津軽の街と風景

 

市民に愛された弘前=112

2019/5/20 月曜日

 

写真1 「鈴木の三階」と「かくは宮川デパート」=1965(昭和40)年
写真2 「かくみ小路」とアーチ=1986(昭和61)年
写真3 下土手町の繁華街と「今泉本店」=1986(昭和61)年

 1950~60年代の高度経済成長と70年代からの本格的な都市計画で、中心市街地の様子は大きく変わった。区画整理が施され自動車社会に対応して道路が整備された。その結果、なじみの店がなくなってがく然としながら、跡地に何があったのか思い出せない経験をすることがある。意識して記録や写真を残さない限り、街並みは忘れ去られる運命にある。今回は弘前市の繁華街について書き記しておきたいと思う。
 ▽親方町
 戦前、戦後を通じ弘前市民に愛され、弘前市繁華街の象徴的存在だったのが、下土手町にあった「かくは宮川百貨店(デパート)」だろう。隣接する親方町には、サウナやマージャンホールを備えた「朝日会館」があった。館内にあった高級喫茶の「御苑」は待ち合わせや商談、デートに使われた。かくはの遊園地は子ども向けの娯楽施設だが、会館は今も営業を続ける大人の娯楽施設である。
 会館の真向かいには「鈴木の三階」と称された「鈴木旅館」があった。木造3階建ての旅館は珍しかったので目を引いたが、解体されて今はない(写真1参照)
 旅館の斜め向かい側には、今も弘前市民が足しげく通う「川村精肉店」がある。この場所で営業を始めたのは37(昭和12)年。57(昭和32)年に現在の店舗となり、かくはの1階食料品部にも売店を設けた(『風雪の履歴書』陸奥新報社)。川村の揚げ物や総菜は午前中に売り切れるほど人気だ。大型スーパーが主流の現在、昔ながらの小売店舗形式の肉屋は貴重な生活の一風景となった。
 ▽かくみ小路
 親方町から歓楽街である鍛冶町と新鍛冶町へ向かうと、土手町へ抜ける細い路地がある。ここは新旧の飲食店が連なる「かくみ小路」だ。名称は明治・大正期に繁盛した「角み宮川呉服店」にちなんだものである。
 「レストランニューマツダ」などの高級感あふれる洋食店がある一方、「特一番」など学生の味方的な大衆食堂があった。飲食街だけに店舗の入れ替わりは激しいが、太宰治も通った老舗喫茶店の「万茶ン」は今も営業を続けている。
 写真2を見ると、今はなき「弘前名所」と書かれたアーチが見える。その後ろには、今も笑顔で客を迎えてくれるご主人と太巻きで有名な「常寿司」の看板が見える。老若男女、金持ちの大人にも貧乏学生にも愛された飲食街。それがかくみ小路である。
 ▽下土手町
 下土手町は市内外から多くの人々が集まる弘前市最大の繁華街だ。デパートや飲食店が多い中で、「今泉本店」は下土手町の歴史に欠かせない存在だった。1892(明治25)年創業で、何度か店舗を移した後に下土手町で雑誌や参考書、文房具や運動用具、楽器なども販売して営業成績を伸ばした。
 今泉本店の成長に重要な役割を果たしたのが、1921(大正10)年に開校した官立(旧制)弘前高等学校である。帝国大学を目指すエリート学生が全国各地から弘前市に集められた。彼らは今泉本店で研究書や参考書、雑誌類などを買い求めた。
 戦後に官立弘高が弘前大学へと変わってからも、この傾向は続いた。書店の繁栄に高等教育機関の存在は大きな役割を果たした。68(昭和43)年、今泉本店は社屋を新設拡張し、隣接の「カネ長武田デパート」と遜色ない規模を誇った(写真3参照)
 83(昭和58)年に「紀伊國屋書店弘前店」が中土手町に進出。地元の書店業界に大きな影響を与えた。競争が激化する中で、2000(平成12)年に今泉本店は惜しまれながら閉店した。
 その20年後、年号が平成から令和に変わった19年5月、紀伊國屋の弘前店が閉店した。繁華街形成の一翼を担い、繁華街に支えられた書店という構図が大きく変わったことを印象づける出来事だった。
 ▽百石町
 土手町に次ぐ繁華街だった百石町。かつては土手町寄りに映画館の「弘前東映」があり、アサヒビールのネオンアーチが架かっていた。近くの「弘前市立百石町展示館」も、以前は「青森銀行津軽支店」だった。
 銀行の支店があるのは商店街が形成されている証拠。実際に百石町には各種の商店が軒を連ねていた。家具屋の「さいくま」、青果食料雑貨店の「マルミ弘前中央百貨街」、菓子屋の「ラグノオささき」など、挙げれば切りがない。
 ラグノオは本県の菓子業界で最大手の一つに成長したが、多くの商店は姿を消した。2014(平成26)年に閉店した大衆割烹の「大和家」も記憶に新しいだろう。
 百石町と中央通りの十字路2階には、1955(昭和30)年開店の「グリルマツダ」があった。本格的なフランス料理の店で、グラタンが看板メニューだった。下土手町に支店を設け、前述のニューマツダも支店の一つだった。社長の松田延太郎は東京生まれだが、戦前に青森市の洋食店「サロン」やパン屋でレストランも営業していた「栄作堂」のコックを務め本県に縁の深い人物だった。
 ▽記録を残す
 96(平成8)年に北方新社が出版した『弘前の散歩みち』は、弘前市の街並みを撮影し続けてきた藤田本太郎さんの写真に解説を付した写文集である。このほど同社の協力を得て、写文集から写真の一部を掲載させていただいた。
 青森県史の編さんで得られた諸資料で弘前市繁華街の歴史を描くに当たり、藤田さんの写真から多くの情報を得た。写真は時に歴史資料となる。その思いを強くする一方で、街並みの変貌が予想以上に早く進む昨今、記録を残すことがますます大切になってきている。今後も折を見て街並みの歴史を記していきたいと思う。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ・中園裕)
 ※写真はすべて藤田本太郎さん撮影(『弘前の散歩みち』北方新社、1996年より転載)

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江戸時代に18の温泉=111

2019/5/6 月曜日

「諸国温泉功能鑑」=都立中央図書館特別文庫所蔵。行司に注目
「大日本東山道陸奧州駅路図」より江戸後期の浅虫温泉周辺=1810(文化7)年・青森県立図書館所蔵。皮膚病や痔、眼病に効く、と効能が書かれている
幕末期の嶽温泉湯小屋=江戸末期・青森県立郷土館所蔵
在りし日の大鰐温泉街=1974(昭和49)年・青森県所蔵県史編さん資料。中央部、川沿いに見える大きな建物が加賀助旅館
青森製氷の冷蔵室と冷凍室=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵

 津軽地方はいわゆる温泉銭湯をはじめ身近に温泉があるため、車に風呂道具を積んで気軽にお湯を楽しむ人が多い。本県は源泉数全国6位、温泉地数全国4位(2017年3月、県自然保護課HPより)という全国有数の温泉大県である。
 多くは戦後、ボーリング技術が発達してから新たに掘削された温泉だが、古くから知られた温泉も多い。では、江戸時代の温泉や湯治はどのようなものだったか紹介したい。
 ▽「津軽一統志」にみる津軽の温泉
 弘前藩では官選地誌のようなものは作られなかったが、1731(享保16)年に編さんされた藩の正史「津軽一統志」では、藩内の温泉として次の18カ所を挙げている。
 百沢領の内岩木嵩ノ湯、大鰐村の内大鰐ノ湯、蔵館村の内蔵館ノ湯、碇関町の内碇関ノ湯、黒石領の内温湯・板留ノ湯・大川原ノ湯・二升内ノ湯・沖浦ノ湯、袋村の内沖浦ノ湯、切明村の内切明ノ湯、外浜耕田の嶽酢ヶ湯、大柳辺村の奥下湯、浅虫村の内浅虫ノ湯、平舘村の内根子ノ湯、追良瀬村の内湯之沢ノ湯、西之浜岩崎村の内佐々内ノ湯、深浦村の内三ノ湯
 最初の14カ所は、現在の嶽温泉、大鰐温泉、蔵館温泉(平川を挟み大鰐温泉の対岸だが、現在は一体化)、碇ケ関温泉、黒石温泉郷の各温泉(沖浦・二庄内は浅瀬石川ダムに水没)、酸ケ湯温泉、下湯温泉(現在は下湯ダムに水没)、浅虫温泉となる。
 「根子ノ湯」以下4カ所は今では聞き慣れない温泉だが、根子の湯は「平舘不老不死温泉」の前身に当たる。かつては現在地よりさらに山中にあり、津軽半島唯一の温泉だった。「佐々内ノ湯」以下は西海岸だが、現在の「黄金崎不老ふ死温泉」などと異なり、いずれも山中にあった。佐々内(笹内)の湯は菅江真澄も入浴している。いずれも現在は温泉地としては利用されていない。
 今でも有名な温泉がある一方、なくなった温泉もあり、時代的変遷が見受けられる。
 ▽江戸時代の温泉番付
 江戸時代後期、全国の温泉をランク付けした「諸国温泉功能鑑」という番付が作られた。この中には83カ所の温泉が挙げられているが、津軽の温泉は6カ所が入っている(嶽、温湯、矢立、板留、浅虫、蔵館)。
 注目すべきは、大鰐温泉が熱海の湯(現静岡県)などと並んで「行司役」となっており、全国に知れ渡っていることが分かる。この番付には1カ所ごとに効能が書かれており、中でも蔵館と板留は「諸病によし」と大変高い評価である。
 科学的療法がなかった江戸時代、慢性的な病気は温泉療法でじっくり直すしかなかった。そのため、効能については現在以上にシビアに求められた。
 ▽藩主の湯治
 これらの温泉のうち、弘前藩主の湯治場として利用されたのが、大鰐、碇ケ関、嶽、浅虫である。大鰐や碇ケ関は参勤交代の道筋に当たり、最も利用しやすかった。『大鰐町史』によると、幕末期までに藩主の湯治は27回に及ぶという。温湯へは5回の湯治記録がある。
 浅虫や大鰐には、藩主が滞在するための専用施設(御仮屋、本陣)が置かれた。大鰐は1984(昭和59)年に閉館した加賀助旅館、浅虫は現在も営業中の柳の湯の先祖が管理人を務めた。
 一方、嶽温泉は弘前から近いにもかかわらず、藩主の湯治場としては利用されなかった。これは岩木山信仰との関係と思われる。庶民の入浴も、6月から7月や御山参詣の時期(8月1日~15日)は禁止されていた。湯治客により山が踏み荒らされ、山の神の怒りに触れることを恐れたためである。ただし幕末期には次第に緩んでいった。
 ▽庶民の湯治あれこれ
 景勝の地である温湯は庶民の遊楽の場であり、幕末には湯宿が多く建ち並び、青森や鯵ケ沢から来た遊女がたむろして客を引く歓楽街としてにぎわっていた。これら湊町の遊女は主に船乗りを相手にしていたが、船の出入りが少なくなる晩秋から春の初めにかけて、出稼ぎに出ていた。これは大鰐も同様で、藩では私娼行為として厳しく取り締まったが、やむことがなかった。
 昔の湯治は長期にわたったので「湯見舞い」と称し、親類や近所の者が遊びに来る風習があった。湯治客は御礼として土産物を持たせてやった。温湯名物のこけしや、大鰐名物の木地挽(きじびき)細工物や温泉もやしは、このような温泉土産として発達したものである。1859(安政6)年9月に湯治をした家老大道寺族之助(だいどうじやからのすけ)も、木地挽細工物ともやしを大量に購入した記録がある(「大鰐蔵館湯治日記」『大鰐町史』中巻)。
 車がない時代、山中の温泉に行くには困難が伴った。八甲田山系の酸ケ湯温泉は、雪が固まって歩くのが容易になる早春しか入浴できなかったが、季節により猛吹雪に巻き込まれ凍死したり、逆に気温が緩んで雪崩が起こり、湯治客が多数亡くなったことがあった(岩淵功『八甲田の変遷』)。
 津軽・南部の対立は巷間有名だが、効能を求めて津軽の温泉にも南部の人々が来遊している。酸ケ湯温泉は江戸中期の1707(宝永4)年には湯治客の3割が南部の人々だった(岩淵前掲書)。庶民だけでなく、八戸藩の侍も湯治に来ていた。
 江戸後期の1812(文化9)年に、八戸藩大野村(現岩手県洋野町)の豪農晴山(はれやま)吉三郎は、嶽温泉や板留温泉へ湯治に行き、その後高照神社や百沢寺(現岩木山神社)などを巡り、その立派さは両南部(盛岡・八戸藩)にもないものだ、と驚嘆している(晴山家文書「万記録」)。
(青森県県民生活文化課県史編さんグループ総括主幹 中野渡一耕)

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沼から命名の「内潟」=110

2019/4/1 月曜日

 

消えゆく「内潟」=2003(平成15)年・筆者撮影
津軽森林鉄道今泉停車場=1920(大正9)年・「福士商店発行絵葉書」より
内潟沼付近を行く潟舟=昭和30年代・中泊町博物館所蔵
内潟沼開田記念碑=2009(平成21)年・筆者撮影

 ▽消えゆく「内潟(うちがた)」
 中泊町内で、近年めっきりと姿を消した地名といえば「内潟」である。現在では、郵便局や駐在所名に辛うじて見いだすことができる「内潟」は、1889(明治22)年、岩木川下流右岸に位置する尾別(おっぺつ)、高根(たかね)、薄市(うすいち)、今泉(いまいずみ)4村の合併により誕生した「内潟村」に由来する。
 役場は薄市に置かれ、歴代村長には、十三史談会や津軽考古学会を結成した郷土史家奥田順蔵(おくたじゅんぞう)、『内潟村誌』『中里町誌』刊行に尽力した鳴(なる)海文四郎(みぶんしろう)らが名を連ねる。内潟村は、1955(昭和30)年に中里町と武田村の合併により、60余年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ▽新田開発の拠点
 内潟の歴史は案外と古い。1592(文禄元)年=90(天正18)年とする史料もある=、加賀藩主前田利家(まえだとしいえ)らが実施した奥州検地の成果に、薄市村一五三石一斗が見えるという。また、1605(慶長10)年には「実成院日光(じつじょういんにっこう)」なる僧が弘前より薄市に移住し、「薄市山実成寺(じっせいじ)」を開いたとする記録や、金木「雲祥寺(うんしょうじ)」ももともとは薄市「寺屋敷跡」に所在したとする伝承も残される。
 なお、雲祥寺は45(正保2)年に金木へ、実成寺は73(延宝元)年に中里へ移転して薄市山弘法寺(ぐぼうじ)になったとされる=『中里村誌』=。これらの所伝は薄市村が江戸時代初頭にはすでに相当開発が進み、檀(だん)徒(と)も多かったことを物語る。
 「陸奥国(むつのくに)津軽郡之絵図(つがるぐんのえず)(青森県立郷土館蔵)」は、45(正保2)年に弘前藩が製作した領内図の写しであり、当時存在した村々が石高とともに記されている。
 中泊地域では、小泊、薄市、尾邊地(おつへち)(尾別)村が古村扱い、今泉、中里、宮野澤、新田八幡各村は「新田」とされている。また、十三湖は加瀬(嘉瀬)村のあたりまで広がるとともに、今泉、薄市、尾邊地村は湖岸に接して描かれている。内潟地域は、広々とした入り江を擁する舟着き場として、玄関口の役割を果たしていたのであろう。
 金木(かなぎ)村の櫛引甚左衛門(くしびきじんざえもん)、小田川(おだがわ)村の古川角左衛門(こがわかくざえもん)、野崎(のざき)村の三上九郎右衛門(みかみくろうえもん)、寛文年間、田茂木(たもぎ)村を開いた坂本弥左衛門(さかもとやざえもん)、鈴木治五左衛門(すずきじござえもん)、福士長兵衛(ふくしちょうべえ)らは、いずれも薄市村から移ったと伝えられる=『中里町誌』=。津軽地域はもちろん、南部、出羽、北陸など津々浦々から新天地を求めて移住してきた人々は、内潟を拠点として新たな開拓地に向かったのである。
 ▽津軽森林鉄道の停車場
 嘉瀬付近まで広がっていた十三湖は、近現代にかけて徐々に縮小し、その後には広大な湿原と蝶(ちょう)が羽を広げたような形をした「内潟沼」が取り残された。明治の合併により成立した「内潟村」は、同沼に因(ちな)んだ村名である。
 1909(明治42)年には、内潟沼の東端を通過する一条の軌道が完成した。津軽山地のヒバ林開発を企図した津軽森林鉄道である。本線と相内支線の分岐点に位置する今泉には停車場と土場が設けられ、木材の集積拠点としてにぎわった。
 津軽森林鉄道による木材輸送量は戦時中を通じて最盛期を迎えるが、戦後徐々に下降線をたどり、67(昭和42)年には終焉(しゅうえん)を迎える。軌道跡の多くは林道や農道に転用された。津軽山地を越えて外ケ浜と内潟地区を結ぶ県道12号(やまなみライン)といった幹線道も、基本的には本線跡を母体として整備されたものであり、森林鉄道の遺産は現在もなお活用されている。
 ▽穀倉地帯へ変貌
 シジミ貝やコイ、ボラ、雑魚が生息し、刈り取ったアシガヤを満載した潟舟(かたぶね)が行き交う内潟沼の情景は、内潟に暮らす人々の原風景である。しかしながら、戦後の食糧難に端を発する国営十三湖干拓建設事業の進展により、内潟沼は65(昭和40)年前後に姿を消し、見渡す限りの水田へと生まれ変わった。往時の様相を伝えるのは、かつての湖畔にひっそりと佇(たたず)む「内潟沼開田記念碑」である。
 「四方芦(あし)がやが低く囲み、遠く岩木山の屹立(きつりつ)する中に二つ三つ棹(さお)さして行く小舟の静かに浮んだ内潟沼の詩情も、一筋の鳥谷川(とりやがわ)にその名残をとどめるのみ。ブルドーザーの轟音が千古の湖の胎動となり、それが緑の沃野(よくや)となり、黄金の波うつ穀倉となる。今ここに新しい大地が誕生す。創(つく)られた大地「内潟沼」。それは我々が描き続けてきた近代農業実現に、第一歩を踏み出した逞(たくま)しい姿でもある。そして、やがてここが日本農業の新しい可能性をうみだす土地になり、限りなく発展することを祈念して」(碑文より)
 同碑は、農政が生産調整(減反)へと大きくかじが切られるわずか3年前の66(昭和41)年に建立された。誰しもが「歴史の皮肉」に嘆息を禁じ得ないであろう。
 ▽「内潟」の秘宝、活用へ
 内潟地区の旧家に遺存する「宮越家離れ・庭園」は、大正浪漫あふれる建造物・名勝である。中泊町は、内潟の栄華と景観を伝える希少な文化財として、今年から保存整備を進め、築百周年を迎える2020年公開を目指している。内潟再興の狼煙(のろし)となれば幸いである。
(中泊町博物館館長 斎藤淳)

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青森町で氷ビジネス=109

2019/3/18 月曜日

 

堤川の雪景=大正末期・青森県所蔵県史編さん資料
堤川に架かる旭橋から見た八甲田の峰々=明治末期~大正初期・青森県所蔵県史編さん資料
青森製氷全景=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵)
青森製氷の冷蔵室と冷凍室=1927(昭和2)年頃・青森市民図書館歴史資料室蔵

 ▽津軽の氷を売り出そう!
 箱館戦争が終結し、青森町から新政府軍が撤退して2カ月ほどがたった1869(明治2)年12月23日、横浜の中川屋嘉兵衛の手代2人が青森町の豪商滝屋伊東家を訪れた。中川屋は、旧幕臣で箱館奉行支配組頭となり五稜郭の築造に携わった河津祐邦(かわづすけくに)と関わりがあり、河津は弘前藩家老(当時は権大参事)大道寺繁禎(しげよし)と昵懇(じっこん)だった。その手づるで中川屋の手代が滝屋を訪ねたわけである。
 そして、その目的は東京で大道寺と河津が面会した時の話にさかのぼる。河津は、横浜に居留している外国人に、「寒国」津軽から切り出した氷を売ることを大道寺にもちかけた。夏の暑い時期の氷販売は外国人に喜ばれ、しかも弘前藩にとっても利益になるのだという。具体的な使途は、医療用・冷蔵用であったようだ。
 当時、氷といえばアメリカのボストンから輸入していた「ボストン氷」なるものがあったが、高価である上に輸送中の目減りが激しかった。そこで、中川屋は氷ビジネスに目を付けた。大道寺はこの話に乗り、青森町の滝屋にこれを申し付けたのだった。
 2人が面会した時期は定かではないが、9月11日付で河津の用人石川喜兵衛から滝屋のもとに青森町での製氷についての書状が届いており、手代訪問の3カ月前には動きだしていた話だった。
 ▽横浜・中川屋の試み
 さて、中川屋嘉兵衛なる人物であるが、彼は三河国額田郡伊賀村の生まれで、横浜開港後に江戸へ出てイギリス公使の厨房(ちゅうぼう)に雇われていた。その後、横浜で牛乳搾取場を開業する傍ら、ヘボン式ローマ字で知られるアメリカ人医師ヘボンらと知遇を得、衛生に関する知識を得たようだ。ヘボンらとの出会いが製氷事業の起業に影響を与えたようである。
 最初の採氷事業は1861(文久元)年に「駿河国富士山ノ地」に500坪の製氷地を求め、氷2000個を江尻(清水)港から横浜へ搬出したものの、すべて解けてしまい失敗に終わった。その後も、信濃国諏訪郡や下野国日光山で製氷を行うものの輸送費が高くこれも失敗した。
 さらに、1865(慶応元)年に陸中国南部釜石で200~300トンの製氷に成功するが、横浜に運び込むことができたのはわずか30トンだった。そして次に中川屋が目を付けたのが青森町だった。
 中川屋では12月上旬までに事前調査を済ませており、氷を切り出す候補地は三内村・石神村が有力であったが青森湊までの輸送費が高いことから、青森町の東端を流れる堤川の川上が選ばれた。しかもこの冬は「至極之極寒」であり厚い氷が期待された。輸送手段についてもすでに手配済みで、中川屋の2人の手代が滝屋を訪れた時点で準備はほぼ整っていた。
 ▽新ビジネスへの期待と挫折
 一方、滝屋はこれが毎年のことになることを念頭に、「横浜通商録」という専用の簿冊を新調するほどであった。津軽には米穀以外に取り立てて産物がないこと、そして幕末以来「青森衰微」が叫ばれ、特に1869(明治2)年は天保の飢饉(ききん)以来と言われるほどの凶作であった。したがって、新しいビジネスとして期待するのは当然のことであったろう。
 氷の切り出し作業は滝屋の別家通称「丸善」と、堤川に近い博労町で荒物販売を行っている森屋伝七に任された。また、利益が大きいことを聞きつけた博労町と蜆(しじみ)貝町の火消組のほか、凶作で苦しんでいた隣村浦町村の窮民たちも作業に加わった。こうして翌1870(明治3)年1月までに、縦横が約60センチで、厚さが15~30センチほどの氷3094枚(3500枚程度とも)を採氷し、あとは船の入港を待つばかりだった。
 ところが、船は入港することなく3月を迎えた。この間、青森町には横浜で戦争や大火があったとのうわさが流れたりもした。横浜からは一切の連絡もなくいたずらに時ばかりが過ぎ、もちろん気温も高くなり、ついには氷を捨てることになった。こうして、中川屋による青森町での採氷は失敗に終わった。さきの手代2人は、陸路で横浜に帰ることになり、滝屋は気の毒がっている。
 しかし、中川屋嘉兵衛の製氷事業は、その後函館で成功した。五稜郭の堀から氷を切り出し「函館氷」として販売したのである。中川屋は輸入氷を扱うバージエス商会との激しい価格競争にも勝利した。そして、1881(明治14)年の内国産業博覧会に函館氷を出品し1等賞を受賞した。その賞牌(しょうはい)には龍の紋章が記されていたことから、これ以降「龍紋氷」というブランドでも知られることになった。
 ▽青森製氷
 ところで、青森町での氷の需要拡大は、鉄道網の発達と関わっていたようだ。すなわち、青森の鮮魚を東京方面へ輸送することになり、その鮮度保持のために氷が必要となった。当初はやはり函館の龍紋氷を使用したようだが、大正期になると三内の笹森堤で採氷するようにもなったという。
 ただ、こうした天然氷は天候に左右され、また氷に含まれる不純物が鮮魚輸送にはマイナスとなった。そこで、「製氷事業」ががぜん注目されるようになり、1920(大正9)年に青森製氷会社が設立された。氷の需要はさらに冷蔵業へと展開し、昭和初頭の青森市の冷蔵業は全国有数の規模となっていた。ちなみに、青森製氷株式会社は、来年創業100年を迎える。
(青森市民図書館歴史資料室室長 工藤大輔)

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学校の二宮金次郎像=108

2019/2/25 月曜日

 

弘前公園の丑寅櫓近くの金次郎像(筆者撮影)
黒石市立上十川小学校の楠木正成像(筆者撮影)
旧小畑小学校(藤崎町)の金次郎像(筆者撮影)
旧蔵館小学校(大鰐町)の金次郎像(筆者撮影)
旧百沢小学校(弘前市)の座像と立像(筆者撮影)

 今年度から使用されている小学4年道徳教科書に「二宮金次郎の働き」(教育出版社)がある。かつて小学校には、校庭や校門の一角に御真影と呼ばれた天皇・皇后の写真や、教育勅語を奉護する奉安殿と並んで二宮金次郎像(以下、金次郎像)が建っていた。奉安殿が堅牢(けんろう)で近づきがたい威容を持っていたのに対し、金次郎像は子どもたちを引き付ける建造物だった。
 ▽金次郎像
 1787(天明7)年に相模国(神奈川県小田原市)に生まれた二宮金次郎は、14歳で父親を亡くし、一家の家計を支えながら勉学に励んだ。金次郎像の多くが、薪を背負って歩きながら書(『大学』)を読む立像(負薪読書像)である所以(ゆえん)だ。
 1890年代の金次郎は幼少期に勤勉・倹約・忍耐といった徳目を実践した人物として修身教科書に掲載された。1930年代に入り経済不況が進むと、勤労に励む金次郎像はもてはやされ、銅像や石像が学校に寄贈されるようになった。
 日中戦争の長期化に伴い、38(昭和13)年に国家総動員法が制定された。41(昭和16)年8月に金属回収令が発令されると、金次郎像も回収の対象となる。回収は「銅像の応召」と呼ばれ、あたかも金次郎像が戦場へ行くように喧伝(けんでん)されたが、実際は多くが工場へ運ばれて武器として使用された。
 同じくこの時期、学校に設置されていた楠木正成像も回収の対象となるが、戦後金次郎像が建つことはあっても、楠木像が建造されることはなかった。楠木像は現在、黒石市の東英小学校と上十川小学校に残されている。
 全国的に金次郎像の設置は27(昭和2)年ごろから始まり、33(昭和8)年に急増、35~36(昭和10~11)年がピークとなる。地域によっては戦後も48(昭和23)年ごろから設置され、50年代中頃にピークを迎える。
 ▽設置と徳目
 五所川原市やつがる市など西北管内の学校は未踏査であるが、県内で確認できる最古の金次郎像は、台座に「寄贈 大正年代 卒業生一同」と記される旧大川平小(今別町)である。尊徳八十年祭にあたる35(昭和10)年4月、弘前商工会は弘前公園内に金次郎像を設置。37(昭和12)年には柏木小(平川市)に設置された。
 金次郎像は「紀元二千六百年」に当たる40(昭和15)年に激増する。「皇紀二千六百年奉祝記念」の一環で設置されたのは千年小と東目屋小(弘前市)、旧小畑小(藤崎町)、金田小(平川市)、追子野木小と北陽小(黒石市)である。
 それ以降は減少に転じ、紀元2600年を契機とするブームは過ぎる。41(昭和16)年3月に新城中央小(青森市)、43(昭和18)年に旧広船小(平川市)、敗戦直後の45(昭和20)年8月に荒川小学校金浜分教室(青森市)へ設置された。
 その後、53(昭和28)年に長島小と原別小(青森市)、54(昭和29)年に小和森小(平川市)、56(昭和31)年に旧久栗坂小(青森市)、58(昭和33)年に横内小(青森市)、60(昭和35)年に浪岡南小(青森市)、63(昭和38)年に新城小、83(昭和58)年に青柳小(弘前市)、87(昭和62)年に岩木小(弘前市)、93(平成5)年に旧蔵館小(大鰐町)と続く。
 金次郎像は一定の高さをもつ台座に据えられて、来歴や寄贈者、寄贈年月日が記される。寄贈者の思い(徳目)は台座や台石の題字にうかがえる。長島小や浪岡南小など「至誠報徳」と刻む学校が多い。
 原別小と旧久栗坂小は「学問を以(もっ)て己を開き 勤労を以て徳を報ず」と詳しく記し、新城小は「勉学 勤倹 推譲」と簡潔に記している。千年小は「報徳」、東目屋小は「忠誠報徳」、旧広船小は「勤勉」と記載。横内小と東英小は「二宮尊徳先生幼時之像」と記している。そして大成小(旧第二大成小 弘前市)、西目屋小、筒井小と浜館小(青森市)は何も刻まれていない。
 ▽寄贈者と設置の契機
 金次郎像や台座の多くは個人の寄贈であり、村長、篤志家、資産家、学校長、保護者などである。また、卒業生有志、青年団、財産区、周年事業協賛会、報徳会、学校保護者会など団体の寄贈もある。
 寄贈した契機は40(昭和15)年の紀元2600年記念のほか、東目屋小「国民学校制定記念」、岩木小「二宮尊徳生誕二百年祭参列記念」、長島小・旧久栗坂小・小和森小「創立八十年記念」、旧広船小「小学校改築」などである。興味深い事例として、座像と立像の2体がある旧百沢小(弘前市岩木)や役場前に立つ金次郎像(今別町)がある。
 かつては多くの学校に置かれていた金次郎像。このほど、県内出身の五十嵐匠監督が映画「二宮金次郎」を完成させ、今後各地で公開予定という。県内に残る金次郎像を調査していると、新しく建立した学校もあるが、閉校し廃校となった学校に建つ金次郎像は、訪れる人もなく寂しくたたずみ、風化が進んでいる。
(三戸町立杉沢小中学校長・小泉 敦)

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