世界が重苦しい不条理に翻弄(ほんろう)されて、先が見通せない中、個人としてこれまでの自分史を振り返ってみる。私を特徴付ける「自分らしさ」が、次の経験に由来することだけは間違いなかった。
一つ目は自分が行ってみたい土地や場所への一人旅。20代からコロナ禍直前まで日本各地を訪れ、実際に見たり聞いたり、食べたりしたことを今も鮮明に思い出す。不案内な目的地まで汗だくになって歩き続け、試行錯誤を繰り返したことも心と体がしっかり覚えている。到着時の安堵(あんど)と自信が入り交じった気分は言葉にならない幸福感そのものだった。
二つ目は未来の担い手を育てる教育という仕事。これも20代から現在まで継続している。対象が小学生や中学生、大学生と変わったが、一人一人と真摯(しんし)に向き合い、使命と責任を果たす点では同じ。迷ったり、悩んだり、苦しんだりした。そのような逆風にひるまず、自分の力で対応し続けているうちに、教師としての認識や信念が確実に磨かれていた。
この二つの経験に共通する要素は、継続と慣れである。これらは「継続すれば慣れる」という因果関係になっている。ただ慣れ過ぎると危機感が薄れ、思わぬ失敗をする。それゆえ留意しながら学び続けていくしかない。そうしなければ得難い経験は有効に生かせず、体得した知識や感覚も逆に作用してしまう。
経験を重ねるにつれて、経験則が出来上がる。これによれば物事は難なく即断即決できる。便利である。だからこそ囚(とら)われると歪(ゆが)んだ信念や根拠のない考えを正当化したくなる。経験則を信じるなというつもりはない。慣れの危険性を忘れてはならないと述べたいだけ。継続も慣れも大切に思う点は変わらない。
とはいえ、それらを正しい行為(実践)に調整する働きが健全な批判精神。自他の区別なく必要な時・場所・状況で適切に発揮されるべき安全装置である。自分の信念や考えが正しくて、他人にも利益をもたらすなら問題はない。もしもそうでなかったら、自他を不幸な状態(結果)に導くのは明らかであろう。
経験も信念も、人生を生き抜く上で掛け替えのない能力である。外界と直にぶつかり、悩み苦しんでも、過去の経験や信念があるからこそ耐えられる。反省を繰り返し、不断の努力・工夫で難関突破できるのもその証左といえる。
閉塞(へいそく)感に満ちた現状がどのように変化するのか誰も分からない。しかし慣れに対する危機意識と小さな違和感に気付く感受性さえ失わなければ、自分の経験は自由に価値付けることができる。それが大きな代償を払わずに済む唯一の方法だと思う。危機感も違和感も明確に知覚できないだけに、とかくなおざりにされがちである。「神は細部に宿る」ことを改めて胸に刻んでおきたい。
(柴田学園大学特任教授 船水周)