日曜随想

 

「アート悶々2」彫刻って?

2019/12/8 日曜日

 

 彫刻という言葉が芸術(アート)として捉えられるようになったのは明治以降のことで、それ以前は文字通り「彫り刻む技術」を意味するものだった。では、彫刻は「芸術(アート)である」というイメージはどのようにつくられてきたのだろうか。以下、ざっくりと見てみよう。
 1876(明治9)年に工部美術学校が開設され、そこに彫刻学という学科がつくられた。ここにおいて教育機関として彫刻という文言が初めて出てきたが、その言葉の意味は、彫刻をつくる技術を指していた。西洋化を図るべく、所謂(いわゆる)銅像などをつくる技術を教えることが主な目的だったのである。その後、西洋一辺倒への反動から日本美術への回帰を唱えるフェノロサと岡倉天心によって82(明治15)年東京美術学校が開校された。当初は木彫科しか無かったが、やがて98(明治31)年に洋風彫塑が実技に加えられた。その後、高村光太郎や荻原守衛などの近代の作家がロダンの影響のもとに具象彫刻の概念を築き上げてきた(ただし高村光太郎は日本の伝統的な木彫も並行して制作しており、日本の彫刻の在りようを模索していたようにも見える)。
 やがて、抽象的な表現(これも西洋から入ってきた)が出てきて野外彫刻などの公共の場へとその活動の場が広がり、彫刻という概念に空間造形的なニュアンスも加わった。また近代以降の前衛芸術の中の立体作品や身体表現、形がない概念的なものなども彫刻と呼ばれ得るようになり、その捉え方は広がっていった。
 現代でもアーティストがつくった立体造形物であればあえて〝彫刻〟といったりすることがある。これらは以前であれば〝オブジェ〟などと表現されたりしたのであるが、〝オブジェ〟より〝彫刻〟の方が重厚なイメージがあるし、何と言っても芸術の香りがし、蘊蓄(うんちく)もある。これらは先人たちが築き上げてきた〝彫刻は芸術である〟というイメージを(意識的、または無意識的に)拠(よ)り所とし、これは芸術作品である、と主張しているようにも見える。
 以上、彫刻という言葉の持つ意味・イメージの変容を大雑把(おおざっぱ)に見てきた。彫刻の概念は時代とともに広がって(というより曖昧(あいまい)になって)捉えるのが難しくなった。ただ使われている意味はいろいろだが、彫刻という言葉だけに限って言えば、今のところアートの範疇(はんちゅう)に収まっていることは確かであるようだ。
 かこさとしの子ども向け美術入門書「すばらしい彫刻」というすばらしい絵本がある。その冒頭に彫刻家のことを「にんげんは 大むかしから 石を つみあげたり いわを きざんだりして いろいろな かたちや すがたを つくってきました。それを つくるひとを 彫刻家とよびます。」と定義している。彫刻家の仕事は、これで十分なのかもしれない。
(弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)

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「ひろさきナイト」9回目となる交流の架け橋

2019/12/1 日曜日

 

 函館では、12月になると観光名所として知られる赤レンガ倉庫群前の岸壁に、華やかな電飾で飾られた巨大クリスマスツリーが運ばれ、約1カ月にわたる「はこだてクリスマスファンタジー」が幕を開ける。ツリー前に設(しつら)えたステージでは連夜、趣向を凝らした点灯式典が催されるが、ここで毎年、弘前市によるイベント「ひろさきナイト」が開催される。弘前や津軽地域の人たちには、なじみが薄いかもしれないが、点灯式の中では最大級の集客を誇る催しで、今では多くの函館市民がこの日を心待ちにしている。
 2011年に、弘前と函館、両市の商工会議所などで設立した「津軽海峡観光クラスター会議」の議論をきっかけに、この年の冬、初めてのひろさきナイトが開催された。津軽三味線やご当地アイドルによるステージイベント、巨大アップルパイの振る舞い、リンゴのPR、津軽塗や打刃物など工芸品の展示販売など。さらには、この日に合わせて弘前市民に呼び掛けて函館へのツアーまで企画される、まさに「函館の街を弘前がジャックする」催しであり、この日の函館は弘前の話題で持ち切りになる。
 はこだてクリスマスファンタジーは、函館の姉妹都市カナダのハリファックス市から毎年贈られるもみの木を用いて、交流の架け橋にしようと21年前に始まったものだ。この催しにひろさきナイトが加わることは、新幹線開業が迫っていた当時の函館にとって、もう一度足元を見据え、新たな都市間交流を開くという意味でもぴったりのものだった。
 私は縁あって、ひろさきナイトを開催当初から手助けし、間近で関係者のエネルギッシュな活躍ぶりを見てきた。それはまさに、弘前の市役所や商工会議所、観光コンベンション協会などによる総力戦。単純な観光PRに留まることなく、戦略的で緻密なスケジュールの中、あらゆる機会を捕らえて、自分たちの街のアピールに努めていた。表舞台で市長をはじめ両市の代表者たちが公式に手を取り合う、と同時に、舞台裏では函館に赴いた多くのスタッフが街を駆け回り、数多くの関係を築き上げ、連携の種をまいてきた。企業経営者らが自ら腕を振るう巨大アップルパイの焼き上げでは、そのスケール感と出来上がりの見事な味わいに舌を巻いた。ひろさきナイトはわが街函館にとっても大きな刺激となり、その後の両市の交流連携は急速に深まった。
 当初を思い返せば、まさに手探りで始めたひろさきナイトだったが、継続の成果として、肩書によらない「顔の見える繋(つな)がり」が積み上がってきていると、今は手応えを感じている。
 今年のひろさきナイトは12月14日に開催される。また両市の新たな交流が芽吹くことを楽しみにしている。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「気ままな旅」盛岡市・渋民で啄木を追う

2019/11/24 日曜日

 

「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」
 石川啄木(たくぼく)の名が私の心に入り込んだきっかけは、この三行書き短歌だった。なぜこんな強い言葉を使わねばならなかったか。啄木にとって「ふるさと」はどんな存在だったか。そんな疑問をずっと抱きながら答えを出せずにいた。
 11月3日(文化の日)朝、啄木が過ごした旧渋民(しぶたみ)村の原風景をまたたどってみたくなった。とりあえず自家用車で盛岡市渋民にある石川啄木記念館へ向かう。東北自動車道・大鰐ICから1時間10分ほど走り、滝沢ICから国道4号を青森方面へ約10分、啄木の理想の家(「呼子(よぶこ)と口笛」)をモチーフにした、白い瀟洒(しょうしゃ)な石川啄木記念館に到着する。
 記念館は何度も訪ねているが、いつも心ときめく。それまで見過ごしていた展示物の価値に気付いたり、新たな展示物に目を見開いたり、関心・知識等の条件で啄木観が変わってくる。この日は啄木の東京時代(終焉(しゅうえん)の地・東京都文京区)の生活と文学をテーマにした「啄木と文(ふみ)の京(みやこ)」展が企画されていて貴重な知見を得た。
 記念館左横の中庭には啄木が代用教員をした旧渋民尋常小学校、一家が住んだ旧齋藤家が移築され、「啄木と子供たち」の像がある。高台には啄木慰霊塔が建ち、裏面に亡くなる10カ月前の病床で作った歌が刻まれている。
「今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば、/ふるさとに行きて死なむと思ふ」
 記念館右手の奥には父・一禎(いってい)が住職を務め、啄木が幼少年期を過ごした宝徳寺がある。ちなみに生誕の地・常光寺は記念館から東南へ車で20分。北上山地中腹にある。また啄木が生命(いのち)の森と呼んだ愛宕(あたご)神社(山)は記念館から南へ徒歩15分。参道は急坂だが、神社隣接の展望台に立つと岩手山渋民の全景が一望できる
 圧巻は記念館から西へ徒歩3分の渋民公園。北上川と岩手山が望める絶好の場所に建立された第一号歌碑がある。
「やはらかに柳あをめる/北上の岸邊目に見ゆ/泣けとごとくに」
 歌碑裏手の階段を下ると、北上川が見え、鶴飼(つるがい)橋が架かっている。橋の中央から眺めると東に姫神山、西に岩手山が鎮座し、間を北上川が流れている。啄木は東京や函館へ向かう際、現在の鶴飼橋より下流にあった元の鶴飼橋を渡り、鉄道沿いに好摩(こうま)駅へ歩いたといわれる。
「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」
 歌集『一握の砂』『悲しき玩具』には望郷歌が多い。石をもて追われるごとく渋民を出(い)で、世の中の不条理に翻弄され、26歳の生涯を生き抜いた啄木。ふるさとの山川は不条理に打ち克(か)つための装置だったのか。啄木が日記に残した言葉、故郷が「心の磁石を司配(しはい)して居た」を思い出す―。
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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「評価主義と平等性」恋愛は好き嫌いでいいのに‥

2019/11/17 日曜日

 

 11月1日に萩生田文部科学大臣が「受験生をはじめとした高校生、保護者の皆様へ」として、文部科学大臣の萩生田光一です。皆様に、令和2年度の大学入試における英語民間試験活用のための「大学入試英語成績提供システム」の導入を見送ることをお伝えします。(以下省略)―とのメッセージを発表しました。教育界は大騒ぎのようです。また同様な高大接続改革として数学と国語に関しての記述式問題も、公平性に疑問がもたれています。
 英語だけがなぜ何回もトラブルのあった装置を導入し続け、民間試験の導入を提案するのか理解に苦しみます。
 さらに令和3年度からの大学入学共通テスト、英語の試験には場面設定によってはイギリス英語を使用することもあるとのことです。
 なんだんづ。
 高学歴社会で進学希望割合が増えたとはいえ、少子化でついに今年はセンター試験受験者が減りました。大学は増え続け800校を超えようとしているのにです。
 選択式問題の弊害はずっと以前から指摘されており、やっと新たな方法論が確立されて自動的に採点されるかと思ったら、ここでも民間活用の人海戦術でした。
 生物の多様性ばかりではなく、人間の多様性も認めることはできないでしょうか。
 どうも役人にはランキングを付けたがることと管理をしたがる悪い癖があるようです。
 総合点での評価は、各教科ともバランスの取れたお利口さんは入学できますが、一科目だけ特出した能力の世界を変えるような人は入学できません。スーパーサイエンス教育はどうなっているでしょうか。才能のある若者の才能をさらに伸ばす環境は役人にはできません。教育基本法には、教育は、人格の完成を目指す、とあります。さて…
 話は変わりますが、以前は大学で保有している装置を民間の研究員が借用に来た時代がありました。現在は民間の企業が大学より高性能の装置を有していますが、研究者に貸し出すことには積極的ではありません。民間企業から日本でもノーベル賞受賞者が出る時代になりました。教育機関と地域との連携、企業との共同研究は近年お互いの利害が一致したのか積極的になってきました。ここでも、人材や資源の地方格差が存在します。インフラとして5Gを無料にでもすれば何とかなるかもしれません。
 キャリアを考慮した不定期入学、不定期卒業を考える時期ではないでしょうか。就職活動解禁とかの議論も海外企業を中心として参加しない時代になってきました。現在の知識より人間性や積極性、有望性が適切に教育機関や社会でも求められるのではないでしょうか。
(弘前学院大学看護学部教授 三上聖治)

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「六曜の意味」仏滅の結婚式って大丈夫?

2019/11/10 日曜日

 

 先週の日曜日に、身内の結婚式に参加し、「仏滅なのに、結婚式やって大丈夫なの」と、ちょっと気になったので、今回は六曜について調べてみました。
 暦には日付以外にも、曜日・祝日・節季・月の満ち欠けなど、主に天文学に関する様々(さまざま)な事項が記載されていますが、これらを総称して暦注といいます。六曜はこの暦注の一つで、占い的な性格の暦注と言われています。六曜はもともと中国で「時間」を区切る際に使われていた考え方で、「先勝」「友引」「先負」「仏滅」「大安」「赤口」があり、現代の日本では、日にちの吉凶を占う指標として利用されています。
 【先勝】(せんしょう・せんがち・さきがち等)「先んずれば即ち勝つ」早いほうがいいという意味で、やるべき仕事は後回しにせず、さっさと片付けてしまったほうがいいと午前は吉、午後は凶とされています。
 【友引】(ともびき)「凶事に友を引く」の意で、災いが友にも及ぶとされていますが、本来は「共引」と書かれており、意味も「勝負なき日」、つまりは引き分けになる日という意味でした。現在のような意味は後世に作り出され根拠がないとしながらも、現在は、友引の日には、葬儀はあまり行われません。これには葬儀業界全体の、休暇事情なども絡んでいるようです。
 【先負】(せんぶ・せんまけ・さきまけ等)「先んずれば即ち負ける」の意で、急がば回れ、急いては事をし損じるということです。午前は凶、午後は吉とされています。
 【仏滅】大凶日。仏陀(ぶっだ)も滅するほどの凶日とよく解釈されますが、本当は仏教とはまったく無関係で、もともとは「空亡」や「虚亡」と記したものが、意味の上で「すべてが滅ぶ」と解釈され「物滅」と表記されるようになり、明治時代に暦学者が「物」に「仏」の字を当てたことから仏滅と表記されるようになったそうです。物滅の面白い解釈としては、何事も新しく始まる前に古いものは一度滅びるということから、物事を始める際には良い日だという解釈もあるそうです。
 【大安】(たいあん)「大いに安し」大吉日。そのため結婚式などの慶事の多くは、大安を選んで行われます。ただし昔は「泰安」と書かれていました。
 【赤口】(しゃっこう・しゃっく・せきぐち等)一説には仏滅を超えるとすら言われる凶日。陰陽道(おんみょうどう)の「赤舌日」という凶日に由来すると考えられています。「赤」の字が付いていることから、火や刃物(血)に気を付ける日と解釈されています。基本的に凶日でも、正午前後のみは吉とされています。
 仏滅は、今までの嫌なことをすべて終わらせリセットし、新しい生活を築き上げるスタートの日と考えれば、けっこう良き日なのかもしれませんね。
(弘前医療福祉大学教授 小玉有子)

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