津軽の街と風景

 

本県の誇り 戦艦陸奥=105

2019/1/14 月曜日

 

写真1 戦艦「陸奥」絵はがき。竣工当初の姿。竣工時の基準排水量3万3750トン、最大速力2528㌩。。青森寄港中の記念スタンプがある(大正期・青森県史編さん資料)
写真2~4 1922(大正9)年9月19日の戦艦「陸奥」青森港入港記念の絵はがき2枚と袋スタンプは同じだが、写真1とは別のシリーズ(大正期・青森県史編さん資料)
写真5・6 1925(大正14)年9月の「帝国艦隊青森入港記念絵はがき」より、戦艦「長門」と袋。長門・陸奥は前年に屈曲煙突に改装された。既製の絵はがきを特製の袋に収めた。県史所蔵分には長門・伊勢など6枚があるが「陸奥」はない。元の所有者が手元に残したか、はがきとして実際に使用したのだろう(大正期・青森県史編さん資料)

 ▽戦艦「陸奥」の誕生
 1905(明治38)年、旧日本海軍は戦艦の名称に旧国名を付けることを定めた。「陸奥」は20(大正9)年に予算が通過した八八(はちはち)艦隊の2番艦に付けられた。八八艦隊とは、アメリカを仮想敵として、艦齢8年未満の新しい戦艦8隻と巡洋戦艦(装甲巡洋艦)8隻を中核戦力とする艦隊のことだ。
 八八艦隊で最初に計画されたのが、長門(ながと)型戦艦(長門・陸奥)で、1番艦の長門は呉(くれ)海軍工廠(こうしょう)、陸奥は横須賀(よこすか)海軍工廠で建造された。世界で初めて口径41センチの主砲8門を備えた新鋭艦だ。
 ▽軍縮で廃艦の危機
 第1次大戦後、大国は軍事予算の巨大化に直面していた。中でも日本は1921(大正10)年度の国家予算の48%(海軍32%、陸軍16%)を軍事費が占めるまでになり、軍縮は不可避だった。
 21(大正10)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約には「未完成艦は廃艦とする」との条件があり、イギリス、アメリカは建造中の陸奥の廃棄を主張した。日本側は完成艦であるとして存続を主張したが、実際は未完成だった。
 最終的に陸奥の保有は認められたが、その見返りとして日本はアメリカの戦艦3隻(1隻は廃棄)の建造変更と建造続行を、イギリスには戦艦2隻の新造を認めることになり、かえって米英に有利な内容となった。
 21(大正10)年10月に就役した陸奥は長門と交互に連合艦隊旗艦の任に当たった。41センチ級の主砲を搭載する7隻の戦艦(長門、陸奥、アメリカの戦艦3隻、イギリスの戦艦2隻)を「世界の七大戦艦」と呼ぶこともあった。
 ▽陸奥の「お国入り」
 1922(大正11)年9月19日、陸奥は第一艦隊の旗艦として初めて青森港に入港した。艦ではこれを「艦のお国入り」と呼んだ。陸奥の名を冠した日本一の戦艦を一目見ようという人々が青森港に押し寄せた。
 陸奥は接岸できなかったので、参観者は艀(はしけ)に乗せられて乗艦、参観した。19日だけでも8376人(うち学生、および団体5133人)に達し、それを1330余人の乗組員が歓迎した。弘前からは弘前中学校など中等学校の生徒が臨時列車で青森に向かった。気の毒なことに、乗組員は青森市内に伝染病が流行中とのことで上陸は許されなかった。
 ▽陸奥神社の創建
 2度目の陸奥の青森入港は1925(大正14)年9月2日だった。今度も大歓迎を受けた。参観客輸送のために東北本線は増結、奥羽本線は青森―弘前間に臨時列車を運転した。
 青森入港中の9日、岩木山神社の石田武雄宮司が碇泊(ていはく)中の陸奥に出張して艦内神社(陸奥神社)への分霊が行われた。翌日にはお礼参りとして、陸奥艦長・米内光政(よないみつまさ)海軍大佐(のちの海軍大臣)と副長以下が岩木山神社を訪れた。
 艦内神社は1920(大正9)年に戦艦伊勢(いせ)に設けられたのが最初といわれる。海軍が制度として規定したものではなく、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈るために艦員の自主的な発意で設けられた。後に内務省神社局が艦内神社(正式には奉齋(ほうさい)所)の中央には伊勢神宮の皇大神宮別大麻(べつたいま)(お札)、向かって右に艦名に由来する氏神神社(陸奥では岩木山神社)、左にその他の神社のお礼を納めるように定めた。海軍省は関与しなかった。
 陸奥神社にも26(昭和元)年12月27日に神宮別大麻が納められたが、艦員は岩木山神社の方に親しみを感じていたようだ。例祭が行われ、朝夕の礼拝が日課だった。
 ▽謎の爆沈
 徴兵制の陸軍兵は原則として郷土部隊に徴集されるが、志願制の海軍兵の出身地はさまざまである。艦員たちは、出身地にかかわらず艦名にちなむ港への「お国入り」を心待ちにしていた。陸奥には大勢の人たちが見学にやって来た。艦側でも「故郷」の人たちを迎えるため、特別の企画も練った。岩木山神社には総員が数班に分かれて、参拝隊を編成して参拝。氏子が氏神様にお詣りする雰囲気と同様だったという。
 陸奥の「お国入り」は40(昭和15)年が最後となった。翌年にはアジア・太平洋戦争が始まり、実戦配備となって「お国入り」どころではなくなったのだ。
 43(昭和18)年6月8日、陸奥は山口県の柱島錨地(はしらじまびょうち)で爆発事故を起こし沈没した。爆発は主砲の砲塔火薬庫で起きた。原因は今もって不明のままである。乗組員は1471人。艦長三好輝彦(みよしてるひこ)大佐以下1121人が死亡、生存者は350人にすぎなかった。
 陸奥の沈没は海軍を驚愕(きょうがく)させた。既に世界最大の戦艦大和型(大和・武蔵)が就役していたが、その存在は秘匿(ひとく)されていた。国民には長門・陸奥が日本を代表する戦艦だと喧伝(けんでん)していたから、陸奥の喪失は絶対に知られてはならなかった。陸奥の生存者はトラック島を経てサイパン、タラワ、マキンなどの激戦地へと送られた。生き残ると別の激戦地が待っていた。戦後作られた戦友会(陸奥生存者の会)の会員は87人だという。
 ▽「お国艦」としての陸奥
 「艦のお国入り」の中でも、陸奥のお国入りは格別のものだったようだ。明治以降の陸奥国はほぼ青森県域で、日本最大最強の戦艦陸奥は県全体の誇りとなった。
 山口県は長門国・周防(すおう)国からなり、お国艦は長門だけではない。ただし戦艦周防は日露戦争で鹵獲(ろかく)したロシア戦艦ポベータを改称したもので、長門と入れ替わるようにワシントン条約で廃棄された。以後周防を名乗る艦は建造されなかった。
 長門型の後継は世界最大の戦艦・大和型(大和・武蔵)であり、大和国つまり奈良県には海がなく「お国入り」はできないし、武蔵国は東京府(都)・埼玉県・神奈川県(一部)に分割され、お国意識は希薄だ。そもそも大和・武蔵は40(昭和15)年の就役から敗戦まで国民には存在すら知らされていなかった。だから陸奥は艦員と県民の関係が最も緊密な特別なお国艦といってもよいだろう。
(元青森県史編さん専門委員・荒井悦郎)

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魯仙に描かれた暗門滝=104

2018/12/31 月曜日

 

写真1 暗門滝「三ノ滝」(島口天氏撮影)
写真2 田代地区の架橋(筆者撮影)
写真3 田代の渡し場(山形岳泉筆暗門山水観より・県立郷土館提供)(右)、写真4 文政三年「乳滝之図」(国文学研究資料館蔵津軽家文書)
写真5 移動前の乳井貢顕彰碑(小石川透氏撮影)
写真6 鬼川辺の貯木場(山形岳泉筆『暗門山水観』より・県立郷土館蔵)(右)、写真7 一ノ滝の首頭(山形岳泉筆『暗門山水観』より・県立郷土館蔵)

 ▽明治天皇巡幸と暗門滝
 明治天皇は巡幸と呼ばれる地方視察を97回行った。東北地方には1876(明治9)年6月2日~7月12日と、81(明治14)年7月30日~10月11日の2度訪れている。
 巡幸ルートについては地元町村から誘致の嘆願がなされたが、最初の本県巡幸は南部地方が中心となった。それゆえ2度目の際は「次はぜひ、津軽へも」との思いから、大道寺繁禎(しげよし)や笹森儀助ら識者が動いた。
 その記録「明治天皇行幸関係文書」(弘前市立弘前図書館蔵)によれば、行在所(あんざいしょ)(天皇の宿)や休憩所の関係者、茶菓を献上した者、書画類を準備した者にはそれぞれ報奨金が出た。弘前の絵師三上仙年は「安門瀑布図」を上呈し、金七円を得た。
 仙年の師で幕末維新期の津軽画壇をリードした平尾魯仙(ひらおろせん)も、76(明治9)年の巡幸の際、暗門滝の図を天覧に供したという(中村良之進『平尾魯仙翁』)。近年、天覧の事実はなかったのではないかとの見方が出ているが、魯仙が62(文久2)年6月に暗門滝を訪れたのは確かで、この時の同道者が仙年だった。
 暗門滝は下流から三ノ滝(26メートル)、二ノ滝(37メートル)、一ノ滝(42メートル)が連なっている。現在は弘前市内から国道28号で西目屋村に入り、岩木川沿いにさかのぼって、暗門滝近くのアクアグリーンビレッジANMONまで車で行ける。6~10月の限定運行ながら、直通バスも出ている。
 ここから三ノ滝(写真1)と二ノ滝へは比較的行きやすいが、一ノ滝までとなるとヘルメットやトレッキングシューズなど、登山並みの準備が必要になる(通行止めの場合あり)。ガイドの手配も不可欠で、今でもなかなかの難所なのだ。
 ▽川で結ばれた西目屋と弘前城下
 西目屋村の田代地区を流れる岩木川には現在、橋が架かっているが(写真2)、かつては両岸に綱を張り、船頭がこの綱をつかんで小舟を渡すやり方を採っていた(写真3)。明治十年代初頭に当地を歩いた蓑()虫()山人(みのむしさんじん)の「岩木川図巻」(個人蔵)に、岩木川のあちこちで架橋工事が行われている様(さま)が描かれているが、田代の渡し場は依然として綱が張られただけの状態である。利便性が良くなるのはもう少し後のことだった。
 ここから上流に500メートルほど行った名坪平には乳穂(にほ)ケ滝がある。冬の結氷が見事で氷柱ができる。江戸時代は旧暦正月に弘前藩の使者がここを訪れ、氷の様子を描いて藩主に報告した(写真4)。その形状で豊凶を占ったのである。1年を通じて多くの参詣者があり、菅江真澄も1796(寛政8)年11月4日にここを訪れている(真澄「ゆきのもろたき」)。
 岩木川のダム再開発事業で完成した津軽ダムは、現在「津軽白神湖」を形成している。これにより、川原平地区の一部が水没することになったが、ここにはかつて、弘前藩の宝暦改革を主導した乳井貢(にゅういみつぎ)(建福(のりとみ))が罪を得て配流となっていた。藩財政の借金体質を憂い、農政の見直しと商業資本の抑制を図った乳井だが、すべての商取引を金銭ではなく「標符(ひょうふ)」という通帳で行わせる流通統制が大胆すぎて嫌われた。
 川原平に移ってからは農民の生活指導に尽くし、慕われたという。1935(昭和10)年、地元民によって「乳井貢顕彰碑」が建てられたが(写真5)、一帯の水没に伴い「津軽白神湖」の脇に移された。
 西目屋村近辺から伐(き)り出される木材は、燃料として人々の生活を支えていた。暗門川を下った流し木(=薪(まき))が川面を覆い、時には人が歩いて渡れるほどの量になる。砂子瀬地区の鬼川辺には薪の集積場があり(写真6)、ここからさらに岩木川本流を川下げされて、弘前城下の樋ノ口土場に集められた。
 ▽暗門滝に魅了された魯仙
 魯仙は暗門滝を見た感動を画帳3冊と解説書1冊にまとめた。1998(平成10)年、この画冊が『安門瀑布紀行』の書名で宮内庁書陵部の所蔵になっていることが、青森県史の調査で確認された。1895(明治28)年、魯仙の遺族が近衛家を通じて皇室に献上したものである。2013(平成25)年の県立郷土館開館40周年記念特別展『平尾魯仙』に出品され、118年ぶりの里帰りとなった。
 『安門瀑布紀行』は魯仙が精魂込めて描き上げたと見え、さすがに色使いがさえている。画帳3冊には52の場面が描かれ、場所の状況を示す簡単なキャプションが付けられている。
 実は魯仙の弟子の山形岳泉がこの画帳を写していて、そちらは『暗門山水観』の書名で県立郷土館が所蔵している。解説書が付いていないので、魯仙の観察眼の確かさや、暗門滝への旅の苦労が十分に伝わらない嫌いはあるが、まずは忠実な写しで、原本の雰囲気を見事に捉えている(写真7)。
(県立青森商業高等学校教諭 本田伸)

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ダムで水没 西目屋遺跡=103

2018/12/17 月曜日

 

西目屋縄文遺跡群の全景(岩木川ダム統合管理事務所提供)
砂子瀬遺跡の環状掘立柱建物跡(青森県埋蔵文化財調査センター提供)
川原平(1)遺跡の大型遮光器土偶(青森県埋蔵文化財調査センター蔵・小川忠博氏撮影)
水上(2)遺跡のヒスイ大珠出土状況(青森県埋蔵文化財調査センター提供)

 ▽18の遺跡
 西目屋村は今年、登録から25年の節目を迎えた世界自然遺産白神山地の玄関口の一つである。当地には一昨年の秋、津軽ダムが完成し、ダムによってできた津軽白神湖を遊覧する水陸両用バスは大変な人気である。
 一方、その水底に発掘調査を終えた18の遺跡が眠っていることを知っている方は少ないのではなかろうか。遺跡の多くは縄文時代であるため、西目屋縄文遺跡群とも呼んでいる。これまで白神山地は自然の宝庫として注目を集めてきたが、ここではその山懐に暮らした縄文人と山の関わりについて紹介しよう。
 西目屋縄文遺跡群の発掘調査は、津軽ダムの前身である目屋ダムに水没した砂子瀬村元(すなこせむらもと)遺跡(1959年に当時弘前大学の村越潔氏が試掘調査)を別にすれば、2003年から15年にかけて県埋蔵文化財調査センターが行い、段ボール箱で1万5000箱を超える土器や石器が出土した。県内遺跡における遺物の出土量としては、青森市三内丸山遺跡の4万箱に次ぐものである。
 注目されるのは遺跡の規模だけではなく、その継続性にある。ダム水没範囲という限られた区域の中に、草創期の隆起線文土器が出土した鬼川辺(おにかわべ)(1)遺跡から、晩期終末の大洞式土器が出土した川原平(4)遺跡まで、1万年以上にわたる人々の生活の痕跡が確認された。
 ▽集落を確認
 草創期から前期後葉にかけては遺構がほとんど確認できず、居住する集団規模は小さかったようだが、それ以降は遺跡群に中心的な集落が認められる。前期末(約5000年前)~後期前葉(約4000年前)の水上(みずがみ)(2)遺跡、後期前葉~同後葉(約3200年前)の砂子瀬遺跡、後期後葉~晩期後葉(約2500年前)の川原平(1)遺跡で、同一の集団が場所を移しながら生活を営んでいたとみられる。
 水上(2)遺跡では竪穴住居跡301棟や土器埋設遺構177基をはじめ、大規模な捨て場が調査された。中期末以降には石棺墓とよばれる石組みの墓が作られ、県内最多の25基が発見された。総量4トンを超える珪質頁岩(けいしつけつがん)の剥片(はくへん)も出土し、付近で採集できる素材を利用した剥片石器製作が活発に行われていたことが分かる。
 砂子瀬遺跡では6本の柱を六角形(亀甲形)に組んだ掘立柱建物跡が、外径60メートルの環状に配置された集落跡が姿を現した。漁労用の網に用いた石錘が多量に出土し、魚も重要な食料だった。この地はサケの産卵場所より上流だが、『砂子瀬物語』には遡上(そじょう)するマスを網で捕った話がみえ、縄文人も同じだったかもしれない。
 川原平(1)遺跡の発掘では、亀ケ岡文化の集落の全体像が明らかになった。環状配置を取らない建物群を取り巻くように捨て場があり、その外側に墓域が設けられる。捨て場から発見された獣骨は、ツキノワグマやカモシカが主体で、シカやイノシシが多い一般的な縄文集落と異なる。
 ▽理想的な場所
 米作りをしない縄文人は、広い平野を必要としなかった。豊富な山の資源が得られる白神の山中は、彼らにとって理想的な場所だったに違いない。また、当時の移動手段は主に徒歩だったため、山奥は不便な地ではない。
 新潟産のヒスイや長野産の黒曜石、北海道産の石斧(せきふ)、秋田産のアスファルトなど、本県における縄文時代の交流を語る際に取り上げられる物資のほとんどが、遺跡群で出土していることからも裏付けられる。日本海に出るにしても秋田方面を目指すとしても、弘前市中心部より西目屋の方が距離は短い。
 川原平(1)遺跡ではニシンやサメの骨のほか、海産の小さな巻き貝(クボガイ類)のふたも出土しており、分析から生のまま持ち込まれたもののようだ。
 世界自然遺産白神山地と、世界文化遺産候補北海道・北東北の縄文遺跡群。一見無関係に見える両者をつなぐものとして、いずれの構成資産ではないにせよ西目屋縄文遺跡群は重要である。縄文が一つのブームとなっている今日、豊かな自然に恵まれた白神山地に縄文人たちの暮らしが営まれていたことをぜひ知っていただきたい。
 県立郷土館では、来年1月20日(日)まで企画展「新説!白神のいにしえ―津軽ダム建設に伴う発掘調査成果とともに―」を開催中(12月29日~1月3日は休館)。初公開の出土遺物など約600点を展示し、皆さまのお越しをお待ちしています。また、休館日を除く会期中すべての日曜・祝日にギャラリートークを開催するなど、関連行事も多彩です。詳細は県立郷土館(電話017―777―1585)にお問い合わせください。
 【講演会】2019(平成31)年1月14日(月・祝)、13・30~15・00、於・県立郷土館小ホール。「縄文ムラの“大きな”建物―公民館?首長の家??集合住宅???…―」木村高氏(県埋蔵文化財調査センター)。聴講無料。
(青森県立郷土館学芸員・岡本洋)

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6村合併 船沢村誕生=102

2018/11/26 月曜日

 

中別所の板碑群(公卿塚)
正応の板碑
瑞楽園(国名勝)
神明宮(富栄)の鳥居の「鬼コ」
前田光世先生出生地之碑

 ▽船沢村の由来
 弘前市西郊に、昭和の大合併前に「船沢村」という村があったことをご存じだろうか。
 船沢村は1889(明治22)年4月1日の市町村制施行で、蒔苗(まかなえ)・富栄(とみさかえ)・細越(ほそごえ)・折笠・宮館・中別所(なかべっしょ)の6村が合併して誕生した村である。大字は旧村名を継承している。1955(昭和30)年3月1日、弘前市と合併して同市の一地域となったが、役場は富栄に置かれていた。現在は折笠に、船沢公民館に併設して市役所の船沢出張所が置かれている。
 富栄は1876(明治9)年に江戸時代の鶴田・三ツ森・四戸野沢(しとのさわ)・小島の4村が合併して生まれた村で、新村が富み栄えることを願って村名にしたという。旧村名は通称としては残るものの、字名としては残っていない。天文年間(1532~55)に成立したという「津軽郡中名字(つがるぐんちゅうみょうじ)」には、宮館・縫笠(おりかさ)・斯戸沢(しとのさわ)がすでに見えている。
 蒔苗・細越・折笠・宮館・中別所の5村は、江戸時代の弘前藩の行政区画の一つ、鼻和庄(はなわのしょう)高杉組に属していた。鶴田・三ツ森・四戸野沢・小島の4村も同じである。このうち小島村の村名は、1727(享保12)年頃に村を開発した小島長兵衛の名前にちなむ。
 船沢村は岩木山の東麓(とうろく)に位置し、水田耕作とリンゴや蔬菜(そさい)栽培を主とする純農村として発達し、現在もその状態はあまり変わっていない。村名は村の東北端にある中世の館跡、中別所館跡にある堀を通称「船沢」と呼んでおり、これにちなんだと言われている。
 村の中央を現在は主要地方道五所川原・岩木線が通る。1939(昭和14)年当時、弘前バスが弘前~船沢間を運行していたが、後に弘南バスに引き継がれた。40(昭和15)に中別所から分かれた岩木山麓の開拓地、弥生を入れ大字は7つとなった。
 ▽中別所の板碑群と瑞楽園
 中別所には石仏(いしぼとけ)・公卿塚(くげづか)と呼ばれる、板碑を50基ほど集めた場所がある。石仏にある1288(正応元)年に建てられた板石塔婆は、国重要美術品に指定され「正応の板碑」と呼ばれている。
 建立者高杉郷主源光氏(ごうしゅみなもとのみつうじ)は、弘前市西茂森の長勝寺にある1306(嘉元4)年に鋳造された「銅鐘」(国重文)の寄進者としても名前が見えている。蒔苗にも津軽地方には3基しかない画像板碑が1基ある。
 宮館には、津軽地方で独自に発達した庭園技術、大石武学流で造られた国指定名勝「瑞楽園」があり、津軽の豪農の庭園として注目される。当園は1890(明治23)年から15年余をかけて高橋亭山が築庭した後、弟子の池田亭月と亭月の弟子外崎亭陽が増築して現在の姿になった。
 また、付近の農家の土蔵などには鏝絵(こてえ)(漆喰(しっくい)を用いて作られる浮き彫り状の絵)を装飾したものが多く、一見の価値がある。現在、この地区には県立弘前第一と第二養護学校もある。
 細越にある船沢小学校は、明治期に富栄に建てられた富栄尋常小学校の後身である。富栄にある船沢中学校は1950(昭和25)年、折笠から移転したものである。折笠はリンゴ栽培が盛んで、スターキングの栽培普及に努めた対馬竹五郎の生誕地である。対馬は弥生のリンゴ栽培にも力を入れた人物で、この地区の開拓には船沢村の農家の次・三男が従事した。
 ▽世界的柔道家コンデ・コマ
 富栄は、講道館柔道を世界に広めたコンデ・コマこと前田光世(みつよ)が、1878(明治11)年に生まれた土地である。前田は旧制の県立弘前中学校(現県立弘前高校)から東京専門学校(現早稲田大学)に進み、講道館で柔道を学んで、アメリカやヨーロッパを遍歴し柔道を広めた。
 その後7段に昇段し1915(大正4)年にブラジルへ渡り、同国の海軍兵学校の柔道師範をした後、ベレン市に住んだ。そこでアマゾン開発に従事し、同地方への日本人移民を先導した。
 41(昭和16)年に同市で永眠したが、彼の業績は弘前公園追手門近くの顕彰碑で知ることができる。また、彼の生家近くにも56(昭和31)年に建てられた出生の地碑がある。碑の近くに鎮座する神明宮の鳥居の額束(がくづか)には「鬼コ」があり、島木と貫(ぬき)を支えている。
(弘前市文化財保護審議委員長 福井敏隆)

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国の開拓政策の縮図=101

2018/11/5 月曜日

 

弥生開拓記念碑=2007(平成19)年7月25日・筆者撮影
あねっこ嶽きみオーナー農園=2010(平成22)年8月1日・筆者撮影
津軽カントリークラブ=2007(平成19)年7月30日・筆者撮影

 開拓事業が国の政策に位置付けられるのは、明治維新後、大久保利通が中心となって進めた殖産興業政策から始まる。殖産興業政策は鉱業・製糸業・製糖業・大規模農牧業など全国で展開されるが、本県では三沢市谷地頭の広沢牧場など大規模農牧場経営が主流だった。
 津軽平野の独立峰として広大な裾野を持ち、山麓に暮らす人々の生活にさまざまな形で恵みを与えてきた岩木山麓も開拓の対象となり、常盤野地区に農牧社が開かれた。牧場経営には弘前士族が携わり、社長は後に第五十九国立銀行初代頭取となる大道寺繁禎(しげよし)、副社長は後に青森市長となる笹森儀助が就任し、農牧場開拓が行われた。
 ▽戦前の岩木山麓開拓
 昭和に入ると東北地方は昭和恐慌や大凶作など相次ぐ災害に襲われた。こうした状況に対し、政府は東北振興を国策として取り上げ、1936(昭和11)年に内閣東北局が東北振興第1期総合計画を立案するが、その中に開拓事業があった。
 これは東北地方の人口増加と耕地面積の不足、さらに農家経済の安定を目的としたもので、東北地方集団農耕地開発事業と国営開墾事業からなっていた。東北地方集団農耕地開発事業は36(昭和11)年度から東北6県各地区で始まり、本県は5地区が指定され、その一つに船沢村(現弘前市)の弥生地区があった。
 指定された船沢村には当初、36人が入植した。これらの入植者は金木町(現五所川原市)の県立金木修練農場で農業訓練を受けてから開拓事業に従事した。まず、青森県集団農耕地船沢開発事務所と称する共同宿舎を建設し、それから開拓工事、道路工事、水路工事、宅地造成などに従事した。冬期間は雪をかき分け、吹雪の中で作業した。電気は通っておらず、夜はランプの明かりで生活した。
 開拓事業は38(昭和13)年度に終了する計画だったが、日中戦争が勃発したことで遅れ、竣工(しゅんこう)は40(昭和15)年10月となった。入植時の住所は船沢村大字中別所字平山だったが、開拓事業竣工後は大字弥生字弥生平となった。
 ▽戦後の岩木山麓開拓
 第2次世界大戦の敗戦で、日本は満州・樺太などからの引き揚げ者や、戦地からの復員軍人で人口が増大した。戦時下の供出や労働力不足で食糧生産は乏しく、敗戦国のため食糧輸入は困難だった。
 このため政府は、失業者救済と食糧増産政策を喫緊の課題として耕地開拓に取り組んだ。45(昭和20)年11月、緊急開拓事業実施要領を閣議決定し、5カ年間で155万ヘクタールの開拓と100万戸の入植を図った。開墾地には、軍用地・国有林・民有林などが充てられた。その後、47(昭和22)年10月、政府は開拓事業実施要領を定め、これまでの緊急開拓に代わり、土地の農業利用増進と人口収容力の安定的増大という本来の開拓事業に移行した。
 県は緊急開拓委員会を設け、5カ年計画で4万ヘクタールの耕地開拓、入植者6670戸を目標に開拓事業を開始した。開拓事業は経済部開拓課と農地部農地課が担当した。県内の入植地は全域にわたったが、多くの入植者は営農による生産が上がらず、定期的に交付される開拓補助金や営農資金による生活を余儀なくされた。
 岩木山麓の開拓地は国有林や民有採草地などで形成されたが、その一つに常盤野の瑞穂開拓集落があった。岩木山西側津軽羽黒集落西方の標高380~480メートルに位置した瑞穂は、県道に接しているため交通の便は良く、49(昭和24)年、樺太などの引き揚げ者が常盤野に国有林の払い下げを受けて入植した。
 開拓地に作付けした作物は大豆・なたね・小豆などが中心で、トウモロコシは食用品種のモチキミと飼料用のデントコーンが栽培された。55(昭和30)年、常盤野のトウモロコシ栽培は、弘前の種苗店から紹介されたクロスバンタムという新品種を栽培するようになったが、この品種は甘みが強かったため、栽培面積が拡大された。
 常盤野のトウモロコシは、弘前市の商店街で直売されたり、岩木山登山口でゆでたものを販売したり、嶽温泉街の商店で販売された。こうしてトウモロコシは「嶽きみ」として知られるようになった。次第に「嶽きみ」はおいしいトウモロコシと評判になり、岩木山麓の名産品になった。2007(平成19)年、「嶽きみ」は特許庁の地域団体商標として登録され、名実ともに地域ブランドとなった。
 ▽岩木パイロットファーム
 1950年代に入ると開拓政策は入植者の減少とともに予算が縮小されたことで、世界銀行からの融資が検討された。その際、世界銀行は融資に当たって大規模な国営開拓を実施し、入植者の経営規模を大きくするよう勧告した。
 このため政府は大型機械を導入して開拓、営農を行う新しい開拓方式を実施する。これはパイロットファーム(実験農場)と名付けられ、初めに根釧パイロットファーム(北海道根室支庁)と上北パイロットファーム(青森県上北郡)の2地区で計画された。60(昭和35)年、政府は全国5カ所(北海道、青森県、兵庫県、長野県、大分県)を指定して、開拓地大規模機械化実験農場を設置した。
 本県においては、岩木山麓開発計画が進んでいたこともあり、百沢地域が指定された。そこで岩木町高屋の農家から40人が採用され、60(昭和35)年8月、パイロットファームの事業主体として、岩木実験農場が開場された。
 開拓は最新式の農業機械で行われたが、岩石に当たって農機具が破損し、作業能率が下がり修理費用が増大した。また、土地が予想以上に強酸性だったため、中和剤が大量に投与され、次々出てくる課題に試行錯誤しながら取り組んだ。
 65(昭和40)年を過ぎる頃から農場経営は安定し、全国5カ所のパイロットファームで唯一の黒字経営を達成した。68(昭和43)年2月、実験期間が完了した。なお、69(昭和44)年6月28日、NHKの番組「明るい農村」に農場経営の様子が放映された。現在、岩木パイロットファーム跡地は津軽カントリークラブとなっている。
 こうしてみると、岩木山麓開拓の歩みは、殖産興業、東北振興、食糧増産、パイロットファームとまさに国の開拓政策の縮図だったといえよう。
(元青森県史編さん執筆協力員・宮本利行)

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