日曜随想

 

「ビッグデータの時代」数字に惑わされない

2013/6/2 日曜日

 

 最近はやりの言葉に「ビッグ・データ」がある。なかなか迫力のある言葉だが、要は、たくさん集められた電子データのかたまりのことだ。例えばインターネットの検索サイトで時々刻々打ち込まれる、おびただしい数の言葉がそうだ。これらはデータとしてストックされている。フェイスブックやツイッター上の話題、ショッピングのデータ、携帯電話が発信する位置情報も同じだ。これらが脚光を浴びるのはその膨大なデータを統計的に分析することで人々の振る舞いや考えについての新たな発見が期待されるからである。
 ビッグデータは最近のはやりだが、統計に関する知識は、パソコンが普及して以降、重要視されるようになっている。小中高で学ぶ統計についての知識も昔に比べて増えているらしい。数字が苦手だという人にとって、このような時代の変化は悪夢だろうか?
 しかし、よく考えてみれば、私たちの日常はさまざまな統計データであふれている。「あまちゃん」の視聴率が20%を超えて好調であるとか、イチローの打率が低迷しているとか、日本社会の自殺率が高いとか、内閣支持率が上がった、下がった等々(ちなみに筆者の学生時代の下宿先に、ある日調査会社の人がやってきて視聴率を計測する機械をテレビに取り付けていったことがあり、本当に視聴率を測っているのだなと感心したことがある)。私達はこのような数字をみて、納得したり、深刻な気持ちになったりしながら、生きている世界を理解したり、仕事や生活のヒントにしたりしている。
 私自身は研究上、統計的な分析をすることがあり、統計が非常に大きな力を持つことを実感している。しかし全ての人が細かい数字の操作をする必要はない。それは物好きや専門家に任せておけばよいことだろう。多くの人にとって大事なのは、数字をみて早合点しないようにすることだ。
 あまちゃんの視聴率が20%を超えたといっても、20年以上前であれば朝ドラの視聴率が30%を超えるのは当たり前だったのだ(あの「おしん」は50%を超えている!)。また近年頻繁に行われている政治的な問題に関する電話による世論調査の場合、携帯電話しか持たない一人暮らしの若者は対象外である。なのに、回答者の年代別、性別の割合が明示されないことはしばしばだ。これでは、誰の考えが示されているのかが分からない。
 数字の持つ魔力は恐ろしいもので、私たちは、数字が客観的真実を示すものだと思いがちである。しかし数字は人間が解釈をして初めて意味をもつ。統計やそれに付された解説をみたら、それをうのみにするのでなく、かといって無視するのでもなく、一呼吸おいて、違う見方ができないか考えてみるべきだ。「それ本当?」と。
(弘前学院大学専任講師 藤岡真之)

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「明治の海外留学生」農業を志した菊池群之助

2013/5/26 日曜日

 

 明治10年、津軽地方からアメリカのインディアナ州に5人の東奥義塾生が留学したことは、津軽近代の歴史の中でよく知られている。ただし、インディアナ州のインディアナ・アズベリー大学(現在のデポー大学)に留学したのは、4人であり、最後に渡米した菊池群之助は、同大学に入学することなく、現地で亡くなっている。
 菊池群之助は、初代弘前市長菊池九郎の弟である。最初、菊池についてはよくわからないことが多かった。わかっていたのは西南戦争に従軍した後に渡米し、他の4人と同じ大学周辺にいたこと、現地に葬られていることくらいである。明治期津軽地方の洋学受容の研究を進める中で、菊池に関する資料も少しずつ集まってきた。ほとんど知られていない人物なので、今回は、彼について、少し書いておきたい。
 菊池は、明治7年末から東奥義塾に在職したアメリカ人、ジョン・イングの協力の下で、渡米計画を立てていた。目的は、農業を学ぶことだった。当時、イングの父が大きな農場経営を始めており、イングは農場で働く日本人として、菊池を推薦する手紙を父に宛てて送っている。菊池が農業を志した背景に、当時の津軽地方の状況があった。維新後の廃藩置県を経て、士族たちの生活環境は激変していた。職を失った士族も多く、彼らは地域の産業を興すのに力を尽くした。リンゴ産業もこの頃のさまざまな試みの中から産まれてきている。まずは食べて行くこと。そのために、菊池はアメリカ型の農業を学ぼうとしたものだろう。
 これは私費留学だったようである。先に渡米した4人は、アメリカのキリスト教関係者の協力で、なんの心配も無く目的地に到着したが、遅れて渡米した菊池は、道中半ばで旅費が足りなくなった。途中からは、厳寒の中を徒歩で目的地グリーンキャッスルに向かった。春先に現地についた菊池は、すでに咳(せき)をしていた。そのまま結核を発症し、冬に亡くなった。現地の人たちは、病に倒れた菊池を手厚く看護し、亡くなった時は丁寧に弔ったという。
 2007年、初めてデポー大学で現地調査をしたとき、同大スタッフの案内で菊池のお墓参りをした。菊池の墓は、広大な墓地の中で、ひときわ小さい。朽ちかけた日本語の墓標を見たとき、広大な中西部の風景が頭をよぎった。風雪を遮るもののない中、何を思って歩いて行ったのだろう。力つき、異郷でこの世を去るとき、彼の脳裏に浮かんだのは、何だったのだろう。
 大学の売店で売っていたお寿司一折と水を墓前に供えて、ひととき祈りを捧げた。交通が発展している現代と違い当時の留学は命がけである。郷土の産業発展のために命を捧げ、今はひっそりとアメリカに眠る人物がいる。それを、ここに記しておきたいと思う。
(青森中央短期大学教授 北原かな子)

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「早い、うまい、安い」吉野家倒産からの学び

2013/5/19 日曜日

 

 外食産業黎明期の店舗開発、事業開拓精神には凄味(すごみ)があった。牛丼の吉野家をチェーン化し、産業へと拡大した故松田瑞穂氏もその一人である。お会いした当時はまさに絶頂期であった。
 1960年代後半から70年代にかけては、市場調査が明日の成功への鍵を握っていた。といっても今のような市場分析ノウハウがあったわけではない。経験がものをいい、勘が頼りであった。自店の商品が市場に受け入れられるのかを、自分の足で歩き、見て、食べての体を使っての調査が主流であった。そんな中、松田氏はいち早くチェーン理論を実践し、ダイナミックに短期間の間に吉野家を拡大された。
 吉野家がアメリカ・カリフォルニアへ進出を企てた79年頃のことである。筆者は吉野家フランチャイジー筆頭であったN商事の通訳として私が得た物件情報を携え調査に同行した。そこで見た松田氏の醸し出す不思議なカリスマ性に大学を卒業したばかりの私が怖さを感じたことを忘れられない。
 お会いしたのはカリフォルニアの小さな飛行場。元自衛官だったという幹部がヘリコプターを使った空からの視察を終えた松田氏を数人で出迎えた。そして車に乗り換え、予定された競合店調査が始まった。出迎えた社員の方々の動きに無駄がなく緊張した動きが今でも脳裏に残っている。
 吉野家は外食が産業といわれる以前に他の企業に先駆けてアメリカ式のセントラルキッチンやフランチャイズ展開方式を導入。10年後には目標の100店舗を早々と達成。そしてさらにアメリカにも進出してチェーン拡大を目指そうとした。しかしながらその急拡大が災いして流通体制が間に合わず品質を劣化させ、倒産した。
 松田氏は水商売とさげすまれた飲食ビジネスを産業といわれるまでに押し上げた一人である。今でこそレストランビジネスは就職戦線の主要な産業になっているが当時は大卒が集まらない産業であった。他の産業に負けたくないという思いが氏を駆り立てたにちがいない。それゆえにその経営手腕はワンマンといわれるほどに強引でありまた、それゆえにこれだけの急激な拡大が可能であったといえるだろう。
 倒産の後、吉野家は再建を引き継いだ管財人の采配の下、立ち直り、現社長安部修仁氏を中心に快進撃を続け、2000年一部上場を果たしている。
 我々は吉野家倒産から多くを学んだ。リーダーシップのあり方、顧客を裏切らない品質重視の考え方は、その学びである。松田氏はよく「牛丼を科学する」といわれた。そしてその日のうちに当日の利益がわかる仕組みも作られた。「早い、うまい、安い」、今も多くのサラリーマンは明日への元気をこの牛丼からいただいている。
(弘前医療福祉大学短期大学部教授 牛田泰正)

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「八重の桜」異聞 尚之助と出石、江戸、函館

2013/5/12 日曜日

 

 NHKの大河ドラマ「八重の桜」が好評とのこと。GW中に会津若松市を訪れた観光客は昨年の8割増とされ、この2年、観光客が大きく落ち込んでいた福島県には喜ばしいことだ。復興の一助となることを期待したい。
 私もこの「八重の桜」に刺激され、連休を利用して、兵庫県豊岡市出石町を訪れた。出石町は城下町の風情を強くもつ町で多くの観光客を魅了している。盛岡の「椀子そば」と同様に少量ずつ皿に盛られている「皿そば」でも有名だ。今回で5度目となる訪問だが、以前の訪問で、沢庵和尚や「粛軍演説」「反軍演説」で知られる政治家斉藤隆夫、帝国大学(現東大)総長を務めた加藤弘之などがこの出石町出身であることを知ったが、今回は八重の最初の夫である川崎尚之助の生誕地としての出石町訪問である。
 尚之助は幕末に出石藩藩医(一説に町医者)の次男として生れ、東京で亡くなった。出石町には川崎家の菩提寺の願成寺があり、尚之助の戒名を記した墓石があったとされるが今はもうない。尚之助の縁のものは、町の入り口の「川崎尚之助生誕の地」という看板、願成寺前の供養碑、生家跡案内板などで、これらは全て「八重の桜」の放映とともに建てられたものだ。これ以外には尚之助の足跡を偲(しの)ばせるものは見つけることができなかった。
 私は予備的な知識として、加藤弘之やブラキストンと尚之助の関係を知ることができた。尚之助は八重の兄、覚馬と江戸の坪井為春の塾で出会い、その縁で会津に赴くが、加藤もほぼ同じ頃にこの塾で学んでおり、出石出身の二人の俊英が蘭学や舎密(セイミ)学(化学)を机を並べ学んでいたかも知れない。ブラキストンは津軽海峡が動植物の分布境界線である「ブラキストン線」の提唱者だ。動物学者として知られているが、幕末から明治にかけて函館で貿易商人としても活躍した。尚之助との縁はどうか。会津戦争で八重とともに新政府軍と戦った尚之助はその後も旧会津藩の人々と苦難を共にし、斗南藩が再興されると青森県に移住している。藩の領地の大半は自然条件の厳しい下北地方で、食にも事欠く有様だった。尚之助はこの窮状を救うため米を求めて函館に渡っている。しかし、米の取引をめぐる騒動の中でブラキストンと相対し、訴訟事件に巻き込まれる。尚之助は一身でこの事件を引き受け解決に当たるが、その苦労も重なり40歳の若さでこの世を去っている。
 出石町出身で同学の加藤が東大総長となり、ブラキストンが函館市の発展に寄与した人物として顕彰される時、会津藩との義に生き、最後まで藩のために尽力した尚之助の業績を再評価することも必要ではないか、その思いを強くしたのが今回の訪問であった。
(青森地域社会研究所特別顧問 末永洋一)

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「健康リーダー育成」早死を減らすために

2013/5/5 日曜日

 

 弘前市から弘前大学に寄附講座「地域健康増進学講座」が創設されたのが昨年の4月である。市民の皆さまのご負担によるところが大きいので、一部ご報告申し上げたい。
 この講座の主な仕事は、弘前市民の健康のために一肌脱ぐことのできる人材(健康リーダー)を育成することである。1期生27名が2月に巣立った。
 1期生の皆さんには、年齢の違いや職業の違いがある。歩んできた人生、性格、属する組織も異なる。
 どうしてこのような活動を思い立ったかについて説明したい。
 平均寿命である。去る2月に厚生労働省から公表された2010年の都道府県平均寿命ランキングで男女とも青森は最下位(最短)であった。5年前と同じである。そしてトップにはついに男女とも長野県が立った。
 青森県民の平均寿命が短いことの理由は大体分かっている。以下のようである。(1)ほぼ全年代の死亡率が高い。したがって、青森県の平均寿命対策は、「お年寄りに元気で長生きしていただく」と同時に「早死を減らす」対策でもある。(2)おもな死因(がん、心筋梗塞、脳卒中、自殺)の死亡率が高い。また、すべての生活習慣病の原因となる糖尿病の患者も多い。(3)この背景には、青森県民の生活習慣の悪さ(喫煙、肥満、多量飲酒、食生活、運動習慣)と健診受診率の低さ、病院受診の遅さ・通院状況の悪さがある。このいずれでも長野県に大きく水をあけられている。
 最初に厚生省から平均寿命ランキングが公表されたのは1965年であった。その時の長野県の順位は、男性9位、女性26位。全国の真ん中から、長野県はトップに上りつめたのである。
 長野県の躍進の理由は何なのか?
 筆者は、県民の健康に対する意識が高いことにあると考える。それではなぜ高いのか。その背景に、健康リーダー(健康補導員など)の活発な活動が挙げられる。長野県では、保健補導員が今から40年から50年前に急速に普及し、それに時期を同じくして平均寿命の躍進が始まった。
 保健補導員。2年任期のボランティアで、ほとんどが女性である。4割が仕事を持ち、月2回は活動をする。発祥の地須坂市では全人口の1割(女性の2割)が経験者である。「各家庭のお母さんが健康の知識を身につけたらその地域の健康レベルは格段に上がる」という読み人知らずの名言があるが、まさにそのとおりである。
 一期生のお一人が提案された清水交流センターでの健康運動教室が4月に始まった。そこには同期生がたくさん集まり、住民の皆さんの前で運動指導をしておられる。まさに壮観である。
 健康づくりについて夢と悩みを語り合える仲間がたくさん欲しい。
(弘前大学医学研究科長 中路重之)

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