日曜随想

 

「ポピュリズムと政治」豊洲問題から見えるもの

2017/4/16 日曜日

 

 今、世界中の政治が揺れている。政治の大衆迎合化=ポピュリズム政治が台頭しようとしているのだ。昨年のアメリカ大統領選挙に始まり、イギリスのEU離脱、オランダ議会選挙における「反イスラム」政党の躍進、間もなく実施されるフランス大統領選挙では「反イスラム」「反EU」を掲げる国民戦線の躍進も現実味を帯びている。もちろん、これらの国々における政治のポピュリズム化は全く同じではない。アメリカ大統領選におけるトランプ勝利は「ラストベルト」と称される旧重工業地帯の労働者・失業者の既成政治とそれを頑なに維持しようとする「エスタブリッシュ」への反発を巧みに利用し、大衆が理解しやすい「反移民」「保護主義」に結びつけたことが要因だった。イギリスのEU離脱も、職場環境や福祉の後退をEU諸国からの移民労働者に結びつけた結果である。オランダやフランスの「反イスラム」は、社会の秩序を脅かし文化を破壊するものとしてイスラムを攻撃するが、その場合、男女同権や言論の自由などの近代西洋的価値観を根底においているのも確かだ。この様にかなりの相違はあるものの、何らかの「敵」を作り、激しく攻撃することで大衆の支持を得ようとすることでは一致していると言えよう。
 外国の「政治」のみならず、わが国でも近年、同様な傾向がみられることに注意すべきであろう。「敵」を巧みに作り上げ、政策や実効性を棚上げにし立憲政治を否定するような政治的雰囲気がある。その典型が一時期の橋下徹氏の「政治」であり、最近の小池東京都知事の「政治」である。前者は「公務員」、後者は「五輪会場」や「豊洲市場」問題を「敵」として作り上げ、激しく攻撃することで大衆を喜ばせる手法を政治に持ち込んだのである。
 小池氏がこの間、都政運営にはほとんど関心を示さず最初に「敵」とした五輪会場問題では宮城県などを喜ばせ、結局は「泰山鳴動して」も鼠1匹すら出なかった。次に「敵」としたのが豊洲市場問題である。豊洲市場造成には計画通りではないなどの問題があったのは確かである。しかし、彼女は問題を「安全と安心」にすり替え、大衆迎合的「都民ファースト」を標榜し、科学的「安全」ではなく、大衆に心情的「安心」を訴えた。専門家が「安全だ」と科学的に断言しているのだから政治・行政の長として執行権を行使すれば済むのだが、この問題を政局化することで都議選にまで持ち込み、住民投票すらチラつかせるのは立憲政治を無視したポピュリズム以外の何物でもないし、同時に科学への冒涜でもあり、文明国家・日本の行く末が案じられる。
 ポピュリズム政治が国を衰退させた事例は、古代ギリシャのみならず、古今東西に数多存在していることを私たちはよく知っているはずだ。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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「開業から一年」連携や協力こそが新幹線効果

2017/4/9 日曜日

 

 弘前で生活したのは、もう二十年も前のことだ。学生時代をこの地で過ごし、生まれ故郷の函館に戻った私にとって、諸先輩方そして恩師とともにこの執筆陣に加えていただくことは、身に余る光栄だ。思えば、私が再び弘前との関わりを深め、執筆のお誘いをいただいたことも私自身の新幹線開業効果なのである。
 東北新幹線の新青森駅延伸からわずか3カ月で東日本大震災が襲った。期待の客足は止まり、観光需要は底をみた。
 そんな経験をバネに、青森県や各市町村は第三の開業に期待を寄せた。とりわけ弘前は函館や北海道南部との連携に向け、震災後いちはやく動き出した。
 開業を目指しての弘前から函館に向けられたラブコールは熱烈なものだった。
 まずは「はこだてクリスマスファンタジー」での「ひろさきナイト」。多彩なステージイベントをはじめ、巨大アップルパイの焼き上げに函館市民は目を丸くした。函館での様々なイベントにも積極的に出展しアピールに努めていた。
 表舞台では、両市の関係者がレセプションなどで公式に手を取り合う、と同時に、舞台裏では函館に赴いた市役所や商工会議所、観光協会のスタッフらが、街を駆け回り数多くの関係を築きあげ、連携の種を播いていった。
 当たり前の任務、といってしまえばそれまでだが、そうした経験に乏しいわが街函館の人々にとって、その立ち回りには本当に驚かされ、新幹線開業に向けた熱量の違いを感じずにはいられなかった。そうした彼らの動きに、こちら側も大いに刺激され、新たな展開も生まれた。私がのれん分けを受けた「だいもん路地裏探偵団」もそのひとつだ。
 函館と弘前、両地域の緻密な結びつきがあったからこそ、開業時に全国へ向けて地域のアピールができ、イベントを支えることができた。開業当日には、同世代の彼らと函館で再会し、手を取り合って喜びあえたことがいまも忘れられない。この関係は長く活き続ける地域の財産となるはずだ。
 函館、青森、弘前、八戸が観光分野で連携する「青函圏観光都市会議」が昨年発足した。こうしたなか、函館は高いブランド力を誇るとされ、開業効果もあり、いまのところ客足は堅調、さらにアジアからの入込みもあり、観光分野では四つの街のトップをひた走る。とはいえ函館の街が弘前や他の街から学ぶべきことはとても多い。四つの個性豊かな街では、これまでの観光のあり方やウェイト付けにも違いがあるわけだが、それぞれが謙虚に向き合い、学び合う姿勢をもってこそ、連携や協力がいきるはずだ。
 街同士が新たな連携の姿を探すきっかけを作れたことこそが、地域にとって真の新幹線効果なのではないだろうか。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「荷物をはこぶ」体のつかい方にみる文化

2017/4/2 日曜日

 

 引っ越しシーズンである。今でも引越しは大仕事だが昔に比べるといたれり尽くせりのサービスがあって、ずいぶん楽になったと思う。こんな荷物を運べるのかと心配になるようなものも業者さんは手際よくトラックに積み込んでいく。引越しのアルバイトをしている若者に聞いたら荷物の形や重さを見きわめて持つためのコツがあって、それを習得すると意外に無理なく運べるのだそうだ。そういえば学生の頃、寮から近くのアパートに引っ越すとき力自慢の友人たちが手伝ってくれたが、リヤカー一台分しかない荷物運びにひどく手間どった。力まかせではない荷物の扱い方があるのだろう。
 私の祖父母はあらゆるものを風呂敷に包んで持ち運んでいたが、重い荷物を持ち上げるときには、まず軽く荷物をゆすって「荷物の言うことを聞きながら頃合いをみはからって持ち上げると、荷物も(こちらの)言うことを聞いてくれる」と祖父は言ったものだ。引越しアルバイトの若者の言と通じるような気がする。
 荷物の運び方には文化によってもちがいがある。日本では手に持ったり背負ったりするのが一般的だが、頭の上に乗せて運ぶ技法も多くの文化でみられる。私がはじめて住み込んだアフリカの村では、女性はほぼすべての荷物を頭に乗せて運んでいた。当時の村では水汲みがひと苦労だった。毎日朝と夕方に、女性たちは片道600メートルの水場に出かける。私も、自分が使う分くらい運んでみようと、皆がやっているように20リットル入りのバケツを頭にのせようとしたら、「ああ!首が折れる!」と慌てて止められた。まずはこれを運んでごらん、と頭に乗せられたのは、水が半分しか入っていない5リットル入りの小さなバケツ・・。「いっぱい入れても大丈夫なのに!」と言いながら歩き出したら、とんでもありませんでした。一歩踏み出すたびに水面がくらんくらんとゆれて、水がバケツの縁からザバザバとこぼれる。意地を張って村まで歩き通したが着いたころには全身びしょぬれ、バケツの水は四分の一も残っていないあららこれは笑うしかないわと言って皆で大笑いした楽しい思い出がある。
 この失敗で知ったのは、荷物を頭に乗せて運ぶには、頭が揺れない歩き方の習得がセットになっていることである。なるほど、村の女性たちはいつもすっと上半身を伸ばし、モデルのように腰を揺らしながら歩く。逆に、荷物を背負う文化で育った私は、歩くときに頭が揺れる歩き方を身につけた。荷物を運ぶときの身体の使い方には、その人が暮らす地域や集団の文化が染み込んでいるものなのだ。ふだん持たない荷物を運ぶ機会が少し増えるこの時期、自分の身体の「くせに染み込んだ文化」をちょっと観察してみるのもおもしろいものである。
(弘前大学人文社会科学部教授 杉山祐子)

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「百年を迎える観桜会」見付かるかなぁ埋もれた歴史

2017/3/26 日曜日

 

 年度末ですし、光陰矢の如しと申しますが、「少年老い易く、学成り難し」という心持ちが強くなっております。
 幼少から不断の努力を重ねる生活じゃないが、明日があるさっと、先送りしてきたばかりでもありませぬ。つまりは、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」程度の緊張は、忘れずに持っていたはず。でもねぇ、最近では、知ることから新たな疑問が生まれ、その謎解きに四苦八苦しているのです。
 今年は弘前公園で観桜会が始まって、記念すべき百年を迎えるという話でも、一足飛びに最初の観桜会はどうだったんだろうとは考えない。花火大会と違い、自然の花を愛でるのは、植樹して直ぐにスタートって簡単なもんじゃぁない。花が咲き誇り、ある程度の見応えがなくっちゃ、お客は来ない。そこまでに多くの歴史があったろうと、つい考えちゃう。
 廃藩以降はお城といえども、殿様がいなくては、広大なただの廃墟でしょっ。こんな場所だから、新鮮な牛乳を提供しようと、旧城を牧場にしたいとの願いが出されたほど。また明治二十八年に公園として開放されても、みんなの懐具合に余裕がなかったので、のちに石垣が崩れて曳き屋した天守は、旧位置に戻す計画すらなかったってのが事実らしい。
 こんなお荷物気味だった旧城を整備する契機は、公園での招魂祭開催が定着し、新兵や家族が訪れて賑わいが生まれて、ついに大正天皇のお出掛けがなされたからだ、と思っているのです。
 最初の来園は、皇太子だった明治四十一年の東北行啓の一環で、東宮殿下には本丸から岩木山をご展望。やがて鷹揚園と名付けいただくなど、六年越しの行啓に、市民は宿願を果たした想いでしょ。
 この年の園内の桜は、六百八十八本という議事録がありますから、それなりに見ごろかな。四十三年には、文学的な表現ながら、「鷹城千株ノ櫻花」とか、追手門から園内に入ると、土手に桜が植え足されたとの記事も見受けられます。
 ほら、園内にどのように植樹され、生長したのか、もっと知りたいでしょっ。食害で全滅した相馬地区の上皇宮の桜の例もありますし南塘の土手通りには、松と桜が交互に植えられ、旧藩時代には保護されつつも姿を消し、のちに再植樹。
 つまりは自然が相手ですからいろいろご苦労が多かったはずなんですよねぇ。
 でも旧城を桜花の名所に仕立るという先人の努力は続き、本丸東側の桜が見事に咲き揃うとか、おぼろ月夜に、芸者衆の手を引いて夜桜見物を、という楽しみも明治末年までに成就しているのです。
 石油トーチの夜間照明、芸者衆の手踊りといった、艶やかな千秋公園の観桜会に刺激され、やがて始まる弘前観桜会。
 桜の名所、日本一だと誰が決めたか?まだまだ、知りたいことが多すぎます。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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「桃の節句は四月」子供の豊かな感受性

2017/3/19 日曜日

 

 桃の節句といえば、一般的に三月のひな祭りをさすが、津軽では当然ながら桃がまだ咲いていない。東北の春は一度に花がほころび、そのうれしさもいや増すものだ。桃は咲かないけれど、ひな祭りは三月にすることに、驚きを覚えている。というのも、私の故郷ではひな祭り桃の節句は四月だからだ。三月では寒いからと言われていた。ひな人形を早くから出しておく分には問題がないので、三月から飾るが、お祝いをするのも、しまうのも四月が当たり前だと思っていた。子供の世界とは、そうした小さなものなのだろう。
 一方で、大人より豊かな世界も持っている。うちの子供が小さい頃、東京の高層住宅に住む姉のことを説明するのに、「お家に二階があるでしょう、そんなふうにもっと上に三階、四階って高くなっていって、十一階って高いところのお家に住んでいるんだよ。」と言ったところ、「じゃあ、まあこちゃん(姉の名)はお家の上に住んでるの?」ときかれたことがある。説明の仕方がまずかったのだが、子供の想像力の豊かさに、心から驚かされた記憶が鮮明に残っている。
 考えてみると、そうした子供の発想力や理解力は、未来を創っていく原動力なのだと、いまさらながら大切に思われる。
 青森の地域方言に向き合って早二十二年。近年は現場の先生方と協力し、子供達に方言と共通語について考える授業を提供している。その中で、「方言なんてなくていいんじゃない?通じないと不便だし、共通語だけでいいんじゃないかな?今日から方言禁止にしますっていうの、どうかな?」という先生の質問に、「だめ」、「嫌だ」と首を大きく振って全身で意思表示する子供達に出会った。「だって、ずっと前から伝わってきたものが、なくなったら困るから」とか、「自分たちが使わないと伝わっていかないから」など、まとまった意見もあったが、とにかく方言がなくなっては嫌だ・だめだと思っているということは、痛いほど伝わってきた。この気持ちがあるかぎり、豊かな文化として方言は残っていく意味を持っているだろう。しかし、文化財として(ある意味お人形のように)飾っておいては、伝えていけないのも事実である。子供の豊かな感受性は、地域の生活に根ざしたものであってほしい。
 新しい学習指導要領では、私たちが震災以来取り組んできた東北での方言の教育に関する取り組みが評価された。地域の文化に裏付けされた足腰の強い大人を育てるために、これからの時代を生きる子供達に何を残し、受け継いでいってもらうのか問われている。
 さあ、春だ。卒業式だ入学式だ、旅立ちだ。巣立っていく皆に幸多かれ。
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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