津軽の街と風景

 

鉄道と駅前スーパー=66

2017/3/20 月曜日

 

ショッピングおのえ=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
ショッピングおのえの店内=1980(昭和55)年頃・青森県史編さん資料
コープ尾上店があった頃の津軽尾上駅=2006(平成18)年7月11日・筆者撮影
津軽尾上駅と快速列車=1980年代後半・青森県史編さん資料

 1927(昭和2)年9月7日、弘南鉄道弘南線が弘前と津軽尾上の間に開通した。実は、今年の9月で開業90周年を迎える。今回は弘南鉄道の社史に書かれていない鉄道と地域に関する話題を提供したい。
 ▽平賀駅の地下スーパー
 62(昭和37)年9月7日、弘南鉄道は開業35周年を記念して平賀駅を新築した。その際、地下に平賀農協と共同経営のスーパーマーケットを設けた。
 まだ自家用車が普及する前の時代だった。近距離の人は徒歩か自転車、遠方の人はバスや鉄道を使って買い物するのが常だった。平賀駅は駅と周辺地域を結ぶバスが集まる拠点である。駅前には小売店を中心とした商店街が形成され、買い物客でにぎわった。
 駅地下のスーパーは、一つの店舗で多種多様の買い物ができた。雨や雪が避けられるので主婦層に評判が良かった。駅併設のため通勤通学のサラリーマンや学生も利用した。お菓子やパンを買い求め、足しげく通った女子学生たちは、地下のスーパーを親しみを込めて「駅の穴」と呼んだ。
 ▽開業50周年
 70年代半ば以降、自家用車の普及に伴い鉄道の利用は下降線をたどった。対応を迫られた弘南鉄道では自動券売機を設置。除雪車を積極的に投入するなど、利用客の便宜を図り沿線の保線強化を行った。75(昭和50)年には、輸送力強化のため快速列車を運行した。停車駅は弘前、南弘前(現弘前東高前)、平賀、津軽尾上、弘南黒石(現黒石)だった。
 77(昭和52)年に開催される「あすなろ国体」を前に、県内各地では道路や街並みの整備が進められた。この年、弘南鉄道は南弘前と新里(にさと)の間に運動公園前駅を開業した。弘前運動公園の利用に供するためだった。
 あすなろ国体開催の年は、弘南鉄道にとって開業50周年の記念すべき年だった。このため9月7日に式典を開催。社史として『弘南鉄道五十年史』を刊行している。
 ▽津軽尾上駅の新築
 あすなろ国体は青森県を全国に紹介する絶好の機会だった。県内の各市町村でも地域宣伝のため、各種のインフラ整備を進め観光地の宣伝を強化した。
 尾上町(現平川市)では国体の開催以前から、猿賀神社に併設する形で猿賀公園を整備していた。猿賀神社は尾上町をはじめ、周辺市町村からも信仰を集め「猿賀さま」と呼ばれ親しまれていた。町では由緒ある神社に参拝する人々を、隣接する公園に回遊させることで、町の魅力を引き出そうとしたわけである。
 町では猿賀神社への入り口となる駅前の開発に着手した。この動きに弘南鉄道が呼応し、津軽尾上の駅舎を新築することになった。その際、樽沢武任社長は猿賀神社の拝殿を模した破風(はふ)型の屋根を取り入れ、駅舎を猿賀神社の玄関にふさわしい姿とした。
 弘南鉄道にとっても、猿賀神社は66(昭和41)年8月21日に、創業以来初めて社運の隆昌(りゅうしょう)と従業員の安全を祈願して幟(のぼり)を奉納した特別な存在だった。こうして新しい駅舎は、開業52周年の79(昭和54)年9月7日に落成式を迎えた。
 ▽津軽尾上駅のスーパー
 79年9月30日、新築された駅舎に併設する形で建設が進められていた「ショッピングおのえ」が開業した。協同組合ショッピングおのえが経営する地上2階建てのスーパーマーケットで、食料品や衣料をはじめ日用雑貨、菓子屋、食堂や喫茶店など10数軒の店舗が入った。
 すでにスーパーが商店街などに進出していた時期でもあり、尾上町民は開業に期待をしていた。平賀駅の地下スーパーが盛況だったことも影響していただろう。このため駅併設のスーパーは、駅を利用する人々を中心に大いに利用された。菓子屋やスポーツ用品、音楽用品など、各種の店舗がそろっていたため主婦層を中心に若者も集まった。
 スーパー開業の頃は自家用車が普及し始めていたとはいえ、人々の移動手段は鉄道や徒歩、自転車などに依拠していた。まだ大手資本による郊外の大型ショッピングセンターが、本格的に展開していなかった時代だった。尾上町にはデパートもなかったため、駅に隣接するスーパーは魅力的な存在だったのである。
 ▽人の集まる拠点
 都市計画の進行と自動車の進出は予想以上に早かった。郊外の大型ショッピングセンターが各地に進出するのに伴い、小さな地元のスーパーマーケットは閉店に追い込まれていった。事実、86(昭和61)年に現在の平賀駅舎ができた際、駅地下のスーパーは閉鎖された。ショッピングおのえも、その後コープ尾上店に変わって営業を続けていたが、間もなく閉店。数年前に建物も撤去された。買い物の移動には自家用車が当たり前の時代になり、駐車場の狭い駅併設のスーパーマーケットは不便になったのである。
 しかし現在、高齢化社会が予想以上に早く進み、「買い物難民」が各地で深刻な問題になっている。大手資本に対抗する地元スーパーでは、トラックを活用した移動スーパーを展開し、コンビニエンスストアも随所に店舗を設けて惣菜(そうざい)を販売するなど、新しい戦術を展開している。このため郊外の大型ショッピングセンターは、必ずしも経営的に安泰とはいえなくなっている。事実、全国各地で大型店舗が統廃合を繰り返しつつある。
 平賀駅では駅近くのコープ平賀店が閉店した後、別のスーパーが入居している。駅前開発で立ち退きや閉店した店が商店街には多かった。駅周辺に住む買い物客にとって、スーパーは有り難い存在になっている。
 地域には人の集まる拠点が必要だ。そこは生活上必要な食材や日用雑貨などが購入できる場所がふさわしい。自家用車を持たない人々が買い物できるショッピングおのえのような駅前スーパーが、高齢化社会に対応する施設として注目される余地はあると思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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にぎわう黒石中心街=65

2017/3/6 月曜日

 

正月の横町商店街。1963(昭和38)年1月・川村昭次郎さん撮影・川村英明さん提供
市ノ町の銀座通り。中央右に「イチロク」の看板、手前に長崎屋(ラーメン屋)の自転車が見える。1963(昭和38)年3月26日・青森県史編さん資料
甲徳兵衛町にあった黒石劇場。1960(昭和35)年頃・青森県史編さん資料
宇野酒造のこみせ。前町の角から山形町を撮影したもの。1963(昭和38)年6月8日・中園裕所蔵
元町通り。うどんと書かれた建物が製麺会社のやぶや。1960(昭和35)年頃・青森県史編さん資料

 太平洋戦争の敗戦は国家の体制や社会の価値観を大きく変えた。しかし人々の生活に関わる衣食住は、1950年代半ば以降の高度経済成長で激変し、街並みも70年代半ば以降の都市計画で大変貌(へんぼう)する。今回は、その前の時代に当たる50~60年代の黒石市中心街について紹介したい。
 ▽横町と市ノ町
 横町は戦後から高度経済成長期前後にかけて、黒石市中心街で最もにぎわった商店街だった。ここへ来れば大抵の日用品がそろったといわれた。ソフニ書店、ストゼンのゲタコ(下駄(げた)屋)、七兵衛サマ薬局など、個性あふれる名前を有する商店が多数あった。
 それらの中で食料品店のまるよしは、後に日用雑貨を幅広くそろえ、スーパーマーケット的な店構えで主婦層の人気を集めた。これにモリトミ食品店も倣い、小型スーパー的な存在となって買い物客に重宝された。
 横町の南に隣接する市ノ町は官庁街だが、戦後は銀座街と呼ばれた。町を南北に貫通する通りには銀座通り商店街が形
成された。その中で象徴的な存在が、1970(昭和45)年11月6日に開店した大黒デパート
である。地下1階に食品売り場、3階建ての最上階に大食堂やおもちゃ売り場を設け、女性や子どもの人気を集めた。74(昭和49)年には4階建てに増改築。銀座街のにぎわいに大きく貢献した。
 このほか市民に愛された店に、黒石市最初の喫茶店であるイチロクがあった。本店は山形町で宮地家が営む菓子屋の一六光月堂である。屋号の一六は、初代の主人が藩政時代にそば屋を営業。通常1杯8文を6文で売ったことに起因するという。その後、宮地正逸が菓子屋として献上名菓「一宮(ひとみや)」を生み出し、菓子業界で有名な存在となった。一宮は黒石市の土産物としても重宝された。
 市ノ町にあった支店のイチロクは、官庁街にあったことからサラリーマン層や女性客に親しまれた。菓子屋営業の喫茶店らしく、おしるこなども出していた。大黒デパートができてからはデパート内で営業を続けていた。 
 ▽甲徳兵衛町と乙徳兵衛町
 甲徳兵衛(こうとくべえ)町と乙徳兵衛(おつとくべえ)町と町名は類似するが、街の構造は大きく異なる。前者は黒石市最大の歓楽街で、横町との間に「よされ横丁」と称する長屋風の飲み屋街を有していた。後者は商店もあるが、黒石駅の南側に並ぶ寺院群を有し、小さな大字である寺小路を取り囲む住宅街である。
 甲徳兵衛町で一世を風靡(ふうび)したのが黒石劇場だ。1921(大正10)年に創業した映画館で、36(昭和11)年に全焼。翌年再建し戦後も隆盛を極めた。この他にも黒石市内には横町に東映劇場、上町(かんまち)に文化劇場、乙大工町に黒石館、市ノ町に黒石東映の映画館があった。
 しかしテレビの登場で映画は斜陽となり、黒石劇場は68(昭和43)年に閉館。跡地を青森市のカネ長武田デパートが買収し、翌年11月1日に黒石店として開店した。1階が食料雑貨、2階が衣料、3階が食堂と遊技場、4階がボウリング場(12月開館)だった。また、黒石市初のエスカレーターを導入するなど、斬新な企画で主婦層や若者の人気を集めた。開店時には大変な人出となり、黒石警察署員が交通整理を行ったという。
 ▽山形町と元町
 山形町を横断する道路は、藩政時代には山形村(現黒石市)の温湯や板留などの温泉郷へ通じることから山形街道と称された。近代以降、十和田湖への道が開削され、国道となってからは十和田通りとも称された。現在は県道だが、かつては黒石温泉郷から十和田湖へと通じる国道102号だった。
 このため山形町は黒石城下では元町と並び多くの人口を抱えていた。また銘酒「清の松」の宇野酒造、同じく「玉鶴」の黒石酒造など、大きな酒造会社が屋敷を構え、長いこみせが連なっていた。その様子は、かつての黒石城下の街並みを思わせる雰囲気だった。
 山形町と並び古くから開けていた元町は、かつては弘前市や藤崎町方面からの玄関口だった。このため元町には、小間物や化粧品などを売るマッコヤ商店や、平打ちの独特な麺を製造するやぶやなど、大小さまざまな商店が軒を並べていた。やぶやはうどんやそばの他に、「黒石やきそば」の麺を製造するなど、今も現役である。
 元町にも山形町と同様にこみせが存在する。中町ほどまとまってはいないが、今も随所に当時の趣を残している。特に銘酒「初駒」で知られた佐藤酒造の建物には立派なこみせがある。佐藤酒造自体は廃業したが、屋敷とこみせを修復して活用し、貴重な建築物を後世に残そうとNPO法人が活躍中である。
 ▽街の歴史と魅力
 1970年代半ば以降の都市計画で、黒石市の中心街周辺は道路整備が進み、新興の住宅街が造成された。自動車社会となり市民の生活や利便性は向上した。だが、昔日の街並みや景観が失われたのも事実である。
 近年、黒石城下を形成していた中心街の歴史ある街並みを生かそうと、さまざまな団体が各種の事業に取り組んでいる。中町の松の湯や元町の佐藤酒造など、旧家の屋敷を再活用する試みも、その一つだ。いずれも黒石市中心街の魅力が、歴史ある建築物や街並みにあると理解しての活動といえよう。
 街並みや景観の維持に取り組む側には、活動の継続が必要である。地元で生活する市民が理解を示すことも大切だ。双方の歩み寄りと協力が大事なのは言うまでもない。街はいろいろな人々が集まり、協力し合って形成されている。まずは街の歴史を知ってほしい。知れば魅力に気がつき、それが理解や協力、そして実践力を生み出すからである。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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黒石中心街の近代史=64

2017/2/20 月曜日

 

内町の金平成園=大正初期・中園裕所蔵
市ノ町にあった南津軽郡役所=大正初期・中園裕所蔵
上町通りと黒石銀行=大正初期・中園裕所蔵
前町通りの商家=大正初期・中園裕所蔵

 城下町の街並みは、藩政時代を中心に数多くの専門書や概説書があり、新聞や雑誌などで多数紹介されている。それに比べると、近代以降の歴史は紹介されることが少ない。太平洋戦争後の現代になればなおさらだ。
 しかし同じ城下町だった弘前市の場合、第8師団の置かれた「軍都」として、近代の歴史が相応に紹介されている。これに対し、近代以降の黒石市の街並みについては研究が少ない。そこで今回は、黒石市中心街の近代史を紹介したい。
 ▽内町
 内町には黒石藩の陣屋が置かれていた。陣屋のあった場所は現在の御幸(みゆき)公園と市民文化会館の周辺にあった。御幸公園は1900(明治33)年に皇太子嘉仁(よしひと)(後の大正天皇)の結婚を記念に造営された。当時は黒石公園と称されていたが、15(大正4)年の陸軍大演習で大正天皇の御野立所(おのだてしょ)とされた場所だった。このことが縁で御幸公園と命名され今日に至っている。
 このほか内町には黒石町(現黒石市)の実力者で、貴族院議院(多額納税議員)でもあった加藤宇兵衛の屋敷がある。加藤は自邸に「金平成園(かねひらなりえん)」と称する壮麗な庭園を築いた。前述の陸軍大演習では、加藤が大山巌元帥をはじめ陸軍の幹部たちを招待している。
 金平成園は戦後に料亭として使われたが、その後建物が老朽化し庭園も荒廃していた。近年、現在の所有者が市や関係者の協力を得て庭園を修復し、建物も建設当初の形に復元した。屋敷と庭園は季節の節目に臨時的に一般公開されている。黒石市の至宝ともいえる庭園の復旧に対して、所有者と関係者へ敬意を払いたい。
 ▽市ノ町
 市ノ町は内町の東側に位置し、南津軽郡役所や黒石町役場が置かれた。1923(大正12)年4月1日に郡制が廃止され、郡役所自体は26(大正15)年6月30日に廃庁となった。このため南津軽郡役所の隣にあった町役場が郡役所の建物に移った。
 戦後に黒石町が市制施行した後も、町役場の建物は引き続き市役所として使用された。望楼の隣にあった時報用のサイレンは、31(昭和6)年に取り付けられたもので、戦時中には空襲警報の役割を果たし、水害や火災の発生にも使用された。
 サイレンは午前5時、正午、午後5時、午後8時に鳴り響いた。戦後に市長を務めた高樋竹次郎が、サイレンをチャイムに変えようとした。だが多くの市民から、サイレンの方が耳に慣れ親しみ、遠方まで聞こえるとして反対された。そのサイレンも、68(昭和43)年12月に市役所が現在の建物へ移転新築された際にチャイムに切り替えられた。
 その後、旧市役所は黒石商工会議所が買収し、黒石商工会館として使用していた。だが老朽化のため解体され、83(昭和58)年に現在の黒石市産業会館が新築された。
 ▽上町
 上町と書いて「かんまち」と呼ぶ。町の中央を県道38号が走り、古くからの繁華街であり、商業活動の盛んな地だった。上町の商業を支えた象徴的な存在は、1897(明治30)年8月に加藤宇兵衛が設立し、10月に開業した黒石銀行だった。木造平屋建ての家屋が立ち並ぶ中で、鉄筋コンクリート製の二階建て洋風建築は大変目を引いた。
 黒石銀行は1919(大正8)年7月に第59銀行と合併し、同行の黒石支店となるが、頭取は創立時から合併時まで加藤が務めた。そして43(昭和18)年10月、第59銀行が青森銀行となって以来現在に至っている
 現在の青森銀行黒石支店は建物こそ新しく建設されたものだが、場所は黒石銀行創業以来常に変わらなかった。歴史ある場所に建っているわけだ。
 ▽中町
 中町と前町は藩政時代からの繁華街であり、それは近代以降も継続している。中町は別名「こみせ通り」と称されている木製のアーケードともいえる「こみせ」と、「前堰(まえぜき)」が並ぶ街並みは黒石町独特の風情だった。堰は田畑の灌漑(かんがい)や町内の防火が目的で、藩政時代に造られたものだという。
 こみせは他の地域にも存在するが、黒石町のものは規模が大きく現存するものが多い点に特徴がある。大正期までは、冬になるとこみせに木製の横戸が二枚合わせになった「連子(れんじ)(連子窓)」や、雪よけの横戸である「蔀(しとみ)」をはめた。連子の下の戸は板張りだが、上の戸は明かり取りのために紙を貼っていた。紙は古い大福帳や反故(ほご)紙を用いたという。
 中町には国の重要文化財となっている高橋家住宅、黒石市の老舗醸造店である鳴海醸造店や中村酒造などが、こみせのある家屋の代表格として観光客の目を引きつけている。そして、こみせの前には前堰が流れている。
 ▽前町
 前町は中町の南側に位置し、中町同様商家が多かった。大正初期の写真を見ると、左手前の商店は小間物雑貨商で、後にリンゴ移出業も営む「鳴海久蔵」である。店舗にはこみせがあり前堰も確認できる。
 電柱や電灯が見えるが、大正初期の段階で黒石町には電話番号が1番から50番まであった。ちなみに1番は前述した中町の鳴海醸造店だ。鳴海久蔵は17番、南津軽郡役所は21番、黒石警察署は22番だった。1912(大正元)年に開業した黒石停車場(黒石駅)は29番で、町の有力者だった加藤宇兵衛は4番だった。
 前町には大正時代から営業を続けている上原呉服店など、中町同様に老舗が多い。また改築改良こそ経ているが、こみせや前堰が今も残っており風情を残している。
 現在の黒石市中心街には、藩政時代の遺構が残され、近代以降の建築物や風情が数多く残されている。これこそ黒石市の歴史文化遺産として誇るべきものと思う。
(県民生活文化課県史編さんグループ 中園裕)

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弘前連隊の雪中行軍=63

2017/1/30 月曜日

 

歩兵第31連隊兵舎で実施された軍旗祭。1915~16(大正4~5)年頃・青森県史編さん資料
黒倉山の難路を越える行軍隊。右上に立つ人物が福島泰蔵大尉1902(明治35)年1月20日(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)
琵琶台(琵琶ノ平)をゆく行軍隊。先頭は案内の木樵、次が竹舘村長の相馬清次郎。1902(明治35)年1月21日(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)
福島泰蔵とキエの結婚記念写真。1902(明治35)年10月(『われ、八甲田より生還す』サンケイ出版より転載)

 ▽八甲田雪中行軍
 1902(明治35)年1月、歩兵第31連隊(弘前連隊)の八甲田雪中行軍隊が弘前から十和田・三本木・田代・青森を経て弘前まで、約224キロを踏破。訓練参加者38人のうち、負傷した1人を除く37人が11泊12日の行程を歩き切った。
 弘前連隊の成功は、同時期に起きた歩兵第5連隊の大惨事の陰に隠れて忘れられてきた。近年、弘前隊の行動が明らかにされ、評価も高まった。雪中行軍の背景を探ってみたい。
 1898(明治31)年、第8師団の創設と同時に弘前連隊も設立された。雪国の軍隊である第8師団の各部隊には、想定されるロシアとの戦いでの活躍が期待されていた。陸軍が想定していたのは、厳寒の「満州」(中国東北部)でのロシアとの冬季の戦争、ロシア軍の青森への上陸だった。
 ▽福島泰蔵大尉、弘前連隊へ
 新設された弘前連隊第1大隊第2中隊長として、福島泰蔵という歩兵大尉が配属された。福島は1866(慶応2)年、上野国新田(こうずけにった)郡(群馬県伊勢崎市)に生まれた。私塾で漢学の素養を身につけ、師範学校で地理学を学んだことが彼の一生を決めた。陸軍士官学校を卒業、高崎歩兵第15連隊の見習士官を経て少尉に任官した。
 1897(明治30)年、参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)地形科に転属した。福島は地図の整備と、戦史からロシアの戦術を学ぶことを自己の課題とした。ロシアは南満州の8万4000分の1地図を整備しつつあり、開戦になればスケッチ程度の地図しか持たない日本軍は圧倒的に不利であった。
 福島は弘前連隊に転属すると、弘前周辺の演習用地図の作成と、冬季耐寒訓練に没頭する。当時青森県はまだ5万分の1地図はなく、1901(明治34)年再修正の輯成(しゅうせい)20万分の1地図が最も詳しい図であった。等高線はなく、ケバ図と呼ばれ、くさび形の線で地形を表していた。福島は八甲田雪中行軍にこの地図を携行したが、前年の岩木山雪中行軍でこの地図の限界を十分知っており、地図を過信していなかった。
 ▽雪中行軍・訓練に魅入られて
 弘前連隊では雪中訓練が盛んであった。1899(明治32)年2月に、弘前連隊は小坂・大湯から難所の来満峠・三戸・青森を経て弘前に達する7泊8日の雪中行軍を実施した(一部汽車行軍=地図を参照)。積雪量は平年の半分、好天にも恵まれて行軍は順調だった。
 弘前連隊で最も果敢な挑戦を繰り返したのが福島である。1900(明治33)年2月、福島は弘前市の西方で露営訓練を行い、雪中露営に備えた。翌年2月には2泊3日の岩木山の雪中行軍を実施、岩木山登頂はならなかったものの、1・5メートルを超える雪の中、弘前から鯵ケ沢まで44キロの路(みち)をほぼ丸一日で踏破した。
 福島はこれらの訓練・行軍の報告を『偕行社(かいこうしゃ)記事』『兵事雑誌』など将校向けの雑誌に連載して耐寒訓練で得られた知識・方法を普及しようとした。弘前連隊は軍隊の行軍していないルートを次々と踏破。最も厳しい八甲田だけが未踏破となった。
 ▽八甲田に挑戦
 1902(明治35)年の八甲田雪中行軍は、福島の満を持しての挑戦だった。10泊11日、弘前から反時計回りに三本木(十和田市)・青森を経て弘前まで。前年8月には予備的な行軍も行った。
 軍隊の訓練は冒険でも趣味の登山でもない。軍事的訓練であるから、確実性と隊員の安全が確保されなければならない。38人の隊員は見習士官と長期伍長(再服役志願の伍長)が中心で、指導者の錬成が目的だった。露営の準備はしたが、全泊とも舎営。嚮導(きょうどう)(民間人案内人)を雇う。
 実戦ならともかく、平時の訓練では死傷者を出すことは許されない。宿舎・食糧・嚮導。いずれも民間に協力させるのは当時の軍隊なら当然のことだった。
 豪雪と低温・強風。未曾有の悪天候の中、1日の遅れはあったものの、踏破に成功したのは 福島の周到な準備と、それに基づく成功への確信があったからだろう。
 ▽刊行されなかった行軍報告
 福島の報告書は旅団長や連隊長に高く評価されたが『偕行社記事』などに掲載されることはなかった。歩兵第5連隊の惨事と対比されることを陸軍が恐れたことは想像に難くない。雪中行軍で得られた貴重な情報を将校たちに知らせるよりも、不祥事を目立たせないことが優先されたともいえる。
 ▽日露戦争と福島大尉
 日露戦争が始まると、『偕行社記事』臨時1号に福島の「露国に対する冬期作戦の一慮」が掲載された。ロシア軍の戦術と、厳冬季の服装・食糧・健康などについてまとめたもので、この号はすべての将校に無料配布された。日露戦争を戦う将校が必ず読むべきだと陸軍が認めたのだ。
 福島は最後をこう締めくくっている。「予想外の出来事に対し間違いのない処置できるか否かは、天賦(てんぷ)(生まれつきの才能)に頼るしかないが、日常における準備の良否と注意の深浅とが関係することも疑いない(意訳)」。戦史研究と演習実践を追求した福島の結論だった。
 1905(明治38)年1月28日、満州・黒溝台の戦いで、福島は戦死した。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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津軽の年取りと元日=62

2017/1/16 月曜日

 

】写真1 大正月の年取り膳(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より転載、板柳町高増での再現写真、櫻庭俊美氏撮影)
写真2 昭和年代の年縄奉納の様子(旧常盤村、青森県立郷土館所蔵、野呂善造氏撮影)
写真3 奉納物と年縄を掲げて雪の中練り歩く行列(昭和年代、旧常盤村、青森県立郷土館所蔵、野呂善造氏撮影)
写真4 常盤八幡宮年縄奉納行事(2017<平成>年1月1日、藤崎町常盤、筆者撮影)

 ▽年取りの祝い
 津軽では、三度の年取りを祝うという。サントシといって、大正月(元日)、小正月(15日)に続き、1月のみそかを3回目の年取りとして祝うのだ。大正月、小正月ほどではなくても、をつき、ゆっくりと休む。ひと月余りのうちに、3回も正月がやってくるというのは随分とうらやましく思えてしまうが、かつての農作業では収穫後も脱穀などに手数がかかり、ようやく一段落つくのが年の瀬の頃だったという。
 現在、用いられる太陽暦が明治政府によって採用されたのは1873(明治6)年。それまでは月の運びを基準とする太陰暦が用いられていた。その後も村や家の年中行事では、旧暦として併用されてきた。思えば、旧暦による正月の頃は、一段と底冷えのする吹雪の季節である。春の訪れとともに雪切り作業や堆肥配りが始まるまで、この間に体を休め、正月をじっくり楽しむというのは厳寒の津軽野の人々に培われた知恵なのだろう。
 サントシの風習でも触れたように、県内では「正月を迎える」といった言い回しとともに、「年取り」「年取りを祝う」と言うことが多い。
 正月のお祝いといえば、元日に重箱のおせち料理を囲むといったイメージが一般的かもしれない。一方で、「年取りの飯」「年取り膳」といって、大みそかの夜にお祝いの食事をする風習が東北地方などに広くみられる。県内でも、大みそかに、年取りだといって家族皆で料理を囲んで祝うところが多い。津軽では年取りが遅れると翌年の農作業が遅れるといって、大みそかのまだ日の高いうちから年取りをしたという。
 写真1は、板柳町高増での年取り膳を再現したものである。写真左上から、かまぼこ、焼き魚(マス)、昆布巻き、タコの刺身、なます、人参の子和(あ)え、ごぼうのデンブ、ナマコ酢、飯、煮しめ、酒(『青森県史 民俗編 資料 津軽』より転載)。子和えは、炒めた人参にたらこを加えて火を通したものである。かつてタラが豊漁だった県内では「タラ1本あれば正月する」といったほどで、刺身や汁物、子和えなど、捨てるところのないタラは正月料理に欠かせない存在だった。
 ▽大みそかの客
 年取りの夜の不思議な客についての昔話がある。1965(昭和40)年刊の森山泰太郎『郷土を科学する 津軽の民俗』から、中津軽郡の砂子瀬で語られた話をかいつまんで紹介しよう。
 大みそかに年取りの支度をしていると、一人のボサマがトボトボと杖(つえ)をついてやって来て宿を貸してくれという。明日の朝は早く起きて、若水をくまねばならないからと断っても、自分がくむというので、仕方なく泊めてやることにした。
 元日になって朝早く、井戸端で若水をくむ音がしていたが、やんでしまう。どうしたのかと行ってみると、ボサマが井戸の中に落ちて死んでいて、その体を運ぼうとするとひどく重い。上り口まで持って来て、そこで思わず落としてしまった。途端にジャンガラと音がしたので、掛けていたコモを取ってみると、黄金の山になっていた、というもので「これから、正月に見知らぬ人が不意にたずねてくると、きっとその家にしあわせを授ける人だから粗末にするな、といわれるようになった」と結ばれている。
 こういった大みそかの客が福をもたらす昔話は一つの話型として昔話研究の中で認められており、県内のいくつかの地域でも採集されている。
 ▽元日の神詣で
 大みそかを開けて、迎える元日。家の中での、大切な行事の一つは先に挙げた昔話にもあるように、若水くみである。元日の朝早く、年男といってその家のオヤジが他の人に会わぬようにして水をくみ、神棚に供える。この水は家族で飲んだり、元日の飯を炊くこともあった。
 いまひとつ、村、集落の中での大切な行事が、若者たちによる年縄奉納だろう。今年も正月に初詣に出掛けたという方も多いだろうが、かつては元日の朝にはまず集落の産土社(うぶすなしゃ)への神詣でがなされ、また村の若者たちによる年縄奉納の裸参りが津軽の各地で行われていた。
 年末のうちから、宿と決めた個人宅に集まり、各戸から集めた藁(わら)で年縄を制作する。元日の朝、厳寒の中をまわし姿の素裸でまず水垢離(みずごり)をとり、神酒・供えなどとともに年縄を担ぎ、「サイギ、サイギ」の掛け声とともに産土様へと奉納して豊年無事を祈る行事である。
 現在でも、年縄奉納が行われているところがいくつかある。そのうちの一つ、藤崎町の常盤では2017(平成29)年1月1日も晴天の中、第354回になるという常盤八幡宮年縄奉納行事が行われた。
 常盤地区コミュニティ活動推進協議会による『年縄奉納の歩み』(1986年刊)によれば、昭和51年に青年団から部落会へと奉納神事が引き継がれ、現在まで続いているという。同書の「としなの昔を語る」座談会では、青年団により行われていた頃の様子が語られている。当時の道路は一本道で、裸になっている時間は10分から15分くらいのものだったという。奉納後の祝賀会では、お神酒廻(まわ)しのときに茶碗鉢を各戸からもらったものを食べ、主として、先に挙げた年取り膳にもあったデンブとなますであったという。
 1970年に刊行された『津軽の民俗』では、鶴田町を例に挙げ、裸参りの後に各戸を訪れる若者たちはどの家でも「福の神が来た」といって喜び迎え、酒さかなで歓待したという。同書では、若者の裸参りは「津軽の各地に多く、近年とみに一種のショー的楽しさを持つ正月行事として復活している」とも指摘されている。伝統行事と呼ばれるものが長く続く、あるいは断続を経てまた復活するのは、そこに続けたくなる訳があるのだろう。今年の正月休みは短く、せわしなく感じた方もおられるのではないだろうか。今年の旧暦での正月元日は1月28日、訪れる客を歓待し招福するかつての正月へ思いをはせてみてはどうだろうか。
(青森県史編さんグループ非常勤事務嘱託員 福島春那)

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