受け継がれる遺産 りんごの里・板柳100周年

 

2021/1/22 金曜日

 

 板柳町は今年度、町制施行100周年を迎えた。1世紀の間に街並みは変化したが、往時を語る町内の遺産は今に引き継がれている。リンゴ産業を基軸に活況を呈した往時を振り返りつつ、未来を見据え地域活性化や農業振興に努める人々の思いを紹介する。

∆ページの先頭へ

リンゴで栄えた町の今昔=上

 

戦後間もない頃に撮影されたとみられる板柳駅周辺。元駅員の三上直彦さん(73)=板柳町=によると、貨物置き場はいつもリンゴの木箱などでいっぱいだったという(町提供)

 1920年4月1日に町制が施行され、「りんごの里」の新たな歴史が始まった。その2年前の18年には、民営鉄道の板柳駅が開業。リンゴ輸送などの貨物集積駅として高度経済成長期ごろまで地域に県有数のにぎわいをもたらし、元来、岩木川での川湊貿易で発展した板柳の中心部は川から駅周辺に移っていった。25年の国勢調査によると、現在の町域に当たる3村1町の総人口は約1万2800人だった。
 「板柳町史」(青山栄著、津軽書房)によると、「戦時中、リンゴ栽培は見捨てられ」ていた状態だったが、戦後はインフレでリンゴの価格が急騰し、移出商が続出したという。
 「そちらこちらにリンゴの木箱が6、7段、終わりが見えないほどずらりと積まれ、(多くの人で)歩けないほどだった」。町の歴史に詳しい、いたや町の工藤健治さん(83)は約60年前の駅周辺をこう懐かしむ。果物の種類がまだ少ない時代、リンゴ輸送で町は発展。当時、生産者はこぞって貨物の荷車を確保するのに躍起になっていたという。
 板柳地区の龍淵寺(りゅうえんじ)が町中心部で行っていた「大般若」も一寺院の祭りでありながら、町民らで大ぎわいだった。最盛期は昭和30年代と伝わる。川村能人(のうにん)住職(63)によると「ちょうど開催日が農閑期にかぶり、何千人が列をなした」という。ただ車社会が到来すると交通量が増え、徐々に祭りの範囲が狭まった。
 トラック輸送が発達し、今はJR東日本が管轄する板柳駅周辺からもにぎわいが消えた。中心部の人通りは往時に及ばないが、かつての名残もある。同駅は改築で1934年に現在の駅舎になり、以後部分的な改築はあったが、ほぼそのまま残っている。また町立郷土資料館2階部分の一部は、1899年建築の旧板柳尋常高等小学校の玄関口として使われていた建物が転用されているのだ。
 1950年代後半ごろから減少に転じた人口は今、100年前と同水準の約1万3000人。少子高齢化の流れはあらがいがたいが、地域活性化の取り組みは官民で続いている。辻地区で「Bar 聖」を営み、婚活や町民クラフト展のイベントといった新たなアプローチから町おこしに関わる佐藤聖也さん(41)は「少子化の中、板柳の地域活性化につながることを期待するとともに、自分でも商売を起こしたいという人が増えて経済活性化が図れれば」と夢を描く。

∆ページの先頭へ

生き続ける道具と技術=中

2021/1/23 土曜日

 

「革工房よしだ」の剪定ばさみケース。馬具製造で培った技術で、今でもリンゴ農家の需要がある

 主に戦後、リンゴの貨物輸送で栄えた板柳町。果実を生産する農家の世代交代に伴い、技術革新も絶えず進められているが、往時のにぎわいを支えた道具や技術は、今も町民の暮らしの中に生きている。
 かつて付近は木箱でいっぱいだったというJR板柳駅。目の前には、約70年前に創業されたと伝わる木箱などを製造する会社「うばさわ」がある。3代目の姥沢大(うばさわまさる)代表取締役(49)によると、約120年前からリンゴ出荷に木箱が使われていたとみられるという。
 1960年代後半ごろになると、青果物などの出荷には段ボールが台頭したが、木箱は貯蔵性のあるリンゴの特性と相性が良く、収獲・保存用に使われていた。その後、リンゴ市場が発展して再び“出荷のお供”に。93年に三千石地区に設立されたリンゴ専門の卸売場・津軽りんご市場にも多くの木箱が並んでいる。
 今はプラスチック製のコンテナも多く利用されるが、姥沢代表取締役は「(出荷は)娘を結婚先に出すようなものだから」と、木箱にこだわり続ける農家も多くいると話す。現在、関連会社のキープレイスで木箱を使ったインテリアを取り扱い、全商品の8割程度の売り上げを占めるという。今や木箱は出荷のみならず、家やオフィスの中で使われる存在になった。
 町役場前にある、創業約90年の「革工房よしだ」はもともと馬具を製作していた。トラック輸送が普及する前まで、馬は畑の整備や貨物の運搬など、リンゴ栽培・販売に重要な役割を果たしていた。かつて町内は五つの馬具店があったが、看板を守り続けているのは同店だけになった。
 馬具の需要は激減している今。3代目の吉田静真代表(54)によると「注文は3年に1回ほど」という。それでも代々継承してきた熟練の技術を生かして剪定(せんてい)ばさみのケースを製造し、農家に愛用されている。量産品が出回る中、手作りにこだわり続け、丈夫さから県外や海外からも引き合いがある。新規就農者らが購入することもあり「若い人は意外に道具にこだわり、高くても本物を買おうとする人もいる」という。
 吉田代表は、同じく看板商品のベルトなどに馬のマークを入れるなど、家業の歴史を伝え続けている。「必要としている農家さんがまだいる。馬具屋として、リンゴに関わってこられたことを誇りに思う」。町の歴史、リンゴ産業への思いを胸に、仕事に日々打ち込んでいる。

∆ページの先頭へ

町を支える官民の取り込み=下・完

2021/1/24 日曜日

 

板柳町でよく見られる、樹形が高くなるよう剪定されたリンゴの木。町りんごわい化栽培技術研究会などが、伝えてきたものだ

 板柳町の経済を支えてきたリンゴ栽培だったが、1960年代以降は市場に他の果物が出回るといった事情があり、高度経済成長期の終わりごろには値崩れが起こった。それでも官民ともに新たな栽培技術や販売方法確立に向け努力し、生まれた“遺産”が受け継がれている。
 横沢地区の農家はリンゴの花の授粉に役立つマメコバチ繁殖に取り組み、79年、本県のリンゴ産業に功績を残した団体をたたえる「木村甚弥賞」に選ばれた。町農業委員会長を務めた経験もある地区の諏訪幸道さん(84)によると、当時の冷害に対抗するための取り組みだった。ハチが薬剤散布で死滅したり、鳥に食べられたりと大変だったが、幼虫を共同管理するなどで次第に軌道に乗った。諏訪さんは「リンゴはみんなで守るものという助け合いの精神が生まれた」と振り返る。毎年地区でマメコバチの祭りを行うなど、豊作はまさに地区全体の悲願だった。現在、町は5月8日を「マメコバチの日」と定め毎年感謝祭を開いている。
 一方、町も苦境を打破するため、農家から下位等級品を安定した値段で買い取り、加工・販売しようとふるさとセンターを86年に設立した。立ち上げ期から関わった元町職員の鈴木清孝町議(64)は当初掲げた「リンゴの価値を見直そう」の理念を今も覚えている。ジュースをはじめとした加工品を高級品として首都圏や海外で売り「外貨」を稼ぐ。当時としては先進的なこの取り組みは注目を集め、「りんごの里」の新たな一歩を記した。センターが先駆した6次産業化の波に乗り、若手農家も積極的に加工品開発に取り組むようになった。
 昨年結成40周年を迎えた「板柳町りんごわい化栽培技術研究会」は、県りんご協会の競技会で団体優勝18回を誇る。8代目会長の田中和人さん(50)は「リンゴの木の形は何年もかかって作る。もし(剪定(せんてい)に)間違いがあれば復活できない」との思いで、後輩らに指導し続けている。
 会員は約130人。全国的に農業の担い手不足が叫ばれているが、会員数は微増を続けている。町内ではモミの木に似た特有の樹形「スレンダースピンドル」がよく見られる。地勢に合い、収量も上がるとして広まった。これも会の成果だ。「自分も先輩にマンツーマンで教えもらった」と田中さん。代々受け継がれてきたリンゴに懸ける思いが「りんごの里」を支えている。

∆ページの先頭へ


当サイトでは一部、Adobe Flash・PDFファイルを使用しております。閲覧にはAdobe Flash Player・Adobe Acrobat Readerが必要です。最新のプラグインはアドビ社のサイトより無料でダウンロード可能です。

  • Adobe Flash Player ダウンロードセンター
  • Adobe - Adobe Reader ダウンロード