日曜随想

 

「食のまちづくり」料理人の活躍こそ地域の食資源

2017/9/24 日曜日

 

 「洋館とフランス料理の街ひろさき」とは、今日弘前では誰もが知るキャッチフレーズだが、決して行政がむりやり掲げたものではない。他ならぬフレンチの料理人たちが地道にアピールし定着させたものだと聞けば、ぜひとも一度は食べてみたいと期待が高まることだろう。高い期待を背負うからには、料理人たちにもそれなりの覚悟があろう。そうした覚悟のうえでの日々の活躍があってこそ、今日の弘前フレンチがあるはずだ。
 他方、料理人たちのこうした努力をしっかり受け止め、街を挙げた取り組みにした市役所や観光コンベンション協会の英断もまた評価すべきものだ。藤田記念庭園を活用した「弘前おもてなしレストラン」など新たな展開もすばらしい。
 今般、政府が掲げる地方創生の看板施策のひとつとして「食を活かしたまちづくり」が各地で盛んだ。とりわけ料理店や料理人をクローズアップしたものは、地域のブランド力向上や観光客誘致において訴求力が非常に高く、どこも躍起になっている。しかし、そうしたものはなかなかひと筋縄ではいかない。これまで行政と飲食業との関わりといえば、食品衛生や出店の許認可ぐらいであり、食を活かしたまちづくりというテーマは、役所仕事では極めてニッチ(隙間)な分野といえる。注目すべき食の資源があったとしても、それに気づかぬままでいることも多い。流行に乗り遅れまいと、政府からの補助金をあてにしながら外部からへんてこな企画をまるごと買ってきたようなものまで見受けられる。こうしたやり方では何の機運も高まらず、補助金が途絶えてしまえば、それで終わってしまうものだろう。
 料理人の活躍こそが地域の食資源、そう気づいてこそ「食を活かしたまちづくり」の一歩を踏み出せるのだ。
 先ごろ函館で「津軽海峡エリア料理人フォーラム」を開催し、各地の料理人たちが一堂に会した。「地域における料理人の役割」を議論し、県境を跨いで交流を温めた。それぞれ地域に目を向けてみれば、弘前での料理人の活躍のみならず青森県内各地、そして函館においても料理人たちのまちづくりにおける活躍はめざましいものがある。函館のバル街や世界料理学会、八戸ブイヤベースフェスタ、青森ではさらに斬新な料理人の取り組みが進行している。
 そして、それぞれのまちでの料理人の連携はもちろんのこと、県境を越えた料理人同士の交流が始まっていることは、まさに全国に誇るべき地域の食資源なのだ。とはいえ料理人の取り組みと行政や公的機関との連携協力はどこもまだ道半ばである。そういう意味で、フランス料理の街ひろさきは「食を活かしたまちづくり」のトップランナーなのだ。
(オフィス「オリゾンテ」代表 田村昌弘)

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「定期船のなかで」困ったときは少しずつ

2017/9/17 日曜日

 

 アフリカのタンガニイカ湖には、第一次世界大戦前にドイツで造られた船が、今も現役の定期船として走っている。戦時中はドイツの砲艦として使われ、一度は沈められたが、1924年にイギリスが引き上げてリエンバと命名し、再び貨客船として使われるようになった。かつてはブルンジからザンビアまで湖の南北670キロを結んでいたが、現在はタンザニアとザンビアを往復しているらしい。途中の停泊地では、船は陸づけしないので、小舟が近づいて乗客が乗り降りしたり、乗客に食べ物などを売ったりする。
 リエンバは私の初めてのタンザニア体験でもあった。88年末、タンガニイカ湖畔にある野生チンパンジーの調査拠点、マハレ国立公園を訪ねた時のこと。ザンビアの村に住んでいた私は、自転車とバスをのりつぎ、リエンバの出航にうまくすべりこんだのだが出航後、さっそく困った。船内はタンザニアのお金しか使えない。言葉はスワヒリ語で理解不能。しかもマハレに行くには、最寄りの停泊地で小舟を雇わなければならないという。えっ?そんなお金もってない!
 青ざめる私に、周りの人が「どうしたんだ?」と寄ってきた。ザンビアの言葉ができる人が私の話を聞き、窮状を説明する。と、驚いたことに、誰からともなく自分のお金を出しはじめたのだ。少しずつお金を出しあってマハレまでの私の舟賃を作ろうとしたらしい。「いつかアタシが困ってたら助けてね」と豪快に笑うおばちゃんたちが、商売物のパイナップルや揚げパン、飲み物などを出してきて船の甲板は宴会状態になった。そして、夜半すぎに船がマハレに近い停泊地に着くと、近づいてきた小舟の主に集めたお金を払い、「無事の旅を!帰りの舟賃はマハレで助けてもらえ!」と送り出してくれた。あ、お金は片道分だけなのね…とはいえ、見ず知らずの外国人である私を助けてくれたのは、国境を越えて小さな商売をしている人たちばかりだ。ふだんはお金に厳しく商売気いっぱいなのに、私が困りきっているとわかると、損得ぬきで手を差し伸べてくれた。
 相手が誰かにかかわらず、持っているものを少しずつ出し合って困難を乗り越えようとするのは、タンザニアに根づく相互扶助のやりかただ。それは急激な近代化のなかでも息づいて、人々の人生を支えている。その姿のなかに、地域で育まれた文化のしくみと価値を見出すのが私の仕事だが、それを将来にどう生かすか考え、多様な世界を生みだす助けにできればいいなあと考えている。
 本欄に寄稿する機会をいただき5年、今回で連載を終えることになった。読者諸氏と弘前で結ばれたさまざまな縁に感謝しつつ、これからも地域の暮らしの豊かさについて考え、行動していきたい。
(弘前大学人文社会科学部教授 杉山祐子)

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「りんご祭にちなんで」不断の努力に敬意と感謝

2017/9/10 日曜日

 

 実が円形で濃い紅色の早生種、恋空を店頭で見かけたり、りんごの予想収穫量が発表になったのは先月のこと。
 ふじ・王林の生産量はチョイと伸びているのだそうですが、つがるとかジョナゴールドは減っていると聞くと、嗜好の変化かと思いつつも、津軽が信州信濃に押されたのかと、郷土愛で要らぬ妄想。
 今日のりんご王国の礎となった出来事は、東宮殿下、のちの大正天皇の向陽園への明治四十一年九月二十四日の行啓。
 これを記念して翌年に建立の石碑は旧清水村の外崎嘉七の園地、いまの弘前大学北溟寮の前庭にあります。行啓日に碑の前で生産の神に報恩感謝したのが、りんご祭の始まりで、外崎翁は大正十三年九月二十五日に死去されますが、その遺徳を偲び、関係者は遺志を継いで開催。やがて、りんご祭と正式に名付けたのは昭和六年だそうで、初めて西洋りんご樹がもたらされた明治八年から数えて八十周年を祝う、昭和三十年の陸奥新報紙上に、往時を回顧した寄稿がありました。
 『思い出のりんご りんご祭に想う』と題しての執筆は櫻田清芽。それによれば、当時の弘前新聞が主催し、十月二十日に公園本丸へ祭壇を設け、厳かな祭典の後には講演をしたほか、家政女学校の生徒を動員して、市中の自動車パレードによる賑やかな街頭宣伝も興を添えた。
 翌七年からは、さきの行啓記念碑保存会との共催により、開催の九月二十四日は、生産者も輸出業者も全部休業して、使用人らの慰安日に定めたというから、その隆盛ぶりは目を見張るばかりです。
 戦争中の五年は開催が中断されても、その歴史を辿ると、全国的にも類のない誇りと伝統を持つ農祭なのですねぇ。
 戦後、りんご祭は県りんご協会が主催。昭和二十一年九月二十一日が協会の設立だから七十周年式典を去年に挙行。
 もう一つ目を引いたのが、和りんごが市内で毎年結実しているという記事。
 和りんごは中国から渡来したといい、盆りんごとして、仏前に梨や燈籠と飾る習慣があった。西洋りんごの導入以前は大いに栽培されたが、西洋りんごは食味が良いことから、品種の転換が進んだ。
 所有者の松木平の藤田さんの談によれば、明治三十四年ごろに父親が植えたもので、豊作の時だと六箱くらいの収穫があり、「毎年秋田あたりに出荷すると、非常に珍しがられよく売れる」と語る。
 和りんご以前の品種との記載もあり、りんご試験場の技師も絶滅していると思ったとかいうから、現存するなら驚愕。
 しかし、品種の更新が進むなかでも、弘前産のりんごが全国生産量の約二割を占めるというのですから、これは生産に関わる皆さんの不断の努力の賜物かと。
 消費者とは流行りを追ったり、勝手に過去を懐かしがるから、りんご関係者のご苦労は、ホントに尽きないのですね。
(元弘前図書館長 宮川慎一郎)

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「防災の日」災害は忘れたころに…

2017/9/3 日曜日

 

 9月1日は防災の日だった。その経緯について東京消防庁によれば、「政府、地方公共団体など関係諸機関はもとより、広く国民の一人一人が台風、高潮、津波、地震などの災害について、認識を深め、これに対処する心がまえを準備しようというのが、『防災の日』創設のねらいである」とある。また、「災害の発生を未然に防止し、あるいは被害を最小限に止めるには、どうすればよいかということを、みんなが各人の持場で、家庭で、職場で考え、そのための活動をする日を作ろうとして」設けられたとある。9月1日は1923年に関東大震災の起こった日でもあり、二百十日という台風シーズンを迎えることも関係しているという。
 阪神淡路大震災が起きたのは、1995年だった。日本社会が抱えてきたさまざまな弱点が浮き彫りにされる一方で、各地で助け合いや譲り合いの心掛けを見て取れた。ボランティア元年と称される年でもある。その後、中越地震や東日本大震災、広島土砂災害、熊本地震や各地の豪雨・洪水・火災と大災害は後を絶たない。
 東日本大震災を契機に、方言で被災地支援にあたる医療者を中心とした支援者を支援するための「方言支援ツール」なるもの(方言で書かれた身体部位の図など)を作り、関係団体に提供したり、webに公開してきた。しかし、身近な問題として、受け入れられたとはなかなか言い難い状況が続いていた。
 昨年、熊本地震が起こって九州の研究者グループと連携して熊本と大分の方言による身体部位の図などを作ってから、徐々に協力者が増えてきた。もし、同じような災害が自分たちの地域で起こったら?と考えてくれる人々が増えたのだ。南海トラフ地震の被害が予想されている四国では、町の医師会が作った方言身体部位図がホームページに公開されたり、徳島県で方言研究者と地元の高校生が一緒になってボランティア向けの方言パンフレットを作り、現在は身体部位についても調査中だという。この活動を始めた徳島大学の村上敬一氏は、昨年、熊本地震で一緒に方言支援ツールを作る活動をした仲間で、それがこのように別な地へと広がっていった。村上氏によれば、高校生が自分の住む地域や文化をよく知ることにもなり、この活動はいいことばかりなのだという。力強いことばである。
 熊本では、災害が起こってから開発したので、とにかく時間がなかった。一週間ほとんど寝ないで公開にこぎつけるのがやっとだった。この作業に携わってくれた研究者たちの負担も大きかった。だからこそ、余裕のある平時に各地で方言の身体部位図を作っておけばみんなが助かるだろう。とは思いながら、のど元過ぎれば・・・となっていないだろうか?
(弘前学院大学文学部教授 今村かほる)

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「養豚に労力惜しまず」長谷川式こだわりの自然牧場

2017/8/27 日曜日

 

 津軽ではあくまで素材主義を徹底してほしい、都会の真似をしないでいてほしい、素材主義こそが地方の生き方だ、と日曜随想で何度か述べてきた。今回はその実践が功を奏している実例を紹介する。それは世界随一の名声を誇るホテルリッツカールトン大阪、ホテルシャングリラ、大阪の高級イタリアレストラン、ポンテベッキョ、そして横浜中華街老舗の聘珍楼などの有名店からもイベント用の食材として引き合いが絶えない長谷川牧場(長谷川光司社長・鯵ケ沢)である。
 以前の「戸田のお餅」同様に素材にこだわり、豚の餌作りは自家配合で薬剤は一切使わないという。化学肥料を使えば1、2時間で済む作業を1日かけて飼料を作る。長谷川氏はできる限り安全なものを提供したいと心がけ、一般的な濃厚飼料を使わず、山の腐葉土、残飯や野菜などを発酵させて飼料を作り、通常よりも長く、じっくりと日数をかけ育てている。結果、長谷川牧場の豚には脂に甘味が残り、昔懐かしい味がする。
 長谷川氏によると、これはオレイン酸が多いためとのこと。融点が高いので体温でもとける。そのため体に残らず、筋肉が衰えるお年寄りにはもってこいの栄養素となるのである。長谷川氏も、以前紹介した多くの創業者同様に、商業界主催の「箱根ゼミ」に参加されてきた。そこで数々の経営ノウハウ、考え方を学ばれたという。それはモノを売るのではなく心を売り、心を通じて「お客様に満足を売る」、という考え方であった。
 いわゆるチェーン理論の根幹をなす標準化、画一化、大量仕入れ大量販売により、他店を圧倒する値付けをする考え方とは一線を引く。長谷川氏は多くのすぐれた経営者と出会い、そして彼らの経営哲学に接し、またその仕事に対する姿勢や高い志に感銘を受けてきた。
 大量生産手法で飼育される豚は通常一頭の価格が4万円。それを「箱根ゼミ」では一頭30万円の豚を目指せというのである。そのため長谷川氏は一頭一頭に愛情をこめ、名前を付け、手を抜かず、飼料にこだわり厳選し、素材のおいしさを最大限に引き出すことに専念。30万円を目指した価値ある豚肉であるが、価格は市場のリーズナブル価格に抑えた。そして、その結果として有名店からの引き合いが絶えないのである。
 自身の農薬中毒がきっかけとなり、農薬の恐ろしさ・食の安全性に気付き自らの牧場を開設。効率のみを優先する生産者が多い中、長谷川牧場では昔ながらの自然な飼育法で時間をかけながらじっくりと育てている鶏は放し飼いで豚の餌作りは自家配合で、愛情をこめ育てている。自然の恵みを存分に与え、そして人々に喜ばれる豚を育てること。このことに長谷川氏が労力を惜しむことはない。
(弘前医療福祉大学短期大学部教授 牛田泰正)

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