伊達げらを継ぐ

 

2012/2/25 土曜日

 

  かつて津軽地方で暮らす庶民のおしゃれ着だった「伊達(だて)げら」。装飾性の高さから民芸運動の柳宗悦(1889~1961)によって「出来栄(できばえ)は日本一の折紙をつけてよい」と絶賛され、一時は他の分野で生かす試みもあったが、伝統の技法は完全に途絶えたとされている。しかし、伊達げらは今なお作られ、技術の継承もほそぼそとながら進行中だ。伊達げらの作り手たちを訪ねた。

 

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生活の近代化で姿消す=1

 

平川市で50年ほど前に作られたとみられる伊達げら。県民芸協会の會田秀明会長(右)が保管している

  「けら」は雨雪などから身を守る蓑(みの)の一種だが、伊達げらや織げらと呼ばれるものは半楕円(だえん)形の襟元に手の込んだ編み込み模様があり、女性が町へ出掛ける際に着用するよそ行きだった。作るのは男性で、意中の女性や妻となる人に贈る習わしがあった。津軽の男が一人前として認められるための腕の見せどころだったという。
 平川市の女性(77)は昔、義父からこんな話を聞いている。「かが(=妻を)もらう時に(伊達げらを)着せたいはんで(=ので)作った。作らねば、もらえねんだ」
 民芸運動に情熱を注いだ弘前市の相馬貞三(1908~89)によれば、装飾を施したけらは東北6県に見られる手仕事で、県内では「津軽五郡にわたって製作されそれぞれに特色があった」(青森県域民芸品図録)とされる。また、農村工芸の振興を目指した平川市の大川亮(1881~1958)は、弘前市を中心に発達したと推察している
 いつごろから作られたかは不明だが、大川は1933(昭和8)年の時点で「僅(わずか)に残っている『オリゲラ』は時代の推移で亡(ほろ)びかけてゐる」(津軽の『ケラ』と『ハバキ』)と記しており、明治以降の綿や羊毛などの普及や生活様式の近代化に伴い、姿を消していったようだ。
 現在は民芸品として扱われているが、青森市の民芸品販売店「つがる工芸店」が製作を依頼していた弘前市の男性は数年前に他界するなど、作り手を探すことが困難になりつつある。
 取材の過程で、平川市民文化祭に伊達げらを出品していた男性が健在だと聞き、同市の自宅を訪問した。男性は工藤清栄さん(79)。4畳ほどの作業場に、自作の伊達げらが複数飾ってあった。襟元のカラフルな模様が目を引く。これまで20点ほど作ったという。鳥居や弓の矢は伝統的な模様だが、白や黒だけでなく赤や緑、黄など複数の色糸を使っている。洋服の柄からヒントを得ることもあると言い、独創性にあふれている。
 32(昭和7)年生まれの清栄さんが伊達げらを作り始めたのは2000年と最近のことだ。「言葉は知っていたが、目にしたことはなかった」が、近所に住む男性(91)にたまたま教わることになって以来、とりこになった。複雑な模様を形にしていく手作業は頭を使うため「分別が良くなる」と言い、健康維持に役立っていると語る清栄さん。津軽が雪に覆われる冬の間、黙々と作り続けている。

 

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