知られざるさくらまつり 昔の新聞から

 

2013/5/4 土曜日

 

  大型連休は後半に突入。弘前さくらまつりも桜がようやく見頃を迎える津軽の人々に観光客に愛されてやまないこの祭りがどのような足跡をたどり「日本一の桜の名所」と呼ばれるようになったか。古い新聞の収集、分析を行っている弘前市文化・歴史活用推進監の宮川慎一郎さんの協力を得ながら、歴史をひもときたい。

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戦前・戦中の花見=1

 

統制による物資不足を伝える当時の記事(昭和14年4月、弘前新聞)
戦前の観桜会の様子(昭和初期の絵はがきから)

 弘前公園の桜は津軽の人の誇りであり、桜見物は何にも増しての楽しみである。その思いは耐乏生活を強いられた戦時中であっても変わることがなかった。「時局と櫻(さくら)の催し」「弘前桜の催し」。名称はさまざまだが、桜を愛(め)でたいという市民の思いは変わらず、いや人の命が簡単に失われる時代だからこそ、桜に対する市民の切実な気持ちが当時の紙面からあふれ出る。戦前、戦中の花見を通じた世相の変化を当時の紙面などから拾う。
 「お花見も自粛自戒で 觀櫻會(かんおうかい)のプラン決まる」。昭和14(1939)年4月6日、当時の地元紙「弘前新聞」の見出しは同年に勃発する第2次世界大戦による世相の変化を受けてか「自粛自戒」と緊縮ムードが見出しに踊る。観桜会は前年に「時局と櫻の催し」と娯楽色を薄めた名称へと変更されているが、同日の見出しには「でも催しだけは盛澤山(だくさん)に」と祭りに込めた熱い思いも伝わる。
 ただ、同14年4月3日の弘前新聞には「觀櫻會近づけど バラックは何(ど)うなる いまだにラツ(らち)のあかぬ」の見出しが。バラック(出店)の建築に必要なくぎが統制により、入手困難となり、出店の建設が進まない様子が記事に出ている。太平洋戦争は開戦前だが、経済的にはすでに戦争の影が祭りに大きな影を落としていることが分かる。
 一方で、昭和初期は欧米を中心に日本旅行がブームでもあった。「公園の橋に格式をつける」(昭和15〈1940〉年4月13日 弘前新聞)は園内8カ所の橋が全部朱塗りなので、本丸に続く下乗橋と鷹岡橋だけを朱塗りにするというもの。橋のランク付け、差別化を図ろうというこの試みに弘前公園を観光地としてさらに売り出そうという意気込みが見えるようで面白い。祭りは同年、弘前「櫻の催し」へと名称を変える。
 昭和16(1941)年4月23日の弘前新聞は「春陽に蕾(つぼみ)もグツト進み お花見準備急テンポ」の見出し。弘前城天守の写真も記事もまるで現在の新聞と見間違うような内容で、この年の12月に日本が太平洋戦争に突入したとは思えない。
 だが、この年を境に紙面はやはり戦時色の濃い記事が圧倒的に多くなる。新聞統制の一環として全国の地方紙は一県一紙政策が採られ、本県は東奥日報紙に集約される。
 「空襲季節だ 物見遊山は止そう」(昭和18〈1943〉年4月28日、東奥日報)は有名な国のスローガン「ぜいたくは敵だ」をほうふつとさせる見出しだ。
 観桜会は昭和19(1944)年に中止となる。戦況が悪化する中、戦時下の弘前公園はどのようなものだったのだろう。新編弘前市史通史編5によると、同19年4月10日、戦時下で市民生活が逼迫(ひっぱく)する中、市は食糧増産のため、弘前公園の畑化を決定する。桜の名所弘前公園と畑。そのイメージのギャップに驚かされる。
 そして戦争は昭和20(1945)年に終わる。通史で観桜会の復活は昭和22(1947)年とされているが、昭和21(1946)年5月4日の東奥日報には「昔なつかし見世物小屋 花は満開」との記事があり、同年には何らかの形で祭りが行われていることが分かる。空襲などの被害を受けなかったとはいえ、その復活の早さは、市民の花見への渇望の表れだろう。
 もう一つの弘前を代表する祭りであるねぷたまつりは、昭和13(1938)年という早い段階で一時運行が禁止となる中、観桜会は名称や形態、規模を変えながら戦時下でも一定の期間、継続されていることが分かる。
 市歴史・文化活用推進監の宮川慎一郎さんは「桜は日本を代表する花であり、『靖国の桜の下で会おう』が当時の合言葉になるなど、日本人の精神性にも合致していた。弘前公園の桜と本丸から望む岩木山は津軽の人々の精神的な支えとなっていたのだろう」と述べた。

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日本一はいつから?=2

2013/5/5 日曜日

 

伊東博士が日本一のお墨付きを与えたことを伝える紙面(昭和11年5月、弘前新聞)
仙台鉄道局が発行したポスター(昭和11年、弘前新聞)

 “日本一の桜”。弘前市民ならお国自慢の一つとして一度や二度は、このフレーズを使ったはず。しかし、いつから日本一と呼ぶようになったのか、その根拠は? となると答えられる人はそう多くはない。一般には著名なジャーナリスト、思想家である徳富蘇峰が弘前を訪れた際の発言などにその答えが求められているが、昭和初期の新聞記事を探すと、さらにそれ以前の記事に「日本一」のフレーズやなぜ日本一と言えるのか、その根拠が現れる。日本一の桜はどこから始まり、どこで市民権を得たのだろう。
 昭和54(1979)年4月26日の本紙連載記事「桜の弘前城今昔5 桜のこと」によると昭和12(1937)年5月に蘇峰が弘前を訪れた際「弘前に着すれば正に櫻(おう)花満開だ、海内(かいだい)第一と誇るも今更ら言いかえす言葉もなきほどに櫻花は咲き誇っている」と述べたとする。コメントの出展元は未確認だが、弘前新聞には昭和12年に蘇峰が来弘し、弘前城や岩木山神社などを散策しながら、弘前高校で講演会を開くなど、精力的に活動した様子が伝えられている。
 しかし、市歴史・文化活用推進監の宮川慎一郎さんが古い新聞を収集、調査したところ、蘇峰来弘の前年に当たる昭和11(1936)年5月6日、弘前新聞の記事「サクラの弘前は 史跡の多い都 弘前城も国寶(ほう)指定か」の中で文部省(当時)嘱託の元東京帝国大学名誉教授伊東忠太氏らが来弘し、弘前城などを調査していたことを確認。
 この記事の中で伊東博士は「お城の中に櫻の樹が多い事は正に日本一だ」と述べたと伝えている。弘前城が国宝にふさわしいかどうか、文化財調査に訪れた伊東博士は、城跡にある桜の名所として、弘前城はまさに「日本一」とお墨付きを与えたのであり、このことは翌12年の旧文化財保護法における弘前城天守の国宝指定につながる。
 宮川さんによると、「日本一・二」というあやふやな表現は観桜会を始めて10年後の昭和2、3(1927、28)年ごろに既に散見されるという。
 観桜会を企画・運営した弘前商工会議所は、大正時代に当時、東北一と称された秋田県の秋田千秋園を視察し、以降観桜会の観光化に乗り出している。
 昭和3年には当時の観光行政の旗振り役である鉄道省(当時)の仙台鉄道局が管内の桜の名所をポスター化する中、新潟県・東北6県の名所12カ所の一つに弘前城趾を選んでいる。また昭和8(1933)年5月の弘前新聞の記事には同省とジャパン・ツーリストビューロー嘱託で著名な風景写真家の山田應水が弘前公園を撮影した様子が紹介され「弘前公園の櫻(さくら)に 日本一の折紙」と山田が称賛した様子を記事にしている。撮影した写真はポスターとなって米国でも紹介された。
 こうしたPRや学界の大家、著名人の声を背景に「弘前の桜は日本一」という自信と機運が高まっていったのだろう。
 弘前城天守が国宝に指定された昭和12年は観桜会の開始以来20年目となる節目の年。仮装行列や花火大会が開かれるなどまさに「日本一」にふさわしい祭りの体裁が整えられた。
 宮川さんは「日本一の桜の公園にしようという市民の思いが篤志家による桜の植栽などにつながり、やがて公園は日本一の評価を得る。弘前公園の桜こそが弘前市のシンボルと感じる市民にとって日本一の桜の名所という表現は自然な感情の表れだろう」と語った。

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競輪・競馬・パレード=3・完

2013/5/6 月曜日

 

広告祭で弘前公園本丸に繰り出した「銘酒丸」(市内川村家所蔵)
弘前公園での自転車競走の様子(昭和10年5月、弘前新聞)

 弘前さくらまつりの名物といえば、桜はともかく、後はさまざまな食べ物を売る出店やお化け屋敷などの見せ物小屋、民謡大会などのイベントだろうか。花より団子という人には、むしろこちらの方を楽しみに思うだろう。だが、昔の祭りはスケールが違う。競輪、競馬、山車パレード。こんなものまでというびっくりの催しの数々を紹介する。
 弘前公園の弘前競技場で自転車競走が行われたのは大正11(1922)年にさかのぼる。相撲興行などとともに行われた自転車競走の人気はすさまじく、大正14(1925)年には自転車に加え、オートバイも出場。同年5月6日の弘前新聞では自転車競走に7万人の人出があったと記録している。
 昭和9~11(1934~36)年5月の弘前新聞を見ると「競ふ車輪」「自轉(てん)車競走」などのカットとともに写真を掲載。本格的な競技が行われていたことが分かる。詰め掛けた群衆と競走の写真を見るかぎり、そこが弘前公園内とは思えない雰囲気だ。
 競輪があれば、競馬もある。昭和7(1932)年から始まったとされる競馬大会。同年5月の弘前新聞には「砂利組合の輓(ばん)馬競争 昨日郡部からの觀(かん)客多し」との記事が掲載されている。砂利運搬などの労働用として飼っていたであろう自慢の馬を出場させたもので、輓馬はともかく「速歩競争」もあるのが珍しい。津軽地方で今も根強い人気のある輓馬競走、馬力大会だが、桜祭りの会場で、しかも競走競技も行われていたとは驚きだ。ただ、弘前公園での競馬の歴史は短い。昭和17(1942)年がその最後といわれる。
 市歴史・文化活用推進監の宮川慎一郎さんは「当時、弘前は軍都といわれ、第八師団の司令部などがあった。軍馬の徴用などにより、大会は消滅していったのではないか」と推測する。
 もう一つあまり知られていない“幻のイベント”といえるのが「広告祭」。昭和6(1931)年から始まったこのイベントは、祭りの掉尾(とうび)を飾るものとして人気を博した。市内の醸造業者や建設業者らが自社の商品などを配した広告山車を作り、レビュー団や弘見美人(芸者)、楽団などを従えて市内を練り歩いたという。
 山車20台以上が参加し、本町、土手町、代官町、和徳町、元寺町などをコースに午前10時から午後3時まで続くロングラン。最後は人波を押し切って追手門から園内に入り、下乗橋下まで繰り込んだという。その後、祭りは昭和10(1935)年ごろまでには消滅してしまう。
 20年の節目となった昭和12(1937)年の観桜会は、懸賞仮装大会や花火、サーカスなどが人気で、西堀には竜宮城の造形物も出現したという。大正ロマンが現出した大正期から昭和初期にかけての観桜会に奥行きの深さを改めて感じる。
 宮川さんは「あと5年もすれば観桜会が始まって100年、2年で公園に桜が植えられて300年となる。地道な努力となるが、さらに100年たっても300年を経ても弘前公園に桜があればいいし、ここに住む人の心のシンボルとして変わらないようでありたい。そのための努力を今後もしていければ」と語った。

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