日曜随想

 

「アート悶々8」普遍って?

2020/8/16 日曜日

 

 先日、東北芸術文化学会の大会があった。北は札幌から南は長崎まで、会員11名と1組の発表があり、最後に総会と2日間にわたるものであった。今回の大会は新型コロナの影響もあって運営側では開催についてかなりもめていたようだ。結局meetを使ってオンラインでやることになった。学会の重鎮であるD先生はリモートに最初は反対されていたようであるが、大会が終わってみると「楽しかった。またやりたい」とおっしゃっていたらしい。
 ある発表の質疑応答の時、司会のT先生(こちらも重鎮である)が「D先生、何かご意見はないですか」と話を振ったのだが、D先生は一向に画面に現れる気配がない。するとT先生は席を外し、数秒後、画面に現れてきたD先生の横にmeetの操作を教えているT先生の姿が見えた。この重鎮2人のほほ笑ましい姿を見て気持ちがホンワカするのは、人間の普遍的な感情なのだろう。
 大会の終わりにT先生の「最後にみんなカメラをオンにしてお別れしましょう」という合図で、たくさんの顔が画面に現れて来て笑顔で手を振り出した。私もカメラをオンにして手を振った。リモート学会も新鮮でなかなか楽しいものだと思った。
 リモート学会もそうだが、目新しいものは刺激的で面白い。美術もそうだ。しかし、新鮮さがなくなってくると大抵のものがつまらなくなる。特に新しい技術を使った表現を「売り」にした作品や、流行に便乗したものは、古くなると残念なことになる。今でも古典として残っているものは、作られた当時において目新しかっただけではなく、普遍的な価値を持つものなのだろう。
 広隆寺の弥勒菩薩は出来た当時は金ピカだった初めて対面した当時の人々は蝋燭(ろうそく)の光に照らされて金色に浮かび上がる菩薩の姿に、ありがたさと畏敬の念から祈らずにいられなかった。新鮮さの中に普遍的な美があったからに違いない。それから約1400年後の現代ではどうか。時を重ね、劣化し金ピカが剥がれたことで、かえって荘厳さが増した。まるで金ピカの下に隠れていた普遍的な美という本性があらわになったかのようである。普遍的な美は古い新しいとは関係ない。
 ロダンに「古代の芸術は壊れているけれども極小の断片も実に立派に制作された。だから芸術の全部がそこにある壊れたギリシャの彫像は、多くの傑作に分かれた傑作です」という言葉がある。普遍的な美は壊れてもなお形を変えて残る。
 桂枝雀は「繰り返しが利くのが古典落語だ」「オチが分かっているのについ笑ってしまうのは、何度見ても赤ちゃんはかわいいと感じることと同じだ」と言っている。普遍的なものは繰り返しが利くのである。
(弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)

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「スピードとスケール」スピード感では事足りぬ

2020/8/9 日曜日

 

 迅速さと規模感。表題にある言葉を平たくいえばこうなる。近ごろ、政府の新型コロナウイルスへの対応に触れるたび、そのちぐはぐさに私は大きな憤りを感じる。と同時に、この二つのキーワードが頭に浮かぶのだ。
 今般のコロナ対応で、首相や大臣たちは「スピード感を持って」という言葉をよく口にする。「スピード感」とは、大してスピードが出ていないのに速く感じるような感覚のことである。皮肉を言えば「やってる感」の演出にすぎない。
 布マスクの配布では、格別にスピードを重視したといい、競争入札では時間を要するとして、実績さえ問わない随意契約で発注したそうだ。しかし、政府が必要性や妥当性を強弁するだけで、国民の利便にかなわず、コロナに対する不安がパッと消えることはなかった。しかも膨大な発注数の割に納入単価は高く、スケールメリットがまるで見えない。。結局「アベノマスク」と揶揄(やゆ)されるに至った。
 次に、持続化給付金事業では、これを直接受託した団体が幾重にもわたる再委託を繰り返して「中抜き」が横行していたとの批判を浴びた。膨大な申請数をこなす作業であることから、規模の優位性が最も発揮されそうなものだが、1件当たり作業単価が5万円ほどにもなるというのだ。この金額が提示された時点で中抜きを疑うべきであり、発注側の規模感の欠如による失態に外ならない。
 さらに「Go To キャンペーン」である。こちらに至っては、声高らかに打ち出したものの、担当省庁や受託者自身が右往左往する姿さえ垣間見える。しかも大判振る舞いなだけで、目新しさには乏しい。県による「あおもり宿泊キャンペーン」や、弘前市の「食べて泊まって弘前応援キャンペーン」など、地方交付税を財源として自治体が独自に行う施策によって、宿泊業や飲食業への消費喚起はいち早く適切に動いているからだ。クーポン配布やプレミアム付き商品券販売でおおかた事が足りることを、皆が経験的に理解している。電子マネーやネットサービスをわざわざ介在させた派手な仕組みは、そもそも間尺に合わないのだ。かつ、いろいろな逆風も重なり、迅速な支援という大命題はすでに消えうせた。
 今回のような非常時には、支援を必要としている人々と顔を向き合わせることが何より大切なことだ。それなしに施すべき規模感を測れるはずがない。適正な規模感が見えぬまま、巨額の予算を投じて、スピード感ばかりをアピールしようとした結果がこれなのである。
 今、多くの国民が為政者に求めているのは、迅速に臨時国会を開き、正すべき施策を正し、適正規模の実効性ある支援策を打ち出すべく、法案審議の席に着いてもらうことであろう。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「心のしるべ」一以貫之

2020/8/2 日曜日

 

 いつをもってこれをつらぬく。この言葉は孔子(こうし)とその弟子の言行録『論語』に由来する。人口に膾炙(かいしゃ)する言葉が『論語』に数多(あまた)ある中、この言葉は異彩を放つ。一つ、孔子の生き方の価値観が分かる。二つ、読み下し調の短句で覚えやすい。三つ、フレーズが汎用性に富んでいる。こうした特徴が際立っている。戦争が絶えなかった中国の春秋時代、思想家・実践家として、信念をもって生き抜いた孔子の姿が想像できる。
 私がそう思うのは分かりやすい解釈本が出版され、安価で購入できるようになってからだ。特に『論語』の章句を紡いで物語に構成した、下村湖人(しもむらこじん)『論語物語』(講談社)は人物キャラクターが的確に描かれ、「一(いつ)を以(もっ)て之(これ)を貫(つらぬ)く」の背景を知る上で欠かせないものである。その場面を私なりのアレンジで示す。
 孔子が老齢になるにつれ、若い弟子たちの中には孔子の言行に対して、不満や矛盾を感じる者が出てくるようになる。質問をしても黙ってばかり、肝心なことを教えてくれない。たとい教えたとして、同じ問いに対する答え方が人により異なっている。当然、これはおかしいとなる。孔子にそのことを直接ぶつけてみたいと思うのは自然な流れだ。若い弟子たちは物事の普遍的原理を何より言葉で、早く知りたいと思う。
 一方、孔子は現実的に物事を考え実行する。抽象的な言葉より具体的な実践を重んじる。信念をもたず物事に向き合わない、何とかしようとも思わない弟子に理屈を教えたところで何になろう。孔子は弟子たちが吾(わ)が態度を見て、主体的に学んでほしいと願う。
 やがて機会が訪れる。孔子は若い弟子たちを前に自身の生き方を「一以貫之」(一つの原理で貫く)という言葉に表し、特に注目する弟子、参(しん)(曾子(そうし))に理解できるかどうかを問い掛ける。曾子が「はい」と答えるや否や孔子はその場から出られた。弟子たちは孔子の真意が分からず、曾子に問い質(ただ)す。曾子はいう。先生の生き方は一つ、忠恕(ちゅうじょ)だけだ。
実際、里仁(りじん)第四にこう書いてある。「子の曰(のたま)わく、参よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰(い)わく、唯(い)。子出(しい)ず。門人問うて曰(い)わく何の謂(い)いぞや。曾子の曰(い)わく、夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」(金谷治(かなやおさむ)訳注『論語』岩波書店)。
 「一を以て之を貫く」は、孔子の生き方において忠恕、すなわち真心と思いやりを軸として貫き通すことである。孔子の言行は一見矛盾しているようでも、決して矛盾はしていない。一つの原理で統一されているからだ。
 若い弟子が実践を軽んじ言葉だけを多く覚えても物知りにしかならない。実践に学び、絶えず思考を巡らす。その往還こそ知恵や信念を育て、生き抜く力を一層たくましくする。
  (東北女子大学特任教授 船水周)

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「今年のよみや」新型コロナとともに

2020/7/26 日曜日

 

 例年弘前地方のよみや(宵宮)は観音山普門院(山観)から始まり、笹森町の岩鬼山薬王院叡平寺、和徳稲荷神社の順であったが、今年は新型コロナウイルスの影響で山観と薬王院には出店が出ず、6月9日の和徳稲荷神社からの出店営業であった。6月9日付の陸奥新報には、一の鳥居に神額が76年ぶりに復活したとの掲載があった。明神鳥居の額束に新しい神額を確認できた。
 私がよみやに出掛けるようになったのは、何も年を取ったとか、粉物の露店が好きなばかりではない。地元の宝を知りたいのである。
 神明宮に行けば歴史ある絵馬、袋宮寺では入り切れないほど大きな十一面観音、誓願寺では賓頭盧様(びんずるさま)。名前だけでも調べてみたくなります。
 よみやの日程は露店商組合のカレンダーで調べますが、花火が上がってからきょうはどこのよみやだと調べるのが一般的かもしれません。よみやは、神社でも仏閣でも催されますが、神社は新暦、仏閣は旧暦で縁日を決めているようです。
 CIAのワールドファクトブックによると、日本人は70・4%が神道、69・8%が仏教の信者で、合わせると100%を超えますが、両方を実践しているとのことです。
 今年のよみやは、新型コロナを考慮して催されていますが、混み具合は例年と変わりません。天満宮では「指っこと手っこをまでに消毒してけ」「すぎまっこ あげて ねぱがねように」とアルコール消毒で手水は使わせておりません。にぎやかな弁天様(胸肩神社)では、参拝待機位置にロープを張って密を避けていましたが、スペースを確保できないのか茅の輪を鳥居にくくりつけた結果、8の字に回れない事態でした。熊野奥照神社では、鈴は鳴らさないでくださいと接触感染に配慮していました。出店は足型を用いてフィジカルディスタンスに配慮して営業しています。なぜか神社にも仏閣にも今年は「アマビエ」がおりました。妖怪に助けてもらっては、いけません。
 これから大きなよみやは、7月31日の八幡宮と8月2日のダエジ(最勝院と八坂神社)です。八幡宮と最勝院は一緒だったのに、1870(明治3)年に神仏分離令で分かれ、大鰐へ移った大円寺の跡地に最勝院が入ったとのことです。八幡大菩薩は武神であり、八幡宮は大浦城の鬼門である北東の八幡(やわた)から1612年に現在地の八幡町に遷座したようである。狛犬(こまいぬ)の台座には酔月樓・萬葉亭・長久樓と往時を懐かしむような名前が見受けられる。ちなみに最勝院は卯(う)年、大円寺は未申(ひつじさる)、八幡宮は戌亥(いぬい)の一代様である。だえじのよみやは、旧暦6月13日ですが今年は閏(うるう)4月が入ったおかげで遅くなりました。ねぷた祭りの中止とは関係しません。よみやへ行ってみませんか。
(弘前学院大学看護学部教授 三上聖治)

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「アニマルセラピー」動物に癒やされてみませんか

2020/7/19 日曜日

 

 ストレスの多い現代社会では、癒やしを求めてペットを飼う人が増えています。高齢の夫婦だけでは話すこともないし、ペットがいて良かったいう方もいます。きょうは、動物と一緒にいる効果について考えてみたいと思います。
 アニマルセラピーは、広義では、動物との関わりを通して、人間の健康の質を向上させることを指します。狭義では、動物介在療法(Animal Assisted Therapy)は、専門家(医師、看護士、作業療法士、心理療法士など)の指揮の下、医療行為の中で動物がある役割を果たすことを指し、動物介在活動(Animal Assisted Activity)は、動物を連れたボランティアが、高齢者施設や障害者施設、児童施設などを訪問し、動物との触れ合いで生活の質(QOL)を向上させ、情緒的、教育的、身体的、そして時には治療的効果をもたらす機会を与えることです。
 昨今、動物との触れ合いは精神的・身体的な治療の助けとして認められつつあります。具体的効果としては、身体的には「リラックス、感覚刺激や反応の改善」「血圧やコレステロール値の低下、病気の回復」「神経や筋肉組織のリハビリ効果」等、心理的には「リラックス、不安減少」「自信や意欲の回復」「感情表現の回復」「子どもの情操教育や責任感の育成」等が考えられます。セラピーアニマルには犬や猫、イルカ、馬など、比較的知能が高い動物が使われますが、鳥でも蛇でも虫でも、好きな人には似たような効果が期待できるかもしれません。
 お勧めは、猫が喉を鳴らすゴロゴロ音です。ゴロゴロ音には、温泉並みの癒やし効果があると言われています。猫にとっては母子間のコミュニケーションだったり、うれしさの表現だったりするのですが、人間にはどんな効果をもたらしているのでしょう。猫のゴロゴロ音の周波数は20~50ヘルツの低周波で、この音域は体の緊張をほぐす副交感神経を優位にする効果があることが分かっています。副交感神経といえば、温かいお湯に漬かることで得られるリラクセーション効果のもと。つまり、温泉に入っているときと似た状態をゴロゴロ音で得られるというわけです。さらに、低周波には、幸せな気分になる「セロトニン(別名ハッピーホルモン)」を分泌させる効果もあると言われています。。そのため、幸せを感じたり、和やかな気分になったりするというのです。フランスでは「ゴロゴロセラピー」が人気という情報もあります。
 いろいろ効果が期待できるアニマルセラピーですが、残念ながら、動物嫌いの方やアレルギーの方には、かえってストレスになるので、お勧めはいたしません。ちなみに、超多忙な私は、毎日家に帰って、夫1人・犬1匹・猫5匹に、とっても癒やされています。
(弘前医療福祉大学教授 小玉有子)

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