日曜随想

 

「青い目の人形」渋沢栄一と民間親善外交

2018/7/29 日曜日

 

 先日、久しぶりに東京都北区王子飛鳥山の「渋沢史料館」を訪れた。近代日本の経済社会の基礎を創った渋沢栄一翁の事蹟を紹介する史料館だ。渋沢は、青森銀行の前身、第五十九国立銀行創設に当たっても指導しており、その確認の意味もあり、5年ほど前に行ったことがあるが、今回は、日本商工会議所の三村会頭が、渋沢の事蹟を振り返りつつ、今日の混沌とした世界経済・日本経済の処方箋を見出すために書かれた論考が目にとまったのがきっかけだ。近くには「紙の博物館」もあるが今日の王子製紙などの前進に当たる西洋式製紙工場を渋沢がこの地に創設したことに由来するものである。飛鳥山は徳川8代将軍の徳川吉宗が千本の桜を植樹して以来、江戸の庶民も花見を楽しむことになった場所である。
 史料館では、渋沢の人柄や業績が九つのコーナーで紹介されている。時間の関係上、「実業界を築く」と「民間外交を担う」に時間を割いたが、前者では、著書『論語と算盤』にみられる「経営理念に基づく戦略的実践による利益の追求こそが社会全体の利益となる」とした渋沢の経営哲学を再確認し、渋沢の理念を今日いかに生かしていくべきかを考えた。後者では、以前から気になっていた「青い目の人形」と渋沢の民間外交の一端を見ることとした。自治体史編纂に関わっていた時、昭和2(1927)年の役場資料に、「米国児童ヨリ本邦児童ヘ多数ノ人形ヲ寄贈シ来タリ」とあるのを見たが、これが、渋沢の民間外交の一端を示すものであったからだ。
 当時、わが国と米国は中国大陸における権益をめぐって緊張が高まり、米国内では安価な賃金でも働く日本人移民への風当たりと人種的偏見が相俟って、1924年「排日移民法」が成立し、日本でも急速に反米感情が高まっていた。こうした時、米国宣教師ギューリック氏が「国際親善は子供の時代から」との思いで、日本児童に人形を贈る運動を行い、渋沢がこの事業を仲介したのだ。全米から集められた青い目の人形1万2千体余がひな祭りに合わせて日本に送られるが、先の文書は、文部省から各県に送付されてくるので、市町村は地域の小学校・幼稚園に届けるようにとの文書の一部で、青森県内には計220体が届けられている。なお、渋沢は返礼として日本人形を米国に送っている。
 しかし、日米関係は決して好転せず、ついには太平洋戦争へと突入し、青い目の人形はやがて「敵国の人形」として、焼却や破壊され、竹やり訓練の標的にもされたりしたが、何体かは奇跡的に救われ、今日まで保管されている。
 渋沢らの民間外交は残念ながら実らなかった。しかし、国際緊張が高まる中、民間が緊張を和らげようとしたことは大きな教訓となるであろう。
   (青森大学名誉教授 末永洋一)

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「弘前バル街」参加者自身がつくる楽しみ

2018/7/22 日曜日

 

 先週末は15回目の弘前バル街だった。バル街とは、チケット制で飲み食べ歩きを楽しむ催し。今から14年前、我々が函館で開催したのをきっかけに、同様の催しが全国に拡がった。弘前での開催にあたっては初回から函館の店も参加し、今回も多くの皆さんにお越しいただいた。
 せっかくの機会なので、今回は舞台裏を含めたバル街の魅力を紹介したい。弘前ではチケットの販売数が1500冊程と聞く。1人1冊使うので、ほぼ同数の人が街に繰り出すことになる。チケットは5枚綴りなので、各店でのサービス総数は7500回分にもなる。参加店は約60店なので、1店平均客数は120人を超える。席数やサービス方法はそれぞれで異なり、多い店では500人以上が来店するそうだ。少ない店でも数十人が訪れ、普段とは桁違いの客数である。相席や肩が触れ合うほどの賑わいの中で、軽い料理とドリンクを楽しむ。マップに記された参加店ならどの店に行ってもよいし、もちろん行く順番も自由である。店の前の行列を目安にかだるもよし。あそこの店がよかったよ、という評判は、SNSに頼らずとも、そこらじゅうから聞こえてくる。マップさえ持っていれば、みな親しげに話しかけてくれ、共に一夜の楽しみを謳歌する。
 運営面では、チケットの売上げが収入のほぼ全て。参加店からの出店料はもらわない。この中からマップ製作やPRに充てるため僅かばかりを差し引いて、あとは各店でのサービスの対価となる。バル街の運営自体は、参加店と参加者を仲立ちするシンプルな仕掛けといえる。それゆえにバル街の魅力を作るのは、ひとえに参加店であり、また参加者自身であるともいえる。年にわずか2回だが、街に定着していくなかで、どこか特別な日になってきた。この日だけ一緒に飲み歩くという親子や夫婦、兄弟や姉妹などにも出くわす。古い友人同士で集まる機会になっていて、この日を楽しみにしている、という話もよく聞く。近頃は浴衣や着物で出かける人も多くなってきた。
 笑い話だが、函館では「バル街はどこですか?」という観光客からの質問が少なくないそうだ。いまだに商店街や繁華街だと思われている節もある。地図をいくら探してもバル街は見つからない。バル街は、一夜だけ忽然と姿をみせる、人が織りなす楽しい空間なのである。
 9月2日は、30回目の函館西部地区バル街を開催する。同じく9月には青森市や北海道江差町でも開催予定がある。ぜひ一度、他の街のバル街を体験してもらえれば、弘前での新しい楽しみ方も見つけられると思う。そして次回の弘前バル街では、各々がもう一人誰かを誘ってもらえれば、より賑わって皆の楽しみが増えること間違いなしだ。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「日本アニメ百年⑦」 戦後のアニメ④

2018/7/15 日曜日

 

 手塚治虫の画期的なテレビアニメですが、実際のアニメ制作は困難を極めました。
 1週間ごとの制作ですから、どのようにして省力化を行うかがポイントとなります。しかし、作家気質の手塚です。商業的な手法で全体を割り切ることがなかなか出来なかったようです。結局、虫プロでは、制作に当たって徹底的なリミテッドアニメーションの技術が用いられることとなり、後に手塚は以下のような方法をとったと述べています。
一、1話分の動画枚数を当初2000枚と定めていたが、さらに極力減らす。
二、スムーズな動作場面でも、秒3コマ取りにする。(通常フルアニメで24コマ)
三、顔のアップなど、動作を伴わない場面はセル画1枚とする。
四、車などが横切る場面は、動画にせずセル画を引っ張る。
五、歩く場面は背景を動かす。
六、腕や足を動かす場面は、腕や足だけを別セルにして動かす。(リミテッドアニメーションの手法)
七、口を動かす場面では、口を開ける―中間―閉じるの3枚のセルで行う。(どんな言葉も同じ)
八、過去の原画を保存し、場面によっては再利用する。(バンクシステム)
九、カットが長いとリミテッドアニメの欠点が目立つので、カットは極力短くする。
 これらのことが以後の日本アニメの表現方法を決定したといっても良いようなことでした。劇場アニメ主体の他社からは「紙芝居」と揶揄されます。しかし、この方法をテレビアニメの制作方法として確立し、今日までの長い間続いてきました。このリミテッドアニメーションの欠点を克服するために、以後の日本のアニメーションスタジオが行ってきた色々な表現手法が欧米などのアニメーションと決定的な違いとなって現れてきます。最初は確かにあまり表現が良いとは言えなかったリミテッドアニメーションが、日本のアニメーターの長い間の改良によって、その紙芝居的といわれた手法こそが、日本独自のアニメーション表現として今日に至るわけです。つまり、省力化のために動画ではなく絵を動かさないという苦肉の策が「止め絵」の表現として確立しました。このために「現実離れした自由な動き」「背景処理」「カメラワーク」「透過光線処理」などの技術が、日本の商業アニメーションの標準として行われることになります。また、物語の「世界観」「ストーリー」「キャラクターデザイン」なども日本の漫画文化から移った重要な要素です。この表現方法が、今日世界の中で日本独自の商業アニメーション表現といわれる所以です。
 以下、次回に続く
(弘前大学教育学部教授 石川 善朗)

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「気ままな旅」異空間・六義園に遊ぶ

2018/7/8 日曜日

 

 3年前、3月下旬の週末だった。
 東京のホテルはどこもかしこも満室。定宿にしていた五反田のビジネスホテルもその日は完全に塞(ふさ)がっていた。
 そして、一縷(いちる)の望みを託したJR山手線沿いのホテル。あった。奇跡的に一室だけ見つかった。旅行代理店の受付嬢はここしかないという。直(す)ぐにOKの返事をした。
 予約したホテルはJR山手線・駒込駅(南口)に隣接していた。駒込駅で下車するのは初めてだが、目と鼻の先に大名庭園・六義園(りくぎえん)があった。一度は訪ねてみたいと思っていた庭園だったが、東京のどこにあるのか知らずにいた。それがホテルの満室という不運のお陰(かげ)で偶然に出会えた。人生は万事塞翁(さいおう)が馬。何が幸/不幸になるかわからない。
 翌朝ホテルを出て六義園へ向かった裏門の染井(そめい)門(閉門)の前を道なりに進み、7分程で正門に着く。入園後、内庭大門(ないていだいもん)をくぐると突然シダレ桜の大木が視界に入る。薄紅色の花が青空から流れ落ちるように咲いている。観桜客がシダレ桜に感嘆しながらシャッターを切る。
(ちなみに駒込の一部は江戸時代に染井村と呼ばれ、植木の一大産地であった。ソメイヨシノ桜発祥の地といわれる)
 六義園は五代将軍徳川綱吉の寵愛(ちょうあい)を受けた御側用人(おそばようにん)・柳沢吉保(よしやす)が作庭した大名庭園である。完成までに7年半を要し、吉保の和歌への思いや素養、思想が色濃く反映されている。広大な敷地には池や築山(つきやま)をはじめ万葉集古今和歌集に詠まれた紀州(現在の和歌山県)の名所、歌枕(うたまくら)を模した景色が点在する。側用人(秘書)は将軍と老中の間を取り持つ役目。綱吉は「生類憐(あわれ)みの令」により悪政と評されたが、吉保も評判はよくない。本当にそうなのか。現在は悪政の原因とされる「生類憐みの令」を評価する説もある。歴史研究の多面的検証の成果であろう吉保の評価もまたそうなってほしい
 六義園は歪(ゆが)んだ吉保像を変える歴史的遺産である。吉保は政務の疲れや苦労を園内の回遊で解消し、安らぎを得ていたのであろう。六義は和歌の心に由来する。園内を巡ると悪評高い吉保像とは別の姿が浮かび上がる。お勧めは藤代峠(35メートルの築山)からの眺望。往時は富士山や筑波山も望めたらしいが、現在は林立する高層ビル群に取り囲まれている。だが逆に、都会にあって都会とは異なる時間・空間を満喫できるように思える。綱吉の死後間もなく吉保は隠居し、最後はこの六義園で生涯を閉じたという。
 歴史に人間はつきもの。「人は好き嫌い、社会は善悪、歴史は正しいかどうかで判断する」。好き嫌いによる近視眼的評価だけでは事の本質(真実)を見誤る。吉保がこよなく愛した六義園は元禄(げんろく)15(1702)年の完成からすでに300年以上も経過している。
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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「ハンパないに思う」省略の持つ躍動感とスピード感

2018/7/1 日曜日

 

 世間は今、ロシアで開催されているサッカーワールドカップ人気に沸いている。大切な1点を争う中で、ゴールを決めた大迫選手は、一躍、日本のヒーローへ躍進したような報道がなされている。その中で、応援席に「大迫ハンパないって」と書かれた看板が掲げられているのを目にした。
 この大迫選手に対する「ハンパない」評価は、彼がまだ高校生の頃(2009年)の試合で、後ろからパスされたボールでも見事にトラップ(勢いを止めて受け止める)して、ゴールを決めたことに対して、相手チームの選手や監督が評価したものだ。つまりは、敵ながらものすごく上手い奴だ、半端じゃないというところを、省略して「ハンパない」と表現していた。応援の看板も当時の映像から作られたものだろう。それを見て、そういえば、「はんぱない」っていつ頃から使われているんだっけ?と思いついた。
 元々、「半端」は、「半端だ・半端な」と活用するいわゆる形容動詞といわれるもので、量や数がそろっていない不完全な状態を指す。そこからどちらともつかず徹底しない中途半端なことを指すようになる。もうひとつの意味としては、一人前でないことや、気のきかないことを指す。はんぱではないとか、はんぱじゃないなどと言われてきた。
 これが、若者語として「はんぱない」のように使われるようになった例として、『現代用語の基礎知識』(自由国民社)に2002年に採録された。その当時は「はんぱじゃない。すごい」という意味が付いている。それから2008年には、「ハンパない/パない/パねぇ」と表記されるようになり、さらにことばの省略が進んでいることがわかる。また、意味も「ハンパでないほどすばらしい」と「ハンパでないくらい悪い」の両方の意味が記述されるようになった。つまり、いい意味でも悪い意味でも程度が甚だしいというとらえ方だ。このあたりが冒頭の「大迫ハンパないって」につながるところだろう。
 この言い方について、間違った表現とか、変な言い方とか感じる大人の皆様も多いのではないだろうか。若者の言語感覚として、省略を好み、リズミカルな会話を楽しむ特徴がある。「了解」をただ「り」とだけで伝えることも当たり前で、「明けましておめでとう」を「あけおめ」などと言うのはけしからんなどというよりも、もっと事態は進行している。一方、「辛い」ことを「辛み」と万葉の昔の文法・ミ語法のような古風な表現もある。標準的な用法として辞書に採録されるようなものではないので、「俗語」として扱われるものだろうが、スポーツの持つ躍動感やスピード感とマッチして、人々の感覚にはよく合っているのだろう。
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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