語り継ぐ 戦後76年

 

2021/8/14 土曜日

 

 太平洋戦争が終わった1945年8月15日から、今年で76年。戦争を知る世代の高齢化や減少が課題となる中、その記憶をいかに語り継いでいくかを考える。

 

 

 

 

 

 

 

∆ページの先頭へ

田舎館村遺族会事務局長・鈴木さん

 

「戦争の悲惨さ、平和の大切さを実感を込めて伝えなければならない」と話す鈴木さん

 戦争を体験した世代の高齢化で、その記憶をどのように後の世代に受け継いでいくか。太平洋戦争から76年を経た日本に重くのしかかる課題だ。田舎館村遺族会事務局長を務める鈴木泰春さん(67)は、祖父母や両親が会員だったことを縁に活動を引き継いでいる。「私たちの世代は戦争を体験していないが、戦争の爪痕や暗い雰囲気が残る時代に生まれた。あの悲惨さを次世代に伝えることができる最後の世代だと思う」と記憶を受け継ぐことの意義を語る。
 鈴木さんは1953年、旧光田寺村で生まれた。戦争について意識するようになったのは、たびたび家を訪れていた父・泰次さんの戦友という男性の話を聞いたことが大きい。戦時中の話のほか、泰次さんが旧日本軍の特務機関に所属し、フィリピンやベトナムなどでさまざまな活動をしていたと聞いた。
 「戦争の話は祖母か父の戦友から聞くことが多かった。父は戦争のことについて一切語らない人だった」と振り返る。一度、興味本位に戦時中の父の仕事について尋ねたことがあったが、これまで見たこともない形相で怒られ、戦友の男性にも「子どもに何を教えているんだ」などと怒鳴ったという。その一件以降、戦争に関わる話を聞くことはなかった。「家族には厳しい人だった。なぜ何も話そうとしなかったのか、あんなに苛烈に怒ったのか。今となっては知るすべもない」
 父の戦友は、戦争の話をすると最後に必ず「人が人を殺す残酷なことは、もう二度と起きてはならない。悲しみしか残らない」と言い聞かすように繰り返していたという。祖母・ミナさんも終戦の日が近づき、マスコミが話題に取り上げるこの時期になると、よく戦争のことを話してくれた。
 特に記憶に残るのは青森空襲のこと。「(祖母は)『大釈迦の山が真っ赤になり、遠いはずの人の叫び声がまるで耳元で聞こえていた』とよく話していた。想像するだけで恐ろしく、近くでそんな悲惨なことがあったのだと思わせられた」と記憶をたどる。
 戦争体験者からの話だけでなく、鈴木さん自身も子どものころ、戦争で負傷した傷病兵を見ることがあり、悲惨な戦争がすぐ身近にあったこと、戦争が起きれば人はこれだけ傷つくのだと感じていた。「終戦してすぐに平和があったわけでない。戦後のあの暗い時代を話せるのは私たちの世代までだ」
 遺族会として戦争の悲惨さを伝える必要があると感じる一方、会員が減る現状に頭を悩ませる。他の遺族会では青年部などを立ち上げて活動する動きもあるというが、「戦争や戦後(混乱期)の空気を知らないと、ピンとこないことや実感を持って伝えられない部分があるのでは」と話し、混乱期に触れ、じかに体験者から話を聞いた鈴木さんたちの世代が記憶をつなぐことの大切さを訴える。
 「人が少なくなっていくのは避けられないことだが、戦争のことや平和の大切さを後世に伝えるためにどうすればいいか、一人ひとりが考えないといけない時代だと思う。遺族会も一歩踏み込んだ活動をしていく必要がある」と鈴木さん。「あと10年たてば語る人もいなくなるだろう」。その表情は厳しい。

∆ページの先頭へ

浪岡遺族会(青森)会長・西村さん

2021/8/15 日曜日

 

モンゴルへの遺骨収集に参加した時の資料を眺める西村さん。「父のように死者だけを生む戦争は絶対にあってはならない」と訴える

 「終わりが来なかった終戦の日」。浪岡遺族会(青森市)の会長を務める西村千代治さん(77)の父・福太郎さんは1945年8月15日に戦争のくびきから解放されることはなかった。ほとんど資料が残っていない福太郎さんのことで分かっているのは、同じ年の12月にモンゴルの収容所で病死したことだけ。西村さんの手元には遺髪だけが残る。政府主催の戦没者遺骨収集にも参加した西村さんは、遠い異国の地で無念の死を遂げた父や仲間の日本兵に涙し「戦争は絶対にあってはならない」と平和を強く訴える。
 旧南津軽郡大杉村出身の農家だった福太郎さん。西村さんによると福太郎さんの資料はほとんど残っておらず「(軍隊で)どのような役割を務めていたのか、誕生日も分からず、分かっているのは1945年12月10日にモンゴルの収容所で病死したということくらいだけで、戻ってきたのも遺髪だけ」だという。
 福太郎さんの次男として生まれた西村さんは、父親について「出征当時はまだ赤ん坊だったので、顔もほとんど覚えてない」と話すが「いつも明るく元気で、信頼も厚かったと周りから聞いている。出征当時もきっと、お国のために命を懸けて頑張ってくるという気持ちで向かったのではないかと思う」と想像を巡らす。
 遺族会として活動を続けていく中、西村さんは2006年に政府主催の戦没者遺骨収集に参加し、モンゴルの地を踏んだ。「父を見つけられるかも」と期待して現地へ向かったが、数人の遺骨を発見したものの、残念ながら福太郎さんの遺骨が見つかることはなかった。
 「父の足跡をたどれたことはとても感慨深かったが、過酷で厳しい環境の中、祖国や家族のことを思いながらこの地で永遠の眠りについた父や他の日本兵の方々の無念さを思うと、いつまでも涙が止まらなかった…」
 当時を振り返る西村さんは「シベリア抑留を知っている人は多いと思うが、モンゴルでも抑留されていた日本人がいたことを知っている人は少ないと思うので、ぜひ知ってもらいたい」と呼び掛ける。
 16日に浪岡八幡宮で開かれる浪岡戦没者慰霊祭に西村さんは出席する。「浪岡でも560人余りの戦没者がいるが、戦後から76年が経過し、会員減少に伴い参列者も徐々に減っている。当時を証言したり、子どもたちへ語り継いだりする人たちが少なくなってきている。孫の世代だけになってしまうと遺族会としての活動は難しくなるのではないか」と危機感を示す。
 「戦争は死者だけを生む。今も世界で紛争などが起きている地域があり、罪もない子どもたちの命が大勢失われている。当たり前だが、戦争は絶対に起こしてはならないということを国民一人一人が強く思うことが一番大事」。西村さんは言葉に力を込めた。

∆ページの先頭へ

青森空襲を記録する会の平井さん

2021/8/17 火曜日

 

青森空襲を描いた版画を手に「記憶を風化させずに残していかなければ」と訴える平井さん

 太平洋戦争末期、米軍の爆撃機B-29が新型焼夷(しょうい)弾を青森市に投下し、1000人を超える死者や市街地の約9割に当たる1万8000戸以上の家屋焼失など、東北地方最大の被害が出たとされる1945年7月28日の青森空襲。悪夢のような夜を生き延びた同市の平井潤治さん(85)は当時の様子を多色刷り版画で表現し、惨禍を伝える一助になればと映画「いとみち」の撮影に協力した。「ぼうぜんと自分の家が燃えるのを見ているしかないんだ。あってはならないものですよ、戦争は」。体験談を語るだけでは伝え切れない思いを彫刻刀に込め、記憶を次代へ継承する方法を模索している。
 戦局が悪化していた45年7月14日、小学3年だった平井さんは、現在の青森市堤町1丁目から高田へと疎開した。同日と翌15日は青函連絡船が米軍の空襲で全12隻沈没という身近な場所での被害も出始め、市内から多くのお年寄りや子どもが疎開していったという。
 ところが当時の金井元彦知事は、空襲時の消火活動などを義務付けた「防空法」を根拠として、郊外へ避難した人々に対し「断乎(だんこ)たる処置をとる」との声明を発表。これを受けて市は、28日までに帰宅しなければ住民台帳から氏名を削除して配給を差し止める-としたことから、多くの市民が自宅へ戻ることを余儀なくされた。
 平井さんは帰宅したその日の夜に空襲に遭った。食料の干飯(ほしい)、大豆、いわしだしを学生服のポケットに入れ、防空頭巾とランドセルをそばに置いて寝ていたところ「逃げろ!」という声で起こされた。警戒警報に続き空襲警報が発令され、サイレンが鳴り響く中、母親、二つ年上の姉と一緒に町会の防空壕へと駆け込む。やがてB-29が上空へ飛んで来て、数え切れないほどの焼夷弾を落としていった。
 街が燃え始めると、隣組の組長が「すぐに線路を越えて田んぼに逃げろ!」と防空壕から出してくれた。東北本線が通っていた浦町駅(現在の平和公園)近くの線路を渡ろうと約2メートルの高台をよじ登り、振り返ると「すでに街一帯が火の海となっていた」。焼夷弾が傘を開いたように散らばり、ヒューという高い音に続いてドカン、ドカンと着弾する爆音が絶え間なく響く。「自分たちは飛行機を撃ち落とせるわけでも、消火できるわけでもない。どうにも手を出せず、ぼうぜんとするしかなかった」
 その光景を思い返して制作したのが、映画「いとみち」で登場した多色刷り版画だ。所属する青森空襲を記録する会を通じて依頼を受けたもので、劇中では主人公らが青森空襲について学ぶという原作にない映画オリジナルの場面で使用された。「戦後生まれ、特に若い人たちに空襲があったことを伝えていかなければならないし、次に伝えていこうとする若い人たちも出てきてほしい」。撮影に協力したのはそういった思いからだった。
 空襲体験者が亡くなったり、高齢化で話ができなくなったりと、記憶が風化してしまうことへの危機感が常にあるという。今回の経験をきっかけに、空襲の様子を描いた版画の紙芝居を制作する構想も生まれたという。「青森市はもう復興してしまったが、当時の市民がどれほど苦労したのか知ってもらいたい。悲惨な空襲は今後もあってはならないことだし、戦争をしないでほしいという一言に尽きる」。長年趣味で続けてきた版画を生かして、新たな語り部の形として次代へ継承するつもりだ。

∆ページの先頭へ

満州から引き揚げ 100歳の斎藤さん(弘前)

2021/8/19 木曜日

 

満州に移り住んだ後の斎藤さん一家の写真。共に逃避行した健四さん(左上)、斎藤さん(右)、孝ちゃん(右下)、宏子ちゃん(左下)と、引き揚げ後の妙子さん(右上)
「戦争は駄目」と語る愛子さん(中央)、厚さん(右)、笑子さん。孫たちに体験談を語ってきた

 1945年8月10日、弘前市から満州に渡っていた斎藤愛子さんの逃避行が始まった。現在同市に住み、今年100歳を迎えた斎藤さんは、毎年この日が来ると「あんなつらい体験は誰にもしてほしくない」と家族や孫にその体験を伝え続けてきた。
 当時、斎藤さんは、南満州鉄道に勤めていた夫の健四さん、長女の宏子ちゃん、長男の孝ちゃんと朝鮮半島北部の町・羅津にある社宅に住んでおり、10日後の20日には出産を控えていた。
 10日昼、帰宅した健四さんから「すぐ出掛けられるように支度をせ」と言われ、その日のうちに家を出た。一緒に逃げる人たちに遅れまいと、斎藤さんは孝ちゃんをおんぶし、前には炊き立てのご飯が入った鍋をぶら下げた。健四さんは荷物を背負い宏子ちゃんの手を引いた。1日30~40キロを歩き、夜は野宿した。足は象のように膨れ、靴に入らないほどになった。道中、敵の飛行機がたびたび低空で機銃掃射し、弱って歩けなくなった子どもが置き去りにされていた。「戦争は悲しい、非道なものだ」(斎藤さん)。
 12日、身重の体で子どもたちを連れていた一家は、一緒に逃げている人たちから「本当にご苦労さまでした」と生きているうちに決別の香典をもらい、自力で逃げることを余儀なくされた。
 斎藤さん一家は逃げ惑う中で、何とか朝鮮人が運転するトラックに乗り会寧の駅を目指したが、途中で健四さんと離れ離れになってしまう。駅では避難民を乗せる汽車が出ており、汽車に乗る前に健四さんを見つけようと、道端に座り込んで待ったが、会うことはかなわなかった。
 斎藤さんと子どもたちは誘導されるまま、汽車に乗り、飛行機の音が聞こえると汽車から飛び降り、飛行機が去るとまた乗り込んだ。前日に発車した汽車は爆撃され、ほとんどの人が死亡。車内で亡くなった人たちは窓から落とされ、飢えに苦しむ心細い日が続いた。16日昼すぎ、日本が負けたことを知った。
 家を出て10日がたつころ、斎藤さんは汽車の中で奇跡的に健四さんと再会した。ほっとしたのもつかの間、出産予定日を迎えていた斎藤さんは無蓋車で、もんぺの中に赤ん坊を産み落とした。とっさに上着の袖のほつれた赤い糸をへそに結び付け、非常袋から取り出したさびたはさみでへその緒を切った。
 「なんとかなるものよ」と斎藤さん。土砂降りの雨が産湯代わりとなり、すれ違う車窓から産着やおむつを貸してもらい、「人がいっぱいいたので、助けない人も助ける人もいる」と、きのうのことのように語る。
 行き着いた撫順の小学校ではソ連兵におびえ、戦争が終わっても行き場のない恐怖は続いた。孝ちゃんは亡くなり、宏子ちゃんも麻疹で命を落とした。
 逃避行開始から1年以上がたった引き揚げの日、斎藤さんは無蓋車で生まれた妙子ちゃんを大事に背負い、骨箱を二つ抱いていた。健四さんは軍服に戦闘帽、手縫いのリュック姿。おしめ、着替えが数枚、わずかなお金と水筒1個が全財産だった。船で舞鶴に到着し、列車で秋田を通るころ、見知らぬ人に、シソの実のみそ漬けが入った大きなおにぎりをもらった。斎藤さんは「気持ちある人もいた。おにぎりは、『こんなにおいしい食べ物があったのか』というほどおいしかった」と優しさをかみしめた。
 引き揚げ後、次女の妙子さんは24歳の若さで亡くなったが、三女の洋子さん、次男の厚さんに恵まれた。斎藤さんは子どもたちや孫の成長を見守りながら「戦争は駄目。世界中から戦火に苦しむ人がなくなってほしい」と願い続けている。
   ◆  ◆
 1945年の終戦間際から、満州からの壮絶な逃避行を体験した弘前市の斎藤愛子さん(100)。斎藤さんは68歳の時、体験談「赤いほおずき-満州逃避行」を執筆した。小学校教諭をしていた次男の厚さん(70)が「この悲しみを二度と繰り返してはならない。忘れようとしても決して忘れられない悲劇の体験を次の世代にも伝えてほしい。つらい過去の思い出だが振り絞って書いてほしい」と要望したのがきっかけだった。
 斎藤さんは戦火の中、敵の攻撃に生き地獄を何度も見ながら無我夢中で逃げ、長女の宏子ちゃん、長男の孝ちゃんという大事な子ども2人を失った。戦争が終わった後も発疹チフスと闘い、敗戦した国民という悲哀をかみしめる、そんな逃避行だった。
 本のタイトルは、宏子ちゃんが亡くなる前に、赤いホオズキを「おいしい」と食べたことを、斎藤さんが忘れられずにいたことによる。
 一日1枚の原稿用紙に筆を走らせるのが斎藤さんの日課で、厚さんは「仕事に行く前に母に原稿用紙を渡していくのだが、帰ってくると、原稿用紙が涙にぬれて、何も書かれていない日が何回もあった。それでも孫や若い人たちに伝えたいという強い心があった」と振り返る。
 斎藤さんは本について「誰でもどんな人にも読んでほしい。戦争が私たちに残した苦しみや悲しみ、消えない傷痕を伝えなくてはという気持ち。戦争は恐ろしいということを知ってほしい」と力を込める。
 一緒に逃避行した夫の健四さんが亡くなり、関係者もだんだん少なくなってきた。こうした中、斎藤さんは70歳ごろに自己流で、ある人形を作った。満州からの逃避行の中で亡くした2人の子どもたちをモデルにした「宏子と孝」だ。人形作りは99歳まで続けられ、素朴で楽しげな子どもたちをモチーフにした作品の数々は、子どもたちへの鎮魂と平和の祈りが込められ、斎藤さんの優しさや温かさがにじみ出ている。
 斎藤家では、毎年8月10日は愛子さんが「きょうから逃げたのよ」と家族に逃避行について聞かせる特別な日。斎藤さんの穏やかな声が家族を包む。
 毎年体験談を聞いている厚さんの妻笑子さん(71)は「家族はおおらかで明るいおばあちゃんの愛に包まれている。『塞翁(さいおう)が馬』と生きてきたおばあちゃんは人生の達人。孫たちにも体験談やおばあちゃんの気持ちがしっかり生きている。この先の次の世代にも伝えていってほしい」と願う。
 小学校教諭の道を選び、斎藤さんの体験談を教え子たちに聞かせてきた厚さんは「父からは戦争は駄目ということをきちんと教えられる教諭になってほしいと言われていた」と、両親から学んだ平和への思いを伝え続けてきた。
 厚さんは戦争体験をしっかり伝え、聞くことの大切さを訴え、「(未来を担う子どもたちが)いろいろなことを知り、自分がこういう日本、地域にしたいという考えを一人一人きちんと持つきっかけにしてほしい」と話した。

∆ページの先頭へ

Page: 1 2

当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード