津軽の街と風景

 

懐かしの「青森行進曲」=127

2020/1/20 月曜日

 

昭和初期の油川町=青森県所蔵県史編さん資料
青森飛行場=1933(昭和8)年頃・青森県所蔵県史編さん資料
青森市の新町通りを走るバスとタクシー=昭和戦前期・青森県所蔵県史編さん資料
聖徳公園=昭和戦前期・青森県所蔵県史編さん資料

 ▽青森市域の拡張
 昭和初期、不況対策を打開するための財政基盤を強固にする措置として、全国各地で市域の整備と町村合併が着手された。
 1927(昭和2)年4月1日、青森市西部の滝内村大字沖館、新田、古川と、青森市東部の造道村大字造道、八重田が青森市に合併された。これによって市域は青森湾に沿って東西方向に拡張した。32(昭和7)年6月1日には、市街南方の大野村字北片岡と北金沢が青森市と合併し、市内南部を通る東北本線がすべて市域に包摂された。
 戦前期の市域の拡張を大きく前進させたのが、39(昭和14)年6月の青森市西部に位置し青森湾に面した油川町との合併だった。
 ▽青森飛行場(油川飛行場)
 青森市との合併前には油川町と東京、仙台、札幌を結ぶ定期航空路が存在した。
 32(昭和7)年7月、油川町から政府に対して「青森飛行場ヲ油川町ニ建設サレタキ件」の陳情がなされた。その頃、凶作によって疲弊した東北、北海道地方の救済策の一環として、東京と札幌の間に航空路を新設し、青森市付近の郊外に飛行場を新設するという計画が政府で持ち上がった。青森市に隣接する油川町でも、不況や凶作による町民の生計は苦境に立たされていた。
 こうした陳情が認められ、同年11月23日には青森飛行場の起工式が挙行された。翌年3月11日には逓信省飛行場として開所され、4月1日から日本航空輸送株式会社が経営する6人乗りの旅客機による定期航空路が開通したのである。
 ▽昭和初期の青森市
 32(昭和7)年に発表された「青森行進曲」は、港町青森の風物を軽快なメロディーで歌ったものだ。作詞は東奥日報社記者の相馬重一、作曲は東京在住の貝塚正治郎、歌はコロムビアレコード専属のバリトン歌手である次田勝がそれぞれ担当し、コロムビアレコードから売り出された。
 デパートが建ち、市営バスが行き来する当時の青森市街の近代化された様子や風俗を描写した言葉が、歌詞の随所にちりばめられている。
 ▽市営バスの営業
 市営バスの営業は青森市内で乗合自動車業を営んでいた篠原善次郎の寄付により始まった。篠原は1855(安政2)年の鹿児島生まれ、同郷の北海道開拓長官黒田清隆の命により農学を修めたのち、北海道庁に奉職した。82(明治15)年に青森に移住し、実業を志して翌年に青森、弘前間の乗合馬車事業に乗り出した。
 1924(大正13)年に、乗合自動車の運行を思いつき、市に対してバス5台を寄付。それをもとに市営事業とすることを申し出たが許可されず、自らその経営に当たることにした。市域西端にある青森駅から東端の合浦公園までのルートに、大町経由と国道経由の2路線を設置し経営した。
 行進曲の歌詞に出てくる「モダン大町」は、青森市の金融や商業の中心地だった。事業は順調に収益を挙げたので、26(大正15)年3月、再び市に対してバス6台と運営資金として現金1万5000円を添えて寄付を申し出て受理された。翌月、市では交通部を新設して、市営バス事業が始まった。
 ▽パニクラパイプ
 1番の歌詞に出てくる「パニクラ」とは、昭和初期、青森県師範学校手工科教諭の西館弥輔が考案した喫煙パイプのことである。材料の根曲竹(ねまがりたけ)の学名が「パニクラタ」なので当初は「パニクラタパイプ」と呼ばれていたが、言いにくいことから「パニクラパイプ」となった。当時の大衆たばこだったゴールデンバット用のホルダーの一種で、隣県の秋田や岩手からも需要があったという。
 2番の歌詞にある「競馬」は、31(昭和6)年に始まった青森競馬のことである。第1回は8月2日から3日間開催され、市内佃の競馬場には2万人の競馬ファンが押し寄せた。
 ▽聖徳公園
 3番の歌詞には「聖徳公園」が登場する。浜町桟橋(現在の中央埠頭(ふとう)付近)は明治天皇が東北巡幸の際に3度にわたり乗船、上陸した地であることから、28(昭和3)年に有志が「明治天皇御巡幸御渡海記念碑建設会」を設立。30(昭和5)年11月3日に浜町旧桟橋西側の建設場所で落成、除幕式が挙行された。
 その記念碑の周辺に小公園が整備され、31(昭和6)年7月8日(開園式は7月16日)に「聖徳(せいとく)公園」として開園した。公園名は記念碑正面の閑院宮殿下揮毫(きごう)による「景仰聖徳(けいこうせいとく)」の題字から命名された。
 このように県都として発展した青森市は、青函ルートにおける連絡口として重要視され、太平洋戦争では函館市と同様に空襲の標的となった。だが函館市と異なり、青森市は中心市街地の多くが焦土となり、行進曲で歌われた繁栄は失われた。
(弘前大学國史研究会会員 竹村俊哉)

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神人一体の七日堂祭=126

2020/1/6 月曜日

 

御柳神事=2016(平成28)年2月14日・筆者撮影
御宝印神事=2016(平成28)年2月14日・筆者撮影
三拍子神事=2008(平成20)年2月13日・筆者撮影

 ▽岩木山神社
 岩木山神社、猿賀神社、鬼神社では、旧暦1月に「七日堂祭」と呼ばれる神事が行われる。中でも柳の大枝を盤に突き立てたり、打ち付けることでその年の農作物の豊凶や天候を占う「柳の神事」はこの神事を代表するものとして知られており、毎年多数の参詣者が訪れて占いの結果に一喜一憂する。岩木山神社と猿賀神社では旧暦1月7日、鬼神社では旧暦1月29日に行われる。
 これらの神事は、三社それぞれで名称や内容に差異はあるものの「津軽の七日堂祭」として2009(平成21)年、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された。ここでは、岩木山神社の七日堂祭についてご紹介しよう。
 同社では「七日堂神賑祭(なぬかどうしんじんさい)」と称し、拝殿で行われる。神事が行われる旧暦1月7日は、冬の中でも特に寒さが厳しい頃と言われる。天候は毎年異なるが、拝殿には暖房器具はほとんどなく扉も開いたまま行われるため、何といっても寒い中行われる神事である。岩木山大神と神職、氏子そして参詣者たちが、まさに神人一体となって行われる神事と言っても過言ではないだろう。
 ▽特徴ある行事
 神事の中でも御柳(みやなぎ)神事、御宝印(ごほういん)神事、御神燈点火(ごしんとうてんか)神事、三拍子神事、散米神事が七日堂祭としての特徴ある行事である。
 御柳神事は稲作を中心とした五穀の豊凶占いとされ、長さ1・8メートルもある柳の大枝を神職が呪言を高唱してから持ち上げ、勢いよく木盤に突き立てる。突き立てたときに柳が傾かず、また稲穂のように飾り付けた御札類が落ちなければ吉とする。
 3度行い、これらを早稲・中稲・晩稲の稲の出来や年間の天候などに見立てたりする。決まった見方はなく、参詣者それぞれが長年の経験によって判断する。例えば、柳が倒れた年には洞爺丸台風が来たとか、御札が多数落ちた年にはリンゴに大きな被害をもたらした台風19号が津軽地方を直撃したなどである。参詣者それぞれのデータの蓄積があるのだ。
 御宝印神事は、長さ1・8メートルもある胡桃(くるみ)の若生の先端に神社に伝わる牛玉宝印の料紙(「岩木山宝印」と刷られる)を巻き付けた杖(つえ)を、天地四方と参詣者一人一人の額に捺(お)し向けるもので魑魅魍魎(ちみもうりょう)の退散を祈願する。
 御神燈点火神事は、火打ち石を用いて火を採る神事である。何回目で着火するか、神職の手元に注目が集まる。この火は次に行われる三拍子神事で使用される。
 三拍子神事は年間の天候を占うもので、有力な氏子によって行われる。風を表す大御幣の振り納めと、暑気を表す大鍋の護摩の火を蓋(ふた)で押さえるのと、雷雨を表す太鼓の打ち止めのタイミングが一致するか否かで占う。3度行い早稲、中稲、晩稲の出来や年間の天候を占う。
 散米神事は、神職が呪言を高唱してから御神米を天地四方に蒔き浄(きよ)めるものである。
 ▽七日堂という名称
 行事の名称である「七日堂」という特定の建物は存在しない。この名称は、行事が行われる「七日」に建物を意味する「堂」という言葉が付いたものである。資料としては弘前市賀田に住んだ豪商金木屋の日記の1854(嘉永7)年1月7日条「今日、百沢七日堂、参詣人見ゆる」という記事が最も古いもののようだ。
 ただし、読み方は神社側ではナヌカドウと呼ぶのに対し、一般的にはナノカドウと呼ばれることが多い。日本語ではナヌカが標準語とされるが、津軽地方では、「ヌ」が「ノ」に転訛(てんか)することがあり、それによってナノカドウとも呼ばれている。
 ▽稲は柳に生ず
 七日堂祭では、柳が神事の中心的な役割を持つ。江戸時代前期の農学者宮崎安貞の『農業全書』には「稲は柳に生ずとて、楊柳のさかゆる歳が稲のよきものなり」、すなわち稲は柳とともに成長すると言われ、柳の生育が盛んな年に稲は豊作とされていると記されている。柳と稲作には深い関わりがあると考えられていたようだ。まさに稲作の出来を占うに適した植物であろう。
 ところで、江戸時代に岩木山神社の前身である下居宮の別当を務めた百沢寺の資料に「正月七日修正導師作法」「牛玉導師作法」というものが記録されている。修正会や修二会とよばれる新年に行われる儀礼は奈良時代以来、法隆寺、興福寺、薬師寺といった都の大寺院などで行われており、中でも東大寺の修二会は「お水取り」として著名である。これらの特徴として「柳」「牛玉宝印」「新しい火」を用いることが挙げられる。
 「柳」は祈りの言葉を唱(とな)えて加持することで、籠(こ)もっている呪術(じゅじゅつ)的な力をさらに強いものにして使用する。「牛玉宝印」は、修正会や修二会の時だけに刷られる特別な御札であるが、紙に捺印(なついん)した御札よりも「印」そのものを直接体に捺(お)すのが古い形であるという。薬師寺でも参詣者の額に直接印を押し当て、東大寺でも参加した僧侶の額に直接押し当てている。「新しい火を採る」ことは、年の初めの行事として重要な意味を持つのである。
 岩木山神社の七日堂祭でも、柳を用いて作占いをし、参詣者一人一人の額に牛玉宝印を押し向け、火打ち石で新しい火を採ることは、奈良時代以来の修正会としての要素をしっかりと伝えていることが分かる。
 この神事は、津軽地方における修正会の伝播(でんぱ)と北奥地域における宗教史を考える上でも欠くことができない神事である。さらには、古代以来の日本の宗教儀礼と比較研究する上でも重要な行事と言える。
 今年の岩木山神社七日堂神賑祭は、1月31日(金)午前11時から斎行される。参詣は自由なので、この機会にご覧いただければと思う。
(日本民俗学会会員 石戸谷勉)

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郊外の歴史にも光を=125

2019/12/23 月曜日

 

中郷村にあった完成間近の黒石駅=明治末期・青森県所蔵県史編さん資料(青森県史デジタルアーカイブスの絵はがき・写真類データベースで閲覧可能)
六郷村域の高館に並ぶ屋敷群=2019(令和元)年11月2日・筆者撮影
浅瀬石城跡から見た舘神社と岩木山=2019(令和元)年11月2日・筆者撮影
牡丹平小学校の旧校舎=1960(昭和35)年頃『黒石市大観』より転載

 1954(昭和29)年7月1日、黒石町と中郷、六郷、浅瀬石、山形の4村が合併して黒石市が誕生した。中町のこみせなど中心街の街並みが有名な黒石市だが、郊外の歴史や魅力に光を当てたい。
 ▽中郷村
 中郷村は1889(明治22)年の市制・町村制施行で黒石、株梗木(ぐみのき)、東野添、野際、上目内沢、下目内沢、小屋敷、飛内、北田中、東馬場尻、西馬場尻、境松の各村が合併して誕生した。黒石町を取り囲むように存在し、黒石駅をはじめ今日の黒石市の重要な施設はほとんど中郷村域にあった。当初、黒石町にあった警察署や病院も後に中郷村域に移った。
 昭和の大合併が浮上した際、真っ先に黒石町との合併が叫ばれた。黒石町としても中郷村と合併しなければ不便を来すため、両町村の合併が黒石市誕生の鍵となった。
 中郷村域は黒石市の発展と共に大きく変貌した。特に東野添地区は都市計画や区画整理などで各地に住宅街が形成された。現在の角田、八甲、青山、あけぼの町、松原などは、70年代以降に東野添を改名して誕生した新興住宅街である。
 ▽六郷村
 六郷村は上十川、赤坂、三島、高館、竹鼻、二双子の6村が合併して成立。6村合併にちなんで村名が選ばれた。村域は現在の黒石市北部である。
 六郷村には大地主や豪農が多かった。中でも戦前に活躍した上十川の宇野清左衛門と勇作は、親子で貴族院議員を務めた大地主であり、資産家として数多くの要職に就いたことで知られる。
 上十川の宇野家の他、特に高館には大平家や木立家など、六郷村時代に村の幹部職を務めた家系の立派な屋敷が数多く存在する。高い塀に取り囲まれた大きな母屋と数多くの蔵、整備された庭園など通りからうかがえる屋敷群は見応えがある。
 村の東端に位置する法峠は、1928(昭和3)年に弘前新聞が実施した「津軽十景」で3位になった景勝地。間近に日蓮宗僧侶の日持が開いた法峠寺がある。現在、上十川から法峠を経て酸ケ湯に至る「幻の県道」探索ハイキングが毎年実施されている。その際には六郷村域の屋敷群も鑑賞してもらえればと思う。
 ▽浅瀬石村
 浅瀬石村は浅瀬石川の南側に広がる村で、中川、浅瀬石、高賀野(こがの)が合併して成立した。村南部の高賀野には浅瀬石城跡がある。津軽為信の津軽統一を支えた千徳家が城主だったが、後に津軽家によって滅ぼされた。
 69(昭和44)年に結成された浅瀬石地区史蹟保存会は、同年中に城跡や歴代城主らを祭る舘神社(たてがみしゃ)を建立した。75(昭和50)年には落城時に残ったとされる一本杉の史跡指定に尽力した。城跡周辺に大看板を設置し、毎年草取りをするなど、城跡の宣伝と維持管理を継続している。
 民謡の「津軽じょんから節」は、浅瀬石城の落城から生まれたと言われる。浅瀬石地区周辺では「じょんからのふる里」を宣伝している。高賀野から石名坂へ向かう途中、浅瀬石川に架かる上川原橋は「じょうがわらばし」と読み、それが「じょんから」のゆえんになったという。一本杉も「じょんから杉」と称すことがあるが、現在の一本杉は東北自動車道の建設に際し、現在の場所に移植されたものだ。
 浅瀬石城跡周辺からの眺めは美しく、特に岩木山の眺望は素晴らしい。浅瀬石川の河原から眺める周辺の景色も美しい。いずれも黒石市が定める「くろいし景観資産」に指定できる光景である。
 ▽山形村
 山形村は牡丹平、石名坂、豊岡、花巻、下山形、上山形、袋、温湯、南中野、大川原、板留、二庄内、沖浦の各村が合併してできた文字通りの山村である。1平方キロに満たない小さな黒石町が210平方キロを超す大きな黒石市になった最大の要因は、160平方キロ近くあった山形村と合併したからである。
 山形村を語る上で山形温泉郷(現黒石温泉郷)の歴史は欠かせない。本連載で温泉郷の歴史を紹介したが、温泉郷は観光地である前に、現地の人たちにとって生活の場であることを忘れがちだ。
 山形村域には温湯、落合、板留の各温泉近くに東英小中学校があり、二庄内、沖浦両温泉近くに沖浦小中学校があった。街場に位置し最も大きかった牡丹平小学校をはじめ、山中には大川原小学校、開拓集落には厚目内小中学校があった。分校を入れれば、その数はもっと多い。それだけ多くの人々が生活し、子どもたちの数も多かったのだ。彼らは観光を主たる収入源にしているのではなく、元から各集落で生活してきたのである。
 しかし、浅瀬石川ダムの建設や過疎化に伴い、山形村域にあった学校の多くは閉校ないし統廃合されていった。2020(令和2)年4月から、牡丹平小学校は黒石東、追子野木、浅瀬石の各小学校と統合し、新たに黒石東小学校となる。同じく中郷、六郷両村域でも、黒石、中郷、北陽の各小学校が統合し、新たに黒石小学校となる。
 ▽学校資料
 学校、特に小学校が地域共同体の維持に大切であることは言うまでもない。廃校の利活用と小学校に代わる地域の拠点を真剣に考えねばならない時代が来たのである。
 廃校の利活用に際し、沿革史や学校運営に関する諸資料と、子どもたちの成長を記した学校文集や写真アルバムを廃棄せずに保存し、地域作りのために活用してほしい。昭和の大合併前に存在した町村の歴史を知る資料として、学校に残されている文集や写真類は大変役に立つからである。
 入学式に始まり、運動会や文化祭、そして卒業式に至るまでの学校の行事は、小さな町や村にとって大きな出来事である。学校の記憶は学校に通っていた子ども時分よりも、親世代になって年齢を重ねるほど、かけがえのない思い出となり宝物になるはずだ。
 学校のあった地区の公民館などで資料が保存活用できれば望ましいが、黒石市では図書館新設の動きがある。学校資料を保存し、市民が利用できる仕組みがあれば新設図書館の目玉になろう。郷土資料を豊富に所蔵することは市町村図書館の利点になる。廃校舎をはじめ図書館や公民館を、地域の人々が集まる拠点に位置づけることも有効な選択肢であると思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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国民学校と長い戦争=124

2019/12/2 月曜日

 

1943年の中学校令により高等学校は2年制、中学校は4年制に短縮された。
写真1 日米開戦1周年「大詔奉戴日」の授業風景。金木町(現五所川原市)の金木国民学校=1942(昭和17)年『五所川原・つがる・西北津軽の昭和』いき出版、2018年より転載
写真2 尾上町(現平川市)の金(かな)田(た)国民学校女子学童たちの弓道練習。国民学校では武道が正課とされ、女子は弓道や薙刀(なぎなた)を習った。足元には学校菜園の畑が見える=1943(昭和18)年『弘前・黒石・平川の昭和』いき出版、2014年より転載
写真3 鶴田町の水元国民学校高等科児童。水元校では校地の一部を割いて学校農園を設けた=1941~45(昭和16~20)年頃『五所川原・つがる・西北津軽の昭和』いき出版、2018年より転載

 ▽臨時ニュース
 1941(昭和16)年12月8日、月曜日の午前7時、ラジオからは時報に続き、臨時ニュースを告げるチャイムが流れた。アナウンサーの声の調子はいつもと違っていた。
 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋上においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」
 大本営は戦時または事変に設置される最高統帥(とうすい)機関で、戦況の公式発表は大本営が行った。家庭にラジオのある子どもたちは、この放送を聞いて登校した。ラジオ加入者数は弘前市で世帯数の6割強、青森市でも5割弱に達していた。ほとんどの学校にはラジオがあった。多くの学校では、担任が戦争について話したり、校長が児童を集めて勝利に向けた訓話をしたりした。
 戦争はこの日から始まった訳ではない。37(昭和12)年以来、中国との戦争が続いていて、その戦争がアメリカ・イギリスとの戦争に拡大したのだ。日中戦争が始まると、弘前で編成された第8師団、第36師団などが続々と中国大陸に出動。小学生は出征部隊の歓送迎、勤労奉仕などに駆り出され、学校は戦死した兵士の市町村葬の会場ともなっていた。すでに子どもたちの周囲には戦争があふれていた。
 ▽小学校から国民学校へ
 41(昭和16)年の4月から小学校は国民学校と改称されていた。初等科6年(小学校尋常科に相当=義務教育)と高等科2年。国民学校は「皇国の道」に則(のっと)って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成をなすことを目的としたもので、国家主義的な教育が徹底されることになった。
 翌年1月から毎月8日は「大詔奉戴(たいしようほうたい)日」とされた。天皇の対英米開戦の詔書(しょうしょ)が出された12月8日を忘れず、戦争目的完遂を目指そうという日だ。学校でも詔書奉読、校長講話、国旗掲揚などの行事があった。
 開戦1年目の大詔奉戴日の教室を写した写真がある(写真1)。日本の勝利が続き、太平洋は「大日本洋」となったとの説明だ。しかし、6月のミッドウエー海戦で日本海軍は航空母艦4隻を失い、アメリカ軍の反攻が始まっていた。
 海戦の敗北以後、大本営発表は事実を伝えなくなった。先生も子どもたちも勝利を信じていた。
 ▽労働力も食糧も足りなかった
 日本が対英米戦を決意したのは、41(昭和16)年8月にアメリカが日本に対して石油輸出全面禁止などの経済制裁を強めたことにある。これは日本が仏印・フランス領インドシナ(現ベトナム・ラオス・カンボジア)の南部に進駐したことへの対抗措置だった。日本は進駐の中止ではなく、戦争の道を選択した。英米との戦いは、資源の乏しい日本が資源を確保するための「自存自衛」のやむを得ない戦争だと政府は説明した。
 しかし、足りなかったのは資源だけではない。長い戦争で労働力と食糧の欠乏が深刻になった。中等学校(中学校・高等女学校・農業学校など)以上の学生・生徒は学徒勤労動員されていた。県内の中等学校生徒の動員先は、大湊(むつ市)の海軍工廠(こうしょう)、県内や神奈川県の軍需工場などだった。残った働き手は国民学校の児童だけになった。
 ついに国民学校高等科の勤労動員が始まった。44(昭和19)年5月、軍需工場の増えた青森市では、県の第一陣として浦町国民学校高等科女子300人が缶詰工場、航空機関連工場などに通年動員された。鯵ケ沢町の西海国民学校では前年から田植え、造林、薬草採集、水産物の乾燥作業などの勤労奉仕をしていたから、そのまま農林水産関係に動員されたのだろう。
 国民学校は県からヒマ(トウゴマ)の栽培も指示された。油(ヒマシ油)を航空機エンジンの潤滑油として使うためだった。食糧どころか、軍事物資まで子どもたちに依存したのだ。
 ▽食糧増産も国民学校頼み
 45(昭和20)年3月には国民学校初等科以外の授業は4月から1年間停止と決まった。
 5月。県は船沢村(弘前市)の開墾地の一部の農耕地を弘前市内各国民学校に割り当てた。県は(1)児童1人当たり10本の南瓜(かぼちゃ)を植え(2)1本当たり1貫(3・75キログラム)の収穫を目標としてその半量を供出すること(3)土地と種子は各自用意することと通牒(つうちょう)した。子どもたち自身が用意した種子で南瓜を作らせ、その半分を取り上げるという虫のよい政策だ。
 弘前市内各国民学校5、6年の男女児童は片道10キロも離れた開墾地まで隊列を組んで行進し、農作業に取り組んだ。食糧不足と重労働で倒れる児童もあった。
 8月15日も子どもたちは働いていた。開墾地からの帰り道、敗戦を知った先生も子どもたちも途方に暮れてただ座り込むしかなかったという。
 戦後、収穫期に子どもたちが開墾地に行ってみると、南瓜は跡形もなく消えていた。
 47(昭和22)年3月31日、日本国憲法に基づく教育基本法と学校教育法が公布された。4月1日から国民学校に代わり六三制(小学校6年・新制中学校3年)の9年間の義務教育が始まった。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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中泊の「大宅」宮越家=123

2019/11/18 月曜日

 

写真1 宮越家主屋=1912(大正元)年・中泊町博物館提供
写真2 宮越正治夫妻と安達謙蔵逓信大臣=1926(大正15)年・中泊町博物館提供
写真3 宮越家離れの庭園=2018(平成30)年・筆者撮影
写真4 涼み座敷ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供
写真5 円窓ステンドグラス=2019(令和元)年・中泊町博物館提供

 ▽豪農から地主へ
 宮越(みやこし)家は中泊町尾別(おっぺつ)に所在する旧家である。先祖は加賀国(石川県)江沼(えぬま)郡宮(みや)ノ越(こし)の出身で、江戸時代前期、金木組尾別村(後の内潟(うちがた)村)に移住したと伝えられる。当主は代々七兵衛(しちべえ)を襲名し、庄屋を務めた。豪農として知られ、1833(天保4)年に弘前藩から200両の御用金を命じられたほか、70(明治3)年に弘前藩士の救済措置として実施された「余田買上げ(帰田法)」の際には、37町歩に及ぶ田畑を提供した。
 半ば強制的に土地を取り上げられたことにより、近世豪農の多くが家勢を削(そ)がれる中、宮越家においては中興の祖と謳(うた)われる8代目要三郎(ようざぶろう)を中心に立て直しを図り、以前にも増して興隆の時代を迎えることになる。
 例えば、97(明治30)年の地価換算に基づいた北津軽郡の大地主として1、2位だった五所川原村の佐々木喜太郎(ささききたろう)と嘉太郎(かたろう)(布嘉(ぬのか))、4位だった金木村の津嶋惣助(つしまそうすけ)(太宰治の曽祖父)らとともに、内潟村の宮越要三郎が8位に名を連ねている(『東奥日報』1897年4月15日)。
 要三郎の子正治(まさはる)の代も同様で、1924(大正13)年の津軽地方における100町歩以上地主一覧には、五所川原町の佐々木嘉太郎、金木町の津島文治(つしまぶんじ)(太宰治の兄)、黒石町の加藤宇兵衛(かとううへえ)(金平成園(かねひらなりえん)施主)らとともに、内潟村の宮越正治の名が見える(『青森県農地改革史』)。近代地主へと成長した宮越家の姿を垣間見ることができよう。
 ▽黒塀地主「宮越家」
 津軽地方の近代地主には、「黒塀(くろべい)地主」と「レンガ塀(べい)地主」の2類型がみられるという(工藤睦男「津軽地方における地主制の発達とその特色」『コローキアム太宰治論』)。前者は、近世以来の長い伝統と歴史を有するいわゆる「大宅(おおやけ)」で、一族や地域の精神的支柱である。
 後者は、商業・金融資本を基に急速に土地の集積を進め、自らの威容を誇るため、あるいは小作争議から身を守るために高いレンガ塀で屋敷を囲んだ新興地主である。レンガ塀地主の多くが、戦後の農地改革などを経て没落する一方、黒塀地主は、土地を失い黒塀が朽ちかけても、今なお隠然たる影響力を保持しているという。
 宮越家は、黒塀地主の典型といってよいであろう。黒塀を巡らせた外観もさることながら、地域と一体となって歩んできた歴史がそれを物語っている。例えば1739(元文4)年七兵衛は現在の神明宮(しんめいぐう)に寺子屋を開設し、飯米などの支給も行いながら村内の子弟に読み書きそろばんを習わせたとされる。
 1881(明治14)年に尾別小学校が開設される際は、要三郎が学校用地を無償で提供したほか、校舎新築費・学校運営費をはじめ、教員の給料まで助成した。その後も代々にわたって、校舎建設や備品購入に際して後援を行うなど、宮越家は、物心両面から地域教育を支え続けてきたのである。
 宮越家は芸術文化の良き理解者でもあった。9代目当主の正治は、漢詩に秀で「機山(きざん)」と号した。詩文も能(よ)くした書家の奥田抱生(おくだほうせい)に師事し、長勝寺(ちょうしょうじ)(弘前市)住職らとも漢詩を介した交友があった。夫人イハは、五所川原湊の名門、衆議院議員平山為之助(ひらやまためのすけ)の実妹である。女流歌人として知られ、「麗子(れいこ)」と号した。旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄(やとみはまお)に師事するとともに、他地域の歌人と交流して作歌の道を究(きわ)めた。
 ▽宮越家離れと庭園
 宮越家離れ「詩夢庵(しむあん)」は、1920(大正9)年に宮越正治が、イハの誕生日の贈り物として設計・建築した瀟洒(しょうしゃ)な木造平屋建て住宅である。比較的シンプルな外装と比べ、建具や調度は贅(ぜい)が凝らされている。襖(ふすま)絵は狩野山楽(かのうさんらく)や岩佐又兵衛(いわさまたべえ)(あるいは土佐光起(とさみつおき)とも)作画と伝えられるほか、床板・天井・欄間などにも高級な素材・技法が用いられている。
 中でも目を引くのが、わが国のステンドグラスのパイオニア、小川三知(おがわさんち)制作のステンドグラス作品群である。「涼(すず)み座敷(ざしき)」の窓を飾る大型作品にはアジサイとコブシ、「円窓(まるまど)」には十三湖を思わせる景観、「風呂」にはアヤメとカワヤナギ・カワセミが配される。
 これらの作品は、当時のデザイン潮流を意識しながらも、借景・障子・余白・植物・山水など「和」の意匠を巧みに取り入れ、技巧的なガラス技術の粋が盛り込まれており、三知の最高傑作として評価されている。
 庭園「静川園(せいせんえん)」は、26(大正15)年に逓信大臣安達謙蔵(あだちけんぞう)が訪問した名園としても知られる。「離れ」を囲むように、「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)庭園(明治頃)」「枯山水(かれさんすい)庭園(大正)」「池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園(大正)」の3時期3種類の庭園が確認され、古今の庭園を巧みに融合させながら形成された複合庭園と評価される。
 木彫が施された優美な建築物である「達磨堂(だるまどう)」は、池泉庭園の築山(つきやま)奥に位置する。長勝寺(弘前市)将来とされる「厨子(ずし)」および「達磨像(だるまぞう)」など、一級の美術品が安置されている。
 ▽保存整備と一般公開
 中泊町は宮越家の協力を得ながら、離れ・庭園の調査・保存整備を進めており、築100周年を迎える2020(令和2)年秋に限定公開を行う予定だ。大正浪漫(ろまん)溢(あふ)れる遺産との邂逅(かいこう)まで、今しばらくお待ちいただければ幸いである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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