エリシア・クロロティカというウミウシは、動物なのに植物のように光合成して生きている。「人間も光合成で生きていけたら…」と妄想が広がる。そこから植物になりかけた人物像を思い付いた。指先が葉っぱのようになっていて、それを羊が食べているところを大理石の彫刻にするというのが作品の構想だ。大理石と葉っぱというとベルニーニの「アポロンとダフネ(ダフネの指先が月桂樹に変わっていく)」を想起させるので、それを回避すべく指先は葉野菜の形とし、また体も葉野菜的なものが覆っているような表面にした。
塑像で試作を重ねるうちに、二の腕のところが白菜のようになった。葉脈は血管のようでもあるし、これはなかなかいい感じだとワクワクしてきた。と同時に大理石での葉っぱの表現を研究しなければならないと考えた。そこで白菜の彫刻をつくることにしたのであるが、つくり始めると白菜を彫刻にするということの難しさを実感することとなった。白菜は一筋縄ではいかないモチーフであった。
白菜は葉っぱがぎっしりと詰まっているが、キャベツほどの硬さはない。結構フワッとしている。形に張りがあるようなないような、なんとも曖昧なのである。店先でテープで縛られているのを見掛けるが、縛られたところがぐっとへこんで形が絞れてくる。グッと絞られた後に緩やかに葉先に向かい広がっていくが、最後は内側へ巻き込んでいく。メリハリのある形ではある。葉のつき方には規則性があるのだろうが、枚数が多すぎてつかみ切れない。大小の葉脈の間にある凸凹と葉先のビラビラは、葉の端っこの方がめくれて本来の葉の表側(内側に隠れている)の面が姿を現していて、そこにはボコボコと小さなコブがあり、造形のアクセントとなっている。このようにつかみどころがあるようでないようなところが魅力的なのだ。それぞれの葉っぱが結球を求めて内側に丸まっていくさまは、葉っぱたちが協力して一つの玉になろうという意思すらも感じさせる。量感は野菜の中ではトップクラスである。堂々としていて立派だ。
中国で白菜は純粋・潔白を表す。そのことからモチーフとして昔から人気があり、多くの白菜彫刻がつくられてきた。故宮博物院の翠玉白菜はその代表であろう。日本では佐藤朝山の木彫が素晴らしい。西洋に白菜の作品は見掛けられない。白菜はアジア的なモチーフなのだ。
実は白菜の彫刻をつくったのは今回が初めてではない。大学に入ってすぐの木彫の授業で初めて彫ったのが白菜だった。40年前である。その時は「なぜ白菜?」と思っていたが、今は課題を出した先生(澄川喜一先生だったと思う)の意図が分かる。改めて白菜は良いモチーフだと思う。
(弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)