里の自然学(竹内健悟)

 

白神山地に暮らして=11

2009/9/28 月曜日

 

弘前市から見た白神山地世界遺産核心地域の向白神岳周辺の山並み
1986年の大山の集落

 本連載の冒頭で、遠い自然の例として白神山地の名を挙げたが、今から4回、人との関(かか)わりという観点から白神山地について述べる。実は、白神山地とは約20年にわたっていろいろな立場から関わってきた。まずは、白神山地の恵みを受ける山里の住人として、次いで鳥類の調査員、保護運動の一員、世界遺産地域懇話会委員、最後は「白神山地ビジターセンター」職員といった具合である。とにかく、地元でさえ知る人の少なかった山地が国際レベルで注目されることになった20年の変化は激しく、学ぶべき多くの出来事が詰まっている。
 1983年、青(せい)秋(しゅう)林道建設から白神山地を守る運動が青森、秋田両県でスタートした。当初は、野鳥に興味を持つ者として、クマゲラやシノリガモが棲(す)む貴重な自然環境を守ろうという認識しかなかった。運動が広がりだした85年4月、深浦町立明(めい)道(どう)小学校松原分校(児童10名ほどの4級僻(へき)地(ち)校(こう)。現在は廃校)に勤務することになった。深浦町松原地区は通称「大(お)山(やま)」と呼ばれ、地元ではこちらの名の方が通りがよい。追良瀬川の河口から6キロ上流の集落で、家は約25軒、約100名の人が住んでいる。大山より奥は深い山になるため道も途絶えている。ここは古くからの行き止まりの集落である。集落の入り口となる狭い道の左にそびえる岩山には、津軽第9番札所の見(み)入(いり)山(やま)観音が祀(まつ)られている。
 3年間の大山の暮らしで最も楽しんだのは、自然と密着した食の文化であった。春からシノベ(ギシギシ)、カタクリ、コゴミ(クサソテツ)、フキ、ワサビ、ウド、ボンナ(ヨブスマソウ)、シドケ(モミジガサ)、ミズ(ウワバミソウ)等(など)の山菜、タケノコ、キノコ等が次々と食卓にのぼる。人々は山に入っては自家用に旬の食材を採ってきた。白神山地の西の端に位置するこの山(さん)塊(かい)は、自然資源の宝庫なのである。川の恵みも豊富であった。ヤマメ、イワナ、アメマス、カジカをはじめ、特にこの川のアユは赤石川の「金(きん)鮎(あゆ)」と並んで「銀鮎」と呼ばれることもあった。さらに、夏に採った自然の恵みを冬用にとっておく塩漬けや飯(いい)寿(ず)司(し)、糠(ぬか)漬けなどの保存食が発達していることもここの食文化の特徴でもある。それはこの地が長い間交通の便が悪い行き止まりの里であったために工夫されたものであろう。
 そんな大山も、時々サルの食害に悩まされるようになっていた。いつごろからとかははっきりしないが、奥山の木が伐(き)られてからサルが出るようになったという話はよく聞いた。自然破壊の影響が形となって現れ始めたのである。
 そして次には、追良瀬川の上流で林道工事が始まるという。工事を止め、なんとしても白神の森を守らねばならない。当時の私は、白神山地の生き物のこと、クマゲラを守るためにはクマゲラが棲める森を丸ごと残すことが大事だなどとは考えていたが、それ以上の保護の理由を持ち合わせてはいなかった。その時に目を覚まさせてくれたのが、追良瀬川内水面漁協の組合長でサケ・マス孵(ふ)化(か)事業を展開していた黒滝喜久雄さんであった。
 黒滝さんは、上流の山林の破壊によって川に土砂が流れ込むほか、川の水量が不安定になること、川の自然が破壊されること、そして地元の大事な産業となったサケ・マス孵化事業や、付近の海の漁業までもが影響を受けることを主張した。自然破壊が生活の破壊につながるというのだ。これは白神山地を守る必然性の本質をついていると感じた。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

∆ページの先頭へ

白神保護で認識広がる=12

2009/10/12 月曜日

 

紅葉の時期にはブナの森の中にあるスギの植林地が目立つ。これらはブナを伐採した跡である
川から海に流れ出る土。写真は日航機から写した熊野川の河口部

 自然保護運動は、地元の悲願を名目に進められる開発を、「よそ者」が生態系保護などを理由に反対するという構図で進行する形が多かった。青(せい)秋(しゅう)林道建設反対運動も当初はそのような動きだったといえる。しかし、途中からは林道建設による自然破壊で生活が脅かされることを知った地元山村住民の反対が大きなうねりとなり、流れを変えた。特にその脅威にさらされていたのは、赤石川流域の人々だった。
 1987年、秋田県から青森県境まで進んだ林道建設工事は、「水(すい)源(げん)涵(かん)養(よう)保(ほ)安(あん)林(りん)」になっているブナの森を伐採するため、その保安林指定の解除を行う必要が生じた。この森は赤石川の源流であり、今では世界遺産の核心地域となったブナの森である。青秋林道はその森を横断するルートとして計画されていたのである。この保安林指定解除に対して一万三千通を超す異議意見書が提出され、工事は凍結、白神のブナの森が守られる流れができあがった。
 白神山地の保護運動では、地元赤石川流域の人々の力が決定力となった。赤石川流域では、伐採に起因する洪水で1945年春に大(おお)然(じかり)集落が壊滅した記憶もあり、水を守るため、生活を守るために運動が展開された。地元が反対するというこの構図は、自然保護運動の形を塗り替えたといってもよい。しかし、白神山地は全国的にはほぼ無名に近く、反対する地元民といっても人口的には少数で、圧倒的に不利な条件下での闘いであったことは確かである。この運動をリードし拡大させていったのは根深誠さん、村田孝嗣さん、菊池幸夫さんら「青秋林道に反対する連絡協議会」の人たちで、伐採の危機が迫った頃には赤石川流域の集落で連日のように説明会を行っていた。私も出席して反対署名の用紙をもらい、西海岸の集落や漁協等で署名を集めては弘前に届けるという形で微力ながら応援をした。しかし、ある漁協では「森と海のつながりが理解できない」といわれて署名を拒否されたこともあった。
 今でこそ「森は緑のダム」とか「森は海の恋人」という言葉は誰もが知るところとなり、漁業者が海を守るために植林を行うことも珍しくなくなったが、白神山地を守る運動が展開されていた当時は、このような自然の仕組みはあまり知られていなかったのである。そして、ブナの森を守る運動が全国的に拡大するに連れて、「森・川・海のつながり」は認識されていったのである。
 また、自然の破壊が地域の人々の生活の破壊に結びつくという主張は、裏を返せば「人々が恵みを享受できる自然こそが優れた生態系」ということになり、今では「生態系サービス」という概念に当てはめることができるようになった。「生態系サービス」とは、『国連ミレニアムエコシステム評価』の中で述べられている「人間が生態系から享受する便益」のことで、食糧、水、木材等を供給するサービス、気候や水等を調整するサービス、レクリエーションや精神的充足感を与えるなどの文化的サービス、土壌形成や栄養塩循環のような基盤サービスが挙げられている。
 こうしてみると、今では当たり前のように思われている自然の価値や大切さが、この保護運動の時代に次々と認識され、整理され、現在の理論の基礎を固めていったといえそうである。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

∆ページの先頭へ

白神保護で多様な考え=13

2009/10/26 月曜日

 

シノリガモの繁殖を確認した1988年の追良瀬川源流の調査風景。源流部に道はなく危険が伴う
暗門のブナ林散策道。ここでは炭焼き跡や古い切り株など、人と森の関わりを感じさせるものに出合える

 1990年6月、「青秋林道に反対する連絡協議会」は目的を果たしたとして解散会を開き、その時の講演の中で沼田真先生(当時の日本自然保護協会会長)が「白神山地を世界遺産に推薦する」ことを述べられた。これが「世界遺産」という言葉が初めて登場した瞬間だった。白神山地は、90年に林野庁の「森林生態系保護地域」に、92年には環境庁の「自然環境保全地域」に、そして93年に我が国初の世界自然遺産に屋久島とともに登録されることとなった。とはいっても、遺産地域は最深部の約1万7000ヘクタールである。しかし、この世界遺産登録が思いもよらぬ混乱を生むことになった。「入山規制」をめぐる対立である。
 この問題は、世界遺産管理計画の運用において核心地域への入山をどのように扱うかをめぐる「入山は規制すべき」という考えと「自由入山でよい」という考えとの対立で、その決着の場となったのが「白神山地世界遺産地域懇話会」(白神山地世界遺産地域連絡会議主催)である。会議は96年から97年にかけて4回行われ、結果的には世界遺産地域へは28の指定ルートに限り、営林署に届け出を義務づけて入山という態様とし、2年後には見直しを行うというものであった。この入山規制問題が勃発してからというもの、ともに白神を守った人々が入山の是非を巡って分裂し、マスコミもその対立をあおるような報道をしたことで議論は深まるどころか、対立と混乱を深めることになった。
 規制派は、ヒューマンインパクトから自然を守るために遺産地域への入山の規制は必要、自然体験は周辺部で行えばよいと主張した。秋田県では、青森県に先立って行った会議で「入山禁止」を決定していた。これは自然の保護(conservation)の段階としては最も強力な「保存」(preservation)に該当する措置といえる。対して規制反対派は、核心地域は登山道もなく沢登り等の高度な登山技術を持った人でないと入山できないので、入山者は自(おの)ずと限定されるから規制は不要、また、保護運動の意味や山村住民の慣習からしても人と自然との関(かか)わりを断つべきではないと主張した。
 この懇話会ではもっぱら自然に負荷がかかるおそれが語られ、客観的・具体的な根拠が示されなかった。この会議が公論形成・合意形成の場となるためには、議論の本質となる入山や利用の実態、白神山地周辺住民による山の利用状況、登山と観光を区別して動向や予測を提示するとともに、周辺地域住民の代表も委員として席に加えることなどが必要ではなかったかと考えている。その後、約束された2年後の見直しは行われなかったが、許可制は2003年に届け出制に移行した。しかし、白神山地ビジターセンターに勤務していた折には「白神山地には入山できるのですか」という問いをたびたび受けた。また、この折に生じた人々の対立はいまだに解消していない。この時の混乱はいまだに尾を引き続けているのである。
 ただ、この議論によって「白神山地には人が昔から関わっていたこと」が認識されたのは成果で、それまで「手つかずの原生林」となりがちだった表現が「原生的なブナの森」と改められていくなどの変化が見られた。また、白神を愛する思いは同じでも保護のための様(さま)々(ざま)な考えがあり、それを交流しあって人と自然との関わりはどうあるべきかを一から考え直すきっかけになったことは確かで、今後の糧としていかねばならない。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

∆ページの先頭へ

白神山地の多様な環境=14

2009/11/16 月曜日

 

津軽峠のマザーツリー。右はデッキと歩道が整備された景観。踏圧からは守られるようになったが、「白神らしさ」は失われた
白神山地は地すべり地帯として知られる生きている山である

 昨年、牧田肇先生(弘前大学名誉教授)と共著で発表した論文「教材としての白神山地」(『地球環境』13 国際環境研究協会)の中で、「固有性と普遍性」「複雑さと単純さ」「非日常性と日常性」など、白神山地の特徴を表すキーワードをいくつか示した。
 白神山地は、ユネスコ世界自然遺産の四つのカテゴリーでは「原生度の高い生態系」の項目に該当している。イヌワシやクマゲラ、アオモリマンテマやツガルミセバヤなどの希少種や固有種が見られる生態系が評価されていることはいうまでもない。しかし、ブナの森そのものは1950年代までは東北地方に普通に広く分布していたもので、今ではまとまって残った最大の森という意味での貴重さをもつことになった。また、白神山地はブナの森というイメージが強いが、崖(がけ)や渓谷、地すべりでできあがった山腹部や湿地、高山植物が見られる尾根など実に多様な環境によって形成されている。
 人を寄せつけない非日常的な奥山と、日常的な里山としての両面を持っていることも大きな特徴である。中でも、周辺部の住民が持つ「原生的な森を守り持続的に利用する伝統」は大切で、この文化を支えるのは「自然から授かる」という畏敬の念である。現在、白神山地には山菜やタケノコ、キノコ採りのために多くの人が訪れる。しかし、都市部から自動車で来る山菜採りは、伝統的文化とは異なる弘西林道開設以降の習慣ではないだろうか。毎年、遭難防止の呼びかけが行われているが、マナーの悪さも指摘されるため、環境保全・心がけの面も併せて指導してほしいものだと思う。一方、2004年の国指定鳥獣保護区の設置では、マタギの活動が制限されることが指摘された。生活や文化と関(かか)わる山の利用と保全については、いま一度整理し直してみる必要があるのではないだろうか。
 多くの人に白神の自然に接してもらうことと自然環境を保全することとのバランスは最大の課題である。最近は入山者によるブナを傷つけた行為などが報道されているが、世界遺産地域周辺部で行われている観光化のための工事も必要最小限にとどめてほしいと思っている。歩道などの整備は、観光客の踏圧による荒れを防ぐとともに、安全に自然体験できる効果があるが、反面どこにでもある公園的な景観になって「白神らしさ」を失わせている印象がある。少人数で時間をかけ、不便ながらも人が自然に合わせて出かけるやり方が元々(もともと)この地で行われてきたスタイルであり、これを「白神型自然体験」として提唱しようという主張もしばしばされてきた。
 そんな中、周辺部のブナが伐採された場所では、ブナの森を再生させる植樹活動が数年前から行われるようになってきた。成果が出るのは百年も先のことになるのかもしれないが、これは未来へ向けた新たな活動であり、ここでも先駆けとなったのは保護運動をリードしてきた人たちである。
 アメリカの国立公園を訪ねると、管理・研究・保護・教育が一元化されたシステムで行われていることに感心する。白神山地のこれまでの経緯からすると、「官」のみならず、地域や民間の関係者も含めて知恵を集め、モニタリングに基づく順応的管理を進めてほしいと思う。白神山地は、保護運動時代に「一周遅れの最先端」といわれれることがあった。それは、開発されずに残ったことの価値を意味している。この「一周遅れ」こそ誇りとして、未来においても変わらぬ白神山地であってほしいと願っている。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

∆ページの先頭へ

保護と善意は不一致=15

2009/11/30 月曜日

 

筆者が勤務する浪岡北小学校でも毎年ハクセキレイの若鳥が巣立っている
メタボガモ出現により、エサやりの自粛を求めた上野公園のチラシ

 ハクセキレイという鳥がいる。この鳥はもともとは北海道で繁殖していたが、1950年代に本州北部の海岸部へ、70年代には関東地方へ、そして80年代になると中部地方や内陸部まで分布を拡げ、今では都市に棲む鳥として定着した。弘前市内でも建造物に営巣しているのがよくみられるが、自動車のボンネットや公園の遊具などに巣をかけることが時々ある。そんなとき、子育てをじっと見守り、巣立つまでの間自動車や遊具の使用を控えたという話題が報道されることがある。それは確かに生きものへの思いやりではあるが、美談や善意として受け止めるだけでよいのだろうか。このような場面に出くわしたらどう対処したらよいのだろうか。
 日本鳥学会で都市鳥についてシンポジウムを開いたことがあり、この話題がでたときには、「巣を早めに壊し、ここに巣をかけてはいけないことを鳥に教えなければいけない」という意見が出た。それは、親鳥も巣立った雛(ひな)も同じ場所を営巣場所として再び利用する可能性をもっているからである。人間の側も、初めの年はものめずらしさやかわいいという心情から繁殖期間の我慢ができるかもしれないが、毎年鳥のために使用を制限されるようになったらたまったものではない。短期的にとらえると善行といえるが、長期的に見ると人間と鳥との軋(あつ)轢(れき)を生むことになりかねない。そのため、産卵前の早い時期に巣を除去し、人間と鳥との間に一線を引くことがお互いのためになると考えられる。
 5月上旬のバードウイークには巣箱をかける活動が毎年紹介されているが、これについても留意点がある。森に棲(す)む鳥には上が開いたお椀(わん)のような巣を造る種類、出口が側面にある巣を造る種類、木の洞を利用する種類などがあるが、巣箱を利用するのは洞に営巣する種類を中心とした20種ほどに限られる。巣箱の穴の直径によって種類はさらに限られる。巣箱の設置による森の鳥類群集への影響を調べた研究では、樹洞営巣性鳥類の繁殖密度が高まって鳥類群集の種構成が変化したり、巣箱を巡って種間競争が発生したという報告がある。巣箱の設置にあたっては、事前事後の変化をチェックすることが必要である。
 冬に行われる水鳥への餌付けも、場所によっては是非が論じられてきた。餌付けは希少種の保護の手段として、また鳥類とふれあう活動として行われている。しかし、ハクチョウを見たら餌をあげようという単純な発想のもとに行われている感も否めない。餌付けについては、野性を失わせる、水鳥が集まるために糞(ふん)によって川や沼の水質が悪化したり、病気が発生した場合に一気にまん延するなど疑問視する指摘が以前からあった。そしてついには「メタボガモ」の出現による餌付け自粛まで出るに至った。昨年は鳥インフルエンザのために各地で餌付けが自粛され、さながら餌付けを止めたらどうなるかという大きな実験のようになった。報道によると県内のハクチョウの飛来は4分の3に減少したが、自然の餌がある場所では増えていたという。おいらせ町の間木堤では、ハクチョウの餌となるマコモを植栽した人工浮島の設置が始まった。宮城県の伊豆沼周辺でもマコモの植栽が行われている。自然環境を整備して餌場を確保する試みは注目したいところである。いずれにしても、「保護」とは人間の善意や情熱や愛護の心と必ずしも一致しないところが難しい。そのため、事前事後のモニタリングに基づいて計画し、必要によっては活動を修正していく「順応的管理」を理念とすることが大切になる。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

∆ページの先頭へ

Page: 1 2 3 4 5