津軽の街と風景

 

風光明媚な脇元地区=75

2017/8/14 月曜日

 

不動山から見た脇元地区と靄山=2014(平成26)年・筆者撮影
山かけと参拝者=1983(昭和58)年9月7日・小山内文雄さん撮影・小山内豊彦さん提供
脇元小馬踊り=1983(昭和58)年9月7日・小山内文雄さん撮影・小山内豊彦さん提供

 ▽脇元と磯松
 五所川原市の最北端に位置する脇元地区は、津軽半島西海岸の北端部に位置し、日本海に面した脇元と磯松の2カ村からなる海浜集落である。1889(明治22)年の市制町村制の施行に伴い、脇元と磯松の2カ村が合併して脇元村となったので、昔から人々の結びつきが強い地域だった。
 靄山(もややま)や磯松川を境にして、北側に脇元、南側に磯松の集落が分かれている。海岸部を見渡せば、南に七里長浜の海岸砂丘が続き、北は脇元漁港から小泊に向かって岩礁地帯が続く。変化に富んだ風光明媚(ふうこうめいび)な海岸線を見ることができる。また、東部は津軽山地の標高500~600メートルの山々に囲まれたヒバなどの森林地帯が広がる自然環境の豊かな場所となっている。
 このように豊かな自然環境を持つ半面、かつての脇元地区は冬の荒れた日本海から吹き付ける強風や地吹雪を防ぐため、民家の周りに「カッチョ」と呼ばれるヒバの残材を利用した木柵を巡らすなど、冬場の厳しい生活環境がうかがえる海浜集落として有名だった。今ではこうした「カッチョ」の景観も少なくなった。
 脇元は漁業を中心に発展した集落だった。また、1687(貞享4)年の「検地水帳」には塩釜3基があったことが記されており、製塩業も行われていた。一方の磯松は脇元と違って、良好な船着き場に恵まれず、漁業はあまり発展しなかった。むしろ、同じ「検地水帳」には塩釜5基があったことが記されており、製塩業が盛んだったことが分かる。
 磯松の地名としての記録は、逆に脇元より古く、天文年間(1532~55)の「津軽郡(つがるぐん)中名字(ちゅうなあざ)」に「誘松(いさまつ)」として登場する。かつて海浜付近には松が並ぶほどの景観が見られたのだろう。現在、熊野宮のそばには地名の由来ともなったといわれる江戸時代前期にさかのぼる巨木「磯松の一本松」(市天然記念物)があり、地域のシンボルとして親しまれている。
 ▽ニシン漁
 脇元地区は江戸時代にニシン漁が盛んなところだった。現在ではほとんど獲(と)れなくなったニシンだが、かつて津軽西海岸を主として漁獲され、元禄年間(1688~1704)と幕末期に豊漁のピークがあったとされている。
 脇元浜では15人ほどが組んで、刺し網によるニシン漁が行われていた。しかし、明治から大正時代にかけて、脇元浜ではニシンが全く獲れなくなった。このため脇元の親方衆(網元)は、おのおの30人ほどの雇(やとい)を連れて、津軽海峡を渡って北海道へ新たな漁場開拓に従事する出稼ぎ鰊(にしん)漁を行うようになった。こうしてニシン漁は北海道の重要な産業に発展していったのである。
 ニシンの漁期は春彼岸の前後から5月末までで、6月末には漁を切り上げて戻ってきている。主な出稼ぎ先は、遠く北海道の積丹(しゃこたん)半島一帯、利尻(りしり)、礼文島(れぶんとう)に及んでいた。
 ニシン場の親方を多数輩出した脇元地区の親方衆の中で、斎藤彦三郎(ひこさぶろう)は特に有名な人物である。「ヤマカギ(屋)」と呼ばれ、1885(明治18)年にニシン漁法の革命といわれた角網(かくあみ)の開発に成功し、一代で巨額の財を成した。かつて靄山も斎藤彦三郎が所有していた。ニシン漁も昭和初期には衰退の一途をたどっていったため、伝統的にニシン漁に携わっていた漁民の中には、出稼ぎ先の漁場に定住するものが多くなっていた。当時の積丹町入舸(いりか)地区住民の8割が脇元地区出身者といわれるほどだった。
 ▽靄山とお山参詣
 ニシン漁で繁栄を極めた脇元地区の住民にとって、標高152メートルの靄山は故郷の原点であり、地域のシンボルである。また、神奈備形(かんなびがた=円錐(えんすい)形)をした美しい神聖な山とみなされている。
 靄山の「モヤ」は、アイヌ語起源の地名と考えられている。本来はアイヌ語の「モ・イワ」であり、その意味は「小さい・神の住むところ」とされる。古来より神聖な山とされてきた由縁である。十三湖を挟んで、岩木山と向かい合うようにたたずむ靄山には、山頂に岩木山神社が勧請(かんじょう)され、今も変わらず信仰の対象となっている。
 戦前までは岩木山の遥拝所(ようはいじょ)として存続してきた由緒を持っており、これまで絶えることなく脇元地区の住民によって毎年、「お山参詣」が行われてきた。地元では「山がけ(山かけ)」と呼ばれ、親しまれている。五穀豊穣(ほうじょう)と家内安全を願って、旧暦8月1日に行われる脇元岩木山神社大祭に際して、お山参詣が行われる。
 当日は「脇元小馬踊り」が村中を跳ね回った後、洗磯崎(あらいいそざき)神社を出発した多くの参拝者たちは、御幣(ごへい)や幟(のぼり)をたなびかせ、笛や太鼓、鉦(かね)の登山囃子(ばやし)に合わせて、豊作を願う「サイギ、サイギ、ドッコイサイギ」の唱文を唱えながら、靄山の山頂を目指す。
 このときばかりは沿道から大きな声援や拍手を浴びて、かつてニシン漁で繁栄を極めた頃の活気が戻ってきたかのように、たくさんの人々でにぎわう。山頂に至るまでの道程は、山頂に近づくほど急こう配が続くため、思ったよりも登頂するのは大変である。
 しかし、登り切った後に山頂から眺める景色は格別なものがある。脇元や磯松集落を間近に望み、その先に見えるのは延々と続く日本海や七里長浜の海岸砂丘、広大な十三湖の景色のほか、はるか遠くには岩木山を望むことができる。まさに絶景である。山頂に立てば、靄山はかつて岩木山の遥拝所だったことが実感できる。一見の価値があるので、こちらにお越しの際はぜひ登頂してみてはいかがだろうか。
(五所川原市教育委員会文化スポーツ課主幹 榊原滋高)

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郷愁誘う豊岡の集落=74

2017/7/31 月曜日

 

豊岡水郷集落模型=中泊町博物館所蔵
豊岡集落=昭和30年代・塚本忠志さん撮影
鳥谷川の藻刈り=昭和30年代・中泊町博物館所蔵
現在の鳥谷川=2011(平成23)年・筆者撮影

 ▽水郷の情景
 中泊町博物館の一角に、畳1枚半ほどの「豊岡集落模型」がある。幾艘(そう)もの川舟が浮かぶ鳥谷川を挟んで両岸に茅葺(かやぶき)の農家が連なり、村の入り口には鬱蒼(うっそう)とした鎮守の森がある。
 家の周りには畑、藁乳穂(わらにお)、茅乳穂(かやにお)、肥盛(こえもり)が点在し、防雪柵(かっちょ)の外側には水田が広がる。農作業にいそしむ老人、木陰で一服する夫婦、神社で手を合わせる娘、川の中で馬を洗う若者、風呂敷包を担いだ行商人、赤子を背負いながら遊ぶ女の子ら、昭和30年代の日常を切り取った模型の中では、往時の情景が繰り広げられている。
 ▽豊岡と鳥谷川
 鳥谷川は、藤枝溜池(五所川原市金木)付近に端を発し、流域の水田排水を集めつつ、津軽山地を西流する宮野沢川、中里川、尾別川などを合流して十三湖に注ぐ。鳥谷川の開削は、1675(延宝3)年とも1713(正徳3)年とも伝えられる。豊岡の開村はそれよりも早く、1655(明暦元)年、葛西甚平衛によって拓(ひら)かれたのが始まりとされ、元禄年間には他の17カ村とともに金木新田に所属した。
 金木新田をはじめとする新田村は、豊穣(ほうじょう)への願いを込めて「豊」「福」「富」などの吉兆句が村名に含まれることが多く、豊岡もその例に漏れない。その名の通り、豊岡は金木新田の中心集落として発展を遂げるが、低平な地形と集落を縦断する鳥谷川により、開村以来常に水害に悩まされてきた。
 津軽山地の水が鳥谷川に集中する結果、春の融雪湛水(たんすい)、夏から秋にかけての豪雨洪水、冬の十三湖水戸口閉塞(へいそく)による逆流冠水が生じ、「(上流に)雨三粒(みつぶ)降ればイガル(洪水になる)」と称されるほど年中洪水に襲われたのである。
 夜半、村の半鐘が打ち鳴らされるたびに、村民はスコップと俵を携え、総出で治水作業を行ってきた。水害と闘いながらも、鳥谷川を揺籃(ようらん)として育まれてきた豊岡の人々は、三百有余年にわたって川と共生する道を歩んできたのである。
 ▽水郷の四季
 豊岡に生まれ育った外﨑令子の著書『ふり返れば懐かし』(グラフ青森)に導かれながら、水郷集落の四季を綴(つづ)ってみたい。
 春、青空に浮かぶ岩木山の残雪が「馬(まっこ)」と「牛(べご)」の形になると田植え時期である。苗を積んだ荷車が土ぼこり舞う道を行き交い、水田のあぜ道は紫や黄色のアヤメが咲き乱れる。集落に隣接する「ヤゲシ(家岸)」の水田がしまうと、次は「萢田(やちた)」の田植えである。川舟に食料や夜具を積み、岩木川河口に向かう。川の水で米をとぎ、洗濯をし、夜はランプを灯(とも)し、吹き荒(すさ)ぶ風音を枕に寝付く。粗末な出作り小屋に寝泊まりしながらの田植え作業は1週間に及ぶ。
 夏、子供たちは、鳥谷川に架かる橋から飛び込み、アヒルや川藻と戯れながら、エビ、ナマズ、コイ、フナ、ウグイ、カジカなどをすくい捕る。村の男たちが、川舟を横に流しながら、長柄の鎌で川藻の刈取作業(ゴモフキ)を行う傍ら、川岸ではイトトンボやヤマダンブリが飛び交う。宵闇の川面にホタルが瞬き、カエルの斉唱が始まるころ、村にはのり付けした着物を柔らかくするジョウバ打ちのつち音が響くお盆にはキュウリやナスで作った馬や牛を、ハスの葉の盆棚に供え、16日早朝鳥谷川に流す。線香の匂いが漂うなか、川面にゆらゆらと幾つもの盆棚が流れ行く。
 冷涼の気がみなぎる秋の早朝、朝もやが立ち込める鳥谷川に、川舟が並ぶ。刈り取った稲は、川舟で運ぶのである。船尾にさおを立てて縄を絡げ、稲島を満載した舟を川岸から曳航(えいこう)する。上方に屈曲した橋を幾つか潜り、船着き場に到着すると、歩み板を渡し舟から稲島を降ろし、作業場に運び込む秋の夜足踏み脱穀機の回転音は深更まで途切れることがない。
 冬が訪れると、豊岡の景観は一変する。北西から吹き付ける雪は、防雪柵を通り越し、家と家の間に電線を跨げるほどの高さの「ナガレ(吹き溜まり)」を作る。強風が吹き荒れる冬は、停電も頻発した。雪に閉ざされた暗闇にろうそくが灯され、囲炉裏(しぼど)周りでは昔話や謎々(なんじょ)が交わされる。吹雪がやむと、戸口の雪をかき出し、窓の着雪を払う。鈴を鳴らしながら馬そりが行き交い、大通りでは雪上にサメやタラが並ぶ。買った人は尾ひれに絡げた荒縄で、雪道を引き摺りながら帰途に就く。排雪に覆われた鳥谷川の水面(みなも)を見るのは、来春まで待たねばならない…。
 ▽現在の鳥谷川
 多くの水害をもたらした鳥谷川は、近現代以降の水戸口突堤工事や岩木川改修工事、十三湖干拓建設工事などを経て、周到な治水対策が施された。一方で、各種工事による流量や水位の低下、自動車の普及と発達に起因する水運自体の衰退により、川舟は急速に姿を消していった。
 地域社会や自然も含めて、川を取り巻く環境も激変した。近年の河川切り替えや環境整備工事によって、川幅と道幅は逆転し、川岸まで水をたたえた悠久の流れは、近代的な排水堰(ぜき)へと変貌した。むろん豊岡の物語は今後も続くが、川が主役を演じた一幕目は、終演の時刻を迎えつつあるといってよいだろう。
 「豊岡集落模型」は中泊町博物館で常設展示中である。現在、博物館では夏の企画展「アフリカへのまなざしVol.2―布が奏でる大地の物語―」を開催している(9月24日まで)。企画展をご覧になりながら、かつて青森県の農村地帯に見られた風景を思い出してもらえれば幸いである。
(中泊町博物館館長補佐 斎藤 淳)

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夏告げるヨミヤの舞=73

2017/7/17 月曜日

 

乳井神社例大祭。「磯良」を見る人々。2013(平成25)年8月3日・筆者撮影英夫さん(ヘアメイクELLE)提供
300年記念公演にて「天王」弓を射る。2014(平成26)年10月12日・筆者撮影
堰神社にて「榊葉」。天地四方を祓い清める。2013(平成25)年10月11日・筆者撮影
岩木山神社崇敬会大祭にて「千歳」。同社では10年に一度の演目。2017(平成29)年7月1日・筆者撮影

 ▽ヨミヤ
 6月から8月の夕方になると、津軽地方で「ド~ン、ド~ン」と大きな花火の音を耳にすることが多い。この音花火(号砲花火)は、神社のヨミヤを知らせる合図で、弘前市のように神社が多い地域では、この音を聞いて「今日はどこのヨミヤだろうか?」と話題にする人も少なくないだろう。
 津軽地方では、神社の例大祭の前夜祭を「ヨミヤ」と呼ぶ。漢字では「宵宮」や「夜宮」の文字が当てられることが多い。夕方から21時頃まで、神社参道にヨーヨー・たこ焼き・金魚すくい・焼そば・空揚げ・飴せんべいなどの露店が出店する。
 筆者の住む青森市の大星神社の例では、参道の片側に約20店舗ずつ、合計40店舗ほどが毎年出店している。津軽の夏の到来を告げる風物詩であり、人々の楽しみでもある。神社では、18時頃から神職や氏子の代表などによるヨミヤの神事が行われる。
 ▽神職と舞
 民俗学者の萩原竜夫(はぎわらたつお)は、終戦直後に津軽地方で調査を行っている。その際、津軽の人々は、神主さんといえば6~7人が集まって「舞」を行うときの神々しさこそ、存在意義と考えているようで、ずいぶん古風な感覚を保ってくれたと指摘している。そして、こうした神職観が、全国的に見渡しても決してありふれたものではなく、津軽の地方的文化史の有する一つの性格を示すものだと指摘している(「神事芸能」『津軽の民俗』)。
 人々が神職に対して神々しさを感じた「舞」とは、ヨミヤや大祭の際に神職が行う津軽神楽のことである(神社によっては、翌日の大祭に奉納される場合もある)。この神楽は、津軽地方の神職のみで伝承されてきたという特徴を持ち、本県の芸能史を考える上で貴重なものとして、県の「無形民俗文化財」および国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選定されている。
 演目は、当初は20番があったと記録されているが今日は神入舞(かみいりまい)、宝剣(ほうけん)、磯良(いそら)、千歳(せんざい)、榊葉(さかきば)、弓立(ゆだて)、天王(てんのう)、朝倉(あさくら)、湯均舞(ゆならしまい)、御獅子(おしし)、四家舞(しかのまい)の11番が伝えられ、神事の中では、このうち数番が行われる。津軽地方の各地区においてそれぞれ伝承されており、古くは地域間交流が頻繁で、芸態も一様であったというが、明治以降は交流が途絶えがちとなり、現在では、多少の地域差を生じている。例えば、神入舞は本来2人で舞うものであるが、青東地域では、1人舞になっているといった具合である。
 津軽地方の神社を訪れると、拝殿の天井に矢が刺さっているのを目にすることがあるが、これは天王の舞で射られた矢が刺さったもので、うまく刺さると豊作ないし大漁であるといわれる。西海岸の漁民は大漁の印として、その矢を持ち帰ることがあるという。
 ▽津軽神楽
 津軽神楽の歴史と特徴についてご紹介したい。弘前藩4代藩主の津軽信政は、吉川神道を学び、死後高照霊社(現高照神社)に神として祀(まつ)られた。藤﨑町の堰神宮の神官堰八豊後守安隆は、それまで津軽にあったのは「本式の神楽ではない」ということで、神道の考えにのっとった本式の神楽をつくって信政の御前(ごぜん)に奉納したいと考え、1712(正徳2)年に江戸や京都へ上って神楽を研究。2年後に戻って弘前東照宮の山辺丹後の協力を得て神楽を完成させ、同年高照霊社に奉納するに至った。
 これ以降、津軽地方の神社で行われる神楽は、津軽神楽に統一されるようになったといわれる。まさに「神楽改革」ともいうべき大きな転換点を迎えたのである。この神楽の特徴は、所作の中に御幣や榊の大枝を左右に振るしぐさがみられるなど「祓(はら)い」の要素が非常に強く、娯楽性は乏しいが厳粛な舞である。
 余談だが、津軽神楽成立から300年後の2014(平成26)年、弘前市で記念公演が行われた。その前年には、創始に深く関わった堰八豊後守安隆にゆかりのある藤﨑町堰神社に舞が奉納されている。
 ▽誇るべきもの
 津軽神楽成立以前の「本式ではない神楽」とは、どのようなものだったのだろうか。それを明確にうかがわせる資料はないのだが、江戸時代の津軽神楽の演目「狂楽舞(きょうらくまい)」にその手がかりがありそうである。
 狂楽舞には、平維茂、牛若丸、弁慶といった演目があり、その内容は娯楽性に富み、観衆を楽しませるような狂言的な舞だったという。この演目は、厳粛な津軽神楽の中にあって趣を異にしていることから、津軽神楽成立以前から行われていた神楽を取り込むような形で、津軽神楽を構成する一部分になっていったと推測される。
 しかしながら、この狂楽舞は明治初年には「辛うじて数番残す」状態となり、その後途絶えたようである。ちなみに狂楽舞のような娯楽性の高い舞は北東北に広く分布し、県内では下北地方の能舞や南部地方の神楽が、その伝統を継承している。いわゆる「山伏神楽(修験道系神楽)」と呼ばれるものである。
 明治以後、日本全体で神道を取り巻く環境が大きく変化していく中で、現代まで津軽神楽が途絶えることなく伝えられてきたのは、取りも直さず神職が自分の職分としてこの神楽に誇りを持って取り組み、民衆の側もそれを尊重してきたからだろう。お近くで津軽神楽が行われていたら、その歴史に誇りを持ってご覧いただきたい。
(青森県史編さん執筆協力員・石戸谷勉)

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蟹田川に貴重な遺跡=72

2017/7/3 月曜日

 

大平山元1遺跡=2013(平成25)年・外ケ浜町教育委員会提供
出土遺物(外ケ浜町教育委員会提供)
出土土器片(外ケ浜町教育委員会提供)

 ▽旧石器時代の外ケ浜
 外ケ浜町の蟹田川のそばに廃校になった小学校を利用した「大山ふるさと資料館」がある。ここに大平山元1遺跡から出土した土器がひっそりと展示されている。
 地球は数万年単位で寒暖を繰り返しており、今から約1万2千年前までが氷期に当たり、寒冷な時代だった。その後急激に温暖化し、後氷期である現在のような気候に変化する。氷期の本県は寒冷で乾燥した気候だった。
 蟹田川には約2万年前の旧石器時代の大平山元2・3遺跡もあり、蟹田川で取れる頁岩(けつがん)を利用した石器が出土している。
 ▽土器の出現
 大平山元1遺跡は、局部磨製石斧(せきふ)が畑で拾われたことをきっかけに、1976(昭和51)年に県立郷土館により発掘調査が行われた。その結果、旧石器時代に特徴的な石器とともに、無文の土器と石鏃(せきぞく)が出土した。旧石器時代と縄文時代の区別の要素として、土器の出現がある。そのため、大平山元1遺跡は縄文時代草創期に位置づけられている。
 さらに98(平成10)年の発掘調査で、出土した土器に付着していた炭化物を放射性炭素で年代測定した結果、約1万5千年前の土器であることが判明した。これは国内でも最古のものとされている。
 それまで土器は、ヒトが一定の場所に長く住む「定住」とともに出現するもので、日本では気候が温暖化した後氷期以降であるとされてきた。後氷期以降の日本列島には、ドングリやクリなどの堅果類が含まれる落葉広葉樹林が拡大し、ドングリなどを利用するために土器が使われたと考えられてきたからだ。しかし、大平山元1遺跡の土器は年代から氷期に出現したことになり、現在も考古学者の間で議論が続いている。
 ▽土器出現の環境
 約1万5千年前には、十和田火山がカルデラ噴火するなど、大きな災害が起きている。十和田八戸テフラと呼ばれ、火砕流は北では青森市、南は秋田県の大館市、東は八戸市に及び、火砕流で埋まった埋没林が残されている。
 現代に同じ噴火が起これば、甚大な被害が予想されよう。また火山灰も広く降下し、野辺地町の長者久保遺跡では火山灰の下から、大平山元1遺跡と同じ組み合わせの石器が出土している。
 大平山元1遺跡で火山灰は検出されなかったが、噴火した頃にヒトが生活していたと考えられている。火山噴火は、数年にわたって周辺の植生や動物などの成育に大きな影響を与えている。さらに最近、北海道の内浦湾の海底コアの分析から、1万5千年頃は最も寒かったという結果も明らかになっている。
 ▽新しい一歩
 西アジアでは、土器は肥沃(ひよく)な土地で始められた農耕の開始と共に出現するが、大平山元1遺跡の人々は、火山災害と寒冷化という過酷ともいえる環境下で土器を作り始めた。これは土器作りの始まりの一歩である。
 限られた素材の道具しか持たない人々が、どのように災害を乗り越えたのかは分からない。しかし、その後の本県では三内丸山遺跡や亀ケ岡遺跡などに代表される縄文文化が花開く。
 三内丸山、亀ケ岡の両遺跡は全国に名前を知られている。しかし、青森県には他にも注目すべき遺跡がたくさんある。今回紹介した大平山元1遺跡も、その一つに数えられよう。外ケ浜町の「大山ふるさと資料館」を訪ね、石など限られた道具で災害を乗り越えただけではなく、土器を作る生活を始めた人々に思いをはせてほしい。
(県民生活文化課県史編さんグループ 主幹 伊藤由美子)

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第8師団シベリアへ=71

2017/6/19 月曜日

 

撤退に向けてウラジオストク市内を進む第8師団の将兵たち=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料
日本軍撤退に伴い引き揚げる在留邦人=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料
弘前市代官町の凱旋門を通過する第8師団の将兵たち=1922(大正11)年10月・青森県史編さん資料

 ▽ロシア革命
 第一次世界大戦の際、ロシア帝国は連合国側に立って参戦した。皇帝ニコライ2世の専制支配と戦争の継続に反対する人々が蜂起し、1917(大正6)年、二月革命(グレゴリオ暦では「三月革命」)が起こった。皇帝が退位してロマノフ王朝は崩壊、社会民主党のケレンスキー内閣が成立した。
 首都ペトログラード(現サンクト・ペテルブルク)の三井物産支店に勤務していた広瀬純一(弘前出身)は二月革命後に一時帰国し「革命後は金持ちも庶民も食料欠乏に悩んでおり、ケレンスキーは人気がない」とドイツの攻勢で混乱するロシアの惨状を伝えた。
 はたしてケレンスキー政権は、十月革命(「十一月革命」)でレーニンの率いるボルシェビキ(社会民主労働党多数派)に打倒され、ロシアには労働者、農民、兵士に支持された世界初の社会主義国家が成立した。レーニンはドイツと単独講和を結び、第一次大戦は終結に向かった。
 ▽シベリア出兵
 フランスやイギリスなどの連合国は革命が自国に波及するのを恐れ、ロシア革命に干渉した。ロシアでは、ボルシェビキの率いる赤軍(労働者農民赤軍)と革命に反対する白軍の間で激しい内戦が展開した。
 1918(大正7)年1月、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣はウラジオストクの日本人保護を名目に軍艦2隻を派遣し、軍事的干渉に乗り出した。寺内内閣はロシア帝国の脅威の消えた北満州、沿海州にまで勢力圏を拡大しようとする膨張策を取り、7月、チェコスロバキア軍の救援を名目にアメリカが共同出兵を提唱すると、8月に米英仏との共同出兵の名の下にシベリア、北満州への派兵を決定した。
 この結果、3個師団(小倉第12、旭川第7、名古屋第3)からなる浦塩(うらじお)派遣軍が編制され、出兵国では最大の7万3400の兵力が派遣された。日本軍はウラジオストクを占領して沿海州を制圧し、9月には第3師団の進攻でバイカル湖以東の広大な地域が日本軍の勢力下に入った(※シベリア出兵関係地図を参照)。
 民衆の支持を得た赤軍は白軍を圧倒していったが、ボリシェビキ政権は日本軍との直接対戦を避けるため、バイカル湖東岸から沿海州に至るシベリア鉄道沿いの領域には赤軍を進撃させず、20(大正9)年2月7日に「極東共和国」という緩衝国家を成立させた。しかし、極東共和国の下で赤軍は攻勢を強めたため、次第に日本軍は勢力範囲を縮小し、ついには沿海州南部のウラジオストク周辺と北樺太を残すのみとなった。
 ▽第8師団の出動
 出兵の長期化で派遣師団は何度も交代した。弘前第8師団は1922(大正11)年5月に交代のため派遣された。第8師団はウラジオストク周辺の守備を継承したが、「極東共和国」と赤軍の勢力が迫っており、日本軍を見るロシア人たちの視線は厳しさを増していた。相次いで撤兵した共同出兵国も、沿海州に居座る日本に対し疑いの目を向けた。
 22年6月2日に成立した加藤友三郎内閣は、シベリア撤兵を10月までに完了する方針と、極東共和国との撤退交渉に応ずることを決定した。この結果、第8師団は最後のシベリア派遣師団となった。
 ▽浦塩派遣軍の撤退
 撤退を決めた政府は8月、浦塩派遣軍に撤退命令を出した。担当するのは唯一の派遣師団である第8師団だ。いわゆる殿(しんがり)部隊である。古来、敵軍が迫る中、犠牲も出さずに軍隊を撤収するのは名だたる武将でも至難の業といわれる。在留日本人の生命と財産保護も重要な任務となった。
 ウラジオストクを極東共和国に引き渡すのに際し、派遣軍は戦闘を避けるため共和国軍の市街地への進入を25日午後4時とした。協定履行を監視するために、海軍は軍艦春日をアムールスキー湾に出動させて監視した。緊張の中派遣軍司令部第8師団の将兵が続々と12隻の船に乗船した。
 同日午前5時、秋田歩兵第17連隊を最後にすべての守備を撤し、午後0時30分に乗船を完了、正午すぎから船団は20分間隔で出港、午後2時40分をもって全部ウラジオストクの埠(ふ)頭(とう)を離れ、無血撤退を完了した。港では待ちかねたロシア人たちが歓声を上げていた。3時30分、歓呼の声とともに赤軍の先遣隊騎兵30騎が市内に入った。殿部隊の重責を果たした第8師団は青森港に入港、盛大な歓迎を受けた。
 シベリア出兵は近代日本が経験した初めての敗戦である。4年間の戦費は約10億円、戦死は約3500人だった。その中で第8師団の戦死者は師団主力到着以前に歩兵第52連隊の1人だけで、戦病死を除くと1人も戦死者を出さずに済んだ。
 ▽社会主義思想と文化の流入
 日本とソビエトは25(大正14)年1月に日ソ基本条約を結んで国交を樹立した。政府は社会主義の国内浸透を恐れて3月、治安維持法を制定した。5月には北樺太からも撤兵した。しかし社会主義思想は日本でも広がりを見せていた。22年、大沢久明らは弘前に北部無産社を設立、その2年後に秋田雨雀がエスペラント(世界共通語)普及を目指して黒石エスペラント会を結成した。これらの運動は人々に社会主義とその理想を広めることを目指していた。
(青森県史編さん専門委員 荒井悦郎)

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