津軽の街と風景

 

貴重な旧制木造中講堂=97

2018/9/3 月曜日

 

中央公民館講堂外観。解体の直前に撮影。長年の風雪による損傷が目立つ=2017(平成29)年1月・つがる市教育委員会撮影
講堂内部。ステージの奥に格納所あ。写真は現在のステージで、建設当初は半分に満たない小さなものだった=2017(平成29)年1月・つがる市教育委員会撮影
旧制木造中学校時代の講堂。全校集会中の写真で、ステージで話すのは小野寺重吉初代校長か=昭和初期・県立木造高等学校提供
 戦後の木造高等学校全景。講堂と旧校舎は開校以来の位置。新築の体育館と白い商業科棟は中央公民館に転用される=1964(昭和39)年6月・県立木造高等学校提供
解体中の講堂。トラス構造の屋根は90年近くを経てもなお強固なままだった=2007(平成29)年2月・つがる市教育委員会撮影

 つがる市木造地区は新田開発の拠点として発展し、明治以降は馬の競り市で大変なにぎわいを見せた。この町の中心部にあり、かつて津軽藩が設置した代官所の跡地に建つ「中央公民館講堂」は、1929(昭和4)年に旧制木造中学校の講堂として建てられた歴史的建造物である。
 ▽地域と学校のあゆみ
 旧制木造中学校は、1902(明治35)年に設立された青森県立第四中学校を前身とする。弘前・八戸・青森に次ぐ県内で4番目の「ナンバースクール」であり、制服と制帽をまとった姿は町民の羨望(せんぼう)の的だったという。
 しかし、学生たちの剛勇な気風に加え、他県出身者が多い教師との方言の違いもあり、生徒は教師たちに反発する。校内では授業ストライキなど騒動がたびたび起こり、さらに折からの大凶作も影響して退学者が続出、入学者は減少の一途をたどった。開校からわずか7年後には旧制弘前中学校の分校として統合され、ついには分校も14(大正3)年に廃校となった。
 だが教育に対する地域の熱意もあり、26(大正15)年に県立木造中学校として再発足を遂げ、翌年入学式を挙行する。校舎も新しく全面整備され、現在まで残る講堂はこの一環として新築されたものである。講堂では小林光政県知事や、弘前出身の中村良三海軍大将をはじめとする海軍軍人らが生徒に講話を行った記録がある。
 戦後、旧制木造中学校は学制改革によって、県立木造高等学校へと生まれ変わる。講堂は引き続き使用され、60年代後半には90度向きを変えた上で曳(ひ)き家されている。その後、72(昭和47)年に学校は近隣の新校地へ移転することとなった。大正時代の趣を残す学びやは惜しまれながらも解体されたが、旧校舎の一部は平内町の松風塾高等学校へ、講堂は旧木造町へ譲渡された。
 以降、講堂は校地の一角を転用した木造町中央公民館の施設として利用され、地域の学習の場として現在に至った。92(平成4)年には木造町指定文化財となり、町村合併後はつがる市指定文化財として引き継がれている。県内に現存する学校の講堂としては類似するものがなく、貴重な文化財であるといえる。
 ▽重厚かつ荘厳な建築
 屋根は半切り妻屋根、鉄板瓦棒葺(ぶ)きで、緑色に塗装している。キングポストトラス(三角形を単位として組んだ構造)による小屋組みとすることで、室内に柱のない広い空間を造り出している。
 外壁はモルタル塗りで、ドイツ壁(モルタル掃き付け仕上げ)と刷毛(はけ)引き仕上げが用いられた。これらは大正末から昭和初期にかけ、洋風建築で流行した工法である。屋根を支える柱に、壁を補強するためのバットレス(控え壁)を設け、白く塗り分けている点も特徴である。
 室内は横幅が約15メートル、奥行きが約22メートルで、全体的にシンプルながらも、厳粛な式典が行われるにふさわしい場に仕上がっている。青緑色の柱には柱頭飾りが付き、大きな窓枠が設けられている。天井は2段の折上額縁天井で、漆喰(しっくい)塗仕上げを施す。また、シャンデリアをつるすメダイオン(円形装飾)の壮大なデザインにも目を引かれる。
 ステージの奥には、かつて式典の際に御真影や教育勅語を安置した格納所が設置されている。格納所の左右には、フルーティング(ギリシヤ建築の柱に見られる縦溝状の装飾)を施した西洋風の角柱が立つ。上部の半円型に区画された箇所にはパルメット(シュロの葉をモチーフにした古代の装飾文様)が取り付けられており、装飾性を高めている。
 ▽解体そして復元へ
 建設から90年近くたつ講堂は老朽化も著しく、部材の腐食や剥落など破損も目立っていたため、中央公民館の閉館に伴い昨年1月に解体保存工事が行われた。その際、解体によって新たな事実も判明した。
 ステージは過去2回にわたって増設されており、3つのステージが入れ子状に残されていた。また講堂の設計者、および施行者は不明だったが、屋根の材木には部材番号のほか「成文木材部」や「木造中学校行」といった印が確認され、建設工事の一端が垣間見えた。
 解体された中央公民館講堂は、つがる市生涯学習交流センター「松の館」横へ移築復元の予定であり、今年度より工事着手となる。文化財として長く保存するだけでなく、荘厳な雰囲気を生かし、式典や演奏会の場としても活用が見込まれる。町を長年にわたり見守ってきた講堂は、これからも地域の学びやであり続けるだろう。
(つがる市教育委員会社会教育文化課文化財保護係学芸員・小林和樹)

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出材に重要な深浦湊=96

2018/8/20 月曜日

 

弘前藩の山林地帯区分(『青森県史通史編』2より)。深浦湊は西廻航路の重要な寄港地で、同地域の山林は西之浜通という地帯に区分されていた
山形岳泉写「合浦山水観」(青森県立郷土館蔵)より「無為館より眺望の図」=(上)=と、現在の深浦の様子(写真提供=国土交通省東北地方整備局青森港湾事務所)=(下)=。いずれも港の周囲が山林に囲まれていることが分かる
「山沢考」(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)より黒崎・松神近辺(現深浦町)の山林。各所に「槻アリ」「桂所々アリ」など、生育していた樹種の情報が記されている
黒瀧家文書より、1746(延享3)年8月に当時の福沢屋当主であった惣三郎から、大坂の飛騨屋伊兵衛へ、ツキやカツラの木材を送ることが記された文書の一部

 ▽弘前藩領の山林
 弘前藩は領内の約62%が山林で占められていたとされており、これら豊富な山林資源を活用した木材生産と流通が、江戸時代初期から盛んに行われていた。
 藩の廻米(かいまい)や出材にあたって重要な湊が存在していた深浦周辺の山林では、良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれていた。このため、これら山林からは江戸時代を通じて大量の木が木材として伐(き)り出され、商品として大坂の市場へと運ばれたり、江戸藩邸の建築資材などとして使用されたりした。
 ▽福沢屋黒瀧家
 深浦周辺地域における木材の生産や流通に当たって重要な役割を担っていた商家の一つに、深浦湊より北に位置する追良瀬(おいらせ)村(現深浦町)の黒瀧家が挙げられる。同家は福沢屋を称し、代々木材の移出を担ってきた家である。
 この黒瀧家には多くの古文書が残されており、同地域における江戸時代の木材生産や流通の様相、およびそれに携わった人々の活動を知ることができる。
 深浦周辺地域において木材の伐り出しと移出が盛んに行われたのは、延享期から明和期(1744~72)にかけてだった。この間に、福沢屋黒瀧家は大坂や北陸に向けて多くの木材を回漕(かいそう)した。
 例えば、1746(延享3)年8月にはツキ材の寸甫(すんぽ)(木目の通った丸太を数個に割ったもの)140本と、カツラ材48本が大坂へ向けて送られた。また、1764(宝暦14・明和元)年には、ツキ・カツラ・マツなどの木材計1275本と721本が、大坂と新潟へ向けてそれぞれ移出されている。
 ▽木材をめぐる人々
 木材の具体的な移出先は、大坂の飛騨屋伊兵衛や海松屋吉兵衛、新潟の塩屋弥惣右衛門といった商人たちだった。このうち飛騨屋伊兵衛は、江戸から盛岡藩領大畑(現むつ市大畑)へと進出し、同地を拠点に蝦夷地の山林伐採請負事業を展開していた飛騨屋久兵衛(二代目)の弟である。伊兵衛もまた、木材を取り扱う商人として1733(享保18)年に大坂へ支店を構えていた。
 福沢屋は1747(延享4)年8月に、鯵ケ沢や深浦の商人・船問屋たちとともに木材の伐り出しや販売に関わる仲間を結成した。結成に際しては、仲間内で木材伐り出し費用を平等に負担することや、販売価格を互いに協議したりすることなどが定められている。
 このほかにも、木材移出に当たっては藩領内外のさまざまな人々が関わっていた。例えば、実際に山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちである。そして、木材の回漕を担っていたのは、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちだった。さらに、彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちだった。
 深浦の木材生産や流通は、藩領内外のさまざまな人々が関与していた。これらの点から当時、深浦の木材伐り出しや、領外への移出が盛んに行われていたことが窺(うかが)えよう。
 ▽明和期以後
 明和期(1764~72)に入ると、大坂市場における木材価格の低下や藩領内における不作の影響を受け、福沢屋黒瀧家の経営は次第に困難な状況に陥った。そのため、同家はこの時期に「留山(とめやま)」(領民たちの入山・伐木が禁じられた藩有の山林)への入山や木々の伐採を藩に対してたびたび願い出ている。
 明和期以後、福沢屋の経営をはじめ、深浦における木材の生産や流通のあり方がどのように変化したのかについては、史料の残存状況などの点で追究が難しい。しかし、1846(弘化3)年の段階でも、深浦湊へ木材を積み入れるための船が21艘(そう)入港しているため、幕末に至るまで同地域の木材生産や移出が継続していたように窺える。
 深浦の山林は地域に暮らす人々と藩領内外の人々との間をつなぎ、彼らの生活をあらゆる面で支えていたのである。
(徳川林政史研究所非常勤研究員・萱場 真仁)

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風光明媚な金平成園=95

2018/7/30 月曜日

 

写真1 大石武学流で作庭された金平成園=2015(平成27)年・筆者撮影
写真2 旧加藤家住宅=2014(平成26)年・筆者撮影
金平成園の図面=黒石市教育委員会所蔵

 ▽加藤宇兵衛
 黒石駅から南に10分程歩いた住宅街に、「金平成園」または「澤成園(さわなりえん)」と呼ばれる5662・32平方メートルもの敷地を持つ大きな庭園がある。
 この庭園は「大石武学流」、または「武学流」という流派で作庭されている。1882(明治15)年に、本県の実業家であり政治家でもあった加藤宇兵衛が、凶作に苦しむ農民に仕事を与えるために作庭を依頼したものだ。
 本格的な工事は92(明治25)年から行われ、当初、大石武学流3代目の高橋亭山が作庭を行っていた。しかし、その時既に80歳を迎えていた亭山は庭の完成を待たずに死去した。
 このため弟子の4代目小幡亭樹、5代目池田亭月らが跡を継いで、1902(明治35)年に庭園を完成させた。庭園の名称は「万民に金が行きわたり、平和な世の中になるように」という宇兵衛の願いから「金平成園」と名付けられた。しかし、加藤家が1897(明治30)年頃まで営んでいた酒造業の屋号である「澤屋成之助」から、「澤成園」という名称でも呼ばれるようになった。
 ▽大石武学流
 大石武学流とは、明治時代以降に津軽地方を中心に広まった青森県独自の流派で、その発生や由来などについてはいまだ不明である。地元産の自然石で構築された石組みを主体とした庭園で、樹木についてはクロマツ、イチイ、ツツジなどを多少荒々しさが残るように植え付けているのが特徴的である。
 石組みの種類は「飛石」「礼拝石」「滝石」「遠山石」「野夜燈(やどう)」などがある。特に礼拝石は石組みの中で最も重要とされ、庭園の「神仏」を礼拝して供物を供えるための石で、絶対に上がってはいけないとされている。
 金平成園は前後に奥行きのある池の周囲を回遊しながら鑑賞する様式となっている。庭園の最奥には小高い築山があり、斜面には枯滝組や月見灯籠が配置され、その南側には野夜燈や岩木山を模した遠山石などの石組みが置かれている。
 園内にはクロマツやモミジ、チャボヒバ、イチイ、サワラ、サルスベリなどが植えられており、優れた景観をつくり出している。このように金平成園は、初期の大石武学流庭園を理解する上で貴重なものであることから、2006(平成18)年に国の名勝に指定された。
 ▽旧加藤家住宅
 庭園の西側には主屋、離れ、茶室からなる「旧加藤家住宅」があり、加藤宇兵衛の別荘ないし迎賓館として使用されていたと考えられている。主屋と離れは、1903(明治36)年に建てられたことが分かっている。
 主屋は土間、玄関、居間1部屋、広間1部屋、和室5部屋で構成されており、それぞれが襖で仕切られている。襖には花や鳥の絵が描かれているものもあり、中には本県出身の日本画家である野沢如洋(じょよう)(1865~1937)が描いた襖絵も残されている。
 特に「鶴の間」と呼ばれる12畳半の和室の東、西、南面の襖には、如洋によって30体近くの鶴が丁寧に描かれており、旧加藤家住宅の中でも異彩を放っている。どのような経緯で如洋が襖絵を描いたのかは不明であるが、宇兵衛と如洋の交流が窺(うかが)える貴重な資料であると言えよう。
 また、茶室には放浪の画人として知られる蓑虫山人(みのむしさんじん)(1836~1900)によって描かれた2枚の絵が残されており、1枚には竹林、もう1枚には鯉魚が描かれている。蓑虫は画人として広く知られているが、実は造園にも理解が深く、旅先で庭園の設計に携わることもあった。
 彼は金平成園がまだ設計段階の時期だった1884(明治17)年に黒石を訪れている。その際に金平成園も訪問し、庭園の設計に関与した可能性が考えられよう。2枚の絵についても、その際に描かれたのではなかろうか。
 現在、旧加藤家住宅は非公開であるが、庭園については7月27日(金)~8月19日(日)、10月19日(金)~11月4日(日)に一般公開される。この機会に風光明媚(めいび)な津軽の庭を楽しんでいただきたい。
(黒石市教育委員会文化スポーツ課文化財係学芸員・佐藤里穂)

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後世へ伝えたい仕事=94

2018/7/16 月曜日

 

写真1 青森市のニコニコ通りで商売する露天商。背後にはリヤカーではなくトラックが見える=1972(昭和47)年9月9日・松村泰雄さん撮影・青森県史編さん資料
 
写真2 弘前観桜会にやってきた旅芸人たち=1960(昭和35)年4月30日・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
写真3 弘前市内を振れ売りする金魚売りの百田良三さん=1991(平成3)年・『グラフ青森』145号より転載
写真4 米で作ったドン菓子を水あめ等で固めた「おにぎり」(筆者撮影)

 高度経済成長は日本人の日常生活を大きく変えた。“安く、早く、大量に”が効率の名の下に価値あるものとされた。総じて生活は豊かになったが、失われつつある仕事や職業があるのも事実だ。少し振り返ってみたいと思う。
 ▽行商人と露天商
 行商人は店舗を構えず、各地を振れ売りする。しかし、多くは特定の場所で屋台や露店を設けて品物を売る露天商でもある。
 敗戦後、戦争で夫を亡くした女性が家庭を維持するため、重く大きな荷物を抱えて行商する姿が全国各地で見られた。本県では青函連絡船の発着する青森駅をはじめ、八戸や鮫(さめ)の漁港が近い陸奥湊駅に行商人が集まった。
 鉄道だけでなく、郊外から街場へリヤカーで農産物を運び、露天商として生活を維持する人々も数多く存在した。青森市の場合、かつて闇市場だった古川や柳町、そして堤川沿いに露天商が集まった。自家用車の普及に伴い、リヤカーはトラックへと変わったが、現在も古川のニコニコ通りには朝早くから露天商が野菜や惣菜(そうざい)などを売っている。
 大型スーパーやコンビニが全国に広がる昨今、行商人や露天商が主要な職業形態として復活することはないだろう。しかし、八戸市の館鼻岸壁で開催される朝市や、五所川原市中心街のトラック市などは今日、大変盛況である。
 彼らの多くは個人経営者であり、トラックや自家用車で屋台風の店舗を出すことが多い。このため販売形態は行商人や露天商と似ている。販売される品物や商品は、基本的に独自なものが多い。画一的になってしまった大資本経営のスーパーやコンビニと異なり、幅広い職種の人々が売り出す品物は、買う側にとって大いに魅力的なのだろう。
 ▽旅芸人
 旅芸人は家々を訪問して門口や座敷で芸を演じる門付芸人と、神社の境内や河原、街路などを舞台に芸を見せる大道芸人に大別できる(『国史大辞典』吉川弘文館)。門付は獅子舞やえんぶりなど、現在も県内各地で実演されている。他方、若者がギターを片手に歌を披露するのは大道芸人の枠組みに入るだろう。
 津軽地方で旅芸人といえば、弘前公園の観桜会(現さくらまつり)に集まってきた人々が上げられる。弘前市民のみならず、内外から多くの人々が集まる観桜会は、旅芸人たちにとって大切な「職場」だった。彼らは津軽三味線やギター、アコーディオンを持ち込み、客と一緒に歌い、踊り、舞って客を楽しませた。
 旅芸人は日本各地に伝わる踊りや民謡を披露することが多かった。当時の客たちは盆踊りなどの年中行事を通じ、それらを理解していたと思う。
 しかし、テレビが普及し全国画一的に映像が流されてから傾向は変わった。人気の番組やタレントの登場で、人々は旅芸人たちの素朴な芸能に目を向けなくなった。新しい娯楽の登場で、旅芸人たちは仕事を失い、観桜会などの場から姿を消していった。
 昨今、娯楽の主役はテレビからスマホになりつつある。テレビを通じて多くの人々が楽しんだ時代から、スマホを通じ共感し合える者だけで楽しむ傾向になったといえよう。街路で芸を披露する若者たちは、スマホで共感し合える時と場を探し、活動の余地を見いだしていくに違いない。
 ▽金魚売り
 戦前まで荷物を背負い、リヤカーを引いて商売する振れ売りは日常茶飯の光景だった。高度経済成長と自動車の普及でリヤカーはトラックに変わり、振れ売り自体は次々と姿を消した。
 しかし、タウン誌の『グラフ青森』145号(1991年6月号)によると、弘前市内には平成の時代まで金魚の振れ売りがいた。取材当時71歳の百田良三さんは、黒石市内から弘南鉄道に乗り、朝9時頃から弘前市内の富田町、枡形、寒沢町、桔梗野、新寺町、茂森町を夕方近くまで売り歩いた。28歳から商売を始め、40年以上のベテランだが、自分が県内最後の金魚の振れ売りであるという。
 百田さんが言うには、金魚が最も売れたのは1955(昭和30)年から70(昭和45)年前後。自動車が増え、玄関がドアになり、城下町らしい人情がずいぶん違ってきたそうだ。振れ売り自体が玄関の戸を開いて尋ね歩く形態である以上、施錠されて中身が見えにくい洋風のドアでは商売が成り立たないわけである。高度経済成長は自動車社会を生み出し生活全般を洋風化させた。その陰で和風文化が消えていった側面は無視できない。
 ▽ドン菓子
 駄菓子の思い出は世代によって異なる。郷土に伝来する素朴なものから、大手の菓子会社の商品まで実にさまざまだ。その中で、比較的広い世代に親しまれているのが米をはじめ、麦やトウモロコシを加熱し、圧力をかけて作り出す「ドン菓子」だ。焼けてはじけるとき「どーん」と大きな爆発音を出すので、「ドン菓子」「ボン菓子」などと呼ばれた。
 トウモロコシを「キミ」と呼ぶ本県では、トウモロコシで作るドン菓子を「ドンキミ」とも称する。現在は大手の菓子会社が製造するポップコーンの方が知られているだろう。しかし、かつては地元の菓子屋で直接購入するか、米や麦などを持ち込んで作ってもらっていた。甘く味付けされたものもあるが、何も味付けされないものが多かった。それでもおなかをすかしていた子どもたちは、わしづかみにして食べたものだった。
 現在も大鰐町や階上町の他、いくつかの市町村に製造業者がいる。そこでは米やとうもろこし以外に、マカロニで作った「マカロニドン」や、鳩麦で作った「ハトムギドン」などを作っている。味付けが工夫され、好んで食べる子どもたちも多いという。
 基本は伝統に沿いつつも、少しずつ時代に合わせて改良し続けることが、伝統や文化を後世へ伝える秘訣(ひけつ)になる。時代を担ってきた年配の方々は、子どもや孫の世代に、自分たちの経験や体験談を伝えてほしい。説教ではなく、子どもや若者たちに寄り添い、楽しく語ることが大切だ。仲良く楽しみながら実践し続けることで、社会や生活、そして文化は向上する。これは高度経済成長期も現在も変わらぬ価値観であると思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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整備進む「為信の城」=93

2018/6/25 月曜日

 

写真1 発掘調査で確認された本丸東門跡。2012(平成24)年の調査で確認された。旧来の堀を埋めた直上に構築されている
写真2 備された本丸東門跡。遺構を盛り土で保護し、その直上に復元した礎石を並べ、建物の形や規模を表示している
 
写真3 整備の進む堀越城跡。外構から三之丸方向を撮影。手前に外堀を渡る土橋、その奥に中土塁と三之丸南側の土塁が整備されている
 
図1 「支城の時代」の堀越城。1594(元禄3)年の本拠移転前の堀越城。現在の曲輪とは全く異なる位置に2~3重の堀が巡る
図2 「本拠の時代」の堀越城。本丸を中心に、周囲を二之丸・三之丸等の曲輪が囲む求心的構造を示している

 ▽堀越城とは?
 津軽平野南東部に位置する堀越城は、弘前藩初代藩主津軽為信が生前、最後の居城とした城である。為信は1594(元禄3)年、堀越城を改修、本拠を岩木山東麓の大浦城から移した。
 その後為信は1607(慶長12)年に京で死去し、2代信枚が高岡城(後の弘前城、以下弘前城)を築城、11(慶長16)年に堀越城から本拠を移した。つまり、激動の時代を生き抜き「津軽切り取り(独立)」を成した為信は、津軽氏歴代の居城である弘前城に入城したことはなく、為信にとっては堀越城が最後の城ということになる。
 本拠移転後廃城となり、また城内の様相を示す資料もほぼないなど、堀越城は長らく実態が不明だった。しかし、1985(昭和60)年の国史跡指定後、公有地化を経て98(平成10)年から16年間、弘前市が実施した発掘調査により、城の様相は徐々に明らかとなった。さらに2012(平成24)年からは、調査成果に基づく城内整備も本格化しており「為信の城」は再び姿を現しつつある。
 ▽支城の時代
 堀越の名は古く、南北朝期の史料に「楯(館)」が築かれたとの記載がある(県史資料編中世2)。この楯の様相は明確ではないが、城内から中世前半の陶磁器が出土することから、現在の城域と重なる可能性は高い。
 堀越が再び史料に登場するのは戦国期後半、大浦(南部)為信の南部氏からの「津軽切り取り」に際してとなる。しかし、当該期の史料は南部と津軽の双方で内容に差異が大きく、「切り取り」の過程を再現するのは難しい。大筋として16世紀後半、南部氏の郡代として津軽を支配していた南部高信に為信が反旗を翻し、南部氏や安東氏の他、大光寺城瀧本氏、乳井福王寺氏、浪岡御所北畠氏らとの複雑な抗争を経て、為信による津軽支配が進められたことは確かなようである。
 その過程において、堀越城は津軽の南の出入り口を押さえる重要な支城として機能した(『県史通史編1』)。発掘調査によると、この時期の堀越城は小規模な堀が二、三重に巡り、内部に掘立柱建物や竪穴建物が立ち並ぶ曲輪が、複数並存していたようであり、この様相は北奥における伝統的な城郭の姿を示している。
 ▽「本拠の城」の時代
 為信は1590(天正18)年7月までに、豊臣秀吉から津軽領有を認められた。しかし、それは同時に豊臣政権の支配の枠組みに組み込まれたことも意味し、北奥の諸大名とともに「際限なき軍役」に巻き込まれていくこととなる。為信はこの「軍役」に伴う肥前名護屋城在陣などの中で、求心的構造と高石垣を有する、西国の先進的な城郭を目の当たりにすることとなる。
 94(元禄3)年の本拠移転に際し為信は、西国の城郭技術を取り入れて堀越城を大改修し、それまでの北奥の伝統的な城郭構造を一新、本丸を中心とする求心的構造とし、さらに本丸内に礎石建物による御殿建築群を形成した。特に3棟の建物が連なる幅30メートルの本丸東門は、中央棟が櫓(やぐら)門、北棟が2階建ての建物と想定されている。
 これらの建物は、豊臣政権との繋(つな)がりを示す装置として導入されたものであり、城の東側、すなわち旧南部氏の勢力圏である東根(平川東岸域)に向けて、威容を示していたことだろう。だが同時に未導入の石垣、三之丸に見られる堀や土塁の二重構造、小規模な城下(現堀越集落)など、堀越城に「近世大名」の居城として不十分な面があったことも確かである。
 1611(慶長16)年、徳川政権の支配が確立する中、信枚は堀越城の3倍以上の規模と石垣を有する弘前城を築城、城内・城下の全てを移し、堀越城は静かにその役割を終えた。為信が自ら改修した堀越城には、激動の時代における為信の「等身大の姿」が示されている、といえよう。
 ▽甦(よみがえ)る堀越城
 現在、堀越城では「為信の城」、そして「土の城」である堀越城を体感できる整備を目指し、2020年春の全面公開に向けて、市による整備事業が進行中であり、日々刻々と姿を変えている。なお、整備終了地区は暫定公開中であり、春と秋には整備現場の公開も行われていることから、ぜひ一度足を運んでいただけたなら幸いである。
(弘前市教育委員会文化財課主幹兼埋蔵文化財係長・岩井浩介)

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