津軽の街と風景

 

津軽地方に集団疎開=77

2017/9/18 月曜日

 

浜松から弘前に向かう車中の子どもたち。品川駅では父母と会えたのだろうか。1945(昭和20)年6月1~2日撮影
大鰐温泉の男子学寮。温泉旅館は相対的に設備に恵まれていて、他校の教員にうらやましがられた。1945(昭和20)年6~10月頃撮影
リンゴの木に登る男の子たち。食糧不足の中、静岡県ではミカン、青森県ではリンゴにだけは恵まれた。1945(昭和20)年6~10月頃撮影

 ▽40時間の旅
 アジア・太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月、先生や寮母に率いられた東京都の子どもたちが本県に次々に到着した。渋谷区・荏原(えばら)区(品川区)の子どもたちで、静岡県からの再疎開だった。
 前年の6月30日、政府は「学童疎開促進要項」を閣議決定。都市防衛の強化と学童の生命防護を名目に、縁故疎開のできない東京都など主要都市の国民学校初等科(小学校)の3~6年生を、学校単位で地方に送ることとした。これが学童集団疎開である。東京都の集団疎開学童数は、約23万7千人といわれる。
 ▽静岡県での疎開生活
 44(昭和19)年8月、静岡県には荏原(品川区)、大森(大田区)、蒲田(かまた)(同)、渋谷の4区が割り当てられ、およそ2万2500人が集団疎開した。
 子どもたちの受け入れ先は、伊豆半島など温泉のある地域では旅館が圧倒的に多く、他の地域は寺院であり、例外的に学校の校舎や会社の寮を使った。子どもたちはおおむね午前6時半ごろ起床。洗面、掃除、朝礼、朝食の後、授業や作業。午後8時ごろに夜の反省やあいさつなどを終えて就寝するという集団生活を続けた。最初は旅行気分だった子どもたちも、次第に家が恋しくなり、空腹の連続で元気がなくなっていった。
 ▽狙われる子どもたち
 44年11月、マリアナ基地のB29爆撃機による本土空襲が始まった。B29は富士山を目標に北上し、針路を転じて東京を目指し、通過する町村にも爆弾を投下した。駿河湾への米軍上陸も予想された。静岡県に集団疎開した子どもたちは再疎開させられることになった。渋谷区・荏原区の子どもたちは、富山県と本県に再疎開するよう決められた。
 ▽本県への再疎開
 本県の受け入れ候補地は最初上北郡と南津軽郡だったともいわれる。しかし実際の受け入れ先は青森市と東津軽郡を除く津軽地方となった。児童2745人、職員459人の内、約4分の1が弘前市に集中している。
 大鰐町では大鰐温泉の旅館が学寮となったが、ほとんどの市町村では寺院が学寮に充てられた。弘前市では新寺町の寺院が渋谷区の学寮となった。富ケ谷校は貞昌寺を本部、天徳寺などを学寮として、弘前市の第一大成校で授業を行った。午前は第一大成校、午後は富ケ谷校の二部授業である。
 疎開学童の受け入れとは対照的に、弘前市では縁故疎開が奨励された。父母から離れて近在の農村に疎開し、疎開先の国民学校に転校した弘前市の子どもたちは、7月までに600余人に上った。
 集団疎開の受け入れ先が津軽に限られたのは、青森市以東には陸海軍部隊が展開し、本土決戦に備えていたからである(地図参照)。本県は学童疎開のできる地域と、決戦場になり得る地域とに二分されていたともいえる。しかし、疎開学童のいた金木町(現五所川原市)は7月に艦載機の爆撃を受け、弘前市も米軍の空爆候補都市のリストにあった。戦争を続ける限り、危険でない場所はどこにもなかったのである。
 ▽遠州の名刹から津軽の温泉へ
 荏原区立宮前(みやまえ)国民学校(宮前校)を例に集団疎開の足跡をたどってみる。
 宮前校の疎開先は静岡県引佐(いなさ)郡奥山(おくやま)村(浜松市)の方広(ほうこう)寺で、1323(元享(げんきょう)3)年開山の古刹(こさつ)だった。1944(昭和19)年8月29日・30日に分けて大崎駅から臨時列車で浜松駅に着き、軽便鉄道に乗り換えて方広寺に着いた。疎開児童数は435人。
 5月24日、東京南部に空襲があり、荏原区にも多数の死傷者が出た。宮前校は焼夷(しょうい)弾の直撃を受けて全焼。学校本部を戸越(とごし)校に移した。
 6月1日、再疎開のため、宮前校の児童は15時ごろ、浜松駅から臨時列車で本県に向かった。子どもたちに東京の惨状を見せないように東京着は夜間で、22時に着いた品川駅には父母たちが待っていたが、わが子の名前を叫んで探している間に10分の停車時間が過ぎ、子どもたちの声をホームに残して列車は北上した。
 40時間以上走行と停車を繰り返した列車は奥羽本線経由で弘前駅に着いた。大鰐に疎開した245人中、宮前校の子どもたちは210~220人。静岡県に疎開したときの約半分だった。宮前校の学寮は鶴の屋など4軒の旅館だった。授業の他、リンゴの袋貼りなどの作業もあった。引率してきた職員たちは毎日のように食料調達に追われた。
 ▽焦土の東京に帰る
 8月15日正午、国民は敗戦を知らされた。しかし、東京都は東京の住宅と食糧事情を理由に、疎開校の校長にしばらくの間児童を疎開地にとどめ、児童の食料と燃料を確保するように指示した。子どもたちの生活維持を校長の責任としたのである。
 9月26日、ようやく疎開学童復帰の文部省通達が出された。30日から疎開学童は次々と疎開地から引き揚げた。宮前校の子どもたちは10月20日に帰京した。変わり果てた故郷。中延(なかのぶ)校に間借りしての授業が彼らにとって戦後の始まりだった。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)
 写真は全て宮前校の訓導(小学校教諭)として引率した写真家の中村立行(りっこう)(1912~95年)が撮影(品川区立品川歴史館提供)。表と図は筆者作成。

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“津軽十景”選定争い=76

2017/8/28 月曜日

 

津軽十景で第一位となった目屋渓=昭和戦前期・青森県史編さん資料
西海岸を走る五能線と景勝地の吾妻浜=昭和戦前期・青森県史編さん資料
鷹揚園(弘前公園)と岩木山=昭和戦前期・青森県史編さん資料

 ▽津軽十景と組織票
 1928(昭和3)年に弘前新聞社が1万号記念事業として行った津軽十景の選定は、津軽地方(青森市、弘前市、中・東・西・南・北各津軽郡)の景勝地を一般からの投票順で決定するものだった。これは27(昭和2)年に東京日日・大阪毎日両新聞社が行った「日本新八景」の選定イベントからヒントを得たものだろう。
 十景の風景には山岳、湖沼、河川、海岸、公園、神社仏閣という風景の分類があった。このような風景の分類が存在したことからも、津軽十景には日本新八景の影響が考えられよう。
 投票は、新聞紙面に印刷された専用の投票用紙あるいは官製はがきを使用した。津軽十景に当選した景勝地に対しては、一般に宣伝紹介するため標木が設置されるという。このため各地から自慢の景勝地を推薦する多くの投票がなされた。
 投票経過を見ていこう。目屋渓や弘前公園、法峠が1位をめぐり争っていた。また津軽富士と呼ばれる岩木山は、当初上位を占めたが、後に10位以下に落ちている。しかし、弘前山岳会といった組織があるためか、再び十景へ返り咲いた。芦野公園も26(大正15)年に芦野公園保勝会が組織されており、一時的に1位になっている。
 投票経過から垣間見えるのは、保勝会のような団体が関わった組織票の存在である。保勝会の役割は景勝地の保護や宣伝、そして観光客の誘致などである。会にとって津軽十景に入選することは必要不可欠であり、組織を挙げて対応した。また神社仏閣は信仰を背景にした組織力で入選を目指した。このため候補となった法峠、愛宕山、久渡寺、乳井神社は安定した順位であり続けた。
 最終的な順位は目屋渓、座頭石、法峠、弘前公園、乳井神社、岩木山、芦野公園、愛宕山、御幸公園、久渡寺で、これらが最終的に津軽十景となった。入選した景勝地の多くは保勝会のような組織を有しており、組織票の影響力は大きかった。
 なお、西津軽郡の大戸瀬海岸や東津軽郡の龍飛崎などは10位以内に入ることもありながら、入選できなかった。このため十景の中に「海岸」は入選していない。
 ▽各郡市代表景勝地の選定
 1936(昭和11)年2月、十和田湖と奥入瀬渓流、および八甲田山麓をはじめとする十和田国立公園が指定された。青森駅から十和田湖畔までを結ぶ省営自動車が開通し、多くの人々が国立公園の素晴らしさを満喫した。
 他方、4月には、青森県当局が国から県立公園の指定候補地を照会され、県立公園の予備調査を始めた。候補地は目屋渓流、岩木山一帯、十二湖付近、恐山付近、龍飛崎付近、種差海岸、小泊付近、椿山付近だった。
 こうした動きに対し、5月に東奥日報社が各郡市代表景勝地を官製はがきで投票させ、さらに青森県代表景勝地「青森県八景」を選定する新聞イベントを開催した。好評を博した弘前新聞社による津軽十景を東奥日報社が意識していたのは想像に難くない。国や県で県立公園の指定について準備を進めていたことも大きいだろう。
 投票に当たり、国立公園内の有名景勝地と県立公園の候補地である岩木山は対象から除外された。投票が始まると深浦海岸や権現崎、十二湖が首位をめぐり争った。特に西津軽郡各地域では、7月に五能線が全線開通するため、沿線の景勝地を入選させようと積極的だった。
 こうして6月、各郡市を代表した24カ所の景勝地が発表された。津軽十景の時と同様、保勝会などの組織を持つ景勝地は有利に事を運んだ。津軽地域だけでも、北津軽郡の権現崎には小泊保勝会、中津軽郡の目屋渓には目屋渓保勝会、南津軽郡の梵珠山には梵珠山保勝会、西津軽郡の深浦海岸には深浦風光会が存在していた。
 ▽青森県八景の誕生
 36年、24カ所の各郡市代表景勝地の中から専門家による審査を経て、青森県の代表的な8つの景勝地を選ぶ「青森県八景」が誕生した。八景は夏泊半島(東郡)、西海岸(西郡)、目屋渓(中郡)、浅瀬石川温泉渓谷(南郡)、権現崎(北郡)、恐山と薬研温泉(下北郡)、鷹揚(おうよう)園(弘前市)、種差海岸(八戸市)だった。
 ここで注意したいのは、八景はそれぞれが単体としての景勝地ではなく、必ず隣接ないし近郊に別の景勝地を含み、一定の範囲を回遊できる性質を有していることだった。例えば夏泊半島には小湊周辺の海岸と浅虫温泉を範囲とし、西海岸には十二湖を含んでいた。鷹揚園(弘前公園)には岩木山の眺望が含まれていた。
 同年11月、国から受けた県立公園の候補地は、種差海岸、霊場恐山、十二湖、岩木山だった。いずれも青森県八景に相当するか八景に付随する景勝地が選ばれた。岩木山のように津軽十景以来、選出され続けてきた景勝地もあり、新聞イベントが大きな影響力を与えていたことが理解できよう。
 結局、その後日本が戦争に突入し県立公園の誕生は見送られたが、敗戦後数年を経た53(昭和28)年、種差海岸、恐山、深浦十二湖、浅虫夏泊、大鰐蔵館碇ケ関温泉郷の各県立公園が指定された。その後、屏風山権現崎、黒石温泉郷、岩木山各県立公園も誕生している。各県立公園内の景勝地が、津軽十景や青森県八景などで入選を果たしたものであることが分かる。昭和戦前期に新聞が講じた景勝地選定イベントは、読者の関心を引きつけ、それがやがて県立公園誕生の素地となっていったことが見て取れると思う。
(青森県史編さん執筆協力員 中園美穂)

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風光明媚な脇元地区=75

2017/8/14 月曜日

 

不動山から見た脇元地区と靄山=2014(平成26)年・筆者撮影
山かけと参拝者=1983(昭和58)年9月7日・小山内文雄さん撮影・小山内豊彦さん提供
脇元小馬踊り=1983(昭和58)年9月7日・小山内文雄さん撮影・小山内豊彦さん提供

 ▽脇元と磯松
 五所川原市の最北端に位置する脇元地区は、津軽半島西海岸の北端部に位置し、日本海に面した脇元と磯松の2カ村からなる海浜集落である。1889(明治22)年の市制町村制の施行に伴い、脇元と磯松の2カ村が合併して脇元村となったので、昔から人々の結びつきが強い地域だった。
 靄山(もややま)や磯松川を境にして、北側に脇元、南側に磯松の集落が分かれている。海岸部を見渡せば、南に七里長浜の海岸砂丘が続き、北は脇元漁港から小泊に向かって岩礁地帯が続く。変化に富んだ風光明媚(ふうこうめいび)な海岸線を見ることができる。また、東部は津軽山地の標高500~600メートルの山々に囲まれたヒバなどの森林地帯が広がる自然環境の豊かな場所となっている。
 このように豊かな自然環境を持つ半面、かつての脇元地区は冬の荒れた日本海から吹き付ける強風や地吹雪を防ぐため、民家の周りに「カッチョ」と呼ばれるヒバの残材を利用した木柵を巡らすなど、冬場の厳しい生活環境がうかがえる海浜集落として有名だった。今ではこうした「カッチョ」の景観も少なくなった。
 脇元は漁業を中心に発展した集落だった。また、1687(貞享4)年の「検地水帳」には塩釜3基があったことが記されており、製塩業も行われていた。一方の磯松は脇元と違って、良好な船着き場に恵まれず、漁業はあまり発展しなかった。むしろ、同じ「検地水帳」には塩釜5基があったことが記されており、製塩業が盛んだったことが分かる。
 磯松の地名としての記録は、逆に脇元より古く、天文年間(1532~55)の「津軽郡(つがるぐん)中名字(ちゅうなあざ)」に「誘松(いさまつ)」として登場する。かつて海浜付近には松が並ぶほどの景観が見られたのだろう。現在、熊野宮のそばには地名の由来ともなったといわれる江戸時代前期にさかのぼる巨木「磯松の一本松」(市天然記念物)があり、地域のシンボルとして親しまれている。
 ▽ニシン漁
 脇元地区は江戸時代にニシン漁が盛んなところだった。現在ではほとんど獲(と)れなくなったニシンだが、かつて津軽西海岸を主として漁獲され、元禄年間(1688~1704)と幕末期に豊漁のピークがあったとされている。
 脇元浜では15人ほどが組んで、刺し網によるニシン漁が行われていた。しかし、明治から大正時代にかけて、脇元浜ではニシンが全く獲れなくなった。このため脇元の親方衆(網元)は、おのおの30人ほどの雇(やとい)を連れて、津軽海峡を渡って北海道へ新たな漁場開拓に従事する出稼ぎ鰊(にしん)漁を行うようになった。こうしてニシン漁は北海道の重要な産業に発展していったのである。
 ニシンの漁期は春彼岸の前後から5月末までで、6月末には漁を切り上げて戻ってきている。主な出稼ぎ先は、遠く北海道の積丹(しゃこたん)半島一帯、利尻(りしり)、礼文島(れぶんとう)に及んでいた。
 ニシン場の親方を多数輩出した脇元地区の親方衆の中で、斎藤彦三郎(ひこさぶろう)は特に有名な人物である。「ヤマカギ(屋)」と呼ばれ、1885(明治18)年にニシン漁法の革命といわれた角網(かくあみ)の開発に成功し、一代で巨額の財を成した。かつて靄山も斎藤彦三郎が所有していた。ニシン漁も昭和初期には衰退の一途をたどっていったため、伝統的にニシン漁に携わっていた漁民の中には、出稼ぎ先の漁場に定住するものが多くなっていた。当時の積丹町入舸(いりか)地区住民の8割が脇元地区出身者といわれるほどだった。
 ▽靄山とお山参詣
 ニシン漁で繁栄を極めた脇元地区の住民にとって、標高152メートルの靄山は故郷の原点であり、地域のシンボルである。また、神奈備形(かんなびがた=円錐(えんすい)形)をした美しい神聖な山とみなされている。
 靄山の「モヤ」は、アイヌ語起源の地名と考えられている。本来はアイヌ語の「モ・イワ」であり、その意味は「小さい・神の住むところ」とされる。古来より神聖な山とされてきた由縁である。十三湖を挟んで、岩木山と向かい合うようにたたずむ靄山には、山頂に岩木山神社が勧請(かんじょう)され、今も変わらず信仰の対象となっている。
 戦前までは岩木山の遥拝所(ようはいじょ)として存続してきた由緒を持っており、これまで絶えることなく脇元地区の住民によって毎年、「お山参詣」が行われてきた。地元では「山がけ(山かけ)」と呼ばれ、親しまれている。五穀豊穣(ほうじょう)と家内安全を願って、旧暦8月1日に行われる脇元岩木山神社大祭に際して、お山参詣が行われる。
 当日は「脇元小馬踊り」が村中を跳ね回った後、洗磯崎(あらいいそざき)神社を出発した多くの参拝者たちは、御幣(ごへい)や幟(のぼり)をたなびかせ、笛や太鼓、鉦(かね)の登山囃子(ばやし)に合わせて、豊作を願う「サイギ、サイギ、ドッコイサイギ」の唱文を唱えながら、靄山の山頂を目指す。
 このときばかりは沿道から大きな声援や拍手を浴びて、かつてニシン漁で繁栄を極めた頃の活気が戻ってきたかのように、たくさんの人々でにぎわう。山頂に至るまでの道程は、山頂に近づくほど急こう配が続くため、思ったよりも登頂するのは大変である。
 しかし、登り切った後に山頂から眺める景色は格別なものがある。脇元や磯松集落を間近に望み、その先に見えるのは延々と続く日本海や七里長浜の海岸砂丘、広大な十三湖の景色のほか、はるか遠くには岩木山を望むことができる。まさに絶景である。山頂に立てば、靄山はかつて岩木山の遥拝所だったことが実感できる。一見の価値があるので、こちらにお越しの際はぜひ登頂してみてはいかがだろうか。
(五所川原市教育委員会文化スポーツ課主幹 榊原滋高)

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郷愁誘う豊岡の集落=74

2017/7/31 月曜日

 

豊岡水郷集落模型=中泊町博物館所蔵
豊岡集落=昭和30年代・塚本忠志さん撮影
鳥谷川の藻刈り=昭和30年代・中泊町博物館所蔵
現在の鳥谷川=2011(平成23)年・筆者撮影

 ▽水郷の情景
 中泊町博物館の一角に、畳1枚半ほどの「豊岡集落模型」がある。幾艘(そう)もの川舟が浮かぶ鳥谷川を挟んで両岸に茅葺(かやぶき)の農家が連なり、村の入り口には鬱蒼(うっそう)とした鎮守の森がある。
 家の周りには畑、藁乳穂(わらにお)、茅乳穂(かやにお)、肥盛(こえもり)が点在し、防雪柵(かっちょ)の外側には水田が広がる。農作業にいそしむ老人、木陰で一服する夫婦、神社で手を合わせる娘、川の中で馬を洗う若者、風呂敷包を担いだ行商人、赤子を背負いながら遊ぶ女の子ら、昭和30年代の日常を切り取った模型の中では、往時の情景が繰り広げられている。
 ▽豊岡と鳥谷川
 鳥谷川は、藤枝溜池(五所川原市金木)付近に端を発し、流域の水田排水を集めつつ、津軽山地を西流する宮野沢川、中里川、尾別川などを合流して十三湖に注ぐ。鳥谷川の開削は、1675(延宝3)年とも1713(正徳3)年とも伝えられる。豊岡の開村はそれよりも早く、1655(明暦元)年、葛西甚平衛によって拓(ひら)かれたのが始まりとされ、元禄年間には他の17カ村とともに金木新田に所属した。
 金木新田をはじめとする新田村は、豊穣(ほうじょう)への願いを込めて「豊」「福」「富」などの吉兆句が村名に含まれることが多く、豊岡もその例に漏れない。その名の通り、豊岡は金木新田の中心集落として発展を遂げるが、低平な地形と集落を縦断する鳥谷川により、開村以来常に水害に悩まされてきた。
 津軽山地の水が鳥谷川に集中する結果、春の融雪湛水(たんすい)、夏から秋にかけての豪雨洪水、冬の十三湖水戸口閉塞(へいそく)による逆流冠水が生じ、「(上流に)雨三粒(みつぶ)降ればイガル(洪水になる)」と称されるほど年中洪水に襲われたのである。
 夜半、村の半鐘が打ち鳴らされるたびに、村民はスコップと俵を携え、総出で治水作業を行ってきた。水害と闘いながらも、鳥谷川を揺籃(ようらん)として育まれてきた豊岡の人々は、三百有余年にわたって川と共生する道を歩んできたのである。
 ▽水郷の四季
 豊岡に生まれ育った外﨑令子の著書『ふり返れば懐かし』(グラフ青森)に導かれながら、水郷集落の四季を綴(つづ)ってみたい。
 春、青空に浮かぶ岩木山の残雪が「馬(まっこ)」と「牛(べご)」の形になると田植え時期である。苗を積んだ荷車が土ぼこり舞う道を行き交い、水田のあぜ道は紫や黄色のアヤメが咲き乱れる。集落に隣接する「ヤゲシ(家岸)」の水田がしまうと、次は「萢田(やちた)」の田植えである。川舟に食料や夜具を積み、岩木川河口に向かう。川の水で米をとぎ、洗濯をし、夜はランプを灯(とも)し、吹き荒(すさ)ぶ風音を枕に寝付く。粗末な出作り小屋に寝泊まりしながらの田植え作業は1週間に及ぶ。
 夏、子供たちは、鳥谷川に架かる橋から飛び込み、アヒルや川藻と戯れながら、エビ、ナマズ、コイ、フナ、ウグイ、カジカなどをすくい捕る。村の男たちが、川舟を横に流しながら、長柄の鎌で川藻の刈取作業(ゴモフキ)を行う傍ら、川岸ではイトトンボやヤマダンブリが飛び交う。宵闇の川面にホタルが瞬き、カエルの斉唱が始まるころ、村にはのり付けした着物を柔らかくするジョウバ打ちのつち音が響くお盆にはキュウリやナスで作った馬や牛を、ハスの葉の盆棚に供え、16日早朝鳥谷川に流す。線香の匂いが漂うなか、川面にゆらゆらと幾つもの盆棚が流れ行く。
 冷涼の気がみなぎる秋の早朝、朝もやが立ち込める鳥谷川に、川舟が並ぶ。刈り取った稲は、川舟で運ぶのである。船尾にさおを立てて縄を絡げ、稲島を満載した舟を川岸から曳航(えいこう)する。上方に屈曲した橋を幾つか潜り、船着き場に到着すると、歩み板を渡し舟から稲島を降ろし、作業場に運び込む秋の夜足踏み脱穀機の回転音は深更まで途切れることがない。
 冬が訪れると、豊岡の景観は一変する。北西から吹き付ける雪は、防雪柵を通り越し、家と家の間に電線を跨げるほどの高さの「ナガレ(吹き溜まり)」を作る。強風が吹き荒れる冬は、停電も頻発した。雪に閉ざされた暗闇にろうそくが灯され、囲炉裏(しぼど)周りでは昔話や謎々(なんじょ)が交わされる。吹雪がやむと、戸口の雪をかき出し、窓の着雪を払う。鈴を鳴らしながら馬そりが行き交い、大通りでは雪上にサメやタラが並ぶ。買った人は尾ひれに絡げた荒縄で、雪道を引き摺りながら帰途に就く。排雪に覆われた鳥谷川の水面(みなも)を見るのは、来春まで待たねばならない…。
 ▽現在の鳥谷川
 多くの水害をもたらした鳥谷川は、近現代以降の水戸口突堤工事や岩木川改修工事、十三湖干拓建設工事などを経て、周到な治水対策が施された。一方で、各種工事による流量や水位の低下、自動車の普及と発達に起因する水運自体の衰退により、川舟は急速に姿を消していった。
 地域社会や自然も含めて、川を取り巻く環境も激変した。近年の河川切り替えや環境整備工事によって、川幅と道幅は逆転し、川岸まで水をたたえた悠久の流れは、近代的な排水堰(ぜき)へと変貌した。むろん豊岡の物語は今後も続くが、川が主役を演じた一幕目は、終演の時刻を迎えつつあるといってよいだろう。
 「豊岡集落模型」は中泊町博物館で常設展示中である。現在、博物館では夏の企画展「アフリカへのまなざしVol.2―布が奏でる大地の物語―」を開催している(9月24日まで)。企画展をご覧になりながら、かつて青森県の農村地帯に見られた風景を思い出してもらえれば幸いである。
(中泊町博物館館長補佐 斎藤 淳)

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夏告げるヨミヤの舞=73

2017/7/17 月曜日

 

乳井神社例大祭。「磯良」を見る人々。2013(平成25)年8月3日・筆者撮影英夫さん(ヘアメイクELLE)提供
300年記念公演にて「天王」弓を射る。2014(平成26)年10月12日・筆者撮影
堰神社にて「榊葉」。天地四方を祓い清める。2013(平成25)年10月11日・筆者撮影
岩木山神社崇敬会大祭にて「千歳」。同社では10年に一度の演目。2017(平成29)年7月1日・筆者撮影

 ▽ヨミヤ
 6月から8月の夕方になると、津軽地方で「ド~ン、ド~ン」と大きな花火の音を耳にすることが多い。この音花火(号砲花火)は、神社のヨミヤを知らせる合図で、弘前市のように神社が多い地域では、この音を聞いて「今日はどこのヨミヤだろうか?」と話題にする人も少なくないだろう。
 津軽地方では、神社の例大祭の前夜祭を「ヨミヤ」と呼ぶ。漢字では「宵宮」や「夜宮」の文字が当てられることが多い。夕方から21時頃まで、神社参道にヨーヨー・たこ焼き・金魚すくい・焼そば・空揚げ・飴せんべいなどの露店が出店する。
 筆者の住む青森市の大星神社の例では、参道の片側に約20店舗ずつ、合計40店舗ほどが毎年出店している。津軽の夏の到来を告げる風物詩であり、人々の楽しみでもある。神社では、18時頃から神職や氏子の代表などによるヨミヤの神事が行われる。
 ▽神職と舞
 民俗学者の萩原竜夫(はぎわらたつお)は、終戦直後に津軽地方で調査を行っている。その際、津軽の人々は、神主さんといえば6~7人が集まって「舞」を行うときの神々しさこそ、存在意義と考えているようで、ずいぶん古風な感覚を保ってくれたと指摘している。そして、こうした神職観が、全国的に見渡しても決してありふれたものではなく、津軽の地方的文化史の有する一つの性格を示すものだと指摘している(「神事芸能」『津軽の民俗』)。
 人々が神職に対して神々しさを感じた「舞」とは、ヨミヤや大祭の際に神職が行う津軽神楽のことである(神社によっては、翌日の大祭に奉納される場合もある)。この神楽は、津軽地方の神職のみで伝承されてきたという特徴を持ち、本県の芸能史を考える上で貴重なものとして、県の「無形民俗文化財」および国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選定されている。
 演目は、当初は20番があったと記録されているが今日は神入舞(かみいりまい)、宝剣(ほうけん)、磯良(いそら)、千歳(せんざい)、榊葉(さかきば)、弓立(ゆだて)、天王(てんのう)、朝倉(あさくら)、湯均舞(ゆならしまい)、御獅子(おしし)、四家舞(しかのまい)の11番が伝えられ、神事の中では、このうち数番が行われる。津軽地方の各地区においてそれぞれ伝承されており、古くは地域間交流が頻繁で、芸態も一様であったというが、明治以降は交流が途絶えがちとなり、現在では、多少の地域差を生じている。例えば、神入舞は本来2人で舞うものであるが、青東地域では、1人舞になっているといった具合である。
 津軽地方の神社を訪れると、拝殿の天井に矢が刺さっているのを目にすることがあるが、これは天王の舞で射られた矢が刺さったもので、うまく刺さると豊作ないし大漁であるといわれる。西海岸の漁民は大漁の印として、その矢を持ち帰ることがあるという。
 ▽津軽神楽
 津軽神楽の歴史と特徴についてご紹介したい。弘前藩4代藩主の津軽信政は、吉川神道を学び、死後高照霊社(現高照神社)に神として祀(まつ)られた。藤﨑町の堰神宮の神官堰八豊後守安隆は、それまで津軽にあったのは「本式の神楽ではない」ということで、神道の考えにのっとった本式の神楽をつくって信政の御前(ごぜん)に奉納したいと考え、1712(正徳2)年に江戸や京都へ上って神楽を研究。2年後に戻って弘前東照宮の山辺丹後の協力を得て神楽を完成させ、同年高照霊社に奉納するに至った。
 これ以降、津軽地方の神社で行われる神楽は、津軽神楽に統一されるようになったといわれる。まさに「神楽改革」ともいうべき大きな転換点を迎えたのである。この神楽の特徴は、所作の中に御幣や榊の大枝を左右に振るしぐさがみられるなど「祓(はら)い」の要素が非常に強く、娯楽性は乏しいが厳粛な舞である。
 余談だが、津軽神楽成立から300年後の2014(平成26)年、弘前市で記念公演が行われた。その前年には、創始に深く関わった堰八豊後守安隆にゆかりのある藤﨑町堰神社に舞が奉納されている。
 ▽誇るべきもの
 津軽神楽成立以前の「本式ではない神楽」とは、どのようなものだったのだろうか。それを明確にうかがわせる資料はないのだが、江戸時代の津軽神楽の演目「狂楽舞(きょうらくまい)」にその手がかりがありそうである。
 狂楽舞には、平維茂、牛若丸、弁慶といった演目があり、その内容は娯楽性に富み、観衆を楽しませるような狂言的な舞だったという。この演目は、厳粛な津軽神楽の中にあって趣を異にしていることから、津軽神楽成立以前から行われていた神楽を取り込むような形で、津軽神楽を構成する一部分になっていったと推測される。
 しかしながら、この狂楽舞は明治初年には「辛うじて数番残す」状態となり、その後途絶えたようである。ちなみに狂楽舞のような娯楽性の高い舞は北東北に広く分布し、県内では下北地方の能舞や南部地方の神楽が、その伝統を継承している。いわゆる「山伏神楽(修験道系神楽)」と呼ばれるものである。
 明治以後、日本全体で神道を取り巻く環境が大きく変化していく中で、現代まで津軽神楽が途絶えることなく伝えられてきたのは、取りも直さず神職が自分の職分としてこの神楽に誇りを持って取り組み、民衆の側もそれを尊重してきたからだろう。お近くで津軽神楽が行われていたら、その歴史に誇りを持ってご覧いただきたい。
(青森県史編さん執筆協力員・石戸谷勉)

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