日曜随想

 

幻に終わった首相「苫米地義三氏のこと」

2018/12/2 日曜日

 

 先日、中曽根元首相が蔵書を国立公文書館に寄贈するという記事が出ていたが、その中に雑誌「改進」も含まれていた。「改進」は、戦後間もない昭和27年2月に結成され、同29年11月、日本民主党に吸収された保守中道政党の改進党の機関誌である。昭和22年に政治家に転身した中曽根氏は、民主党、国民民主党を経て改進党に所属したので、この時に入手されたのであろう。当時の出版状況はよくなく、さらに70年以上も経過している今日、「改進」は、戦後混乱期の政治の一端を示す貴重な資料である。
 ところで、中曽根氏と「改進」の文字を見た時、私の脳裏をよぎったのは苫米地義三氏のことである。氏については、以前この欄で、安倍政権による衆議院解散を「大儀なきものと評した際、昭和27年の吉田首相による衆議院解散(「抜き打ち解散」)を憲法違反として訴訟を起こした人物で、この訴訟は現在に至るまで、衆議院の解散を考える際に重要な視点を提供するものだとして紹介した。この苫米地氏こそが、中曽根氏が所属した民主党や改進党を、後に首相となる三木武夫氏らと結成し指導した政治家ある。
 苫米地氏は明治13年、青森県上北郡藤坂村(現十和田市)に生まれ、昭和21年4月の戦後初の衆議院選で当選し、衆議院議員3期、参議院議員1期を務め、片山内閣で運輸大臣、芦田内閣で国務大臣兼内閣官房長官に就任するが、昭和23年10月、芦田内閣が昭和電工疑獄事件で総辞職した政治的混乱の中で、首相候補として上ったことを知る人は殆どいないだろう。
 当時の日本は連合国の占領下にあり、首相の選出も、占領軍総司令部(GHQ)の意向が大きく働いていたが、GHQも民生局(GS)と参謀第2部(G2)では考え方が違っていた。そうした中で、芦田内閣の総辞職後の首相候補として、G2は強力に吉田茂氏を推し、GSはワンポイントリリーフとして山崎喜久一郎氏、その後は速やかに苫米地氏に禅譲するというシナリオを持っていた。吉田氏も山崎氏も自由党であり、芦田氏や苫米地氏の民主党より少数派であるが、疑獄事件で不評を買った民主党ではなく自由党に一時的に首相の座を譲り、その後、多数派の民主党の最高実力者である苫米地氏が首相に就くというものである。
 最近は余り聞かないし、決して正しい評価とは言い難いが、以前はよく、岩手県と青森県を比較し、インフラ整備などで青森県が遅れをとっている理由として首相を輩出していないことを上げる向きもあった。「苫米地首相誕生」のシナリオは、マッカーサー最高司令官により挫折させられ、幻と消え去った。歴史に「イフ」はないが、もし(「イフ」)、苫米地首相が誕生していれば、青森県はどうなったのであろうか。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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コトのデザイン「お寺さんたちの取り組み」

2018/11/25 日曜日

 

 先ごろ、今年度のグッドデザイン賞の各賞が発表された。5000近くの応募の中から最高賞のグッドデザイン大賞に輝いたのは、なんとデザインとは無縁のお寺さんたちの取り組みだった。
 その名は「おてらおやつクラブ」。お寺にあがった「おそなえ」のお菓子などを仏様からの「おさがり」として、経済的に困っている家庭の子供らに届けるための仕組みである。いわば「コトのデザイン」。具体的には、寺と貧困家庭を支援する地域の団体を積極的にマッチングすること。さらには全国のお寺や支援団体に参加を呼びかけるとともに、檀信徒や市民に向けてウェブや会報などで取り組みを広くアピールするというものだ。全国から約1000ものお寺が参加し、約400の支援団体との連携が生まれている。
 今般のグッドデザイン賞は、単に外観美や機能性の秀逸さを顕彰する制度ではない。昨年私たちの取り組みである「バル街」も地域づくり特別賞を受賞したように、近年の審査は「コトのデザイン」にも大いに注目し、出来上がるまでの過程や思想、意義などが重要視される。社会のなかでの「発見・共有・創造」というサイクルを創出することがこの顕彰の使命だという。従来型の「モノのデザイン」ではなく「コトのデザイン」が大賞に選出されたことは、モノの溢れる高度成長の時代はすでに過ぎ、経済的貧困を含め、数々の課題に直面している時代であることを示したものともいえよう。
 困っている人に寄り添うことは、宗教活動の本質的役割だ。こうした「おすそわけ」もそれぞれのお寺ではずっと人知れずやってきているに違いない。「お寺の『ある』と社会の『ない』を繋ぐ」と当事者たちは簡潔に表現しているが、現在の国内における貧困問題の深刻さが取り組みのきっかけだったそうだ。どこかの宗派の総本山による号令一下のものではない。伝統的規範が根強いとされる仏教界のなかでは、かなり斬新なものだ。一度は実家の寺を飛び出し、民間企業で経験を積んだ若きお寺さんの発想が、ひとたび芽吹くと、たちまち宗派を超えて賛同の輪が拡がったという。
 仏様の存在を介した檀信徒のお供えや心付けが原資ゆえに、その取り組みは数十年あるいはそれ以上も持続可能(サステイナブル)なものだろう。政府や自治体からの補助金に頼る支援とは根本的に異なるのだ。結果的に政権や国家とは一定の距離を置いた、まさにお寺ならではの取り組みともいえよう。
 今般、政府で検討されている消費増税に際しての貧困対策の複雑さや場当たり的な対応に比べれば、この「おてらおやつクラブ」は実にシンプルでサステイナブルだ。なんと頼もしく、美しい「コトのデザイン」であることは間違いない。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「日本アニメ百年(10)」テレビアニメの台頭(3)

2018/11/18 日曜日

 

 さてここで、先に日本アニメの基礎を築いたと述べました、手塚治虫が創設した虫プロダクションですが、末期になると経営難に陥り1973年に経営破綻します。労働争議が大変激しかったようです。この経営難の頃に虫プロダクションから独立して、あるアニメスタジオが誕生します。有限会社サンライズスタジオです。1972年のことでした。
 自己資金が不足していたことで、当時関係があった株式会社東北新社に資金提供を仰ぎます。共同出資という形で株式会社創映社を設立し、企画や営業面を創映社が、制作をサンライズ側が行う形で活動を開始します。その後、利益分配金などの金銭面の不満が噴出し、1976年サンライズは独立します。そして、1979年、安彦良和や富野喜幸(現・由悠季)ら元虫プロに所属していた外部の人間を企画参加させて、現在もまだシリーズ化されているモンスターアニメが誕生します。ご存じの方が多いでしょう「機動戦士ガンダム」です。
 当初は「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットを受けて、年齢層を上げて設定し、宇宙戦争に巻き込まれた子供たちが協力しながら生き延びるストーリーでしたが、スポンサーの強い意向によりロボットが登場する原案へと変化しました。ロボットの出入りのために大型宇宙ステーションのアイデアを、アメリカのオニール博士のスペースシリンダー計画から拝借して脚本が生まれました。ロボットアニメが好調な時代で、スポンサーの意向もこれ以上強くならずに現実的なリアル路線が決定します。大筋の設定の基底には「十五少年漂流記」の要素も入っていたそうです。キャラクターの構築にも、それまでにない屈折した性格が盛り込まれました。キャラクターデザインは弘前ではもうかなり有名になりました元弘前大学に在学していた安彦良和が担当します。最初の発表から39年たった現在でも新作を制作しています。
 このアニメにより業界初のリアルな設定のプラモデルを販売した玩具メーカーバンダイが大成功を収め、大変な収入を上げるという副作用まで現れます。当時「ガンプラ」と呼ばれた現象はテレビニュースにもたびたび登場しました。一時は年間売り上げが100億円に達していたという噂(うわさ)まで現れました。サンライズスタジオはこの後、このバンダイに吸収合併され1994年、バンダイの資本下に入ります。その後テレビゲームメーカーのナムコが経営統合されて2007年以降サンライズスタジオは、漫画原作アニメ、ライトノベル原作アニメ、テレビゲーム原作アニメの3本立てで制作を行っていました。現在は低年齢層アニメは株式会社バンダイナムコピクチャーズが、高年齢層向けがサンライズというように分業しています。

(弘前大学教育学部教授 石川善朗)

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気ままな旅「後藤新平の故郷・水沢を歩く」

2018/11/11 日曜日

 

 10月下旬のある朝、かねてより計画していた、岩手県奥州市水沢の後藤新平記念館へ鉄路の日帰り旅行を決行する。
 新青森駅を8時37分に出た「はやぶさ12号」は9時42分、盛岡駅に到着。トイレを済ませ、10時6分発、JR東北本線701系普通一ノ関行きに乗り込む。目指すは水沢駅。2両編成の列車は盛岡駅を出て途中13駅で停車をくり返す。乗客のたわいないおしゃべり、車窓を流れる小春日和の風景を楽しみながら、11時10分過ぎ、水沢駅に着く。
 平屋建ての小さな駅舎は、至ってシンプル。昔の停車場といってよい。後藤新平記念館は東北自動車道経由で過去に2度訪れている。3度も記念館に足を運ぶのは、新平の魅力に取り憑(つ)かれている証左であろう。ただし、今回の鉄路(ローカル線)の旅ほど、ゆったりとした、豊かな気持ちになれたことはない。
 水沢駅西口から後藤新平記念館まで徒歩で15分。駅通り右側を10分進むと、交差点の左向こうにホテル・ルートインが見える。さらに1分進み、交差する大手通りの角を右折。2分ほどで赤茶色の奥州市役所に着く。この市役所(正門)の交差点を基点として、左斜めに後藤伯記念公民館・後藤新平記念館、市役所右隣に後藤新平旧宅がある。いずれも市役所から1~2分で行ける距離にある。
 後藤新平記念館は、後藤伯公民館の裏側に隣接する。コンパクトな造りと白い石壁が重厚な佇(たたず)まいを感じさせる。玄関で靴を脱ぎ、吹き抜けの広場に上がる。中央に後藤新平の蝋(ろう)人形が立ち、足元にゆかりの資料が陳列。正面の壁には年譜や肖像画が掲げられている。
 1階、2階の展示室を約1時間かけて回る。医者、行政官、台湾民政長官、満鉄総裁、鉄道院総裁、逓信・内務・外務大臣、拓殖大学学長、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局(現NHK)総裁、少年団日本連盟総裁等、様々な要職につき、辣腕を振るう姿が浮かぶ。常識や目先の利益(私利私欲)に囚(とら)われない、科学調査と公共精神に裏打ちされた、国際的視野を持つ政治家の顔があった。
 後藤は大風呂敷と揶揄(やゆ)されたが、残した業績はものすごい。1929年に72歳で亡くなり90年を迎えるが、今に通用する仕事ばかり。東京駅、墨田川の橋、山下公園、環状道路、新幹線、赤い郵便ポスト等、枚挙に暇(いとま)がない。とても100年以上も前の発想(案)とは思えない。
 今また、後藤新平が輝く時代になろうとしている。科学調査・先見性、自治・公共精神を重視した、都市づくり、行政改革、人づくりへの再評価である。後藤はいう。「ビスマルクはかく言えり、『一に金、二に金、三に金』と。我は言う、『一に人、二に人、三に人』と」
 類い希な政治家、後藤新平にますます魅力を感じ、畏敬の念を抱く。
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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秋の季語「季節感の贅沢」

2018/11/4 日曜日

 

 紅葉の美しい季節である。青森の紅葉は、赤も黄色も本当に美しい。「紅葉狩り」などと風流にお金をかけて出かけなくても、近所のお宅や通勤時、職場でも十分に楽しめるほどだ。
 青森で暮らしてから身に着けた秋の風物詩に「芋煮」がある。山形や宮城、福島など南東北では一般的な秋の行事で、河原に石のかまどを作って、その年取れた里芋を肉や野菜と煮て食べる。岩手では芋の子汁というらしい。地域によって一緒に入れるのは牛肉か豚肉か、味噌味か醤油味かなどの違いがあることで知られている。(秋田では、里芋よりも新米で作った「たんぽ」がメインになるらしい)。それを山形出身のお隣さんに教えてもらってから、我が家は必ず秋になれば「芋煮」を作る。日本全国の方言を地図にした『日本言語地図』では、芋といえば何芋を指すのかという調査があって、里芋を指す地域とじゃがいもを指す地域、さつまいもを指す地域があることが知られているが、東北は「芋」といえば里芋を指す。また、俳句でも実は、単なる「芋」は里芋を指す秋の季語で、また「じゃがいも」も「さつまいも」も秋の季語となっている。
 農村の秋をイメージすると誰もが納得できるだろう「案山子」や「稲架」「苅田」のほかに、空を飛ぶ「雁」や、「鶴来る」などという季語も秋のものだ。津軽では、10月には白鳥が北の国からやってくる。今年も寒気が南下するという天気予報と共に、白鳥の声を聴いた。白鳥が鳴く声を、津軽の子供なら真似できるのは、珍しくない。しかし、私は津軽に来るまで、白鳥が何と言って鳴くのかなど、全く持って知らなかった。
 旬の食べ物が季語になることはよくあり、長野県で育った私にとって当たり前のものは、実家の山で採れる松茸である(山の場所は跡取しか知らないので、弟だけが知っているのだが…)。
 反対に、確かに秋の季語と言われているけれど、腑に落ちない、なぜなのだろう? と思うものには、「かまきり」があった。しかし、津軽で暮らした今は、そうだろう! とわかるようになった。子供が小さい頃、かまきりやその餌となる虫を捕まえるために、いろいろな草原にでかけた。その折に、地域の方たちから、雪の多い年はかまきりの卵は高いところに産み付けられるという言い伝えを聞いた。これぞまさに雪国の生活の知恵とうなずいた。生活の中にこの虫の季節が織り込まれていることの裏付けなのだろう。
 日本は四季がはっきりしているとはいえ、こんなに身近に、これほど風雅な贅沢が、津軽では毎日の日常の中に様々、散りばめられているのだ。何と豊かな暮らしだろう。思い直す今日この頃である。
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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