日曜随想

 

「地域資源の振興」津軽で藍の花畑を広げる夢

2012/4/1 日曜日

 

 最近、大学の社会貢献が注目されるようになった。その一例だが「民間伝承の科学的検証」をテーマとして、弘前大学で10年ほど前に始まった藍の抗菌性に関する研究も国内外の複数の企業で実用化が進んでいる。その一つが青森市の「あおもり藍産業協同組合」である。もともと青森市の「産業ネットワーク推進事業」で藍をビジネスモデルにしたことに後押しされ、同市内の複数の企業が集まって組織された組合である。
 代表の吉田久幸氏(縫製業)は「そもそもの発端は、弘前大学での研究会で藍や藍染の話を聞いた時だった」と語る。藍の花がきれいなので休耕田に藍を植えると、視覚的にも美しく農家の収入にもつながるのではないかと考えた吉田氏は自社の工場で藍染を扱うようになり、組合を組織した。弘前大学との共同研究も始まり、一昨年、山崎直子宇宙飛行士がスペースシャトルで宇宙に飛んだ際、青森産の藍染シャツが船内被服として採択された。この衣服は宇宙航空研究開発機構(JAXA)から高い評価を受けたが、その背景には、それまでの産業化の取り組みや、大学での抗菌性データなど、産学官の積み重ねがあった。
 津軽地方で藍の振興に取り組んだのは、これが初めてではない。弘前藩時代も藍染は行われ、寒冷な気候など不利な条件が多い中で、藍の本場徳島から教師を招き、技術向上に努めた。
 明治に入り、環境が激変した士族階級は、食べて行くために地場産業の育成に力を注いだ。この時期の取り組みから育った産業の代表的なものが、リンゴである。藤崎の敬業社、弘前の化育社などがよく知られている。ただ、リンゴに取り組む前に、さまざまな試行錯誤が行われた。藍もその一つだった。旧弘前藩士族たちも藍に注目したらしい。明治10年代初頭の県内の新聞には藍の栽培方法や、藍由来染料かつ漢方薬である「青(せい)黛(たい)」製造法の記事が出てくるようになった。藍の栽培面積は徐々に広がり、明治10年には「青黛」が青森県の主産物の一つにあげられている。徳島から招聘した藍教師「吉田巌」のもとで、北原高雅や長尾介一郎などの士族が熱心に取り組んだ。しかし、気候条件が合わなかったのか20年代から藍の栽培に陰りが出始め、30年代の合成インジゴの普及で津軽の藍染は一気に衰退した。化学の力に天然藍が負けたわけで、これは藍の本場とされた徳島も同様である。
 前述のように、現在藍の抗菌性を生かした製品化が進みそれに伴って、全国的に藍の栽培面積が減少する中で青森県は広がってきている。科学技術の発達により、士族たちの潰えた夢を産学官で実現に向かっているといってよいかと思われる。以上の詳細については近々本として上梓の予定である。
(青森中央短期大学教授 北原かな子)

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『「安全」と「安心」』「安心」の確立の難しさ

2012/3/25 日曜日

 

 先日、青森県から沖縄県に運ばれた雪をめぐる「混乱」が報じられた。沖縄県那覇市に駐屯する海上自衛隊第5航空群が八戸航空基地での訓練に参加した際、隊員達が十和田市で630キロの雪を集め、段ボール25個に詰め込んで那覇市に運んだが、この雪は那覇市内で子ども向けのイベントで使用されることになっていた。おそらく隊員達は南国沖縄の子どもたちが歓声を上げて雪遊びに興じる姿を想像しながら雪を集め詰め込んだことだろう。もちろん「東北地方」から運ぶ雪であり、あるいは放射線のことが問題となることも充分に予想されたので航空機への搬入時と搬出時には放射線量を測定し、全く問題のないことが確認されていたのである。
 ところがである。この雪が那覇市に到着するや否や東日本大震災で那覇市内に避難していた住民から「放射性物質が含まれ被ばくする可能性がある」と、イベントでの雪の使用に反対し、結局、雪遊びは中止されたという。誠に残念な出来事であるが、その後、この雪は他の催しで使用されることとなったのは幸いであった。
 このニュースに接した時、私は二つのことを思わずにはいられなかった。一つは福島県も青森県も「東北地方」ということでひと括(くく)りにされ、地理的な違いなどは全く無視されていることである。もちろん、福島県が危険で青森県がそうではないということを言おうとするのではない。「東北地方」とひと括りにされることが「風評被害」を拡大し、安全性をいくら確認しても認められない危険性をはらんでいるということである。もう一つはある意味で極めて深刻であり重大なことなのだが、「安全」と「安心」が完全に乖(かい)離(り)しているという事実である。この雪は二度にわたって科学的、客観的に「安全」が確認されたものである。しかしこの「安全」は感情的な対応により「安心」を獲得できなかったことである。「安全」は科学的問題であるが「安心」は個人的、感情的な問題となってしまっていると思えるのだ。
 こうした問題は、静岡県島田市におけるガレキ焼却問題にも端的に現われていた。岩手県から運ばれたガレキは数度にわたって放射線測定が行われ、安全性を確認されたものである。だがそれを目の当たりにしている人々が決して「安心」しないのである。大震災によって生じたガレキの処理は復旧・復興の第一歩であるが、処理されたガレキは6%にも満たないとされる。日本国内におけるこの様な感情的な反発は「風評被害」を拡大することになりましてや海外には増幅されたものとなって伝わっていくことになろう。
 正確で科学的な情報発信をしても、我が国の産物が敬遠され、観光客が遠退いてしまう一因ともなりうるのだ。
    (青森大学学長 末永洋一)

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「青森のがん事情」ひっつみと胃がん

2012/3/18 日曜日

 

 がんは「国民病」と言われている。国民病とは「たくさんの人がかかって」なおかつ「命に及ぶ病気」という意味である。
 今、日本では毎年100万人弱の赤ちゃんが生まれ、100万人強の人が亡くなっている。がんで死亡する人の数は全体の3分の1にも及ぶ。この勢いを保つならば20年後には全死亡数の半分の死因ががんになる計算になる。
 がんはほとんどの臓器にできる。今死亡数が一番多いがんは「肺がん」である。胃がん、大腸がん、肝臓がんが次ぐ。女性で最も多いがんは大腸がんで、男性では肺がんである。また、近年、女性の乳がん、男性の前立腺がんが急激に増加しており社会的問題となっている。青森県はがんの死亡率が全国で最も高い県であり、平均寿命が日本一短いことの最大の要因である。男性は女性より、そして津軽地方が南部・下北地方よりがん死亡率が高い。
 面白いのは、同じ東北でも秋田県の胃がん死亡率が一番高く、岩手県北が沖縄県とともに一番低いということである。奥羽山脈を挟んだだけでどうしてこのように違うのだろうか。この「日本版がんの七不思議」の解明が胃がん予防につながるのではと、多くの科学者が勇んだ。
 筆者も例外ではなかった。さっそく岩手県北の浄法寺町(現在の二戸市)と津軽の3町村(鯵ケ沢町、旧深浦町、旧車力村)で調査をした。20年も前の話である。当時、浄法寺町の胃がん死亡率は津軽3町村の5分の1以下であった。
 調査の結果、浄法寺町の食塩摂取量、とくに高塩食品(たくあん、筋子・たらこの塩漬けなど塩分の多い食品)の摂取量が少なかった。今でも食塩、特に高塩食品の摂取は胃がんを発生させる要因と考えられている。
 その後ヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)感染が胃がんを発生させる大きな原因の一つであることが判明した。ノーベル賞級の発見である。その事実を知った時、筆者はまさかと驚いた。浄法寺町の調査時点で、ピロリ菌のことなど全く頭になかった。今は岩手県のピロリ菌の感染率を知りたい。
 当時、世界保健機関(国連の組織の一つで健康や病気の対策を担当)が岩手県の胃がん死亡率の低さに注目し、調査団を岩手県北に派遣した。筆者は翌日の新聞をみて驚いた。なんと、彼らが「ひっつみ」(岩手近辺に伝わる具だくさんの汁で、小麦粉の生地を引っ張ってちぎることからひっつみと呼ばれている)を慣れない箸で食べてる姿が掲載されていたからである。「胃がんが少ないことと関係あるかも」と書かれてあった…。
 この「ひっつみと胃がんの関係」、その後ついぞ聞いたことはない。医学の進歩は、人間の行動をも変える。
(弘前大学医学研究科長 中路重之)

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官民学の協働支援「平時における体制整備と維持」

2012/3/11 日曜日

 

 千年に一度と言われた東日本大震災からちょうど1年。改めて震災で犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りする。また、ご家族や友人を亡くされた皆様にお悔やみ申し上げたい。
 甚大な被災状況を知り、いてもたってもいられない気持ちで教員仲間とボランティアセンターを立ち上げ、4月から活動を展開してきた。
 振り返ってみると、避難所で出会った皆さんの疲れきった顔や、強い日差しの中、汗まみれで瓦(が)礫(れき)の山と戦っていた学生諸君の瞳の輝き、庭先にあった大きな岩を皆で動かした日の帰りに涙を流してボランティア一人一人の手を握ってくれたおばあさんの顔、交流登山で野田村のおばあさんの手をひいて登る学生の後姿。一つ一つが記憶に刻まれている。
 その記憶の中に、未だに悔いが残る一つの出会いがあった。発災から2週間以上経って、今後の支援活動のために、野田村を訪ねた時のことである。
 最後に訪問した避難所の前で、何人かが焚(た)き火をして暖をとっていた。その輪にそっと加わった。しばらくの沈黙の後、輪の中の一人から厳しい声が飛んで来た。「何しに来た。今さら来たって…。」と語尾を濁らせた。涙が出た。自分の無力さが悔しかった。
 発災直後に、思い出の品を探し出したくても、避難所が混乱して人手が必要な時でも、支援の手は届かなかった。その言葉にはその悔しさがにじみ出ていた。
 阪神淡路大震災から1年目の1996年1月17日の新聞記事に目を通すと「震災の教訓を忘れないように」というフレーズが目立つ。
 しかし、今回の災害でも早期支援の重要性は十分に活かされていなかった。発災直後は阪神淡路大震災の時と同じく、自衛隊や数少ない行政職員の手に委ねることしかできなかった。
 ボランティアに参加した市民や学生に発災直後の心境を尋ねると「何かしなければと思ったがどうすればいいか分からなかった」との声が多かった。その背景に災害ボランティアを組織的に送り出すためのNPOなどの市民団体や大学内の組織が県内には一団体も存在しなかったという実態がある。
 阪神淡路大震災の時には、もしかしたら本県には当事者意識が不足していたかもしれない。あるいは、16年という時間の経過が皆の危機意識を薄めたかもしれない。
 災害は、予期せぬ時に予期せぬ場所で発生する。東日本大震災をきっかけに、弘前では市民と行政と大学との協働の支援体制が作られた。いつまでも平穏な日々が続いてほしいが、平時にもしっかりと連携を維持し、支援体制を整えることが防災・減災対策につながることを忘れてはならない。
(弘前大学雇用政策研究センター長
李 永俊)

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「大学研究室の未来像」知的創造のための空間とは?

2012/3/4 日曜日

 

 4月から母校の大学に帰ることになり、その準備に忙しい。弘前で暮らした8年間で最も心に残るのは、近所の人々の親切さである。特にOさん御夫婦には、一生頭が上がらぬほど、色々とお世話になった。家族を代表して、心から皆様にお礼を申し上げたい。
 さて、引っ越しを機会に、私の大学研究室(個室)を一新する予定だ。研究・教育の場としての研究室は新しい観念(アイデア)を産出する工房(アトリエ)だから、地上で最も創造的・刺激的な空間でなければならない。この目的に適う前衛的・次世代的な研究室のあり方とは、どんなものだろうか。
 昔の文系の研究室の典型的イメージは、私の研究室もそうだったが、本をずらりと並べた、紙の匂いのする部屋だろう。しかしこのイメージは今後急速に廃(すた)れてゆくはずだ。なぜなら今では電子書籍(私はエレキ本と呼ぶ)という文明の利器が現れ、それ1台で千冊近くの本のデータを収められるからである。エレキ本とは、喩えて言えば本のサイズの薄型テレビみたいなものであり、小さなものは葉書ほどのサイズからある。試しに某日本メーカーの葉書サイズのエレキ本で、岩波文庫の『三国志』を久々に読んでみたが、あまりに快適なので全8冊を完読してしまった。
 「確かに便利だ」というわけで、さっそく研究室の本全体の8割に当たる約千五百冊を電子化し、元の紙の本は処分した。電子化しなかった残りの2割は、紙の本のままの方が便利なもの(教科書など)である。ハムレット風に言えば、紙のまま残すべきか、エレキにすべきか、それが問題だ。用途に応じて紙とエレキを使い分けるのが最も合理的だから、「紙派」と「エレキ派」の対立は不毛だろう。
 紙の本は、黄ばんだり傷んだりするし、その所有者の死後には大量のゴミとなって、その家族を悩ませるかもしれない。だがエレキ本は、いつまでも美しいという意味では「永遠の命」をもち(ただしデータのバックアップは絶対必要)、場所も取らない。
 エレキ本(パソコンでもよい)が複数台あれば、さらに便利だ。データをコピーし、自宅用や出張用のエレキ本にも入れておけば、研究室に居なくても、家でも野外でもそれらを読める。
 私の、また若い学生たちの、知的創造を促す研究室のあるべき姿とはどんなものか。あれこれ考えるのが、とても楽しい。業務上の秘密なので詳しく述べられないが、日本の「茶室」は非常に参考になる(静けさ、明暗、飲物や菓子、そして平等!)。最新の要素と伝統の要素をうまく融合させたい。
 大学の研究室とは、結局、人を精神世界の冒険に誘う場であり、そうした冒険者たちの憩いの場である。「象牙の塔」の魂は、研究室にあるのだ。
   (弘前学院大学講師 本郷亮)

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