津軽の街と風景

 

海が育んだ東青地域=83

2018/1/8 月曜日

 

海底観光船「大島丸」=1966(昭和41)年前後=青森県史編さん資料
一本松。後方が一本松踏切=2009(平成21)年11月2日=中園裕撮影
龍飛周辺の洞門=1966(昭和41)年5月=青森県史編さん資料
津軽線の今別駅開業=1958(昭和33)年10月21日=今別町立今別小学校提供

 ▽「東青」の誕生
 1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行により、青森県内には東、西、中、南、北の各津軽郡が存在するようになった。しかし必ずしも方角通りに町村が配置されていないので、県外から来る人々が戸惑うことも多い。津軽の各郡の配置は県庁のある青森ではなく、旧弘前藩主(津軽家)がいた弘前を中心に構成されているのである。
 89(明治22)年の市制町村制施行により弘前市が誕生。その他の町村は各郡の下に編制された。県庁の置かれた青森町も東津軽郡に属していた。2年後に日本鉄道(後に国鉄東北本線、現青い森鉄道)が上野と青森の間に開通。青森町は発展のきっかけをつかみ、98(明治31)年に市制施行を遂げた。
 この後、青森市と東津軽郡の町村(平内町、今別町、外ケ浜町、蓬田村)は交流を深めて現在に至っている。このため「東青(とうせい)」地域と称されることが多い。
 ▽夏泊半島
 平内町内には狩場沢の藩境塚をはじめ、浅所の松島や白鳥渡来地など、史跡や名所が多い。夏泊半島は景勝地に恵まれている。町内の景勝地を六つにまとめた「平内六景」のうち、五つはすべて半島沿岸にある。このため1953(昭和28)年、夏泊半島一帯は青森市の浅虫温泉と一緒に浅虫夏泊県立公園(後に県立自然公園)に指定された。
 夏泊半島先端に位置する大島は、ピクニックやキャンプの好適地だった。島の周辺は好漁場で釣りの名所でもあった。65(昭和40)年頃、船底をガラス張りにした海底観光船「大島丸」が人気を集めた。しかし夏場だけの営業のため、数年で中止になった。
 ▽陸奥湾
 蓬田村は東青地域で唯一の村だが、小さな村である割に川が多い。川は集落の形成に大きく影響を及ぼし境界線にもなる。村内には南から中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬の大字があるが、大字名はすべて川の名称にもなっている。また、村内を縦断する津軽線には中沢、蓬田、郷沢、瀬辺地の4駅が存在する。
 青森市から蓬田村や外ケ浜町へと続く陸奥湾沿岸は、砂や砂利の浜が広がっていた夏は海水浴秋はタコやカレイを釣るなど、子どもたちの格好の遊び場だった。しかし波浪や高潮で船小屋が流され、砂や砂利が田畑や家屋に舞い込む被害も多かった。このため1960年代半ばから護岸が施され、砂浜はコンクリート岸壁や消波ブロックに変わった。美しい景観は失われたが、沿岸の人々が波浪災害に悩まされることは少なくなった。
 ▽ヤマセと松
 外ケ浜町は2005(平成17)年に蟹田町と平舘、三厩両村が合併して誕生した。旧蟹田町の観(かん)瀾(らん)山は太宰治の文学碑で有名になったが、1923(大正12)年に久邇宮邦久が観瀾山と命名した後に公園として整備されたものだ。「瀾」の文字は横に波頭のつらなる波という意味がある。ヤマセが強く吹き付ける海岸の光景を彷彿(ほうふつ)させよう。
 そのヤマセにも負けず、現在も美しい姿を保っている松が蟹田小学校近くの名松「一本松」である。当初は鍛冶屋の一本松と言われ、個人の所有物だったが、43(昭和18)年に蟹田自治会に寄贈された。町民に愛された松らしく、周辺には一本松の名前を冠(かん)した踏切や橋、そして公園が存在する。
 旧平舘村の松並木は松前街道の面影を残している。藩政時代末期に築かれた台場の跡地も存在する。近くには1899(明治32)年4月に点灯した平舘灯台がある。本県では尻屋埼灯台に次いで古い灯台だ。ただし現在の灯台は1960(昭和35)年に改築されたものである。
 忘れてはならないのが、津軽半島最古の温泉である不老不死温泉だ。かつて陸奥湾運河の開削を提唱した実業家の小宮山利三郎が、深浦町の黄金崎不老不死温泉と共に経営していた。現在は経営者が代わったが、良質の湯と地元産の食事で人気を集めている。
 ▽道路と鉄道
 旧三厩村の龍飛崎や階段国道には多くの観光客がやってくる。しかし、かつて龍飛周辺には満足な道路がなく、人々は往来に船を利用していた。大正末期から断崖絶壁に洞門を掘り、戦後に道路や洞門を拡幅。ようやく59(昭和34)年に青森市営バスが龍飛まで走れるようになった。龍飛への道は道路掘削の歴史でもある。
 津軽半島は陸上交通の整備が遅れていた。このため51(昭和26)年12月に、津軽線が青森と蟹田の間に開通したことは大きな意義があった。当然、今別町や三厩村の人々は、津軽線の延長を強く望んだ。津軽線が今別を経由し三厩まで開通したのは、7年後の58(昭和33)年10月だった。掲載した写真からは、今別町民の歓喜の声が聞こえてきそうである。
 北海道新幹線が開通し、かつて函館行きの特急が走った津軽線は、再び特急の走らないローカル線となった。蟹田から三厩までは未電化区間で、列車本数も1日上下5往復である。しかし五能線のように、ローカル線は今後の活用次第で価値が向上するもの。沿線の長閑(のどか)な風景は都会の人々にとって魅力あるものと思う。
 ▽東青地域の源泉
 75(昭和50)年、津軽半島の海岸線の一部が津軽国定公園の指定を受けた。東青地域では護岸が続く陸奥湾沿岸ではなく、半島北部の津軽海峡沿岸が対象範囲となった。袰月海岸の高野崎周辺を中心に、今別町内には砂浜や岩礁の海岸が広く残され、国定公園に指定されている。陸奥湾と津軽海峡は東青地域の歴史と魅力を生み出す源泉なのである。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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軍都弘前伝える遺構=82

2017/12/18 月曜日

 

御仮邸の庭園=1935(昭和10)年「秩父宮御仮屋写真帖」より
旧菊池氏庭園=2007(平成19)年5月16日、弘前市教委撮影
須藤家庭園=2017(平成29)年6月23日、弘前市教委撮影
文化財庭園保存技術者協議会技術見学会の様子=17年6月24日、弘前市教委撮影

 ▽軍都の記憶
 ご存知の通り、弘前市には「軍都」としての歴史がある。陸軍第8師団司令部の設置から先の敗戦まで、弘前は約半世紀にわたって軍事戦略上重要な位置にあった。
 戦後、軍関係の施設は教育施設等へ転用され、その後の弘前の「学都」への転身に大きく寄与した。それらの施設の多くも現在ではほとんど失われ、急速にまちから「軍都」としての記憶は失われつつある。その中で、旧第8師団長官舎(登録有形文化財)と御幸町の旧弘前偕行社(重要文化財)とが、往時の様子を伝える貴重な遺構として現存している。
 旧第8師団長官舎は戦後、3分の2ほど解体の上で現在の市役所敷地の南側へ移築。2012(平成24)年度までに、弘前市庁舎の増築に先立って、市役所敷地北側へ曳(ひき)屋の上で耐震化を含む保存修理を実施した。現在は喫茶店が営業しており、登録文化財という制度の特性を生かした保護手法の好例として一定の評価を受けている。
 旧弘前偕行社は、保育園の園舎や弘前厚生学院の教場として活用されたが、01(平成13)年に重要文化財指定を受けた。13(平成25)年度から、所有者である弘前厚生学院によって大規模な保存修理を継続中だが、1907(明治40)年建築当初の姿に復原される計画である。規模的にも意匠的にも、ひときわ目立つ建物で弘前の歴史性をアピールできる中核的な施設として、活用が大いに期待されるところだ。
 ▽大石武学流庭園
 軍都弘前にゆかりのある遺構は建物だけではない。旧弘前偕行社が全国的にみて極めて価値が高いのは、偕行社の建物に付随した庭園が現存していることである。現在も池泉や築山などの形状が残り、往時の様子の一端を伝えているが、軍都弘前の時代は実は弘前にとって、庭園文化の興隆した時期でもあった。
 弘前を中心に津軽地方における庭園文化の一大潮流を築いた大石武学流庭園は、始原がどこにあるのか不明である。しかし、その様式を継承する宗家と呼ばれるリーダーたちによる活動が明確に把握できるのは、明治に入ってからである。現在、文化財指定などの一定の価値付けが行われている大石武学流庭園は、明治期に大石武学流宗家によって作庭されているものが多い。
 他にも、現在残っている大石武学流庭園の名園は、明治から昭和初期にかけて宗家が最も活動的だった時代に多いように思われる。そして、その時期は弘前が軍都として機能していた時期にも重なってくるのである。
 ▽秩父宮と庭園
 軍都弘前における実際の戦争以外の大きな出来事の一つに、秩父宮雍人の赴任があげられる。秩父宮は昭和天皇の弟宮で、31(昭和6)年に陸軍大学校を卒業後、35(昭和10)年8月に、歩兵第31連隊第3大隊長に任官した。
 赴任地の弘前では、その御仮邸として紺屋町の菊池長之の別邸が供された。現在の弘前明の星幼稚園の場所である。
 この御仮邸に付随していた庭が、現在も残る国の登録記念物旧菊池氏庭園(弘前明の星幼稚園庭園)である。この庭は大石武学流5代宗家の池田亭月により作庭されたと考えられるもので、秩父宮は御仮邸で起居するとき、この庭を眺めて過ごしていたであろう。
 御仮邸は47(昭和22)年に主屋を焼失、往時の様子を現在に伝えるのはこの庭だけである。弘前の「軍都」としての歴史を示す、貴重な遺構の一つに数えられるものだ。
 秩父宮はスポーツに造詣が深く、中でもスキーの技術は卓越したものがあったという。弘前赴任中は奉迎スキー大会が開催されるなど、スキーに深く関わった日々だったようだが、同時にスキーによる耐寒行軍を実施している。
 この耐寒行軍によって秩父宮と結びつく、もう一つの大石武学流庭園が弘前市前坂の須藤家庭園である。大石武学流宗家4代小幡亭樹が、明治末年頃に作庭したと伝えられる大石武学流庭園を代表する庭の一つで、2017(平成29)年6月、国の選定保存技術保持団体である文化財庭園保存技術者協議会の技術研修会が弘前を会場に開催された際、技術見学会の会場となったことでも知られている。
 須藤家庭園には、庭そのものの特徴もさることながら、ひときわ強い印象を残す高さ2メートルの石碑と、大石武学流庭園にはあまり見ない寄棟造の特徴的な建物がある。これらは作庭当初から庭にあったわけではなく、1936(昭和11)年以降に庭に付加されたものである。
 ▽記憶を次代へ
 36(昭和11)年1月31日、秩父宮率いる第3大隊は耐寒訓練のため、中津軽郡裾野村(現弘前市)の鬼沢方面に行軍を実施した。朝8時55分に開始した行軍は途中、正午に高杉村の須藤繁文宅で昼食休憩を取った。須藤は医師として活躍し、明治末年頃には村を代表する名士として知られていた。
 37(昭和12)年刊行の「秩父宮殿下御高徳録」に寄せられた須藤繁文の手記によると、休憩の際再三座敷へ上がっていただくよう頼む須藤に対し、「此処で結構だ」と屋敷の玄関で休憩を取り、出発に際しては「どうもありがとう」と会釈するなど、その様子に「誠に恐懼感激」としている。
 その後、須藤は秩父宮が訪れた記念碑のほか、休憩の際に使用した机や椅子、火鉢、茶器を保管する記念堂を、それぞれ庭園内に建立した。41(昭和16)年刊行の「秩父宮殿下御在県記念誌」には、秩父宮に関連する記念碑等を建立した個人の記録が掲載されているが、記念堂の建立などを行ったのは須藤のみである。
 一連の行為には高杉村の名誉としたい考え方もあっただろうが、須藤家の感激ぶりが伝わってくる行動でもある。同時に、そうした記憶を庭の中にとどめた点に当時の人々が記憶を次代へつなげ、維持していく場として庭園を認識していたとも考えられよう。
 軍都としての記憶が薄れていく中で、庭園のように往時の記憶が刻み込まれている物や場所は確実に存在する。今後は、それらをどのように次代へつなげていくのかを検討していく必要があるだろう。
(弘前市教育委員会文化財課主幹 小石川透)

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縄文人骨発見で注目=81

2017/11/27 月曜日

 

写真1 オセドウ貝塚出土の人骨=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供
写真2 山王坊日吉神社の山王鳥居=1923(大正12)年7月、五所川原市教育委員会提供

 2017(平成29)年11月12日、山王坊(さんのうぼう)遺跡が国指定史跡となった記念に十三湊(みなと)・山王坊フォーラムが、地元の五所川原市相内で開催された。主催は十三湖一帯に広がる十三湊安藤氏関連の遺跡を観光ガイドする民間団体「安藤の郷応援隊」だった。当日は100人を超える参加者が会場を埋め尽くし、十三湊安藤氏研究の関心の高さを改めて肌で感じることができた。
 さて、相内村(後に市浦村、現五所川原市)の歴史については前回、明治から昭和にかけて盛んだった林業について紹介したことがあるが、今回はフォーラムの発表内容を踏まえ、歴史遺産の宝庫である相内村について紹介したい。
 ▽オセドウ貝塚
 相内村は津軽平野北端部、岩木川河口の十三湖北岸に位置しており、水運では岩木川水系と日本海、陸運では江戸時代の下之切(しものきり)街道と十三(じゅうさん)街道が交わる交通の要衝として、縄文時代以来、人々が集住し多くの遺跡が残された地域である。
 特に中世には、日本三津七湊(さんしんしちそう)として著名な港湾都市十三湊の一角を占め、当地を支配した豪族安藤氏に関連する福島城(ふくしまじょう)跡や山王坊遺跡など、貴重な中世遺跡群が数多く残されている。相内村は津軽地域の中でも古くから開けた地域だったのである。
 実は、こうした歴史遺産の謎を解明する研究は古くから行われていた。特に十三湊や安藤氏に関する研究は青森県中世史解明の鍵とされ、膨大な研究の蓄積がある。古くは1922(大正11)年12月22日、十三湖を中心に当時の十三、相内、内潟三村の有志(郷土史家の奥田順蔵(おくだじゅんぞう)や福士貞蔵(ふくしていぞう)ら)が集まって設立された十三(じゅうさん)史談会による研究が著名である。
 翌年の7月6~7日には、十三史談会の要望による北郡初頭教育研究会が相内村で盛大に開催された。その際、研究会に合わせて行われたオセドウ貝塚(縄文時代前期~中期)の発掘調査(23年6月20~25日)によって貴重な縄文人骨が出土した。縄文人骨の発見は注目を浴び、研究会に華を添えるものとなった。
 これを契機として、25(大正14)年に当時東北大学の長谷部言人(はせべことんど)や山内清男(やまのうちすがお)による研究者が、層位学的研究に基づいて同貝塚の分層発掘を行った。その後、出土した土器について長谷部は27(昭和2)年に「円筒土器」と命名し、山内は29(昭和4)年に円筒土器を層位的に「円筒上層式」と「円筒下層式」と大別し、土器の編年研究を進めた。オセドウ貝塚は研究史的にも著名な遺跡として知られている。
 ▽五月女萢遺跡
 縄文時代の遺跡に関しては、2010~13(平成22~25)年にかけて発掘調査された五月女萢(そとめやち)遺跡が注目されている。縄文時代後期後葉(約3500年前)から土坑墓が造られ、晩期後葉(約2500年前)までの約1000年間にわたって連綿と土坑墓が造られ、これまでに土坑墓140基が確認された。
 分布に特徴があり、丘陵頂部を取り囲むように環状(南北40メートル×東西60メートル)に土坑墓群が巡っている様子が明らかとなったまた墓域に至る参道と思われる道路状遺構1条も確認された。特に黄色粘土を盛ったマウンドを伴う土坑墓の事例が多く確認されたことで、墓の上部構造が非常に良く分かる事例として、亀ケ岡文化の墓地景観に対する見方を大きく塗り替える発見と注目された。
 さらに、これまでに7体の埋葬人骨が発見されたことに加え、土坑墓には墓標とみられる自然礫を伴うもの、内部に赤色顔料(ベンガラ)や玉類などの副葬品を伴うもの、底面に周溝を巡らすもの、幼児墓とみられる埋設土器などが見つかった。縄文時代の社会や精神文化、死生観を伺い知る祭祀(さいし)遺跡として学史に残る貴重な発見となったのである。
 ▽十三史談会
 十三史談会の研究に話を戻すことにしよう。1日目に研究発表会、2日目には奥田順蔵と福士貞蔵を案内者にして相内村から十三村にかけて史跡巡りが行われた。その内容は、江戸時代に寺子屋の教科書として利用され、中世十三湊の活況の様子を伝える『十三往来(とさおうらい)』(『津軽一統志(つがるいっとうし)』付巻)に記載されている神社や仏閣、または城館について、現地形との照合や関連遺物の分析を通して現地比定を行うものだった。
 これによって『十三往来』に記載される寺社では禅林寺(ぜんりんじ)跡、龍興寺(りゅうこうじ)跡、山王坊阿吽寺(あうんじ)跡、浜(はま)の大明神(だいみょうじん)跡、羽黒権現(はぐろごんげん)跡、それ以外の寺社では檀林寺(だんりんじ)跡・板割(いたわり)(桂川(かつらがわ))猿賀神社(さるかじんじゃ)、磯松五輪塔(いそまつごりんとう)、城館では福島城跡、唐川城(からかわじょう)跡について考察するものだった。
 今から95年前に、すでに伝承の域を出なかった中世寺社跡などを現地比定する研究が行われていたのである。現在でも多くの知見を与えてくれるだけでなく、その多くは遺跡として周知されている。
 そのおかげもあって、山王坊阿吽寺跡と推定された山王坊遺跡の発掘調査が1982~89(昭和57~平成元)年と2006~09(平成18~21)年に行われた。その結果、礎石建物跡による中世寺社跡の規模や構造など伽藍配置(がらんはいち)の様子が明らかとなった。
 存続年代は14世紀後半~15世紀前半(南北朝~室町時代)で、まさに十三湊安藤氏が活躍した時代だった。これまでに奥院(おくのいん)跡、社殿列(しゃでんれつ)跡、仏堂(ぶつどう)跡など、大きく三カ所の性格の異なるエリアが確認された。神仏習合(しんぶつしゅうごう)を如実に示す貴重な遺跡であることが明らかとなり、17(平成29)年2月に国史跡に指定された。
 歴史遺産の宝庫である相内村では、地元民の熱意によって古くから地道な調査研究が進められ、その歴史解明が着実に進められてきた。今回の十三湊・山王坊フォーラムは、まさに時宜にかなったものだった。五所川原市市浦地域の歴史や魅力を伝える活動を続けながら、地域活性化を担う安藤の郷応援隊の皆さまに心より敬意を表したい。
(日本考古学協会会員、五所川原市在住 榊原滋高)

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アスパムの建設過程=80

2017/11/6 月曜日

 

1985(昭和60)年4月8日
4月18日
4月22日
4月29日
5月18日
6月8日

 ▽経過を示す資料
 建物やイベントの開館なり開会の記録は、刊行物などに記され写真もたくさん撮影される。しかし途中経過を示す記録や写真は、直接の関係者が公開や発表でもしない限り、目にすることは少ない。日常生活に追われる中で物事の記録を書き続け、写真を撮影し続けることは難しい。記録を残す意識が強く働かない限り記録は残されないのである。
 今回は青森県史編さんの資料提供者でもある竹内義人さんの写真から、青森港を望む観光物産館アスパムの建設過程を紹介したい。写真は竹内さんの父親である竹内義文さんが、市役所職員時代に撮影したものである。
 アスパムは1984(昭和59)年7月の起工式から2年近くの年月をかけ、86(昭和61)年4月に竣工(しゅんこう)式を迎え開館した。今回掲載した写真は、アスパムの骨格が建設される時期にあった85(昭和60)年の4月から6月にかけて撮影されたものである。
 ▽周辺に見えるもの
 4月8日撮影の写真を見ると、アスパムの中腹あたりまで骨格ができている。八甲通りの北側、現在のアスパム通り中程から撮影したものだ。写真はアスパムの建設過程を記録するために撮影されたものだが、周辺や背後に見えるものが興味深い。
 当時は中央分離帯にガードレールがあった。左右の建物も現在と大幅に違う。特に右側に見える割烹大清(かっぽうたいせい)は青森市民になじみの店だった。59(昭和34)年8月の開店で、店舗名は社長の大道清(だいどうきよし)にちなんだもの。63(昭和38)年に3階建てに拡張。地階は大衆向けの割烹食堂とし、屋上にビアガーデンを開設した。
 特に舞台付きの百畳敷きの大広間は、結婚披露宴に格好の会場になった。当時は披露宴の施設を有するホテルが少なかったからだ。大清は時勢と大衆の心をつかんだ経営方針で事業を拡大していったのである。
 しかし、現在すでに大清の店舗はなく、跡地はホテルJALシティ青森となっている。割烹とホテルでは業態こそ異なるが、披露宴ができる施設を有し人々が集まる晴れの場であることは変わらない。
 4月18日の写真は、新町通り南側の八甲通りから撮影されたものである。中央分離帯にガードレールがあるが、この場所にはかつて水路があった。柳町や北金沢で毎年出水があるため、出水を防ぐとともに市内の防火線にする目的で造られた。しかし、その後の下水道工事によって水路は暗渠(あんきょ)となった。
 ▽記憶装置
 撮影開始半月後となった4月22日、頂上近くまで骨格ができた。青森市の新城に住んでいた竹内さんは、鉄道かバスを使って駅近くで降車し、市役所まで歩く出勤の途中で撮影したと思われる。車や人通りが少なく、影が右(東)から左(西)にかけて長く見えるからだ。周辺の店舗が閉まっているのは朝の出勤時間のためだろう。
 右側の白い建物は昭和30年代からの建物で、当初は喜久寿司(きくずし)が営業していた。69(昭和44)年5月、とんかつ亜希(あき)が入った。亜希はトンカツや揚げ物を独特のタレで食べさせることが評判を呼んだ。現在も昼食時などで混雑する人気店である。
 写真の左側には、貸レコード友&愛青森店の立て看板が見える(店舗は看板左横の和田ビル内にあった)。当時は登場して間もないCDが、既存のLPレコードと共存していた。しかし、どちらも学生や若者たちにとっては少し高価なお買い物。貸しレコード屋で借りたレコードをカセットテープに録音して聴いた人も多かったと思う。
 4月29日、アスパムの頂上部分を組み立てる作業が始まった。右側に銀座ヤマガタの看板が見える。協働社ビルに入っていたテナントだ。協働社は傘と靴を中心に業績を上げ、64(昭和39)年に5階建てのビルを建設。事実上の百貨店経営で一世を風靡(ふうび)した。
 その後、ビルの3階に入ったレストランQは、フロア全体を使ったファミリーレストラン風の雰囲気で、家族連れやサラリーマン層の人気を集めた。八甲通り向かい側のカネ長武田(現さくら野)デパートの職員も、よく食事に来ていたという。いずれも今や思い出の中の出来事だが、写真は過去を現在へ導く記憶装置でもあるのだ。
 ▽記録を残す
 5月18日、アスパムの象徴であるピラミッド型の骨格が完成。6月8日には外壁とエレベーター部分の建設が始まったが、アスパムの写真はこの撮影で終わっている。
 今回紹介した写真は一般市民の残したアスパムの建設記録である。しかし、スマートフォンで気楽に撮影し、撮り直しが容易な現在と異なり、当時はカメラを持参し、撮影後もフィルムを現像してプリントに仕上げる手間と費用がかかった。撮影年月日も別途記録しなければ、時間の経過とともに忘れてしまう。
 竹内さんは撮影年月日も紙に書いてフィルムと一緒に保存していた。記録を残すという意識がなければできないことであり、後世へ残す必要性を熟知しての行為といえるだろう。こうした人々の思いをくみ取り、それを県民市民に分かりやすく解説し、読み物として編集することが歴史研究者に求められている。同時に青森県史の編さん事業に課せられた重要な役割でもある。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)

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江戸期の中里伝える=79

2017/10/16 月曜日

 

「貞享の絵図(部分)」=中泊町博物館所蔵
「貞享の絵図」概要図=中泊町博物館所蔵
町制施行を祝う派立地区=1941(昭和16)年・加藤俊輔氏提供
中里城に抱かれる向町地区(本村)、右下のアスファルト部分がかつての溜池=1988(昭和63)年・中泊町博物館所蔵

 ▽近世「中里村」の登場
 中泊町中里地区の前身「中里(なかさと)村」は、1640(寛永17)年に弘前藩の3代藩主津軽信義(のぶよし)が家老津軽百助(ももすけ)に48カ村500石の知行を与えたことを示す「津軽信義黒印知行充行(あてがい)状(国立史料館蔵)」に初めて登場する。一方、中里村の生産力(石高)が具体的に分かる史料は、45(正保2)年「陸奥国津軽郡之絵図(青森県立郷土館蔵)」が最初であり、そこでは新田ながら362石と記載されている。87(貞享(じょうきょう)4)年の検地帳「陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳(弘前市立図書館蔵)」では909石となっていることから、およそ40年間で2・5倍に拡大したことが分かる。
 急成長を遂げた中里村の様子は、中泊町博物館所蔵の「貞享の絵図(町指定文化財)」に詳しい。弘前藩は貞享検地に先立って、各村の庄屋に村の見取り図や戸数などを書き上げさせたが、同絵図はその写しと考えられている。
 絵図は「古城」「中里村」を中心に、東を上にして描かれている。右上には「家数八十三軒」とあり、うち「本村」が25軒、「裏屋(借家)」5軒、本村から分かれた「枝(えだ)村」53軒となっている。続けて「貞享元年三月晦日(みそか) 庄屋八右ェ門」と記されていることから、絵図の作成者は豪農として知られる加藤家初代八右衛門(はちえもん)であることが分かる。
 八右衛門は、もともと能登国正院(しょういん)村(石川県珠洲市)の海運商であり、62(寛文2)年に中里村へ移住したとされる。酒屋や材木商を営みながら水田の開拓に従事し、代々奇数代は八右衛門、偶数代は八九郎(はちくろう)を襲名した。
 ▽古絵図に描かれた中里
 絵図の南端には宮野沢川、西端には「福甲田潟(ふこうだがた)」、北端には「森合地子(もりやじし、現在の平山(ひらやま)地区)」、東端には中里川の上流「無澤嶽=むさわだけ)(袴腰岳(はかまごしだけ)か)」が描かれており、これらの内側が中里村の範囲だったことがうかがわれる。「福甲田潟」は、かつて津軽平野北半を覆っていた古十三湖の名残であり、地子新田というのは畑地のみの新田である。
 中央には、南から北に向かう街道(下之切道(しものきりみち))が描かれている。宮野沢(みやのさわ)川と枝村「漆新田(うるししんでん)(派立(はだち)地区)」の間には12本の堰(せき)が流れ、橋が架けられている。8番目の橋付近(駐在所付近)には一里塚があり、「宮野沢」と「五輪(ごりん)村」へ分かれる十字路を過ぎると「漆新田」である。「五輪村」は現在の五林地区であり、五林神社に祀(まつ)られている五輪塔に由来する地名だったことがうかがわれる。
 「漆新田」を過ぎると、「溜(ため)池(わんぱく広場)」を経て、本村「中里村(向町(むかいまち)地区)」である。東方の山手には「寺屋敷(弘法寺(ぐぼうじ))」「伊勢宮(いせぐう)地(旧神明宮)」「古城(中里城)」があり、西側には「荒神宮(こうじんぐう)地」や、現在では見当たらない山々が描かれている。あるいはこの山が、かつて十三湖干拓建設事業の際、土取りによって消滅したとされる「まぎの坂」であろうか。中里川を越えると「森合地子新田」であり、東には「薬師堂」「御鳥屋(おとや=幕府献上用の鷹の捕獲場所)」が見える。
 「貞享の絵図」は、細部を検討すれば不正確な部分も少なからず見受けられる。しかしながら、本村を中心に、用水が網の目のように延び、枝村、寺社、溜め池が同心円状に分布する姿は、大枠においては江戸時代前期の中里地域の様子を如実に伝えていると考えられる。
 ▽旅人が見た中里
 「貞享の絵図」から100年余り、天明飢饉(ききん)からほぼ10年後となる1793(寛政5)年、相内方面から中里入りした常陸国(茨城県)出身の探検家木村(ら)謙次(きむけんじ)は、当時の様子をおおむね次のように記している。
 「今泉村に至るまで2里ばかり十三潟の際を通った。臼市(うすいち、薄市)村は水田が広がっている。高根(たかね)村、新田子(しんでんし)村、上高根村、尾別(おっぺつ)村を経て中里村である。富農が多く、屋敷も新しくきれいである。左の山手に宮野沢村がある。この村も豊かな里である。八幡(はちまん)村には弘前藩の穀倉がある。3棟あり、1棟当たり1万5000俵ほど入るという。水田の右手に彦田(ひこだ)(深郷田(ふこうだ))村があり、八幡宮がある。この辺りは、弘前藩領の中でも地味が肥え、農作物が豊かに実る土地である。(『北行日録』)」
 その数年後の96(寛政8)年初夏には、三河国(愛知県)出身の紀行家菅江真澄(すがえますみ)が訪れ、詳細な記録を残している。概要を記しておこう。
 「水海のような大池(大沢内(おおざわない)溜池)の堤を通り、波知満武邑(八幡村)、深江田(ふこうだ)村、やはたのおほん神(八幡宮)を過ぎて羽立に着いた。途中の水田では、油を使った害虫駆除が行われていた。左手の五倫には寺跡や五倫塔があり、昔は栄えていたと伝えられている。さらに小池(現わんぱく広場)の堤を過ぎて中里村に入った。いささかにぎやかなところである。その日は、加藤なにがし(加藤家五代八右衛門か)の紹介で、米家荘太郎(こめやしょうたろう)宅(井沼(いぬま)家)に宿泊した。(『外浜奇勝』)」
 木村謙次や菅江真澄といった旅人の目に映った中里村は、飢饉直後にしては案外と豊かでにぎやかな村に見えたようである。以来、200有余年の歳月が流れ、町の中心は派立地区に移ったが、城に抱(いだ)かれた古村の佇(たたず)まいは往時のままである。
 「貞享の絵図」は中泊町博物館で常設展示中である。また、博物館では21日から、世界各国の手作り玩具などを紹介する秋の企画展「遊びとおもちゃ―素朴とぬくもり―」を開催予定である(12月17日まで)。この機会に併せてご覧いただきたい。
(中泊町博物館館長補佐 斎藤淳)

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