津波の記憶 日本海中部地震から30年

 

2013/5/23 木曜日

 

 日本海中部地震から26日で30年。1983(昭和58)年5月26日正午ごろ、男鹿半島沖約100キロの海底を震源とするマグニチュード7・7の地震が発生し、本県は深浦町で震度5を記録するなど津軽地方を中心に甚大な被害が及び、西海岸側では津波によって17人の尊い命が奪われた。悲劇から30年。被害に遭った住民や救助に当たった人々の証言を踏まえながら当時を振り返る。

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市浦地区の秋田谷さん=1

 

「もっと強く避難を促していればみんな助かったかもしれない」と津波のあった方向を見詰める秋田谷さん
日本海から十三湖へと流れてくる津波。釣り人や車を次々とのみ込んでいった(五所川原市役所市浦支所提供)

 「あれからもう30年にもなるのか。あの日は、昼食を取ろうとしていたら突然、今まで経験したことがない大きな揺れが来た」。五所川原市市浦地区の十三湖そばでシジミと釣具を販売する秋田谷完一さん(71)は記憶を呼び起こす。
 揺れがようやく収まった後、一気に引き潮となって津波が来ると察知し、すぐそばの十三湖大橋から釣り人らに避難するよう大声で呼び掛けた。
 「ほとんどの人は避難したが、釣り具を貸した人が帰って来なかったので心配だったし、まだ釣りを続けていた人も何人かいた。早く逃げろと叫んでいるうちに、ついに津波がやって来た」と秋田谷さん。
 高さ数メートルの津波は瞬く間に釣り人らを襲い、のみ込んでいった。橋から惨劇をただただ見詰めるしかなかった。その中に、クーラーボックスに必死にしがみ付いている男性の姿を発見した。
 「(男性が)のみ込まれた津波の勢いで十三湖まで運ばれ、波が戻る時にできていた渦に引っ掛かるような形でぐるぐると回っていた。急いでロープを持ってきて、7、8人がかりで無我夢中で助けた」と振り返る。一命を取り留めた男性がしがみ付いていたクーラーボックスは、くしくも地震発生日の約1週間前に、釣りを始めたいと秋田谷さんの店で購入していた品だった。男性は地震から数日後に秋田谷さんの店を訪れ、感謝を述べたという。
 1人の尊い命を助けた秋田谷さんだが、ほかの釣り人ら6人が津波で犠牲になったことに、「引き潮になったため、カニを捕ろうとわざわざ自転車で来てさらわれた人もいた。もっと強く避難を促せばみんな助かっていたかもしれない。そう思うと悔しい」とため息を漏らす。東日本大震災で改めて津波の怖さを思い知ることになった。「もうあんな思いはしたくないが、地震はいつ来るか分からない。とにかく、揺れたら早く、高く、遠くへ逃げることを常日ごろから心に刻みつけていないと」と話す。

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小泊地区の敦賀さん=2

2013/5/24 金曜日

 

津波から逃げる旧小泊村の住民ら(中泊町役場小泊支所提供)
 
「30年前を風化させてはいけない」。住民が津波でのみ込まれた現場を指さす敦賀さん

   「こっちに来るな!津波が来るぞ!早く逃げろ!」。中泊町小泊地区の敦賀勝正さん(73)は地震で揺れる中、所有する船の様子を確認しようと港へ向かう途中、進行方向から大挙して走って来る仲間らの叫びを聞き、きびすを返して一緒に高台へ向かった。
 当時、3隻の漁船を所有していた敦賀さん。夜からのスルメイカ漁を終えて自宅に戻って一休みし、昼食を取ろうと起きたところで突然の激しい揺れに襲われた。
 「これはとてつもない津波が来るかもしれない。船が危ない」と思った敦賀さんは、妻の必死の制止も聞かずに、揺れがやまないうちに自宅を出て、船を沖に出して津波を乗り過ごそうと港へ向かった。
 しかし、その途中で、必死の形相で走っている仲間らに会い、自宅付近の高台に戻った。
 到着して待機していると、すぐに高さ数メートルの津波が一気に押し寄せてきた。多数の船や車がいとも簡単に流されたり、津波の勢いで道路へ押し上げられて大破したりする光景をただただ眺めることしかできなかった。そして、船の様子を見ようと向かった1人の男性がのみ込まれる瞬間を目撃した。
 「(人がのみ込まれた瞬間は)みんなが指を差しながら、『あーっ!』って叫んでいた。でもここからではどうすることもできなかった」としながら「もし、一緒に戻らず船のそばに行っていたら、今、生きていないかもしれない。当たり前だと言われるかもしれないが、戻って正解だった」と話す。
 2隻を犠牲にした敦賀さん。ようやく津波が収まり港へ行くと、一帯は船の墓場と化していた。「あの時の光景は今でも焼き付いている。思い出さない日はない」と振り返り、海を見詰める。
 あの悲劇が住民の記憶から薄れていくのではと心配になる。くしくも東日本大震災により、日本海中部地震がクローズアップされることになった。「あの日を風化させてはいけない。自分を含め、津波を目の当たりにした人たちが、子どもや若い世代に、この地域にもとてつもない地震と津波が来て、5人が亡くなったんだということを伝える役目を果たさないといけない」。敦賀さんはこう力を込めた。

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深浦町の山本さん=3

2013/5/25 土曜日

 

「船よりも、取った魚よりも、自分の命が大切」。30年前の津波を風化させまいと漁協内に赤い線で記されている津波の到達線を示す山本さん
風合瀬漁港で津波の復旧作業をする漁師。奥には漁船が防波堤に打ち上げられたまま取り残されている(深浦町提供)

 「本当に初めての経験だった。あの時のことは今でも鮮明に思い出すことができる」と語るのは、深浦町風合瀬の風合瀬漁業協同組合元組合長の山本清四郎さん(77)。
 30年前の「その日」は、晴天で早朝から底建て網の網おこしをしていた。午前10時すぎに風合瀬漁港に入り、多くのヒラメを水揚げした。ほっとして家で昼食を取っていた時、地震に襲われた。
 「あまりの揺れに驚いた。妻と母と3人で食事をしていたが、母は地震に驚き立てない状態。玄関から表の国道に出ると、電柱の電線が見たことのないほど揺れていた。5分ぐらいの揺れが何十分にも感じた」
 急いで近くの作業小屋に行くと、漁師仲間が海の方を指さした。海は引き潮で海水がなくなり、ゴモだけが海底に残り、真っ赤だった。「本当に初めて見る光景だった。30年前は地震の後に津波が来るという考えがなかった。だから地震が来たから逃げるということはしなかった」。
 周りに目を転じると、海岸線を覆っているコンクリート性の護岸から海水があふれ出していた。ふだんは雨水を海に流すための約20センチの穴。そこから海水が激しく吹き出していた。その光景を眺めながら、急に自分の船が心配になり、自宅から漁港に向かって2トントラックを走らせた。
 漁港まで行く途中に小さな川があった。津波で川は逆流し橋の上に海水があふれ、道路も冠水していた。とても橋を通れる状態ではなかった。あふれ出した海水が引くまで橋の脇でただじっと待つしかなかった。そうしてようやく漁港にたどり着いた。
 当時の風合瀬漁協の組合員は約130人、0・5トンから9・9トンまでの約70隻が在籍。漁港に着くと、8トンと4・9トンの船が湾内の防波堤に打ち上げられていた。
 当時はモズク漁が行われ、その漁を終わった船がそのままネカブ漁に出漁。山なりの津波を磯周りの小さな船でやっと逃げたという話も耳にした。
 漁協内はモズクの入札が終わったばかりだった。被害を確認すると、4キロ入りのモズク約200箱が津波でさらわれたほか、漁港内で天日に干し、補修した網が津波に持っていかれてしまっていた。
 漁協の事務所も悲惨だった。台帳も津波に流されていた。
 同漁協は早朝に沖合に出掛け、昼前に入札を行うシステム。山本さんは言う。「入札が済んでいたからけが人も死者も出なかったと思う。漁の終わる午前10時すぎに津波が来ていたら…」。
 日本海中部地震を機に、同漁協では「地震が来たら、船を守るより、取った魚を守るより、まずは自分の命を守るために高台に逃げる」ことを指導している。
 漁協には、ここまで津波が来たという高さに赤い線が引かれている。山本さんは「30年前の地震を風化させてはならない」と、その目印を指さした。

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「早く、高く、遠く」避難=4・完

2013/5/26 日曜日

 

深浦町で24日に行われた防災訓練。一人ひとりが「揺れたら早く、高く、遠く」の意識を持って行動することが命を助けることとなる

 1月末、日本海沿岸から陸奥湾、下北半島の一部市町村について、予想される最大クラスの津波が発生した場合の浸水予測図が公表された。中泊町小泊地区では予想される津波の高さが日本海側最大の11・5メートルとなるほか、深浦町は住民の9割近くが避難を強いられるなど、30年前の被害を大幅に上回る衝撃的なものだった。大切な命を守るため、自治体は総合的な防災計画を練り直し、住民らも独自にさまざまな取り組みを行っている。
 5月26日を「防災の日」と決め、町を挙げて防災訓練を毎年行っている深浦町。東日本大震災の発生を受け、昨年からは高台へ逃げることを中心とした内容に変えた。今年は24日に行われ、約2900人が参加して避難経路などを確認した。
 各町内会単位に発電機や非常食を配備し、本庁舎、岩崎支所、大戸瀬支所には毛布を備えている。吉田満町長は「30年前(の被害を)を風化させてはいけない。今後もさまざまな形で住民に働き掛ける」と語る。
 中泊町小泊地区では予測だと、住民の6割以上に当たる2000人以上が避難を強いられる。小泊支所の1階部分が浸水するほか、指定避難所のほとんどが浸水。昨年の3月11日に実施した避難訓練では小泊小学校が対策本部だったが、同校も浸水することから、有事の際はさらに高台の小泊中学校を本部とする方針だ。同地区には自主防災組織が存在しないものの、住民らが独自に避難経路や危険箇所を確認し合い、非常時に備えている。
 また今年、26日に初めて追悼式を開くこととなった。小野俊逸町長は「30年の節目であり、改めて5人の犠牲者を追悼するとともに、住民の方々に津波に対する防災意識を促したい」と話す。
 五所川原市では、津波の影響が及ぶ磯松地域のほか十三地域の2カ所に津波避難タワーを設置する。磯松町内会自主防災会の伊南忠雄会長は設置を歓迎しながら「高齢者が多いので、今指定されている避難所には遠くてすぐには行けない。行き慣れた比較的高い場所にある近所の神社に逃げるよう申し合わせている」と話す。
 30年前の記憶が薄れつつある中、東日本大震災と1月の予測により、改めて津波の怖さを知ることになった。1月のデータは「500年から1000年周期とされる過去最大クラス」を想定したものだが、“その時”がいつ来るかは誰も分からない。「5・26」や「3・11」が来るたび思い出すのではなく、四六時中、「揺れたら早く、高く、遠く」の意識を持つことが必要である。

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