日曜随想

 

「記録と記憶の両立を」モノとヒトは無くなるから

2016/8/21 日曜日

 

 朝に夕べに、毎日仰ぎ見るお岩木山。種まき爺っこの雪形などで、春の始まりを告げ、大風を防ぐために毅然と聳えるその姿は、津軽の神さまそのもの。
 しかし、太古には津軽半島の北に居られたという咄。それが訳あって、スッと立ち上がり、現在の場所にお移りにあそばした。元の場所に水が溜まり、これがいまの十三湖…とは、大好きな昔っこ。
 お山だって動くのだから、建物がなくなったり道路や街の顔が変貌するのは、まぁ当たり前のことなのですねぇ。
 永く津軽氏の城下町として発展を遂げたまちが、大きく変わったのは、鉄道の敷設と師団の設置が契機だったかと。
 青森港への街道で賑わった和徳通りに代わり、物流の中心となった弘前駅に向け、代官町を東に突き切る道が通った。駅北側の広場は、かつて兵士らを送迎した名残りで黒石線の弘前東高前駅も、富田の師団通りへの利便を考慮の開設。城下町のたたずまいを壊すことなく、市域の南部に師団司令部や歩兵・野砲・騎兵などの各聯隊が配備されると、大町や楮町、新開地も賑わいをみせる。
 そんな軍都のまちに、東宮時代に行啓の大正天皇が大元帥陛下としてご臨幸。昭和十年には、秩父宮殿下が歩兵第三十一聯隊大隊長として、妃殿下を伴ってのご着任となられ、菊池別邸を御仮屋に。
 以前にも殿下は大鰐の阿闍羅山に登られたり、北海道への途中に立ち寄られては、黒石米をご所望になられたり、津軽人には親しみ深かったお方。万朶の夜桜までもお二人で楽しまれ、見事だと誉めてくださり、市民は夢見心地の大熱狂。
 翌年の師走には御退弘なされますが、のちに御在隊記念碑が建立。終戦で秘匿されるものの、現在は自衛隊弘前駐屯地を終の棲家としています。
 旧藩の城下町は、藩公の英断によって英学を積極的に受容した私学を生み、高い文化性は諸外国にも評価されてきた。だから軍事拠点ながらも空襲を受けず、戦後に残された多くの旧軍施設は、学校や公共施設に活用できたのですね。
 ならば、学術文化都市を標榜する礎が旧軍施設という訳。こんな想いから五年ほど前には、「軍都・学都のなりたち」なんてツアーを実施しましたっけ。
 またかつては岩木川と生活の関わりも大きかったはず。革秀寺前の土手には、見事な松並木が続き、中州では盆踊り。浜の町のジャッコ茶屋も、ワイヤーを伝う渡し舟も、大昔の話じゃないよぉ。
 移り気な流行りを追い掛けていると、基礎体力のない我が身には、疲れだけが残ってしまいそう。ですから、のっそり後ろを振り返り、ふらふら寄り道三昧。
 モノは散逸、ヒトも去っていく時世であればこそ、きちんと後世に検証できる写真や資料は貴重かと。そして、語り伝えることが肝要となりましょう。
   (元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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「りんごとみかん」もらってうれしいお土産

2016/8/14 日曜日

 

 まだ会ったことのない人へのお土産には、どんなものがいいのだろうか?
 各地の方言のお話をお聞きするのが私の仕事であるため、県内はもちろん、文字どおり北は北海道から南は沖縄まで、日本各地でお話をお聞きしてきた。
 出張の折には、りんごで有名な青森県なのでりんごのお菓子を持参することが多い。経験的に西や南に行けば行くほどりんごは貴重がられる。確かに、そちらに行けば行くほどみかんの収量が増えるので、りんごは貴重品となるのだろう。
 広島のスーパーでは産地ごとにみかんの名前に違いがある。例えば瀬戸内海の島ごとの違いにより、○○島みかんのような違いで、酸味が強いとか甘味が濃いとか、それぞれの好みや値段の違いが地元の人たちには認識されている。そういえば、長野県の実家のあたりでは、△△みかんがいわゆるブランドものだったことを思い出した。私にはりんごは身近なものであるのに対して、みかんがなっているというだけで特別な感じがする。しかし、広島や大分の知人からは、「みかんなんてどこの家にも木があって放っておけばなるものだ」と言われた。この知人が弘前を訪れた時に、道の駅のりんご売り場で売られているりんごの種類の多さにおどろき、赤いりんご・青いりんごという区別以外の区別がある、つまり一つずつに名前があることに驚いていた。
 私たちの暮らしは、こうしたものなのかもしれない。区別すべきを区別し、区別の必要性を感じないものは区別しない。日常、当たり前のことやものにはそれほど注意を払わないものなのだ。
 沖縄の店で一つ650円で売られていたりんごを目にしたとき、これ売れるかな?と心配になった。しかしよく考えると津軽ではバナナが採れないからこそ台湾バナナが珍重され、バナナが入っていなくても好まれるお菓子もある。沖縄ではバナナよりりんごの方が価値が高い。これが人々の生活なのだなと実感した。
 沖縄で「小(こ)そば」という量の少ない沖縄そばを注文した時、私の理解では普通サイズよりも大盛りの沖縄そばがやってきて驚いた。多い少ない・大きい小さいなどという比較は絶対的な基準があるわけでもなく、その人にとって、あるいはその地域にとってどうなのかが大切らしい。沖縄の人々にとっては少ないそばも私にとっては十分、大盛りだったのだ。
 さて、ではお隣の国ではどうだろうか?中国への出張があるが、大陸的な感覚では、何にどんな価値を見出しているのだろう?案内をしてくれる若い学生さんの好みは、どんなものだろうか?
 こぎん刺し、津軽塗、金魚ねぷた、鳩笛、かりんとう、せんべい、きみ、メロン、田んぼアート、ねぷた、岩木山・・津軽にはすごいもの・おいしいものが多すぎる。どれもみんな広めたい。
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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「ねぶたの思い出」鈴の音に誘われて

2016/8/7 日曜日

 

 青森生まれで青森育ちの私にとって、ねぶたは、一年に一度必ず訪れる年中行事のようなものだ。私の生家は、ねぶたの通り道の新町にあった。幼少期は、家の前に茣蓙(ござ)を敷き、座布団を並べて招いたお客様を迎えるのが、私の役目であった。夕方になると集合場所に急ぐ跳人たちが小走りに過ぎて行った。シャンシャンシャンとリズミカルに小気味よい鈴の音に、心が躍った。私も早くあの鈴をつけて、跳人の波の中に入りたいと思った。
 高校生の時だっただろうか、母がねぶたの浴衣を縫ってくれた。ねぶたの浴衣にしては少し袖が長い女仕立ての浴衣に、私はたくさん鈴を付け、浴衣を振っては、あの「シャンシャンシャン」の音が出るのか確かめた。ようやく跳人デビューできる。うれしかった。初めてねぶたの衣装を身に着けて走ったとき、鈴の音が私を包んで、この上ない高揚感を感じた。
 大学生になると、毎年友だちを誘ってねぶたに参加した。座敷に並べた何枚もの浴衣に、大量の鈴を付けるのが、私の仕事だ。当時の跳人は、とてもパワフルだった。円陣を組んで跳ね始めると、なかなか終わらず、最後には脚がつって動けなくなることもあった。ひと夏に何日も跳ねるので、8月7日には、みんなボロボロになっていた。鈴が一個も残っていないのが自慢だ。
 結婚し子どもが生まれて、何年かはねぶた参加はかなわなかったが、長男が3歳、次男が9カ月の夏、ねぶたに復帰した。次男はベビーカーでのねぶたデビューだった。久々に取り出した浴衣は、何年も使って、タスキからの色落ちとスッパネで、かなりくたびれていたが、愛着があり、買い替えなかった。夫と私と子どもたちのために、またたくさん鈴を買った。子どもたちは、鈴の音に、うれしそうに飛び跳ねていた。懐かしい思い出である。
 弘前に引っ越し、子どもたちが子供会のねぷたに参加するようになって、私たちは、ねぶたに参加しなくなった。あれから20年近くたってしまった。
 電車の車中で原稿を書いていたら、高校生と思しき三人の若者が、ねぶたの衣装のまま乗り込んできた。少し誇らしげに。甲高い鈴の音は、昔の「シャンシャンシャン」とは少し違うが、急に懐かしさがこみ上げてきた。そして私は、今年、ねぶた期間にびっしり仕事を引き受けてしまったことを、後悔している。もう跳人として参加することはかなわないかもしれないが、来年は鈴を買って、夫とねぶたを見に行こう。ねぶたは、ちょっと立派になりすぎて、近寄りがたい気もするけれど、鈴の音は、昔と変わらずに、きっと私をワクワクさせてくれることだろう。
 (弘前医療福祉大学教授 小玉有子)

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「今こそ地方創成を」地方消滅を防ぐために

2016/7/31 日曜日

 

 政府がアベノミクスの第3の矢である経済成長の一環として、地方創生(まち・ひと・しごと創生)を掲げ、担当大臣まで置いて取り組むことを宣言し、これに併せて各自治体も「総合戦略」と「長期人口ビジョン」を策定した。県内でも、県を始め40市町村全部が策定したはずでありあれから1年半、計画に基づき、自分たちの住む自治体の将来を見据えて実行段階に入っているはずである。
 筆者も地方創生に関心をもつ一人であり、本欄にも2度、1度目は「まち・ひと・しごと―官民挙げて地方創生を」と題して、今回の計画が地方再生の最後の機会だということを、2度目は「地方創生は自力で―試される住民の自治能力」と題し、地方創生は自ら考え自らの力で行うことが何よりも大切だということを述べてきた。特に計画策定に当っては外部に依存するのではなく、自治体職員、地域企業、住民などが協力して策定すべきことを主張した。他人任せの計画では実際の問題として実行する段階で、これまでの多くの計画がそうであったように自らの課題としてやっていこうという気にならないと思われるからだ。残念ながら県内の自治体のいくつかはコンサルに丸投げであったと聞いているが、こうした自治体では、その後、どのように計画が生かされ、実行に向けた取り組みがなされているのであろうか。筆者も、県内複数の自治体から計画策定に係ることを求められたが、策定するのは住民、団体などと協力して当該自治体職員がやるべきことだとはっきりと申し、ちょっとした手伝いだけは引き受けた。担当職員の努力の結果、短期間で質の高いものを策定することができ、計画が実行され、未来が開けることに大いに期待をもった。
 ところでそれから半年余、計画はどのように実行されているのか気になり出かけたが、残念ながら実行へと移行させる方向すら定まっていなかった。些かでも関わりを持った人間として残念に思い、首長に話し、若手を中心として職員と地元住民からなる「地方創生塾」を立ち上げ、郷土の未来のための実行部隊をともに育てる試みを行うこととした。その初回の時、計画を読んだ人がいるか尋ねたところ、住民は致し方ないとしても職員も誰一人読んでないこと驚かされた。
 計画などはたまたま担当した者が作るもので、他の部局は関係ないとでも思っているらしい。これでは今回も計画作りで終わってしまう危険がある。自力で策定した所でもこの有様だから、外部に作らせた所の状況は想像に難くない。
 計画は「神棚に飾る」ものでも、倉庫に埋もれさせるものでもない。まずは職員が計画を読み理解し、団体、住民と一体となって実行していくことが求められているのだ。実行しなければ、それは地域の消滅に直結するのだから。
 (青森大学名誉教授 末永洋一)

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「山の日と学校の校歌」山に対する憧れと想い

2016/7/24 日曜日

 

 各学校には必ず校歌がある。山に関する有名な禅語では「山是山 水是水」(やまはこれやま みずはこれみず)などあるが、校歌の多くには山が記されている。黒石市や津軽地方では地元の山や岩木山、八甲田山などである。
 まず、平成27年度新設の大鰐小学校は、浜圭介作曲で「阿闍羅の峰」が記されている。浜氏の奥様は往年の美人歌手・奥村チヨであり、「恋の奴隷」などは年配のファンも多い。
 3月黒石中学校の卒業式に出席した。隣は先輩で学校評議員の森勇一氏、「甲田岩木の峰高く」で始まった。先輩の堂々とした歌声に中学生当時を思い出し胸が熱くなった。さて黒石市内などを見ると「遠くのお山が見ています」(黒石幼稚園)、「雲居(くもい)はるかに津軽富士」(中郷小)、「東のお山の」(上十川小)、「岩木嶺は問わず語らず 厳として鑑の如し」(青森県立黒石高等学校)、「山は山を呼び 津軽野ひらけ」(愛と知恵と真実と・青森中央短期大学)などほとんどすべての学校の校歌に山の表現を見ることができる。児童生徒にとり将来の目標や自己実現のため山は大きな象徴である。
 さて、郷土の先人はどのように描いているのであろう。作家太宰治に次のような記述がある。「弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかもしれないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢(きゃしゃ)な姿も忘れられなかった。」
 確かに「偉容けだけき岩木嶺を軒端に近く仰ぎつつ」(つがる市立向陽小)、「ゆるぎなき岩木高嶺を」(金木小)、「ああ岩木嶺に雲はなし」(五所川原小)など、西郡北郡の校歌にも謳われている。
 「天は我々を見放した」。という台詞で有名になり高倉健出演の映画で有名な「八甲田山」は114年前の青森歩兵連隊の雪中行軍の遭難を描いたものだがこれも山に関する青森県の大きな物語といえよう。
 太宰の長編「津軽」での岩木山の記述は見事である。「『や! 富士。いいなあ』と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている1625メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼(まっさお)で、富士山よりも女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる」。実に見事な描写である。我々も郷土の山を見直すとともに、母校の校歌を改めて知りたいと思う祝日である。(参照引用「日本百名山」新潮文庫 「歴史の百名山」だいわ文庫)
(黒石幼稚園園長 山内孝行)

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