続 まちネタ散歩!陸奥新報

 

2014/2/26 水曜日

 

  本紙記事などを拾い読みしながら、昭和の世相を振り返った「まちネタ散歩!陸奥新報」。昨年10月7日から掲載した連載の続編を10回にわたってスタートします。

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公園はわくわくランド=1

 

人のいたずらから“逃避行”。御用となったサル
往年の公園二の丸の「熊の店」。お店の隣の檻には「穴熊」の文字が…
二の丸にあったおサルのゲージ。これ以前は玉鹿石の所にあった…

 「地域文化のけん引」を唱えるだけあって、実に多彩なネタを紹介していたのです。
 昭和三六年九月の公園風景を、記事の原文で紹介しましょう。
 『こどもから大人たちまでイタズラするので弘前公園のサルは、よくオリを破って逃走するが…』なるほど、あぁ、暴れサルが見境なく、客に噛み付くんだろうなぁ~と思ったオイラは早合点よっ!
 『金網を張りかえたばかりだったが、イタズラする人のため、金網の継ぎ目がはずれていたらしく…』事実はおサル様が、人のイタズラから逃避行。んで木を伝わって本丸・天守閣まで避難。彼らは被害者だったのねぇ。
 そういえば、前年の夏の記事にも、悲しいおサルさん話題が…。
 なんと、公園で犬を散歩させながら、サルにけしかけて、ケガをさせた例もあったと。『文字通り犬猿のあい入れぬ仲なので…こうした日のサルは、子どもたちにも歯をむくほど気がすさむ』ふぅ~なんともお気の毒!
 弘前公園におサルさんが登場した歴史は古く、なんと昭和の初めにはいたんだねぇ~
 しかも、近隣の山にいるニホンザルじゃなくて、南国育ちの台湾ザル。昭和九年の弘前新聞には、大阪から到着した翌日に『雪を見て猿公凍死す オオ寒や、弘前』の見出し!
 子どもたちに人気の小鳥コーナー、地元の愛鳥家の寄附もありましたが、企業も支援。ウズラ・紅スズメ・セキセイインコは日本果実そうニッカが提供。
 桜文鳥・九官鳥・チャボなども同じ鳥かごに入れられたんじゃ、文字通りに『小鳥カゴせましと飛びまわる』賑やかさだよなぁ。
 豪華で華麗な孔雀が再登場するのは、昭和三一年七月のこと。前に飼育していたのが、ラムネの玉を呑み込んで死去されたので、なんと三本木市から購入したんだってよぉ~
 これらの動物園は、二の丸の児童遊園地の一隅にあったのです。
 だから休憩所のお店を「熊の店」ってね。
ここの熊さん、もちろんツキノワグマの弘子さんだったこともありますが、穴熊だったり。
 酷暑の折には、へたばる熊さん…と、写真入りで紹介されるほどに、市民にはお馴染みでありましたねっ!
 本丸の北、鷹丘橋を渡って武徳殿がありますが、橋の東にあるのが旧館神の地。ここに戦前に中国大陸から運ばれて来た鹿が飼育されていましたそうな。
 子どものころにバラ園脇のアヒルを写生して、足を四本描いたとは、辛い思い出…
 弘前公園は、動物園で直接ナマモノに触れることができる、わくわくランドでした!
(弘前市歴史・文化活用推進監 宮川慎一郎)

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濃厚だった水族館=2

2014/3/1 土曜日

 

水族館開館の記事
水族館がにぎわう様子
マッコウクジラ胎児の展示風景

 山と河はあるけれども、残念ながら海のない弘前。でも、むかしはコユイ水族館があったんだよ、弘前公園の西濠、春陽橋の脇に。
 しかも、淡水の珍魚を集めた画期的なモノで、開館は昭和三二年四月二十日のこと。
 展示の目玉は淡水のカレイで、秋田県は八郎潟の産でござる。津軽の地に、南部からはニジマスがお目見えだし、巣を作って卵を産むトミヨなど、全国各地の五十種に、きれいな三十種の熱帯魚も豪華に花を添える。
 桜まつりなどでは、ボートで賑わう公園の新名所、開館以来、三年目にして館内を改装工事。耳目を飽きさせませぬ。三五年の春からの目玉はアザラシくん。三二年七月から居候のオットセイやペンギンのライバルに!
もちろん正統派の魚では、マス科のブラウンやワカサギもラインナップの予定。
 三六年には『海水魚もお目見え 全国でも初の試み』の見出し。何事かと興味津々の記事は『浅虫水族館からウニ、ホヤ、ナマコなどを譲られてきて、試験的に飼育したが、その結果が非常に良かったため今度大量に譲られて来たもの』よっ。
 でね、引き続いての記事が『淡水魚、海水魚を同時に飼育している水族館は全国的にもこれがはじめて。』とは、なかなかの衝撃!
 実際はマダイ、ウマズラハギ、イシダイ、クロメバルなど、十五種類の魚がケース内に展示されていたそうでございます、ホッ…
 三九年は国際化も加速化し、アマゾンのピラニアや一尾で八千円もする熱帯魚のディスカスだってお目見え。
 ピラニアは、ご存じのように『人食い魚でえさも牛肉やどじょうを常食』しており、人気者の南米産のワニも元気で、四月三日の開館初日から、まずまずの人出でありました。
 さらに、桜まつりに併せての展示がスゴイもの。なんと、南氷洋からはるばるやって来たマッコウクジラの胎児の標本しかも十日二十日、六十日と日ごとの変化がわかる五品揃いとは貴重で珍品。
 捕鯨船に乗って十五年の建山氏のお土産。
 桜まつりの後には、長女の通学する小学校に贈る予定というし、いまでも残っていたらチョイとビックリしちゃう標本だよねぇ~
 にしても、マッコウクジラって、片仮名で書くから雰囲気があるけれど、新聞記事の写真、よぉ~く見るとね『抹香鯨胎児』って張り紙なんだよ。
 今回、弘前市民に捕鯨船員がいたって驚いたけど、二五年の連載って、大した先見性。
 それにしても、当初の設置目的は何だったのか、つい忘れそう…
(弘前市歴史・文化活用推進監 宮川慎一郎)

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公園への草木の寄附=3

2014/3/2 日曜日

 

弘前公園ツツジの記事
昭和36年には弘前公園への樹木の寄附が大流行する。写真はカエデの植栽の様子
昭和30年代の追手門付近

 上皇さまもお花見をされた天下の吉野山を除けば「いやぁ、オラほの桜が日本一」って自慢の弘前公園だべ。
 でも、公園を彩る樹木は多くの市民らの寄附によって支えられていたんだよぉ~って話を掘り起しますよっ。
 桜の恩人の菊池楯衛の寄附によって、ツツジが植えられたのは、明治四二年のこと。
 翌年にかけて千株が植えられたものの、なぜか有毒との風説で、某校の生徒が引き抜いたという話が、紙上に踊るんだなぁ~
 また、護国神社、当時は招魂社って呼ばれたけど、この向かいの崖に山吹を植える計画は、大正七年のこと。
 やがて昭和三六年には、公園への樹木の寄附が大流行します。
 市内の金沢さんは、自宅のカエデ類百本を贈り、半数は二階堰沿いに、残りは管理事務所付近というから、北の郭の旧休憩所に植えたんだねっ。オオサカヅキや山モミジは紅葉が美しく、もみじまつりを盛んにしてもらいたいって願いが発端。
 下乗橋を渡り、本丸南の急斜面下の一角、ここが水芭蕉の園になる前は菖蒲園なのね。市内のロータリークラブが菖蒲の苗を百株贈るのは、さくらまつり後の公園の彩り。
 弘前盆栽会の皆さんが、大阪から取り寄せて寄附したツツジが追手門通りに植えられたのもこの年。公園を桜とツツジの名所にしようと、翌年も百本のご寄附には敬服で、商工会議所も支援だよ!
 こうして三八年には園内に約二千本のツツジが育てられ、初夏に赤・白・黄色の花を咲かせて観光客を出迎えるまでに。当時の記事では『ツツジの花、天守閣、それにカッコウのなき声。内堀ではガチョウが浮き草の間を縫ってエサを求めている。弘前公園は初夏のムードでいっぱいだ』と、力強く言い切る。
 公園内の代表的な桜は、ご存じの染井吉野ですが、本丸に本格的に枝垂れ桜が植えられたのは、昭和三九年。
 三四年から三年計画で順次進めてきた公園整備が、ようやく実を結んだ時期です。本丸に盛土をして、『一円に三つの陣太鼓型に配置した芝生』の周囲に植えたんだね。あら、苑路の基本設計のイメージって、こうだったのかぁ、へぇ~。
 十年木とはいえ、まだ樹高は二~三メートル足らず。それを五十本も植えたのに、なんと十五本ほどが折られる始末とは、実に悲しい事件。
 現在の追手門前はツツジの植樹だけど、桜が三三年に折られ、遂に諦めたのかなぁ?
 お殿さまのお屋敷で庶民風情が花見とは、けしからん!と明治以来、ここは桜の受難が伝統だったのかねぇ~
(弘前市歴史・文化活用推進監 宮川慎一郎)

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公園の整備…橋の話やら=4

2014/3/3 月曜日

 

昭和20年4月竣工と読めそう。頬かぶりは津軽の伝統!
昭和35年以前は、橋脚の数も違う…
昭和35年の下乗橋の架け替え工事。二の丸側から本丸、天守を望む

 一つの石橋、二か所に擬宝珠、三つの開削、四つの櫓、五つの城門、六つの郭、七つの入口、八つの木橋。うぅっ、苦しく下手な数合わせは、ハシにも棒にも…
 弘前新聞の昭和八年四月二日に、紺屋町から公園四の丸に通じる一陽橋の完成の記事。最後の消防組頭でも有名な川村東一郎は『一陽来福の故事に由来し』と、橋名の談話。
 公園の橋に格式をつけることを目的に、時は皇紀二千六百年の昭和十五年四月に、本丸に通じる下乗橋と鷹丘橋だけを、豪華な朱色にしたんだよなぁ。
 以来、グリーンになった杉の大橋やらが、再び朱色に戻ったのは三二年春のこと。更に三八年の昭和天皇皇后のご来園の準備で架け替えされるけど、この四月の工事は、総事業費でも七十万円也。
 下乗橋の架け替えはチョイと先行、三五年の出来事。工事予算は約二百万円で、従来の丸柱からコンクリートパイルに変更だし、橋げたも鉄筋コンクリートの永久橋。でも欄干は朱に塗った木材で、外観は変わんない!
 ちょうど内堀の漏水騒ぎもあったんずよ。堀コの水は、どのように流れているのか?とはデッタだナンジョ。
どっから、どごさ漏れているのかを調べるのも、ひと苦労でした。
 三四年八月の見出し『堀の源泉は地下水』で、『これが湧き水なのか、公園外からの導水なのかは、今後の課題』だと、慎重報道。
 三五年七月から行った内堀の漏水防止工事が成功し、水位は十五センチも上昇します。その際に調査した石垣は、ヒバ材の杭と角材の上に積み上げられていたと、江戸時代の基礎工事が確認された成果。新工事は、幅三十センチのコンクリートの壁を設けたそうであります。
 これ以前の下乗橋の架け替えは、十五年前の昭和二十年四月。その前は、大正四年十月の特別陸軍大演習で、大元帥陛下がお出かけになる三十年前かな?
 そういえば、本丸石垣のふくらみ調査も話題に。『崩れる心配、当分なし』なら、まずは安堵。『最大で一メートル二十センチのふくらみも、相当長期にわたって徐々に進行してきたもので、ここ当分は崩れる心配はない』…ホッ。
 当時は石垣にガラス板を張り付けて、動いたら割れるってのを目安にしていたそうな。
 なんともアナログな調査方法だけど、やがて、二の丸側に基準点を設置して、光学的に定期計測する方法になったのは昭和五八年、日本海中部地震以降。
 最先端のレーザー技術で、調査や監視の昨今とは隔世の感!
 それから半世紀余、平成二七年度から本格的に修理が開始ねっ。
(弘前市歴史・文化活用推進監 宮川慎一郎)

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