日曜随想

 

「30年後の湧き水」技術が根づくための時間

2012/9/30 日曜日

 

 先日、10年ぶりでタンザニアの首都ドドマを訪ねた。「植林プロジェクトが根づいた村がある」と研究協力者のTさんが教えてくれ、ワークショップのあいまに案内してくれた。
 ドドマの年間降水量は平均600ミリ、日本の平均降水量の3分の1以下である。乾季のさなかなので、茶色に乾いた大地に、葉を落としたバオバブが林立する風景がはてしなく続く。幹線道路をしばらく行くと、青々とした葉を茂らせた並木道の先に黒々とした森があらわれた。
 この地域ではかつて、JICA(現在の国際協力機構)がかなり大規模な植林プロジェクトを展開していたのだが、このように乾燥した気候のもとで、農業と牧畜を営む人びとのあいだに植林を普及させることは至難の業だったと聞く。自分たちにさえ足りない水をどうして苗木などに惜しみなく使えようか。
 いくら苗木を配っても村びとは興味を示さず水をやらないので、せっかく植えた苗木が枯れてしまったり、植林地に牛が入って踏み荒らされたりして、落胆する日も多かったと述懐する関係者もある。
 しかし1980年代に植林プロジェクトが入ったこのH村では、自発的に植林活動に参加したある女性が、熱心に植林の良さを説いて同調者を増やし、プロジェクトが終わってからも、村の共有地10ヘクタールに植えた苗木を大切に育ててきたのだという。
 植林から30年を経た現在では共有地の木々が大きく育って森になっており一歩足を踏み入れるだけで森の外側とはまったく別世界の涼しさである。
 さらに数年前からは、共有林近くの枯れ川に水が湧き出したという。現在、そこでは牛飼いが牛群に水を飲ませ、人びとがポンプで水をくみ上げて川岸に野菜畑を作っている。野菜は町に出荷してまとまった収入を得る。
 30年も前にまかれた植林という種がプロジェクトに関わった人びとの手から村びとの手へと受け継がれ、森となって湧き水を涵(かん)養(よう)したのだろうか。H村の人びとは、いまでは共有林を大切な財産だと考えている。
 このように外来の新しい技術が根づくまでの過程を見ると、多くの事例に共通する点がある。それは、外来の技術をもちこむ人びととその地域の人びとをつなぎ、新しい社会関係を作り出す要となる人の存在である。H村では、上述した一人の女性が、プロジェクトに関わる人びとと村びととの橋渡しの役割を果たした。
 H村で植林された苗木が立派な共有林になるまで守り育てられたのは、それを可能にする新しい社会関係が創りだされ、苗木が育つのと同じくらい長い時間をかけて、涵養されてきたからなのだと思う。
(弘前大学人文学部教授 杉山祐子)

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「住みよいまちとは?」アンケートと人のつながり

2012/9/23 日曜日

 

 本紙でも報道されていたように5月に行われた第2回目の弘前市市民評価アンケートの結果が先月、市によって公表された。このような市民の意見を尋ねるアンケートは多くの自治体が行っていると思うが、アンケートが公表され新聞等で話題となるのはよいことだと思う。アンケートには市長や市役所への評価を尋ねる項目もあったが、このような試みも歓迎したい。
 アンケートには多くの質問があるため新聞等ではすべては示されていないが、市のホームページにはすべての集計結果が公表されており、誰でも閲覧できるようになっている(市の施設でも報告書が閲覧できるそうである)。その中から気になった項目をいくつか拾ってみたい。
 「弘前は住みよいまちか」という質問には「住みよいと思う」が70・0%、「住みにくいと思う」が5・2%となっており、良好な数字を示していると思う(単純な比較はできないが、東京都が昨年行った「都民生活に関する世論調査」では、東京の住みやすさについて尋ねた質問に対して「住みよい」との回答は59・1%である)。ただし年代別では、30歳代は「住みよい」が59・4%でやや突出して低いのが気になる(高いのは70歳以上の74・6%)。雇用に関する項目で20、30歳代の不満度がやや高く、子育て環境に関する項目や福祉全般に関する項目でも30歳代前後で不満度の高い傾向があるので、これらのことが影響しているのかもしれない。
 近年、社会学などでは人と人とのつながりや信頼関係のことを社会関係資本と呼び、これが豊富であることが生きやすさや教育、健康などへよい影響を与えるということがよく議論されている。アンケートの中から社会参加や人づきあいに関係する質問をみると、地域の活動や行事へは、年代が上がるほど参加度が高く(「よく参加している」と「ときどき参加している」を合わせた割合は30歳代で32・3%、70歳以上で45・1%)、居住年数が長いほど高く、性別では男性がやや高いという結果で、習い事や趣味、ボランティアなどについては年代が上がるほど高く(「している」の割合は30歳代で21・9%、70歳以上で29・8%)、女性の方が高くなっている。年長者の社会参加が高いことに安心すると同時に、若年層の低さが少し気にかかる。というのも人間関係は日々の悩みの種であると同時に、楽しみの源泉でもあるからだ。
 この種の調査は大きな労力やコストを必要とするものであろうが、継続して行い、広く知らせることが重要だと思う。調査結果を共有し、さまざまな意見を知ることが社会関係資本を蓄積させ、住みやすい地域をつくることにつながると考えられるからである。
(弘前学院大学専任講師 藤岡真之)

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「教え子に学ぶ」石巻で出会った言葉から

2012/9/16 日曜日

 

 以前本欄で書いたが、私は昭和60年の石巻西高開校時に新採用で教師になった。先日、同高同窓会に出席した。印象に残ったこと2点と感じたことなどを、書いておきたい。
一つは、O君との思いがけない再会。彼は高校時代、なかなか個性的だった。決しておとなしくもなければ、まじめに勉強するわけでもない。生活態度も含めてなかなか教員側の指導にのらず、簡単に言えば手を焼かせる生徒だった。しかし、ラフな格好で同窓会に出てきた彼は、見違えるようになっていた。「先生、おれ、こないだ一週間ハワイに行ってきたのよ。なんでだと思う?オレね、会社で一番業績あげたから、ご褒美だったんだよ」。
彼の語るところによると、大学も自力で学費を稼いで卒業し、今の仕事に誇りを持って働いているという。うれしそうに語る彼の顔を見て、こちらの方が、もっとうれしかった。多少語弊があるかもしれないが、高校時代とはまるで別人である。彼の場合は、つまり「学校という枠」に収まらなかったということなのだろうな、と納得する。
二つ目は、野球部主将K君の言葉。「大変だったかって言われれば、そうかもしれないけど。ま、それはそれ。目の前のこと、できることからやっていくしかないから」。「復旧はもう終わって、あとは復興に向かうだけ。それぞれの立ち位置で、できることをしていけばいいんじゃないかなぁ」。
本人は意識していないだろうが、淡々と語る中に、すごみに近い迫力が漂う。まるで戦争を経験した世代と話しているような、そんな感覚があり、アラフォーの彼ら彼女らが、大震災から復興に向かう中心世代であることを、ひしひしと感じる。
K君の言葉通り、みな、それぞれの立ち位置でがんばっている。住居と生活を奪われた人たちのために、被災者自ら避難所を立ち上げて奔走したS君。同時にプロカメラマンの目で被災地風景の記録を続ける。少しでも安く良い住居を提供しようと、日夜奮闘する工務店経営のH君。彼は妹さんを津波で亡くした。N君やK君など、僧侶の道を歩む人たちは、人々のつらい気持ちに寄り添いつつ、環境や福祉問題に取り組んでいる。工場を再建して石巻名物の蒲(かま)鉾(ぼこ)生産に打ち込むS君は「頑張るしかなくなりました」と一言。津波被害を乗り越えて店を再開し「良いことだけを考えるようにしてます」と語る美容師のA君。まだ、たくさんいる。みんな、いろんな思いをしただろうに、持っているオーラが共通して明るい。これにはほんとに頭が下がる。
行って良かったとつくづく思った。教師と生徒として出会ってから四半世紀。未曾有の体験に立ち向かう彼らから、今や教えられることばかりである。人生の出会いに感謝したい。
(青森中央短期大学教授 北原かな子)

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ピープルビジネス「死線を超えた救出」

2012/9/9 日曜日

 

 日本KFC設立は1970年。飲食業が産業と呼ばれて以来マクドナルドとともに外食産業を牽引してきた。しかしその創業は部下をいたわり上司を敬う、熱き想いがぶつかる浪花節の世界を抜きには語れない。
 細川政権が注目を浴びた頃、米国製品購入の圧力は相当なものであった。KFCにおいても米国産鶏肉の使用を強要するため米国の本社役員が押しかけてきた。商品担当取締役の解任を、背丈が2メートル近くもある白人が3人で当時の社長であった大河原毅氏(現コムサネット会長)を囲み、求めてきたのである。大河原氏は断固跳ね除けた。冷凍は使わず新鮮さへのこだわりは大河原氏自身の思いであり、それを遵守する部下を切ってまで社長の座に固守する気はないと断言した。実はこの強気の発言の背景には数々の熱いヒューマンドラマがある。
 大阪万博の翌年、KFC1号店は名古屋市郊外に開店した。しかし1号店、2号店の成績は芳しくなく、銀行の融資は途絶えた。2号店の失敗は運営継続を危うくしたが、店長を任せられていた大河原氏が最も気にかけたのは若いパート従業員の士気と、彼らの行く末であった。多くは中卒、大学浪人をかき集めできた編成であり彼らを2号店まで士気を落とさず引き止められたのは正社員への約束手形であったからだ。3号店出店はそのためになんとしてでも実現しなければならない。親会社である三菱商事へ何度も掛け合った。また資金調達のため三菱商事とはライバル関係の住友銀行へも掛け合った。その結果、3号店が開店した。
 上司のこの熱い想いは部下に伝わった。バブル最盛期、恒例のスキーツアーが行われ、銀世界の中、そのドラマが起きた。それは一行が大河原氏を先頭に山を降りてきたときのことであった。大河原氏は大パノラマに目が奪われたせいか、スキー板が右側に大きく迂回してそのまま数メートル下に落下した。部下がすぐ滑り降りてきたが、皆、雪のたまりから声をかけ見守るだけでいた。しかしそんな中、われを忘れ、社長を助けようと、滑り降りてきたままでジャンプした社員がいた。それは1号店から中卒で参加したNであった。「社長大丈夫ですか」と声をかけ、Nは手を差し伸べた。それはまさに死線を超えた救出であった。
 KFCの創業者の一人であるピートハーマン氏から教えられたという「ピープルビジネス」。大河原氏は今なお経営の真髄を表す言葉として使う。3号店成功はまさに厨房のシンクを風呂代わりとして使い、客席をベッドとして使った従業員の汗と涙の結晶だった。「事業は人なり」といわれる。その人とはリーダーの部下への想いがつくり上げると思えてならない。
(弘前医療福祉大学短期大学部教授 牛田泰正)

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「シリア情勢に思う」崩壊の危機迫る古都アレッポ

2012/9/2 日曜日

 

 先月20日、内戦が激しさを増しているシリア北部の重要都市アレッポで日本人ジャーナリスト山本美香さんが死亡したとのニュースが伝えられた。インターネット上に山本さんの写真が掲載されていたが、以前にも紛争地帯からリポートされている姿をニュース番組で拝見した気がする。危険を厭(いと)わず、気鋭かつ敏腕なジャーナリストとして活躍されていたのであろう。今回は内戦が激化し多くの市民が犠牲になっているシリアに赴き、戦いが無辜(むこ)の市民に犠牲を強いるものであるという事実を伝えようとしたのではなかろうか。その死に接して深い憤りを感じるとともに、改めてこの内戦とアレッポ市の状況について思いを馳せざるを得なかった。歴史に興味・関心を持つ者であれば、アレッポ旧市街、特に13世紀に建造されたアレッポ城と町並みの重要性はよく知っているからである。
 アレッポはメソポタミア地方と地中海を結ぶ要地であり、この地に国家を建設したヒッタイト、アッシリアなどの支配下に置かれ、BC64年にはローマ帝国の支配下に入った。そして漢王朝時代には長安とローマ帝国を結ぶシルクロード(絹の道)の要衝として繁栄する。その後、中世にはアラブ民族の支配下に入り、その拡張とともに商業交易都市として隆盛を極め、隊商宿や市が置かれ、その規模と豪華さは中東随一のものであったとされる。こうした中で建設されたのが世界歴史遺産であるアレッポ城と旧市街であった。
 そのアレッポが「不幸」なことに、今日でも貿易や経済の面において最も重要な都市で、地勢的にも外国との接点にあり、したがって反政府勢力が対外的な支援を受けやすい位置にあるなどの戦略的重要性を有しているのだ。その結果、シリア内戦はアレッポの支配権をめぐる攻防となり、世界遺産が崩壊の瀬戸際に立たされたのだ。
 シリア内戦がこれほどにまで激化した最大の原因はアサド政権の強権政治にあっただろう。しかし、もはやアサド政権が倒れることだけで内戦が終結するとは思えない。宗派対立とそれに伴う利権争いという深刻な事態が存在しているからだ。すなわち、これまで政権を掌握し利権を独り占めしてきたのはイスラム教少数派「アラウィ派」で、権力と圧倒的な武力を背景として多数派「スンナ派」を抑えてきたが、アサドの退陣は「スンナ派」による支配へと変化させよう。その結果、憎しみを増幅させた多数派による少数派の弾圧が行われることが懸念される。従って、この宗派対立を克服しうる政権が誕生するまでは内戦状況は続くものと思われる。アレッポの世界遺産が安寧な時を迎えるまでにはまだ時間を要しよう。その日まで少しでも被害が少ないことを祈るのみである。
(青森地域社会研究所特別顧問 末永洋一)

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