4歳になった春、私は幼稚園に入園した。そのとき先生の弾くピアノに目を見張り、ピアノから離れなかった(らしい)。ピアノを習いたいと言い続けた私に、親は安いオルガンを与えた。珍しさもあって最初の半年ほどはよく練習したので、その後ピアノを買ってくれた。それから約半世紀、私なりに音楽との付き合いは続いている。
こうして幼い時からピアノと触れていた結果、私はいわゆる絶対音感保持者となった。つまり町中で流れる音楽はもちろんのこと、グラスのぶつかる音から鳥の鳴き声まで、何の音を聞いてもドレミで聞こえてしまう。子供のころからずっとそうだったので、みんなそういうものだろうと思っていた。
大学入試を迎えた18歳の春、勉強嫌いで落ちこぼれ高校生だった私は、土壇場でピアノに救われ、どうにか大学に入れた。音楽科にはソルフェージュという科目があった。先生がピアノで弾く和音やメロディーを書き取ったりする。何しろ鳴り響く音が全部ドレミで聞こえてしまう耳のおかげで、これは非常に楽だった。例えて言うなら、誰かが朗読しているのを、ひらかなで書き取るようなものである。そしてそのとき、自分は絶対音感と言われる聴覚を持つこと、音が全部ドレミで聞こえる人ばかりではないことを知った。心底、びっくりした。
この絶対音感、けっこう厄介である。身に付けようと努力したものではないので、本人にはどうしようもないし、どう頑張っても、これは取れない。音楽が流れると、自動的に耳が音程判断を始めてしまうが、ちまたの音楽の音程が分かったところで、何のメリットもない。あちらこちらで同時に音楽が鳴るときなど、最悪である。耳元で一斉に複数の朗読を聞かされるようなもので、とにかく疲れる。
こんな状態なので今人生の半ばを過ぎ、果たして自分は本当に音楽を「聴いて」いるのかと疑問を持つようになった。つまりコンサートに行っても、その演奏に「ドレミ」の文字的情報が入ってしまうのを阻止できない。そうではない聴き方とはどんなものなのかイメージすることが難しいが、もっとダイレクトに音楽を「聴く」ことができるのではないかと思ってしまう。ついでながら、これまでの経験上、絶対音感と音楽性や音楽能力に相関性があるとも言い切れない気がする。
結局、私にとって得をしたと思えるのは、ソルフェージュの時間くらいだった。特に今は音楽を職業としていないので、無用どころか、どちらかというと邪魔である。音楽早期教育の宣伝で、絶対音感を身に付けるとの趣旨を見ることがあるが、本当にそれが必要なものなのか。おそらく本人が選択していないことが多いだけに、注意が必要ではないかと思えてならない。
(近代史研究者 北原 かな子)













