日曜随想

 

「気ままな旅」鎌倉市・鎌倉文学館へ歩く

2019/7/21 日曜日

 

 今年のゴールデンウイークは1日だけ古都鎌倉を歩く目的を立てた。そこで選んだのは、鎌倉駅から鎌倉文学館へ向かうコース。ただし昭和前期(1926~45年)の文学を代表する鎌倉文士の展示物を見ることは建前にすぎない。
 目標はふたつ。ひとつは私が心から尊敬する作家(批評家・思想家)、小林秀雄がいくつもの名作を残し、終(つい)の住処(すみか)と定めた昭和の鎌倉を追体験してみること、もうひとつは僅(わず)か28歳で非業の死を遂げた鎌倉幕府3代将軍、元祖鎌倉文士ともいわれる源実朝(みなもとのさねとも)の不条理な生涯を私の脳内辞書に銘記することである。
 その日は、大勢の人が行き交う御成通(おなりどお)りをすり抜け、県道311号(若宮大路と長谷を結ぶ由比ヶ浜(ゆいがはま)大通り)を右折六地蔵を通り長谷方面へ道なりに進んだ。歩道は訪日外国人客を含む人々がアリの群れのように列をなし、点在する老舗(しにせ)の味処(あじどころ)やカフェで寛(くつろ)ぐ姿が目につく。
 鎌倉駅をスタートして20分ほどすると長谷1丁目交差点の信号機に「文学館入口」の表示板が現れた右折すれば5分ほどで鎌倉文学館に着く。左折すれば2分ほど歩いた所に由比ヶ浜駅がある。急ぎの場合は江ノ電に3分乗ればこの交差点までは5分で来られる。ちなみに左折も右折もせずそのまま真っすぐ進めば9分で浄土宗の名刹(めいさつ)長谷寺に突き当たる。
 鎌倉文学館はもともと旧加賀藩前田家の別邸であったが、1936年に第16代当主前田利為(としなり)により改築、83年に鎌倉市に寄贈、85年に鎌倉文学館として開館した。文学館は鎌倉独特の地形・谷戸(やと)(丘陵地が浸食された地形)に位置する。
 背後と左右の三方を緑豊かな山に囲まれ、前方に相模(さがみ)湾を一望できる。
 文学館の入り口から石畳が敷かれ緩やかな上り坂が続く。早緑の樹木トンネルを抜けると券売所と門扉、その先に源頼朝が鶴を放った故事で知られる隧道(ずいどう)「招鶴洞(しょうかくどう)」がある。そこを出ると左手にクリーム色の壁と青色の屋根が印象的な洋風建築、鎌倉文学館が見える。
 敷地内の路傍には外灯が設置され短歌や俳句が書かれている。源実朝の「大海(おおうみ)の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」という秀歌もある。
 実朝は「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」の歌も詠んでいる。小林秀雄は万葉集に学んだスケールの大きいこの叙景歌(習作)を高く評価する一方「僕は大変悲しい歌と読む」(「実朝」『文学界』1943・2)と書き常識とは違う独自の解釈を示したそれは実朝の立場で誠実に作品(表現)を理解、批評したからに他ならない。
 生きた時代も生涯も全く違う小林秀雄と源実朝。しかし「鎌倉でいかに生きるべきか」を真剣に考え、倦(う)まず弛(たゆ)まず、独立独歩で、感性を働かせて物事に付き合い続けたことでは共通していた。
(東北女子大学家政学部教授 船水周)

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「我慢弱さの勧め(3)」カレーと脚気の話

2019/7/14 日曜日

 

 先日、バスセンターのカレーを食べたくなって、新潟市まで新幹線を乗り継ぎ日帰りしました。
 私の小学生時代(昭和30年代)のカレーに関する思い出は、薪(まき)ストーブで必ず親父が作っていたことや、月に1度くらい、親父に連れられて、バスで弘前の洋画(ターザンとか西部劇)を見た帰り、食堂に立ち寄って食べたことである。
 親父は、おいしいものを何でも食べているのに、息子には「中華にすが、ライスカレーにすが?」であった。二者択一なのである。
 私は、価格の関係で、必ずライスカレーにしていた。当時の洋画を放映する映画館は、スカラ座、国際、国劇であったので、昼食は、親方町「ばかもり屋(川村食堂)」向かいの「ひさご食堂」、百石町「ニューヒロサキ」「グリル横山」、上鞘師町「グリルマツダ」等であった。グリルマツダの2階へ上がる階段で、親父は「ここは、中華ないから」であった。出されたカレーは、魔法のランプのような器(グレイビーボート)にルーとお玉(レードル)が入っており、田舎者の小学生には、別世界であった。(どうせ全部食べるのに…)
 わが国のカレーの歴史は、「実験疫学の父」とされる高木兼寛(たかきかねひろ)が当時国民病だった脚気(かっけ)の予防のために海軍に広めてからとされている。
 明治政府がドイツ医学を採用したことにより鹿児島に移り住んだイギリス人医師、ウィリアムウィリスの教えを受けた高木は1875年から80年までイギリスに留学した。帰国後、高木は、海軍の航海中に多数の脚気患者、死亡者に遭遇したが、イギリスでは一人の患者にも出くわさなかったことから、食事を原因と考え、伊藤博文に直訴して実験航海を84年2月3日から11月16日まで実施した。兵食を米食から麦飯、パン、肉食に変更した結果劇的に脚気が減った。その航海中に人気のあったメニューが麦飯にかけたカレーであった。 
 その年の12月27日に、明治天皇はお昼に伊藤博文らと鴨肉(かもにく)のカレーを食べていたという記録がある。鹿児島市に行く機会がありましたら、鶴丸城址付近に高木の像があるので、一見を。
 鹿児島大学の練習船で南の島に調査に行った際、出港式や帰港式、毎週金曜はカレーの日であった。船は揺れるので小麦粉でトロミをつけて、こぼれにくくしているとは司厨長の話であった。
 カレーファンの私は出張先でも大学の学生食堂でカレーライス(中)259円(税込み)を食べています。ちなみに醤油(しょうゆ)ラーメンは356円です。あれっ、カレーの方が安い。我慢弱さはカレーには必要ないようです。えっ、バスセンターカレーの味は? ですって。紙面がなくなりました。
(弘前学院大学看護学部教授 三上聖治)

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「世界の黒にんにく」いつも仲間、皆のために

2019/7/7 日曜日

 

 今年1月、八戸パークホテルにて旭日単光章の祝賀会が盛大に執り行われた。壇上に立つその日の主役は、日に焼けた赤ら顔に満身の笑顔で想いをぶつけた。
 「いつも青森のためにと考え突き進んでまいりました。それが功を奏していい結果になりました。仲間と組合を作り、研究の輪を広げたことで、行政からも支援が得られました。『皆のために』、この大義があってこそ今日があったと思います」と。その人の名は柏崎青果代表取締役社長、柏崎進一氏である。
 おいらせ町に本社を構える柏崎青果は、「青森県産野菜」を世界へ発信する、6次産業化の先駆者である。1991年に設立。2年後には規格外となる「すそもの」野菜の活用に取り組み、生産から加工・流通・販売まで手掛けている。
 県の助成事業を活用し、県内の同一製造業者と協同組合青森県黒にんにく協会を設立。統一ロゴ「青森の黒にんにく」で拡販、今や青森の黒にんにくは世界20カ国以上に輸出されている。
 これまで紹介してきた多くの創業者同様に柏崎氏の少年時代の生活は決して豊かではなかった。話を伺えば伺うほどに、むしろ塗炭の苦しみといっていいほどに思えた。
 「おいらせ町地域の農家は、特に貧しかった。まさに宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の一節、『寒サノ夏ハオロオロ歩キ』だ。田植えしてもさっぱり採れない、1955年の大冷害の時、米はゼロだった。十和田、津軽のコメ農家の人がやれ海外旅行だ、といって出かけていくのが羨ましかった」
 そしてそこでの生活をこう語る。「ここは痩地だったから、農家は雑穀や大豆、菜種等を植えていた。夏以降じゃないと、ジャガイモが獲れなかったから、現金収入を得られるのは8月以降。それまでは雑穀、菜種でしのいでいた。父親も日雇いの仕事をしながら生活をしていた。そんな農家が全体的に多かった」と。
 一変したのは約50年前、露地栽培しかなかったこの地域にマルチ栽培やトンネル栽培を導入してから。今では、青森県には日本一の野菜が三つもある。長芋、ごぼう、そしてダントツ日本一のニンニク。それは堆肥づくり運動がはじまり、10年も20年もずっと土づくりをして、ようやく何を作ってもよい畑になったから。皆で一生懸命投資して、厳しい自然環境を克服したがために、今では、青森県が東北一の農業生産額となった。
 柏崎氏が主導する黒ニンニクサミットはこの9月で4回目を迎える。海外の有名シェフを迎え、式典の半分は英語である。まさにインターナショナルとなっている。その成功の要因をと聞くと、「いつも仲間、皆のために、という大義があったから」と、答えが返ってきた。
(青森県産流通システム研究所所長 牛田泰正)

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「渋沢と国際協調」日本太平洋問題調査会

2019/6/30 日曜日

 

 新元号の公表から間もない4月9日、政府は20年ぶりに紙幣を刷新する方針を発表した。もっとも、沖縄県以外ではほとんど使われることも見かけることもなくなった2千円札はそのままだと言う。沖縄県でよく使われるのは、同県の象徴である首里城・守礼の門がデザインに使用されているためだという。2千円札が発行された時、自動販売機や銀行のATMもその対応に追われたことを記憶しているが、新札が発行されるとされる2024年頃にはどんなことが起こるのか、10月に予定されている消費増税に併せ、政府は盛んにキャッシュレス化を推奨しているが、それと矛盾しないのかなど、余計な心配をしている。
 新紙幣の肖像画は、1万円札が渋沢栄一、5千円札は津田梅子、千円札が北里柴三郎だという。その選定理由は、渋沢は近代日本資本主義の確立に尽くした実業家、津田は日本女性として初めての留学生で津田塾大の創始者、北里は近代日本医学の父であることとされている。
 ところで、渋沢は国際協調にも大いに尽力した人物であり、第1次大戦後のアメリカで反日感情が高まった際、米国の宣教師と協力し、アメリカからは「青い目の人形」、日本からは「日本人形」を、両国の子ども達に送る活動を行ったことは、以前にこの欄で紹介させて頂いたが、さらにこの頃、渋沢は太平洋問題調査会の日本側の初代評議委員会会長に就任している。この調査会は、太平洋沿岸諸国と太平洋地域に利害関係をもつ国の民間人が、この地域の国際的問題について検討し、相互理解と意見交換を行うために組織されたものである。未曾有の人的・物的被害を出した第1次大戦からさほど時が経っていないにも拘(かか)わらず、世界経済が再び停滞・減退へと向かい、各国が「自国ファースト」=保護主義的傾向を強めていく中で、民間レベルで、この地域の問題の本質を追求し、国際協調の方向性を見いだそうとしたのである。
 1925年の第1回会議ではアメリカの排日移民法、第2回会議では人口食糧問題や日米不戦条約、そして、29年の第3回会議は京都で開かれ、満州問題が取り上げられている。このように、討議された課題は、当事国にとっては余り議論したくない問題であったのは確かだが、民間レベルだからこそ、一定程度まで自由に議論することが可能であっただろう。民間外交を展開することで国際的な協調を図ろうとした渋沢にとっても、極めて重要な活躍の場であっただろう。
 今日、トランプ政権に代表される自国第一主義が、時として他国との協調を危うい状況へと追いやっている時、渋沢らが目指した「民間外交」は一定の役割を果たすことだろう。実業家としてではなく、「民間外交官」としての渋沢を見る思いで、新1万円札の発行を待ちたい。
(青森大学名誉教授 末永洋一)

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「点から面の観光へ」担い手同士の連携あってこそ

2019/6/23 日曜日

 

 先般、東京方面からのお客さんたちと共に、フェリーで下北へと出掛ける機会があった。「津軽海峡マグロ女子会」で活躍する島康子さんらの案内で、大間町でのまち歩きや風間浦村でのウニ採り、下風呂温泉などを楽しんだ。わが家から車で数分の大森浜からは、間近に下北半島の山々が望める。函館に住む筆者にとって、青森県大間町は隣町なのである。大間や佐井、風間浦など北通(きたどおり)の人たちは通院や買い物で函館をよく訪れる。しかし函館市民にとって、この地域は縁遠い場所なのだ。私も島さんの紹介であちら側に友人が増え、何度か訪れてみて初めて、函館からの観光周遊圏としての価値に気づいた次第だ。今回の東京からのゲストのように函館を足掛かりに下北方面へと赴く旅行客はそう多くないが確実にいる。そうした人たちに対して、函館のホテルや観光窓口で的確な案内が出来ているかといえば、それはなかなか難しいこと。ともすればそうした旅行者は、函館の観光にマイナスイメージを持ってしまうかもしれない。
 「自分の街のことは案内できて当たり前。次の目的地に対して的確な助言を与えられることこそが、よきガイドの必須条件」。2012年に弘前市で開かれた「日本まちあるきフォーラム」の冒頭、大館市の観光関係者の言葉に私は膝を打った。当時は、弘前市が周辺町村さらには秋田県北部との広域での観光振興を打ち出した時期。「点」の観光地が切磋琢磨(せっさたくま)することはもちろん大切だが、地域の上得意客を得るためには、今後「点」を結んだ「面」の展開を提案することが必要だと教えてくれた。この時期はちょうど、弘前市が旗振り役になって、観光まち歩きのプログラムを作ろうと、その担い手同士が親しく繋(つな)がりだした頃でもあったことが思い出される。
 今般、各地で観光を地域づくりの起爆剤にしようと「日本版DMO」と呼ばれる新しい観光推進組織の設立が各地で相次いでいる。遅ればせながら広域での観光連携がその主眼のひとつでもあるが、これが従来組織の統合や再編だけでは意味がない。観光の主役となる者同士が行き来し、互いに地域の魅力を共有できて初めて、「面」での展開へと一歩踏み出し、その受け皿にこうした組織が必要になるのだと私は考える。互いの距離感や所要時間の感覚は何度か訪ねてみることでようやく体感できるもの。また信頼できるキーマン同士の親しき関係があってこそ、正確でかつタイムリーな話題に基づくガイドが可能になる。そうした関係なくしては、全地域を網羅したパンフレット作りで終わってしまうのだ。そうした意味で津軽地域がこれまで培ってきた観光の担い手同士の連携は、私たちの函館も見習うべきものだと思っている。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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