弘前ねぷた300年祭 じゃわめぐ夏へ

 

2022/7/26 火曜日

 

 文献登場からの節目を記念して今夏を中心に展開される「弘前ねぷた300年祭」。3年ぶりの弘前ねぷたまつり開幕を控え、連綿と紡がれてきた伝統の一端と、ねぷた文化のこれからについて、全5回で紹介する。

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祭りの成り立ちと発展=1

 

「弥ふた」「祢むた」の記述が認められる弘前藩庁「御国日記」(弘前市立弘前図書館蔵)
現在の弘前ねぷたまつり(写真は2018年)

 ねぷたの由来は、農繁期の夏に睡魔を追い払うため各地で習俗となっていた「眠り流し」が発展したものというのが定説。弘前ねぷたの歴史をひもとけば、そのルーツは元禄末期(1700年ごろ)に弘前城下へ移住した、京都など上方の織物職人たちの風習にあるとみられる。上方には盆の時期に灯籠を掲げる習慣があり、弘前での眠り流しにもこれを転用。その風習が徐々に町内に広まり、ねぷたにつながったとされる。この祭礼は時の藩主の目に留まるまでに発展し、1722(享保7)年には弘前5代藩主・津軽信寿が高覧したとの記録が弘前藩庁「御国日記」7月6日の頁に残る。ここに「祢ふた」「祢むた」の表記が確認でき、文献に初めてねぷたが登場。それから300年を経て、祭りは今も弘前の街をにぎわせている。
 弘前藩士の比良野貞彦により1788(天明8)年に著された「奥民図彙」では「子ムタ祭之図」として当時の祭りの様子が描かれており、「七夕祭」「投石無用」などと書かれた箱型やかめ型の灯籠が見受けられる。そこから約80年、幕末の文久年間(1861~1864年)には画家・国学者の平尾魯仙が「津軽風俗絵巻」でねぷた運行の様子を描写。主役格の灯籠は大型で豪華絢爛(けんらん)、緻密な人形灯籠に取って代わっており、祭りが大きく発展したことが見て取れる。絵巻で描かれた人形灯籠は現在にまで残る組ねぷたの原型とされ、明治期に入って現在の形が成立。並行して維新期の動乱などを原因として逼迫(ひっぱく)していた当時の財政事情を背景に、比較的安価で制作できる扇ねぷたが発明された。
 祭りに現在のような合同運行が取り入れられたのは大正時代に入ってからだが、その目的に「ねぷた喧嘩(けんか)」の防止があった。喧嘩は江戸時代の運行から祭りの付き物で、投石や乱闘などのトラブルが絶えず、時には死者も出した。警察が取り締まりを厳重化した昭和期前半まで根強く残ったが、第2次世界大戦による中断を挟み、戦後に復活した祭りにはねぷた喧嘩の面影はなく、その後、年々観客が増え続けて活況を見せていく。
 1956年には現在と同じ8月1~7日を会期に定め、翌57年に祭りの名称を「弘前ねぷたまつり」とした。さらには79年に祭りの人出が100万人を突破、翌80年には弘前ねぷたが国重要無形民俗文化財に指定された。ねぷたは弘前の人々だけのものにとどまらず、観光資源としての地位も確立するに至った。

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