里の自然学(竹内健悟)

 

渡り鳥の「国際空港」=6

2009/6/29 月曜日

 

野鳥観察の場となったざるため池
2002年、渇水状態になった狄ケ館ため池

 私がため池と関(かか)わりを持つことになったのは、浪岡のざるため池の保全活動が最初であった。1998年、女鹿沢小学校に勤務していた私は、野外活動部の子供たちと銀地区にあるざるため池で野鳥観察を行っていた。そこではオオバンやヨシゴイ、カワセミをはじめ、秋には900羽のゴイサギの飛び立ちなどを観察していたのであるが、そのため池にごみが捨てられ、埋めたてが始まって環境が一変した。危機を感じた子供たちは、野鳥の棲(す)み場所を守ろうと休日に自主的にごみ拾いをしたり、役場に質問の手紙を出したりした。その結果、地域の人や関係者の理解を得ることができて、埋め立ては規模が縮小され、野鳥観察ができる公園として水鳥の生息に配慮した整備がなされた。この子供たちの活動は「心がホッとする話」(学研)に収録されている。
 次に関わりを持つことになったのは、森田にある狄(えぞ)ケ(が)館(たて)ため池である。このため池はカンムリカイツブリなどが繁殖するほか、多くの水鳥が飛来する渡りの中継地として知られている。ここでは、1992年から2003年まで「老(ろう)朽(きゅう)ため池整備事業」による浚(しゅん)渫(せつ)工事が行われたが、その際、担当者の努力によって、画期的とも言える環境配慮型の工事が行われた。具体的には、工事の時期を鳥の繁殖や渡り期を避けた冬季に行う、移行帯を含む水際20メートルには手をかけない、長期間にわたって一部ずつ工事を進める、貯水域に島状の陸地を残す、音の静かな重機を使用する等の配慮がなされ、その甲斐あって水鳥の利用には影響が見られなかった。
 ところが、2002年5月、この池が渇水状態になる事態が発生した。狄ケ館ため池は、上流に小(こ)戸(ど)六(ろく)ため池と新小戸六ダムとが隣接していて、この二者から流れた水を貯める仕組みになっている。しかし、この年はダムでの融雪水の貯水量が少ない上に、その水が小戸六ため池に貯留されて狄ケ館ため池に供給されなかったのである。農業用水としては、池の底に溝を掘って水をポンプでくみ出したり、番水制を行うなどして対応。また、ダムでは放流を停止して貯水し、その水を狄ケ館ため池に供給して6月末にようやく水位を回復することができた。
 この間、水鳥はすべて姿を消し、水が戻った6月末になってカイツブリ類やカルガモ、オシドリ、オオバン、アオサギ等が飛来した。しかし、この年の水鳥の繁殖は大幅に遅れ、雛が確認されたのはカイツブリが8月2日、カンムリカイツブリが8月20日で、オオバンは繁殖しなかった。例年通りの水位を維持した翌年はカンムリカイツブリの雛は一月半早い7月3日に確認されている。この渇水は狄ケ館ため池の水管理と水利秩序に関する人為的要因によって引き起こされたものと言えるが、水鳥が遅れながらも繁殖することができたのは、すぐ近くに緊急避難できるため池があったからである。つまり、いくつかのため池がネットワークとなることで生きものの危機を救うことができたのである。
 これをより大きなスケールで考えると、池沼が点在することは多くの渡り鳥に中継地を提供することになる。アメリカで入手した水鳥の事典には「渡りの回廊」(MIGRATION CORRIDOR)という言葉が出ていた。津軽平野を南北に連なる池沼群はまさに渡りの回廊であり、多くの鳥たちの休息場となる国際空港である。ため池は、本来人造の農業施設であるが、今や水辺の生きものの重要なハビタットであり、その価値は国境を越えたものにまでなっている。今後は、人の利用と生きものの利用を対立的にとらえるのではなく、両方のメリットを生かして共存を図ることが大切である。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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安住求め流浪する集団=7

2009/7/13 月曜日

 

岩木川と旧十川合流部のコロニーのヤナギ林(1997年撮影)
繁殖直前のゴイサギの群れ(金木)

 夜の空をしわがれた声でグワッグワッと鳴きながら飛ぶ鳥がいる。ゴイサギである。その名は醍醐天皇から五位の位を授けられた故事に由来する。夜(よ)烏(がらす)と言われることもあり、時代劇の夜の場面では効果音としてよく使われている。この鳥は夜行性であることと集団で繁殖することが特徴である。サギと言っても首が短い体形で、幼鳥は褐色、成鳥になると青い羽と白い冠羽、赤い目という美しい色彩を持つ。
 津軽の水田地帯では個体数が多いのでごく普通に見ることができ、ドジョウやカエルなどを好むことから、ゴイサギが多いことはそれだけ水田地帯に餌となる水生動物が多いということになる。天然記念物に指定されていた「猿賀神社のサギとウの繁殖地」の消滅をはじめ、同じような鳥類が全国的な規模で減少した要因として農薬の使用があげられているが、現在これだけ個体数が増えたことは、生きものがくらせる水辺環境が再生したとみてよいだろう。
 津軽平野におけるゴイサギの分布は、北部と南部の二群に大別することができる。北部は巨大な集団を作り、南部は小・中規模のいくつかの集団が方々に出現しているのが特徴である。
 北部では、1970年代から金木の喜(き)良(ら)市(いち)、小(お)田(だ)川(がわ)地区で500羽ほどの集団繁殖が観察されている。そのコロニーは83年には消滅するのであるが、それと入れ替わるように80年代初めに岩木川・旧(きゅう)十(と)川(がわ)合流部に300羽を超すコロニーができている。84年から3年間、このコロニーの巣を調査したところ、84年には278巣、85年には626巣、そして86年には1290巣を数えることができた。85年から86年にかけては巣が倍近くに増えていて、巣の密集地域も川の北岸から南岸へと移動していた。この大集団による繁殖はしばらく続き、99年春には実に2586羽の飛びたちを確認できた。
 津軽南部では、藤崎の平川ぞいに1300羽あまりのコロニーが見られたことがあったが、90年代に入ると弘前公園にコロニーが出現。しかし、公園への害が心配されて追い出されている。続いて、東北自動車道黒石インター付近の林にコロニーが誕生したが、そこでも自動車事故防止のために営巣木を伐(き)られて放棄している。他にも常盤の神社の林、弘前市大清水の線路沿いの林、平賀町内の屋敷林、弘前市高田地区の大型店舗付近の林などに、コロニーや塒(ねぐら)を構えたが、短期間で姿を消している。ただ、藤崎の平川の河畔林だけは、中規模の集団が場所を変えながらもかろうじて存続しているようだ。このように、南部のゴイサギたちは、北部の集団に比べて安住の地を得られずに放浪しているかのようである。
 ゴイサギは、雛(ひな)が生まれると給餌のために昼夜を通して活動するようになり、コロニーはにぎやかになる。そして雛が成長していくにつれ、鳴き交わしもひっきりなしになり、一日中騒々しくなる。加えて、魚食性であるせいか、糞(ふん)が強烈な臭(にお)いを放つ。この騒々しさと悪臭は、人家周辺にコロニーを構えられたらたまったものではない。それもあって、人間の居住地域にコロニーを構える南部の集団は、追い出しなどの人為的要因によって不安定な繁殖状況にあると言える。しかし、安定した巨大集団と思われていた北部のコロニーも2002年には大移動をすることになる。その原因は外来植物の繁茂であった。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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ゴイサギ繁殖地守れ=8

2009/7/27 月曜日

 

アレチウリの蔓に覆われたヤナギの木に集まるゴイサギ
アレチウリに覆われた高木。中に巣が見える

 2001年夏、岩木川・旧十川合流点のヤナギ林で20年近く続いたゴイサギの集団繁殖地は、存続の危機に直面していた。原因はアレチウリという外来植物の繁茂である。
 アレチウリは北米原産の一年生草本で、1952年に輸入大豆に混入して静岡県清水港から我が国に入ったといわれている。ウリ科に属する蔓(つる)植物で、生長が早く、一夏で全長10メートルを超すものもあるという。他の植物にからみついて生長し、蔓と葉が密生するため、アレチウリに覆われた植物は光が当たらずに枯(こ)死(し)してしまう。時には、高木をも覆い尽くして枯死させてしまうこともある。
 アレチウリが繁茂した河川敷は、巨大な緑の布をかぶせたような景観になり、植物環境が一変してしまう。影響はそれだけではない。もともとあった植物に依存して生息していた生きものたちの棲(す)み場所を奪うことにもなる。
 この外来種の脅威を止めるために、各地で多くの市民が行動している。長野県では生態系を守るために県が主体となってアレチウリ駆除を行っているほか、新潟県でも希少種となった蝶「ミヤマシジミ」の食草コマツナギの群落を守るために100名以上の市民が駆除作業に参加している。駆除の方法としては蔓を引き抜くことが有効であるが、蔓も実もトゲだらけなので、引き抜くのは容易ではない。それも数年続けないと完全な撲滅は難しい。
 そんなアレチウリが、岩木川のゴイサギ繁殖地に侵入し、ヤナギとその上にかけられていた巣をすっぽりと覆ってしまった。この状態では、ゴイサギが営巣ができないばかりか、冬には絡み合って幕状に拡(ひろ)がった蔓への積雪の重さで木が倒れ、ヤナギ林そのものが崩壊することが予想された。そして、ゴイサギの集団がこの場所を放棄し、どこかへ移動することになった場合、2000羽近いゴイサギを受け入れる広い面積の林が他にあるのだろうか。もしもゴイサギが人家周辺の林にコロニーを構えた場合には、津軽南部の群れのように、騒音と悪臭で人に嫌われ、追い出されるのではないかと思われた。そのような軋(あつ)轢(れき)は避けなければいけないし、そのためには何とかこのコロニーを存続させたいと思った。
 そこで、岩木川河川環境保全モニターを委嘱されていた関係で、国土交通省青森河川国道事務所の課長にアレチウリ対策を相談。その結果、広く呼びかけをしてアレチウリ除去作業を行うことになった。実施に当たっては、ゴイサギをはじめとする魚食性鳥類や魚類、水辺環境の研究を進めている弘前大学農学生命科学部の佐原先生と東先生に指導をお願いした。
 そして、01年12月。積雪でヤナギが倒れるのを防ぐための蔓の除去作業を行った。続いて、02年4月末、ゴイサギが営巣できるように、ヤナギに絡みついた蔓を取り払う第2回目の作業を行った。この作業には、国土交通省青森河川工事事務所、同五所川原出張所、青森県河川砂防課、弘前大学農学生命科学部と教育学部の院生と学生、青森大学大学院環境科学研究科の院生、五所川原農林高校自然科学部、岩木川と地域づくりを考える会、弘前環境パートナーシップ、岩木山自然学校、高校の生物教員、環境アセス業者等、総勢100名を超す参加があった。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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営巣地を守る人の手=9

2009/8/10 月曜日

 

前年までの数年分の枯れたつるを除去。ほんの一部にすぎない
五所川原市三好橋付近の新コロニー

 2002年4月末に行った作業は、ヤナギを覆うアレチウリの蔓(つる)を除去し、ゴイサギが営巣できる木を1本でも多く取り戻すことが目的であった。
 作業の日、コロニーには早めに渡ってきたゴイサギが300羽ほど見られた。この群れに刺激を与えてはいけないと考え、当日はコロニー全域ではなく南岸の一部、作業時間も午前の3時間程度にとどめて終わった。しかし、5月になると、ゴイサギはこの場所を放棄し、五所川原市の三好橋付近の林に新たなコロニーを構えた。
 そんな結果に対して、弘前市のある自然保護団体の会長は会報の中で「ゴイサギ集団営巣地は誤った人の手が加わったことで崩壊」と批判した。しかし、私たちは誤りだとは考えていない。その理由としては、作業時にいたゴイサギは繁殖群2000羽の一部の300羽程度だったこと、手入れをした時間と場所を限定したこと、そして何より、作業終了後もこの林が塒(ねぐら)として利用されていたことが挙げられる。
 また、仮にアレチウリの侵入がなかったとしても、ゴイサギのコロニー放棄は時間の問題だった可能性もある。このヤナギ林は、長年コロニーとして利用されたために勢いを失っており、さらに、隣接するヨシ原で毎年行われる火入れによって少しずつ縮小していたのである。要は、ヤナギ林は衰退していて、アレチウリはゴイサギのコロニー放棄を早める決定的要因となったと考えられた。そのため、今回の結果からは、「手をさしのべたが手遅れであった」とみるのが妥当であろう。それでも「誤り」というのであれば、アレチウリの侵入を早くから知りながら行動しなかったその会長自身の「不作為」も含めて「誤り」というべきである。外来種の侵入という人為的要因による自然の危機は、人の手によって排除するべきものである。
 いずれにしても、この一件は重要な課題を提示した。
 まずは、人の計画通りにいかない「自然の不確実性」である。そして、その不確実性を受け入れるためには、代償となるだけの容量の自然が必要ということだ。事実、ゴイサギが次のコロニーとして選んだ三好橋付近の林はなかなか立派なもので、人の居住区に入らずにすんだことも幸いであった。また、「共存」とは「同居」と同義ではなく、人との「棲み分け」によって成り立つ場合もあることも改めて認識させられた。
 次には、岩木川の自然を守るために集まった「人」である。今回の作業には、100名以上の人が「環境の担い手」として参加した。自然との関わりはそれぞれ異なるはずだが、さまざまな立場の人が集結できたのは、ふるさとの自然を未来へ受け継ぐ明るい材料である。官民学の連携も大きな成果だった。
 国土交通省青森河川国道事務所は、その後もアレチウリの調査を行い、岩木川水系では平川の上流まで分布していることが明らかになった。下流部だけで駆除を行っても種子が上流から供給されるので、撲滅させるためには流域全体で行わなければ難しいといえる。その後、アレチウリの勢いは次第に衰えてきている。しかし、ゴイサギの新コロニーの林も既に衰退しつ
つあり、目を離せない状態であることには変わりはない。このような「不確実性」をもつ自然ゆえに、多くの人の
力で見守っていきたいものだ。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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姿を消したオオセッカ=10

2009/9/14 月曜日

 

オオセッカ発見地の湿地は開発で失われた(2004年10月撮影)
中泊町の休耕田に出現したミズアオイ群落

 1972年、屏風山の平滝沼の南の湿原で、幻の鳥と言われていたオオセッカの営巣が確認された。オオセッカの繁殖はこれをきっかけに数カ所で発見されていくことになる。
 屏風山を上空から撮った写真をご覧いただきたい。右上は平滝沼、左下はベンセ沼である。オオセッカの繁殖が発見されたのはその中間の湿原であるが、今では人の手が入って失われてしまっている。沼の岸も直線的で、工事の跡がそのままである。屏風山一帯は72年から、国営事業による畑地化が進み、大きく姿を変えていったのである。
 その後、屏風山におけるオオセッカの主な繁殖地となったのはベンセ湿原である。湿原に立つ看板には、今でもオオセッカが描かれているが、オオセッカが姿を消してからもう久しく、筆者の知るところでは、92年が最後の記録ではないかと思われる。ベンセ湿原は、今ではニッコウキスゲやノハナショウブの群落で有名になったが、そのための草刈りや木道整備が行われたのが92年以降である。また、68年、84年の植生図と現在の植生の様子を比較すると、ヨシがススキへ変わり、さらにササが分布を広げていることが確認できた。どうも、乾燥化が進んでいるようで、オオセッカの繁殖には不向きな環境へと変化しているようである。同様の傾向は北部のコケヤチ湿原でも進行しており、砂丘湖と湿原が点在する貴重な自然は減少の一途で、回復できるかどうかが心配されている。
 もう一枚の写真は、昨年の8月に写したもので、岩木川下流の横にあった休耕田に広がるミズアオイの群落である。ミズアオイは環境省のレッドリスト2000年版では絶滅危惧種2類、2007年版では準絶滅危惧(きぐ)種に指定されている。この場所は、7月には珍鳥セイタカシギ1羽が餌をついばんでいる水たまりであったが、8月にはご覧の通りの美しい花畑となった。
 私がミズアオイという植物を知ったのは、渡良瀬遊水地の環境教育の報告がきっかけであった。茨城・群馬・栃木・埼玉の4県にまたがる渡良瀬遊水地の周辺の小学校では、東大農学部の指導によって、遊水地の土を利用したビオトープ造りが行われた。その結果、古(こ)河(が)市立古河第七小学校では絶滅危惧種のミズアオイの花が開いたことで関心が一気に高まり、ミズアオイは学校のシンボルになったばかりか、上流の足尾山と下流の渡良瀬遊水地を結びつける緑化活動へと盛り上がり、ついには環境大臣賞を受賞するに至った。古河第七小学校のビオトープでは54種類の植物が出現したとのことで、渡良瀬遊水地の昔の自然が見事によみがえったのである。ミズアオイは40年ほどの眠りから覚めて開花したというのだから、まるでタイムカプセルのようである。
 中泊町でミズアオイを見たのとほぼ同じ頃(ころ)、弘前市でも数カ所でミズアオイが開花したことが新聞で報道された。これらも、長い年月発芽を待ち続けていた埋土種子だとすれば、私たちの足下には「土地の記憶」が封じ込められて眠っているということができる。古河市ではビオトープ造成によって眠りから覚めたが、津軽地方では何かのきっかけで昔の自然がひょっこり顔を出すことがこれからもあるのかもしれない。壊れていく自然と、回復を待つ自然。自然を知るためには、その土地の来歴、昔の姿を探り出すことも必要な作業なのである。
(環境社会学会会員・竹内健悟)

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