日曜随想

 

「再刊の願い」タウン誌が担った地域の記録

2020/1/12 日曜日

 

 昨秋、40年続いたタウン誌「あおもり草子」が刊行を止めた。報道によれば、同誌の売れ行きは一定程度あったが、地方出版物の市場規模縮小などが影響し、制作会社が営業を停止したためという。私もたびたび執筆の機会をもらい、編集部とは長らく懇意にしてきたので、今回のことが残念でならない。創刊当初から洗練されたデザインの誌面を持ち、毎号ワンテーマで県内各地の歴史や民俗、自然、文学、芸術などを美しい写真を添え特集してきた。また、伊奈かっぺいさんをはじめ多彩な青森人たちが筆を執って誌を盛り立てた。企業やお店などの協賛に支えられるタウン誌なので、喫茶や飲食店などさまざまな店先に置かれ、ふとした合間に手に取って眺める機会も多かったことだろう。重ね上げてもスペースをとらないスマートで丈夫な装丁は、読み捨てられずに後世に残るよう、よく考えられたものにも思える。結果的にこの青森という地域を長い時間をかけて記録していくために最適なパッケージがこのタウン誌だったわけである。わが家でも約30年分の200余冊が書棚を埋め、さながらさまざまな分野ごとの話題を詰め込んだ青森の百科事典のようでもある。
 改めて誌面をめくると、時代ごとの流行や世相をよく表す広告類も目を引く。懐かしい店名や往時のキャッチフレーズが誌面に踊り、それは全国誌のファッション雑誌で辿(たど)るよりも、ずっと鮮明に自分たちが見てきた光景をそこに甦(よみがえ)らせてくれる。全体を通して見れば、その時代ごとの人々のありようや街の姿、時代背景などを、ビジュアルを交えて記録してきた貴重な資料だ。
 今日、企業の財布の紐(ひも)は固くなる一方で、さらに、より直接的な広告展開が増えるなかでは、企業協賛に支えられる地方の文化事業は継続が厳しさを増している。そうしたなかで質の高い地域誌やタウン誌を続ける作り手、そして支え手には大いに敬意を表したい。
 手元に残る37年前のあおもり草子第15号「観桜会」特集には、巻頭で方言詩人の高木恭造さんがエッセーとともにこんな即興詩を寄せている。
 花より団子て言うどもせ、血圧あがて酒コも呑めなぐなた今の吾(ワイ)だキャ、団子より花だてばせ、わいいゝじゃァなァ…
 ソーシャルメディア全盛の時代であるが、便利さと手軽さばかりにとらわれ、活字文化を失ってはならない。100回目の観桜会を迎えるべく大事に育てた桜のように、こうした時代だからこそ、紙媒体の刊行物をしっかりと育み、次の世代のために記録を残し、伝えなければならないものがあるはずだ。
 これまで培ってきたあおもり草子のスタイルが息を吹き返し、地域の記録を再び刻んで欲しいと切に願っている。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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気ままな旅 文京区・鷗外の街を歩く

2020/1/5 日曜日

 

 令和元年、師走(しわす)最初の週末は明治の文豪・森鷗外(おうがい)の旧跡を訪ねて千駄木(せんだぎ)・根津を歩いた。東京メトロ千代田線・千駄木駅(出口1)の前が不忍(しのばず)通り、横に団子坂下交差点がある。団子坂は鷗外の旧居・観潮楼前からこの交差点へ下る坂だ。左折して坂を4分ほど上ると坂上に奇抜なフォルムの森鷗外記念館がある。
 ここは鷗外がそれまで住んだ千朶山房(せんださんぼう、千駄木57番)を30歳で移り、亡くなる60歳まで家族と暮らした旧居・観潮楼跡(千駄木21番)である。本郷台地の東縁にあたり、当時見晴らしがよく平屋を改築した2階から品川沖が見えたので観潮楼と名付けたらしい。
 記念館の地下1階が展示室。鷗外の胸像、ゆかりの資料、映像などを展示して、鷗外の生涯や功績、多彩な人間関係を紹介する。1階はショップとカフェ、2階は図書資料室が利用できる。
 外の庭園には鷗外生前の大銀杏(いちょう)が屹立(きつりつ)、黄葉していた。花好きな鷗外が500種以上作品に登場させた草花が植えられ、鷗外の文芸雑誌『めさまし草』連載の「三人冗語」(当時発表された小説を森鷗外・幸田露伴(ろはん)・齋藤緑雨(りょくう)が合評)を象徴する観潮楼の庭石も見られる。
 通路の側壁には永井荷風(かふう)書・詩碑「沙羅の木」が嵌(は)め込まれてある。鷗外を師と仰ぎ続けた荷風は「文学者にならうと思つたら大学などに入る必要はない。鷗外全集と辞書の言海とを毎日時間をきめて三四年繰返して読めばいゝ」(『鷗外全集を読む』)と述べていた。
 記念館の裏口(正門址(し))前が藪下(やぶした)通り。崖下の根津権現(神社)から団子坂の上へ抜ける一条の路だ。ここを下りて根津裏門坂通り坂上の日本医科大学前を右折すれば、夏目漱石旧居〈猫の家〉跡に着く(観潮楼から10分)。ここは鷗外が転居前に住んだ千朶山房跡でもある。
 さらに日本医科大学前へ戻り根津裏門坂を横切る。直進すると左角に聖テモテ教会が見える。そこを左折すれば根津権現の表門に下る新坂が現れる。鷗外が『青年』で名付けたS字坂だ。通りの右手には第一高等学校があった(現東大地震研究所)坂下の鳥居を入って参拝後、境内を抜け再び裏門坂通りに出る。先程と逆に根津から藪下通りを上り団子坂上へ向かう。漱石は団子坂を「坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである」と表した(『三四郎』)。
 千駄木は鷗外と漱石の共通項、文芸活動の原点であった。互いに意識し、礼を尽くしながら距離感を保つ。生き方や価値観、作品は好一対をなす。鷗外が始めた観潮楼歌会には与謝野寛・佐佐木信綱・石川啄木(たくぼく)・斎藤茂吉・高村光太郎らも参加した。軍医と作家を矛盾なく生きた鷗外の言葉が心に刺さる。「学問の自由研究と藝術の自由発展を妨げる國は栄える筈(はず)がない」(「文藝の主義」)
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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「クラウドなんて」―年の瀬の妄想―

2019/12/29 日曜日

 

 個人情報の流出が後を絶ちません。神奈川県庁職員がファイルを削除し、廃棄を業者に依頼したのに、廃棄業者の職員に転売された事件や、弘前市職員の個人情報データが新聞社にメールで届けられたなどさまざまである。背景にはセキュリティーとバックアップという悩ましい問題が考えられます。
 近年、クラウドコンピューティングというネットワークさえあれば、ソフトウエアや保管用資源が節約できる仕掛けが浸透してきました。接続業者は安く、確実にデータ管理をします、と企業に持ち掛けます。
 果たしてそうでしょうか。自分のデータが手元にないことに不安はないのでしょうか。確実にということは、複製を取っていますよ。災害に遭っても大丈夫なように離れた複数の場所に保管していますよということになります。維持管理費用を考えると国内とは限りません。スマホの機種変更や故障した際にデータ復元をしてもらうことをありがたいと思う人はいませんか。接続業者は、データを見せないようにすることはあっても消すことはありません。
 厄介なことにセキュリティーを強化しても、信頼されてきた内部関係者による情報漏洩(ろうえい)は防ぎ得ません。
 さらに5Gなる高速無線通信が普及しそうです。単純に考えれば2時間物の映画が2秒で転送できる仕掛けと立ち上がりの速さが売りのようです。政府は税制大綱に5G導入促進税制で15%減税を予定し、積極的に支援する姿勢のようですが、先発はアメリカから締め出されたファーウェイです。文字情報であれば、それこそあっという間です。何とも緊張感のないノー天気さです。
 かつて、エシュロンと呼ばれた通信傍受システムが三沢にあったように、中国が日本のデータを窃用しているかもしれません。
 建設作業であれば、環境影響評価のようにシミュレーションをして事前審査をしますが、情報のような柔物は直接被害を想定しないのでしょうか。
 信用情報や遺伝子情報、医療情報などは漏洩すると生命、財産に直結します。拡散されると取り返しがつきません。
 また、いつのまにか500万台に迫るほど普及してきた監視カメラ(防犯カメラとも言う)は誰がどのように設置し管理しているか不気味さを感じます。スマホでおなじみの顔認証を使えば、日常行動がバレバレです。対策はスマホのデカ目ソフトや香港デモの際に用いられたガイ・フォークスの面で歩き回りましょう。おっと、これはゴルゴ13の第163巻にありました。
 年明けに習近平国家主席が「桜を見る会」の名簿を持参して訪日し、恫喝(どうかつ)されないことを願って。
(弘前学院大学看護学部教授 三上聖治)

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「焼肉“たつ屋”の巻」「いきなりステーキ」がきた

2019/12/22 日曜日

 

 青森駅前大通りに焼肉屋、ホルモンたつ屋(以後T、和田龍也社長)がある。駅より徒歩3分。申し分ない立地であるが、なんと3年前その隣に沸騰チェーン『いきなりステーキ』がやってきた。しかし、Tの売り上げは、なんら影響されず、その後も順調に売り上げを伸ばしている。さて、その秘訣(ひけつ)は何か?
 Tは2010年にオープンした。和田社長29歳の時である。今でこそ多くの店が乱立する大通りだが、9年前はシャッター街に近かったという。とはいえ、公庫より1500万円を借り、25坪の駅前物件での出店は大きな賭けであった。
 和田社長は高卒後21歳までパチンコ店に勤務。家族旅行で韓国に行った折、本場のホルモンを食し、一念発起。こんなにおいしい焼肉店を自分で開こうと決意した。帰国後直ちに焼肉激戦地、東京でリサーチし、亀戸にある行列ができるという評判の焼肉店で修行した。幸い家族的な職場であったが、大卒でなく、何ら資格もない自分にとってここで諦めたら何も残らないと覚悟を決め、キャベツ、ネギなどの野菜切り、皿洗いなどから始め、夢中になって解体処理技術を習得した。
 青森市での開店に当たり問題は食材の仕入れであった。韓国や亀戸で食した新鮮でピンク色した内臓がなかなか手に入らない。新参で、若いからか業者に相手にされなかった。肉は新鮮が命である。通常焼肉店への納品は、処理後最短で2~4日。しかし4日目には色づきに変化が出る。何としても下ろしたてが欲しい。お客さまには常にいいものを提供したい。この思いが和田社長の背を押し何度も三戸の解体業者に請願に行った。結果、契約成立。8月のオープンにこぎつけた。
 順風満帆な営業を続けるTだが、和田社長には今でもトラウマのように思い出す苦い経験がある。東日本大震災後客足がぴたりと止まったのだ。客数が2人という日が何日か続く。オープン間もないのにどう借金を返していくのか。解決したのは和田社長の強い信念であった。
新鮮でいいものを常に出し続けよう。この思いを実現するため営業開始から、少しでも色づきが変わった肉はすべて煮込みにして無料で振る舞ったのだ。このことを顧客は忘れない。2人が3人になり、間もなくして常連客が返ってきた。ここに売り上げを伸ばし続ける秘密がある。
 和田社長は従業員には常に人として向き合った接客をしてほしいと言う。チェーン店のような外面がいい言葉でなく、あくまで自然体で向き合ってほしい。自分のできる範囲で、自分が見える範囲で、そして少しでも長い間、本物の焼肉を提供し続けたい、と。今回は筆者自身が忘れかけた初心を思い出させてくれた取材であった。
(青森県産流通システム研究所所長 牛田泰正)

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「ラクビーと一体性」インビクタスを思う

2019/12/15 日曜日

 

 約1カ月半にわたって世界中を興奮と感動の渦に巻き込んだ「ラクビーワールドカップ(W杯)日本大会」は、11月2日、大きな感動を残して南アフリカ共和国の優勝で終わった。
 私は元々、ラクビーが好きで、かつては1月15日に行われた社会人チーム代表と学生チーム代表との頂上決戦を楽しみにしていた。新日鉄釜石が7連勝した時などは興奮を覚えたものだ。しかし、ラクビーの見せ場は激しいタックルや強烈なスクラムなどだが、これが「危険だ」として、わが国ではラクビー人口も減少し、人気も次第に衰え、テレビなどでの試合中継も少なくなってきたようだ。こうした状況下での「日本大会」だったので、始まるまでは、これほど多くの人々が熱中するとは思えなかったが、日本代表が悲願のベスト8へ進出するという大活躍もあり、日ごとにファンが急増した。終わってみれば、ボーモント会長が「最も偉大なW杯として記憶に残ると思う」と称賛し、嶋津事務局長が「ラクビーの持つ価値が日本人のハートをわしづかみにした。2023年のフランス大会にバトンをつなぎたい」と語る大会となった。ラクビー人気を一過性のものとはせず、ラクビーの有する「価値」を今後とも継承していくことが重要であろう。
 ラクビーの有する「価値」とは何か、私を含め多くの人々は、民族・国籍を問わず、一つの目標に向かって「ワンチーム」として体力・知力・能力を駆使して全力を挙げることの重要性・尊さにこそあると感じたのではなかろうか。
 そんな時、クリント・イーストウッド監督の映画「インビクタス」を思い出した。アパルトヘイト(人種隔離)政策で27年間も投獄され、後に南アフリカ大統領となったネルソン・マンデラが、ラクビーを通じて人種差別を乗り越え、黒人と白人を国民として「ワンチーム」にしようとする物語である。当時の南アフリカではラクビーは白人のスポーツであり、黒人が政治権力を握った今こそ、代表チーム名(スプリングボクス)やユニホームを変更すべきだとの意見が多数を占めたが、マンデラはこれを継承することが黒人と白人の和解と団結の象徴となるとして反対した。こうしたマンデラの強い決意が白人選手にも伝わり、同国で開催された第3回W杯で、同国チームが栄冠を勝ち取ったのである。
 映画の全てが事実ではないだろうが、「インビクタス=屈服しない者」マンデラがラクビーを通じて南アフリカを「ワンチーム」にしようとしたように、私たちは今後、対立を乗り越え、目標に向かって「ワンチーム」として行動することが求められる機会が増えていくだろう。その際、「愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく」というマンデラの言葉も思い起こしたい。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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