によっては、育成した地域の掻子が活躍した。また、中央市場への漆の販路拡大を目指して、文化年間(04~18)には三都の市場調査が行われ、試験的な販売が行われている。
 ▽ウルシ栽培の試行錯誤
 ウルシは一般的な農作物と違い、生育して樹液が採れるようになるまで10~15年はかかる。加えて、藩による買い上げ価格が安かったため、漆守たちの生産意欲は決して高いとは言えなかった。
 藩が目標とした他領への販売も順調にいかなかった。西国では蝋(ろう)の原料として漆に代わって安価な櫨蝋(はぜろう)の需要が増しており、会津藩や米沢藩といった古くから漆を特産としていた諸藩でも苦戦を強いられていた。
 中央の市場から遠い弘前藩は販路拡大が難しかった。漆守からの買い入れ価格が安いのも、他領に販売する上ではやむを得なかったが、負担増による豪農層の抵抗を招くことになった。
 さらに追い打ちを掛けたのが天保の飢饉(32~38)である。米も採れない状況では漆守たちもウルシを顧みる余裕はなく、さらに飢饉で食糧に事欠いた農民が山を荒らし、多くのウルシが枯死した。
 52(嘉永5)年の藩の調査では、漆山を勝手に杉山や畑に転換した事例や、書面上だけで場所不明になった事例などが上げられていた。漆を他藩に販売するどころか、逆に他藩から購入しなければならない事態になっていた。
 ▽幕末期に再度の奨励策
 藩はこれに懲りず50(嘉永3年)には、ウルシの900万本増殖計画というさらに遠大な計画を打ち出した。これに伴い、制度的改革が行われた。漆守は漆役と改称。世襲制度を廃止して相続の際は査定が行われることになった。
 漆役を統括する役職として「漆大仕立」が設けられ、中層農民についても「漆小仕立」という漆役の見習的役を設けてウルシを栽培させるなど、きめ細かい改革がなされた。植え付け数を増加させるため、荒畑など生産力が極めて低い畑や、河原、あぜ道など有効活用されていなかった土地にも積極的に植えるよう指示されている。
 300万本でさえ膨大な数であるが、900万本増殖計画がどれだけ現実性があったか不明であるが、少なくとも各代官所に報告される数字は確実に増えている。例えば、赤石組(現鯵ケ沢町)の場合、18(文政元)年に5万8000本余だったウルシが、61(文久元)年には146万2000本に達している(『鯵ケ沢町史』2)。
 しかし、この数値には相当数の苗木や幼木が含まれていると思われる。実際に樹液や実を採取できる成木は一握りだっただろう。
 ウルシが十分に生育する前に明治維新を迎えた。維新後も弘前藩は引き続きウルシを楮(こうぞ)や桑と並んで生産を奨励すべき樹木の一つに掲げているが、一方では漆役の栽培の不徹底さを指摘しており、ウルシ栽培を巡る藩と農民の認識の違いは廃藩まで続いた。
 ▽その後のウルシ栽培
 明治期には安価な外国産の漆が輸入されるようになり、藩からの奨励もなくなったウルシ栽培は急速に衰退していった。漆役たちがウルシを植え付けた漆山(藩政時代は私有地同様に扱うのが認められていた)は地租改正の結果、多くが官有地に編入された。
 旧浪岡町で漆役を勤めた鎌田家は、1904(明治37年)に旧漆山の下げ戻しに成功した。しかし、かつて3万本のウルシを植え付けた山は、200本あまりに減少していた。
 現在、国産の漆の占める割合は3%足らずである(「漆の國浄法寺」ホームページ)。津軽塗を特産とする本県津軽地方でもウルシはほとんど栽培されていなかった。しかし、近年、県の中南地域県民局では漆の安定供給に向けた「うるしの森づくり」の推進に取り組んでいる。また、今年の11月15~17日には弘前市で「漆サミット」が開かれる予定である。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹 中野渡一耕)

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伝統の清水森ナンバ=120

2019/9/30 月曜日

 

写真1 『和漢三才図会』の蕃椒の項目。みそにあえると食欲増進効果があるなど、その効用は古くから知られていた=国立国会図書館デジタルコレクション
写真2 1955(昭和30)年に秋田県能代で撮影された清水森のトウガラシ商人=在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会提供
現在も栽培される「清水森ナンバ」=在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会提供

 在来作物とは、ある地域で古くから世代を超えて栽培者によって種苗の保存が行われてきた野菜や穀類などの作物を指す。特定の地域で連綿と作り続けられ保存された品種は「生きた文化財」と称されることもある。本県では、八戸の糠塚きゅうりや津軽の清水森ナンバが代表格とされてきた。
 ▽清水森村について
 清水森村(現弘前市清水森)は、弘前城下の東南にあり、北は門外(かどけ)村、南は松木平村、東は堀越村、西は原ケ平村、北西は大清水村に続く立地で、村の北を大和沢川が北東流している。清水森の地名は、大鰐山地の西股(にしまた)山付近に源を発する大和沢川の伏流水が湧き水となって現れる地点が多いことによるといい、地元ではこの清水を「シツコ」と呼ぶ。
 清水森の地名の初出は1601(慶長6)年である。弘前藩の藩祖津軽為信が清水森に須弥壇(しゅみだん)を設け、津軽統一のために戦死した敵味方の戦死者のため大法会を執行。妙典千部という衆生(しゅうじょう)を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典「大乗妙典」を1000回も独誦(どくしょう)したとの記録がある(「津軽一統志」など)。
 清水森村の江戸時代初めの村高は410石余りだった(「津軽知行高之帳」)。時代は下って、清水森は1889(明治22)年に千年村の大字となり、1955(昭和30)年からは弘前市の大字となる。
 ▽トウガラシの日本伝来
 トウガラシが日本に伝わったのは、それほど古いことではなく、慶長年間にたばこと同時に南蛮から伝わったともいう(『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』写真1)。興福寺の塔頭(たっちゅう)、多聞院住職の日誌『多聞院日記』の1593(文禄2)年の記事には「コセウ(胡椒)」の種が尊識房から来て、これは茄子(なす)の種に似ており、辛きことは無類であると記されている。とは言っても、初期は食用というよりも観賞用などの目的で栽培されたものらしい。
 「唐辛子」の漢字は「唐」つまり外国から伝わった「辛子」の意味と考えられる。同様に「南蛮(なんばん)辛子」、それを略した「南蛮」という呼び方もあり、清水森ナンバの「ナンバ」はこの「南蛮」が語源であろう。
 1879(明治12)年の記録では、清水森の物産は「米・大豆・蕃椒(ばんしょう)」とされている(「共武年表」)。前述の『和漢三才図会』にも「蕃椒」に「たうからし」とふりがなが振られており、これは「南蛮胡椒」の略語から発している。これも外国から来た胡椒という意味であり、この場合の胡椒はトウガラシを指している。
 京都では伏見がトウガラシの産地となった。山城国(現京都府南部)の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』にもトウガラシについて「山城国、伏見辺りで作られたものが有名」と記されている。現在も伏見は、京都の在来野菜である京野菜ブランドの「伏見甘(ふしみあま)」と呼ばれる、実長が長く辛みのないトウガラシの産地である。
 ▽津軽為信とトウガラシ
 1600(慶長5)年の関ケ原の戦い以降、徳川政権の新たな支配秩序がもたらされると、翌年から、為信とその子である信建(のぶたけ)・信枚(のぶひら)の3人は上方で活動を展開し、公家勢力に接近し、伏見で徳川家康に拝謁(はいえつ)している(「時慶卿記(ときよしきょうき)」「三藐院記(さんみゃくいんき)」など)。特に為信は、国元の津軽と上方を何度も往復した。諸大名は自らの生き残りをかけ必死だった(長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」〈同編『津軽藩の基礎的研究』所収〉)。
 古くからの「清水森ナンバ」生産者の間には、この上方行きで為信がトウガラシの種を持ち帰ったという言い伝えがある(『清水森の歴史』)。このトウガラシは、形状や果実の付き方(下向きに着果する)などは伏見甘長など伏見群のトウガラシと類似しており、弘前大学の前田智雄氏らの研究で遺伝子的にも伏見系の品種と近いことが確認されており、故嵯峨紘一氏により「弘前在来トウガラシ」と命名された。
 ▽津軽伝統トウガラシ「清水森ナンバ」
 津軽地方、特に現在の弘前市周辺は江戸時代からトウガラシの栽培が盛んに行われていたといい、収穫されたトウガラシは香辛料だけでなく薬用や防寒用として県外まで広く行商などにより出回っていた(写真2)
 明治から昭和の初期にかけて清水森の特産品としてトウガラシが重きをなしていたのは、その粉はひと背負いで1カ月も商売できるという商品価値の高さにあった。粉売りは大正末期から戦前にかけても、津軽半島から上磯方面、三陸方面など、魚介を扱う沿岸を中心に行商へ行ったものだった。
 辛みが少ないとはいえ、トウガラシを粉にする作業は過酷で、トウガラシのエキスが家中に飛び散り、家内では地獄を見たようだ。後述の中村氏によれば「清水森へは嫁にやるな」と言われて、その過酷さが近隣にまで伝わっていた。
 昭和40年代ごろまでは清水森地区をはじめ、弘前市の周辺で数十ヘクタールのトウガラシ畑があり、全国でも有数の産地だった。そのような中で、清水森ナンバは、地元の年配者にとっては懐かしい味で、津軽に根付いた食文化の一つと言えよう。
 しかし、昭和40年代に海外から価格の安いトウガラシが多く輸入されるようになった。清水森ナンバの生産、販売は縮小の一途をたどり、2003(平成15)年ごろには清水森の吉川兼作氏ただ一戸のみとなった。
 ▽「清水森ナンバ」のこれから
 1997(平成9)年に故嵯峨紘一氏が、その高い栄養性を地域の勉強会で講演したことがきっかけとなり、地元伝統の味を守ろうと2004(平成16)年に地元関係者や学識経験者などの産学官連携による在来津軽「清水森ナンバ」ブランド確立研究会(事務局=青森県特産品センター)が発足した。2008(平成20)年には弘前市の津軽遺産認定実行委員会が決定する「津軽遺産」の一つに認定された。
 同研究会会長の中村元彦氏によれば、清水森ナンバは交雑を避けて品種を保存するために、弘前大学が一括して種を管理しており、土壌調査や土作りなどが丹念に行われている。生産地域も指定され、会員以外の栽培はできない。
 現在では「清水森ナンバ」の商品名で、伝統の一升漬(三升漬)だけでなく、グリーンカレーやソフトクリームなどさまざまな加工品が登場している。
(花巻市博物館学芸員・弘前大学非常勤講師 小田桐睦弥)

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十三湊の歴史と遺産=119

2019/9/16 月曜日

 

写真1 福島城と十三湊=2006(平成18)年9月21日・五所川原市教育委員会提供
写真2(上)・3(下) 山王坊歌舞伎舞踊公演=2012年・筆者撮影
写真4(上)・5(下) 山王坊日吉神社の抜穂祭=2018年・筆者撮影

 ▽十三湊の発掘調査
 十三湊を支配したとされる安藤氏に関する研究は膨大な量に及ぶ。しかし同時代の資料が極めて少ないため、後世の編さん物や伝承に基づいた研究が多く、長らく青森県中世史の多くの部分が謎に包まれたままだった。
 1991(平成3)年、国立歴史民俗博物館による十三湊解明の本格的な学術発掘調査が始まった。2004(平成16)年までに159地点に及ぶ十三湊全域の発掘調査が行われ、十三湊の全体像や変遷を把握することができるようになった。
 調査当初は津波伝承もあり遺跡が消滅、またはほとんど残っていないとさえ言われていた。しかし、畑を区画する地割が一部で中世までさかのぼり、中世の大土塁跡が残っていることや、ほとんど手付かずの状態で遺跡が地下に残されていることが明らかになった。
 こうして十三湊の遺跡は、中世港湾都市の全体像が描ける唯一の遺跡として注目されるようになった。十三湊の解明が、日本列島における北方中世交易史を解明する上で極めて重要な意味を持つことが明らかとなり、2005(平成17)年7月に国史跡に指定された。
 ▽進む安藤氏研究
 十三湖北岸にある安藤氏関連の遺跡調査として05~09(平成17~21)年に福島城跡、06~09(平成18~21)年に山王坊遺跡の発掘調査が進められた。これによって湊町、城館、宗教施設といった中世都市の全容が発掘調査によって明らかとなってきた。
 これに並行して1996(平成8)年から始まった県史編さん事業によって、中世文書の再検討が進められ、安藤氏研究も飛躍的に進んだ。1322(元亨2)年から1328(嘉暦3)年にかけて「津軽大乱」と呼ばれる安藤氏一族の争いが起きた。安藤季久(すえひさ)(のち宗季(むねすえ))と当時総領家だった季長(すえなが)が蝦夷沙汰代官職を巡って、前者が外浜内真部(うちまっぺ)、後者が西浜折曾関(おりそのせき)に拠点を構えて争いを起こし、鎌倉幕府滅亡の要因になったとされる。
 これにより、蝦夷沙汰代官職を持つ安藤氏総領家が交代するとともに、外浜から西浜のある十三湊へ港湾拠点が移ることになったという。発掘調査では、この時期に港湾都市として発展する様子が明らかとなり、文献史学の研究成果と符合することが分かってきた。
 安藤氏は、先祖を前九年の役で朝廷側の源頼義(よりよし)と戦った安部貞任(さだとう)の末裔(まつえい)であるとして、「安倍」を本姓としている。自らを蝦夷のリーダーであると表明し、北方世界を支配する正当性を強調している特異な豪族だった。
 『保暦間記』には、安藤五郎が北条義時の代官として「東夷ノ堅メ」のために津軽に置かれたとされ(蝦夷沙汰代官)、鎌倉時代初めには既に安藤氏の存在がうかがえる。安藤氏はもともと関東の御家人ではなく、津軽海峡を挟んだ北の海で活躍する交易・海民集団と呼べる在地豪族だった。
 ▽中世史研究の進展
 鎌倉時代末期の「津軽大乱」以降、北方交易の拠点として繁栄を極めた十三湊には、外浜から移ってきた新たな安藤氏総領家が支配した。安藤氏の確かな系図を示したものに紀伊国の熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)に伝わる「陸奥国下国殿代々名法日記(むつのくにしものくにどのだいだいみょうほうにっき)」(『米良(めら)文書』)がある。同社の檀那(だんな)だった安藤氏の親子五代にわたる系図を書き留めたものが残されている。それによれば安藤宗季(むねすえ)(季久)―師季(もろすえ)(高季)―法季(のりすえ)―盛季(もりすえ)―泰季(やすすえ)(康季)とあり、下国殿(しものくにどの)と呼称する十三湊安藤氏嫡流が記されている。
 特に盛季・泰季(やすすえ)(康季)が十三湊全盛期とされ、泰季(やすすえ)(康季)は後花園天皇から命じられて福井県小浜の名刹(めいさつ)、羽賀寺本堂を再建し「日之本(ひのもと)将軍」の異名で呼ばれるなど、一目置かれる存在だった。
 また、十三湊安藤氏は室町幕府から「下国屋形」と呼ばれた。守護大名並みの将軍直属御家人となる「京都御扶持衆」の身分を与えられ、室町幕府を支える存在として蝦夷地支配の責任者に取り立てられるのだった。
 四半世紀に及ぶ考古学と文献史学の研究によって、謎のベールに包まれた十三湊や安藤氏の歴史が明らかになってきた。本県の中世史研究が大きく進展したと言えるだろう。その成果は2018(平成30)年刊行の『青森県史通史編1』の第九章「室町・戦国の北奥世界」に詳しく述べられている。中世史に興味、関心がある方はご覧いただきたい。
 ▽歴史遺産を生かす
 歴史研究の進展によって、付加価値が高まってきた十三湖一帯の十三湊安藤氏関連遺跡群であるが、残念ながら平成の市町村合併以降、これらの歴史遺産が地域に十分に生かされていない。
 しかし近年、地域住民の有志がこうした地域に残る歴史遺産を生かした取り組みを行い、地域の誇りを取り戻しつつ地域活性化につなげる取り組みが始まっている。十三湖のある五所川原市市浦地域を愛着の持てる地域にしたいという思いである。
 衰退する地域の地域活性化に取り組む団体(なんでもかだるべし~うら)が、2012(平成24)年10月に、山王坊遺跡において発掘調査で見つかった神社の舞殿跡に舞台をしつらえ、日本舞踊家・立花寶山氏による歌舞伎舞踊公演会を行った。公演には大勢の観客が山王坊遺跡に詰めかけ、中世に繁栄した頃に思いをはせ、その舞踊を堪能することができた。この公演を通じて、改めて市浦の良さや魅力を再認識することができた。
 これをきっかけに、日吉神社宮司の呼びかけで地元有志による実行委員が組織された。2016(平成28)年から、新たな伝統文化を創造する津軽豊年祭(春の御田植祭、秋の抜穂祭)が開催され、現在も続いている。
 祭り行事を通じて、自然に親しみながら地域住民の交流を深める場ができつつある。歴史遺産が持つ魅力を地域の誇りとし、次世代を担う子供たちが愛着の持てる地域となる取り組みにつながっている。ちなみに今年は今月21日(土)に午後1時半から山王坊日吉神社で抜穂祭が行われる。ぜひ訪ねてほしい。
(五所川原市教育委員会社会教育課文化係 主幹・係長 榊原滋高)

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