まちネタ散歩!陸奥新報

 

2013/10/7 月曜日

 

  『陸奥新報に見る 津軽三〇年の年譜』とは、昭和二一年九月の創刊以来の世相を総括しながら、地元に密着した諸事を拾い上げている。本書を道しるべに、チョイと寄り道もしながら、歴史散歩…

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藤田記念庭園・公会堂=1

 

灰じんに帰した藤田別邸(昭和27年12月21日報 陸奥新報)
藤田別邸庭園(弘前市 神写真館)
新築落成と誤って伝えられている弘前市公会堂の写真

 弘前公園の南側の藤田記念庭園は、四季折々に風雅な姿を見せ、豪壮な日本間や洋館は贅(ぜい)を尽くしている。
 さすがに立身出世の郷土の先達、藤田謙一の別邸と感心するが、終戦後に進駐軍が接収し、一部は洋風に改造されたのち、昭和二五年に社交場で再出発。
「東北麗人のコンテスト」に参加した美人どころも備えて、園内には数百株のツツジが咲き誇った有名貸席。
 クリスマス用に飾り立て、営業中の二七年十二月二十日の午前四時に調理場から出火。
 新聞見出しは、『火魔藤田別邸をなめつくす 庭園美そのまゝ残る 洋舘の残がいのみ淋しく』や、『三三年前八十万円で』というから、大正八年当時の建設費も見てとれる。
 木造瓦屋根の日本間二百六坪、モルタル塗三階建の洋館百五十一坪が全焼。被害総額は建物や調度家具・衣類など千六百二万円。
 無残にも焼け落ちた日本間と、往時の豪壮な内部写真を併載しており、さすがに丁寧なお仕事だねぇ。
 お次は、年譜に収録してないけれど、床の抜けた公会堂だよっ。
 市役所の西側、今は第八師団長官舎が移築された場所に、謙一が私財を投じて建築し、市に寄附した公会堂がありました。この建物は木造ながら、二階の大広間だけでも一九四坪の大ホールが完備。
 四・五年前に若干の補強をした結果、一千名程度なら大丈夫だよと、戦後も歌謡曲や落語興行が開催される。
 しかし、出演者らが延着。では三回公演を二回に押し込んじゃえと、暴挙に出たんだね。
 建物の耐荷重を無視しての判断で、総勢で二倍以上のお客を押し込まれては、遂に二階の床が一メートルほど沈下。
 記事には「あまり詰め過ぎた」と観客談話、「損害賠償を要求」と市側の意見、技術屋は「無理な構造」と、的確にバランスのよい取材を掲載してます。
 これまでは戦後の出来事だよと言われて、時期の特定をあきらめていたのですが、築三十年ほど後の、二五年十一月二八日の事件。
 そういえば、昭和天皇が二二年にご来弘された折は、市公会堂にご宿泊なされ、三八年には藤田別邸で過ごされたんですねっ。
 昭和十一年、秩父宮両殿下が市内小学生の唱歌を台臨の折に、正門に日章旗。こりゃ、新築時と間違えちゃう写真でありましょう。
(弘前市歴史文化活用推進監 宮川慎一郎)

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郷土玩具=2

2013/10/8 火曜日

 

土産物店の店頭風景
 
オリムピック小堀洋裁店の雪女
遂に出会った雪女

 昭和初期に盛んになった温泉、スキー場巡りの遊山。やがて軍事優先の質素倹約。娯楽観光は影をひそめる。
 『津軽三十年の年譜』の総括では、食糧事情が従前の状況に戻るのは二四年以降だが、徐々に旅先の土産品にも話の花が咲き出す。
 昭和二三年五月の社説『観光津軽と土産品』は手厳しい。観光都市としての整備は未だに未成熟で「公園と桜だけに目が向いて、客に独自の観光土産を配慮することは少なく、酒は宣伝されるが、郷土玩具は物産館に展示だけ」。そのため「呑んでしまえば終わる酒より、土産品は持ち帰って追憶の糧、弘前宣伝の好材料」と、観光玩具の開発を力説する。
 本紙記事には「日本一の折紙」との鳩笛や既に希少価値となっていた津軽木馬らも特集しての丁寧な解説。
 昭和二六年九月の見出しには「報いられた五年の苦心 りんごコケシ人形登場」とあり、目屋人形の作者の角田永太郎が登場します。
 角田は昭和八年ころから目屋人形を制作したが、戦争中は材料不足で中断。のち進駐軍の将兵用に嘱望されたが、かすりの着物を着て炭俵を担ぎ、杖を持った娘の立ち姿のために、持ち運びが不便で改良が望まれていた。
 このため、温湯のこけし工人 盛秀太郎の応援を得て試作開始。観桜会や北海道の巡回見本市から大量の注文が入る大人気に成長。
 翌二七年七月には、「角巻きに雪下駄の雪女人形」の試作が報道されてます。下土手町の洋裁店主 小堀千代が考案し、函館や東京でも好評で、米国貿易商に紹介される予定とは、さすがに国際的な津軽の「雪女」。大量に生産なら戦争未亡人らの救済になると期待され、展示には制作教習も併設されました。
 「角巻き姉サ」とも呼んだ記憶の本名は、雪女だったのねぇ。
 二八年ともなれば、さすがに話題も豊富。津軽の郷愁、はと笛は歴史を刻み百五十年。翌年の世界平和者会議の各国代表者に贈呈され、海外に飛翔です。
 更にりんごコケシの角田の依頼で木地を挽いていた笹森町の田口定吉は、りんごの枝を利用して「まんとこけし・りんごこけし」を制作。当初「みかんこけし」を作り、関東以西で好評だったけど、りんごの本場にいるのに、みかんはおかしいと、地元の材料にこだわり新境地を拓いた。
 六十年以上前に創作された中には、廃絶した幻も。そんな沿革やら逸話を、お陰さまで初めて知りました。
 地元の文化資産を大切にして、りんごにもこだわってきた観光のマヂなんだよなぁ~
(弘前市歴史文化活用推進監 宮川慎一郎)

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パチンコ=3

2013/10/9 水曜日

 

電動発射装置を備え付けたパチンコ店
パチンコが大流行の弘前市。繁華街にはチェーン店もやがて建ち並ぶ

 以前は、パチンコが庶民のささやかな娯楽でしょうか。
 津軽三〇年の年譜をみると、弘前はこの業界で先進地だったんですねぇ。そんな道楽話を覗いてみましょ。
 昭和二五年十一月に大町に最初のパチンコ店が開店する。決してバクチ好きな土地柄でもないのだろうけど、品薄のタバコが景品では、人々の射幸心を刺激。一年後に三八軒となり、二七年三月には五六軒まで急成長!
 こうなっては、娯楽や楽しみを離れてしまい、生活破綻や一家離散になる輩も現れて、社会問題化しちゃう。
 でも、そんな深刻な話題には触れません。昭和二六年十月の記事には「五十人に一台」の見出しで、総台数が千百二一台と報じ、客足が多いのは代官町の二店舗で、ここだけで一九五台。二一店舗は開店当時は相当の客を集めたものの、最近では景品のせいかパッとしないといい、県の入場税は月額で九万六千円にのぼっている。
 経営者は六割が地元人だというが、残りは他県人などがやって来て、開店早々に景気の良いところを見せて、サッと儲けて逐電。
 一日の総売り上げが三万円以上というのも珍しくはないが、景品代もあることから収入は売り上げの二割程度か、と分析してます。
 そして昭和四八年五月、「パチンコ革命だとさ…」の見出しで、台に電動発射装置が設置されたと報道。これがなんと全国二番目!
 本来なら、六月から新発売される予定の新機種「日動式電動発射装置U―Т型」。本場の名古屋で四月に先行設置され、わずか一月遅れのスピード登場。
 見慣れない「自動玉はじき機」なので、取扱説明もとても丁寧。
「ハンドルを右に回すと玉が発射 (2)右に回すほど落下位置が強くなる (3)手を放すと停止」などは、紙上解説の極みで、思わず行きたくなりませんかね?
 「あなたはダイヤル(ハンドル)を握るだけ、どなたでも楽しく遊べる」とキャッチフレーズのダメ押し!
 こんなにお店に肩入れした記事の書き方っていかがかなぁ?と、妙な詮索はしないよ。
 記者サマも、きっと体験してみて面白くなって書いちゃったんだろうなぁ~それを読んだ校閲部も「ほほぉ~こうやるのか」と納得できたんだろうし、こんな報道は、のどかだよねぇ~殺伐な事件はチョイと辛い気持ちになりますもん。
 市中の身近な話題を拾い上げて、追跡報道していくと、やがては貴重な世相史評になるって、なんだか誉め過ぎでしょうか?これからも期待しましょ!
(弘前市歴史文化活用推進監 宮川慎一郎)

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