日曜随想

 

「民主主義の行方は?」フンセン氏と独裁政治

2018/9/9 日曜日

 8年ほど前、アンコールワットなどに代表されるクメール文化に触れるためにカンボジアに行った。クメール文化の荘厳さと威厳に圧倒される一方で、内戦などで破壊された遺跡も時々目にし、道端で民族楽器を奏でている人々―これらの多くは内戦で手足を失ったり、傷ついた人々であるが―が喜捨を願っている姿や、多くの裸足の子供が物売りをしている姿も時々見受けられた。だからこそ、平和を取り戻した今こそ、カンボジアが自由で民主的な国家として発展することを強く願ったものである。
 爾来8年余、カンボジアの経済的発展は目覚ましく、大きく様変わりしたようである。しかし、昨今のカンボジアを見ていると、経済発展とは裏腹に、自由や人権を基盤とする民主主義的な国家づくりが後退しているように思われてならない。特に7月末に実施された下院総選挙をみていると、そうした思いは一層強くなってしまう。
 当初から予想されたように、フンセン首相が率いる与党が全議席を独占した。上院も与党で占められていることで、事実上の「一党独裁」であり、フンセン「独裁」を完成させたのである。前回選挙では与党が大幅に議席を減らす一方で、野党が大きく前進し、地方選挙でも野党が勢力を伸長させた。野党の躍進は、フンセン氏による30年余の長期政権と、これに伴う利権集中や汚職蔓延などに対する批判だった。権力維持を図るフンセン氏は最大野党党首を逮捕するなど、野党を徹底的に弾圧し解党に追い込み、メディアへの弾圧も強化した。こうした状況下での選挙結果は明らかだったのである。
 こうして、「独裁」を完成させたフンセン氏であるが、氏はかって、あの恐怖政治を行ったポルポト政権に嫌気を差し、これを打倒する戦いに加わり、内戦終了後にはインドシナ和平に重要な役割を果たし、その後も副首相や首相としてカンボジアの平和と発展に尽力してきた人物でもある。このフンセン氏を「独裁者」へ「変貌」させたのは、権力への執着心・拘りであり、「中国マネー」であろう。権力への執着心は、政治世界では時々みられるもので、特に途上国などに多くみられる。その上で、民主主義や人権などを主張することなく、金をばらまいてくれる経済大国中国を後ろ盾にすれば「独裁」は完成するだろう。
 カンボジアに限らず、途上国ではしばしば「中国マネー」に席捲され、時として「独裁」色の強い政治家が権力を握っている状況が見受けられる。かつて、インドネシアやフィリピンでも「独裁」政治が行われたが、民主主義を求める民衆により打倒された。世界の世論は、民主主義を求める人とともに、民主主義と人権の擁護を常に発信し続けなければならいのは言うまでもない。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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「旅と写真」SNS時代のおもてなし

2018/9/2 日曜日

 

 「綺麗(きれい)だなぁ」、つい先日のこと、フェイスブックに掲載された弘前ねぷたの写真を見て、思わずそう呟(つぶや)いた。久々ねぷた時期の弘前に行ってみたいな、と私に思わせたのは、スマホの画面に映し出された数枚の写真だった。SNSの投稿に添えられる小さな写真が旅へと誘うきっかけになる時代なのだ。
 それにしても、近頃のスマホのカメラはよく撮れる。より正確にいえば、驚くほど綺麗な画像を「創り出す」。決してこれは写真に嘘があるという意味ではない。カメラの内部では、デジタル技術が働き、従来の写真表現の枠をはるかに越えたものを瞬時に作り、すぐに見せてくれる、ということだ。
 「写真を撮る」という行為は、ずいぶん様変わりした。携帯電話が全盛の頃、「写メ」が流行し、普通の人たちが日常を写真に撮るようになった。しかし、当時まだカメラ機能はおまけ程度のものだったが、スマホが登場し普及していくなかで状況が変わった。スマホに搭載されるカメラは、使い手が意識せずとも「記録」と「表現」その双方に足る高性能のものになった。しかもSNSなどへの情報発信ができ、さらにアプリを更新することで新機能が加わり、写真の仕上がりまで劇的に変わるほどだ。「インスタ映え」の語源となった「インスタグラム」もそうした革新的なアプリなのだ。さらにスマホ普及の後を追うように、高級一眼レフも再び息を吹き返して、今日ちょっとした写真ブームまで起きている。
 さて、これまで旅におけるカメラの役割は消極的な「記録」の道具に過ぎなかった。しかし今では、旅の経験を写真に「表現」したい人が劇的に増えている。おいしい食べ物や人との出会いなど、旅のなかでの楽しい体験を写真で表現し、SNSを介して、その地域の魅力が広く発信される時代になった。こうした表現を求める旅行者たちにとって、名所旧跡を巡り案内板をどうぞごらんください、という古いタイプの観光地は、もはや旅先として見向きもされないはずだ。
 近年、津軽地域ではまちあるき観光を盛んに売り出してきた。これまで気づかなかった地域の魅力を掘り起こし、旅行者に寄り添いながら案内するというスタイルの持てなしを提案し実践している。決して効率のよい手法とはいえないが、SNSが定着した今、旅のなかで表現を求める人たちとガイドの人たちとの出会いにより、これまでにない新しい地域の魅力発信に繋(つな)がるような気がしている。9月1日からは数多くのまちあるきメニューを一堂に集める「津軽まちあるき博覧会」が始まった。中南津軽七市町村と今回は板柳町と鶴田町も加わるそうだ。
 新しい津軽の魅力が発信されることを期待している。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「日本アニメ百年⑧」テレビアニメの台頭①

2018/8/26 日曜日

 

ここから、手塚治虫以後の日本アニメ界より現代のアニメ界に繋がる時代となります。まずは、タツノコプロとプロダクションアイジーについてです。
 1962(昭和37)年、漫画家の吉田竜夫が、次弟のマネジャー吉田健二、末弟で漫画家の九里一平(本名・吉田豊治)と共に「株式会社竜の子プロダクション」(タツノコプロと略す)を設立します。3兄弟が代表権を持つ取締役に就任し、竜夫が社長、健二が専務、九里が常務でした。最初は竜夫の漫画制作スタジオで始まります。所在地は東京都国分寺市で創設時には、辻なおき、望月三起也、中城健が参加しました。(年配の方には懐かしい名前でしょう)
 64年タツノコプロへ東映動画からテレビアニメ制作の企画が持ち込まれ『宇宙エース』の企画が立てられますが、制作開始直前に企画が中止となり、東映動画は独自に『宇宙パトロールホッパ』を制作します。このとき、タツノコプロ側から吉田兄弟の友人の漫画家笹川ひろしと他にもう一人が東映動画で3カ月のアニメーター養成研修を受けたようです。竜夫はアニメ制作の経験はありませんでした。
 いよいよ65年、手塚プロからは2年遅れで、タツノコプロ単独制作により『宇宙エース』がテレビアニメ第1作として放送開始します。この当時はモノクロが主流でした。吉田兄弟、笹川ひろし、原征太郎らと、東映動画から美術の中村光毅、虫プロダクションから脚本家の鳥海尽三らが加わったようです。新聞の募集広告でも約60名のスタッフを集めました。全52話でした。次に67年、カラー作品第1号『マッハGoGoGo』が放送開始。以後、吉田竜夫が原作を務めた作品と『いなかっぺ大将』などの他の原作者による作品を並行しながらアニメ制作を続けました。主に『科学忍者隊ガッチャマン』などのSFアクションヒーロー物を制作する一方、スラップスティックギャグや家庭向け作品を多く制作します。
 75年、有名なタイムボカンシリーズを開始します。77年9月5日、吉田竜夫社長が肝臓がんのため45歳で死去しました。そして、タツノコプロ草創期のメンバーを中心に社外への人材流出が起きます。
 87年、竜夫社長の後の吉田健二社長が退任し、タツノコプロを退社します。末弟の九里一平が第3代社長に就任します。
 そしてこの後、いよいよ12月、竜の子制作分室が独立して有限会社アイジータツノコ(現プロダクション・アイジー)が設立されることになります。タツノコプロから別れた、現在に繋がる重要なアニメスタジオの登場です。
 以下、次回に続く
(弘前大学教育学部教授 石川 善朗)

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「気ままな旅」根岸・子規庵を訪ねる

2018/8/19 日曜日

 

 この夏(2018年8月)、思い切って正岡子規の旧居・子規庵(あん)(東京都台東区根岸2―5―11)を訪ねた。長い間、行かずじまいになっていた場所である。
 JR山手線・鶯谷(うぐいすだに)駅(北口)で下車。駅の向こう側(高台)の寛永寺霊園を背に言問通りへ出る。陸橋下の歩道を渡ると右に根岸小学校が見えてくる。直後の交差点を左折しそのまま尾久橋通りをまっすぐ進む。やがて子規庵の案内看板が現れ、左折して小路へ入る。庭木に囲まれた民家やラブホテルが点在する中、目的地を探し歩く。そして、ついに子規庵の小さな白い看板を見付ける。駅から歩いて約8分。時間がゆったりと流れ、静かな佇(たたず)まいの家だった。
 子規庵は元々旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋(2軒続きの1軒)である。1894年、子規は松山から母八重と妹律を呼んでここに移り住み、35歳で没するまで俳句や短歌の革新運動、闘病生活に明け暮れた。俳人高浜虚子、河東碧梧桐(へきごとう)、寒川鼠骨(そこつ)、歌人伊藤左千夫、長塚節、画家浅井忠、中村不折、親友夏目漱石や森鷗外(おうがい)、与謝野鉄幹等友人知人門弟が常に集まり、句会や歌会、文学美術談義を行った。ちなみに子規の生活や文学活動の庇護(ひご)者であった陸羯南(くがかつなん)(新聞「日本」創刊、弘前出身)が子規に紹介した借家が子規庵(羯南宅の西隣)である。1945年に空襲で焼失し、50年に寒川鼠骨等の尽力で当時のままに再建された。現在の子規庵はブロック塀に囲まれた、瓦葺(ぶ)きの平屋である。
 木製の正門(入口)をくぐり玄関の引き戸を開けると、受付の女性が物腰柔らかく靴を袋に入れるように声掛けして(靴を履いて庭に下り、そのまま裏口から出られる)、子規庵の解説ビデオ(5分間)を勧めてくれる。
 子規庵は決して広くはないが、座ったり横になったり、子規の目線になってみると癒やされる気がしてくる。不思議である。唯一、起居の空間であった終焉(しゅうえん)の間。そこから見える隣室の床の間。掛け軸。花瓶。転じて、透き通ったガラス張りの引き戸。庇(ひさし)を覆うヘチマ棚。緑濃い庭木。色とりどりの草花……。今日は、ケイトウ、ミズヒキ、ナツズイセンがひときわ鮮やかに咲いている。
 病床下、子規の世界は限られていた。だからこそ当たり前の物事に優しい深い眼差しを向ける。本質をつかもうとしていたのであろう。飾り気や気負い、てらいは物事の本質とは一切無縁である。
 子規は俳句や短歌、文章にも写生の導入を主張した。「山会」と称する文章の会を立ち上げ、「文章には山がなければならない」と提唱したのもその証左。全ては子規庵という書生サロンで生み出された。子規が創作の方法として、写生の概念を何よりも重視したのは必然と思われた。
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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「日本語通じない」暗くない?はい・いいえ

2018/8/12 日曜日

 

 日本人ならみんな日本語が話せるから、日本語を教えられると思うのは間違いだという話を学生にする。授業の教室に教員が入って「暗くないですか?」と聞いたとき、みなさんは何と答えますか? という問いである。「はい、暗いです」「いいえ、暗いです」「はい、暗くないです」「いいえ、暗くないです」、「それ以外」のどれでしょう? と聞くと、これまで一般的には「黙って席を立って行って電気を点ける」というのが『正解』と考えられてきた。つまり、暗くないですかという否定疑問文に日本語と英語の答え方は逆なのでどちらを選択するかなどという文法的な話ではなく、先生が「暗くないですか?」と言うのは暗いと感じているからそう言うのであって、すぐに電気を点けなければならない、これは疑問文だけれど実質的には命令文だと解釈するのが一般的だという解釈がなされてきた。
 そして、外国人留学生が多く学ぶようになった1980年代くらいからは、同様の質問に留学生から「いいえ、暗くはありません」という答えをされて驚いたという日本語教師の話を聞くことになり、日本人の日本語理解と異なる理解があることを知ることになった。それをひと言でいうなら社会的文脈の理解の違いである。留学生の理解は、先生からは質問されているので、自分はどう思うかについて返事をするという受け答えである。
 こうした社会的文脈は、見えにくい。福祉や看護の現場で、なんでこんなことができないの? と問題になることの背景には、わかってあたりまえと考えられてきた社会的文脈が存在することが多い。「○○さん、お風呂入るか聞いて来て」という指示は、施設利用者の意向を聞くことを意図しているだけなく、聞いたらその作業をする人に伝達し、次の工程に移る準備をするところまでが一連の作業であり、求められている内容である。しかし、「聞いてきて」が「聞いて連絡する」までを示しているということは、外国人看護師や介護福祉士が文章の額面通り・辞書的な日本語の理解でわからないのはもちろん、仕事の中身が理解できていない日本人の若者も同じなのである。だから現在は、「暗くないですか?」と言われたら、日本人の学生でも、電気を点けに行くのは少数派である。
 「お風呂、見てきて」と言われて、「あふれるまで入った」とか「熱くて入れない」というのは、笑い話だと思われたが、今どきはボタン一つ自動でお湯張りをする世の中なので、お風呂を見に行くのは何をすることかが共有できない。スマホに「ビデオ通話」するから、自分で確かめてくださいと若い人に言われそうだ。「何それ?、どうやるの?」と聞くのは、仕事のできない人と言われそうだ。
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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