日曜随想

 

「歳取り・正月・節分」大人の責任

2017/2/5 日曜日

 

 20年ぶりくらいにお正月を郷里で迎えた。今でも私の郷里では歳取り・正月は何回かあり、その都度、食べなければならないものも決まっている。年末31日にはもちろん年取り行事があり、出世魚であるブリをはじめ、田作り・数の子・なます・黒豆・かりんが添えられる。かりんは「金を借りん」と掛けられており、西日本的な方言でこその縁起担ぎだとわかったのは、大きくなってからのことだった。他に貝ひもや蓮根・人参・昆布・生姜を煮た「しぐれ」や、肉や魚を一切使わず、野菜と昆布、開運のためのはまぐりで作る「お平」、絶対に残してはいけない(残すと来年に仕事が残ると言われている)「大汁」などである。
 年が改まると6日年を取り、7日の七草を迎える。七草を刻むときの歌も決まっていて「七草ナズナ唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先にあわせてバタバタ」なる不思議な歌だ。意味は全くわからなくても、とにかくそう言うものだと教わって唱えてきた。お鏡開き、小正月にも年取りがあった。それなりの準備が必要なため、小正月に作る「餅花」などは作らなくなって久しい。
 2月4日は立春、季節が変わり春になった。その前日が変わり目の節分、今回は冬から春への変わり目である。しかし、津軽では雪の季節の真っ最中だ。
 私の出身地では、節分には戸や窓を大きく開け放ち、「鬼は外、福は内福は内」と唱えながら「鬼は外」の時だけ豆をまく。そして「蟹柊」と書いた小さな紙(お札)を、玄関や蔵の入り口などに貼って回る。それが子供の役目とされていたので、一升枡に豆を入れて大きな声でまいて回ったものだ。「蟹柊」は、蟹の爪と柊の葉っぱというとがったもので鬼を払うと聞いたが、他の家では「かにかや」と書いているところもあり、それは雷・雷様を避けるための「蚊帳」のことだとも聞いた。幼い頃は雷様も鬼なんだな、などと納得した覚えがある。
 その後、無病息災のため、年の数だけ豆を食べることになっていた。子供はすぐに食べられるので気にならなかったが、今思うに大人、特に祖父母はちゃんと食べてはいなかっただろう。私は煎った豆で出す豆茶が好きだった。何とも言えない香ばしいお茶で、お茶を出した後のふっくらした豆を食べるのも楽しかった。
 こうした伝統行事が簡素化され、さらには引き継がれなくなってきている。それは社会変化ということもあるが、自分自身「大人の責任」を感じる。子供がわからなくても続けることの大切さはある。今の時代の理屈というのは、ある意味、今の時代に生きる人間にわかる限界を示しているだろう。実は、自分たちに都合のいい理屈にはなっていないだろうか?
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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「沖縄から帰った飯盒」戦後70年も残る戦争の爪痕

2017/1/29 日曜日

 

 反戦を唱えるボブ・ディランがノーベル文学賞をとった翌日、私は戦争の取材をしていた。場所は青森県南津軽郡六郷村高舘(現黒石市)である。遺品は飯盒(はんごう)のふたに大きくカタカナで「キダチ」と書かれていたことから判明し、空白の70年が一気に解決した。
 大正9年、木立家に待望の長男が無事誕生し、寛藏(かんぞう)と名付けた。両親の期待に応え順調に成長し、180センチを超える父と同じような体格で、地域でも評判のイケメン青年であった。彼の成長とともに日本も発展した。何時しか大政翼賛会は成立し徴兵令が実施された。
 20才の若さで寛藏は入隊した。戦果が見事であったことは薄い紙の軍事葉書(はがき)の内容から十分読み取れる。筆跡の几帳面で丁寧な文字、両親を思う孝行息子の姿、軍部の二人の検閲印から当時の世相や緊張感が伝わってくる。戦争の5年間で状況が急展開したのは昭和19、20年の後半2年間に絞られ、日本人の人生を変えた。軍部は本土決戦を避け、各地の部隊を沖縄那覇に集結させた。
 飯盒発見の1週間前、私は沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」を訪問した。小雨の中、慰霊碑に献花した際、自然と涙がこぼれ胸が詰まった。その後、野戦病院に入るのだが付近に建物は見当たらない。入り口こそ立派だが、中の再現場面は地下の洞窟である。「細る体と太る蛆(うじ)」と言う言葉が残酷さ、過酷さを伝える。岩手県にも鍾乳洞の龍泉洞があるが極めて似ている。ここで最後の夜、当時の指揮官は「あとは自分の好きなようにしていい」と言ったという。自決か殺されるかである。同時期、那覇も攻撃され、飯盒はそこで発見されたという。死亡は通知だけで、遺骨遺品は一切無い。祭壇に寛蔵の写真は無く、肖像画であった。父親が亡くなるまで肌身離さず持っていた昭和20年正月に届いた元気な知らせの葉書からは、半年後に死亡通知が届くことは考えられなかった。
 70年の歳月は寛藏の記憶を薄れさせていた。しかし、飯盒はどうしても家に帰り伝えたかったのであろう。妹が新聞記事を見て連絡し、戸籍抄本、一枚の葉書などから本人確認が取れ、ようやく70年ぶりに飯盒は自宅に戻った。
 「飯盒は遺骨と同じです。無事自宅に帰れるのは極めて稀(まれ)です」沖縄の使者が持参した飯盒は、帰省しお墓に入ることができた。親族一同、子や孫まで墓を忘れることの無いよう配慮したのである。
 ものには心は無いという。しかし、戦争の危機が再び危惧される現在、今この時期に見つかった飯盒には大きな意義を感じる。この事実を重く受け止め、戦争の犠牲者は市民そのものであり、戦争が本人や家族の人生を変えてしまうことを忘れてはならない。
(元黒石幼稚園園長 山内孝行)

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「危険なトランプ演説」オバマ氏は有終の美飾る

2017/1/22 日曜日

 

 原稿を書いているのが15日、5日後にはトランプ氏が第45代アメリカ大統領に就任する。共和党の大統領候補選の時から何かと物議を醸し、大統領選挙ではよもやの勝利、アメリカ社会を分断へ導き世界をあ然とさせたトランプ氏だが当選直後の「勝利演説」では「団結」を訴えたはずだ。それ以降、米国民に公に所信を表明することもなかったが、12日、初めて演説し記者会見に臨んだ。
 米国民のみならず多くの人が、この演説は大統領就任直前のことであり風格、態度、内容とも次期大統領に相応しいものを期待したことだろう。もっとも2日前の10日、女優のメルリ・ストリープさんが受賞演説の中で「一国の尊敬を集める元首たらんとする人物が、障害のある記者を真似て笑いものにした」とし「権力者が公の場で本能の赴くまま人を侮辱する見本を示したら国民はどう思うでしょうか」とトランプ氏の態度を批判したが、トランプ氏は釈明どころか、ツィッターで「デマだ。過大評価の女優め!」と罵るだけだったので、期待はしなかったが。案の定、演説は超大国の指導者とは思われない高圧的態度で言いたいことだけをまくし立てる演説であり、説明や理由もなく結論じみた言葉を一方的に発信するツィッターと変わらないものだった。
 私が最も聞きたかったのはトランプ氏の経済政策である。ツィッターでは極めて単純に「国内の雇用を拡大する」とし、自由経済・貿易、WTO協定を無視する態度に終始し、無理解を恥じることなくトヨタ自動車にも難癖を付けていたからである。しかし、政策といえるようなものは全く語られず、しかも、自分に都合の悪いメディアの質問は封じたのである。こうした態度はストリープさんが言う通り、権力者のやるべきことではないのは言うまでもなく、こうした態度が罷り通る政治世界は独裁へと通じるものであることは歴史が雄弁に語っている。
 こうした時、トランプ演説の前日に行われたオバマ氏の「お別れ演説」は歴代アメリカ大統領の演説の中でも特筆に値する名演説と言えるのではなかろうか。
 首都ワシントンではなく、自身が30年前に政治家としてデビューし、9年前に大統領選出馬声明を行ったシカゴで行ったこと自体が印象的だったが、「毎日あなた達から学び、あなた達が私を優れた大統領、優れた人間にしてくれた」と、国民への感謝の言葉に始まり、「変化をもたらすあなた達の力を信じてほしい。私たちはできる」と呼びかけて終わる58分の演説に、オバマ氏の人生観や政治哲学が凝縮されていると言えよう。また、演説の後半で、「民主主義を当然のものだと思ったときが民主主義の危機だ」と警鐘を鳴らす時、全アメリカ人、そして「民主主義」国家に生きる人類への警鐘として受け止めるべきだろう。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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「健康教育の重要性」健康づくりは子どもから

2017/1/15 日曜日

 

 青森県では、1年間で亡くなるひとの数の約半数しか赤ちゃんが生まれてきていないため、本当に子どもの健康は大切です。幼稚園連合会の研修に講師として呼ばれ、私が最初に言った言葉です。その日は久しぶりの雪が降っており、寒いなか幼稚園の先生方が集まってくれ、私の子どもが通っていた園からも来てくれました。わが子に、生活から“しつけ”、そして学びまで教えてくれた先生方です。親として感謝しながら、たいへん嬉しくお話しさせていただきました。
 健康は若い頃からの生活習慣によって大きく左右されることがわかっています。つまり、4人いれば約3人は生活習慣病(悪い生活習慣の積み重ねが主な原因)で亡くなるわけですから、その対策は良い生活を早いうちから身につける(習慣にする)ことが大切です“鉄は熱いうちに打て”と考えこれまでも小学校~中学校の先生方に健康教育に関する講話などをしてきましたしかしそれより若い世代を対象としている幼稚園の先生方に対してお話し出来る機会は今回が初めてで私もこの日を楽しみにしていました。楽しみにしていた理由としては、良い生活習慣は一つの“しつけ”であり、親と子が一緒になって実行することが大切で、その機会は学年が上がるにしたがって少なくなると感じていたためです。
 近年の研究においても、「親が生活習慣を改善すると子どもも変わる」「一家団らんの食事が肥満をふせぐ」といった子どもの健康づくりに親、そして家族の重要性が報告されています。つまり誰もがなんとなく思っていたように、子どもの健康のためには一人ぼっちにさせず家族の会話が大切であることが明らかになってきたのです。講演では、本県が最も寿命の長い長野県に比べて働き盛りの世代が多くなくなっており、その主な理由が生活習慣病であることを伝えました。実際にその背景である生活習慣も悪く、病院受診が遅かったり、きちんと通院できていない方が多いのです。悪い生活を一日しても生活習慣病にはなりません、数カ月でなく数十年続けることでリスクが積もり積もって病気になるわけです。
 このため、働き盛りの時期の発症をさけるためには、そこから数十年前までさかのぼって、悪い生活をするような“芽”が育たないように皆で伝え手になりましょうと呼びかけました。人の行動はなかなか変わりませんが、身近な人や大切な人が本気で伝えること、つまり人から人へつないでいくことが健康づくりの重要な鍵と考えます。最後に、お菓子が止められないと微笑みながら話しかけてきた先生がいましたが、いつもでなければ大丈夫ですよと答えました。その時、私はバームクーヘンを頂いており、恥ずかしく足早に車に乗り込みました。
(弘前大学大学院医学研究科准教授 高橋一平)

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「地域のおかげで」 「返せない借り」の順おくり

2017/1/8 日曜日

 

 今年の弘前はいつになく穏やかな新年を迎えた。市街地の人通りがいつもより多く活気づいている気がする。他県に住む我が家の息子も帰省してきたが、二十歳をとうに過ぎた息子にも「孫と同じだから」と言ってお年玉をくださる近所の方々がある。そうそう、この方々には子どもらが小さい頃から、ひとかたならずお世話になったなあとしみじみ思う。そのおかげで今があるのに、お年玉の心遣いまでしていただいてはいつまでもご恩返しができないと恐縮しきりである。
 お年玉をもらうのは子どもだけというのが日本では普通だが、同じような習慣があるベトナムではいくつになっても年上から年下の人にお年玉をあげることになっているという。年上から年下へという序列が徹底している。お年玉にあたる「ティエン・モット・トゥオイ(漢字だと銭・一・年)」には新年に皆が一斉に歳をとるという意味が含まれているそうだ。誰もが年上からもらい、自分も年下にあげるという行為により、互いのつながりを生みだし、社会の中の自分の位置を確認する。みな同じように一歳ずつ年をとるから、この順序は安定して変わらない。
 お年玉のやりとりには年上が年下の世話や援助を与える一方、年下は敬意や感謝をもってこたえるという関係性が映し出される。そのようなやりとりは相手にある種の「借り」を作ることだともいえるただこの場合の「借り」はお金や物を借りるのとは違って相手に直接同じものを返済することができない、いわば「返せない借り」だといえる。それは自分がその立場になった時、他の誰かに同じことをしてあげることで順おくりにする「借り」であり、この種の「借り」が作られ続けることが社会的なつながりを生み、強める原動力になるのだという考え方がある。
 青森県の事業に関わり、学生たちがお世話になった三沢市根井集落の方がこんなことを言っておられた。「この地域に関わったことで、学生さんたちが将来どんなふうに変わっていくかを見守りたい。自分も大学生だったころがあったから」学生たちは根井のために何ができるかを真摯に考え行動してきたが、そのアイデアを支えて動かしてくださったのは、他ならぬこの集落の方々だった。お役に立とうと行ったつもりが、地域の方々のご好意のおかげで学生たちが大きく育てられた。この大きなご好意に直接お返しするなどとても無理だが、将来、学生たちがそれぞれの場所で次の誰かを支える側に立とうとすることはまちがいない。
 明日は成人の日。それは過ぎ越し方と行く末を思い、自分が「返せない借り」を順おくりする輪の中にいることを実感する日でもある。成人式を迎える若い人々に、またかれらを見守り惜しみない助力を与え続ける人々に幸あれと願う。
(弘前大学人文社会科学部教授 杉山祐子)

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