終戦68年 語り継ぐ記憶

 

2013/8/10 土曜日

 

 終戦から68年。年々語り部が減り記憶が風化する中で、その声を次代に語り継ぐ必要がある。苦難の戦中、混乱の戦後を生きた津軽地方の人たちの体験を伝える。

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東京大空襲を経験 弘前・小嶋キクヱさん(84)=1

 

東京大空襲を経験した小嶋さん
大空襲の時に持ち出した写真。昭和19(1944)年8月13日、東京で撮影した。右から小嶋さん、野辺地出身の女性、戦火を一緒に逃げた浪岡出身の女性。服装の統一があった中、花柄のスカートをはいて撮影に臨んでいる

 「今考えれば、よぐ防空壕(ごう)さ入ねがったなぁ。入ってれば焼げで死んでたもんなぁ」。
 昭和4(1929)年、藤代村(現弘前市石渡)で生まれ、終戦時は16歳。68年前の記憶を手繰りよせ、小嶋キクヱさん(84)は東京大空襲を語り出した。
 玉成国民学校を卒業した昭和18 (1943)年4月。就職のため同年代の少女30人余りと共に弘前駅発の汽車に乗り、1日かかって東京・上野に降りた。
 「全国の軍需工場からたくさんの求人が学校にあって、自分で選んだ。東京に憧れがあったし、落下傘(パラシュート)だば飛行機を造るよりきれいな仕事だと思ったはんで」
勤め先は本所区(現墨田区)の藤倉航空工業本所工場。当時、日本が重視していた民間軍需工場だった。
 工場には数百人が働いていた。地方出身の10~20代の女性が圧倒的に多く、徴兵検査に落ちたと思われる男性が布を裁断していただがその男性たちも戦況の悪化とともに徴兵されたと記憶している。
 仕事はパラシュートを入れるリュックサックのボタン付け。手製のもんぺをはき、「国防色」と言われる軍服と同じカーキ色の制服を着て作業した。
 仕事は特にきついと思わなかった。白米ではなかったが、ごはんはおかわり自由。浅草が近く同郷の仲間と遊びに行った。会社で運動会があったり、女優の高峰秀子が映画撮影で工場に来たりしたのも覚えている。耐乏生活を強いられているという感覚は当初なかった。
 だが、次第に夜中の空襲警報で起こされることが多くなった。負け戦が続き、日本本土は非常事態体制となった。空襲時は工場で消火活動をするようにと言われていたため、警報のたび、寮に隣接する工場に向かったがすぐ解除になった。
 昭和20(1945)年3月10日の真夜中すぎだったと思う。また警報が響いた。「すぐ解除なるべね」と仕度を始めたが、その日はなぜか胸騒ぎがした。
 昭和20(1945)年3月10日未明。空襲警報が鳴ると、当時16歳だった小嶋キクヱさんは防空頭巾をかぶり、小さなショルダーバッグにわずかな現金と写真を入れて寮を出た。
 その瞬間、四方から熱風と炎が殴り付けてきて、目を開けていられなかった。「絶対忘れね。まるで吹雪のように火の粉がぼうぼうど舞ってらんだ」
消火活動のため、勤務している工場を目指した。明かりがない中、どこをどう通ったか分からない。工場に着くと、防空壕(ごう)が目に入った。木製で10人ほど入る簡易なものだった。「ワは入ろうとしたばって、一緒に逃げた浪岡出身の同僚が入らねと言ったから、入らなかった」
 その後の記憶はあいまいだ。工場近くの横川橋にたどり着いたことは覚えている。全長50メートルほどの橋は、たくさんの人で押し合いへし合いで、橋の中央にいたはずが端へ押し流されていた。
 周囲は大火事で熱く、火の粉で防空頭巾が焦げた。おびただしい数の爆弾が投下されたはずなのに、爆撃の音はいっさい記憶にない。米軍機が退却した後も明るくなるまで橋上で過ごした。
 工場は防空壕もろとも全焼し、一緒に逃げた浪岡出身の女性とは生き別れてしまった。彼女の言葉を聞かず、防空壕に入っていたら命はなかったと思うと、ぞっとした。
 夜が明け、荏原(えばら)区(現品川区)にある本社が焼失を免れたと聞き、会社の人に誘導され本社を目指した。目に入ってきたのは、この世のものと思えない悲惨な光景。
 「阪神や東日本の大震災で焼けた街と同じ。建物も何もなく、あたり一面真っ黒」。黒焦げになった無数の死体がごろごろと転がる中を歩いた。
 後日、世田谷区に住む叔母と会えた。「映画のように固く抱き合って、お互いに生きていたことを喜んだよ」
 戦後、シベリア抑留を経験した男性と結婚したキクヱさん。夫婦ともに過酷な状況下を必死で生きたからだろう。3年前に亡くなった夫とは申し合わせたわけでもなく、孫たちに戦時中の記憶を語って聞かせてきた。
 「戦はまいね。二度とあってはまいね」。大火の中を一緒に逃げた写真を見詰めながら繰り返した。

 

■用語解説 東京大空襲
 昭和20(1945)年3月10日未明、約300機の米軍爆撃機B29が、東京都下町地区を焼夷(しょうい)弾で無差別爆撃した。人口が密集していた木造住宅街だったこと、強い北風が吹き荒れていたことなどから炎の勢いは増し、逃げ道となる道路を覆い、防空壕(ごう)の中にまで及んだ。一夜で10万人以上の命が奪われたとされる。東京はB29による空爆が始まった昭和19(1944)年11月24日から昭和20年8月15日未明までに100回以上の空襲があった。

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予科練で特攻訓練 板柳・吉田勝美さん(84)=2

2013/8/11 日曜日

 

出征直前に撮影した写真。小学校の校長先生が「入隊 吉田勝美君」と書き入れた出征旗を贈ってくれた
「鹿児島では食べるものがなくて指ほどの太さのイモを生で食べた」と明かす吉田さん

 昭和19(1944)年12月は大雪だった。当時15歳の吉田勝美さん(84)は両親親戚国民学校の校長先生、在校生、町内の人たちと一緒に歩いて生まれ育った新和村(現弘前市青女子)から板柳駅に着いた。汽車に乗って出征する自分を祝う人々。「万歳」と叫ぶ姿と振り掲げられた日の丸の旗は今でも忘れない―。
 周辺海域で日本軍の全滅地域が拡大していった昭和19年。「日本が負けていることや特攻隊のことはうわさで知っていたし、子どもでも日本はまいねと分かっていた」
 それでも徹夜の猛勉強の末、3度の試験を突破し、新和国民学校からただ一人の「海軍飛行予科練習生(以下、予科練)」になったのには理由がある。
 戦闘機の搭乗員、特に予科練は少年たちの憧れだった。「学校では『忠君愛国』を徹底して教えられた。天皇や国のために死ぬのは男として当たり前。本望と思って志願した」
 当時、戦死者のいる家の前を通る時は最敬礼しなければならないほど、戦争で死ぬのは大変な名誉と考えられていた。「おやじは戦に2回行き、戦争の実態を知っていた。息子が死ぬ覚悟で入隊するのは嫌だったらしいが、口にしたら国賊になってしまう。だから(予科練の)志願書さ、はんこ押さねがった。姉も反対した」
 汽車を乗り継ぎ、数日掛けて天理教の町・奈良県丹波市町(たんばいちまち=現天理市)に到着。奈良海軍航空隊分遣隊に配属された。試験に合格した飛行兵の“卵”300人余りがいたと思う。
 訓練は厳しく逃亡者も出るほどだった。国語や歴史の勉強のほか、銃の持ち方、実弾の撃ち方、手旗信号などを習った。「大人用の銃は重くて、担いで何キロも歩いたり走ったりするのが一番苦しかった。発砲するとかなりの衝撃があり、銃を撃つ恐怖があった」
 3カ月の基礎訓練を経て昭和20(1945)年4月、鹿児島県の桜島へ向かった。爆弾を積んだ船で敵の艦船に突っ込む「人間魚雷」の訓練を受けるためだった。
 吉田さんの隊は、特攻訓練のため桜島に着いたものの船はなく、地上にある木製の模型に乗って操作法を学ぶだけだった。
 10日ほど過ごし鹿屋(鹿児島県)の海軍基地に移動した。鹿屋は数多くの特攻機が飛び立った地。1度だけ、沖縄に向かう戦闘機を遠くから見送った。
 ここでも予科練が乗る戦闘機はおろか、練習機さえない状態。沖縄戦が激化する中、本土決戦を見据えて陸上で自爆訓練をした。
 「戦車の通り道にタコ穴と呼ばれる縦穴を掘って中さ潜んで、戦車が来たら爆弾を抱えたまま足回りに飛び込んで爆破するんだ」
 16歳の少年に課せられた肉弾戦法「特攻は死にに行くだけと分かっていた。それでも日本のため敵と戦う気持ちはあったと思うな」
 昭和20(1945)年6月、沖縄で日本軍が全滅すると、米軍が鹿屋に上陸するという情報が入った。本土決戦目前と、ひたすら地面に塹壕(ざんごう)を掘った。
 ある時、ラッパの指示を間違えて上官に報告し、木の棒で尻をたたかれる懲罰を受けた。数度打たれ、失神したらしい。目が覚めると、何百人もいた基地はもぬけの殻で自分一人になっていた。どれほどの時がたったのか分からない。1週間ほど前、日本は負けると上官から聞き、身の回りのものを全て焼却処分したため、日本が負けたのだと直感した。
 その後、宮崎県都城市の復員基地にたどり着き、汽車で自宅を目指した。「ほとんど覚えていない。死にものぐるいで帰ってきたから」。古里の土を踏んだのは11月。終戦から3カ月がたっていた。
 若い血潮の予科練の七つ釦(ぼたん)は桜に錨(いかり)―。
 当時盛んに歌われた軍歌を今でも口ずさめる。生死が隣り合わせの日常、厳しい訓練と上下関係。戦争は、大空への飛行を夢見た少年の心を砕き、精神的な後遺症を残した。
 「終戦直後は人への懐疑心があったばって、仕事や趣味とか打ち込めるものがあったから、他人に迷惑を掛けずに生きてこれた」
 戦後、父の跡を継ぎ馬具職人に。子どもと孫に恵まれ、今は3代目の息子と皮革店を営む。家族にさえ明かせない心の葛藤(かっとう)は、68年がたっても消えない。

 

■用語解説 予科練
 旧海軍飛行予科練習生の略称で戦闘機搭乗員養成制度のこと。軍は若いうちから搭乗員を育てようと昭和5(1930)年から養成を始めた。主に小学校高等科卒業か中学校修了者を対象にした志願制で、全国から試験で選抜。終戦までの15年間で約24万人が入隊した。予科練出身の戦死者は1万9000人に上り、特別攻撃隊(特攻隊)として散った若者も多かった。

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