日曜随想

 

「明治の女性たち」和徳小教師“葛西きえ”さん

2012/6/24 日曜日

 

 先日、歯科医の広瀬寿秀先生から労作である「日系アメリカ人最初の女医 須藤かく」(『弘前市医師会報』342号)をいただいた。弘前出身、明治期に渡米して医学を学びアメリカで生涯を終えた女性の動向が明らかにされ非常に興味深かった。津軽には昔も元気な女性が多かったのだろう。「葛西きえ」さんもその一人である。
 明治16年生まれの彼女を知るきっかけとなったのは、「弘前女学校卒業論文集」だった。10年以上前、私は青森県女性史執筆のための史料を渉猟する中で、この論文集を手にした。中には明治30年代初頭に同校で学んだ女性たちの決意や意見がいろいろ述べられていて、女性史的にも教育史的にもきわめて興味深いものだった。明治32年卒業の本科生は7名、きえさんはその一人である。たとえば、彼女は、自分のモットーの一つに「確固不抜の精神を失うこと勿れ」と掲げる。そして「文明国家となった日本が、世界の国々と交流するようになったのに、未だに男尊女卑の風潮があるのは嘆かわしい、これからは女性自身がもっとしっかりしなければならない」と主張する。
 とにかく元気である。彼女の場合は文章全体に「新日本」の女性として生きるという、若々しい決意がみなぎっていて読む者に強い印象を与える。
 きえさんは、卒業後、明治34年4月から弘前市の和徳小学校教師として勤務した。同校の日誌から、その動向をかいまみることができる。初年度は3年生女子43名を担当した。8月にクラスの生徒が亡くなった時は、クラスの生徒を引率して葬儀に出席した。翌35年9月にきえ先生の父が亡くなった時は、クラスの生徒が葬儀に参列した。38年には市長の命を受けて、県教育委員会の体操遊戯講習会に出席、帰校後、同僚の先生に伝授した。39年には学校の教授内容を批評する機会を与えられるなど、教師としてのキャリアを着々と積み重ねた。しかし、この頃から病を患ったらしい。学校日誌には、たびたび「病休」が記録されるようになり、40年5月に退職した。その後の足跡は不明だが、昭和2年にはすでに亡くなったとされている。
 青森県の場合、女子師範学校が明治18年に閉校したため、弘前女学校は教師養成校でもあり、教育水準も高かった。しかし、きえさんも含め、当時の同校卒業生の足跡は、ほとんどわからない。アメリカ人女性宣教師から教育を受け、卒業時には英語でスピーチした女性たちが、明治の社会で自らの力をどう生かそうと考え、どのように生きたのか、この地方の近代史像を描く上でも、もっと明らかにする必要があるのではと考えている。なにか手がかりがあったら、ご教示いただければ幸いである。
(青森中央短期大学教授 北原かな子)

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「顧客はいつも正しい」ローマは1日にしてならず

2012/6/17 日曜日

 

 私は35年間、フードビジネスを中心としたサービスビジネスに従事してきた。それゆえサービス経営には日ごろから思うことが多い。このいただいた紙面にて今回も経営に成功され、私が接してきたトップリーダーからの学びを紹介させていただく。
 ロイヤルパークホテル(東京・箱崎)は国際的な調査会社J・D・Powerが行ったアジア地区における顧客満足度調査(ホテル部門)で本年度も1位に選ばれた。5年連続の快挙である。これは当ホテルが重視する顧客目線にたった密なるお客様・従業員とのコミュニケーション、手間暇を惜しまないサービスの提供の成果であるといえるだろう。平成12年より同23年まで当ホテルの総支配人を務められた中村裕氏は、今は顧問の立場であるが、この結果を素直に喜び受けとめる。戦後日本に初めて上陸した外資系ホテルである東京ヒルトンホテル。中村氏は新卒で入社し、アジア人初めての総支配人となった。数多いライバルの中、明治大学英語部のディベートで鍛えた語学力がものを言った。英語部とはいえ体育会顔負けの真剣勝負の世界があった。競技はすべてが英語である。その準備が大変緻密な作業になる。中村氏はそこで最後まであきらめない根性と人間関係を学んだという。昼は国会図書館に通い、そして夜は合宿所での夜食の買出しに走った。すべてが学びでありその経験がヒルトンで生かされた。中村氏が仕事をする上で、常に心がけていることはなにか、それは座右の銘としているヒルトンホテル創業者ヒルトン氏の言葉、ゲスト・イズ・オールウーズ・ライト(お客様はいつも正しい)である。それゆえに現場を大切にした。待っているだけではお客様の声は聞こえない。現場の生の声を聞かなければニーズを掴むことはできないからだ。特にお客様からのクレイムはニーズを知る宝の宝庫であった。
 その一例が枕の話。よくホテルの枕は柔らかいから寝つきが悪いという人がいるが、そば殻枕に変えてほしいという苦情の手紙が来た時の話である。お礼状に謝辞に添えてすぐに取り寄せた旨を書いて返信した。するとどうだろう。予想通りその数週間後に苦情を送られた本人が姿を見せられた。人は苦情や注意をした後、本当にそうしてくれたかが気になり、確かめたくなるものなのだ。これらは中村氏が50年ものホテル経験で学んだノウハウだ。その成果が今回の栄光に繋がったといえるだろう。手間暇を惜しまないサービスの提供、現場重視、これらをわかりきっているというのはたやすい。問題は当たり前のことをやり通す持続力にかかっている。顧客満足度調査において5年連続の名誉ある栄光は「一日にしてならず」だからである。
(弘前医療福祉大学短期大学部教授 牛田泰正)

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「若年者の自殺を防げ」自殺者の増加と自殺対策

2012/6/10 日曜日

 

 わが国は先進諸国の中では自殺者が多いことで有名である。2011年の統計では人口10万人に対し24・4人でこれは世界第8位、先進国ではずば抜けて高い数値とされる。先日、内閣府は自殺対策に関する意識調査結果を発表したが「今までに本気で自殺を考えた経験がある」と答えた人が08年調査から4・3%増加して23・4%とほぼ4人に1人となり、しかも20代は28・4%、女性に限ると33・6%と極めて高い割合であった。また、警察庁が8日、11年に就職に失敗して自殺した10代、20代の若者が4年前に比べて2・5倍の150人に達したと発表した。
 自殺者が多く、自殺率が高い原因の一つとして指摘されるのは「メンタルヘルス」問題である。しかし、わが国の「メンタルヘルス」の環境や条件が諸外国に比べて劣っているかと言えば決してそうではない。世界的には完備されたシステムと運用実績をもっていると言えるのではないか。では一体、何が人を自殺に追いやるのか。
 WHOは「直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられていて『日本では自殺が文化の一部になっているようにみえる』」とし、英エコノミスト誌は「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない」が「一生の恥とは思わせずにセカンドチャンスを許すように社会が変われば、自殺は普通のことではなくなるであろう」と指摘している。こうした指摘にもあるように、自殺が多いのは「文化的側面」もあろうが、直接的原因は、失業、倒産、過労などの経済的問題であり、失敗や挫折を許容しない環境の結果とも言えよう。自殺の原因として「うつ病」や「ストレス」などが指摘されるが、人間がこうした状態に陥る原因こそが問題なのである。
 こうした経済的問題を抱えて自殺に追い込まれる場合、これまでは50代や60代の人が多かった。企業や会社が倒産することで、その責任ある立場にいる経営者や失業を余儀なくされた社員がそうであった。しかるに、今回の二つの調査で、こうした経済、雇用の問題が10代、20代の若者の自殺にも顕著にみられることを明らかにした。内閣府も「20代は就職環境が厳しく非正規労働者の割合が高い。将来に希望を持てない状況に置かれている」ことを要因として指摘しているが当然であろう。E・デュケームはその著『自殺論』で「結局、自殺の増加が証明しているものは、現代の文明の発展の光輝ではなく、むしろ、長引けば危険を招きかねないような危機と混乱の状態なのだ」と述べているが、正(せい)鵠(こく)を射た指摘であろう。
(青森地域社会研究所特別顧問 末永洋一)

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「脳卒中の話」友人の死

2012/6/3 日曜日

 

 2008年11月下旬、私は大阪の友人Uさんを待っていた。Uさんは大阪の方で、私より7歳年長である。
 約束より30分遅れて現れたUさんはいつも通りの元気な様子であった。「まっすぐここに来ましたか」「いえ、リンゴジュースの工場に寄ってきました」。Uさんは、リンゴジュースの搾りかすを微細なパウダーにしてそれを機能性食品として、クッキーとかパンに入れることを提案していた。いわゆる“リンゴの食物繊維”である。食物繊維の研究をしている私の所にもその縁でしばしば立ち寄っては食物繊維の夢物語を語り合う仲であった。
 向かいに座ったUさんと10分くらい話していたところで、私はUさんの異変に気付いた。頻繁に下を向き、眠そうに眼をこする動作をする。そのうちあくびをし始めたUさんは、私の問いかけに答えなくなってきた。
 「Uさん、いつもと違うよ!どうしたの?」「・・・」Uさんは少しうなずいた。「今朝は何時に起きたの?」、飛行機を使っても大阪から青森は遠い。「2時・・」そう答えるなりUさんはテーブルに突っ伏してしまった。結果的にこの「2時・・」がUさんの最後の言葉となった。「Uさん!Uさん!」私は仰天してUさんにかけ寄り背中をつかんだ。その勢いで体から力をなくしたUさんは床に崩れ落ちてしまった。大きな呼吸をしたかと思うと小さくなり、そのうち一時的に呼吸が止まったりした。急いで仲間を呼んだがその頃には(2分くらいしかたっていない)、少しいびきをかいていた。
 すぐに大学病院の救急部まで搬送した。脳幹出血という診断であった。生命維持にとって一番大切な部分で出血が起きたのだ。Uさんの携帯から親戚の電話番号を探し出し連絡を取った。脳神経外科でお世話になり、意識は回復しなかったもののなんとか安定したので空路大阪の病院に転院となった。奥様と脳外科の先生に付き添っていただいた。1カ月後の話である。
 それから、1年半後の10年5月初旬、奥様の電話でUさんが亡くなったのを知らされた。この間一度も目を覚ますことはなかったと言う。
 聞けば、Uさんは血圧が高く最高血圧が200に及ぶこともあったと言う。奥様の話では、血圧の薬は飲もうとしなかったらしい。
 Uさんとよく健康談議をした。病気の予防や食の大切さによく話題が及んだ。二人は大いに意気投合したが、病院の使い方ではいつも意見が分かれた。いや、分かれたと言うより、専門家の私の意見に耳を傾けてくれなかった。大切な友人であった。強く助言していればよかったと何度も後悔した。
 血圧の大切さを知ってもらうためにご遺族の許しを得てこの記事を書いた。心からご冥福をお祈りしたい。
(弘前大学医学研究科長 中路重之)

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「ワラビが結ぶ縁」野生植物を食べる食文化

2012/5/27 日曜日

 

 フキノトウに始まり、コゴミ、カタクリ、ワラビ、ウド…木々の緑が濃さを増してくると待ち遠しいのはネマガリタケの筍(たけのこ)である。
 弘前に住むようになってから、春を迎えると、多種多様な山菜が当たり前のように食卓に上ることを知った。東京で育った私にとって、弘前の春から初夏までの時間は、コマ送りされたように足早に過ぎるので、うっかりすると旬を逃してしまう。でも、こまめに山に出かける知人がワラビ採りに誘ってくれたり、採れた山菜を届けてくれたりするおかげで毎年、春から初夏の山の幸を楽しませてもらっている。
 ワラビにはタンザニアでの思い出もある。タンガニイカ湖畔のマハレで野生チンパンジーの研究をしている知人夫婦を訪ねたとき、その地に自生するワラビの生(しょう)姜(が)醤(じょう)油(ゆ)あえを供された。
 地元の人々が休(きゅう)閑(かん)させている伐開地に太くて柔らかいワラビが生えるという。でもマハレの人々にはワラビを食べる習慣がないので「おいしい!」と大喜びする私たちを見て変わった人たちだと思っていたらしい。彼らの中にもワラビを食べてみたという人たちがいたが「ワラビに醤油」がおいしいとは思えない、この食べ方はマハレには輸入禁止だな、と言って笑っていた。
 日本のように名だたる工業国の人間が、野生の植物を採って食べる習慣をもつことも珍しかったようだ。タンザニアの地方都市に住んでいたとき、自宅近くに自生するワラビの太いものを選んで採っていると、近所の女性に「そんな取り方をしたら、すぐまた生えてくるよ」と注意された。雑草取りをしていると思われたらしいのだ。「違う違う、これを採って食べるのよ」と言うと、彼女は目を丸くして「食べる?これを?!」。
 あまり驚いているので、日本ではそれをワラビと呼び、あく抜きをすればおいしい食材であることや、春になるとわざわざ採りに出かけることを説明した。彼女は納得したらしいが、さらに重ねて「日本人は車やラジオを売ってお金をたくさん持っているのに、なぜそんな貧しいものを食べたがるの?」と聞くのだった。
 この一件いらい、私にすっかり気を許したらしい彼女は「この草もあの草も食べられる」と教えてくれるようになり、彼女たちがかなり頻繁に野生の植物を採って食べていることがわかってきた。これがまたおいしいのだ。
 弘前にいるときのように食べたい一心で採ったワラビのおかげで、私は彼女たちが野生植物を食べることを貧しさと結び付けて語り、表面上は隠していることを知った。でもだからこそよそ行きの顔ではわからない地元の味とそれへの愛着に触れることができた。弘前で学んだ食文化がこの縁を結んでくれたのだと思っている。
(弘前大学人文学部教授 杉山祐子)

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