日曜随想

 

「津軽のまちあるき」親密さがおもてなしの源泉

2017/5/21 日曜日

 

 今年も桜時期に訪弘することができた。さくらまつり期間中、私の盟友「弘前路地裏探偵団」が夜桜まちあるきガイドをするというので、激励と参加のため当地に赴くのが恒例になっている。
 弘前では古くから活躍する「観光ボランティアガイド」に加え、近年新たな「まちあるきガイド」がいくつも誕生し、ユニークな観光まちあるきが人気だ。
 団体から個人へと観光旅行のスタイルが変化し、定番とは違った楽しみを求めるニーズに応えるように全国で「観光まちあるき」が増えている。そうしたなか、弘前を皮切りに津軽地方の各市町村でもまちあるき観光に注力し、さらにこの動きは三八や上北など全県にも拡がっている。かくいう私も、弘前の動きに刺激され、函館でまちあるき観光を模索し、実践し始めた一人である。
 観光まちあるき全体を俯瞰(ふかん)する中で、津軽の取り組みには特筆すべきことがある。それは市町村を跨いだ協力連携、とりわけそこに関わる人々の親密さだ。
 国内旅行を楽しむうえで、行政区域すなわち県や市の境を意識する必要は本来ない。一体として外にアピールしている地域の中に縄張り的な障壁があるならばそれはマイナス要素といえる。ましてや近隣どうしがささいなことで反目し、そっぽを向くような関係では、それがサービスの端々に露呈してしまう。これとは逆に、それに関わる人々が親密で、さらには協調や互いの磨き上げができる関係にあれば、自ずとプラスに働くはずだ。
 この地域では「まちあるき」という新しい観光ニーズに対して、当事者たちが教わりや学び合いをとおして、互いの親密さをこれまで以上に深めてきた。この親密さこそが、旅行客目線でのおもてなしを提供する源泉となり、近年津軽の観光はひと皮むけた気がする。
 とはいえ、まちあるき観光は多くの人々を効率良くもてなす手法ではない。入込数や消費額などで効果を図れるものでは決してない。施設作りとは異なり大きな投資を伴うものではないが、それゆえに人的資源こそがその根幹である。平たく言えば、担い手にいかに気分良く振る舞ってもらえるかに尽きるのだ。
 今般、政府が掲げる「地方創生」では観光振興は大きな柱であり、着地型観光(地元自らが企画・提案し発信する観光形態)推進のための組織づくりやその運営に対する支援、財源措置もうたわれている。しかし、この施策はガイドをはじめとする現場の担い手たちが潤いや満足を実感できるものではなかろう。
 まちあるきは観光客だけのものではない。地元の人たちが積極的に参加し、時には担い手になることもできる。様々なかたちで応援することこそが津軽の観光をもうひと皮剝くための近道であろう。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「さらりと注意」特別扱いでも排除でもなく

2017/5/14 日曜日

 

 ふと気づくと、外はもう、みずみずしい新緑の季節である。仕事に追われて出かける余裕もないうちに、リンゴの花はまっさかり、到来物にタケノコが混じるようになった。しばらく見ないうち、弘前の街のようすも変わっていた。外国の方々が多いのである。桜やリンゴの花まつりのせいだろうか。観光業とは関わりない私でも「いい時期においでになりましたねえ。美しい季節を存分に楽しんでね~」などと、客を迎える主人みたいな気持ちになってしまう。
 でも、外国からのお客さんと接する機会が増えた分、ここは注意してあげるべきだなと思うことも多くなった。これが意外にむずかしい。とくに、相手がまったく気づかずにルールを外れた行動をしているときなど、いやな気分にさせるのも気の毒と思って見逃したり、文化が違うからここのルールは守れないのだと決めつけてしまったり、媚びるようにへらへらと注意してはみたものの、そういう自分の態度を情けなく思ったり。
 以前弘前公園でこれぞお手本というような注意をする女性を見かけいたく感じ入った。ある週末のお昼ごろのことだ。公園の一画でみんなが思い思いにお弁当を広げているとき、外国人グループが食材や飲み物を持ってやってきた。そして「火気厳禁」と書いてある看板の側で、楽しそうにバーベキューの用意を始めたのである。「火気厳禁」を知らずにやっているのだろうが、教えてあげたほうがいいだろうなと思ったそのときである。ひとりの弘前女性がすくっと立って外国人グループに近づき看板を指してこう言った「ノーファイヤーディスプレイスノーファイヤー(この場所で火はダメよ)」相手が「危ないことはしないよ」と答えたのだが、彼女はあいさつするのと同じような自然さで「ノーファイヤー」を繰り返す。相手も「ここで火を使ってはいけない」と気づいたらしい。バーベキュー道具を片づけ始めた。それを見ると女性は「サンキュー」と言い、何ごともなかったかのように自分の席に戻っていった。楽しみにしてきたであろうバーベキューを諦めることになった外国人グループだったが、何のわだかまりもなくそこで火を使ってはいけないというルールの存在を教えられ、自然にそれに従った。バーベキュー道具を片づけて、焼かずに食べられる物をアテにビールを飲み始め、やはり何ごともなかったかのように楽しく盛り上がっていた。
 あのとき注意をした女性は、とくに英語が堪能なわけではなかったように思う。しかし、あの注意のしかたはまさに国際人の態度だった。相手を叱責するでもなく媚びるわけでもなく、さらりと自然にそこでのルールを伝える。そんなやりとりができれば、地元民も来訪者もおたがい心地よい場ができあがるのだな。
 (弘前大学人文学部教授 杉山祐子)

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「旧士族の名誉を守る」明治初期の桜をめぐる噂

2017/5/7 日曜日

 弘前城に初めて桜が植えられたのは、三百年ほど前の正徳五年。京都ブランドへの憧れとは言い過ぎにしても、お殿様の肝煎りで、家臣らが植えたのですね。
 「世の中に絶えて櫻のなかりせば…」と、開花状況に一喜一憂した旧城の観桜会もついに今日が最終日となりました
 維新後は旧藩主家が東京に移り、兵部省の管理下となったここは、東北鎮台の兵士が駐屯後、空き地ならば牧場に拝借したいと出願されるほどに荒廃します。
 市域の中心部にあって、起伏に富んだ広大な面積ですから、土地が分割される恐れもあったのでしょう。しかし何より津軽家への崇敬を秘めながら、先達らは旧城のほぼ全域を守る英断を下します。この想いを叶えるため、国に藩主家への縁故払い下げや市会も陳情を重ね、ようやく明治二十七年十月一日、公園創設を果たすことが出来たのです。
 こんな気概のなか、廃藩後に植えられた桜を、「町人が物見遊山にふけるのは無礼極まると、旧士族らが伐った」との噂は、果たして事実なのでしょうか。
 明治十年代には新聞もないので、当時の資料を捜すのは困難ですが、明治三十六年に『心なき地方人は悪戯にようやく生長しかけた苗木を抜き取り、あるいは小枝を手折るなどするために、成木の数は寥々たるものがあった』との記事が。
 更に明治四十五年には『櫻折る馬鹿』と、今ではこんな見出しもお目にかかれませんが、『半開の樹枝を折り取る馬鹿者あり多くは夜桜見物の帰り掛けに蛮行を敢えてするものと思わる…こんな馬鹿者は其の筋に於てドンドン検挙いたされたきもの』と、花見客のマナーは最悪。
 また、園内のツツジを抜いた犯人は、ちゃんと検挙されており、士族と警官の馴れ合いや隠蔽はないと信じ、事件なら記録があるはず、伝聞情報だけなのよ。
 では、どうして「士族の実力行使」が、語られるようになったのでしょう。
 春・秋にはなんと山菜採りが出入りして、士族を憤怒させたといい「菊池・内山の二人が、弘前城に桜を植えようとした時も、城に花を植えて行楽の場所にするとは何事か―という士族達の猛反対を受けた。二人はやっと説得して植えた」と、戦後のまつり特集に。更に地方版の「物見遊山をたくらむとは無礼千万」といきまく旧士族がいた。だから、さくらが咲いてもお城に近づくものはいなかった、あたりが下地だろうと推理します。
 オラホのお城という誇りと、津軽人独特のエスプリが話を発展させ、ついにはある種のお国自慢に生長させたのかな。
 ここに生まれ育ったものにとっては、旧城は特別の場で、観桜会には晴れ着を着て、飲食さえも遠慮していたことが、古写真などで窺うことが出来ます。
 さぁて、次の百年に向け、どんな話を語り伝えていきましょうかねぇ?
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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「祭りで異文化体験」当たり前がそうでないこと

2017/4/30 日曜日

 

 津軽に春がやって来た。今年は大正七(一九一八)年に「弘前観桜会(昭和三六・一九六一年に弘前さくらまつりに改称)」が始まってから100年、100周年なのだそうだ。そこに単なる花見ではない、歴史と文化の重みを感じるのは、私だけではないだろう。
 弘前に住むようになって最初の春、さくらまつりには学生に連れて行ってもらった。そこで、多くの異文化体験をした。
 お城や石垣、松と桜だけでも壮大なスケールで驚くのはもちろんだが、これまで私の知っている花見とは大凡(おおよそ)、似て非なるものがたくさん存在した。「公園で蟹を売ってはいけません」という看板や、〇〇酒店や△△食堂という地元の店がそのまま公園で商売している様子などは、驚き以外の何物でもなかった。酒屋では何と一升瓶が売られ、仮設の食堂、その前には食品サンプルまであった。また、釣り堀や洋服店、錦石店など、他の桜の名所といわれる地での花見には、決して見たことのない出店が広がり、さらにはお化け屋敷やオートバイサーカスのような、かつてはあったが現代では見かけなくなったものも当たり前のようにあった。それが津軽の花見の当たり前のものとして存在していた。この光景に私は驚愕し、写真を撮らずにはいられなかった。
 そうした私の興奮を見ていた北海道出身の四年生の学生が、「先生、すごいね。私が一年生の時、これ何?って思うこといっぱいあったけど、口に出せなかった。周りの子達は津軽の子だったから、これが当たり前って風だったから、不思議だって言えなかった」と教えてくれた。
 毎年、新入生には、地元出身の学生と他地域出身の学生と一緒にお城に行くよう勧めている。そこで何がフツーで、何がフツーじゃないのか、お互いに確かめることが、相互理解のきっかけになる。
 花見弁当には、この時期が旬であるとげくり蟹とガサエビ(しゃこ)が入るのが常識だというこの地においては、傷みやすい蟹を生半可な保存の仕方で販売すれば、すぐに食中毒になる。だから「公園で蟹を売ってはいけません」となるのだが、「公園で」が問題なのか、「蟹を売る」のが問題なのか、最初はわからなかった。
 これは常識、当たり前という社会的な文脈は、高度な理解が必要とされる。それは「わからなくて当たり前」なのだが、「これが当たり前だ」と考えている人が多数派の中では非常に見えにくい。それが異文化間の摩擦にもつながっている。
 来客者に「ご苦労様です」と声をかけるのは、いわゆる上から目線で失礼なことか、敬っているのかどちらだろうか?
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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「桜の想い出」桜を愛でてなに思う

2017/4/23 日曜日

 

 もうすぐ街が桜色に染まる。長い冬を堪え忍んできたからこそ、喜びもひとしおである。季節の移ろいに感動する間もなく、忙しく日々をおくっている私でさえ、この時期だけは、桜のそばで足を止め、記憶をたぐり寄せながら、感傷にふけることがある。
 私が弘前公園でお花見をした最初の記憶は、たぶん小学一年生くらいのことで、今から五十年以上前のことである。「弘前公園の観桜会に連れて行ってやる」と叔父に誘われて訪れた。桜の花は、現在の花が集まって、手まりのように丸くこんもりした形ではなく、色もずっと薄い桃色だったと記憶している。りんごの木の剪定技術によって、桜の花の様相が、飛躍的に良くなっていると、ニュースで見たことがあるが、五十年の進歩はすごいと思う。一方、今も不可解なのは、当時、桜祭りでは、「がに(蟹)」と「がさえび(シャコ)」が売られていたことだ。海が近いわけでもないのに不思議な話だが、観桜会では蟹を買うというのが、なぜだか定番になっていて、とても嬉しかった記憶がある。それから、当時は高級品だったバナナのたたき売りもあった。
 四十年前、大学生だったころの記憶で印象に残っているのは、弘前城本丸前で合同コンパを開催したことだろう。いろいろなサークルや学部学科のちがう学生が、「合コン」と称して、よく一緒にお花見をした。合コンは、最近の学生もまだ行っているようだが、当時の学生はお金がなかったので、夜になると花冷えがして、セーターの上に防寒着を着なければならないほど寒い中、身体を寄せ合って、安い酒を飲んで盛り上がった。今思うと少し恥ずかしい。友人の一人がそこで知り合った人と結婚した。今はどうしているのだろう。
 三十年前、結婚して子どもが生まれ、小さいながら家を建てた。縁のない土地に越してきて、不安いっぱいだった私たち家族を、地域の方たちが、温かく迎え入れてくれた。翌春、初めて猿賀公園の桜を観に行った。神社に参拝し、ここで生きていくんだと、気持ちが引き締まったのを覚えている。
 それまで桜は、それが約束のように、毎年五月の連休に、美しい花を見せてくれたのだが、今は難しくなった。
 子どもたちも巣立ち、夫婦二人になると、桜を観に行く機会は激減した。「お花見行こうよ」「人混み行くの嫌だな」毎年繰り返される会話だ。観光客が年々増えているのは嬉しいことだが、人混みはやっぱり苦手だ。でも、桜にはたくさんの想い出が寄り添っている。
 今年は、桜の穴場を探そう。還暦の節目に、お花見弁当を作って、どこかで密かにお花見をしよう。二十年後に、楽しい想い出として語れるように。
 (弘前医療福祉大学教授 小玉有子)

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