日曜随想

 

「大震災と閉塞感」何か変わったか

2012/12/30 日曜日

 

 ため息まじりや、悲しそうな表情で下を向きながら「しかたねえなあ」と言うことが、日本人には多々ある。
 「しかたない」を英語で言えば、There was nothing I can do.(できることは何もないんだ→仕方ないんだ)とか、I couldn’t do anything to help.(救うことはできなかったんだ→仕方なかったんだ)とか、I had no choice.(他に選択肢はなかったんだ→仕方なかったんだ)などいくつもあるらしい。
 先の東日本大震災の直後、多くの人が口にした「しかたないなあ」という言葉はこの英語の意味に近いだろう。原発事故以外の話ではあるが…。
 しかし我々日本人がよく使う「しかたないなあ」はだいぶ意味合いが違うような気がする極論すれば英語の「しかたない」は本当にどうしようもないことを表し、日本の「しかたない」は本当は何とかできるんだけれど(何とかしなければならないのだけど)、いろんなしがらみやシステムの欠陥があって前に進めない、だから「くやしくて悲しい」を表しているんではないかそんな気がしてならない。
 免許の書き換えに免許センターに行く。そこで講習を受ける。必ず新しいテキストが渡される。私の場合、それきり二度と読むことはなく、ごみ箱行きとなる。隠れたベストセラーかも。それにしてもなぜいちいち新品なんだろう?しかたない?
 日本車は世界一故障が少ないことで知られている。それなのにほぼ世界一高いお金を車検に費やしているのはなぜだろう?しかたない?
 お上(かみ)からの予算。年度内で使いきらなければならない。3月には大騒ぎで使ったりする。翌年ならもっと有効に使えるのに…。しかたない?
 政治家の先生が、週末にセッセと地元に帰って冠婚葬祭に顔を出し、お酌をして回らなければ当選できないのが今の民主主義なのだろう。勉強する時間を見つけるのが大変だろうな。しかたない?
 それなりの理屈と理由があることにはあるのだろうが…。
 みんながみんな「しかたないなあ」と思うことがたくさんあって、それでも大声で議論することなく我慢している。そのため、ストレスはどんどんたまり、大酒を飲んでしまう。
 情報が一瞬にして広まってしまう現代では、子供の情報量も並大抵ではない。昔とは大違いだ。大人が「しかたない」だけで過ごしていたら、子供に教え導くものは出てこない。子供は大人の生態を鋭く観察しているからだ。今の日本の教育問題の根元がここにあるような気さえする。
 昨年の東日本大震災が何かを変えてくれるような気がしたのは、筆者だけではなかっただろう。1年9カ月たって思う「何が変わったのか…」と。
(弘前大学医学研究科長 中路重之)

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「ちぐはぐな会話」日常知が支える旅先の印象

2012/12/23 日曜日

 

 「このビルに靴屋さんはありますか?」「いいえ、このビルに靴屋さんはありません」。日本語会話の教科書なら正しいこんな会話も、日常生活ではまったく的外れなことがある。
 数年前の厳冬期、青森の温泉巡りにやってきた知人の話である。駅を出たとたんに凍った道ですべって転んでしまい、怖くてどうにも歩けない。防寒には万全を期したつもりだったが、雪のない地方に住む彼女は、厳冬期の青森を旅するのに足下の装備がこれほど大切だと思わなかったようだ。
 これでは温泉に着く前に痣(あざ)だらけになってしまう、と近くのビルに入って雪道用の靴を買おうとしたのだが、靴屋が見つからない。案内所に行って聞いた。「靴屋さんはありますか?」これに案内所の人が答えたのが冒頭の会話だった。
 聞き方がまずかったかと「どこに行けば靴屋があるのか」と聞き直したが「ここにはありません」との返事でさらに困惑したそうだ。するとその会話を耳にしたらしい中年の女性が、近くのビルに靴屋があると教え「ゴム底の靴を選ぶと良い」と助言しながら靴屋まで案内してくれたという。
 「普通の人がすごく親切だったわ~」女性の助言に従って首尾良くゴム底の靴を手に入れ雪道の歩き方にも慣れた知人は温泉巡りを堪能したようでこのできごとを印象深く覚えていた。
 考えてみれば、私たちの日常の会話は、言葉の意味の正確さという点ではかなり「ちぐはぐ」なものだ。たとえば、他の人と同じ部屋にいてこんな会話をすることがある。「寒くない?」「暖房つけましょうか?」。
 言葉の正確な意味にこだわれば「寒くない?」という問いへの答は寒いか寒くないかのどちらかでしかないのだが、私たちは言葉じたいの意味ではなく、その言葉が発せられた状況の意味を読む。「寒くない?」と聞かれれば、相手が寒いと感じているのだなと察し、それをなんとかするために「暖房つけましょうか?」と応じる。言葉の意味通りにとらえれば「ちぐはぐ」なこの会話こそが、実は日々のやりとりを円滑に進めるための鍵になっている。私たちの日常的なコミュニケーションは、それを可能にする「日常知」を土台にしているといわれている。
 知人の「靴屋さんはありますか?」という問いが、そのビル内に靴屋があるかないかではなく「雪道が歩けなくて困っている」という状況で発せられたことを察知した先の女性の親切は、そんな日常知に根ざしたものだろう。
 知人がその女性の親切を何より印象深く覚えているように、旅先で困ったときに受けた親切や心くばりがその地を強く印象づける。それは、よそ行きの笑顔よりも、そこに住む人びとの日常知に支えられている。
(弘前大学人文学部教授 杉山祐子)

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「街と郊外化」人は街に何を求めているのか

2012/12/16 日曜日

 

 都会っ子という言い方はあるが、郊外っ子という言い方はない。だが私は18になるまで横浜市の郊外で育ったので、生粋の郊外っ子だといえる。自慢できるようなことではないのだが。
 郊外の系譜は19世紀の末にイギリスで提唱された田園都市という理念にさかのぼることができる。これは、都心からほどよく離れた場所で自然と共生しながら、つまり都市と田園のよいところを取り入れながらゆったりと生活することを構想したものである。
 しかし日本の郊外でこの優雅な理想が実現されているところはそう多くないだろう。たとえば筆者にとっての郊外の記憶とは、マクドナルドで食べたハンバーガーや、うきうきしながら出かけたダイエーや、高層の集合住宅が立ち並ぶ空間などである。これらは田園都市の理念が念頭に置いていた、自然と調和した美しい風景とはちがう。
 日本の郊外は1960、70年代以降に東京や大阪等の大都市を中心に広がっていったが、90年代ぐらいからは全国に広がっていったといわれる。もちろん弘前や青森も例外ではない。弘前の場合にはたとえば城東地区が日本的郊外の雰囲気を強くもっている。
 車に乗って遠出をするとよく分かるが、一定規模以上の街に近づくと見慣れたチェーン店の看板が次々に現れてくる。おそらく日本全国どこへ行ってもそう大きな違いはないだろう。このような全国に広がる同質的な風景はその味気のなさをしばしば揶揄(やゆ)されてきた。いわく、金太郎飴(あめ)のようだ、と。
 しかしである。外からみれば同じようにみえる風景も、そこに住む者にとってそれは固有性をもったものとして存在することもある。郊外的風景はたしかに味わいに欠けるが、私にとってはハンバーガーを食べたあのマクドナルドが、うきうきしながら出かけたあのダイエーがいくつかの出来事とともに懐かしく思い出されるのである。
 また前回の本欄で触れた若者の地元志向の高まりということが本当に起こっているのだとすれば、その大きな要因の一つは郊外化であろうと私は考えている。郊外的な空間では一通りのものがそろうので、わざわざ大都市に出なくてもそれなりに快適な生活をおくることができるからだ。
 このように述べてくると、郊外の擁護ばかりをしているようであるがそうではない。全国に郊外的空間が広がり多くの人々がそれを享受した現在だからこそ、文化的蓄積や歴史的蓄積の上に成り立つ奥行きのある街が求められているのではないだろうか。弘前はこのようなことを大事にしてきた街だと思うが、その重要性はますます高まっていくだろうと思う。しかしこれは郊外的空間の否定の上に成り立つのではなく、郊外的空間の享受を前提として存在するのだと私は考えている。
(弘前学院大学専任講師 藤岡真之)

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「イングの贈り物」明治8年のクリスマス

2012/12/9 日曜日

 

 リンゴは本県の基幹産業の一つで、その中心は津軽地方である。以前、仙台から高速バスに乗り、弘前駅近くになると、必ず次のようなアナウンスが流れた。「リンゴは明治8年、外国人宣教師がアメリカから3本の苗木を持ってきて津軽地方に広がりました」。
 私の研究対象の一つは、この苗木を持ってきたとされるアメリカ人宣教師ジョン・イングなので、このアナウンスは興味深く聞いた。また、子どもの頃に印度リンゴというのがあり、当時のリンゴとしては甘かったのでよく食べたが「印度リンゴ」という名前も、イングがインディアナ州出身であることから、付けられたとの説もある。
 本当にイングがリンゴを伝えたか、となると、よくわからない。イングはアメリカから宣教のために中国に渡り、4年間を過ごした後に日本に来ているので、アメリカから苗木を持ってきた、というのは、少々ムリがある。
 イング夫人が手紙の中で、リンゴについて一言書いているが、それは、当時津軽にあった小さな和リンゴのことで、今我々が食べているリンゴとは別物だったらしい。またイングが父に宛てた手紙の中で、父が作ったリンゴを食べたいと書いているので、彼はリンゴを好きだったのかもしれない。今資料からわかるのは、この程度である。
 資料的裏付けが難しいものの、口承的な説として、明治8年のクリスマスにイングが出席者にリンゴを配り、皆、その美味しさに驚いたという話がある。この時のリンゴの種から津軽地方にリンゴが広まったとする説である。たとえば、藤崎町でリンゴ栽培に成功し、株式組織「敬業社」の一人だった佐藤勝三郎は、イングからリンゴをもらい、その種を植えたと話していたという。実際に佐藤とイングに交流があったかどうか、これも資料的には不明だが、佐藤はリンゴ栽培に取り組む前に藍で一財産を築いた人物であり、またイングが津軽地方で藍栽培に取り組んだりしているので、何らかの接点があったとみてよいだろう。
 いずれにしても、一地方の主要産業のルーツが外国人宣教師と結びつくのは、これまで調べた限り、津軽地方くらいである。こうした伝承が存在すること自体が大切であり、津軽を象徴しているように思う。当時の東奥義塾が、ただの学校という枠をこえて地域社会の地の拠点になっており、そこで教えた外国人教師も地域との関わりでさまざまな影響力を持ったことを示しているからである。現代でいうところの、大学と社会連携の先駆けみたいなものかもしれない。イングは政治も含めて、将来を模索する近代黎明期の津軽に大きな影響力を持ったのである。
 以上の内容は、12日に「明治8年のクリスマス」(観光館1F)としてお話する予定である。
(青森中央短期大学教授 北原かな子)

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「リングはアメリカ」ノウハウよりノウフー

2012/12/2 日曜日

 

 日本航空搭乗口タラップで金髪のバニーガールの肩に手をかけ、満面の笑顔で凱旋を喜び、手を振る男性を新聞に見たのは私が大学2年の秋だった。その人の名は北米を中心に鉄板焼きレストラン「ベニハナ・オブ・トーキョー」(以下ベニハナ)の経営でアメリカンドリームを体現したロッキー青木(本名青木広彰)氏。「ベニハナ」を1964年にマンハッタンに創業。実業界で大成功を収め、アメリカで最も有名な日本人と言われ、そしてまた、ギネスブックにも載る世界的冒険家である。
 ロッキーのように大きくなりたい、そう思った私は新聞を見た後何度も滞在先のホテルに向かった。当然、門前払いだった。しかし私の思いは負けない。手紙をしたため再再度ホテルを訪問。そして米国帰国のためのチェックアウト直前に、米国行への熱い思いをぶち明けることができた。その場は大学卒業後の再会を約束して別れたが、思いは募り、大学4年の夏休み、私はマンハッタン高層ビル上階にあった「ベニハナ」本社を訪ねた。
 「ベニハナ」は客の目の前、鉄板の上で目にも止まらぬ早さで肉や野菜を切り、隣のシェフとコショーを投げ合ったりするパフォーマンスが人気を呼び急成長した。そして全米で70店舗の大チェーンへと飛躍した。この話はハーバード大学のケーススタディの一例としても取り上げられている。
 実業家としての成功を手にした後、ロッキーは75年にはバックギャモンの全米チャンピオンに、また80年にはパワーボート世界大会で2位になり、更に82年には気球での太平洋横断を行うなど、多方面で活躍した。2008年7月、ロッキーは心不全のためニューヨークで他界された。
 さて、マンハッタンにあるロッキーのオフィスを訪ねた時の話である。社長室にプロモーターと名のる日焼けした2人の日本人が訪れてきた。面談の要件はなんと、アントニオ猪木とモハメドアリによる異種格闘技の打ち合わせであった。その2人は、記者会見開催のためのスポンサー探しのためやってきたのだ。ロッキーから2人への質問はいたってシンプルだった。
 「いつ、どこで、何人集まるのか」そして最後に「いくら必要だ」。商談は5分で終了。世紀のスーパーファイトのゴングが鳴った。
 ロッキーは「ビジネスも冒険も成功の秘訣は、夢を持ち手段を考え抜き、命懸けでやることだ」という。そして「ベニハナ」の成功の要因は何かと聞くと「ノウハウ」(Know-how)より「ノウフー」(Know-who)だと答えた。アメリカンドリームを体現し成し遂げた男、ロッキーの夢をその後多くの若者が追い求めていった。
(弘前医療福祉大学短期大学部教授 牛田泰正)

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