津軽の街と風景

 

縄文文化解明へ成果=160

2021/9/20 月曜日

 

写真1 大平山元1遺跡の県重宝局部磨製石斧(左)と県重宝土器片(右)
写真2 亀ケ岡石器時代遺跡の漆塗土器=木造亀ケ岡考古資料室で展示中
写真3 二ツ森貝塚の調査状況(上)と貝層の剥ぎ取りパネル(下)
写真4 田小屋野貝塚のベンケイガイと獣骨や土器の出土状況
写真5 是川石器時代遺跡の土器・風韻堂コレクション
写真6 青森市三内の土偶・風韻堂コレクション

 ▽郷土館と発掘調査
 ついに「北海道・北東北の縄文遺跡群」が7月27日に世界文化遺産に登録された。縄文遺跡群を構成する遺跡と関わりのある青森県立郷土館としても喜ばしいことである。そこで今回は縄文遺跡群と県立郷土館との関わりについて紹介したい。
 博物館の調査研究活動として県立郷土館では、青森県の歴史解明のため、1973(昭和48)年の開館時から2002(平成14)年まで、9つの研究テーマのもと県内13市町村21遺跡の発掘調査を行った。当館の調査は、学芸員が研究課題を設定し遺跡を選び発掘する研究目的の学術調査である。調査は約2週間、面積100平方メートル以下と小規模ではあるが、大方の調査で想定以上の調査成果が得られている。
 当館では、縄文遺跡群を構成する外ケ浜町の大平山元1遺跡、七戸町の二ツ森貝塚、つがる市の田小屋野貝塚と亀ケ岡石器時代遺跡を調査している。
 ▽大平山元1遺跡
 大平山元1遺跡が知られるきっかけは、1971(昭和46)年に局部磨製石斧(せきふ)が採集されたことである。当時の郷土館開設準備室では、県内では調査事例が少なかった旧石器時代の調査を計画していた。
 そこに、石斧発見の情報が届けられたことで、75~76(昭和50~51)年に発掘調査を行った。この調査で、旧石器時代の特徴を持つ石器とともに無文の土器片32点と石(せきぞく)鏃が出土し、当初、旧石器時代終末期と想定されていた遺跡は、縄文時代草創期に位置付けられた。
 その後、98(平成10)年に実施した蟹田町(現・外ケ浜町)の発掘調査で無文土器片約50点が出土し、その中から土器片に付着した炭化物を年代測定した結果が約1万5000年前だった。これにより、これらの無文土器は国内最古の土器であることが分かり、遺跡の年代が初めて科学的に明らかになったのである。
 大平山元1遺跡は旧石器時代から縄文時代への移行期における自然環境や土器出現の背景を解明する上で重要な遺跡である。遺跡発見のきっかけとなった石斧は郷土館に寄贈され、郷土館と町が調査した出土品とともに県重宝に指定されている(写真1)
 ▽亀ケ岡石器時代遺跡
 縄文晩期の亀ケ岡文化は、本県の縄文文化を特徴づけるものの一つである。ちなみに当館への寄贈資料を時期別にみると縄文晩期が最も多い。この亀ケ岡文化研究の一環として亀ケ岡遺跡の調査を80~82(昭和55~57)年に行った。
 本遺跡は江戸時代から知られ、重要文化財となった遮光器土偶や多数の漆塗土器などの出土品は国内外でも有名である。当館の調査でも、赤漆・黒漆塗りの土器、彩文土器の破片など多数の漆塗土器が出土している。
 漆濾布(うるしこしふ)は、遺跡内で漆を精製していたことを示す貴重な資料である。装飾品である玉の原料となる緑色凝灰岩、玉を整えるための砥石(といし)や玉を穿孔(せんこう)するメノウ製石錐(いしきり)、そして未完成の玉が出土していることから、玉製作のムラだったことも明らかとなった。
 この時期の玉製作遺跡は数少なく、ここで作られた玉が各地に流通した可能性が高い。当館調査出土品の一部は、木造亀ケ岡考古資料室(つがる市木造館岡屏風山)で展示中である(写真2)
 ▽二ツ森貝塚
 縄文時代の食生活・生活道具と環境を探るため、88(昭和63)年から92(平成4)年は貝塚の調査を行った。
 その一つが89(平成元)年、貝塚密集地の小川原湖周辺にある二ツ森貝塚の調査である。
 この調査では、貝塚の広がりを確認できた。ヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ主体の貝類、テンの右下顎骨(がっこつ)に孔(あな)を開けた垂飾品や骨角器が出土している。剥ぎ取りした貝層の断面パネルは常設展示で公開していた(写真3)。常設展示していた県重宝鹿角製櫛(ろっかくせいくし)(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵)は、現在七戸町二ツ森貝塚館で展示されている。
 ▽田小屋野貝塚
 90~91(平成2~3)年の調査は、津軽地方の数少ない貝塚から、田小屋野貝塚を選択した。44(昭和19)年に国の史跡となっているが、当館での調査が初の本格的な発掘調査である。
 縄文前期中頃(約5900年前)の竪穴住居跡内に堆積したヤマトシジミなどの貝層には、大型二枚貝のベンケイガイが多数含まれ、アシカ・ツチクジラなどの海獣骨がまとまって出土した(写真4)。このベンケイガイは貝輪状に割れた破片ばかりで、完成した貝輪はない。
 本来ベンケイガイは暖流域に生息する貝であるが、地元の方の情報で近くの出来島海岸で拾えることが分かった。田小屋野貝塚はベンケイガイの貝輪を作るムラだったのだ。
 この他寄贈資料には、上記の4遺跡と、青森市三内地区(現在の三内丸山遺跡周辺)、八戸市是川石器時代遺跡の出土品もある(写真5)。中でも風韻堂コレクションには、亀ケ岡遺跡出土品が最も多く、そのうち漆塗土器や装身具62点が県重宝となっている。
 ▽巡回展
 現在、当館は休館中であるが、県内各地で巡回展「ふるさとの宝物」を行っている。次回は10月から、12月は平川市文化センターで実施。ここでは三内地区の土偶(写真6)をはじめ、常設展示資料から6点を紹介している。
 三内丸山遺跡センター(10~11月)や県立美術館(10月~)など他館の展示にも出品している。休館の間も、館外で皆様に当館資料をご覧いただく機会を増やしていくので、この機会に足を運んでいただけたら幸いである。
(青森県立郷土館主任学芸主査 杉野森淳子)

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青森県史デジタルアーカイブスで文化財巡り=159

2021/8/30 月曜日

 

絵はがき「岩木山神社奥殿」=明治末期
絵はがき「岩木山参詣の途中」=大正期
春雪の岩木山=1960(昭和35)年5月9日

 ▽デジタルアーカイブスとは
 7月に北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産に登録となった。この機会に遺跡を巡ってみようと考えている方々へ、周辺にある文化財も巡ることをお勧めしたい。その際、青森県史デジタルアーカイブスを活用してほしい。
 青森県史(以下、県史)は全36巻あり、通史編を除き、A4判1冊1キロ弱の重さがある。持ち歩くことは難しい。誰でも気軽に青森県について知ってもらうため、県史に掲載された本文を電子化し、「県史テキストデータ」として「青森県史デジタルアーカイブス」に順次掲載した。このためパソコンやスマホで項目を検索すれば、簡単に閲覧できる。スマホがあれば現地で文化財について調べることもできる。
 テキストデータの他にも、県史デジタルアーカイブスにはこれまでに収集した資料について「文化財・自然」「絵はがき・写真類」「古文書・文献史料」「県史関係図書・論文」の5つのデータベースがある。
 トップページに検索欄があり、5つのデータベースを横断して検索することができる。詳しくはトップページの下部にある「利用案内」を御覧いただきたい。
 ▽大森勝山遺跡
 弘前市の大森勝山遺跡は、『県史資料編考古2』の第2部「遺跡編」に遺跡の概要が掲載されている。第3部「各論」の「環状列石」には本県の環状列石の概要を、第1部の「時代概説」には、大森勝山遺跡で環状列石がつくられた当時の環境や社会について書かれている。
 いずれも大森勝山遺跡と検索すれば情報が得られる。また同遺跡は旧石器時代の遺物も出土しているので、『県史資料編考古1』の「遺跡編」にも概要が書かれている。
 ▽岩木山
 大森勝山遺跡に行くと、目の前に岩木山が大きくそびえているので、岩木山を検索してみよう。すると岩木山の成り立ちや火山の特徴について、『県史自然編地学』第1章「大地の風貌」の第3節「火山」に書かれている。
 岩木山は津軽富士と称される美しい山であるが、これまでたびたび噴火し、周囲に災害をもたらしてきた。『県史自然編地学』第4章「忘れたころの天災(天変地異)」の第4節「その他の災害」に、近世の時代に起こった噴火とその被害について書かれている。
 岩木山とその周辺は津軽国定公園となっているが、『県史資料編近現代6』第6章「交通体系の整備と観光開発」では、近代の青森県における観光開発について書かれ、資料も掲載されている。
 ▽岩木山神社
 大森勝山遺跡より東へ向かうと岩木山神社がある。建物などは弘前藩の歴代藩主により整備され、岩木山神社の本殿、拝殿、奥門、瑞垣、楼門、中門は、国の重要文化財に指定されている。『県史文化財編建築』の第1章「寺院と神社」に建物の概要が書かれているので、建物を見る際の参考になる。
 同神社が所蔵する舞楽面5面は、非公開のため直接実物を見ることはできないが、「文化財・自然データベース」「04美術工芸」の「01彫刻」で個々の画像を見ることができる。『県史文化財編美術工芸』第2章「古代中世の造形」の第2節「中世の造形」にコラムとして概要が書かれている。
 ▽お山参詣
 岩木山神社といえばお山参詣があるが、岩木山の登拝行事として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。『県史民俗編資料津軽』第1部「民俗の諸相」の第6章「信仰」には、第8節に「岩木山信仰」があり、岩木山神社の歴史、岩木山神社の行事、お山参詣について書かれている。
 ▽絵はがき
 「絵はがき・写真類データベース」には、県史編さん時に蒐集(しゅうしゅう)した明治期から昭和にかけての絵はがきが多く掲載されている。弘前公園から見た岩木山や、リンゴ畑から見た岩木山、お山参詣の様子が描かれた絵はがきがあり、明治・大正期の風景を見ることができる。
 ▽ジャパンサーチ
 県史デジタルアーカイブスは、さまざまな観点からより多くの利用者に検索してもらえるように、奈良国立博物館、国立歴史民俗博物館などのデータベースと連携している。
 さらに8月17日から、国によるデジタルアーカイブスやさまざまなコンテンツをまとめて検索・閲覧・活用できるプラットフォームである「ジャパンサーチ」と直接連携することになった。
 「ジャパンサーチ」で、例えば「岩木山」と検索すると、青森県史デジタルアーカイブスのデータと共に、NHKアーカイブスの「お山参詣」の動画や、県外の施設に収蔵されている資料が閲覧できる。より多様に青森県を知ることができるので、ぜひのぞいてみてほしい。
(青森県教育庁文化財保護課 主幹 伊藤由美子)
青森県史デジタルアーカイブスのURL
 https://kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/contents/kenshi-front/index.html
ジャパンサーチのURL
 https://jpsearch.go.jp

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吉田松陰、津軽巡る=158

2021/8/9 月曜日

 

写真1 絹本着色「吉田松陰像」(山口県文書館蔵)。上部に松陰の自賛がある
写真2 東北地方への遊学を願い出た「吉田松陰伺書」(山口県文書館蔵)。「水戸・仙台・米沢・会津などは文武が盛ん」とある。この時期の名乗りは「吉田大次郎」である
写真3 弘前市指定文化財「松陰室」(写真提供=弘前市文化財課)。松陰と宮部が伊東広之進を訪ね、語り合った部屋。現在は養生幼稚園内にある
写真4「津軽外ヶ浜真景図」より算用師峠から流れ下る算用師川(青森県立郷土館蔵)

 ▽吉田松陰と遊学
 幕末の長州藩で強烈な個性を発揮し、尊王運動の精神的な柱として多くの志士に影響を与えた吉田松陰(写真1)は、21歳になった1850(嘉永3)年8月に九州へ赴き、4カ月かけて小倉、佐賀、大村、長崎、平戸、天草、島原、熊本、柳川、久留米などを巡った。
 先々で会う人々との議論や教えに刺激を受けた松陰は、翌年3月、藩主毛利敬親(もうりたかちか)の参勤に同行した。敬親は人材育成を重視し、有備館(江戸)や明倫館(萩)など、藩校へのテコ入れを行った人物である。松陰は9歳で明倫館に通い、11歳で敬親に「武教全書」を講義した俊秀で、才能を買われての江戸行きだった。
 松陰は江戸で、安積艮齋(あさかごんさい)(昌平坂学問所教官)、古賀茶渓(こがさけい)(同)、山鹿素水(やまがそすい)(兵学者)、佐久間象山(さくましょうざん)(洋学者)らと交流した。熊本で会った宮部鼎蔵(みやべていぞう)(国学者)と再会して親交を深め、房総、相模、伊豆の海防状況を踏査するなど、行動を共にするようになった。
 ▽東北行きと兵学修行
 51(嘉永4)年7月、松陰は東北行きを願い出た。願書に「水戸、仙台、米沢、会津は文武が盛ん」とあるように(写真2)、各地の名士や学者を訪ねて意見を聴こうとしたのだが、一方で、海防の最前線たる東北地方を歩き、蝦夷地へ渡る機会もうかがおうかとの、兵学者としての強い思いがうかがえる。
 この旅行には宮部に加え、安芸五蔵(江●五郎(えばたごろう)の変名)なる人物が同行することになった。安芸は盛岡藩の浪人で、兄が藩内抗争に巻き込まれて憤死したことから、仇討ちを画策していた。
 安芸は赤穂義士にあやかって12月14日の出発を希望し、松陰らも承諾したが、長州藩からの許可書がなかなか交付されず、期日が迫ってきたのには閉口した。松陰は「約束を違(たが)えられない」として脱藩を決意した。
 外桜田(東京都千代田区)の毛利家上屋敷を抜け出した松陰は、江戸~水戸~白河~若松(会津)~新潟~佐渡~久保田(秋田)~弘前~小泊~今別~青森~小湊~盛岡~仙台~米沢~若松~日光~足利~関宿~江戸という行程で東北地方を巡った。140日間に及ぶ旅の様子は、『東北遊日記』に記されている。52(嘉永5)年1月28日、白河を越えたところで安芸は別れ、松陰と宮部の二人旅となった。
 ▽弘前の伊東梅軒を訪ねる
 閏2月28日、碇ケ関(平川市)の手前の白沢村(大館市)に泊った松陰らは、庄屋の山内儀兵衛から、21(文政4)年の相馬大作事件の話を聞いた。藤田東湖「下斗米将真伝」を読んでいた松陰は、「事が成らなかったのは残念だ」と評している。主君の恥を雪(そそ)がんと津軽寧親(つがるやすちか)暗殺を企てた大作(下斗米秀之進)の行動を、安芸五蔵の姿と重ね合わせていたのだろう。
 碇ケ関から大鰐、石川(弘前市)を経て3月1日に弘前城下へ入った松陰らは、元長町に住む弘前藩士伊東祐之(広之進、梅軒)を訪ねた(写真3)。梅軒は45(弘化元)年から西日本に遊学し、46(弘化2)12月9日、熊本で宮部と面会している(『青森県史資料編 近世 学芸関係』)。
 松陰らは梅軒から、弘前藩の軍事、制度、教育について詳しく話を聞いた。藩校稽古館の素読(そどく)を重視する漢学指導法に関心を示した松陰は「最も見るものあり」と高く評価している。
 ▽津軽海峡をめざすも
 翌日、松陰らは再び梅軒邸を訪ね、出発の挨拶をした。3月3日、板柳~鶴田~五所川原を経て金木、中里に向かったが、土地の人に誤った道を教えられ回り道を余儀なくされるハプニングもあった。3月4日、中里から十三湖畔を歩いて脇元へ向かい、小泊に宿泊している。
 3月5日、小泊台場を見た松陰らは、旅人の通行が禁じられていた山道に入った。津軽海峡に向かう道がなかったため、いったん三厩に出て、そこから龍飛崎に向かおうとしたのだ。
 傾(かたが)り石(いし)(中泊町小泊)から算用師(さんようじ)峠へ登り、川沿いに三厩へ下る約10キロの道程だが、文化年間に三厩側から小泊側に向かってここを歩いた大野文泉「津軽外ヶ浜真景図」(青森県立郷土館蔵)の発見により、その険しさがイメージできるようになった(写真4)
 松陰らは苦しい思いをしてやっと三厩にたどり着いたが、雪に行く手を阻まれ、龍飛崎行きは断念せざるを得なかった。進路を東に変えて今別~袰月(ほろづき)に入り、ここで「津軽海峡では龍飛崎と白神岬(松前町)の間三里を異国船が往来しているのに、幕閣の関心が薄いのは何たることか」と嘆いている。
 3月6日、袰月を出た松陰らは平舘台場を視察し、その縄張(なわばり)を絶賛している。二矢村(二ツ谷、外ケ浜町平舘石浜磯山)からは海路を取り、雪にあられが混じる天候の中、明け方に青森へ到着した。松陰は広々とした青森港のさまを見て「軍艦数十隻を備え、非常に当てるべし」と、海防における重要拠点としての価値を見出している。
 ▽下田事件の背景
 54(嘉永7)年正月、アメリカのペリー艦隊が再来した。幕府は開国を決め、伊豆の下田と松前の箱館を開港することとした。艦隊はその約に従い、3月18日に下田へ入港した。同じ日、松陰は弟子の金子重之輔を伴って下田へ入った。長崎でロシア船に密航しようとして果たせず、アメリカ船来港の報を聞いてやって来たのだ。
 同月27日の夜半過ぎ、松陰らはペリーの旗艦ポーハタン号に小舟を漕ぎ寄せ渡航を懇願した。しかし「条約が結ばれたばかりで、信義に反するごとき無許可渡航はさせられない」と断られると、「国禁を犯した責任を取る」との理由で、名主増田平右衛門宅に自首した。何とも真っすぐで、正直すぎる生き様ではないか。
 以後、幕府による取り調べから国許で謹慎処分を受けるまで、一連の騒動は下田事件と呼ばれる。東北旅行で異国船を見ることができなかった松陰にとって、異国行きは単なる憧れではなく、日本の国益を思う使命感から出た行動だったのである。
(県立青森商業高等学校教諭 本田伸)
※●は巾に者

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地域と歩んだ深浦高=157

2021/7/26 月曜日

 

写真1 教職員と在校生=1949(昭和24)年・海浦暁観さん提供
写真2 深浦高校の校章=2020(令和2)年・筆者撮影
写真3 県総体優勝時の祝賀パレード=1969(昭和44)年・『深浦高校創立20周年記念誌』より転載
写真4 「122点差 3時間47分」=1998(平成10)年7月19日付『陸奥新報』

 ▽『深浦のあゆみ』刊行
 本年3月に深浦町・岩崎村合併15周年記念誌『深浦のあゆみ』が刊行され、5月にお披露目された。現深浦町域の戦後から現代までの歴史を中心にまとめられた自治体史である。です・ます調のやさしい文体と多数の写真で構成された新しい自治体史であり、「読みやすく見て楽しい歴史」書である。
 筆者は同書において、主に学校や教育関係に関する項目を担当した。ここでは同書で執筆した深浦高校の歩みを紹介し、学校と地域とのかかわりについて考えてみたい。
 ▽町が創った高校
 1947(昭和22)年4月、学校教育法に基づき新制高等学校が発足した。これに合わせて働く若者たちへの教育機会の提供を目的として、全国で定時制高校の設置が進められた。高校教育への期待や要求が高まる一方、予算や校舎面での制約から、青森県ではその半数以上が市町村立として設置された。
 深浦町では、町長広田寬治が中心となって県に働きかけ、48(昭和23)年6月1日、深浦町立鰺ヶ沢高等学校定時制深浦分校が設立された。当初の大きな課題は教員の確保だった。県内全体でも中等教員の不足は深刻なものとなっていた。そうした中、教壇に立ったのは広田町長や町内の医師、技術者、新聞社の論説委員といった人びとだった(写真1)。
 57(昭和32)年に青森県深浦高等学校定時制課程として独立を果たした際には、当時教師だった海浦暁観さん(現円覚寺住職)がデザインした、三羽の鶴が大空を雄飛する姿をあらわした校章と校歌(小野正文作詞・木村繁作曲)が制定された(写真2)。
 ▽スポーツでの活躍
 70(昭和45)年4月、深浦町や岩崎村からの度重なる陳情が実を結び、深浦高校は悲願の県立移管を果たした。このとき全日制課程普通科が開設され、校舎も移転新築し、後期中等教育機関としての機能を充実させていく。
 このころには、運動部の活躍もめざましいものとなった。軟式野球部は69(昭和44)年6月に青森県高校総合体育大会で優勝を果たす。この快挙は人々を熱狂させ、祝賀パレードも行われた(写真3)。74(昭和49)年には、空手道部も県高校総体優勝を果たしている。
 設備面でも、77(昭和52)年の「あすなろ国体」と相前後して、陸上競技場、野球場、サッカー場が整備され、学校は地域のスポーツ文化の中心的な場となった。
 ▽0-122の夏
 深浦高校の名を全国的に知らしめたのは、98(平成10)年7月18日に行われた、全国高等学校野球選手権大会青森大会での、対東奥義塾高校の試合である。序盤から東奥義塾の猛攻を受けた深浦高校は、0-122という高校野球史上に残る大差で敗れる。
 この試合結果は、全国紙やニュースでも報じられた。翌日の陸奥新報の紙面では、試合結果を伝えるスポーツ面とは別に、社会面でもこの試合のインパクトが報じられている(写真4)。
 この試合を契機に青森県高校野球連盟は試合規定を見直し、5回15点差以上でコールドゲームとすることとし、122点差というスコアは、今後も決して破られることのない記録となった。そしてこの試合は、ノンフィクション作品や神奈川県の小学校道徳の教科書、ミュージックビデオなどの素材にもなって、今日まで語り継がれている。
 ▽人口減少の中で
 80(昭和55)年時点の深浦町と岩崎村の15歳人口は331人であった。それが20年後の2000(平成12)年には138人にまで減少する。進む人口減少は、深浦高校の生徒数にも影響し、学校の存続は地域にとっても喫緊の課題となった。
 深浦町では深浦高校への進学促進と教育振興のため「町の高校」への支援を行うこととなった。しかし入学者の減少には歯止めがかからず、創立50周年記念式典が開催された06(平成18)年度をもって深浦高校はその歴史に幕を下ろすこととなった。深浦高校の歴史は、校舎の一角に設けられた記念室にて、多くの写真パネルや校旗、校章などとともにとどめられている。
 ▽地域と学校の歩み
 07(平成19)年4月、深浦高校は木造高校深浦校舎として新たなスタートを切る。総合学科が新設され、カリキュラムも一新される一方で、地域との結びつきは引き続き保たれた。
 新たに始まった「深校祭」では、深浦高校時代の伝統を引き継ぎ、町内パレードも行われた。やがて学びの場は学校を超え、防災、環境保全、観光振興につながる活動や深浦海岸の清掃など、地域全体をキャンパスとした活動へと広がっていった。
 しかしながら、現深浦町域の15(平成27)年の15歳人口は66人にまで減少し、19(令和元)年には、深浦校舎の野球部員が0人になったことも報じられた。そして21(令和3)年度より生徒募集を停止し、全生徒が卒業する23(令和5)年3月をもって廃止されることが決定した。
 さらなる人口減少のもとで、青森県教育委員会は本年7月7日付で「青森県立高等学校教育改革推進計画第2期実施計画(案)」を発表した。そこには将来に向けた高校の統合・再編案が示されている。
 地域の高校が統廃合される可能性は、全県的に生じうるものとなっている。このような状況の中で、地域と学校とが協働して作り上げた教育の価値を受け継いでいく必要性は、今後ますます高まっていくことだろう。『深浦のあゆみ』が、そうした地域の人びとが学校に寄せた思いを記録する役割を少しでも果たせたらと思っている。
(弘前大学教育学部教授 高瀬雅弘)

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グローバルな深浦町=156

2021/6/28 月曜日

 

写真1 須郷岬と五能線、そして国道101号=1975(昭和50)年9月4日
写真2 深浦港東防波堤の改良工事=1974(昭和49)年8月
写真3 千畳敷駅に降り立つ観光客と望洋館(左手前)=1961(昭和36)年8月
※いずれも『深浦のあゆみ』に掲載したもので、出典は青森県史デジタルアーカイブス

 ▽市町村合併と自治体史編さん
 2005(平成17)年3月31日に旧深浦町と旧岩崎村の対等合併により新「深浦町」が誕生して15年を経たことから、本年3月31日の奥付で、深浦町・岩崎村合併一五周年記念誌『深浦のあゆみ』が刊行された。
 いわゆる「昭和の大合併」で、1953(昭和28)年に3市33町127村だった青森県は、60年には8市30町30村となった。約50年後の「平成の大合併」によって2006(平成18)年には現在の10市22町8村となっている。
 現深浦町域も、この間、1889(明治22)年の市制町村制施行によって21村から大戸瀬村・深浦村(1926年から深浦町)・岩崎村の3村となった。1955(昭和30)年には大戸瀬村と深浦町が合併して深浦町となり、2005年に岩崎村との合併により新「深浦町」誕生という変遷をたどっている。
 一見多くの自治体が消えていったという感覚をもつが、自治体名がなくなっても、そこでの人々の生活や歴史が失われたわけではない。枠組みが変わっただけである。
 昭和と平成の大合併の頃、全国的に自治体史ブームが起こり、本県でも多くの市町村史の編さんが始まった。とりわけ平成の時は21世紀を迎える頃であり、新『青森県史』の編さん事業も1996(平成8)年から開始している。自治体史の多くは「なぜ今編さんするのか」という時宜を捉え、時代を見通していくための編さんであったことがうかがわれる。
 『深浦のあゆみ』では既刊の『深浦町史』『岩崎村史』との連続性を重視して1950年代以降を扱い、自治体名の消えた地域の姿を見失わないように留意している。
 ▽ローカルからグローバルへ
 ここで『深浦のあゆみ』をもとに、深浦地域の歴史を振り返ってみよう。そこで見えてきたものは、深浦地域のローカル性、地域的特性を探れば探るほど、深浦地域のグローバル性が見えてくるということである。深浦地域の数多い特性のなかから二つほど上げてみたい。
 一つは、西海岸沿いに点在する集落を結ぶJR五能線と国道101号の存在である。両者と集落ごとの関係を見ることで、点在しながらも結びついている集落の姿や関係性が浮かび上がってくる。18を数える駅の多さが意味するところは大きく、五能線はさらに青森県域を越えていく。国道101号も同様である。
 もう一つは全長78キロメートルに及ぶ長い海岸線を持つことからくる人と海との関わりである。具体的には全国14の避難港に指定されている深浦港をはじめ、北金ケ沢、風合瀬、艫作、黒崎など、ほぼ集落ごとに整備されている11の漁港の存在である。駅数同様、その多さは深浦地域を構成する集落間の関係性を物語り、海を通して深浦地域を越えていく拠点となっている。集落の数ほど駅と港が存在する地域なのであり、しかも深浦地域を超えていくものによって形成・発展してきた地域といえるのである。
 ▽藩境・県境の町
 二つの特性は、すでに江戸時代の頃から脈々と続いてきた歴史的特質でもあった。弘前藩初代藩主津軽為信は、秋田佐竹氏と領地を交換して比内地方(現秋田県大館市)を譲り、須郷崎を藩境として深浦南方を領地としたとされている。津軽氏はその自立に向けて、京・大坂に基盤を置く豊臣政権との接近を図ったり、徳川初期における京都勤番などに備えて兵糧米を送るために、街道・海道ともに日本海交通につながる必要があったからである。
 こうして、大間越から秋田領八森に入る西浜街道(大間越街道)と大間越関所、そして風待ち港としての深浦港が整備され、日本海側の海陸ルートの出入り口=玄関口として弘前藩確立に向けて大きな役割を担わされていったのである。藩境は現在の県境である。深浦地域は今も昔も外に開かれたグローバル化の可能性をもった地域なのである。
 ▽「枠組み」を超える深浦
 藩境・県境の深浦地域は、弘前藩や青森県の枠組みから見れば「周辺」に位置する。しかし、むしろ周辺を藩・県域を越えた活発な交流を担った「場」と捉えれば、中心と周辺を必ずしも結び付ける必要はない。周辺は自由な「空間」であり、中心との関係性も多様となるからだ。
 このようなグローバル化は、現実の社会の中では地域の「均質化」となって現れるのではなく、従来の地域・県・国家といった枠組みを超えた新たな「地域化」「差異化」を生じさせてくることになる。
 『深浦のあゆみ』は、県境に位置し、多くの集落・漁港・駅を抱えた深浦をグローバルな視点で「地域化」「差異化」しようとしたものであり、グローバルヒストリーを展開するローカルヒストリーとすることができる。
 本書は深浦町内に全戸配布される。写真資料を多くし、分かりやすい記述としたのもそのためである。深浦町民が新たな深浦発見への道しるべとし、共に歩みを始める上で意義あることといえるだろう。
(弘前大学客員研究員 瀧本壽史)

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