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弘前市から見た白神山地世界遺産核心地域の向白神岳周辺の山並み |
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1986年の大山の集落 |
本連載の冒頭で、遠い自然の例として白神山地の名を挙げたが、今から4回、人との関(かか)わりという観点から白神山地について述べる。実は、白神山地とは約20年にわたっていろいろな立場から関わってきた。まずは、白神山地の恵みを受ける山里の住人として、次いで鳥類の調査員、保護運動の一員、世界遺産地域懇話会委員、最後は「白神山地ビジターセンター」職員といった具合である。とにかく、地元でさえ知る人の少なかった山地が国際レベルで注目されることになった20年の変化は激しく、学ぶべき多くの出来事が詰まっている。
1983年、青(せい)秋(しゅう)林道建設から白神山地を守る運動が青森、秋田両県でスタートした。当初は、野鳥に興味を持つ者として、クマゲラやシノリガモが棲(す)む貴重な自然環境を守ろうという認識しかなかった。運動が広がりだした85年4月、深浦町立明(めい)道(どう)小学校松原分校(児童10名ほどの4級僻(へき)地(ち)校(こう)。現在は廃校)に勤務することになった。深浦町松原地区は通称「大(お)山(やま)」と呼ばれ、地元ではこちらの名の方が通りがよい。追良瀬川の河口から6キロ上流の集落で、家は約25軒、約100名の人が住んでいる。大山より奥は深い山になるため道も途絶えている。ここは古くからの行き止まりの集落である。集落の入り口となる狭い道の左にそびえる岩山には、津軽第9番札所の見(み)入(いり)山(やま)観音が祀(まつ)られている。
3年間の大山の暮らしで最も楽しんだのは、自然と密着した食の文化であった。春からシノベ(ギシギシ)、カタクリ、コゴミ(クサソテツ)、フキ、ワサビ、ウド、ボンナ(ヨブスマソウ)、シドケ(モミジガサ)、ミズ(ウワバミソウ)等(など)の山菜、タケノコ、キノコ等が次々と食卓にのぼる。人々は山に入っては自家用に旬の食材を採ってきた。白神山地の西の端に位置するこの山(さん)塊(かい)は、自然資源の宝庫なのである。川の恵みも豊富であった。ヤマメ、イワナ、アメマス、カジカをはじめ、特にこの川のアユは赤石川の「金(きん)鮎(あゆ)」と並んで「銀鮎」と呼ばれることもあった。さらに、夏に採った自然の恵みを冬用にとっておく塩漬けや飯(いい)寿(ず)司(し)、糠(ぬか)漬けなどの保存食が発達していることもここの食文化の特徴でもある。それはこの地が長い間交通の便が悪い行き止まりの里であったために工夫されたものであろう。
そんな大山も、時々サルの食害に悩まされるようになっていた。いつごろからとかははっきりしないが、奥山の木が伐(き)られてからサルが出るようになったという話はよく聞いた。自然破壊の影響が形となって現れ始めたのである。
そして次には、追良瀬川の上流で林道工事が始まるという。工事を止め、なんとしても白神の森を守らねばならない。当時の私は、白神山地の生き物のこと、クマゲラを守るためにはクマゲラが棲める森を丸ごと残すことが大事だなどとは考えていたが、それ以上の保護の理由を持ち合わせてはいなかった。その時に目を覚まさせてくれたのが、追良瀬川内水面漁協の組合長でサケ・マス孵(ふ)化(か)事業を展開していた黒滝喜久雄さんであった。
黒滝さんは、上流の山林の破壊によって川に土砂が流れ込むほか、川の水量が不安定になること、川の自然が破壊されること、そして地元の大事な産業となったサケ・マス孵化事業や、付近の海の漁業までもが影響を受けることを主張した。自然破壊が生活の破壊につながるというのだ。これは白神山地を守る必然性の本質をついていると感じた。
(環境社会学会会員・竹内健悟)