浪江の今

 

避難区域を歩く=上

2014/3/9 日曜日

 

 薄雲がたなびく青空、波が優しく寄せる海鮮やかな青色がススキの立ち枯れた一面薄茶色の景色を際立たせていた。そこに点在する漁船や車、さまざまながれきの山は復旧作業の鈍さを物語る。弘前大学が復興に向けた連携協定を結ぶ福島県浪江町2月25日同大被ばく医療総合研究所の渡辺弥事務長の協力で、現在は避難区域となっている町内を歩いた。町の東端、太平洋を望む請戸地区は、東日本大震災から3年を目前にしてなお荒涼としていた約8キロ先、山越しには東京電力福島第1原子力発電所の煙突がのぞく。

全域が避難区域となっている浪江町。東端の請戸地区ではがれきや打ち上げられた漁船が点在する。中央奥には福島第1原発の煙突が見える=2月25日撮影=
請戸地区にある請戸小。津波が襲った1階は構造がむき出しになり、校庭にはがれきが集められている=2月25日撮影=

 浪江町は福島第1原発がある双葉町と大熊町に隣接。多くが帰還困難区域、居住制限区域で占められており、2万1090人(1月末現在)が古里を追われ、各地に散らばり生活している。
 復興の歩みは遅い。原発事故直後には警戒区域に指定。復旧作業は避難指示区域が見直された昨年4月からと、2年遅れでのスタートを強いられた。現在は2017年3月の避難指示解除を目指し、除染作業、漁業の拠点となる請戸港や各種インフラの復旧が進められている。

 数カ所の通行止め箇所を越えて入った町内。中心街は建物全体がゆがみ、傾いた家屋や商店が点在し、立ち入り禁止のテープが巻かれ手付かずのまま。「やはり不気味ですよね…」。人の気配がない、信号機だけがともる街を見て、 渡辺事務長はため息をついた。
 中心部を抜けると海沿いの請戸地区に至る。町の公共施設を訪れると渡辺事務長が建物に沿って長くできた地割れを指さす。地盤のずれの大きさで衝撃の程を改めて察する。「漁が盛んで栄えた港だったそうです」と聞いたが、眺めた沿岸には割れた堤防と、いびつな形の砂浜が広がるのみだった。
 地区周辺を巡ると、うず高いがれきの山が目を引いた。そこは請戸小学校の校庭。校内に入ると時計は津波が到達したであろう3時38分で針が止まっている。波がさらった1階部分は構造がむき出しになっていた。
 2階教室の被害は比較的軽度で、黒板は全国からがれき撤去で応援に駆け付けた、自衛隊員や消防隊員らの激励メッセージで埋め尽くされていた。その中に交じり「浪江東中(学校)に入学したかった。」「東電バカヤロー」など、行き場のない思いもまた、ぶつけられていた。
 時が止まったような教室の後方に小黒板を見つけた。「1年間のまとめをしよう!」「授業と休み時間の区別をしよう」などと震災前に書かれた「3月のめあて」。隣にその字を懐かしむ、似た筆跡の書き込みがあった。添えられていた年月日は「26・2・21」。記者が訪れるわずか4日前に残されたものだった。時が止まったような空間の中、黒板の中には確かな時間の流れがあった。

 生活を奪われた住民の時間は止まらず、今もどこかで刻まれている。町がかつての姿を取り戻すことを待ち続けている人々。その中で拭うことのできない放射能汚染の脅威。帰還を目指す町が越えるべきハードルは高い。

 

 

 

 

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安全基準と補償=中

2014/3/10 月曜日

 

浪江町の山間部。高線量地帯であり帰還困難区域を知らせる看板が点在している=2月25日撮影
2月25日に仮役場で開かれた、弘前大による報告会で発言する馬場町長(左)と檜野照行副町長

 福島県浪江町を襲った放射能汚染。目に見えぬ放射線に対しての安全はどう守られるのか、明確な答えは出ていない。体に受ける放射線量について国が一つの基準として示したのは年間20ミリシーベルト。国際放射線防護委員会(ICRP)による2007年の勧告にある、緊急時(年20~100ミリシーベルト)と緊急後復旧時(年1~20ミリシーベルト)との端境の値であることが根拠となっている。町が中期的に目指す避難区域解除は、全域が年20ミリシーベルト以下となることに基づく。
 「初め(原発事故直後)から言っていたが、国の安全基準はなし崩しになる」。二本松市にある浪江町仮庁舎で先月25日に開かれた、弘前大学被ばく医療総合研究所による研究報告会の場で、馬場有町長は憤りを見せた。事故直後は年1ミリシーベルトとされた安全基準は、前述の論理から年20ミリシーベルトに引き上げられた。さらにICRPで健康への影響は「確認できない」とした年100ミリシーベルトも引き合いにし国は「直ちに影響はない」との見解を示した。
 本来、年20ミリシーベルトは原発内などの放射線管理区域での安全基準。時限的な活動であるという条件付き、もちろん寝食は許されない状況下での値だ。除染は居住生活に問題がないとされる年1ミリシーベルトまで引き下げることを念頭にしている。しかし馬場町長は国が基準値の年20ミリシーベルトを最低目標ではなく、達成目標として除染作業を線引きすることを懸念する。「あくまで年20ミリシーベルトを入り口として段階的に限りなく下げていくことが帰還の前提。20という値は国際的には受け入れられないレベルだと思います」。報告会で同研究所の床次眞司教授は断言した。

 原発事故発生当時、浪江町民は町の北西にある山あいの津島地区に一斉避難。同地区は緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)で高線量エリアと試算されたが、国と県からは情報が提供されなかった。当時どれほどの線量を浴びたのか―。無用の被ばくを強いられた町民は健康不安にさいなまれ続けている。
 「放射線による健康リスクは与えられたもの。だからこそ責任を持って国が補償制度を設けるべき」と町健康福祉課の紺野則夫課長は話す。原爆による被爆者援護法と同等の、恒久的な医療給付制度を求め要望を繰り返した。しかし国からの回答は、福島県民健康管理基金への拠出金で賄うようにとのことだった。同基金は全県民対象の健康管理のため
福島県が創設したも
ので、国の枠組みでの包括的支援制度は現段階で考えられていない。

 ほぼ全ての町民は今、自分がどれほど被ばくしており、将来どのような健康異常が生じるのか、どれほどの可能性で疾患を生じるのか、知り得ていない。単なる体調不良であったとしても、いや応なしに被ばくの影響が頭をよぎる。「診察を受けて無事を確認するだけで安心した生活ができる。被ばくした不安を払(ふっ)拭(しょく)するために検査の無料化は大切なんだ」。嘆きを込めて紺野課長は言った。
 チェルノブイリ原発事故では事故直後からの5年に比べ、10年後までの5年間で放射性疾患が激増した。すでに3年が経過した現在。果たして十分な施策が講じられているか、住民たちの疑念は強い。

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生きていく人々=下・完

2014/3/11 火曜日

 

津島診療所で放射線量測定検査を担当している八巻さん
「なみえ焼そば」ののれんを守る芹川さん

 福島県浪江町が役場機能を移した同県二本松市には、多くの町民が避難している。同市の旧平石小学校仮設住宅に住む志賀和治さん(74)は、同市油井地区にある浪江町津島診療所の仮設診療所を訪れていた。避難生活での体調悪化による、いわゆる震災関連死は増加し続けており、福島県全体では先月、直接死を上回った。「私は老人クラブで旅行するなど気持ちを晴らしているけど、みんなストレスはたまっている。同じ仮設では酒で紛らわそうとして亡くなった人もいた」と話す「古里を失うのは一番つらいこと。考えれば寝られなくなるから、今はのんびり構えている」と時折寂しげな横顔を見せながら語った。

 仮設診療所には放射線被ばくを全身検査するホールボディーカウンターの装置が備えられている。1歳2カ月の乳児から検査でき、結果も即時開示。「このレベルの機器が町にあるのはすごいこと」と話すのは検査を担当する町臨時職員の八巻和江さん(49)。検査には立位のまま2分を要するが、その間八巻さんはモニターに向かいながら会話を切らさない。「もし無言であれば自分には耐えられない時間。事務的にやっていれば、次は行かなくていいと思われてしまう」。年1回の定期的な測定を呼び掛けるための気遣いだ。
 さまざまな不安や精神的苦痛から、検査室に入った瞬間から文句を言う人も少なくないという。「みんなのお母さんのような存在になって、ちょっとでも笑ってもらえればと思ってやってる。仕事をしながら親の介護もして、はっきり言って大変。でも来た人から逆に元気をもらって、やってて良かったと思えるんです」と語る。
 現在の町の姿を「空の色すら違って見える。私の知ってる浪江じゃない。あんな状態の所に皆さんを戻したくない」と話す。古里を変えられた住民の悲しみや憤りは行き場をなくしている。そうして肩を落とす人が訪れたとき口にする言葉があるという。「せっかく生かされた命なんだから心配なことは全部言いなさい、私がすべて引き受けてあげるから」。おどけたような笑みを交えながらも、心に響く力がこもっていた。

 昨年11月開かれたまちおこしグルメの祭典「B―1グランプリ」で日本一に輝いた「なみえ焼そば」。うどんのような極太麺に豚肉とモヤシだけのシンプルな具が特徴だ。JR二本松駅前にある杉乃家にはソースの香りに引かれるように多くの客が毎日やってくる。
 かつては20を超える提供店があったが、震災後に再開できたのは現在でも同店のみ。「先の見通しが明るければもっと店が出ているはず。まさかこんなに長引くとは」と店主の芹川輝男さん(64)。もう浪江には帰れなくなるのではと不安を抱いている。
 2011年7月に営業を再開。「3年前の3月には娘夫婦が埼玉に避難し、孫も転校。自分たちも頑張っている姿を見せたかったのが本音です」と目を細める。「電話で忙しいと伝えると喜んでいる。少しはあの子たちの力になっていると、誇らしく思える」とほほ笑んだ。仮役場への行き帰りなどで立ち寄る町民も多く、憩いの場にもなっているという。「今自分ができることを精いっぱいできれば。浪江の人、二本松の人に喜んでもらえれば何も言うことはないです」。
 原発事故に追われた浪江の人々の生活は、いまだ非日常の中にある。町は今月末に3カ年の緊急復旧期を終え、3年後の避難指示解除を想定した復旧実現期に移行する。

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