日曜随想

 

「音楽早期教育の結果」絶対音感との付き合い

2010/9/5 日曜日

 

 4歳になった春、私は幼稚園に入園した。そのとき先生の弾くピアノに目を見張り、ピアノから離れなかった(らしい)。ピアノを習いたいと言い続けた私に、親は安いオルガンを与えた。珍しさもあって最初の半年ほどはよく練習したので、その後ピアノを買ってくれた。それから約半世紀、私なりに音楽との付き合いは続いている。
 こうして幼い時からピアノと触れていた結果、私はいわゆる絶対音感保持者となった。つまり町中で流れる音楽はもちろんのこと、グラスのぶつかる音から鳥の鳴き声まで、何の音を聞いてもドレミで聞こえてしまう。子供のころからずっとそうだったので、みんなそういうものだろうと思っていた。
 大学入試を迎えた18歳の春、勉強嫌いで落ちこぼれ高校生だった私は、土壇場でピアノに救われ、どうにか大学に入れた。音楽科にはソルフェージュという科目があった。先生がピアノで弾く和音やメロディーを書き取ったりする。何しろ鳴り響く音が全部ドレミで聞こえてしまう耳のおかげで、これは非常に楽だった。例えて言うなら、誰かが朗読しているのを、ひらかなで書き取るようなものである。そしてそのとき、自分は絶対音感と言われる聴覚を持つこと、音が全部ドレミで聞こえる人ばかりではないことを知った。心底、びっくりした。
 この絶対音感、けっこう厄介である。身に付けようと努力したものではないので、本人にはどうしようもないし、どう頑張っても、これは取れない。音楽が流れると、自動的に耳が音程判断を始めてしまうが、ちまたの音楽の音程が分かったところで、何のメリットもない。あちらこちらで同時に音楽が鳴るときなど、最悪である。耳元で一斉に複数の朗読を聞かされるようなもので、とにかく疲れる。
 こんな状態なので今人生の半ばを過ぎ、果たして自分は本当に音楽を「聴いて」いるのかと疑問を持つようになった。つまりコンサートに行っても、その演奏に「ドレミ」の文字的情報が入ってしまうのを阻止できない。そうではない聴き方とはどんなものなのかイメージすることが難しいが、もっとダイレクトに音楽を「聴く」ことができるのではないかと思ってしまう。ついでながら、これまでの経験上、絶対音感と音楽性や音楽能力に相関性があるとも言い切れない気がする。
 結局、私にとって得をしたと思えるのは、ソルフェージュの時間くらいだった。特に今は音楽を職業としていないので、無用どころか、どちらかというと邪魔である。音楽早期教育の宣伝で、絶対音感を身に付けるとの趣旨を見ることがあるが、本当にそれが必要なものなのか。おそらく本人が選択していないことが多いだけに、注意が必要ではないかと思えてならない。
  (近代史研究者 北原 かな子)

∆ページの先頭へ

「買い物難民」問題 問題の本質と解決策(2)

2010/8/29 日曜日

 

 「買い物難民」問題に早くから取り組んできた自治体の一つに島根県美濃郡匹(ひき)見(み)町(ちょう)(現在は島根県益田市匹見町)がある。同町がこの問題に取り組んだのは20年以上前のことで、当時はもちろん「買い物難民」などという呼称は使われなかったが、今からすれば、その取り組みこそ「買い物難民」救済策であったと言える。私が初めて同町を訪れたのは労働省(現厚生労働省)の委託事業「過疎地における雇用開発」の調査の一環としてであり、この取り組みが開始されて間もないころであった。
 同町は島根県の西方に位置しており、近くには「山陰の小京都」として有名な津和野町がある(蛇足ながら、私はこの「小京都」という呼び方はその土地の個性を埋没させるもので好きではない)。羽田から益田市の石見空港へ飛び、そこからはレンタカーで向かったが、道路は狭く夕暮れ時でもあったので、距離の割には時間がかかった記憶がある。こうして訪問した匹見町で知ったのが「福祉商業」とその取り組みであった。
 同町は林業を主要産業として発展し、最盛期には人口7500人であったが林業の衰退と昭和38年の豪雪(三八豪雪)の結果急速に過疎化が進み、当時は2000人程度で高齢化率も急激に上昇していた。さらに集落は山間部に点在していた。急激な過疎化・高齢化が産業活動はおろか住民の日常生活をすら脅かしていたのである。こうした厳しい状況下で住民生活を維持するためには何をなすべきか、その一つの解答が「福祉商業」であった。
 これまで一般的には商業は私的利益追求の業(=市場原理に基づく商業)として存在していたが、こうした商業活動は過疎地・高齢社会ではもはや成り立たない。そこでは商業を「住民の生命の維持とその再生産を支援し、その自立的生活と社会への統合を助長するために生活用品を提供する社会活動」へと転換を図っていくことが必要であり、それが「福祉商業」である。そこでこれまで別々に行政商工会、商業者、福祉協議会などが行ってきた各種のサービス(生活用品の提供、介護、便利屋、除雪など)を改め、商工会と商業者が中心となってこれらの組織を一体的に運用する地域支援システムを構築しようというのである。
 「福祉商業」は、私は以前から、過疎地だけではなく、例えば「多摩ニュータウン」のような都会でも近い将来に必要となるだろうと主張してきた。そして現実問題となったのである。こうしたシステムづくり=「福祉商業」システムづくりと実行はもちろん簡単ではない。しかし過疎化・高齢化した地域社会において「買い物難民」化しつつある住民の生活を守るためにも、真剣に検討すべきものであろう。
(青森大学学長 末永 洋一)

∆ページの先頭へ

「青森の人」自然や文化よりやはり人

2010/8/22 日曜日

 

 自然や文化もいいが、結局私を青森に長く住まわせたのは人との出会いである。本稿で「青森人の人となりはこうである」と講釈を垂れてもみたいが、あまりに身近過ぎて私自身が正直よく分からない。よって以下に2人の青森の先輩との付き合いを紹介する。
 医師になると学会発表がある。秋田市の学会で「下北地区の胃がん診療の実態」を発表した。30代前半だった。ある先生の質問「下北地区の胃がんの死亡率は?」「発生率は?」。どれも答えられなかった。最後に「そのくらい勉強してから発表してください」とやんわり切り捨てられた。
 電車を待つ間秋田駅で先輩と酒を飲んだ。「あのくらい何とか答えろ」としかられ、「これも勉強だ、中路」と慰められた。しょげかえった私に「飲め」とお銚子の首を担いだ指のごつさが忘れられない。青森の人である。
 私の青森人生における最大の僥(ぎょう)倖(こう)は、入学と同時に入った山内下宿のご家族に会えたことである。爾(じ)来(らい)、ただの一度も寂しさを感じたことはない。
 下宿では月1回誕生会(飲み会)が開かれた。下宿人は10名くらいだが、数人の仲間も外から参加した。そのころカラオケはまだなく、宴会半ばからは常に歌自慢の私の独壇場であった。
 下宿の食事はお世辞抜きでおいしかった。遊びに来た同級生は食事を見て驚いた。調子に乗った私は「お前の下宿の飯はまずいらしいな」と理不尽な振り方をしては反感を買っていた。
 ある日、おじさんから「日曜食事なし」が提案された。年中休みなしの賄いは確かに重労働である。私はこの時ばかりは激しく抗議した。「僕に死ねということです」。「日曜の飯なし」は文無しの私には終日絶食を意味していた。提案を撤回していただけた。
 数年前、下宿の先輩がおじさんとおばさんを招待して東京でパーティーを開いてくれた。私もお供した。
 パーティーまでの時間浅草に繰り出し、雷門のてんぷら屋で酒を飲んだ。いい気分になったおじさんが「さ、もう帰るべ」と言い出したのには驚いた。「いやいや、あの線香の煙を浴びなくては」。短気である。
 昭和52年、豪雨で寺沢川が氾(はん)濫(らん)し茂森の私の友人のアパートは泥水に飲まれた。旅行中の友人に代わって私は後片付けをかって出た。扉を開けると、すべては散乱し、全体が厚い褐色の泥で覆われていた。水道水で部屋を掃除し、主な荷物を北瞑寮まで運んだ。
 その日の夕刻、新寺町を長靴姿、泥だらけで歩いている私がおじさんの目にとまったらしい。「中路君はあんな情けない格好で人前を平気で歩いて、いい人なんだべな」と言われた。褒められたと感じ大いに嬉(うれ)しかった。お調子者の私は、その時の「おだて」を糧に今も生きているような気がする。
(弘前大学大学院教授 中路 重之)

∆ページの先頭へ

「未来志向の日韓関係」人と人との出会いで

2010/8/15 日曜日

 

 8月15日、終戦記念日に本稿は掲載されるはずである。日本で生活する韓国人の一人としては、できれば避けたかった日ではあるが、この日に順番が回ってくるのも運命であり、何らかの使命を感じる。読者の皆さんには申し訳ないが、今回は雇用の話から離れて日韓関係について私見を述べたい。
 私の母方の祖父は、はっきりした事情は分からないが、戦前戦後の混乱の中、まだ幼かった母を残し、日本で暮らすことになった。その後、父親と音信不通になった母の生活は一変し、大変苦しい生活を強いられたそうだ。母はいつも、勉強したかったのに貧しくて勉強を続けることができなかったことが人生で一番の悔いであるという。母にとって最初に出会った日本は、自分の夢を奪った恨(うら)めしい存在であっただろう。
 母が祖父と再会したのは、私が中学生の時だった。新しく家にきた電話が鳴り、物珍しさから私が受話器をとると、受話器の向こうの声が、たどたどしい韓国語で母の名前を呼んだ。電話に出た母は、電話が終わるその時まで、号泣していた。それまで死んだと聞かされていた父親との再会の嬉(うれ)しさとその間の苦しかった生活のすべてが滲(にじ)んだ涙だった。その後も祖父は、日本で生活した。長年慣れ親しんだ生活を変えることは、容易なことではなかったのだろう。
 年老いた祖父を案じて、母は私に日本への留学を勧めた。語学の勉強と祖父の手助けをすることが、私の来日の理由だった。
 日本に行った息子は、新しい人々や学問と出会い、水を得た魚のように伸び伸びと生活した。そして母の人生最大の悔いであった学問を続け、博士の学位をプレゼントした。実家の小さい居間には、博士号が誇らしげに飾られている。息子を通して出会った日本は、母が奪われた夢を叶(かな)えてくれた。
 母は最近、毎年の夏を弘前の我(わ)が家で過ごしている。覚えたての片言の日本語で近所の人と話したり、キムチを作って振る舞ったり、日本人である妻と出かけたり、母なりに楽しく過ごしている。そしてたくさんの人との出会いを通して口癖のように「日本人は本当にいい人ばかりだ」と呟(つぶや)いている。
 70歳になる今も、孫のノートを借りて、日本語を一生懸命書いて、練習している母の姿に、子供のとき勉強できなかった悔しさが垣間見える。しかし今勉強しているのは、家族として出会った孫や、その周りにいる人々と日本語で話すため、という幸せな理由である。
 今、母は新しく出会った日本を楽しんでいる。未来志向の日韓関係は、政治主導ではなく、人と人との出会いで築かれていくことを切に願う。
(弘前大学雇用政策研究センター長 李 永俊)

∆ページの先頭へ

インターネット教育「デジタル時代のフロンティア」

2010/8/9 月曜日

 

 この15年間の情報通信産業の発展には、実に凄(すさ)まじいものがあった。インターネット(以下では「ネット」と略す)、「ケータイ」電話、携帯デジタル音楽プレーヤー、電子書籍など、次々に新たな道具が現れ、この流れは今後も続くだろう。さまざまな問題も生みだしたが、それでもこの流れは続くだろう。この分野は計り知れない可能性をもつからである。好き嫌いにかかわらず、21世紀の住人にとっては、こうしたデジタル技術の進歩に振り回されず、自分なりの「つきあい方」、すなわち自分の必要や領分に合った利用スタイルの確立が肝要になる。
 以下では、ネットに話を限定する。私は弘前に6年半ほど住んでいるが、ホームページを自分で作成できる学生に、まだ会ったことがない。大変残念である。若い世代がこのような状況であるならば、より年配の世代の状況についても、およその察しはつく。けれども青森の地理的・自然的条件を考えれば、ネットは、こうした弱点を補ってくれる不可欠の道具であるように思う。大したお金もかからず、実際に必要なのは、ホームページ等を作成・運営する能力・ノウハウのみである。
 私が言いたいのは、単なるメール、ホームページの閲覧、買い物、テレビ会議のようなネット活用法を越えた、もっと能動的なネット活用法の開拓だ。ネットを能動的に活用する力と情報発信力をもつことは、個人にとっても団体にとっても比較的容易に大きな利益をもたらすはずである。私個人の狭い経験でさえ、その具体的内容を書くことは控えるが、能動的に得た諸(もろ)々(もろ)の利益は、私生活でも仕事でも極めて大きかった。能動的ネット利用者にとって、その「利益」(目的)は、ビジネス、人脈づくり、日本中に散らばった同好の士の組織化、あるいはこれらを組み合わせるなど実に多様であり、文字通り「アイデア次第」である。
 ところで、デジタル技術の急速な進歩の中で10年先を見据えるならば、古いアナログ時代の家庭教育や学校教育の常識も、なるほど一部の面では大きく変わらざるをえないだろう。だが根本的な面での人間教育では、決してそれに左右されてはならぬ。技術は人間のための道具である。技術のために人間が振り回されたり、苦労したりするのは、多少はやむをえないが、本末転倒である。冒頭で私が、自分なりの(デジタル技術との)「つきあい方」を確立せよと述べたのも、こうした防御的意味においてである。今日のような大衆社会では何事もそうだが、自主独立の精神をもって判断できる度胸が大切になる。皆が使うからといって、「自分も使わねば」と焦るのでは情けない。むしろ人間を輝かせるために、それを吟味し、それから飛び込んでゆくべきだ。先手必勝である。
  (弘前学院大学講師 本郷 亮)

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5

当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード
  • 日本新聞協会 新聞のススメ
  • 日本新聞協会 HAPPY NEWS 2010