津軽の街と風景

 

米戦艦機による空襲=115

2019/7/8 月曜日

 

図1 1945(昭和20)年7月14、15日の米海軍38機動部隊の攻撃目標=『空襲通信』19号の工藤洋三論文に基づき筆者作成
図2 7月14、15日の空襲による県内の人的被害(警察署別)=『青森県警察史 下巻』より筆者作成
航空母艦「エセックス」最新鋭の空母で90~100機の艦載機を登載する。第38・3任務群の主力艦
改装前の陸奥森田駅舎。1924(大正13)年、五能線五所川原|陸奥森田間開業により建築。2016(平成28)年に改装されたが、〝空襲の証人〟は健在=2014(平成26)年6月26日、中園裕撮影
表 空母「エセックス」艦載機の参加機数と攻撃目標=『戦闘報告書』より筆者作成

 ▽北海道・北日本空襲
 1945(昭和20)年7月14、15日の2日間、アメリカ海軍機動部隊の艦載機が津軽海峡、陸奥湾を襲った。目標は青函連絡船。2日間の銃爆撃(空襲)で飛鸞(ひらん)丸・第二青函丸など8隻が沈没、大破炎上2隻、大破2隻、計12隻が被害を受けて使用不能となり、連絡船は壊滅した。
 人的被害は死者411人(うち乗客52人)、負傷者72人だった。連絡船への空襲は、北海道道南・道東、東北地方の鉄道結節点、軍事施設、青函航路、釜石、室蘭の製鉄施設を攻撃目標とした大規模な空襲の一環だった(図1を参照)。
 空襲にはグラマンF6F艦上戦闘機、ヴォートF4U戦闘機、カーチスSB2C急降下爆撃機、グラマンTBM雷撃機など約千機の艦上機が使われた。
 ▽第38機動部隊の北上
 これらの艦載機は米海軍第3艦隊第38機動部隊の航空母艦(空母)の所属だ。第3艦隊は7月1日、フィリピン群島のレイテ湾を出動。与えられた任務は日本艦隊の残存艦艇と日本航空兵力を撃滅し、併せて戦争継続に寄与する施設や基地を破壊する。それによって日本本土進攻作戦を容易にすることだった。
 第38機動部隊は空母9隻、軽空母6隻、戦艦9隻、その他の戦闘艦を加えると105隻の大艦隊で、第38・1、3、4の3個任務群で構成される。機動部隊は11、12日に関東地方の航空基地と飛行機に大規模な空襲を行い、さらに北上した。北海道・東北空襲は関東地方空襲に引き続き13日から実施する予定だったが、悪天候により14日に延期された。
 14日、尻屋崎南東110浬(かいり)(198キロメートル)の発進海域に到達した空母から発進した第38・3任務群の攻撃目標は、東北北部の飛行場と船舶、港湾施設だった。青森県内で攻撃目標となったのは青函連絡船、大湊・三沢の海軍施設、八戸飛行場、青森・八戸の港湾・船舶・鉄道施設などだ。
 ▽青函連絡船は日本の生命線
 米軍が交通機関に本格的な攻撃を行ったのは、青函連絡船空襲が初めてだ。日本の工業と交通を支えていたのは北海道の石炭だ。東京圏に石炭が届かないと、日本の軍需生産や国民生活は壊滅的な打撃を受ける。発電所、鉄道、そして工場の稼働に必要な燃料が石炭で賄われていたからだ。
 石炭は室蘭港や小樽港などから貨物船で工場地帯に運ばれていた。戦況が不利になると、貨物船は海外航路に転用された。石炭は青函航路を経由する鉄道輸送に転換、多数の機帆船も動員された。
 14、15日の空襲では連絡船を除いても、全被災地合計で500トン以上の船舶46隻(11万トン)と機帆船150隻が撃沈または大破した。北海道炭の毎月の輸送力10万トンを失い、関東・信越地方の石炭供給量は半減。日本政府中枢には大きな衝撃が走った。
 ▽民間人に多数の犠牲者
 図2は本県の人的被害を表したものだ。図1に示した目標にない地域に被害が及んでいる。沿岸部の被害は軍事施設や艦船を狙ったものともいえるが、金木・木造などの内陸部はもともと攻撃目標ではない。金木町朝日町では、F6Fの銃爆撃で24歳の男性と7歳の少女が死亡した。近くには軍事施設も工場もない。
 鉄道では動く機関車、列車が狙われた。大湊線下北駅では列車の乗客1人が死亡、14人が負傷した。東北本線の向山駅などでも被害があった。
 ▽列車銃爆撃は交通破壊か
 15日朝、五能線陸奥森田駅(つがる市)に進入中の弘前発東能代行きの上り列車が艦載機の機銃掃射を受け、乗客3人が死亡、乗客多数と職員2人が負傷した(国鉄資料)。実は列車に対する攻撃は計画的な交通網の破壊ではない。非戦闘員を狙った戦争遂行に何の関係もない攻撃だ。
 青函連絡船への銃爆撃は米軍が初めて行った日本の交通に対する攻撃だったが、この段階でも鉄道に対する本格的な攻撃は計画されていない。鉄道をまひさせるなら、大規模な線路爆破や鉄橋の破壊が効果的だ。
 実際には鉄道施設や線路の被害は空襲当日中に復旧・開通する程度のものだった。橋梁(きょうりょう)・橋脚はほぼ無傷だった。しかも陸奥森田駅はローカル線の小駅で、軍事的には意味はない。北海道炭の輸送に打撃を与えるならば、奥羽本線や東北本線の橋梁を破壊するのが効果的だ。
 ▽臨機目標という名の蛮行
 津軽半島内陸部での銃爆撃は米軍の戦闘報告書には記載がない。乗員は、主目標の攻撃ができない場合「臨機目標」の攻撃を許されていた。F6Fなどの艦上戦闘機は敵の防空勢力を破壊し、爆撃機・攻撃機の護衛と銃爆撃を行う軍用機だ。日本軍の対空戦闘が弱体で目標が見当たらず、戦闘機は搭乗員の判断で戦闘行動を行えたのだ。
 戦闘機による非戦闘員(民間人)への機銃掃射などの殺傷、軍事目標よりも戦意喪失を狙ったB―29戦略爆撃機による無差別都市爆撃、それらが空襲の現実だった。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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「昆布羊羹」と高松堂=114

2019/6/24 月曜日

 

写真1 三厩村の海岸と高松に贈られた連句。一番左は、昆布羊羹が伏見宮の御用品となったお祝いで詠まれたもの
写真2 高松藤吉像
写真3 高松堂の外観。
写真4 高松堂の看板。看板の右下には「昆布翁」とある
写真5 田中芳男の「席書」
いずれも「青森名産昆布海苔製菓子受賞一覧表」(1907(明治40)年頃・青森県所蔵県史編さん資料)

 ▽名菓「昆布羊羹」
 昆布羊羹(ようかん)は近代の青森県当局が認めた県の「名菓」である。青森市大町(現本町)の菓子屋である高松堂の高松藤吉によって創製されたが、今も青森市内の甘精堂をはじめ複数の菓子屋で製造され、青森県の名菓として扱われている(中園美穂「地域の名菓を探る」)。
 県当局が昆布羊羹を「名菓」としたのは、昆布羊羹が当時の博覧会や共進会などで優秀な賞を得たからだ。しかし菓子職人だった高松自体が、昆布羊羹や自家製の菓子を内外に積極的に宣伝していた側面に注意する必要があろう。
 高松が各方面へ配布したと思われる「青森名産昆布海苔(のり)製菓子受賞一覧表」(青森県所蔵県史編さん資料)がある。今日風に言えば高松堂の宣伝広告である(以下「広告」と略記)。大判の広告であるため全面を掲載できないが、高松の宣伝の巧みさが分かる部分を拡大して紹介したい。
 ▽菓子昆布と高松藤吉
 「広告」は高松堂にとって重要な昆布・海苔製菓子の受賞一覧表や製菓の歴史、そして挿画から成り立っている。店の主力製品である昆布羊羹は、1889(明治22)年から販売された。
 93(明治26)年に昆布を細線とし甘味を加えた「合浦浪の花」、翌年には昆布を煉製して甘味を加えた「翁昆布」と、昆布に飴を和して精製した「合浦昆布飴」、昆布に甘味を加え巻いて辻占(つじうら)をこめた「辻占昆布」が販売された。いずれも材料が「菓子昆布」と称される東津軽郡三厩村(現外ケ浜町)産の昆布であるため、「広告」には村の海岸風景が紹介されている=写真1=。
 昆布製の菓子が全国規模の博覧会などで入賞し始めたのは、94(明治27)年の第5回大日本水産品評会からだろう。このとき翁昆布が褒状を受賞している。95(明治28)年に京都府で開催された第4回内国勧業博覧会では、昆布羊羹・合浦浪の花・翁昆布・合浦昆布飴・辻占昆布が出品され、昆布羊羹が褒状を受賞した。
 博覧会の奉迎送に参列した高松は、その際に記念撮影された自分の姿を模写させ「広告」に掲載した=写真2=。菓子職人の顔を掲載した広告は、当時としては珍しく、他に類を見ないものである。
 ▽昆布翁と貴顕御用品
 翁昆布や昆布羊羹の受賞以外にも、高松堂は菓子屋として名声を得る機会に恵まれた。93(明治26)年、昆布羊羹が伏見宮と京都瑞龍寺村雲尼の御用品に選ばれた。翌年、昆布羊羹と昆布製菓子が旧弘前藩主である津軽伯爵の御用品に選ばれた。95(明治28)年には昆布羊羹・翁昆布・合浦昆布飴が宮内省御用品となった。こうした一連の栄誉から、店の看板は「宮内省御用品 青森名産 元祖昆布羊羹 本舗高松堂」と掲げられるようになった。
 95(明治28)年5月、高松は大日本水産会幹事長の村田保から「昆布翁」の称号を贈られた。しかし、高松が自ら昆布翁と名乗り、称号を宣伝材料として活用し始めたのは、昆布羊羹の発売10年記念とされた98(明治31)年からだった。
 昆布翁という称号が積極的に活用されることで、昆布翁は高松の代名詞となった。昆布羊羹や昆布製菓子の知名度向上にも貢献しただろう。事実、昆布羊羹は嘉仁皇太子(のち大正天皇)の御用品になり、高松堂と皇族や宮内省をはじめ貴顕(きけん)紳士との関わりは深まった。店の看板も「貴顕御用品 青森名産 元祖昆布翁 昆布羊羹 本舗高松堂」と掲げられるようになった=写真3・4=。
 ▽水産業界と菓子業界
 高松が製造する昆布製や海苔製の菓子は、水産物の一つでもあった。97(明治30)年に兵庫県神戸市で開催の第2回水産博覧会に出品された昆布羊羹と海苔製の菓子である「陸奥の花」が有功3等を受賞し、昆布羊羹と翁昆布が宮内省特別御用品に選ばれた。
 このとき高松は大日本水産会幹事長の田中芳男に席書を贈られた。高松が創製した昆布羊羹は、世間から「奇物雑品」とされながら、改良を重ね本物の昆布羊羹を作り上げたことに対する賛辞である=写真5=。
 高松は、こうした席書などを格好の広告材料として活用し「広告」に掲載した。菓子業界だけでなく、水産業界からも称賛された菓子であることを宣伝したのである。貴顕紳士や文人などから詩文や俳句、雅文が多く贈られたが、高松はそれらも「広告」に記載した。
 博覧会などで優秀な賞を獲得した経歴と、各業界の著名人や有力者からの「お墨付き」が「広告」に掲載されることで、高松自身と高松堂の菓子の知名度が高まったのは想像に難くないだろう。
 ▽高松堂の沿革史
 1903(明治36)年、大阪府で開催された第5回内国勧業博覧会に、高松は昆布羊羹を含め計8点の菓子を出品した。しかし、菓子の審査側が昆布製の菓子を認めない方針を取ったため、評価されなかった。
 彼の製菓技術を高く買っていた審査側は、昆布ではなく、例えば果実を応用した菓子を作れるだろうと期待した。高松は見事その期待に応え、果実製の羊羹である「高松羊羹」を04(明治37)年に発売した。
 高松が作成した一連の広告は、菓子が博覧会や共進会で受賞し、宮内省や皇族の御買上品に選ばれるたびに更新され、記載内容が増加する傾向にある。それは羊羹のラベルも同様だった。
 今回掲載した「広告」は、07(明治40)年に京都市で開催された第4回全国五二品評会で、昆布羊羹と高松羊羹が各銀牌(ぎんぱい)を受賞した機会に発行されたと考えられる。これ以前で、「広告」に類似したものは、管見の限り1894(明治27)年、97(明治30)年、99(明治32)年に発行され、掲載内容は増加し内容も充実している。単なる広告チラシに思えるが、内容を追っていけば高松堂の沿革史ともいうべき価値あるものなのだ。
 明治期、堅気の商人の間では宣伝や広告を大々的に行うものではないという一般的な風潮があった。その風潮を打ち破り、東京の森永太一郎(森永製菓株式会社)が自社製菓を大々的に宣伝し、今日に至る発展の基礎を築いた。
 高松が森永の動きを意識したかどうか定かではないが、本州最北の青森県で斬新かつ大胆な宣伝を行った彼の行動は非常に興味深い。菓子屋自身が世間を引き付ける宣伝策に出て、自らの高い製菓技術を評価に結びつけたことは意義あることだろう。
(弘前大学国史研究会会員・中園美穂)

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弘前の繁華街全盛期=113

2019/6/3 月曜日

 

写真1 中土手町の商店街とアーケード=1982(昭和57)年6月21日・青森県所蔵県史編さん資料
写真2 上土手町にあった赤湯=1969(昭和44)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真3 梅林食堂とこみせ。当時の上土手町には、こみせが数多く残されていた=1983(昭和58)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載

 中心市街地に形成される繁華街には、時代ごとに市民から愛された店や施設があった。しかし、時代の変化や経営者の高齢化に伴い姿を消したものも多い。個人経営の店や施設の記録が残される機会は概して少ない。青森県史編さんの諸資料や写真、調査で得られた証言などから、弘前市繁華街を形成した店や施設の歴史を記しておきたい。
 ▽喫茶店
 1970(昭和45)年4月22日付の『陸奥新報』には、桜まつりを前に有名レストランや喫茶店の紹介記事が掲載されている。土手町の「ボルドー」、百石町の「再会」、本町の「めとろ」や「マロニエ」、親方町の「御苑」、銀座街の「ラ・セーヌ」、代官町の「徹」、駅前の「田園」などが紹介されている。毎年開催される桜まつり前の店舗紹介記事は、おおよそその時代に市民から愛されていた店と見なしてよいだろう。
 50~70年代の高度経済成長前後の時代は、デパートと商店街の全盛期で、喫茶店の黄金時代でもあった。中心市街地を回遊して買い物し、飲食を楽しむことが市民にとって楽しいひとときだった。休憩や昼食、デートや待ち合わせ、商談や会合の場として喫茶店は繁盛したのである。
 喫茶店の「ボルドー」は洋菓子屋として人気を集めたが、喫茶店も併設していた。当時は洋菓子屋やパン屋が喫茶店を併設するのが流行だった。「工藤パン」もその一つであり、弘前市中心街にも複数の支店があった。
 郊外の大型スーパーが主流になると喫茶店は激減の一途をたどった。それでも土手町の「煉瓦亭」や「珈琲館」、かくみ小路の「万茶ン」、坂本町の「ひまわり」などは、経営者の努力と常連客が通い詰めることで今も営業を続けている。老舗を守る最大の秘訣(ひけつ)は、市民が足しげく通って利用することにあると思う。
 ▽商店街
 弘前市で最初にアーケードを設置した中土手町には老舗の商店が多い(写真1)。13(大正2)年創業の「平山萬年堂」は文具専門店である。万年筆を使う文化を大切にし、店舗も創業当時をイメージして改装するなど、歴史を重視した経営を続けている。
 「一戸時計店」は明治期の店構えを残す貴重な店舗で、2008(平成20)年に弘前市の「趣のある建物」に指定された。風見鶏の付いた円錐(えんすい)屋根の時計台は、土手町を象徴する光景だった。店主の死去に伴い18(平成30)年10月に閉店したが、店主の家族と中土手町商店街振興組合の関係者が建物を残そうと模索中である。
 個人商店が多い中土手町の中で、「ヤマダイ」は1963(昭和38)年11月にスーパーマーケットとして登場。この商法が当たって3、4階を増築し、エスカレーターを新設して67(昭和42)年11月に完成。その後、エレベーターを設置し、翌年には屋上の遊園地も開園して事実上のデパートとなった。
 66(昭和41)年の「ナカニシ」誕生後、68(昭和43)年9月に「中三」が店舗を大改装してデパートとなり、2年後にナカニシを吸収。71(昭和46)年には「カネ長武田」の弘前支店が開店した。下土手町のデパート合戦を横目に、中土手町に進出したヤマダイは大いに注目された。そのヤマダイも今はなく、跡地は駐車場になっている。
 ▽名物の店と施設
 繁華街には長年語り継がれ、親しまれてきた店がある。「肉の富田」は精肉店だが、2階のビヤレストランを忘れるわけにいかない。甘めのすき焼きは人気があり、家族連れや仲間内の宴会に使われた。現在レストランは予約制で開くが、精肉販売は続けている。中でもカツサンドは市民や観光客の間で人気がある。
 上土手町の「赤湯」は弘前市内外から多くの人々が通った銭湯で旅館も兼ねていた。情緒ある建物は、こみせが数多く残る上土手町を象徴する存在だった(写真2)。上土手町の都市計画で、91(平成3)年に惜しまれながら解体された。現在は赤湯の関係者が敷地内の一部で居酒屋の「とり蔵」を経営している。
 道路を挟んで赤湯の斜め向かいにあった「梅林食堂」は、店構えは「こみせ」のある普通の大衆食堂だった(写真3)。だが、客から注文をもらった若い従業員が、威勢よく注文の品を叫び、「ドン!」と太鼓をたたくことで有名だった。注文のたびに太鼓をたたくので、周辺から文句が出たそうだが、「ドンの梅林」「太鼓の梅林」と呼ばれ親しまれた。一時期、弘前市内で知らない人はいないほどの有名店だったが、すでになくなって久しい。
 土手町から弘前大学へと向かう県道127号は、通称富田大通りと称している。その入り口に位置する山道町には映画館の「慈善館」があった14(大正3)年9月、東北育児院(後に愛成園)を設立した社会事業家の佐々木五三郎が、施設を維持するために開設した映画館である。「慈善」という名称が、これらの経緯を物語っている。
 映画館は大変繁盛し、土手町から富田大通りに至る周辺は「銀座街」と称された。戦後も繁盛し、50(昭和25)年に建物が新築された。しかし、映画からテレビへと時代が流れる中で興行成績は伸び悩み、66(昭和41)年3月に惜しまれながら閉館した。
 閉館式には知事や弘前市長をはじめ、大勢の関係者が出席する異例の式典となった。弘前市民だけでなく津軽地域一円に愛された慈善館だが、一生を慈善活動にささげた佐々木が苦心して設けた映画館は、単なる娯楽施設ではなかった。閉館式の式典が、そのことを物語っていた。
 ▽まずは記すことから
 繁華街を形成する店や施設は、時代のすう勢や経営事情、後継者問題などで、突如姿を消すことがある。この場合、当事者に記録資料を求めることは実質的に難しい。他方、携帯電話やスマートフォンの普及で写真の撮影は容易になった。ブログ、ツイート、フェイスブックなどで、店や施設の記録や利用した時の記録を記す人は増える傾向にある。
 これらの電子媒体で生み出される記録や記憶を、どのように現代史の資料として活用するかは、今後検討すべき課題になると思う。しかし、まずは個人的に愛着のある店や施設の記録や記憶を、規則を守り経営者や周辺の人々に配慮し、プライバシーを侵害しない範囲で記しておいてほしい。紙媒体であれ電子媒体であれ、記しておかなければ記録や記憶は生まれないからである。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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市民に愛された弘前=112

2019/5/20 月曜日

 

写真1 「鈴木の三階」と「かくは宮川デパート」=1965(昭和40)年
写真2 「かくみ小路」とアーチ=1986(昭和61)年
写真3 下土手町の繁華街と「今泉本店」=1986(昭和61)年

 1950~60年代の高度経済成長と70年代からの本格的な都市計画で、中心市街地の様子は大きく変わった。区画整理が施され自動車社会に対応して道路が整備された。その結果、なじみの店がなくなってがく然としながら、跡地に何があったのか思い出せない経験をすることがある。意識して記録や写真を残さない限り、街並みは忘れ去られる運命にある。今回は弘前市の繁華街について書き記しておきたいと思う。
 ▽親方町
 戦前、戦後を通じ弘前市民に愛され、弘前市繁華街の象徴的存在だったのが、下土手町にあった「かくは宮川百貨店(デパート)」だろう。隣接する親方町には、サウナやマージャンホールを備えた「朝日会館」があった。館内にあった高級喫茶の「御苑」は待ち合わせや商談、デートに使われた。かくはの遊園地は子ども向けの娯楽施設だが、会館は今も営業を続ける大人の娯楽施設である。
 会館の真向かいには「鈴木の三階」と称された「鈴木旅館」があった。木造3階建ての旅館は珍しかったので目を引いたが、解体されて今はない(写真1参照)
 旅館の斜め向かい側には、今も弘前市民が足しげく通う「川村精肉店」がある。この場所で営業を始めたのは37(昭和12)年。57(昭和32)年に現在の店舗となり、かくはの1階食料品部にも売店を設けた(『風雪の履歴書』陸奥新報社)。川村の揚げ物や総菜は午前中に売り切れるほど人気だ。大型スーパーが主流の現在、昔ながらの小売店舗形式の肉屋は貴重な生活の一風景となった。
 ▽かくみ小路
 親方町から歓楽街である鍛冶町と新鍛冶町へ向かうと、土手町へ抜ける細い路地がある。ここは新旧の飲食店が連なる「かくみ小路」だ。名称は明治・大正期に繁盛した「角み宮川呉服店」にちなんだものである。
 「レストランニューマツダ」などの高級感あふれる洋食店がある一方、「特一番」など学生の味方的な大衆食堂があった。飲食街だけに店舗の入れ替わりは激しいが、太宰治も通った老舗喫茶店の「万茶ン」は今も営業を続けている。
 写真2を見ると、今はなき「弘前名所」と書かれたアーチが見える。その後ろには、今も笑顔で客を迎えてくれるご主人と太巻きで有名な「常寿司」の看板が見える。老若男女、金持ちの大人にも貧乏学生にも愛された飲食街。それがかくみ小路である。
 ▽下土手町
 下土手町は市内外から多くの人々が集まる弘前市最大の繁華街だ。デパートや飲食店が多い中で、「今泉本店」は下土手町の歴史に欠かせない存在だった。1892(明治25)年創業で、何度か店舗を移した後に下土手町で雑誌や参考書、文房具や運動用具、楽器なども販売して営業成績を伸ばした。
 今泉本店の成長に重要な役割を果たしたのが、1921(大正10)年に開校した官立(旧制)弘前高等学校である。帝国大学を目指すエリート学生が全国各地から弘前市に集められた。彼らは今泉本店で研究書や参考書、雑誌類などを買い求めた。
 戦後に官立弘高が弘前大学へと変わってからも、この傾向は続いた。書店の繁栄に高等教育機関の存在は大きな役割を果たした。68(昭和43)年、今泉本店は社屋を新設拡張し、隣接の「カネ長武田デパート」と遜色ない規模を誇った(写真3参照)
 83(昭和58)年に「紀伊國屋書店弘前店」が中土手町に進出。地元の書店業界に大きな影響を与えた。競争が激化する中で、2000(平成12)年に今泉本店は惜しまれながら閉店した。
 その20年後、年号が平成から令和に変わった19年5月、紀伊國屋の弘前店が閉店した。繁華街形成の一翼を担い、繁華街に支えられた書店という構図が大きく変わったことを印象づける出来事だった。
 ▽百石町
 土手町に次ぐ繁華街だった百石町。かつては土手町寄りに映画館の「弘前東映」があり、アサヒビールのネオンアーチが架かっていた。近くの「弘前市立百石町展示館」も、以前は「青森銀行津軽支店」だった。
 銀行の支店があるのは商店街が形成されている証拠。実際に百石町には各種の商店が軒を連ねていた。家具屋の「さいくま」、青果食料雑貨店の「マルミ弘前中央百貨街」、菓子屋の「ラグノオささき」など、挙げれば切りがない。
 ラグノオは本県の菓子業界で最大手の一つに成長したが、多くの商店は姿を消した。2014(平成26)年に閉店した大衆割烹の「大和家」も記憶に新しいだろう。
 百石町と中央通りの十字路2階には、1955(昭和30)年開店の「グリルマツダ」があった。本格的なフランス料理の店で、グラタンが看板メニューだった。下土手町に支店を設け、前述のニューマツダも支店の一つだった。社長の松田延太郎は東京生まれだが、戦前に青森市の洋食店「サロン」やパン屋でレストランも営業していた「栄作堂」のコックを務め本県に縁の深い人物だった。
 ▽記録を残す
 96(平成8)年に北方新社が出版した『弘前の散歩みち』は、弘前市の街並みを撮影し続けてきた藤田本太郎さんの写真に解説を付した写文集である。このほど同社の協力を得て、写文集から写真の一部を掲載させていただいた。
 青森県史の編さんで得られた諸資料で弘前市繁華街の歴史を描くに当たり、藤田さんの写真から多くの情報を得た。写真は時に歴史資料となる。その思いを強くする一方で、街並みの変貌が予想以上に早く進む昨今、記録を残すことがますます大切になってきている。今後も折を見て街並みの歴史を記していきたいと思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)
 ※写真はすべて藤田本太郎さん撮影(『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載)

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江戸時代に18の温泉=111

2019/5/6 月曜日

「諸国温泉功能鑑」=都立中央図書館特別文庫所蔵。行司に注目
「大日本東山道陸奧州駅路図」より江戸後期の浅虫温泉周辺=1810(文化7)年・青森県立図書館所蔵。皮膚病や痔、眼病に効く、と効能が書かれている
幕末期の嶽温泉湯小屋=江戸末期・青森県立郷土館所蔵
在りし日の大鰐温泉街=1974(昭和49)年・青森県所蔵県史編さん資料。中央部、川沿いに見える大きな建物が加賀助旅館
青森製氷の冷蔵室と冷凍室=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵

 津軽地方はいわゆる温泉銭湯をはじめ身近に温泉があるため、車に風呂道具を積んで気軽にお湯を楽しむ人が多い。本県は源泉数全国6位、温泉地数全国4位(2017年3月、県自然保護課HPより)という全国有数の温泉大県である。
 多くは戦後、ボーリング技術が発達してから新たに掘削された温泉だが、古くから知られた温泉も多い。では、江戸時代の温泉や湯治はどのようなものだったか紹介したい。
 ▽「津軽一統志」にみる津軽の温泉
 弘前藩では官選地誌のようなものは作られなかったが、1731(享保16)年に編さんされた藩の正史「津軽一統志」では、藩内の温泉として次の18カ所を挙げている。
 百沢領の内岩木嵩ノ湯、大鰐村の内大鰐ノ湯、蔵館村の内蔵館ノ湯、碇関町の内碇関ノ湯、黒石領の内温湯・板留ノ湯・大川原ノ湯・二升内ノ湯・沖浦ノ湯、袋村の内沖浦ノ湯、切明村の内切明ノ湯、外浜耕田の嶽酢ヶ湯、大柳辺村の奥下湯、浅虫村の内浅虫ノ湯、平舘村の内根子ノ湯、追良瀬村の内湯之沢ノ湯、西之浜岩崎村の内佐々内ノ湯、深浦村の内三ノ湯
 最初の14カ所は、現在の嶽温泉、大鰐温泉、蔵館温泉(平川を挟み大鰐温泉の対岸だが、現在は一体化)、碇ケ関温泉、黒石温泉郷の各温泉(沖浦・二庄内は浅瀬石川ダムに水没)、酸ケ湯温泉、下湯温泉(現在は下湯ダムに水没)、浅虫温泉となる。
 「根子ノ湯」以下4カ所は今では聞き慣れない温泉だが、根子の湯は「平舘不老不死温泉」の前身に当たる。かつては現在地よりさらに山中にあり、津軽半島唯一の温泉だった。「佐々内ノ湯」以下は西海岸だが、現在の「黄金崎不老ふ死温泉」などと異なり、いずれも山中にあった。佐々内(笹内)の湯は菅江真澄も入浴している。いずれも現在は温泉地としては利用されていない。
 今でも有名な温泉がある一方、なくなった温泉もあり、時代的変遷が見受けられる。
 ▽江戸時代の温泉番付
 江戸時代後期、全国の温泉をランク付けした「諸国温泉功能鑑」という番付が作られた。この中には83カ所の温泉が挙げられているが、津軽の温泉は6カ所が入っている(嶽、温湯、矢立、板留、浅虫、蔵館)。
 注目すべきは、大鰐温泉が熱海の湯(現静岡県)などと並んで「行司役」となっており、全国に知れ渡っていることが分かる。この番付には1カ所ごとに効能が書かれており、中でも蔵館と板留は「諸病によし」と大変高い評価である。
 科学的療法がなかった江戸時代、慢性的な病気は温泉療法でじっくり直すしかなかった。そのため、効能については現在以上にシビアに求められた。
 ▽藩主の湯治
 これらの温泉のうち、弘前藩主の湯治場として利用されたのが、大鰐、碇ケ関、嶽、浅虫である。大鰐や碇ケ関は参勤交代の道筋に当たり、最も利用しやすかった。『大鰐町史』によると、幕末期までに藩主の湯治は27回に及ぶという。温湯へは5回の湯治記録がある。
 浅虫や大鰐には、藩主が滞在するための専用施設(御仮屋、本陣)が置かれた。大鰐は1984(昭和59)年に閉館した加賀助旅館、浅虫は現在も営業中の柳の湯の先祖が管理人を務めた。
 一方、嶽温泉は弘前から近いにもかかわらず、藩主の湯治場としては利用されなかった。これは岩木山信仰との関係と思われる。庶民の入浴も、6月から7月や御山参詣の時期(8月1日~15日)は禁止されていた。湯治客により山が踏み荒らされ、山の神の怒りに触れることを恐れたためである。ただし幕末期には次第に緩んでいった。
 ▽庶民の湯治あれこれ
 景勝の地である温湯は庶民の遊楽の場であり、幕末には湯宿が多く建ち並び、青森や鯵ケ沢から来た遊女がたむろして客を引く歓楽街としてにぎわっていた。これら湊町の遊女は主に船乗りを相手にしていたが、船の出入りが少なくなる晩秋から春の初めにかけて、出稼ぎに出ていた。これは大鰐も同様で、藩では私娼行為として厳しく取り締まったが、やむことがなかった。
 昔の湯治は長期にわたったので「湯見舞い」と称し、親類や近所の者が遊びに来る風習があった。湯治客は御礼として土産物を持たせてやった。温湯名物のこけしや、大鰐名物の木地挽(きじびき)細工物や温泉もやしは、このような温泉土産として発達したものである。1859(安政6)年9月に湯治をした家老大道寺族之助(だいどうじやからのすけ)も、木地挽細工物ともやしを大量に購入した記録がある(「大鰐蔵館湯治日記」『大鰐町史』中巻)。
 車がない時代、山中の温泉に行くには困難が伴った。八甲田山系の酸ケ湯温泉は、雪が固まって歩くのが容易になる早春しか入浴できなかったが、季節により猛吹雪に巻き込まれ凍死したり、逆に気温が緩んで雪崩が起こり、湯治客が多数亡くなったことがあった(岩淵功『八甲田の変遷』)。
 津軽・南部の対立は巷間有名だが、効能を求めて津軽の温泉にも南部の人々が来遊している。酸ケ湯温泉は江戸中期の1707(宝永4)年には湯治客の3割が南部の人々だった(岩淵前掲書)。庶民だけでなく、八戸藩の侍も湯治に来ていた。
 江戸後期の1812(文化9)年に、八戸藩大野村(現岩手県洋野町)の豪農晴山(はれやま)吉三郎は、嶽温泉や板留温泉へ湯治に行き、その後高照神社や百沢寺(現岩木山神社)などを巡り、その立派さは両南部(盛岡・八戸藩)にもないものだ、と驚嘆している(晴山家文書「万記録」)。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹 中野渡一耕)

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