津軽の街と風景

 

米陸軍が青森に進駐=140

2020/9/21 月曜日

 

ビーチ・レッド(青森市八重田海岸)に上陸する第323連隊戦闘団の兵士たち。絶好の見せ場だが、市民の立入は禁止されたから、「観衆」は警察官だけだった=1945(昭和20)年9月25日(『青森大空襲の記録(改訂版)』より転載)
弘前市の代官町から土手町、富田大通りへと行進する第322連隊戦闘団の兵士たち=1945(昭和20)年9月26日(『青森大空襲の記録(改訂版)』より転載)

 ▽演出された? 青森湾上陸
 1945(昭和20)年9月25日9時00分(米軍の公式記録)、上陸用舟艇に乗ったアメリカ陸軍第81歩兵師団(通称ワイルドキャット=山猫。以下、単に師団と記す)の将兵が青森市に上陸を開始した。ビーチ・レッド(合浦海岸)からは第322連隊戦闘団、ビーチ・グリーン(八重田海岸)からは第323連隊戦闘団を先頭に師団隷下部隊の1万5千を超える将兵が延々と上陸し、市内を行進した。
 東北地方各県の占領部隊は列車を主体に、一部は自動車、輸送船で進駐していた。まるで敵前上陸のような進駐は異例だ。
 占領軍は師団司令部および軍政府用の建物として青森市公会堂を接収。10時00分、師団司令官ポール・J・ミューラー少将らが国旗掲揚式を行い、星条旗が公会堂の空に翻(ひるがえ)った。11時00分、司令官は金井元彦県知事らを呼び、師団司令部と青森軍政府の設立を告げ、命令書を伝達した。
 ▽1万5千の将兵が各地に
 上陸翌日の26日には師団の一部が列車で弘前と八戸(陸軍飛行場)、28日には三沢(海軍飛行場)と大湊(海軍大湊警備府所在地)にも進出した。
 ミューラー少将の青森軍政府は、施政にあたって県内を3軍区(地区)に分けた。第1軍区はミューラー司令官が直接管理し、第2、第3軍区は軍管理者代理が管理を行った。第1軍区は青森市を拠点に東津軽郡を管轄、第2軍区は弘前市を拠点として弘前市、南津軽郡、西津軽郡、北津軽郡、第3軍区は八戸市を拠点として八戸市、三戸郡、上北郡、下北郡をそれぞれ管轄した。
 青森軍政府の任務を要約すると、(1)日本および、日本人の民主化の援助や推進(2)日本の軍隊の解体、非武装化-だ。(1)は専門の訓練を受けた第75軍政中隊が到着した10月中旬から本格化する。師団の活動は主に(2)で、日本陸海軍の施設、武器、弾薬の接収と破壊、民間にある武器の回収、治安維持のためのパトロールなどを行った。弘前市への進駐の人員が多いのは、日本陸軍の施設財産と武器弾薬が弘前市周辺に集中していたためだ。
 ▽ワイルドキャット小史
 アメリカ陸軍の歩兵師団は、弘前第8師団など日本陸軍の師団に相当する大部隊だ。師団は第1次世界大戦中に編成され、大戦後に編成解除となった。大戦中、捕獲した山猫を師団のマスコットにしたことから、師団はワイルドキャット(山猫)師団を通称とするようになった。
 師団は第2次大戦開戦後の42(昭和17)年6月に復帰編成され、44(昭和19)年8月以降、ガダルカナル島、アンガウル島、ペリリュー島などの激戦地で日本軍と壮絶な戦いを続けた。師団は日本軍との戦闘により、アンガウル島で戦死260人、負傷2294人、ペリリュー島では戦死276人、負傷1380人の損害を出していた。
 日本陸軍の高階支隊(基幹は青森歩兵第5連隊)が激戦の後、壊滅したフィリピンのレイテ島に到着したのは45(昭和20)年5月。すでに前年12月26日にアメリカ軍は日本軍の組織的抵抗の終結を宣言していた。師団の任務は残敵掃蕩(そうとう)だ。飢餓線上をさまよう高階支隊の兵士と山猫師団の兵士とが遭遇したかは分からない。
 連合国軍(アメリカ軍主体)は日本本土上陸作戦として、ダウンフォール作戦と、それを改訂したブラックリスト作戦を計画した。実施されたら師団は大きな犠牲を強いられただろう。
 ブラックリスト作戦では大湊上陸も計画されていた。本土決戦では一般県民も国民義勇隊、国民義勇戦闘隊として動員されることになっていたから、将兵ばかりでなく、県民にも多大な被害が出ただろうことは想像に難くない。
 日本の降伏を受けて、ブラックリスト作戦は中止となり、師団は青森県占領の命令を受けた。師団の青森湾上陸は冒頭に記したように平穏に行われた。
 ▽ワイルドキャットの帰国
 戦時中、連合国軍を「鬼畜米英」と呼ばされていた県民はアメリカ兵の進駐を緊張して迎えた。進駐地の女子中等学校(女学校)は進駐当日から休校、女教員には休暇を与えて家庭待機。授業再開は県の指示を待つ。男子中等学校は生徒の精神的指導を行うこと、などが県から通達された。
 緊張していたのはアメリカ軍も同様である。しかし、反抗も示威行動も起きなかった。師団の駐留中は日本人との間に大きな問題は起こらなかったと師団記録は記している。
 兵士は平穏な日々を送った。しかし、進駐後間もなく“敵”が訪れてきた。冬の到来だ。常夏の南方から厳冬の地へ。豪雪下の生活。クリスマスも新年も雪の中。かまぼこ兵舎や旧日本軍の木造兵舎から顔を出して天を仰ぐ兵士もいた。
 朗報がもたらされた。46(昭和21)年1月10日付師団機関紙「ザ・ワイルドキャット」は「ミッションは完了。師団は活動停止へ」というミューラー少将の別れの辞と、「占領作業は第11空挺師団に」との記事を掲載した。日本の非武装化も順調に進み、占領遂行にもはや師団規模の部隊は必要としないということだ。1月10日、師団はすべての任務を解除された。30日には編成解除となり、将兵は故郷に帰る日を迎えた。
 全国的にも連合国軍の日本駐留人員は急速に減少していった。しかし、県内では八戸、三沢などの基地がなくなることはなかった。ワイルドキャットの帰国により、占領は転機を迎えたが、同時に75年後の今日まで続くアメリカ軍の県内駐留の起点になったともいえるかもしれない。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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住民憩いの場 禅林街=139

2020/8/31 月曜日

 

写真1 長勝寺の門前にあった太郎杉(千年杉)=1968(昭和43)年・藤田本太郎さん撮影『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載
写真2 植物園に保存された太郎杉=2015(平成27)年10月18日・筆者撮影
写真3 長勝寺前のロータリー=2015(平成27)年10月18日・筆者撮影
写真4 空から見た禅林街と忠霊塔(仏舎利塔)=1960(昭和35)年5月9日・青森県史デジタルアーカイブスより

 ▽桝形
 多数の寺院が集まる禅林街は、彼岸や盆の時期に大勢の人々が集まり、観光客も多数訪れる。藩政時代の遺構が数多く残されているが、その一つが入り口に位置する桝形(ますがた)だ。城下町には必ず存在した防御施設の一つで、弘前市内にも複数存在する。最も有名なのが弘前大学の南方に位置する桝形だろう。バス停の名称にも使われている。
 禅林街入り口の桝形には年末に露店市が開かれ、正月用品を求める人々が集まった。道路の主役が人だった時代、桝形のような入り組んだ道路は人々が集まる格好の場所になった。道路は子どもたちの日常的な遊び場でもあった。
 自動車社会の到来で桝形は交通の難所扱いされた。道路整備の一環で形を崩され、撤去されたものもある。事実、弘大近くの桝形は県道127号が元国道4号だったこともあり、道路が大きく整備され当初の姿をあまりとどめていない。
 道路の主役が人から自動車に代わったことで、街並みの構造や人々の生活は大きく変わった。道路で露店市を開催するにも制約が掛かり、子どもが道路で遊ぶこと自体が危険を伴うようになった。生活の維持向上と歴史的遺構の保存活用は両立が難しく、常に調整が求められる問題である。桝形もその事例に漏れない。
 ▽太郎杉
 禅林街の一番奥に存在する長勝寺。その門前に、かつて大きな杉の木があった。在りし日の写真を見ると、その大きさが分かる(写真1)。子ども時代に何人かで手をつなぎ、木を取り囲んで大きさを満喫した人も多いだろう。
 「千年杉」ないし「太郎杉」と呼ばれた杉の木は、戦時中に空襲警報が出ると周辺市民の避難場所になった。戦後、長勝寺や禅林街が観光地として有名になるにつれ、憩いの場になった。暑中に涼を求める人は、木の下でしばしの安らぎを覚えた。
 戦後、大きな枝が落下し始めるなど、太郎杉は老衰が著しくなった。上部の枝を切り落として延命措置を取っていたが、1998(平成10)年に枯死し切り倒された。
 太郎杉は13(大正2)年に大日本山林会が刊行した『大日本老樹名木誌』(本多静六執筆編集)にも掲載された名木だった。しかし、それ以上に弘前市民が愛し、子ども時代から親しんだ大木でもあった。
 切り倒された太郎杉の幹が弘前公園の植物園に展示されている。説明板には樹高17メートル、幹周8・65メートル、推定樹齢800年と書かれ、幹の中心は空洞部分が目立つ(写真2)。失われた大木が写真だけでなく、目で直接確かめられる意義は大きい。
 長勝寺門前の道路上に緩衝地帯があり、杭(くい)が10本ほど立っている。小さなロータリーになっているが、この部分はかつて太郎杉のあった場所である(写真3)。説明板こそないが、太郎杉の遺構が残されていると見なしてよいだろう。
 大木も生き物である以上、死を免れることはできない。しかし、太郎杉の幹が植物園に保存展示され、元の場所にはロータリーができた。太郎杉の存在を後世へ伝えておきたい人々の思いが、具体的な行動となって示されたことに大きな意義があると思う。
 ▽忠霊塔(仏舎利塔)
 太郎杉のあった長勝寺の右隣に広場があり、忠霊塔と書かれた大きな石碑がある。日清戦争以来の戦死者を「英霊」として祀(まつ)る場所である。アジア太平洋戦争開戦前の41(昭和16)年7月に起工し、敗戦後の45(昭和20)年11月に納骨式が行われた。
 忠霊塔の文字は、かつて第8師団長だった菱刈隆が揮毫(きごう)したものだ。戦前に起工し戦後に竣工(しゅんこう)した忠霊塔は珍しかった。しかし46(昭和21)年11月、占領軍の意向を受けた政府から、忠霊塔の建設や戦没者の公葬は基本的に禁止された。戦没者の祭典に対しても、神官のみで祭事を行い遺族と共に行わないこととされた。
 忠霊塔は解体される恐れがあった。かつて第8師団のあった弘前市の忠霊塔には、建立の時から師団関係者や県ないし市町村の関係者など、多くの公人が関わってきた。納骨式には遺族関係者も多数参列している。戦後間もない頃、戦没者の遺族にとって忠霊塔の存在は大切な心の拠(よ)り所だったのである。
 遺族らの思いを受けて関係者は知恵を絞り、忠霊塔の「忠」の部分に梵字(ぼんじ)を配し、仏舎利を合祀(ごうし)して存続を図ろうとした。52(昭和27)年5月、世界仏教大会が塔の前で開催され、翌年の5月には仏舎利が迎えられた。これ以降、忠霊塔は仏舎利塔と称されるようになった。
 もともと忠霊塔自体が公葬の場として建設されたため、仏舎利塔の前には広場があった。長勝寺と並んで高台にあり眺望も良かった(写真4)。特に岩木山の眺めは抜群だった。広場はデートの場所として重宝され、子どもたちの格好の遊び場になった。
 年月の経過とともに仏舎利塔は老朽化し、83(昭和58)年5月の日本海中部地震で塔の一部が壊れ、中の遺骨も散乱する被害を受けた。戦争自体の風化や遺族会の縮小もあり、修復への道のりは厳しかった。
 しかし、関係者の努力と協力により改修が施され、2003(平成15)年に工事は完了。「忠」の文字が復活し、設立当初の名称通り忠霊塔が復活した。とはいえ仏舎利塔の名前に愛着を持つ市民は多く、今も双方の名前が併称されている。
 ▽遺構を守る、歴史を学ぶ
 太郎杉や忠霊塔は観光ガイドブックなどにも記載が少なく、その存在を知る人も少なくなってきている。しかし10年以上前から、自衛隊OBによる県隊友会中弘支部の関係者や市民ボランティアが、毎年お盆前に忠霊塔周辺の草刈りを続けるなど整備と保存に努めている。歴史的遺構の保存には、地道な活動の継続が大切であることを改めて痛感する。
 長勝寺や禅林街と同様、忠霊塔も歴史の中で生み出された大切な遺構である。失われた太郎杉も、多くの人々に親しまれてきた歴史的背景を知ることで、さまざまな発見があると思う。禅林街に来たら、今回紹介した場所にも足を運んでほしい。
(県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ〈県史担当〉中園裕)

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庁舎 転々と場所変え=138

2020/8/10 月曜日

 

写真1 初代庁舎=1890(明治23)年頃『青森実地明細絵図』より転載・青森市民図書館歴史資料室提供
写真2 第4代庁舎=明治末期・青森県史デジタルアーカイブスより
写真3 第5代庁舎=昭和戦前期・青森市民図書館歴史資料室提供
写真4 青森大空襲で焼失を免れた青森市公会堂=1945(昭和20)年・青森市民図書館歴史資料室提供
写真5 第6代庁舎=昭和20年代・青森市民図書館歴史資料室提供

 ▽移転を繰り返した庁舎
 2020(令和2)年1月、青森市役所の新しい庁舎の供用が始まった。この庁舎は町役場時代から数えて8代目となる(仮庁舎を除く)。現在地に庁舎が建てられるようになるのは、1947(昭和22)年3月29日に落成式が執り行われた6代目庁舎からである=7代目庁舎は56(昭和31)年12月5日落成式=。
 それまでの5つの庁舎は転々と場所を変えた。このことは1871(明治4)年に弘前から青森に移転となった県庁が、以後150年間ほぼ同じ場所にあるのと対照的である。
 戦前の庁舎の変遷を整理しておこう。初代の町役場は89(明治22)年4月1日の町制施行に合わせて、6月28日に開場式が執行された。場所は善知鳥神社境内で、かつての戸長役場の建物を使用したと伝えられる。
 2代目の役場は現在のしあわせプラザ(現本町4丁目)の位置に新築され、92(明治25)年12月4日に落成式が執行された。しかし96(明治29)年5月14日の火災で類焼し焼失した。
 3代目の町役場は米町の三井銀行跡地(現本町2丁目)に同年10月10日ごろ移転開設し、2年後の市制施行で初代の市役所庁舎になった。この庁舎は1905(明治38)年6月5日の寺町の火災で建物の一部が類焼し、これが移転のきっかけとなった。
 4代目庁舎(2代目市庁舎)は浜町の旧青森大林区署(現本町3丁目)を買収修繕し、同年12月10日に移転式となった。そして10(明治43)年5月3日の青森大火で焼失するまで使用された。
 大火後の5代目庁舎(3代目市庁舎)は建設に時間を要したが、ようやく新町女子尋常高等小学校跡地(現新町2丁目)に新築となり、11(明治44)年8月5日に執務が開始された。この庁舎は45(昭和20)年7月28日の青森空襲によって失われた。
 敗戦直後の9月25日にアメリカ軍が青森市に進駐した際、市役所として使われていた公会堂はアメリカ軍に接収され、そこに司令部が設置された通説的な理解によれば市役所は即時退去(1時間以内の立ち退きとも)を命じられたという進駐当日にそのようなことがあるのだろうか。アメリカ軍の進駐はそんな「場当たり的」なものだったのだろうか…。
 ▽当時の市長が語った「即時退去」
 まず「即時退去」の根拠を探ってみよう。私は当時の市長だった柿崎守忠が、敗戦から27年が過ぎた72(昭和47)年に寄稿した「仮庁舎の時代」(『青森空襲の記録』に収録)にあるとみている。ここで柿崎は「その時、進駐軍は、公会堂を使用するから即時退去せよといってきました」と記している。即時退去を命じられたのは間違いないだろう。では「その時」は「いつ」なのか?
 この引用文の直前は「まもなく八月十五日終戦、つづいて九月二十五日アメリが軍の進駐となりました」というもので、なるほど「即時退去」は9月25日の進駐当日と読むことができる。ただ、直後には「それで、二、三の候補の場所があげられましたが」とあり、緊急事態の中で、複数の候補地から選定するような猶予が果たしてあったのだろうかという疑問も抱かせる。
 もちろん、当時の市長が語った9月25日の即時退去、これは軽んじられるべきものではない。しかし、この文章が書かれたのは30年近く後のことである。鵜呑(うの)みにはできない、やはり裏を取るべきではないか。
 ▽9月25日の青森進駐
 9月26、27日付の地元新聞の記事から、25日の青森進駐の様子を振り返ってみよう。まず、陸奥湾から上陸用舟艇に分乗したアメリカ第81師団の上陸開始時刻は、「午前8時頃」「午前9時」とある。そして、午前10時に師団長ミュラー少将と金井元彦青森県知事とが青森市公会堂で会見・懇談した。そして、午後1時までに青森・原別の沿岸に約4000人の兵士が上陸した。
 せいぜい2時間というスケジュールの中で、アメリカ軍が公会堂を接収し市役所を退去させ、そこに知事を呼んで会見し懇談することが可能だろうか。少なくとも、公会堂の接収は事前に決まっていて、知事もそれを承知の上で出向いたと考えるべきではないか。
 ▽アメリカ軍の事前視察
 時計をさらに2週間ほど巻き戻してみよう。9月10日午前8時すぎ、アメリカの巡洋艦が青森港に入港した。これにはクック海軍大佐をはじめとした視察員が乗船していて、青森側の関係者の案内で港湾施設を視察した。
 9月16日午前7時すぎ、アメリカ第8軍の調査団7人が青森駅に到着した。彼らは2班に分かれ第1班は臨海倉庫をはじめ、製材所や学校、油川にあった青森飛行場などを視察し、この時に公会堂も訪れているこれを伝える新聞は「こゝ(=公会堂)では三階まで上り部屋をよくみまわつた」と報じている
 9月19日には県庁のなかにアメリカ軍との連絡機関となる「青森委員会」が設置され、金井知事がその委員長に就いた。進駐2日前の9月23日、アメリカ軍の一部が青森市内と原別村沿岸に上陸し、湾内および陸地の調査を始めた。前日24日には青森駅を保障占領したのである(~28日)。
 つまり、アメリカ軍の青森進駐は事前に十分な下見・調査がなされ、さらには県との連絡体制も整えた上で実施されたのである。公会堂の接収も16日の視察を踏まえて進駐以前に決定したものであり、それは青森委員会にも伝えられていたものと考えたい。したがって、柿崎市長がアメリカ軍から直接「即時退去」の指示を受けたとすれば、それは9月23日か24日のことで、25日にはすでに退去を完了していたとみられるのである。
 実は、これを裏付ける資料もある。46(昭和21)年の『青森市第四十八回事務報告書』である。ここに「市役所庁舎移転」という項目があり、「七月二十九日より九月二十四日まで公会堂、九月二十五日より蓮華(れんげ)寺本堂床下」と記されている。進駐が始まった9月25日、青森市の職員は公会堂から移転した蓮華寺の地下で執務を開始していたのである。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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海員たちの戦争と死=137

2020/7/27 月曜日

 

明治天皇御渡海記念碑。1930(昭和5)年建立、高さ約6メートル、正面の「景仰聖徳」は閑院宮載仁親王の書。裏面の撰文は国文学者で弘前高等学校(現弘前大学)教授の弥富破摩雄(1878~1948年)による撰書。弥富は元皇太子(昭和天皇)の傅育官=2020(令和2)年7月10日・中園裕さん撮影
昭和戦前期の聖徳公園=1930年代前半・青森県所蔵県史編さん資料
 

 ▽「景仰聖徳」
 青森市の聖徳(せいとく)公園に建つ「明治天皇御渡海記念碑」には明治天皇の威徳をたたえる「景仰聖徳」の4文字が大きく刻まれている。明治天皇は1876(明治9)年と81(同14)年の東北・北海道巡幸で本県を2度訪れた。
 初めての巡幸の時、東京から陸路で青森に到着した明治天皇は76年7月16日、灯台巡視船「明治丸」で青森から函館に渡り、函館からも明治丸に搭乗、20日に横浜に帰着した。「御渡海」はこの航海を指している。
 記念碑は、青森市民有志の設立した明治天皇御巡幸御渡海記念碑建設会が建立。除幕式は1930(昭和5)年11月3日の「明治節」(明治天皇の誕生日)に挙行された。設置場所は旧浜町桟橋の西隣の公園地。翌年、碑と公園は青森市に寄贈され、公園は「聖徳公園」と命名された。
 戦後、青森港の整備・拡張に伴い、聖徳公園の規模と位置は何度か変化している(『新青森市史・通史編第3巻』)。
 ▽「海の記念日」
 国民の祝日「海の日」は95(平成7)年に制定されて翌年から施行された。制定当初は明治丸にちなむ7月20日だったが、2003(平成15)年に7月第3月曜日に変更された。海の日の前身は日中戦争中の1941(昭和16)年に制定された「海の記念日」だ。
 政府は国家総動員体制の下で中国との戦争を進めていた。特に海運業は戦争に必要な存在だ。軍は必要に応じ商船と船員を徴集した。軍需(兵員・兵器)輸送と民需(産業・生活物資)輸送も商船が担った。いわば「縁の下の力持ち」だ。
 40(昭和15)年、海運を所管する逓信省は「海事思想の普及、海洋精神の高揚」を図る「海の記念日」を制定しようとした。いくつかの候補(表参照)の中から商船と関係の深い6月16日を選び、40(昭和15)年からの実施を目指した。しかし、海の記念日が実現したのは大阪商船(商船三井)の社長・村田省蔵が同年7月に第2次近衛文麿内閣の逓信大臣に就任してからだ。村田は7月20日を選んだ。
 逓信省の海の記念日は商船と船員のためのものだ。明治丸は官庁の船で、商船と関係付けるのは強引だろう。実は、村田にはもっと大きな構想があった。
 大阪商船時代、中国市場での日貨排斥とイギリス海運業の市場独占を目の当たりにした村田は、アジアからイギリスを筆頭とする西洋勢力を駆逐し、日本の商権を伸長させなければならないと主張した。日本の海運を統制して一丸とし、「海運報国」の名の下に運営すること。それを通じて日本をアジアの覇者とし、ゆくゆくは「大東亜共栄圏」を確立するという考えだ。
 そのため、海の記念日を逓信省の行事ではなく、関係省庁、軍、海運経営者や船員を一体とした行事と位置付けたのだ。だから「明治天皇が御自ら明治丸に召されて、霧深く、波高き御航程に就かせられた一事は、海国民の将来に力強い指針を与えさせ給うた(『海の記念日に当つて』)」ものである。つまり明治天皇は、自ら外洋に乗り出すことで、海外進出の重要性を身をもって国民に示した。これこそが「海国日本」にふさわしいということになる。記念日を明治天皇が青森で明治丸に乗船した7月16日ではなく、横浜到着の20日にしたのは「中央」からの発想だ。
 ▽対英米開戦
 第1回海の記念日は41(昭和16)年7月20日。逓信省海事関係功労者表彰式が東京の帝国ホテルで開かれ、日中戦争以来の殉職・殉難船員の慰霊祭が神戸の湊川公園で挙行された。新聞社は競って船舶の巡航公開、海事講演会、海洋競技大会などを主催した。県内では、聖徳公園での記念式を始め、各地で殉難船員の慰労祭や表彰式が行われた。
 12月8日、日本の対米英宣戦布告でアジア・太平洋戦争が始まった。アメリカ海軍は日本軍の補給路を遮断する目的で直ちに無制限潜水艦作戦を開始し、航空機による攻撃も行った。日本海軍は艦隊決戦を重視し、輸送船の護衛には積極的ではなかった。42(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で日本が制海権や制空権を失うと、船舶や船員の被害は急速に拡大した(図)
 第2回、第3回の海の記念日は軍、官、民でさまざまな企画が実施された。戦局が悪化した44年の第4回では功労者の表彰式以外には目立った企画はなくなった。
 ▽6万余人の戦没船員
 第5回の海の記念日の前後には、青函連絡船がほぼ壊滅した45年7月14、15日の北海道・東北空襲と28日の青森空襲があった。もはや記念日どころではなく、運輸省(逓信省の後身)は式典や行事を取りやめ、海運関係の功労者の表彰式だけを本省大臣室、地方海運局などで「簡素厳粛」に行った。
 民間船は商船、機帆船、漁船に分類されている。アジア太平洋戦争での戦没船員数(海運・水産)は6万643人(うち本県を本籍地とするものは615人)に達した。日本軍の軍人の損耗率(戦争に参加した総員数に占める戦死者の割合)は陸軍23%、海軍16%だった。船員の戦没者の損耗率は43%で、軍人以上に危険な任務だった。
 本県周辺の海底には青函連絡船をはじめとして、数多くの船舶が眠っている。開戦前、日本は100総トン以上の商船2568隻を持つ世界第3位の船舶保有国だった。戦争がもたらしたのは、6万余人の戦没船員と、膨大な船舶の喪失による日本商船隊の壊滅という現実だった。
 国民の祝日としての「海の日」は毎年変動し、2020(令和2)年と21年は特別に7月23日に変更された。国民の祝日は政策によって変えられた。しかし、海の悲劇を伝え、平和を考える日としては7月20日が最もふさわしいだろう。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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戊辰戦争での弘前藩=136

2020/7/6 月曜日

 

秋田市全良寺墓地にある弘前藩戦死者の墓石。後日、弘前の寺院へ改葬された者も含め、庄内征討で戦死した13人の墓石が現存する=2020(令和2)年6月12日・筆者撮影
津軽領(弘前藩の支藩黒石藩領)と南部領(盛岡藩領)の境に2基ずつ築かれた藩境塚=2019(令和元)年8月13日・野辺地町側から筆者撮影
野辺地戦争戦死者の墓所。『弘前藩記事』によれば野辺地戦争の戦死者は29人だが、4基の墓石には27人分の名前が刻まれている。名前が刻まれていない2人のうち、1人は詳細不明だが、残り1人は帰郷後に死亡したため、除外されたと考えられる=2019(令和元)年8月13日・筆者撮影

 ▽戊辰戦争の勃発
 1867(慶応3)年10月、15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を決断した。幕府を倒そうとする薩摩・長州勢力を孤立させ、政治形態を切り替えることが目的であった。しかし、公家の岩倉具視(ともみ)と薩長両藩は、天皇による王政復古の大号令を実行し、約260年間続いた江戸幕府は終わりを迎え、天皇を頂点に据えた新政府(明治政府)が樹立された。
 68(慶応4)年正月、大坂(大阪)に退却していた慶喜をはじめ会津藩ら旧幕府軍は、大坂から京都へ向けて進軍したが、京都近郊の鳥羽・伏見で新政府軍と激突した(鳥羽・伏見の戦い)。この戦いに端を発して始まった戊辰戦争では、奥羽諸藩は新政府軍(官軍)と旧幕府軍に分かれて戦うこととなった。
 ▽奥羽諸藩と弘前藩
 新政府は、旧幕府軍側についた会津藩や鶴岡藩(庄内藩)を追討するように命じたが、仙台藩をはじめ奥羽諸藩はどの藩も動こうとしなかった。同年閏(うるう)4月、仙台藩と米沢藩は他の奥羽諸藩に呼び掛け、新政府側に会津藩への進撃の取りやめを求める嘆願書を提出した。さらに、同年5月に会津・鶴岡追討の中止を求めて、奥羽25藩と北越6藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
 弘前藩はこの同盟に参加したものの、新政府軍側か旧幕府軍側につくのか、いまだ自藩の方向性を決めかねていた。同年7月、京都での各勢力の詳細情報が京都留守居役(るすいやく)の西館平馬(にしだてへいま)によってもたらされ、弘前藩は藩論を勤皇に決定し、新政府側につくこととなった。
 弘前藩が直接関わった戦いは、同年8月に秋田藩への援軍として派兵され、由利郡吉沢村(現秋田県由利本荘市)などで鶴岡藩と戦った庄内征討、同年9月の野辺地戦争、69(明治2)年5月に終結した箱館戦争であり、約1年間にわたって戦争状態が続いた。
 弘前藩の場合、同じく新政府軍側についた秋田藩のように旧幕府軍に攻め込まれ、領内が戦場になることはなかった。しかし、軍の主体となる藩士に加え、軍隊の雑用係である軍夫(ぐんぷ)として動員された百姓や町人に多数の死傷者を出した。
 ▽戦死者の慰霊
 幕末維新期の史料をまとめた『弘前藩記事』によると、弘前藩が関わった戦いのうち、最も人的被害が大きかったのは29人の戦死者を出した野辺地戦争である。箱館戦争では25人、庄内征討では13人の戦死者が出ている。
 戦死者の慰霊は、戦地と弘前の両方で行われており、弘前では同年6月に弘前城下の南西に位置する宇和野(弘前市小沢(こざわ)で招魂祭(しょうこんさい)が行われた。宇和野は江戸時代から藩兵の軍事演習が行われ、藩主が兵士の演習を高覧した場所だった。招魂祭当日は、弘前藩12代藩主の津軽承昭(つぐあきら)や家老らが参列し、戦死者遺族の他にも大勢が集まったという。招魂祭では藩士だけでなく、軍夫も慰霊の対象となった。
 ▽弘前藩戦死者の埋葬地
 戦死者の主な埋葬地は、庄内征討では秋田全良寺(ぜんりょうじ、秋田市)、野辺地戦争では馬門村(まかどむら、上北郡野辺地町)、箱館戦争では箱館招魂社(北海道函館市)および江差招魂社(同檜山郡江差町)であり、現地には墓石が建てられた。
 今回は戦死者の埋葬地をめぐる思いについて、庄内征討と野辺地戦争戦死者の事例を紹介したい。
 庄内征討の戦死者は当初、戦場となった吉沢村などに埋葬されていたが、後に戦死者の大半は吉沢村から秋田全良寺に改葬され、一部は弘前の寺院に改葬された者もいた。全良寺では住職が自主的に墓地の整備を行い、秋田藩兵士だけでなく秋田藩の援軍として派兵され戦死した、他藩兵士の供養を行っていた。
 この戦いでは弘前藩が敗走したこともあって、戦死者のなかには埋葬地が分からなくなってしまった者がいた。71(明治4)年になってようやく埋葬地が判明した者に対し、戦死者は「忠死」の者であるため、弘前藩によって遺体を全良寺に改葬するという処置がとられた。
 野辺地戦争戦死者の墓所がある馬門村は、江戸時代には南部領(盛岡藩領)に属し、藩境塚をはさんで津軽領(弘前藩の支藩である黒石藩領)と接する位置関係にあった。野辺地戦争の戦死者は、大部分が馬門村に埋葬され、そのうち1人が戦死の翌月に弘前へ改葬されたと記されている。後日、馬門村には弘前藩によって墓石が建てられた。
 戦場で亡くなった者の遺体をどこに埋葬し、どのような弔(とむら)いをするべきか、これらは戦後対応として重要な問題である。遺族によっては、国元の弘前に改葬したいという思いを持った者もあり、弘前藩としても単に戦場近くに埋葬するのではなく、手厚い供養を受けることができる場所に改葬すべきという意識を持っていたことが分かる。
(弘前市教育委員会 高岡の森弘前藩歴史館主事兼学芸員・澁谷悠子)

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