津軽の街と風景

 

解明進む宮越家の謎=143

2020/11/16 月曜日

 

伝狩野山楽筆花鳥図=2019(令和元)年・中泊町博物館所蔵
達磨像=2019(令和元)年・中泊町博物館所蔵
「静川園」の戒壇石・観音塔=2020(令和2)年筆者撮影・中泊町博物館所蔵
秋の企画展「宮越家資料&ステンドグラス」

 ▽宮越家文化遺産とは
 宮越(みやこし)家は、中泊町尾別に所在する旧家である。屋敷内には、9代当主宮越正治(みやこしまさはる)が手掛けた離れ「詩夢庵(しむあん)」や庭園「静川園(せいせんえん)」などがある。いずれも百年前後の歴史を有する文化遺産であるが、中でも「詩夢庵」を彩るステンドグラスは、わが国におけるパイオニア小川三知(おがわさんち)の最高傑作と位置付けられている。
 しかしながら宮越家文化遺産に関する情報は極めて希薄で、一部の伝承や風聞を除くと町村史に若干の記述がある程度にすぎない。
 内潟村誌は「桜花に雉子(きじ)の狩野山岳、また岩佐又兵衛(いわさまたべえ)の作と云わる五十三次の風俗画外新古画美術界の逸品を秘蔵し、又中郡百沢(ひゃくざわ)から出たという等大の達磨(だるま)像は鎌倉末期の作」と記す。
 中里町誌は「先代正治氏は機山(きざん)と号し、漢詩をよくし中央の有名人と交遊厚かった。庭園にある達磨堂は大正の作、中の達磨(木造)は元弘前長勝寺(ちょうしょうじ)にあったものという。優れた彫刻である。同邸の襖(ふすま)障子は土佐光興(とさみつおき)と狩野三楽の筆になるもので大正年代中央から購(もと)めたものといい(一説長勝寺蔵)貴重な文化財である」と述べる。
 簡潔な一文ながらも齟齬(そご)や誤植が少なからず認められる。そこで今年度調査の成果によりながら、補訂を行いたい。
 ▽正治が交遊した中央有名人とは?
 町村史では具体名が挙げられていないが、大量に残された正治宛の書簡類から、小川三知をはじめ、鏑木清方(かぶらぎきよかた)や上村松園(うえむらしょうえん)ら近代日本画を牽引した画家たち、尾崎紅葉(おざきこうよう)ほかの文豪ら、全国の文化人らと文通していた様子が明らかとなっている。
 中でも、日本画家の木村武山(きむらぶざん)(76通)と橋本関雪(はしもとかんせつ)(70通)、彫刻家の後藤良(ごとうなおし)(60通)の3人は群を抜いており、密接な関係性が見てとれる。木村武山は東京美術学校出身で、日本美術院再興に尽力した人物である。おそらく正治は、武山を通じて横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)らとコンタクトを取っていたと推定される。
 ▽中央有名人との文通内容は?
 相手方の返信から想像するしかないが、大半は作画の依頼や打ち合わせだったと思われる。正治には「秘策」や「武器」もあった。秘策は、美術雑誌編集者や画商・表具師らを通じた情報収集である。画家たちの動向や依頼交渉の指南から揮毫(きごう)料の相場まで、また「(小室(こむろ))翠雲(すいうん)氏は海鼠(なまこ)が一品か、何れと酢のもの、(池上(いけがみ))秀畝(しゅうほ)氏は野蕗(のぶき)(田口杏村(たぐちあんそん)書簡)」のように画家たちの好物まで把握していた。
 季節ごとの贈答品も、そうした嗜好(しこう)に合わせて海産物や麦酒(びーる)、商品券などが選択されたが、最大の武器はその頃津軽地域で生産が拡大しつつあった林檎(りんご)だった。まだ珍しかった林檎は重宝された様子で、多くの画家たちから丁寧な礼状が届いている。
 ▽秘蔵の新古画美術界の逸品とは?
 正治所蔵の美術工芸品目録と思われる資料も発見された。読み取れた品名は200項目余りで、内訳は絵画や書が117点、茶器ほかが93点である。絵画や書は、近代日本画家の作品ほか、谷文晁(たにぶんちょう)や近衛家熙(このえいえひろ)など近世期の書画も認められる。中でも、橋本関雪(14点)、下村観山(しもむらかんざん)(11点)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)(9点)が所蔵数の上位を占める。正治の趣向がうかがえよう。
 ▽離れの襖絵の作者は?
 前述の町村史ではさまざまな絵師名を挙げているが、新たに見つかった1926(大正15)年、安達謙蔵(あだちけんぞう)逓信大臣訪問時の正治の記録「詩夢庵(しむあん)飾付記(かざりつけき)」によれば、「奥の間」は狩野(かのう)山楽(さんらく)、「山蘭(やまあららぎ)の間」は土佐之(とさの)(岩佐(いわさ))又兵衛(またべえ)、「円窓(まるまど)の間」は狩野常信(かのうつねのぶ)の作とされる。
 真贋のほどはともかくとして、正治がそのように認識していたのは間違いない。一説には、京都の九条公爵家から将来という。また欄間の彫刻については、書簡内容から能面師として著名な後藤良の作と考えられる。
 ▽庭園の石造物の由来は?
 「静川園」では、通常の庭園ではあまり見られない特殊な石造物が複数設置されている。「不許入葷酒山門(くんはゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた「戒壇石(かいだんせき)」もその一つである。正治の漢詩集や書簡から、同園は昭和の初め大規模な改庭がなされ、仏堂「達磨堂」や茶室「松濤亭(しょうとうてい)」ほか、北陸地方から搬入された「観音塔(かんのんとう)」「十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)」などの石造物が追加されたことが分かった。
 改庭時の新たな要素は、日本画家橋本関雪が京都東山(ひがしやま)に開いた国名勝「白沙村荘(はくさそんそう)」と共通する。自らの漢詩集の巻名に「静川村荘(しずかわそんそう)」を冠するほど傾倒していた「白沙村荘」の世界観を、奥津軽に移植したとも考えられる。
 ▽達磨像はどこから来たのか?
 町村史では百沢とも長勝寺とも述べているが、正治の漢詩集や長勝寺住職小館海月(こだてかいげつ)書簡などから、長勝寺将来の可能性が高まった。海月は書家の高山文堂(たかやまぶんどう)とともに正治の詩作仲間であり、たびたび「詩夢庵」を訪れ酒宴や詩会を開いている。昭和初めの長勝寺大改修時、正治は多額の寄進をしており、そのことへの対応として達磨像がもたらされたとも考えられる。
 ▽一般公開と企画展
 調査開始時点では、五里霧中の感があった宮越家文化遺産だが、調査の進展により、大いなる謎に包まれていた輪郭がおぼろげながら浮かび上がってきた。あくまで現在進行形であるため、今後の修正余地はあるものの、現時点での最新成果をお伝えした。
 「宮越家離れ・庭園」では、現在「詩夢庵」築百周年を記念した限定公開が行われている(29日まで)。また町博物館では、秋の企画展「宮越家資料&ステンドグラス」を開催中である(12月6日まで)。併せてご覧いただくことをお勧めする次第である。
(中泊町博物館館長 斎藤 淳)

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幕末弘前城下の対立=142

2020/10/26 月曜日

 

大正期における県内のヒバ林の林相=青森県史デジタルアーカイブスより
ヒバ材が使用されている昭和戦前期の岩木山神社楼門=青森県史デジタルアーカイブスより
「国日記」1854(嘉永7)年3月5日条より、曲物や箸・串へのヒバ材使用差し止めについての触れに関する記事=弘前市立弘前図書館所蔵
「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」六巻、職之部より檜物師の図=国立国会図書館デジタルコレクションより
棟方実勝による今後の藩の林政に対する意見書が記された「覚」の表紙
本文のうちヒバ材を使用した箸に関して記された箇所=弘前市立弘前図書館所蔵

 ▽津軽地方のヒバ
 金木町(かなぎまち、現五所川原市)出身の小説家太宰治は、自身の小説『津軽』において、以下のようなことを述べている。
 ―その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏(ひば)である。林檎なんかじゃないんだ。(中略)関東、関西の人たちは津軽と言えばすぐ林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林については、あまり知らないと見受けられる―
 自身の生まれ育った境遇に複雑な感情を抱きながらも、終生故郷である津軽の地を愛して止(や)まなかった太宰らしい言葉であるが、彼が津軽地方の伝統的産物を「林檎」ではなく「扁柏」としている点は重要である。
 ヒバとは、ヒノキによく似たヒノキアスナロという木の別称であり、北東北地方、その中でも特に津軽半島や下北半島に豊富に生育する樹種である。この木の特徴は木目が緻密(ちみつ)、丈夫で加工がしやすい、ヒノキチオールという独特の成分を含み、湿気や水、害虫の被害に強いなどが挙げられる。
 このため、古くから木材としての需要が高く、弘前城や岩木山神社楼門(いわきやまじんじゃろうもん)などの歴史的建造物にも多く使用されている。なお、太宰が表記した「扁柏」は本来ヒノキを指す言葉だが、ヒノキの植生分布上の限界は東北地方南部(福島県以南)であるため、津軽地方において「檜」や「扁柏」といったヒノキを表す文言は、概ねヒバのことを指している。
 ▽ヒバをめぐる弘前藩領の人々
 江戸時代に津軽地方を治めていた弘前藩は、ヒバが豊富に生育する地域の特色を生かし、藩政初期からヒバ材を生産し、それらを大坂などの市場へと流通させることによって、藩の財政収入の一つとしていた。
 藩はヒバを「御停止木之第一(ごちょうじぼくのだいいち)」、つまり人々が勝手に伐り取ったり利用したりすることが最も許されない木と位置づけ、それらが豊富に生育する山を「留山(とめやま)」(領民たちが自由に入山・利用できない山林)に設定するなど、厳格な保護・管理の体制を敷(し)いてきた。
 しかし、ヒバは弘前藩の領民たちにとっても身近な木であり、彼らはヒバをワッパ(弁当箱)・柄杓(ひしゃく)などの曲物(まげもの)や、箸(はし)・串(くし)などに加工して利用していた。このことは藩の林政担当部局の役人だった棟方実勝(むなかたさねかつ)という人物が、藩の林政方針に関する意見書の中で「江戸などでは専(もっぱ)ら箸はスギを使うのに、領内の人々はなぜヒバ材を使用するのか」と疑問を呈していることなどからも窺(うかが)える。
 また、1864(元治元)年の弘前城下における職業調査書によれば、曲物を製作する檜物師(ひものし)・曲師(まげし)という職人(通(かよ)いの弟子も含む)は19軒、箸や串を製作する箸掻(はしかき)という職人は14軒存在していたという。そのため、江戸時代の弘前藩領ではヒバをめぐって藩と領民が衝突したこともあったのである。
 ▽城下の職人たちと藩の対立
 弘前藩において森林荒廃が特に顕著(けんちょ)となった1783(天明3)年の飢饉(ききん)以後、藩は領内における森林資源の復興と、ヒバをはじめとする有用樹種の保護・育成を目指し、さまざまな施策を打ち出した。この結果、文政期(1818~30)には一時的に回復の兆(きざ)しが見え始めていたが、1833(天保4)年に始まる飢饉を契機として、領内の森林は再び荒廃の様相を呈すようになる。
 幕末には領内のヒバがいよいよ枯渇しつつあったため、藩は1854(嘉永7)年3月に曲物や箸・串などへのヒバ材使用を禁じ、その代わりにスギ材を使用するようにという触れを通達した。
 しかし、弘前城下の檜物師ら職人たちは総じてこれに異を唱え始め、従来通りヒバを使用させてほしいと願い出たのであった。藩もこれに対して厳格な姿勢を崩すことはなく願い出を却下したが、職人側はなおも粘(ねば)り強くヒバ材使用の許可を求め続けた。
 ▽両者の主張
 当時の藩は二度にわたる大きな飢饉を経て以後、以前にも増して森林資源復興の道を模索するようになっていた。特に林政担当の役人たちは「諸木取続(しょぼくとりつづき)」、つまり有用な森林資源の持続的な利用を最大の目標としており、その実現のためにさまざまな方策を講じようとしていた。ヒバ材使用の差し止めもその一つで、これにより藩は将来的な森林資源の確保を図ろうとしていたのである。
 一方、檜物師たちはスギのワッパは夏に使用すれば「飯あめ損し」、傷(いた)みが早いために領内では買い求める者がいないと訴えた。津軽地方の方言で、食物が腐ることを「あめる」と言うが、恐らくヒバと比較してスギのワッパは、夏の湿気などが原因で中の飯がすぐに腐食してしまうということなのだろう。また、スギの箸や串は折れやすく、同じく買い求める者がいないとしている。
 檜物師たちの主張からは、領内においてヒバの曲物や箸にある程度の需要があり、それらを買い求める人々は、ヒバが湿気などに強く丈夫であることを経験的に知っていたことが窺える。いずれにせよ、ヒバはスギで代用できないほど、弘前藩領の人々にとって生活に密着した木だったと言えよう。
 藩と職人たちとの対立はその後10年にわたって続き、1868(慶応4)年に一部の曲物にのみヒバ材使用を許可することでようやく決着がついたのだった。
 以前に比べれば、ヒバの曲物を製作できる職人は県内でも格段に減り、津軽地方のヒバそのものが注目されることも少なくなってきたように思える。しかし、江戸時代の弘前藩林政や森林をめぐる人々の活動の歴史を紐(ひも)解(と)いてみると、ヒバが津軽の伝統的産物であると言える確たる所以(ゆえん)がみえてくるのである。
(公益財団法人徳川黎明会 徳川林政史研究所研究員・萱場真仁)

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風景美しい国定公園=141

2020/10/5 月曜日

 

十三湖から七里長浜へと続く日本海の長い海岸線、遠くに岩木山が見える=1989(平成元)年頃・五所川原市教育委員会提供
深浦十二湖県立公園時代の深浦海岸。手前は舗装される前の国道101号=1956(昭和31)年前後・青森県所蔵県史編さん資料
龍飛袰月県立自然公園時代の帯島と龍飛の集落=1970(昭和45)年4月30日・青森県史デジタルアーカイブスより

 ▽県立公園から県立自然公園へ
 1953(昭和28)年、県立公園が誕生した。浅虫夏泊、深浦十二湖、大鰐蔵館碇ケ関温泉郷、恐山、種差海岸の五つである。東・西・南各津軽郡をはじめ、下北郡と八戸市に設置されたので、地域的な配慮がなされた結果と思われる。
 その後、県立公園は次々に増えていった。56(昭和31)年に龍飛袰月と名久井岳、その2年後に屏風山権現崎、黒石温泉郷、岩木山の三つが県立公園となった。これまで県立公園が設置されていなかった中・北両津軽郡と三戸郡、黒石市に県立公園が誕生したことになった。58(昭和33)年の段階で県立公園は10カ所を数えた。
 57(昭和32)年、これまでの国立公園法が廃止され自然公園法が公布された。各都道府県立の自然公園の管理先が明確化され、本県では61(昭和36)年に青森県立自然公園条例と施行令が発布された。県立公園は県立自然公園となり、公園の保護と利用が計画的になされるようになった。
 ▽下北国定公園の誕生
 62(昭和37)年、自然公園審議会は「国定公園の候補地の選定」に対する答申を行い、自然公園が体系的に整備されることになった。翌年、本県では日本自然保護協会が国定公園の指定に関する予備調査を実施した。
 日本自然保護協会は県内の県立自然公園のうち、恐山、岩木山、深浦十二湖、屏風山権現崎の各県立自然公園について景勝地の調査を行った。この調査によって、下北半島地帯と津軽海岸地帯が国定公園の有望な候補地となった。
 しかし、一度に二つの国定公園指定を請願することは難しく、候補地を絞った結果、68(昭和43)年に下北半島国定公園が誕生した。このため恐山県立自然公園は、国定公園へ昇格する形で消えた。
 ▽注目される日本海
 下北半島国定公園が誕生した翌69(昭和44)年、日本自然保護協会は再び深浦十二湖県立自然公園をはじめ、西・中・南各津軽郡の景勝地を調査した。調査圏内には四つの県立自然公園があり、それらを一つの国定公園とするための調査だった。県では交通体系と広域の観光周遊を計画する津軽地域総合開発の一つとして津軽国定公園の指定を目指していた。
 折から全国的に高度経済成長を経た社会の進展が見られ、いわゆる自動車社会が到来していた。
自然公園に相当する地域でも、生活空間の拡張と景勝地の損失が問題視されるようになっていた。
 社会経済の変動に応じた自然公園制度について、国は基本的方策を自然公園審議会に諮問していた。68(昭和43)年、自然公園審議会は「自然公園制度の基本的方策」を答申。野外観察施設の必要性や自然保護の強化など、社会経済の変動に応じる自然公園像が模索されるようになった。
 こうした流れを受けて、龍飛袰月、屏風山権現崎、深浦十二湖、岩木山の各県立自然公園について調査が行われた。各公園を総合的にまとめる交通網の整備が重視され、日本海の長い海岸線と車道が注目された。自動車社会の到来を受け、美しい海岸線を自動車で周遊できる「日本海臨海道路公園」が構想されたのである。日本海沿岸から津軽地方の象徴である岩木山が遠くに望めたことも、公園としての価値を高める重要な要素となった。
 ▽津軽国定公園の誕生
 75(昭和50)年3月、津軽半島の東津軽郡平舘村(現外ケ浜町)から日本海沿岸の西津軽郡岩崎村(現深浦町)までの海岸線と、岩木山や白神岳などを含む地域が津軽国定公園に指定された。
 指定に伴い保護計画と利用計画が作成されたが、四つの県立自然公園すべてが国定公園に昇格したわけではなかった。国定公園の指定に伴って県立自然公園が再編成され、芦野池沼群県立自然公園と岩木高原県立自然公園が誕生したからである。
 83(昭和58)年、道路網の整備に伴う国定公園の利用や屏風山地区を中心とする土地利用の変化に応じ、公園の区域と計画が全面的に変更された。89(平成元)年には「自然公園の利用のあり方」が提示され、自然公園の利用が(1)野生体験型(2)自然探勝型(3)風景鑑賞型(4)自然地保養型-の四つの型に分類された。
 津軽国定公園の全域は風景鑑賞型に分類されたが、公園内に存在する個別の景勝地で分類は異なっている。岩木山の場合、頂上周辺は貴重な自然があるため(1)の分類だが、山麓は保養施設やレクリエーション施設を設置する(4)に分類されている。
 ▽自然公園のリゾート化
 87(昭和62)年に総合保養地域整備法(リゾート法)が施行された。人々の生活水準が上がり、余暇時間が増えたことで、春夏秋冬を通じて楽しめる長期滞在型施設の建設が求められた。
 90(平成2)年、津軽国定公園を含む一帯を「特定地域」に指定する津軽岩木リゾート構想が国から承認された。宿泊施設や野外スポーツレクリエーション施設などが設置され、公園内のリゾート化が進んだ。しかし、バブル経済の崩壊でリゾート構想が頓挫していったことは周知の事実である。
 自然公園の保護と利用は高度経済成長や開発、そして人々との生活様式の進展に応じて見直され、運用されてきた。自然と開発と生活の密接な関係は地域整備、ないし地域振興の名の下に推進されてきたといえよう。
(弘前大学非常勤講師・中園美穂)

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米陸軍が青森に進駐=140

2020/9/21 月曜日

 

ビーチ・レッド(青森市八重田海岸)に上陸する第323連隊戦闘団の兵士たち。絶好の見せ場だが、市民の立入は禁止されたから、「観衆」は警察官だけだった=1945(昭和20)年9月25日(『青森大空襲の記録(改訂版)』より転載)
「第81歩兵師団資料」(国立国会図書館所蔵マイクロフィッシュ)をもとに作成
「第81歩兵師団資料」(国立国会図書館所蔵マイクロフィッシュ)をもとに作成
弘前市の代官町から土手町、富田大通りへと行進する第322連隊戦闘団の兵士たち=1945(昭和20)年9月26日(『青森大空襲の記録(改訂版)』より転載)

 ▽演出された? 青森湾上陸
 1945(昭和20)年9月25日9時00分(米軍の公式記録)、上陸用舟艇に乗ったアメリカ陸軍第81歩兵師団(通称ワイルドキャット=山猫。以下、単に師団と記す)の将兵が青森市に上陸を開始した。ビーチ・レッド(合浦海岸)からは第322連隊戦闘団、ビーチ・グリーン(八重田海岸)からは第323連隊戦闘団を先頭に師団隷下部隊の1万5千を超える将兵が延々と上陸し、市内を行進した。
 東北地方各県の占領部隊は列車を主体に、一部は自動車、輸送船で進駐していた。まるで敵前上陸のような進駐は異例だ。
 占領軍は師団司令部および軍政府用の建物として青森市公会堂を接収。10時00分、師団司令官ポール・J・ミューラー少将らが国旗掲揚式を行い、星条旗が公会堂の空に翻(ひるがえ)った。11時00分、司令官は金井元彦県知事らを呼び、師団司令部と青森軍政府の設立を告げ、命令書を伝達した。
 ▽1万5千の将兵が各地に
 上陸翌日の26日には師団の一部が列車で弘前と八戸(陸軍飛行場)、28日には三沢(海軍飛行場)と大湊(海軍大湊警備府所在地)にも進出した。
 ミューラー少将の青森軍政府は、施政にあたって県内を3軍区(地区)に分けた。第1軍区はミューラー司令官が直接管理し、第2、第3軍区は軍管理者代理が管理を行った。第1軍区は青森市を拠点に東津軽郡を管轄、第2軍区は弘前市を拠点として弘前市、南津軽郡、西津軽郡、北津軽郡、第3軍区は八戸市を拠点として八戸市、三戸郡、上北郡、下北郡をそれぞれ管轄した。
 青森軍政府の任務を要約すると、(1)日本および、日本人の民主化の援助や推進(2)日本の軍隊の解体、非武装化-だ。(1)は専門の訓練を受けた第75軍政中隊が到着した10月中旬から本格化する。師団の活動は主に(2)で、日本陸海軍の施設、武器、弾薬の接収と破壊、民間にある武器の回収、治安維持のためのパトロールなどを行った。弘前市への進駐の人員が多いのは、日本陸軍の施設財産と武器弾薬が弘前市周辺に集中していたためだ。
 ▽ワイルドキャット小史
 アメリカ陸軍の歩兵師団は、弘前第8師団など日本陸軍の師団に相当する大部隊だ。師団は第1次世界大戦中に編成され、大戦後に編成解除となった。大戦中、捕獲した山猫を師団のマスコットにしたことから、師団はワイルドキャット(山猫)師団を通称とするようになった。
 師団は第2次大戦開戦後の42(昭和17)年6月に復帰編成され、44(昭和19)年8月以降、ガダルカナル島、アンガウル島、ペリリュー島などの激戦地で日本軍と壮絶な戦いを続けた。師団は日本軍との戦闘により、アンガウル島で戦死260人、負傷2294人、ペリリュー島では戦死276人、負傷1380人の損害を出していた。
 日本陸軍の高階支隊(基幹は青森歩兵第5連隊)が激戦の後、壊滅したフィリピンのレイテ島に到着したのは45(昭和20)年5月。すでに前年12月26日にアメリカ軍は日本軍の組織的抵抗の終結を宣言していた。師団の任務は残敵掃蕩(そうとう)だ。飢餓線上をさまよう高階支隊の兵士と山猫師団の兵士とが遭遇したかは分からない。
 連合国軍(アメリカ軍主体)は日本本土上陸作戦として、ダウンフォール作戦と、それを改訂したブラックリスト作戦を計画した。実施されたら師団は大きな犠牲を強いられただろう。
 ブラックリスト作戦では大湊上陸も計画されていた。本土決戦では一般県民も国民義勇隊、国民義勇戦闘隊として動員されることになっていたから、将兵ばかりでなく、県民にも多大な被害が出ただろうことは想像に難くない。
 日本の降伏を受けて、ブラックリスト作戦は中止となり、師団は青森県占領の命令を受けた。師団の青森湾上陸は冒頭に記したように平穏に行われた。
 ▽ワイルドキャットの帰国
 戦時中、連合国軍を「鬼畜米英」と呼ばされていた県民はアメリカ兵の進駐を緊張して迎えた。進駐地の女子中等学校(女学校)は進駐当日から休校、女教員には休暇を与えて家庭待機。授業再開は県の指示を待つ。男子中等学校は生徒の精神的指導を行うこと、などが県から通達された。
 緊張していたのはアメリカ軍も同様である。しかし、反抗も示威行動も起きなかった。師団の駐留中は日本人との間に大きな問題は起こらなかったと師団記録は記している。
 兵士は平穏な日々を送った。しかし、進駐後間もなく“敵”が訪れてきた。冬の到来だ。常夏の南方から厳冬の地へ。豪雪下の生活。クリスマスも新年も雪の中。かまぼこ兵舎や旧日本軍の木造兵舎から顔を出して天を仰ぐ兵士もいた。
 朗報がもたらされた。46(昭和21)年1月10日付師団機関紙「ザ・ワイルドキャット」は「ミッションは完了。師団は活動停止へ」というミューラー少将の別れの辞と、「占領作業は第11空挺師団に」との記事を掲載した。日本の非武装化も順調に進み、占領遂行にもはや師団規模の部隊は必要としないということだ。1月10日、師団はすべての任務を解除された。30日には編成解除となり、将兵は故郷に帰る日を迎えた。
 全国的にも連合国軍の日本駐留人員は急速に減少していった。しかし、県内では八戸、三沢などの基地がなくなることはなかった。ワイルドキャットの帰国により、占領は転機を迎えたが、同時に75年後の今日まで続くアメリカ軍の県内駐留の起点になったともいえるかもしれない。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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住民憩いの場 禅林街=139

2020/8/31 月曜日

 

写真1 長勝寺の門前にあった太郎杉(千年杉)=1968(昭和43)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真2 植物園に保存された太郎杉=2015(平成27)年10月18日・筆者撮影
写真3 長勝寺前のロータリー=2015(平成27)年10月18日・筆者撮影
写真4 空から見た禅林街と忠霊塔(仏舎利塔)=1960(昭和35)年5月9日・青森県史デジタルアーカイブスより

 ▽桝形
 多数の寺院が集まる禅林街は、彼岸や盆の時期に大勢の人々が集まり、観光客も多数訪れる。藩政時代の遺構が数多く残されているが、その一つが入り口に位置する桝形(ますがた)だ。城下町には必ず存在した防御施設の一つで、弘前市内にも複数存在する。最も有名なのが弘前大学の南方に位置する桝形だろう。バス停の名称にも使われている。
 禅林街入り口の桝形には年末に露店市が開かれ、正月用品を求める人々が集まった。道路の主役が人だった時代、桝形のような入り組んだ道路は人々が集まる格好の場所になった。道路は子どもたちの日常的な遊び場でもあった。
 自動車社会の到来で桝形は交通の難所扱いされた。道路整備の一環で形を崩され、撤去されたものもある。事実、弘大近くの桝形は県道127号だったこともあり、道路が大きく整備され当初の姿をあまりとどめていない。
 道路の主役が人から自動車に代わったことで、街並みの構造や人々の生活は大きく変わった。道路で露店市を開催するにも制約が掛かり、子どもが道路で遊ぶこと自体が危険を伴うようになった。生活の維持向上と歴史的遺構の保存活用は両立が難しく、常に調整が求められる問題である。桝形もその事例に漏れない。
 ▽太郎杉
 禅林街の一番奥に存在する長勝寺。その門前に、かつて大きな杉の木があった。在りし日の写真を見ると、その大きさが分かる(写真1)。子ども時代に何人かで手をつなぎ、木を取り囲んで大きさを満喫した人も多いだろう。
 「千年杉」ないし「太郎杉」と呼ばれた杉の木は、戦時中に空襲警報が出ると周辺市民の避難場所になった。戦後、長勝寺や禅林街が観光地として有名になるにつれ、憩いの場になった。暑中に涼を求める人は、木の下でしばしの安らぎを覚えた。
 戦後、大きな枝が落下し始めるなど、太郎杉は老衰が著しくなった。上部の枝を切り落として延命措置を取っていたが、1998(平成10)年に枯死し切り倒された。
 太郎杉は13(大正2)年に大日本山林会が刊行した『大日本老樹名木誌』(本多静六執筆編集)にも掲載された名木だった。しかし、それ以上に弘前市民が愛し、子ども時代から親しんだ大木でもあった。
 切り倒された太郎杉の幹が弘前公園の植物園に展示されている。説明板には樹高17メートル、幹周8・65メートル、推定樹齢800年と書かれ、幹の中心は空洞部分が目立つ(写真2)。失われた大木が写真だけでなく、目で直接確かめられる意義は大きい。
 長勝寺門前の道路上に緩衝地帯があり、杭(くい)が10本ほど立っている。小さなロータリーになっているが、この部分はかつて太郎杉のあった場所である(写真3)。説明板こそないが、太郎杉の遺構が残されていると見なしてよいだろう。
 大木も生き物である以上、死を免れることはできない。しかし、太郎杉の幹が植物園に保存展示され、元の場所にはロータリーができた。太郎杉の存在を後世へ伝えておきたい人々の思いが、具体的な行動となって示されたことに大きな意義があると思う。
 ▽忠霊塔(仏舎利塔)
 太郎杉のあった長勝寺の右隣に広場があり、忠霊塔と書かれた大きな石碑がある。日清戦争以来の戦死者を「英霊」として祀(まつ)る場所である。アジア太平洋戦争開戦前の41(昭和16)年7月に起工し、敗戦後の45(昭和20)年11月に納骨式が行われた。
 忠霊塔の文字は、かつて第8師団長だった菱刈隆が揮毫(きごう)したものだ。戦前に起工し戦後に竣工(しゅんこう)した忠霊塔は珍しかった。しかし46(昭和21)年11月、占領軍の意向を受けた政府から、忠霊塔の建設や戦没者の公葬は基本的に禁止された。戦没者の祭典に対しても、神官のみで祭事を行い遺族と共に行わないこととされた。
 忠霊塔は解体される恐れがあった。かつて第8師団のあった弘前市の忠霊塔には、建立の時から師団関係者や県ないし市町村の関係者など、多くの公人が関わってきた。納骨式には遺族関係者も多数参列している。戦後間もない頃、戦没者の遺族にとって忠霊塔の存在は大切な心の拠(よ)り所だったのである。
 遺族らの思いを受けて関係者は知恵を絞り、忠霊塔の「忠」の部分に梵字(ぼんじ)を配し、仏舎利を合祀(ごうし)して存続を図ろうとした。52(昭和27)年5月、世界仏教大会が塔の前で開催され、翌年の5月には仏舎利が迎えられた。これ以降、忠霊塔は仏舎利塔と称されるようになった。
 もともと忠霊塔自体が公葬の場として建設されたため、仏舎利塔の前には広場があった。長勝寺と並んで高台にあり眺望も良かった(写真4)。特に岩木山の眺めは抜群だった。広場はデートの場所として重宝され、子どもたちの格好の遊び場になった。
 年月の経過とともに仏舎利塔は老朽化し、83(昭和58)年5月の日本海中部地震で塔の一部が壊れ、中の遺骨も散乱する被害を受けた。戦争自体の風化や遺族会の縮小もあり、修復への道のりは厳しかった。
 しかし、関係者の努力と協力により改修が施され、2003(平成15)年に工事は完了。「忠」の文字が復活し、設立当初の名称通り忠霊塔が復活した。とはいえ仏舎利塔の名前に愛着を持つ市民は多く、今も双方の名前が併称されている。
 ▽遺構を守る、歴史を学ぶ
 太郎杉や忠霊塔は観光ガイドブックなどにも記載が少なく、その存在を知る人も少なくなってきている。しかし10年以上前から、自衛隊OBによる県隊友会中弘支部の関係者や市民ボランティアが、毎年お盆前に忠霊塔周辺の草刈りを続けるなど整備と保存に努めている。歴史的遺構の保存には、地道な活動の継続が大切であることを改めて痛感する。
 長勝寺や禅林街と同様、忠霊塔も歴史の中で生み出された大切な遺構である。失われた太郎杉も、多くの人々に親しまれてきた歴史的背景を知ることで、さまざまな発見があると思う。禅林街に来たら、今回紹介した場所にも足を運んでほしい。
(県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ〈県史担当〉中園裕)

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