里の自然学(竹内健悟)

 

岩木川の保全意識を=16

2009/12/21 月曜日

 

下流域全景。蛇行する途中に芦野頭首工、左に下車力地区の広大なヨシ原、奥の方に十三湖が見える
岩木川の源流が発する白神山地の青森・秋田県境にある雁森岳付近

 今回から3月の最終回まで、岩木川にまつわる人と自然の営みについて述べる。
 岩木川と関(かか)わるようになったのは、1998年に国土交通省の河川環境保全モニターの委嘱を受けてからである。以来、定期的に岩木川を見回ったり、国土交通省の環境調査や会議に参加したりと、岩木川についていろいろと学ぶことができた。また、2002年からは下流部のヨシ原に棲(す)むオオセッカの生態、地域社会のヨシ原利用等について調査を行っており、特にここ4年は「河川生態学術研究」に参加してヨシの生態研究を進めているので、その成果もあわせてお伝えしたい。
 岩木川は幹(かん)川(せん)流(りゅう)路(ろ)延(えん)長(ちょう)が約102キロメートル、水系河川が117本あり、流域に津軽平野全域を含む県内最大の河川である。源は白神山地の雁(がん)森(もん)岳(だけ)(987m)付近に発し、源流部は大川と呼ばれているが、暗(あん)門(もん)川(がわ)と合流してから「岩木川」となる。白神山地から流れてきているのになぜ「岩木川」と呼ばれるのか興味があったが、これは江戸時代に源流が岩木山にあるとされていたのが由来ということで、そのころには岩木山麓(ろく)より上流の部分は目屋川と
呼ばれていたとのことである。
 岩木川は岩木山の南を回って弘前市のあたりから北上し奥羽山脈から流れてくる浅瀬石川、平川、十川と合流、さらに岩木山を水源とする後(うしろ)長(なが)根(ね)川(がわ)や大(だい)蜂(ばち)川(がわ)、津軽山地から流れる金木川等とも合流し、最後には十三湖へと注いでいる。十三湖には岩木川と並行して流れる山田川等も注いでおり、津軽平野を流れる水の終着点となっている。
 岩木川の大きな特徴として、河口部がヨシ原であることを挙げたい。大きな河川ともなれば、たいていは最後に都市部を流れて海へ出るのであるが、岩木川は自然の状態、それも水質浄化の働きがあり、多くの生きものの生活を支える貴重な自然として注目されるヨシ原で川の最後を終えているのである。
 岩木川は「津軽の母なる川」と呼ばれ、津軽平野の人々の生活や産業を古くから支え続けてきた。しかし、水害も多かったため、多大な犠牲と労苦、数々の治水工事の歴史も持っている。津軽人にとってかけがえのない岩木川であるが、実は近年、東北の河川の中で水質ワースト1になったことが何度かある。
 NPO法人岩木山自然学校(高田敏幸代表)が開いた「岩木川子ども自然体験学習会」で、カヌーで川を下りながら清掃活動をしたところ、ビニール袋やペットボトル、ビン、プラスチック容器、ボール類等、家庭から出るようなごみがずいぶん集まったことがあった。また、春に下流部のヨシ原を歩くと川岸より数メートル陸側にごみが帯状に並んでいるのに出くわすことがある。これは融雪による増水時の水際であり、その時期に運ばれてきたごみが置き去りにされたものである。ここでも、目にするごみは同様である。
 これらから感じたのは、津軽平野に捨てられたごみは雨水の流れにのって川へと入り、最終的に岩木川や十三湖へ流れ着くのではないかということである。水質の悪化には利水状況や産業に起因するものもあるだろうが、まず私たちが日常的にできることとして、足もとにごみを捨てないことを実践したいものだ。この小さな行いの積み重ねが上流から下流への繋(つな)がりを通して、岩木川や十三湖をきれいにすることに結びつくのである。上流に住む私たちは、下流のすばらしい自然と繋がっていることを意識しなければならない。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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3川合流する藤崎町=17

2010/1/11 月曜日

 

鷹待場があったと推定される一帯。平川と岩木川の合流点は「水辺の学習広場」になっている。手前は三世寺の集落
藤崎町教育委員会が所蔵する古地図には、タカを捕獲した鳥屋の位置と持ち主の名前が書かれている

 岩木川は藤崎町付近で浅瀬石川、平川と合流する。このあたりは三川合流部と呼ばれ、川床勾(こう)配(ばい)が280分の1(280メートルで高さが1メートル高さが下がることを表す)から700分の1と緩やかになり、上流から中流へと変化する場所である。
 水運が盛んだった藩政時代には、藤崎や三世寺には米の集荷や出荷をする「御蔵」があったという。その他にも、上流からは木材、下流からは藩に献上する「御(ご)用(よう)萱(がや)」(萱(かや)はヨシのこと)などを積んだ舟が往来した交通の要衝であり、水運が衰えて陸路の羽州街道に変わっていく時にあっても、両者が交差する場所としての重要性は変わらなかったという。
 そのように岩木川と深くかかわり続けた藤崎には、もう一つ特筆すべき歴史として、津軽藩を代表する「鷹(たか)待(まち)場(ば)」があったことが挙げられる。鷹待場とはタカを捕らえていた場所のことである。藩内には、時代によって変化はあるものの、鷹待場が60から100カ所ほどあったようであるが、藤崎周辺の「まないた(真那板)」、「ねんじゃう(念常)」という地域がとりわけ重要な場所であった。捕まえていた種類はオオタカが多く、ほかにハイタカ、ツミ、ハヤブサが挙げられている。捕らえたタカは鷹狩用に養われ、将軍家に献上されており、藩の外交を支える重要な役目を担っていた。古くは豊臣秀吉や徳川家康にも献上されたとのことで、津軽のタカは優秀なタカとして高い評価を受けていたということである。鷹狩りでは、サギやカモ、小鳥類を捕っていたというが、自分よりも大きなサギにも襲いかかっていたというのには驚かされる。
 藤崎町が所蔵するいくつかの古地図には、この鷹待場が描かれている。鷹待場の地名としては北側に「念常袋」・「念常林」、南側に「真名板」・「真那板淵」と書かれている。「袋」とは川の合流点であり、「真那板」という地名は現存していることから、この鷹待ち場は、岩木川と平川が合流して大きく蛇行するあたり、現在の「水辺の学習広場」周辺だったと思われる。
 写真は、古地図の鷹待場の中から特にタカを捕獲していた場所の一部を大きく写したものである。円形の赤い場所がタカを捕獲していた「鳥(と)屋(や)」の位置であり、それぞれに持ち主とその所属する地名が見える。鳥屋はわらで作られたいわばブラインドで、近くに鶏をつなぎ、タカが襲った瞬間にひもを引いて網をかぶせて捕獲したという。地図では鳥屋の真ん中に三日月の形が見える。以前、藤崎町文化センターで野鳥について講演し、この鷹待ち場の話をしたところ、終了後に「三日月形のくぼみがリンゴ園のなかにある」と教えていただいた。機会があれば訪ねてみて、鳥屋の位置を特定してみたいものである。
 タカは食物連鎖の頂点に立つ猛(もう)禽(きん)である。津軽平野にはオオタカ、ハイタカ、ノスリ、チゴハヤブサ、チョウゲンボウ等の猛禽が生息している。しかし、平地では農地開発が進み、自然の林の中で繁殖することがほとんどなくなった。中には、フクロウのようにリンゴ園に営巣して人と共存している種類もいるが、多くは農地に隣接した河畔林、社寺林などで営巣している。オオタカはレッドリストに記載され、自然を守る運動の象徴ともなる存在である。岩木川付近でオオタカを見かけると、かつて将軍家に献上されたタカの子孫なのではないか、そして、この優れたタカの一族が絶えないように健全な農村生態系が維持されていってほしい、と思うのである。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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よみがえったヨシ原=18

2010/1/25 月曜日

 

岩木川河口付近。十三湖岸に曲線を描く堤防が囲繞堤。堤防外の河川敷はヨシ原。堤防と囲繞堤に囲まれた内側は水田となった
ヨシ原の火入れをすると水田だった時のあぜの跡が姿を現すことがある

 岩木川の下流から十三湖のあたりを地形図で見ると、川岸や湖岸がきれいな曲線や直線になっていることに驚かされる。これは、自然の地形ではなく、人によって造られた土地の形である。人の手が入る前の姿を知るために、1914年(大正3年)に測図した古い地図を見ると地形は全く異なっており、特に河口部は扇状に広がって先端がでこぼこな形で十三湖に面したデルタ地帯になっている。この一帯は、幾筋もの細い川が巡る広大な湿地帯・ヨシ原だったのである。おそらく、ここは津軽藩の新田開発から取り残された、津軽平野の原始の姿を最後まで留めていた場所といえるのかもしれない。
 では、今見ることができるヨシ原は、太古からずっと続いてきたものなのだろうか。歴史関係の本と国土交通省の資料、地元での聞き取りからヨシ原の歴史を探ってみた。
 結論からいうと、下流部のヨシ原は、自然の状態から人の手が加わっていったん水田となり、それが放置されて再びヨシ原に戻ったことが分かった。しかも、ヨシ原が再生したのはそれほど古いことではない。
 この大きな環境の変化には岩木川下流域の開発、治水工事が大きくかかわっている。岩木川下流部一帯は、金木新田開発の中でも比較的遅めに開かれており、集落が成立したのは17世紀中ごろである。水田は岩木川の岸辺まで広がっていたが、この一帯の水田は腰まで泥に埋まって作業をするような条件の悪い「腰(こし)切(きり)田(だ)」といわれるものであった。また、十三湖の水戸口が土砂の堆(たい)積(せき)によって閉(へい)塞(そく)して起こる洪水や、融雪期の増水、海水の逆流による水害が発生した。江戸時代には廃村も出たこの地に、治水・干拓事業が始まったのは大正の末で、以下のような3種類の大工事が行われた。
 まずは岩木川両岸の堤防工事である。これは、川沿いの長泥集落が現在の若宮地区等へ移転することから始まった。堤防の建設中に当たる1939年(昭和14年)測図の地形図を見ると、岩木川右岸では川岸から三百メートルほど東側に堤防が築かれている。この地図では川沿いの水田はそのまま残っているので、工事中の堤防は水田を分断するように立っていたといえる。堤防工事は場所によって竣(しゅん)工(こう)の時期が違うが、1949年(昭和24年)には大体終了している。
 二つ目は、十三湖の水戸口突堤の建設である。1947年(昭和22年)に完成した突堤によって水戸口の閉塞はなくなった。南北2本の突堤の長さと角度の絶妙さは当時の技術者の金字塔であり、その功績と努力は今なお語り続けられている。
 三つ目は、河口付近の十三湖岸の囲(い)繞(にょう)堤(てい)工事である。これは十三湖岸に堤防を巡らし、デルタ地帯を干拓するというもので、完成したのは1961年(昭和36年)である。
 これらの工事によって、広大な湿地・デルタ地帯は水田へと変わった。また、堤防の完成によって河川敷に閉じこめられた水田は放置されてヨシ原へと変わっていった。つまり、湿地帯は水田に、川沿いの水田はヨシ原へと逆転していったのである。
 今、私たちが目にしているヨシ原は、このようにして水田から再生したヨシ原である。ただし、場所によって成立時期には多少の違いがあり、多くは50年ほど前であるが、一部には30年ほど前や20年ほど前に成立した所もある。しかし、下車力地区だけは古くからずっとヨシ原のままで、今なお最も良質のヨシが育つ場所となっている。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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資源利用したヨシ原=19

2010/2/15 月曜日

 

刈り取ったヨシをまとめた「かやにお」。中里町の冬の葦原は「農林水産業に関連する文化的景観100選」に選ばれている
ヨシの刈り取り作業。刈り取ったヨシは決められた太さに束ねられる。ヨシは長さや太さによって分別され、用途が分かれる

 ヨシは、湿地を代表する植物である。「アシ」とも言われるが、「悪(あ)し」に通じるとしてこの呼び方は避けられることもある。津軽地方ではヨシのことを「カヤ」「アシガヤ」と呼んでいる。ただし、「カヤ」は地域によってはススキを指す場合もある。
 ヨシは、水深50センチほどの水中から陸上まで生育でき、海岸や河口のような塩分が混じる場所でも自生するなど適応範囲が広い。また、春に芽を出したヨシは、夏の終わりには3メートル近くにまで生長する。刈っても刈っても毎年大きく生長するヨシは、自然資源として古くから利用されてきた。用途としては萱(かや)葺(ぶ)き屋根、葦(よし)簀(ず)、土壁、暗(あん)渠(きょ)、家や庭木の防風防雪の囲い、魚類捕獲のわななどさまざまあり、津軽地方ではリンゴの授粉をするマメコバチの巣という新たな用途も出てきている。ちなみに、琵琶湖方面では室内で使用される工芸品の材料になるヨシが最も品質が良いとされている。
 中泊町の岩木川沿いの旧武田村に属していた集落では、昔からヨシを採取、利用してきた。ヨシ採取は、生業というよりは稲作の収入を補う副業的な位置づけであるが、集落にとっても重要な収入源であった。そのため、ヨシ原は共有財産としての規範に基づいた利用がなされており、ここに自然とかかわる地域社会のしくみを見ることができる。例えば、採取できる場所は入(いり)会(あい)的に各集落ごとに決められている。採取期間も、河川敷の所有・管理者である国土交通省(以前は建設省)に申請を出し、11月中旬から4月中旬までに採取する許可を取る。
 ヨシの刈り取りは集落をあげて行う共同作業として大規模に行われた。一戸一人は必ず参加で、出られないときには代わりの人を出すというきまりもあった。共有地として意識され、勝手に利用して収入を得ることはできなかったのである。ただし、自家用に刈り取ることは認められていたし、現在はなくなったが、個人の収入にできる唯一の機会として海(の)苔(り)簀(ず)用のヨシ刈りが夏に行われていたという。
 岩木川のヨシは主に屋根用に使われた。地域のまとめ役を務めた人の話では、「弘前以北の家はほとんどがカヤ屋根だったため、早く申し込まないと次の年まで待つことになるほどヨシの供給が追いつかなかった」という。そのため、この時代には1本も残らないほど刈り取っていたという。このようなヨシ刈りが盛んだった1950年代には、刈り場を奪い合って流血事件・裁判にまで発展した「アシガヤ紛争」が起こっている。
 しかし、60年代から事情は変わった。屋根がトタンに代わってヨシの需要は減少し、さらにヨシよりも収入の良い副業も出現した。このような需要と労力の減少によって、ヨシ採取の形態は集落ごとの全戸参加の共同作業から業者委託へと転換していった。この変化は、ヨシ刈りが盛んな北上川河口域でも同様であった。業者は機械による大規模な刈り取りを行う。しかし、ヨシの需要は減少したままで、それに中国産の安価なヨシが追い打ちをかけている。そのため、河川敷には刈り残しのヨシが出るようになり、古い枯れヨシを除去するために春先に火入れが行われるようになった。
 今私たちが見ることができるヨシ原は、完全な野生というのではなく、刈り取りや火入れという人の手が入った自然として成り立っている。人からの働きかけがある「半栽培」という関係にあるヨシ原である。その一方で、ヨシ原は貴重な鳥類の生息地にもなっている。そのような価値・機能もあわせて考える必要がある。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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オオセッカ繁殖支える=20

2010/3/1 月曜日

 

仏沼湿原と岩木川のヨシ原はオオセッカの大繁殖地である。つまり、青森県がこの種の存続を支えているといってもよい
2002年と2003年の最大個体数時の分布。右が上流で左が下流・河口部。中央が津軽大橋。区画は200メートルごと。赤い点がオオセッカのさえずり位置

 岩木川のヨシ原には、オオジュリン、コジュリン、チュウヒなどの草原性鳥類の希少種が生息している。また、晩夏にはツバメの大群の塒(ねぐら)として、渡りの季節には鳥たちの通り道や休息場所として利用される。そんな中でも、このヨシ原を環境保全上とりわけ重要なものにしているのは、絶滅危惧(きぐ)種オオセッカの繁殖である。
 1936年以来観察例がなく「幻の鳥」といわれるようになったオオセッカは、72年に西津軽郡の屏風山地区で繁殖が確認されて注目された。続いて73年に秋田県八郎潟、75年に岩木川下流部と高瀬川、80年に仏沼湿原、84年には利根川で繁殖が確認され
ていった。しかし、屏風山や八郎潟では環境の変化によって生息地が消滅し、今では大規模な繁殖地である仏沼湿原、岩木川下流部、利根川に分布がほぼ限定されてしまった。
 八郎潟や仏沼湿原での研究によると、オオセッカが営巣場所として選択するのは、ヨシがまばらで、高さも2メートルを超えない程度で地表にスゲ等の下草が繁茂するような植生とされている。オオセッカは、下草の中に隠れるような巣を造る。ヨシ原が方々にあるのにオオセッカが見つからないのは、このような特別な植生がないからといえる。
 八郎潟では、77年にオオセッカの繁殖が最高の122羽に達し、80年には国指定鳥獣保護区特別保護地区の指定を受けた。しかし、厳重な保護策によって人の手を入れることができなくなった結果、ヨシが密生したりウマスギゴケが地表を覆ったりして植生が変化し、92年には繁殖地が消失した。それに対して、30年も繁殖地として続いている仏沼湿原と岩木川下流部は、同じ植生を維持し続けているといえる。この両者に共通しているのは、火入れや刈り取りというヨシ原の遷移を防ぐ作業が行われていることである。思えば、希少鳥類の繁殖は人為攪乱(かくらん)がもたらした偶然の産物・幸運といえるのかもしれない。
 仏沼では産業としてのヨシ原利用はなく、火入れは干拓地の農地化に必要な排水路にヨシの枯死体が入るのを防ぐために行われていた。その結果、鳥類の繁殖に適した湿地が維持されるようになり、ついにはラムサール条約登録に至った。今では、火入れには繁殖地維持の意味が付加され、管理体制も整って計画的に行われるようになっている。
 岩木川下流部では200~300羽ほどのオオセッカが生息していると推定される。図は、02年と03年のオオセッカ調査から、個体数が最大時の分布状況を表したものである。色は火入れによるヨシの焼失の割合を4段階に分けて表したもので、ピンク色が最も焼かれた区画である。これによると、02年と03年では火入れ場所が異なり、それによってオオセッカの分布も異なっていること、つまり火入れが分布に影響していることがわかる。2週間ごとの追跡の結果、両年ともオオセッカは春には焼け残ったヨシ群落で繁殖を始め、ヨシの生長につれて焼かれた区画にも分布を広げていったことがわかった。
 刈り取りや火入れは、長期的に見るとヨシ原の維持に有効なのであるが、短期的に見ると焼き過ぎは鳥類の生息地を奪うことになるので、そのバランスを考慮して計画的に実施することが大切である。当初心配したのは人の手の入り過ぎであったが、最近では逆に刈り取り範囲の縮小や火入れが行われなくなってきたことによる植生の変化が心配される。オオセッカの絶滅を防ぐためには、利用と保全が両立するヨシ原維持の在り方を考えることと、屏風山や田(たっ)光(ぴ)沼(ぬま)等の繁殖地を回復させて個体群の分散を図ることが必要である。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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