津軽の街と風景

 

戊辰戦争での弘前藩=136

2020/7/6 月曜日

 

秋田市全良寺墓地にある弘前藩戦死者の墓石。後日、弘前の寺院へ改葬された者も含め、庄内征討で戦死した13人の墓石が現存する=2020(令和2)年6月12日・筆者撮影
津軽領(弘前藩の支藩黒石藩領)と南部領(盛岡藩領)の境に2基ずつ築かれた藩境塚=2019(令和元)年8月13日・野辺地町側から筆者撮影
野辺地戦争戦死者の墓所。『弘前藩記事』によれば野辺地戦争の戦死者は29人だが、4基の墓石には27人分の名前が刻まれている。名前が刻まれていない2人のうち、1人は詳細不明だが、残り1人は帰郷後に死亡したため、除外されたと考えられる=2019(令和元)年8月13日・筆者撮影

 ▽戊辰戦争の勃発
 1867(慶応3)年10月、15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を決断した。幕府を倒そうとする薩摩・長州勢力を孤立させ、政治形態を切り替えることが目的であった。しかし、公家の岩倉具視(ともみ)と薩長両藩は、天皇による王政復古の大号令を実行し、約260年間続いた江戸幕府は終わりを迎え、天皇を頂点に据えた新政府(明治政府)が樹立された。
 68(慶応4)年正月、大坂(大阪)に退却していた慶喜をはじめ会津藩ら旧幕府軍は、大坂から京都へ向けて進軍したが、京都近郊の鳥羽・伏見で新政府軍と激突した(鳥羽・伏見の戦い)。この戦いに端を発して始まった戊辰戦争では、奥羽諸藩は新政府軍(官軍)と旧幕府軍に分かれて戦うこととなった。
 ▽奥羽諸藩と弘前藩
 新政府は、旧幕府軍側についた会津藩や鶴岡藩(庄内藩)を追討するように命じたが、仙台藩をはじめ奥羽諸藩はどの藩も動こうとしなかった。同年閏(うるう)4月、仙台藩と米沢藩は他の奥羽諸藩に呼び掛け、新政府側に会津藩への進撃の取りやめを求める嘆願書を提出した。さらに、同年5月に会津・鶴岡追討の中止を求めて、奥羽25藩と北越6藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
 弘前藩はこの同盟に参加したものの、新政府軍側か旧幕府軍側につくのか、いまだ自藩の方向性を決めかねていた。同年7月、京都での各勢力の詳細情報が京都留守居役(るすいやく)の西館平馬(にしだてへいま)によってもたらされ、弘前藩は藩論を勤皇に決定し、新政府側につくこととなった。
 弘前藩が直接関わった戦いは、同年8月に秋田藩への援軍として派兵され、由利郡吉沢村(現秋田県由利本荘市)などで鶴岡藩と戦った庄内征討、同年9月の野辺地戦争、69(明治2)年5月に終結した箱館戦争であり、約1年間にわたって戦争状態が続いた。
 弘前藩の場合、同じく新政府軍側についた秋田藩のように旧幕府軍に攻め込まれ、領内が戦場になることはなかった。しかし、軍の主体となる藩士に加え、軍隊の雑用係である軍夫(ぐんぷ)として動員された百姓や町人に多数の死傷者を出した。
 ▽戦死者の慰霊
 幕末維新期の史料をまとめた『弘前藩記事』によると、弘前藩が関わった戦いのうち、最も人的被害が大きかったのは29人の戦死者を出した野辺地戦争である。箱館戦争では25人、庄内征討では13人の戦死者が出ている。
 戦死者の慰霊は、戦地と弘前の両方で行われており、弘前では同年6月に弘前城下の南西に位置する宇和野(弘前市小沢(こざわ)で招魂祭(しょうこんさい)が行われた。宇和野は江戸時代から藩兵の軍事演習が行われ、藩主が兵士の演習を高覧した場所だった。招魂祭当日は、弘前藩12代藩主の津軽承昭(つぐあきら)や家老らが参列し、戦死者遺族の他にも大勢が集まったという。招魂祭では藩士だけでなく、軍夫も慰霊の対象となった。
 ▽弘前藩戦死者の埋葬地
 戦死者の主な埋葬地は、庄内征討では秋田全良寺(ぜんりょうじ、秋田市)、野辺地戦争では馬門村(まかどむら、上北郡野辺地町)、箱館戦争では箱館招魂社(北海道函館市)および江差招魂社(同檜山郡江差町)であり、現地には墓石が建てられた。
 今回は戦死者の埋葬地をめぐる思いについて、庄内征討と野辺地戦争戦死者の事例を紹介したい。
 庄内征討の戦死者は当初、戦場となった吉沢村などに埋葬されていたが、後に戦死者の大半は吉沢村から秋田全良寺に改葬され、一部は弘前の寺院に改葬された者もいた。全良寺では住職が自主的に墓地の整備を行い、秋田藩兵士だけでなく秋田藩の援軍として派兵され戦死した、他藩兵士の供養を行っていた。
 この戦いでは弘前藩が敗走したこともあって、戦死者のなかには埋葬地が分からなくなってしまった者がいた。71(明治4)年になってようやく埋葬地が判明した者に対し、戦死者は「忠死」の者であるため、弘前藩によって遺体を全良寺に改葬するという処置がとられた。
 野辺地戦争戦死者の墓所がある馬門村は、江戸時代には南部領(盛岡藩領)に属し、藩境塚をはさんで津軽領(弘前藩の支藩である黒石藩領)と接する位置関係にあった。野辺地戦争の戦死者は、大部分が馬門村に埋葬され、そのうち1人が戦死の翌月に弘前へ改葬されたと記されている。後日、馬門村には弘前藩によって墓石が建てられた。
 戦場で亡くなった者の遺体をどこに埋葬し、どのような弔(とむら)いをするべきか、これらは戦後対応として重要な問題である。遺族によっては、国元の弘前に改葬したいという思いを持った者もあり、弘前藩としても単に戦場近くに埋葬するのではなく、手厚い供養を受けることができる場所に改葬すべきという意識を持っていたことが分かる。
(弘前市教育委員会 高岡の森弘前藩歴史館主事兼学芸員・澁谷悠子)

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復興遂げた五所川原=135

2020/6/22 月曜日

 

写真1 五所川原市が誕生して間もない頃の大町通り=1950年代後半・青森県所蔵県史編さん資料。写真中央に丸友呉服店(後のマルトモデパート)が見える。マルトモの跡地周辺は現在立佞武多の館になっている
写真2 1955(昭和30)年頃の本町通り。左側の建物は中三呉服店(後にデパートとなる)=「五所川原平和博覧会記念絵はがき」(青森県史デジタルアーカイブスより)
写真3 中三デパート店内=1970年代後半・青森県所蔵県史編さん資料
写真4 立佞武多の館前に立つ母神像(母子像)=2020(令和2)年5月18日・筆者撮影

 ▽西北五の中心
 五所川原市の市街地は、広大な津軽平野北部の中央に位置する。江戸時代の新田開発によって最も遅く拓かれた所だったが、東は梵珠山を境に青森市へ、西は岩木川を境につがる市、鯵ケ沢町へ通じるなど交通の立地条件に恵まれていた。
 近代に入ると商業が急速に発展して市街地が形成され、名実ともに西北五地方の中心となった。広大な津軽平野に抱かれた市街地は「田園都市」ともいわれる。しかし、平成に入って郊外へ大型ショッピングセンターが次々と開業し、市街地は急速に衰退していった。2006(平成18)年3月、本町にあった中三デパートの閉店は、そのことを象徴する出来事だった。
 現在、1998(平成10)年に復活した夏祭りの「立佞武多祭り」をきっかけに、立佞武多をテーマとした市街地の再開発や活性化が進められている。2004(平成16)年には、空洞化する大町に高さ20メートルを超す大型の立佞武多を常設展示する「立佞武多の館」が開館した。
 一年を通して多くの観光客に五所川原市の歴史や文化を伝える拠点ができたことで、市街地への集客力も増している。夏祭りで立佞武多が運行する市街地コースの電線は移設し埋設され、昔のように街を練り歩く立佞武多の威容を多くの人が仰ぎ観(み)ることができるようになった。
 新たな街づくりが模索されている中、これまでどんな街づくりが進められてきたのか。改めてこれまでの街の歴史を振り返ることは意義があろう。
 ▽大火からの復興
 第二次大戦の終結を挟んだ1944(昭和19)年と46(昭和21)年、2度の大火が五所川原町(現五所川原市)の中心街を襲い、街の大部分は焼け野原と化した。
 この大火で五所川原町繁栄のシンボルだった布嘉御殿(ぬのかごてん)が焼失した。明治の半ばから敗戦直前まで、半世紀余りにわたって県内多額納税者の首位を占めた県内最大の豪商であり、大地主だった佐々木嘉太郎(屋号は布嘉)が1896(明治29)年に竣工(しゅんこう)した大豪邸で、これが一瞬にして消えてしまったのだ。
 しかし、五所川原町民の商魂はたくましく、この試練に耐えて前にも増して復興ぶりを示すことになる。その一つに挙げられるのが1957(昭和32)年7月21日から9月10日にかけて五所川原市が開催した「青森県平和産業大博覧会」、通称「五所川原博」である。
 ▽五所川原博
 54(昭和29)年、いわゆる昭和の大合併により、五所川原町、栄町、中川村、三好村、長橋村、飯詰村、松島村が合併し、新たに五所川原市が誕生していた。初代市長の外崎千代吉が、その政治生命をかけて、五所川原市民に通底する良い意味での「ヤッテマレ」精神で実現させた国際博覧会だった。
 五所川原博は日本の国連加盟と市制施行3周年を記念して開催したものだ。本県初というだけでなく、東京オリンピックや大阪万博に先駆けて開催したことは驚嘆すべきことである。五所川原市が主催し、県と五所川原商工会議所の協賛を得て、当時の通産省と国鉄の後援で23カ国に及ぶ諸外国の協力のもと、会期中に27万人を集客した。
 しかし、短期間の準備で国際的な規模の行事をやり切ったものの、絶対もうかると豪語した外崎市長の言う通りにはならなかった。結局、博覧会の赤字は五所川原市の財政を逼迫(ひっぱく)させ、市民の負担になって返ってきた。平和博に掛かりきりになったことで、農村地帯の振興策がおろそかになったという批判が常に付きまとった。
 ▽商店街
 博覧会のもたらした良い一面もあった。五所川原市街の商店街にお金が落ちるなど経済効果の波及であり、市街地での新増改築の活発化や青森・弘前両市に通じる道路網の整備、特に3万坪に及ぶ博覧会の跡地利用だった。
 博覧会の跡地には、市営住宅団地が整備された。市街地が拡大整備され、増加する人口の受け皿になったのである。博覧会は五所川原市発展の強力な起爆剤となり、高度経済成長の恩恵を受けることができたのである。
 五所川原市の中心商店街には、市を象徴する百貨店(中三、マルキ飛島、マルトモ)のほか、大型ビルが次々と建設され、アーケードも設置された。アーケードは大町を皮切りに本町、柏原町、寺町へ延びていった。週末になると子供連れの家族がアーケード内を回遊するなど、商店街は大変にぎわった。当時の繁栄を知る人たちにとっては懐かしい思い出だろう。
 ▽母神像(母子像)
 五所川原市のシンボルの一つになっている母神像(母子像)をご存じだろうか。つがる市出身の彫刻家、中野桂樹が作成したもので、博覧会に平和のシンボルとして、会場の泉水に設置されたものである。博覧会終了後に駅前大通りの交差点、通称ロータリーと呼ばれた円形中央帯に設置された。像は五所川原駅を降りた人々を温かく迎えるように、駅を向いて立っていた。
 その後、自動車の普及でロータリーが撤去され、母神像は柳町児童公園(牧水公園)のひょうたん池に移設された。現在は立佞武多の館前に設置され、館を訪れる人々を温かく迎えてくれる。街のにぎわいの中に常に立ち、街の歴史を見守ってきた存在なのである。
 五所川原博に関するミニ企画展を今年の7月から五所川原市立図書館で開催する予定である。五所川原市街地の歴史を知る機会なので、ぜひ見に来ていただきたい。
(五所川原市教育委員会 社会教育課文化係 主幹・係長 榊原滋高)

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大合併で誕生平賀町=134

2020/6/1 月曜日

 

写真1 青森県立柏木農学校の女子学生=1942(昭和17)年・青森県所蔵県史編さん資料
写真2 平賀駅前の商店街=1970年代後半・青森県所蔵県史編さん資料
写真3 アップルランドにあった熱帯園=1970年代後半・青森県所蔵県史編さん資料
写真4 尾崎冷泉(鉱泉)と客舎=昭和戦前期・青森県所蔵県史編さん資料
写真5 温川温泉=1960(昭和35)年頃・筆者提供

 ▽昭和と平成の大合併
 平成の大合併で多くの市町村が合併し、総じて広大な市が増えた。2006(平成18)年1月1日に平賀町、尾上町、碇ケ関村が合併して誕生した平川市もその一つである。しかし、合併後15年近く経過した現在、旧3町村の記憶は薄れつつある。
 尾上町は昭和の大合併で尾上町と猿賀村が合併して成立した。碇ケ関村は昭和の大合併には参加せず単独で残った。これに対し平賀町は、1955(昭和30)年3月1日に大光寺町、柏木町、尾崎村、町居村、竹館村の5町村が合併して誕生した。
 尾上町と碇ケ関村に比べ、平賀町は二つの合併で大きな変動があった。平賀町自体も昭和の大合併で誕生し、平成の大合併で約50年の歴史を閉じた。平賀町の歴史を忘れないためにも、まずは町を構成した旧町村の歴史を振り返っておきたい。
 ▽大光寺町と柏木町
 平賀町の歴史は弘南鉄道抜きには語れない。27(昭和2)年、弘南鉄道創設者の菊池武憲が平賀駅を設置して以来、駅を中心に住宅街が形成された。駅と沿線は大光寺村の村域だった。村は鉄道の恩恵を受けて発展し、43(昭和18)年に町制施行を遂げた。
 平賀駅は弘南鉄道35周年の62(昭和37)年に新築された。当時の『陸奥新報が「私鉄では東北一」と紹介した大きな駅舎だった。駅舎には平賀農協と弘南鉄道が共同で経営する県内唯一の地下スーパーが新設され、主婦層を中心に人気があった。
 鉄道で発展した平賀町だが、町の基幹産業は農業である。大光寺村の南に位置する柏木町村(かしわぎまちむら)には、26(大正15)年に開校した柏木町農学校があった。28(昭和3)年に青森県立柏木町農学校となったが、当時としては大変珍しく男女共学だった(写真1)。平賀駅の東側に位置し、駅を通じて多くの学生が通学し村内はにぎわった。こうして29(昭和4)年、柏木町村は町制施行を遂げ柏木町となった。
 平賀駅前は弘南鉄道の利用客を中心に多くの町民や学生が集まった。このため駅から東側に延びる現在の県道282号(小国本町線)沿いに商店街が形成された(写真2)。駅前から県道109号(弘前平賀線)と282号の接する交差点までは、大字本町(もとまち)なので旧大光寺町域だった。交差点より東側は大字柏木町なので旧柏木町域だった。駅前商店街は二つの町域にまたがっていたのである。
 大字柏木町には柏木町村の役場が置かれ、柏木町、平賀町、平川市と自治体が変わっても役場が置かれた。戦前に町制施行を遂げた二つの町は、駅と役場を分かち合い、商店街を共有して平賀町の中心を形成していたのである。
 ▽町居村
 平賀駅の東方に位置する大字町居は、昭和の大合併前には町居村だった。1889(明治22)年に市制町村制が施行された際は尾崎村の大字だった。95(明治28)年に竹館村へ編入され、1901(明治34)年に町居村として独立した。大字一つだけで成立した村なのだ。
 村内の学校は町居尋常小学校だけだった。戦後に町居村立町居小学校となり、中学校を併設した。平賀町誕生後、小学校は平賀東小学校、中学校は平賀東中学校に統合された。両校共に町居村域外にある学校だった。現在、町居保育園だけが旧村域内に存在する教育施設である。
 72(昭和47)年、南田地区に平賀アップルランド南田温泉(現津軽南田温泉ホテルアップルランド)が誕生した。館内に大石武学流の庭園を有し、屋外温泉プールや熱帯園を設けたレジャーランド的施設として評判を呼んだ(写真3)。
 小さな町居村には、さまざまな歴史や興味深い事実がたくさん詰まっているのである。
 ▽尾崎村
 町の北部に位置していた尾崎(おさき)村の東部は山岳地帯で、鉛や亜鉛などの鉱産物に恵まれていた。中でも尾崎鉱山は県内唯一の重晶石の鉱山として知られ、60年代まで採掘されていた。村内には昭和戦前期に掘削された二つの冷泉(鉱泉)が存在したが70年代には廃湯同様の状態だった(写真4)
 尾崎冷泉が閉鎖されたころ、全国的な「黒鉱ブーム」が起こった。旧尾崎村域でも60年代半ばに数カ所で試掘された。目的の黒鉱は得られなかったが、代わりに温泉が吹き出した。この後、平賀町内では次々に掘削温泉が誕生し、町は新興温泉地となった。
 平川市の景勝地でもある白岩は、尾崎村時代にも「尾崎の白岩(しろいわ)」と呼ばれる景勝地だった。28(昭和3)年に設置された「尾崎村保勝会」は、白岩までの道路を開削し、休憩所などを整備して白岩の宣伝に努めた。保勝会には村の豊富な鉱産物を開発し、産業を育成するもう一つの目的があったのである。
 ▽竹館村
 竹館村は南津軽郡最大の村だった。平賀町の総面積約220平方キロの内、竹館村は約178平方キロあった。平川市の総面積に換算しても半分以上を占めていた。
 竹館村には県内最初のリンゴ専門組合である竹館産業組合があった。07(明治40)年に結成され唐竹(からだけ)に事務所があった。組合はリンゴの等級標準を制定し、検査の制度を定め、冷蔵リンゴの販売を担うなど、リンゴの栽培や販売で指導力を発揮した。青森県リンゴの歴史に竹館産業組合の果たした役割は大きかった。
 広大な竹館村には、山形温泉郷(現黒石温泉郷)の温川温泉と切明温泉がある(写真5)。十和田湖の展望台として有名な滝ノ沢峠と御鼻部山(おはなべやま)もある。竹館村は黒石温泉郷の魅力を支え、十和田湖の眺望を紹介するなど、村外に協力してきた懐の深い村だった。その傾向は平賀町になっても継承された。
 ▽地域の「鍵」
 筆者は今年の3月、青森県史編さんの関係者と共に『昭和の町と村』(デーリー東北新聞社)と題する写文集を刊行した。昭和の大合併で消えた青森県内の町や村に関する歴史をまとめたものである。
 合併で自治体としての町や村は消えても、町や村の歴史が消えるわけではない。むしろ消えた町や村の歴史には、現在の地域を形成してきた要素や特徴が詰まっている。昨今求められている地域の活性化に必要な「鍵」は歴史から得られるものなのだ。
(県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ主幹・中園裕)

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名選手輩出の中泊町=133

2020/5/18 月曜日

 

アムステルダムオリンピック陸上競技練習風景。左から津田晴一郎(慶大)、井沼清七(早大)、織田幹雄(早大)、山口直三(早大)、人見絹枝(大阪毎日新聞)=1928(昭和3)年・中泊町博物館所蔵
アムステルダムオリンピック陸上競技練習風景=1928(昭和3)年・中泊町博物館所蔵
井沼清七之像=2009(平成21)年・筆者撮影
農作業風景=1955(昭和30)年ころ・竹内覚氏提供
宮野沢集落力石=2008(平成20)年・筆者撮影

 ▽青森県初の五輪選手
 陸上競技短距離選手として活躍した井沼清七(いぬませいしち)は、1907(明治40)年、中里村に生まれた。中里尋常小学校高等科卒業後、弘前中学で陸上競技を始め、早稲田大学進学後、名伯楽山本忠興(やまもとただおき)(早稲田大学理工学部教授としての職務の傍ら、学生陸連会長やアムステルダムオリンピック総監督などを務め、スポーツ界の振興に尽力した)の指導によって天性の資質を一気に開花させた。
 当時の早稲田大学競走部には織田幹雄(おだみきお)、南部忠平(なんぶちゅうへい)、西田修平(にしだしゅうへい)らの強豪がひしめいていた。織田はアムステルダムオリンピック三段跳で優勝、日本に初の金メダルをもたらし、南部も32(昭和7)年ロサンゼルスオリンピック同種目で優勝を飾った。西田はロサンゼルスオリンピック棒高跳準優勝に続き、36(昭和11)年ベルリンオリンピック棒高跳でも準優勝となり、3位の大江季雄(おおえすえお)と半裁した銀銅メダルを合成した「友情のメダル」を分け合ったエピソードで知られる。
 井沼清七は、これらのメダリストたちと組んで国内外の400メートルリレー走に出場し、多くの記録を樹立した。低い体勢からのスタートダッシュを得意とし、序盤50メートルまでは当時「暁(あかつき)の超特急」と賞された吉岡隆徳(よしおかたかよし)さえも及ばなかったと伝えられる。
 名スプリンターとしての地位を確立した清七は、28(昭和3)年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピック大会日本代表に選出され、400メートルリレー走第1走者として、本県初のオリンピック出場選手の栄誉に浴した。
 31(昭和6)年、第7回ス・ノ・ゴ三巴戦(スパルタ青森中学・ノーマル青森師範・ゴルゴン弘前中学対抗戦)100メートル競走に弘前中学OBとして出場し、10秒9という驚異的なタイムで優勝した。同タイムは75(昭和50)年まで、44年間にわたって破られなかった本県公認記録である。
 彫刻家古川武治(こがわたけじ)制作による「井沼清七之像」は、95(平成7)年中泊町運動公園に建立された。織田幹雄自筆「より速く より高く より強く」の銘文とともに、清七の力強いスタートダッシュの様子が復元されている。
 ▽スポーツ大国の原点
 中泊地域では田植え後の運動会、秋季の奉納相撲大会はサナブリやお山参詣と並ぶ一大行事だった。観客は固唾をのんで勝敗の行方を見守り、勝者は熱狂と憧憬(しょうけい)をもって迎えられてきた。井沼清七をはじめ、今孝(こんたかし)(卓球)、出羽(でわ)の花義貴(はなよしたか)(相撲)、新岡精彌(にいおかせいや)(剣道)、米塚義定(よねづかよしさだ)(柔道)といった往年の名選手しかり、宝富士大輔(たからふじだいすけ)、阿武咲奎也(おうのしょうふみや)といった現役の幕内力士しかりである。
 連山のごとき威容はいかにしてなったのであろうか。米塚義定は自伝で、少年時代の思い出を次のようにつづっている。「(前略)小学5、6年のころから、よく大人がする農家の仕事を手伝ったものだが、例えば稲子ショイというのがあった。水を含んだ重い泥のついた稲の苗を、できるだけ多く、木で作ったリュックサックのようなものにのせて背負い、細い田のクロを渡って1・5から2・5キロの距離を運んだ。この仕事を1日中行って、それを4、5日続けると、足腰がふらふらになるほど疲れきってしまう〔中略〕。兄も私もヘトヘトに疲れてきたが、もう少し、もう少しという兄の励ましで、お互い手を休めることはなかった。それでも空がだんだん霞(かす)んで暗くなってくると、涙が出てきてどうしようもない。兄には見せまいと顔を横に向けていた〔後略〕」
 往時の苦難を述懐しつつ「このような仕事が結果的にはどれほど足腰を鍛えてくれたかと思うと、今も感謝している。」と結んでいる(「武士道アメリカを征く―全米柔道の父と呼ばれて40年―」)。
 また、かつて村々の辻(つじ)には、大小の自然石が置かれていた。力試しに用いる「力石(ちからいし)」である。毎夜田仕事を終えた青少年が集い、力試しに興じた。力石は大30貫(113キロ)、中25貫(95キロ)、小20貫(75キロ)程度だった。
 当時は20貫を肩に担ぎ、10歩を歩けないと一人前扱いされなかった。25貫を担げるものが3分の1ほど、30貫ともなると担げるのは村中で1、2人にすぎなかったという。宮野沢の力石は43貫(161キロ)とされ、担ぎ上げに成功した中里出身の草相撲力士「鬼の里」ほかの名が刻まれている。
 「スポーツ大国」の成因は複合的であるが、少なくともスポーツ礼賛の土壌と、過酷な環境下での米作りに伴う心技体の鍛錬が、基盤となっていることは間違いないであろう。
 ▽中泊のDNA紹介
 中泊町博物館は東京五輪開催を記念して、井沼清七ほか中泊関連のスポーツ選手の業績やグッズ、オリンピック関連用具など約200点を紹介する企画展「スポーツ大国の群像#中泊」を開催中である(6月21日まで)。本企画展により、当町のDNAの一端を感じていただければ幸いである。
*新型コロナウイルス流行の状況によって、臨時休館・期間変更となる場合があります。最新情報は、中泊町博物館ホームページなどでご確認ください。
(中泊町博物館館長・斎藤淳)

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大鰐のシンボル相生松=132

2020/5/4 月曜日

 

写真1 専称院から見た相生松=明治末期から大正初期・青森県所蔵県史編さん資料
写真2 相生松の下にあった相生橋=大正中期・青森県所蔵県史編さん資料
写真3 相生橋と若松湯。橋の右横に見える建物が若松湯=明治末期・青森県所蔵県史編さん資料
写真4 渡り初めを見ようと若松会館に集まった人々=1965(昭和40)年3月7日・青森県所蔵県史編さん資料

 ▽相生松
 大鰐温泉郷の中心を流れる平川には多数の橋が架かっている。わずか1キロほどの間に上流から青柳橋、中の橋、月見橋、相生橋、夏沢橋、羽黒橋、虹の大橋、そしてJR線の第二平川鉄橋がある。まさに「橋の町」である。
 橋の話題は『大鰐町史』に多く紹介されている。このため今回は茶臼山入り口の日精寺(にっしょうじ)近くにあった相生松(あいおいのまつ)の話題を紹介したい。二本に分かれた枝ぶりの良さから名付けられた松である(写真1)。ただし老木で倒伏の恐れがあるため、1922(大正11)年に伐採された。現在、その姿を見ることはできない。
 松には「神の来臨をマツ木という語源説がある」(『日本の神仏の辞典』より)。日精寺の境内には相生龍神堂がある。相生龍神は同寺の守護神であり、相生松の下に勧請(かんじょう)されたものだった。日精寺は妙見信仰を取り入れた日蓮宗の寺である。
 日精寺にとって相生松は神木同様の存在だった。寺では伐採した相生松の素材でテーブルを作り、本堂に納め信者たちが大切に使ってきた。長年使用され、傷みがひどくなってからは衝立(ついたて)に作り替えられ、今も大切に保存されている。
 ▽相生会
 増田手古奈(てこな)は大鰐町出身の俳人として有名だ。彼の恩師だった箕輪田銀一郎は、大鰐尋常高等小学校長を務め、乃木会、相生会、青年団などの組織を作り、大鰐町の発展のために尽くした。
 相生会は15(大正4)年9月、2カ月後に実施される大正天皇の即位礼を前に結成された。箕輪田は大鰐大橋と呼ばれていた橋を相生橋と名付けた。橋が相生松の下にあったからだろう(写真2)。会の名前を相生会としたのも相生松にちなんだものと思われる。
 茶臼山は、かつて里見館と呼ばれていた。1900(明治33)年、大鰐スキー場の開発に貢献した中嶋恒栄が里見館を公園にするよう提案し、相生会の会員たちが桜を植樹した。増田によれば、里見館を茶臼山と命名したのも箕輪田だったという。
 66(昭和41)年、衰えつつあった桜を惜しんだ大鰐営林署員がツツジを植樹し、3年後に大鰐中学生たちが引き継いだ。そのツツジが見頃になった78(昭和53)年に第1回の「大鰐温泉つつじまつり」が開催された。つつじまつりは大鰐町を代表する祭りとなった。
 ツツジは茶臼山の桜に代わる存在といえる。その桜は相生会が植樹したものだ。相生会は相生松に由来する。伐採された相生松の勇姿は、桜からツツジへと姿を変え、受け継がれていったように思えてならない。
 ▽若松会館
 老木だった相生松だが、別名を若松といった。かつて松のあった周辺の集落は若松町と呼ばれていた。相生松の近くにあった共同浴場は若松湯と名付けられ、今も若松会館として大鰐町民が愛用している。火事や水害で倒壊しても再建され、その都度建物は大きく立派になった(写真3)。町民にとって大切な存在である証拠だ。それは今も変わらない。
 かつて若松会館は集会や催し事に利用され、結婚式や葬式も行われた。温泉付きの公民館だったのだ。若松湯は橋端の湯とも称した。相生橋の端にあったからだろう。最近まで若松会館の隣に「はしばた食堂」があり、町民に親しまれていた。共同浴場も食堂も相生松にちなんだ名前である。相生松が温泉郷の中に根付いていることがわかると思う。
 ▽相生橋
 相生会の会員たちは、県議に地元出身の前田蔵吉を応援して当選させた。前田の働きで24(大正13)年、木橋だった相生橋は鉄筋コンクリートの橋になった。しかし皮肉にも35(昭和10)年8月の豪雨で、平川のごみや流木が橋に引っ掛かり大水害を引き起こす原因になった。橋桁が低く橋脚の多い構造が問題になったのだ。
 60(昭和35)年の大水害を契機に、相生橋は橋桁が高く橋脚のないつり橋に架け替えられた。65(昭和40)年3月7日の渡り初めには、大勢の町民が集まって橋の完成を祝った(写真4)。何度も橋を流されてきた町民にとって、橋の完成は悲願だった。
 相生松は伐採後、間もなく100年になる。その存在を知らない町民も多いと思う。しかし、相生松は大鰐町にとって大切な橋や共同浴場に名を残している。たった一つの木にも歴史を紡ぎ出す力があり、その歴史を通じてさまざまな文化が育まれてきたのである。
 相生松はなくなっても、松が紡ぎ出したさまざまな事象を共有していくことで、大鰐温泉の歴史と文化は今後も継承されていくと思う。
(県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ主幹・中園裕)

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