津軽の街と風景

 

亀ケ岡文化が各地に=166

2022/1/17 月曜日

 

写真1 遮光器土偶=つがる市亀ケ岡遺跡出土(筆者撮影)
写真2 土偶=板柳町土井遺跡出土(筆者撮影)
写真3 遮光器土偶=三戸町八日町遺跡出土・県重宝・青森県立郷土館風韻堂コレクションより
写真4 注口土器(参考例)
写真5 遮光器土偶=平川市程森遺跡出土(筆者撮影)
写真6 遮光器土偶=秋田県北部出土・伊勢堂岱縄文館展示資料より
写真7 遮光器土偶=新潟県石船戸東遺跡出土『新潟県埋蔵文化財発掘調査報告書279』より転載

 ▽亀ケ岡式土器
 亀ケ岡式土器の名称は、江戸時代の初期1623(元和9)年、津軽藩の事績を記した北畠家の永禄日記の館ノ越本に「数多くの瓶(かめ)が出土した」ということが記されていることに由来する。
 亀ケ岡式土器は、縄文時代晩期(約3000~2300年前)に位置し、簡易で粗雑に作られた粗製土器と、器面に渦巻文など華麗な文様を施文し、呪術・祭祀用など多用途に作られた精製土器がある。
 土器の厚さはおよそ4~6ミリと薄く、ベンガラ(酸化第二鉄)や漆にベンガラ・煤(すす)などを混ぜて塗布した塗彩土器などがある。飾り櫛(ぐし)や腕輪、玉類などの出土も、この時代の高度な文化をうかがわせる。
 亀ケ岡式土器はろくろを使用していないが、土器の口縁や胴体はほぼ同心円状に整形されており、少しのゆがみも感じられない。遮光器土偶や精製土器は、施文や整形の精緻(せいち)さから技術の高い専門職の手によって作られたものと思う。
 亀ケ岡式土器は、伝播によって、その文化は北海道南部から九州地方まで及んでいる。交通機関の発達していない縄文時代でも、遠隔地に及ぶネットワークが存在し、交易で物資などの搬入交換が行われていたと思われる。文化の伝播と共に土器の文様が少しずつ崩れて変形していく過程を考えると、土器の施文の変化や精緻さから、亀ケ岡文化は亀ケ岡遺跡か是川遺跡辺りがその発祥地で、そこから各地に広がったと思われる。
 ▽遮光器土偶
 土偶には人体を抽象化し、精巧に作られた高さ30センチ前後の中空な遮光器土偶と、ある程度人間の五体を具象化して表現した、小型で中空でない中実土偶や板状土偶などがある。
 亀ケ岡遺跡出土の土偶は高さが34・2センチで、1887(明治20)年に出土し、国の重要文化財に指定されている。しかし、一般の公開ではレプリカを展示活用することが多い。
 写真1は2007(平成19)年の土偶展示会で、本物の遮光器土偶が久しぶりに里帰りした際に撮影したものだ。胴部には発掘用具の衝撃によるものと思われる破損跡が見られる。縄文晩期中葉の最盛期のものである。
 一般に遮光器土偶は、頭部が結い髪型、頸部には首飾り、胸飾りを付けて、いかり肩となっている。胴部と上腕部には土器の文様を反映し、厚さ4~6ミリと非常に薄く精巧に作られている。目の部分は中央に半眼を閉じたように細い横長沈線が描かれ、隆帯で円形状に大きく象られ顔のほぼ大半を占めている。これがイヌイット族などの極北民族が雪の反射光から眼を護るために使った雪中遮光器に似ているため、遮光器土偶と名付けられた。
 この形象的な土偶像から、スイスのデニケンという宇宙考古学者が、古代に飛来した宇宙人を模したものだという宇宙人説を唱えて、1970年代に世界的に大きな話題を呼んだ。
 しかし、大きな目の半眼を閉じたような様相は、横たわる死者の格好をも思わせる。死者の永遠の眠りを誇張した死霊の表現で、他界後の人間霊を表象化したものとも思われる。
 ▽色々な土偶
 板柳町土井遺跡から出土した小型の中空の土偶は、目の部分は大きく表現されているが、遮光器の表現はない。下腹部が膨らんだ安産を祈る妊婦女性像である(写真2)。ここからは他に遮光器土偶の両脚部も出土している。
 写真3は三戸町八日町遺跡で発見された土偶である。遮光器土偶の初期のもので、乳房が大きく下腹部を膨らませた妊婦の姿である。他の遺跡から妊婦の正中線を思わせる刻印のある土偶の出土例もあり、土偶は女性を表すものが多い。女性のもつ生命を生み出す力を、生命の誕生である安産や生命の再起を祈願し、病気やけが、天災を恐れ敬って呪術用に作られたのではないかといわれている。ちなみに、男性の表現は、縄文時代後期の注口の付け根部分に見られる(写真4)。他に西目屋村川原平(1)遺跡でも出土している。碇ケ関程森遺跡からも高さ29センチの土偶が出土している(写真5)
 土偶は頭頸部、脚部、腕部などが欠けた状態で出土する例が多々ある。制作過程で意識的に壊すことを前提として、欠損部を切断しやすいように直線的に切れ目を作り、災害によって損傷を受けた部分の回復を念じ、患部を壊して土偶に転嫁させるなど、呪術的治療による身代わり分身説がある。
 しかし、このような精巧な薄い中空の土偶を作るには高度な技術が必要である。まず頭部、脚部、上腕部を個々に成型、施文し、少し乾燥させた後に、泥土で胴部に接合して整型すると思われるので、接合部分は衝撃に弱く壊れやすい部分である。
 また、遮光器土偶の一部にベンガラなどの赤色顔料が塗布された跡が残っている出土例が多くあるが、かつては全身に塗布されていたようである(写真6)。赤色は燃える太陽を表し、血液の色を象徴する。太陽の恵みと生命の再生を意味し、深い眠りからの新しい生命の再生を祈るため塗布したものと思われる。
 そして欠損した土偶の頭部をアスファルトで本体に接着し、土偶を修復した痕跡のある土偶の頭部が新潟県で出土していることや(写真7)、津軽地方の遺跡の出土と言われるほぼ完形品や、東北各県の遺跡でも遮光器土偶の完形品が出土している例が多くある。
 これらの事例から、わざわざ頭部などを胴部から切り離した状態で生命の再生を臨むとは考えにくく、土偶を身代わりとする説にはやや疑問を挟む余地があると思う。もし土偶がけがや病気のたびに作られていたのなら相当な量になっていたはずである。
 ▽縄文の終焉
 縄文晩期の終末期になると、土偶は中実となり小型化し文様が簡素化され、下着類が表現される例が多くなる。
 各遺跡から形態の似た遮光器土偶の出土個体数は数個で、500~600年間続いた文化の割には少なく、多彩な精製時の出土個体数に比べても非常に少ない。長い間の定住生活の中で森の資源が枯渇しないように維持していくためには、集落の中で適正な規制や統制が必要で、そこにはリーダーの存在が考えられる。遮光器土偶は首長やシャーマンなど、特別な人物を敬うために作られたものかもしれない。
 亀ケ岡遺跡をはじめ八戸市是川遺跡、板柳町土井遺跡などでは遺物の出土範囲が狭く集中している。捨て場という説もあるが、完形品も多く出土している。集落から離れた特定の場所を、先祖代々生命の再生や病気の治癒、安産や豊穣(ほうじょう)を願って、その役目を終えた土器や石器などの呪術用具、装身具や生活用品を持ち寄って神へ返す祭祀(さいし)的な行事を行う場所にしたと考えられる。
 自然が気ままに与える食糧だけで暮らしを維持していかなくてはならなかった縄文の人々にとっては、呪術や禁忌といった儀礼に生命を託すことは賢明な生き方だったと思う。こうして農耕を営まずに発展した亀ケ岡文化も、次第に南方からの稲作文化の浸透を受け、縄文時代の終焉(えん)となる。
(板柳町文化財保護審議会委員・工藤泰博)

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堀越城跡と旧石戸谷家住宅=165

2021/12/27 月曜日

 

写真1 旧石戸谷家住宅
写真2 同家内の展示パネル
写真3 銘友成太刀拵複製=津軽為信が豊臣秀吉から拝領したもの
写真4 茅葺き屋根の裏=小屋組と藁止めがわかる
写真5 ナガザシキ襖絵=鳳松院29世・黒瀧大休画伯作の屏風絵を複製
写真6 大石武学流庭園
※写真はいずれも筆者撮影

 ▽堀越城跡
 国史跡である堀越城跡は、初代弘前藩主津軽為信の城として、今までも本紙で何度か取り上げられてきた。1590(天正18)年に豊臣秀吉に拝謁して、大名として津軽地方の領有を認められた為信は、93(文禄3)年に本拠を大浦城から改修した堀越城に移し、合わせて家来や神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。
 2代藩主信枚(のぶひら)は1611(慶長16)年に高岡(現弘前)に居城を移すと、堀越城は津軽氏の本城としての役割を終わる。この間、水害にあったり、関ヶ原の戦いの時、徳川家康側に味方して為信が出兵した後、留守部隊の家来が豊臣方に味方して反乱を起こし本丸を占拠したりし、必ずしも堅固な城ではなかったようである。
 そのため、為信は生前から新城の建設を計画しており、それが2代藩主信枚による弘前城完成となるのである。津軽氏の本拠としては足かけ18年という短い期間であった。
 弘前市教育委員会による長い期間に及んだ平成期の発掘調査や整備事業が終わり、郭の形や土塁、堀の復元が完了し、2020(令和2)年4月17日から堀越城跡は全面公開された。しかし、折からのコロナ禍の影響もあり、ガイダンス施設として移築・復元された旧石戸谷家住宅(市指定文化財)の公開は遅れた。今回は、この旧石戸谷家住宅について紹介させて頂くことにする。
 ▽豪農石戸谷家
 旧石戸谷家住宅は元々、萢中村(現弘前市浜の町東2丁目)にあった豪農の屋敷で、津軽地方を代表する農家住宅であった。石戸谷家は「萢中の大家(おおや)」と呼ばれ、藩主も立ち寄る家柄であったと伝えられている。
 元々は種里村(現鯵ケ沢町種里町)の出身で、萢中村に移って来てから付近を開墾し、数町歩の田畑を所有するようになった。『弘藩明治一統誌 士族在着録』という資料によれば、1870(明治3)年に弘前藩は、明治新政府の方針で削減された藩士の俸禄を補うために「帰田法」を発令した。これは領内の豪農から、10町歩分の田地だけは手元に残し、それ以外の余剰田地を強制的に買い上げ、献上させ藩士に支給する事にしたものである。
 萢中村の石戸谷平助からは20町歩余の田を買い上げている。『青森県中津軽郡藤代村郷土史』によれば、1922(大正11)年当時の萢中村にあった田地は約29町歩しかないことから、平助は付近の他村にも田地を持っていた事が想像される。平助は当時の石戸谷家の当主で庄屋を務めていたことも分かっており、豪農であった事は間違いない。
 ▽郷士の待遇
 石戸谷家には江戸時代の古文書が残されており、その内容と、弘前藩庁日記のうち「国日記」の記述、「分限元帳」(職員録に当たる)などの記述を照合したところ、次の事も分かってきた。
 石戸谷家の2代目当主という太右衛門は、天明年間から寛政年間(1781~1800)にかけて、藤代組代官の手代(代官の補佐をする上級村役人)を務めていたことが分かり、職務手当として年に15俵の米を支給されていた。郷士の待遇を受けていたことも判明した。郷士とは士分待遇をうける豪農の事であり、庄屋よりは一ランク高い扱いとなる。
 子の弥太郎も同じく手代を務めており、天明の大飢饉前後に、石戸谷家は豪農として急成長したのではないかと推定される。藩への年貢納入を良く務めたとして、親子とも藩から褒賞を受けている記事が「国日記」に見える。弥太郎が手代を辞めたのは1830(文政13)年であり、親子で50年以上、代官手代を務めていたことが判明する。郷士の待遇は以後も継続された。
 ▽大規模な農家住宅
 旧石戸谷家住宅であるが木造一部2階建て、寄棟造り・茅ぶき屋根の建物で、総床面積は約438平方メートル(約133坪)もある。桁行(けたゆき)は30・5メートル、梁行(はりゆき)は11・5メートルもあり、全国でも有数の大規模な農家住宅である。
 津軽地方においては五所川原市湊にある、1769(明和6)年に建築された国の重要文化財である旧平山家の主屋とほぼ同じ規模の建物である。平山家は広田組代官所手代を務め、堰(せき)奉行や大庄屋を兼ねた郷士・豪農であった。石戸谷家も弘前藩の手代を務めた豪農であり、このような大規模な屋敷を建築できる財力を持っていたことが分かる。
 旧石戸谷家住宅は1985(昭和60)年に弘前市指定文化財に指定された。2004(平成16)年に市へ寄付されたが、老朽化が進んでいたため、同09(平成21)年度に解体保存され、部材の形で長らく保管してきた。
 この建物は1822(文政5)年の建築と伝えられてきたが、確実な証拠はなく、59(安政6)年に修理した記録が残されていたことや、木材の風化具合からみて、江戸時代末期の建築であろうと推定されている。市ではこの貴重な建物を古民家として公開するとともに、堀越城跡のガイダンス施設としても活用するため、史跡隣接地(管理活用支援エリア)に移築復元する事にしたのである。
 ▽高い天井
 それでは、復元された建物の内部を紹介しよう。入り口を入ると土間になっており、堀越城のジオラマがある。入り口右手にあった6頭分のウマヤ部分が堀越城と石戸谷家の展示コーナーとなっている。
 入り口左手は板の間のダイドコで、天井の高さに驚いて欲しい。その奥はチャノマ・ナガザシキ、右手はオクザシキへと続く。ナガザシキの左手はコザシキ・インキョとなっている。ナガザシキ・オクザシキの左手には復元された大石武学流庭園も望める。
 開館期間は4月17日から11月23日までなので、ぜひ、来年訪れてほしい。駐車場もあり入場料は無料である。
 ※居住部分をカタカナ表記にしたのは、古民家調査の基本表記に倣ったためである。
(弘前市文化財審議委員長・福井敏隆)

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消えた道、変わる街=164

2021/12/6 月曜日

 

※1985(昭和60)年現在の道路が、区画整理後にどう変わるかを市民に示したもの=『広報ひろさき』第535号(同年11月1日号)に基づき筆者作成。赤字の→は写真1~4の撮影位置と方向
写真1 東町通り。左後方のビルはパチンコ大学、右後方に弘前プリンスホテルの看板がかすかに見える=1988(昭和63)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真2 大町通りに交差する東町通り。居酒屋の「ます酒」は立ち退き後に代替地を得て現在も営業を続けている=1988(昭和63)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真3 南東町通りと津軽センター飲食街。楮町側から大町側を撮影=1988(昭和63)年4月24日・佐藤正治さん撮影
写真4 弘前第一ホテル。ホテルが経営していた中華レストランの豪華楼は、経営者が変わり、現在も駅前町のおおまち共同パーク内で営業中だ=1988(昭和63)年4月24日・佐藤正治さん撮影
※写真はいずれも佐藤正治さん撮影の青森県所蔵県史編さん資料

 ▽街並みの骨格
 1979(昭和54)年から2003(平成15)年にかけて実施された駅前地区土地区画整理事業で、弘前駅前の道路や街並みは大きく変貌(へんぼう)した。特に道路の改廃や築造は著しかった(図1)。道路が変われば街並みも変わる。道路は街並みを構成する大事な骨格だからだ。
 写真家の佐藤正治(せいじ)さん(青森市在住)は、1980年代から青森県内各地の街並みを精力的に撮影し続けてきた。区画整理で失われた弘前駅前地区の道路や街並みも撮影しており、それらの写真は当時の姿を記録した大変貴重な歴史資料となっている。撮影場所を図1に記した上で紙面に紹介し、後世へ伝える糧としたい。
 ▽落ち着いた裏通り ~東町通り~
 駅前通りを弘前公園方面へ向かって歩き出すと交差点に突き当たる。前方にイトーヨーカドー弘前店がそびえ、右へ曲がれば東和徳町方面に出る。左に曲がれば市立病院や土手町へ向かう。右側後方の道は弘前駅の貨物駅で行き止まりとなる。
 このほかに、かつては市立病院へ向かう道路の左側に大町通りへ抜け出る道路があった。その道路に入ってから振り向いて撮影したのが写真1である。この道路は駅正面口に並んでいた商店街の裏側を通り、居酒屋などの飲食店や小売商店が数多くあった。
 現在は駅前町となったが、かつては大字和徳字稲田(一部、字松ケ枝)で、通称東町(あずまちょう)と呼ばれていた。裏通りの落ち着いた風情を残す通りだった。道路の真ん中をオートバイが走るのは、東町通りが一方通行だからである。このオートバイがまっすぐ進めば大町通りの交差点に出た(写真2)
 東町通り界隈は区画整理の対象地域で、数年後には消えゆく運命にあった。家屋や商店の立ち退きが本格化し、90年代半ばには駅前から姿を消した。
 ▽場末の雰囲気 ~南東町通り~
 東町を南進する道路は大町通りと交わり、そのまま南進して楮町へつながっていた。大町通り以南の道路周辺は大字和徳字稲田だが、通称南東町(みなみあずまちょう)と呼ばれていた。南東町通りには銭湯だった中将湯をはじめ、スナックやバーが集まる飲食街店の津軽センターがあった(写真3)。場末の雰囲気を醸し出す通りでもあった。
 この2~3年後に南東町周辺の区画整理は急速に進み、91(平成3)年には写真3の道路と建物も姿を消した。入居していた店舗の中には移転した店もあれば、立ち退きを機会に辞めた店もあった。数年後に区画整理で消え去る運命が、場末の雰囲気を醸し出す一つの要因になっていたかもしれない。
 ▽消えた道路と残った道路
 大町通りの交差点である写真2の左側には、もう一つ西へ向かう道路が交差していた。その道路をしばらく進んで振り向いて撮影したのが写真4である。この道路は駅前通りと土手町を結ぶ道路に交差して代官町へと向かっていた。
 区画整理にあたって都市計画道路の並木通りが新造され、写真4の道路は撤去された。弘前市民が結婚披露宴などでよく利用した弘前第一ホテルも姿を消した。しかし、写真4の道路は並木通りから代官町までの部分が現在も残っているのだ。並木通りとの交差を断たれてはいるが、区画整理前の姿を残した貴重な道路である。
 ▽選択と決断
 今回掲載した写真は、区画整理事業が部分的に着手されていた弘前駅前地区の様子を明らかにした貴重な記録である。南東町をはじめ、この数年後に道路の改廃や築造が本格化し、道路沿いの住宅や店舗などが立ち退いて駅前の様子は激変した。
 立ち退きを機会に閉館を決めた施設や、計画途上の早い段階で移転新築した住居があった。新天地で新たな事業を興した企業や、立ち退いた地域で代替地を得て商売を続ける店舗もあった。区画整理の対象となった人々は、さまざまな選択を経てこの地から離れるか残るかを決断していったのである。
 駅前地区の区画整理は、弘前市の「現在進めている事業では最大級のもの」だった(『広報ひろさき』第535号)。巨大事業を前に、住民たちがどのような選択と決断をしたのか。街並みの記録を後世に残すために撮影した佐藤さんの写真が、歴史の証言者として語りかけてくれている。
(県民生活文化課〈県史担当〉総括主幹・中園裕)

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羊羹の外装や意匠は=163

2021/11/22 月曜日

 

写真1 昆布羊羹のラベル。青森市の高松藤吉(高松堂)=1901(明治34)年頃のもので、ラベルの最も高い位置に第4回内国勧業博覧会の褒状受賞が印刷されている。高松堂の昆布羊羹のラベルは1890(明治23)年8月に改版されて以来、1913(大正2)年8月までに60版以上を数えた。高松がいかに外装にこだわったかが分かる
写真2 昆布羊羹のラベルより「滋養」部分を拡大したもの。昆布羊羹の文字右側に朱字で小さく「滋養」とある
写真3 葡萄羹のラベル。弘前市松森町の村谷金藏(甘泉堂)=元祖滋養葡萄羹とある。甘泉堂では「葡萄飴」を1898(明治31)年8月に新菓として販売し、それより先に「葡萄羹」を販売していた
写真4 まるめろ羊羹のラベル。弘前市桶屋町の大坂與助(萬榮堂)=マルメロと岩木山が印象的である。萬榮堂はさまざまなマルメロ製の菓子を製造販売していた
写真5=林檎羊羹のラベル。田辺富吉(萬年堂)=萬年堂は林檎羊羹や「園の月」など、リンゴ製の菓子を多種製造していた

 ▽『青森県産業調査参考書』
 1913(大正2)年秋、青森県は大凶作に見舞われ、農業を主産業とする県の経済が大打撃を受けた。県は産業の過去と現在を調査し、将来を見据えた抜本的な見直しをはかるため、17(大正6)年1月に『青森県産業調査参考書』を発行した。
 諸般の産業が見直しを迫られる中で、菓子業も見直しの対象となった。生産力を上げるため、各社会階級に応じた菓子製造を行うよう求められた。貯蔵性や軽便性に優れ、高尚な土産品をつくることが推奨された。菓子職人が製菓技術の向上と菓子の外装や意匠改良のために品評会を開催することも期待された。
 土産品を購入する際、外装や意匠の巧拙さが購入するかどうかの判断材料となるのは今も昔も変わらない。『青森県産業調査参考書』では菓子類が製造販売されている特徴として、青森市の昆布羊羹(ようかん)や弘前市の果実類の羊羹を挙げた。羊羹は貯蔵性や軽便性が高いため、土産品に向きやすい。今回は菓子の外装や意匠に注目したい。
 ▽昆布羊羹~滋養~
 近代青森市を代表する昆布羊羹は県が認めた「名菓」だった。特に青森市大町(現本町)の高松藤吉(高松堂)の昆布羊羹は、皇族の御買上というお墨付きを得ており、博覧会や共進会などの優等な賞も受けていた。
 昆布羊羹のラベル意匠は、宮内省御用品の名誉や多くの受賞歴を手に取るだけで認識させるものとなっていた。青森市の街並みや津軽半島、蒸気機関車や青森駅が描かれている。高松堂が記されているのは、高松堂の昆布羊羹が県都青森市を代表し、他の羊羹類より抜きん出ていることを県内外へ示すための意匠と考えられよう(写真1)
 興味深いのは、昆布羊羹のラベルに小さな朱字で示された「滋養」である。滋養は昆布の栄養分が高いことを示すと考えられるが、なぜ「滋養」は小さく目立たないのか(写真2)
 実は、博覧会の審査員は菓子類を嗜好(しこう)品として位置付け、審査項目に滋養の項目を設けながら、菓子を滋養品として認めなかったのだ。審査員は牛乳や鶏卵を濫用(らんよう)して滋養や衛生を標榜(ひょうぼう)した出品菓子や、海産物を使用した出品菓子について厳しい見方をしたのである。高松は、こうした審査の視点を強く意識したのだろう。
 1895(明治28)年開催の第4回内国勧業博覧会で褒状を受賞した昆布羊羹は、1903(明治36)年開催の第5回内国勧業博覧会では排斥対象となり受賞を逃している。写真1はこの期間のラベルである。排斥対象となった昆布羊羹だが、高松の昆布羊羹製造に対する情熱は決して消えなかった。
 ▽林檎羊羹~新発明~
 弘前市ではリンゴやブドウなど果実を使った羊羹が製造販売されていた(写真3・4・5)。その中でも弘前市親方町の田辺富吉(萬年堂)の林檎羊羹は、近隣で産出されるリンゴを応用し、リンゴ農家の経済を助けるため市場に出回りにくい品質を使っていた。
 第4回内国勧業博覧会の審査員は過量な糖分使用を問題視し、改良させるために果実の使用を提言していた。1897(明治30)年に田辺が創製した林檎羊羹は、そうした審査員の意向を受けていたと考えられる。
 第5回内国勧業博覧会に田辺は林檎羊羹を出品し、林檎羊羹はリンゴを使った新菓として評価され3等を受賞した。当時リンゴを使った羊羹の受賞は快挙だった。林檎羊羹の外装に大きく「新発明」とあるのは誇張ではなかったのだ。
 林檎羊羹のラベルに「元祖」とあるのは苦心惨憺(さんたん)の結果、新菓である林檎羊羹を誕生させたことを意味しよう。「元祖」とするもう一つの理由には、博覧会などで受賞した菓子が模倣され、複数の菓子屋で製造販売される現象があるからだろう。
 実際に林檎羊羹は他の菓子屋でも製造販売されている。昆布羊羹も青森市で複数の菓子屋が製造販売していた。このため昆布羊羹を創製した高松自身は「大日本元祖」と昆布羊羹を宣伝したのである(写真2)
 ▽求められる改善と工夫
 1917(大正6)年5月、東京日本橋にある三越百貨店で東北振興会が主催した東北名産品陳列会が開催された。陳列会には県内の青森・弘前両市や郡部からさまざまな菓子類が出品された。いずれも青森県の特徴がわかりやすく、貯蔵性と軽便性の高い菓子類が選ばれた。青森市は高松の昆布羊羹を、弘前市は田辺の林檎羊羹と林檎製菓子などを出品した。
 18(大正7)年8月には北海道の開道五十年記念博覧会(開道博)が札幌と小樽で開催された。同年5月、青森県内では二市八郡菓子飴品評会が青森市で実施された。『青森県産業調査参考書』で県当局が期待した通り、品評会は県内の菓子業を対象とした初の品評会だった。開道博は青森県の菓子類を土産品として紹介宣伝し、販路を拡大できる絶好の機会だった。このため菓子類の他、容器や意匠図案などの出品も歓迎されたのである。
 他県と比較して、青森県から出品された菓子類が容器や外装の面で劣っていたため、品評会を通じて菓子類の外装や意匠を高めることが期待された。結果は残念ながら、羊羹類は外装や意匠の色彩が卑俗で中身に伴わないとされ、もっと改善が必要だと指摘された。
 博覧会や品評会の開催は、県内の菓子職人に製菓技術の向上だけでなく、外装や意匠で魅せる工夫を促し、それが重要なものであることを痛感させた。この後、県内の菓子職人はさまざまな改善と工夫を重ねていくことになる。
 現在、県内の菓子類は手にとって食べたくなるような外装で、他県と遜色のない意匠を有する菓子が多い。いずれも県内の菓子職人や関係者が知恵を絞り、博覧会や共進会などで他県と競争し合い、努力を積み重ねてきた結果であることを知ってほしい。
(弘前大学非常勤講師・中園美穂)

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大変貌した弘前駅前=162

2021/10/25 月曜日

 

写真1 生活感あふれる駅前空間。中央左寄りに對馬の店舗、右隣にひかり食堂が並ぶ=1988(昭和63)年4月10日、佐藤正治さん撮影
写真2 駅正面の商店街。手前に見える駅前広場はバスや乗用車で混み合っている=1988(昭和63)年4月10日、佐藤正治さん撮影
写真3 駅前商店街のアーケード=1988(昭和63)年4月10日、佐藤正治さん撮影
写真4 複雑に道路が交差する大町通り。左側に2つ、右側に1つの道路が交差する=1988(昭和63)年4月24日、佐藤正治さん撮影
写真5 中央通りと大町通りを結ぶ道路。左奥が弘前駅。商店街のアーケードには段差があった=1988(昭和63)年4月10日
※写真はいずれも佐藤正治さん撮影の青森県所蔵県史編さん資料

 ▽迷子になった!
 弘前市で生まれ育った人が首都圏などに移住し、久しぶりに弘前市に帰郷して「迷子になった」と嘆いた話がある。都市計画(土地区画整理事業)による街並みの変貌(へんぼう)を物語る象徴的な話だと思う。
 1968(昭和43)年に弘前駅前整備計画が策定され、駅前南地区(現在の大町・楮町・南大町の周辺)を対象に土地区画整理事業が始まった。79(昭和54)年から第2期事業として、駅前地区(現在の駅前町と駅前及び大町の周辺)が対象になった。
 駅前地区はリンゴの卸商や倉庫が多く、旅館や飲食店、娯楽施設などが混在していた。小さな家屋が密集し、防災上の観点から問題視され、除排雪作業にも支障を来していた。狭く曲がった道路と、信号や交差点の多い道路網は渋滞や交通事故の温床だった。
 駅前地区の区画整理は、市の表玄関にふさわしい街並みとし、新たな商業施設が集まる拠点を設け、雪に強い街にすることが中心だった。要するに、ごちゃごちゃした駅前をすっきりさせ、道路を拡幅し駅前広場を拡張するわけである。
 区画整理は2001(平成13)年10月に完工。25日に駅前のりんご広場で完工式を上げ、翌年度正式に事業を終えた。二十数年かけた大事業で駅前は大変貌を遂げた。
 建物や施設がなくなり道路が改廃されると、どこに何があったのか思い出せなくなる。しかし、写真家の佐藤正治(せいじ)さんが変貌前の街並みを克明に撮影していた。佐藤さんの写真から、変貌前の駅前の姿を再現したいと思う。
 ▽生活感あふれる空間
 弘前大学をはじめ私立の大学や高校には、弘前市外から多数の学生たちが集まった。学生たちは駅から学校までの距離に応じて徒歩か自転車、またはバスに乗った。自転車の場合、駅と学校の間だけに使うため駐輪場が必要だった。
 駅正面の向かい側にあった對馬手荷物一時預り所は、駐輪場を兼ねた貸し自転車もやっていた(写真1)。大変物覚えの良い店主で、常連の利用客や学生が来ると、すぐに持ち主の自転車を出してくれた。料金を支払っていない学生の顔を覚えていて、未払いがあれば督促されたという。
 預り所の隣には大衆食堂や不動産の他、喫茶店、パチンコ屋、カメラ屋、果物屋が並んだ。当時の男性たちの関心を集めた駅前日活の映画館もあった。ごちゃごちゃしていた駅前だが、生活感あふれる空間でもあったのだ(写真2)
 整理事業が進むにつれ駅前の商店は次々と姿を消した。對馬の預り所も1997(平成9)年4月21日に使用が始まった弘前駅前地下駐輪場に取って代わった。地下駐輪場の開設と同時に駅前は駐輪禁止となった。
 ▽アーケードのあった商店街
 65(昭和40)年、中土手町の商店街に弘前市で最初のアーケードができて評判を呼んだ。これに刺激されて弘前駅前商店街振興組合もアーケードの建設に着手し、3期にわたる工事を経て73(昭和48)年に完成させた。アーケードは駅前から中央通りと代官町の交差点まで続いていた(写真3)
 駅前商店街には、76(昭和51)年10月に開館したイトーヨーカドー弘前店を中心に、大小さまざまな商業ビルや商店が並んでいた。82(昭和57)年4月に駅ビルとしてアプリーズが開館した。両施設を核として、傘を差さずにアーケード内にある複数の店舗間を移動できることから、駅前商店街には大勢の人々が集まった。
 しかし、大勢の人々が集まることでバスは混雑しタクシーの駐停車が増えた。買い物客や学生たちが自転車を無造作に駐輪するので、駅前広場は狭くなり問題視された。駅前の区画整理は、駅前広場の拡張と駅に向かう道路の拡幅が目的でもあったのだ。
 写真3を見ると、各店舗とアプリーズの位置が現在と大きく異なる。この後アーケードを撤去し、店舗を大きく後退させて98(平成10)年11月に駅前広場は完成した。
 ▽時の流れを残す
 大町通りは小さな商店が並ぶ片道1車線ずつの道路だった。駅前近くの交差点は左右から3つの道路が複雑に交わり、渋滞と交通事故の温床になっていた(写真4)
 しかし89(平成元)年10月、写真の右側にシティ弘前ホテル(現アートホテル弘前シティ)が開館し、大町通りは大幅に拡幅された。区画整理が進められ3つの道路は全て撤去された。複雑な交差点は整然とした十字路に造り替えられた。
 写真4の左側に見える車両進入禁止の道路は、まっすぐ北上して写真5の右側の道路につながっていた。区画整理で撤去され、現在この道路は存在しない。商店街にあったアーケードは撤去され建物自体も変わった。あったはずの道路や建物がなくなれば迷子になるのも無理はない。
 掲載した5枚の写真は、都市計画で変貌する前の街並みを写した貴重な記録である。しかし単なる記録写真ではない。「時の流れの一部を切り取った形で残る写真は、一人一人に当時の思い出を呼び覚ましてくれます」と語る佐藤さん(『読売新聞』1990年3月16日付)。その言葉通り当時の駅前周辺を知る人々は、忘れかけていた街並みを思い出す貴重な機会を得たはずである。
(県民生活文化課〈県史担当〉総括主幹・中園裕)

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