記憶をつなぐ 終戦75年

 

弘前学院理事長・阿保邦弘さん(81)

2020/8/22 土曜日

 

戦後の混乱した様子を教育現場で語り続けている阿保理事長

 長い戦いの終幕は、苦しい生活の始まりだった。旧満州(現・中国東北部)で暮らしていた多くの邦人が、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。戦後75年が経過した今も、戦後の混乱やその体験を語りたがらない人が多い。そうした中、家族5人で父の故郷弘前を目指して引き揚げてきた弘前学院理事長の阿保邦弘さん(81)は長年、教育現場で戦後の混乱の様子を語り続けている。
 満州国は、満州事変から半年後の1932年3月に建国された。新しい国を作るという壮大な計画に、人々は大きな希望を持って移住した。
 炭鉱で働いていた父を持つ阿保さんは当時、小学1年生で、両親、姉、妹の5人家族だった。
 「旧満州で暮らす人たちは、大きな希望と喜びが満ちあふれていた。戦争終結は、まさに希望から絶望に追い落とされる出来事だった」。
 日本が無条件降伏した1945年8月15日。終戦を境に満州に残された日本人は、中国人ら現地人から激しい反撃を受けた。
 8月末ごろから暴動が起き、阿保さんの父が働く炭鉱の人やその家族ら100人近いグループは、終戦を知り、手りゅう弾で集団自殺することを決意したという。「話し合っている情景は今でも覚えている。手りゅう弾の数が足りなく集団自殺を諦め、日本に逃げることになったようだった」と振り返る。
 朝鮮までは無蓋車にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、雨風にさらされながらなんとか港方面に向かった。朝鮮に着くと、引き揚げ船「リバティ」に乗り込み、戦後旧満州や朝鮮半島からの引き揚げ港だった博多港に向かった。
 逃避行について阿保さんは「盗賊に殺される人や逃げた誰々の死体が見つかったという知らせを聞いた。コロリ(コレラ)や飢餓などで多くの命も奪われ、日本に着く頃には100人が半分くらいになっていた」と振り返る。
 博多からは列車で弘前に向かった。大勢の人でごった返すその様子を「ゆっくりと進む列車で、びっしりと人が重なり芋洗い状態だった。よく分からないままいた」とし、記憶をたどりながらその混乱した様子を語った。
 弘前到着後の当日の風景はあまり思い出せないという阿保さん。幼い妹は弘前に到着後、命を落としてしまった。当時については「戦争の話は誰もしない。希望も何もない。戦後の混乱の脱力感であふれ、皆、黙々と働いていた」とし「今はあまり思い出さないが、どこか(自身の)傷になっているのだろう」と淡々と語った。
 「1945年8月15日のことは忘れない」。
 戦後の混乱期を経験したことについて、阿保さんは「たまたまそういう時期に生きていたのは誰の責任でもない。大きな力に動かされてその歴史の中を生きてきた。どこまでも暗い体験で、どこまでも残っていく嫌な存在が戦争。難しいがそれを伝えていかなければならない」と語り、こう力を込めた。
 「戦後から75年がたつ中で、何を伝えるべきかということは本当に大事なこと。口をつぐんで言わなかったことが、時を経てだんだん世に出てきている。戦争の恐ろしさ、無価値さ、起こった事実を知ってほしい」。

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緑岡初等学校寄贈、船沢小の柱時計

2020/8/23 日曜日

 

今なお現役で時を刻み、平和の尊さを伝える船沢小の柱時計
「青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開」に掲載されている写真「5年生 久保田家のりんご園にて」

 弘前市の船沢小学校に残る、大きな古い柱時計。太平洋戦争末期、戦況の悪化を受け集団疎開して来た東京都渋谷区の青山学院緑岡(みどりがおか)初等学校(のちの青山学院初等部)が戦後、感謝の印として贈ったものだ。終戦から75年が経過し、当時の苦難の記憶が薄れゆく中にあって柱時計は、平和の時代の中でのびのびと学ぶ現代の子どもたちを見守り続けている。
 「ボーン」。30分に1度、レトロな優しい音が校内に響く。柱時計には「贈疎開記念 青山学院初等部」の文字と、贈呈された年「昭和三十一年 三月吉日」の文字が記されている。職員が定期的にゼンマイを巻き続け、今なお現役で時を刻み続けている。
 「新編弘前市史 通史編5)」によると、弘前市と付近村落に疎開したのは東京都渋谷区の各国民学校児童たち2217人で、戦後集団疎開した国民学校は、世話になったお礼として若干のお金を当該国民学校に贈ったが、船沢国民学校に疎開した青山学院初等部では大時計を贈った―とある。
 国策により行われた集団疎開は、東京都など主要都市の国民学校初等科(小学校)の3~6年生を学校単位で地方に送った。緑岡初等学校も含め渋谷区の子どもたちは当初、静岡県で疎開生活を送っていたが、戦況の悪化に伴い青森県へと再疎開することになった。
 青山学院初等部が2015年に発行した「青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開」に、当時の様子が詳しく記されている。
 緑岡初等学校は1944年8月23日から疎開していた伊豆・湯ケ島の落合楼から、45年6月12日に弘前へと再疎開してきた(船沢小学校百年史によると児童65人、職員5人)。小堀旅館などに滞在したのち、青山学院院長を務めた故笹森順造氏らの尽力で弘前女学校(弘前学院の前身)に落ち着いたが、その後弘前も危険となり、7月16日、近郊の旧船沢村へ移動。船沢国民学校で共同生活したのち、順造氏と弘前中学校で同級生だった高谷英城氏が当主の高谷家など民家4軒に分宿した。そのうち1軒は、現在国指定の名勝「瑞楽園」として一般公開されている旧対馬家だった。
 遠い静岡の地からの再疎開。「青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開」(以下記録と略)には、疎開児童の後年の回顧が収録されている。
 「東京は焼野原になり、余りの変貌(ぼう)に生徒を驚かせない様にとのご配慮で、東京を通過する列車が選ばれたそうです。品川駅には母が会いにきてくれました。待ちに待った再会でしたが、(中略)ほんの一瞬の面会で、私が大人になった時に母は、その時の情景を思い出しては、『あの時は、本当に悲しかった。この世の別れになるのではないかと思った』としみじみ言っておりました」。本紙「津軽の街と風景」(2017年9月18付)には、静岡からの別の国民学校の再疎開の様子が記され、「22時に着いた品川駅には父母たちが、待っていたがわが子の名前を叫んで探している間に10分の停車時間が過ぎた」とあり、40時間以上走行と停車を繰り返し列車は弘前駅に着いた。
 緑岡初等学校1回生で、東京の自宅が強制疎開で取り壊され、弘前に縁故疎開していた笹森順造氏の息子・建英氏(89)=当時中学生=によると、順造氏は子どもたちの出迎えなどにも足を運んだという。
 記録には、児童の回顧や、父母へ宛てた当時の手紙も納められ、暮らしぶりや当時の様子をうかがうことができる。(以下、かっこ内の日付は東京に手紙が届いた日付)
 「五月二十一日、おそれおおくも天皇陛下は戦時教育ニ関スル上諭をお降(くだ)しおなりになりました、私達は農・産を増産に、また防空防衛、戦時くん練が私達の新しいおやくめです。(中略)明日、明後日は農産をしに遠い山へまります(七月十一日)」の記述があるように、子どもたちは、リンゴ畑の草取りなどの農作業、リヤカーでの食料運び、松根油(航空ガソリンの燃料)掘り、イナゴ取りなどさまざまな労働をしていた。また戦後の回顧では、シラミにも悩まされたとの記述もあった。
 リンゴや新ジャガイモを食べたこと、農家の地下壕(ごう)で大福を食べたおいしさなど、船沢での暮らしは地元民によって支えられ、湯ケ島であったいじめも食料事情が良くなりなくなったとの回顧も残る。
 一方で、安全な地などなかった戦時下。「十四日は朝五時起床前に空襲警報で起き、あわてて仕たくをして『ボウクウゴウ』へ入りました。(七月二十三日)」「こちらも十日、十二日と機動部隊がやってきて、前のように朝から夜までやってきました。ほんとうににくい敵です。このにくい敵を討ちてし止まんのかくごです(八月二十日)」などの手紙が残されている。
 その後船沢で終戦を迎えた子どもたち。「十五日の日、午後、日本降伏を聞いて皆『デマ』といった。三時の報道で詔書奉書を聞き残念に思った。それも皆臣民のどりょくがたりなかったから、天皇陛下にこのようなお苦しみを見せたのをまことに申しわけがありません。(中略)この仇は(児童たち)少国民ではらします」と父母へ宛てた手紙があった一方、別の児童によるのちの回顧では「八月十五日の玉音放送は高谷家の板の間に置かれたラジオで聞きました。天皇陛下が何を言われたか、当初はわかりませんでした。暑い日でしたが、外へ出て岩木山を仰ぐと、何かひとつ肩の荷がおりたような解放感を覚えました」と、本音を垣間見ることができる。子どもたちは10月、長い疎開生活を終え、ようやく帰郷。緑岡初等学校も中学校も、焼失していた。
 戦争が終結してからも、物資の乏しい、厳しい暮らしは続いた。
 当初は校長室に置かれていたという船沢小の柱時計。今は正面玄関を入ってすぐの場所にあり、来訪者を出迎えるシンボルともなっている。
 同校では、多くの名士を輩出した郷土の歴史と併せ、時計についても子どもたちに伝えている。鈴木敏浩校長は「これからも、大事に伝えていきたい宝物ですね」と語った。

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聖愛高校礼拝堂の長椅子

2020/8/24 月曜日

 

当時の生徒たちが運んだ長椅子は今も礼拝堂で平和の尊さを伝えている

 弘前市の聖愛高校礼拝堂に一枚板で4人掛けの長椅子がある。重くて1人では抱えることができない立派な長椅子は戦時中の1945年、生徒たちにより運ばれ、建物疎開を経験した。今なお100脚以上が残り、多くの若者たちに平和の尊さを伝えている。
 同年7月下旬から終戦を迎えるまでの間、聖愛高校の前身に当たる私立弘前女学校の生徒たちは、長椅子を同市坂本町の校舎や礼拝堂から、当時の豊田村小比内にある農場の作業小屋まで運んだ。その道のりは約5キロあり、しかも炎天下だった。
 学校の軍需工場化が進められていた矢先、7月28日から29日にかけて青森空襲があった。青森市内は焦土と化し、弘前への空襲も時間の問題とみられていた。爆撃されるのは街の中心部や軍隊の本部などと予想されていたが、学校の道具が爆撃に遭わないよう隠さなければならなかった。
 当時の様子を伝える弘前学院百年史によると「坂本町の同校校舎と附属建物の全部が強制破壊される計画」が進められ、事実上の“廃校宣言”を受けていた。
 建物は8月17日に壊されることが決定していたが、学校側は断固反対。市や県に計画変更を何度も働き掛けていた。破壊間近の15日は、当時の笹森順造理事長と成田孝治校長が午後1時、青森市の県庁に卒業生でつくる「校友会」名で、計画変更を求める最後の嘆願書を提出する予定だった。
 この日、弘前では793人の全校生徒のうち3年生以下の生徒たちが、朝から礼拝堂の長椅子を運搬していた。その列が松森町に差し掛かった時、馬に乗った軍人が疾駆してきて「すぐ学校に帰れ」と大声で伝えながら駆け抜けていったという。終戦を告げる連絡だった。
 百年史の編集委員長を務めた弘前学院の阿保邦弘理事長は「とんでもなく重い椅子で、1人ではとても持てないほど。よく5キロも歩いていたものだ」とし、「嘆願書を提出するわずか1時間前に戦争が終わり、校舎を取り壊し建物疎開することは免れた。奇跡だった」と話す。
 学校によると、坂本町から現在の校舎がある原ケ平に学校を移転する際、礼拝堂も移築し、そのままの形を限りなく残した。礼拝堂には当時貴重だった窓ガラスが盗まれないように刻んだ「聖愛」の文字が残り、当時の備品も大切に使われている。戦時中にまきにして燃やされてしまわないよう疎開させた長椅子も、聖愛中学校や聖愛高校の生徒計581人(2020年7月1日現在)が使用している。
 戦後75年がたち、その経験を語り継ぐ人たちが少なくなる中、岩淵静夫教頭は「礼拝堂は本校らしさを一番物語る歴史的な建物。生徒たちには礼拝堂の記憶とともに、自ら平和をつくり出す人になってほしいと願う」と思いを込める。
 阿保理事長は「当時、全国的にキリスト教系の学校は、無理やり建物を壊してしまうということがあったようだ。本校の場合はまさに奇跡」とし、「今も世界のどこかで戦争があり、なくならない。だからこそ戦争やその事実を明確にし、戦争が私たちに何を残したのか、具体的な事実を伝えていく必要がある」と語気を強めた。

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弘前・佐藤きむさん(87)

2020/8/25 火曜日

 

「戦争は双方が被害者であり加害者であることを忘れてはならない」と語る佐藤さん

 長年、中学校の国語教諭として、さまざまな視点から平和の尊さを伝えてきた弘前市の佐藤きむさん(87)。戦後75年を迎える今、改めて戦時中の教育現場の様子や青森空襲の体験談を語り、「戦争は双方が被害者であり加害者であるということを忘れてはならない」と子どもたちにメッセージを送り続ける。
 小学校が国民学校になったのは1941年4月のこと。佐藤さんは父親の転勤のため、旧金木町から、当時青森市にあった女子師範学校附属国民学校に転入した。
 国民学校用の教科書を使ったのは42年の4年生からだった。当時の教科書「初等科修身」を見ると、目次には「春から夏へ」「日本は海の國」など20章が並ぶ。当時の修身は、教育勅語に記されている徳目を具体化して教え、各章が教育勅語の文言と関連付けられ、ほとんどが戦意高揚を促す内容だった。
 だが、佐藤さんは当時の授業について「覚えているのは、野口英世とでん子という久留米絣(がすり)の創案者の戦争色が薄い章のこと」と振り返る。
 担任だった島津良夫教諭は20代で、師範学校を首席で卒業した優秀な青年だった。丸坊主ではなく髪を伸ばし、国防服ではなく詰め襟の学生服を着ていた。当時の男性たちは強制的に徴兵され、男性の教諭は珍しかった。
 「学校行事ではいろいろあるが、学級では修身の授業でさえ戦時色に塗り込められた教育を受けた記憶がない。おそらく、島津先生は戦争色の強い所はスピーディーに、英世などは丁寧に教えていたのでは」と思い返す。
 佐藤さんは1945年7月28日夜、青森市でアメリカ軍のB29爆撃機の空襲を受け、命の危険にさらされた。焼夷(しょうい)弾が次々に落ちて両親と姉と一緒に、空から落ちてくる火の玉を避けながら、堤川の川岸を走った。姉は逃げる際に脚にやけどを負ったという。
 あっという間に燃え広がり熱風と火の粉が吹き付けた。水の中に落下した焼夷弾の油は地獄絵図さながら水面で燃え、その川に入りながら郊外を目指した。
 「長い間、空襲の夢に脅かされ、夢に現れなくなったのは30代半ばを過ぎてから」。
 時がたち、佐藤さんは中学校教諭になり、子どもたちに平和について語り続けてきた。
 「平和教育の根底にあり、私を支えたのは島津先生の教え。基となるのは英世とでん子の授業だった。決して反戦思想を語ったわけではない。島津先生はただ平和を願っていたのでは」と振り返る。80歳を超えた頃にそのことに気付いたといい、先生を思い「できればお礼が言いたかった」と感謝を込めた。
 戦後75年が経過し、以前に比べ、教科書に掲載される平和教材は少なくなってきた。ふと、「空襲の際に爆弾を落とした兵はどんな気持ちだっただろう」と考えることがあるという。戦争体験は、被害者の立場で空襲に遭った人も多いが、実際に戦闘に参加し、人には話せない精神的な痛手を抱えながら人生を送った人も少なくない。
 戦後75年がたった今だからこそ、「子どもたちに語り継ぐ内容が薄れてきている。戦争は一方が被害者、一方が加害者ということはあり得ない。さまざまな立場での戦争を伝えてほしい」と思いを込める。

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弘前に疎開 川崎・玉垣邦雄さん(87)

2020/9/8 火曜日

 

「戦争はこれから先、どの世代でも二度としてはいけない」と話す玉垣さん

 「戦中は食べ物がなかった。でもつらいとは思わなかった。みんながそうだったから。疎開先では労働も多かったのかもしれない。でもそう感じなかった。それが当たり前だったから」。玉垣邦雄さん(87)=川崎市=は75年前の終戦の日を、学童疎開先の船沢村(現弘前市)で迎えた。
 東京都渋谷区の青山学院緑岡(みどりがおか)初等学校(現青山学院初等部)に通っていたが、戦争末期、戦況の悪化を受け国策による集団疎開を経験した。4年生で親元を離れ、まずは伊豆・湯ケ島に疎開。その後そこも危険となって5年生で弘前市、船沢村へと再疎開した。(本紙8月23日付既報)
 静岡から弘前に向かう列車がごくわずかな時間停車した品川駅に、母親が会いに来てくれた。「もちろん疎開にさみしさはあったけれど、そういう時代だったから」
 疎開先の船沢村で児童は4軒の民家(村長宅の蒔苗家、対馬家、久保田家、高谷家)に分宿。玉垣さんは中別所の高谷家に滞在した。「おとなしい子は村長さんの家。いたずらっ子は高谷さんの家だったらしい」と笑う。
 分宿先へは、徒歩で移動した。弘前駅から岩木山麓の中別所までは相当な道のりだが「畑の中の一本道を歩いた。当時は1里(約4キロ)だと言われていたよ」。同級生は街まで買い出しで来ていたとも話す。
 船沢に来てからは、食料事情がだいぶ良くなった。伊豆では食料が乏しく、よく食べていたのは山で見つけた、汁が吸えるイタドリ。「弘前に来てから、国光だろうか、1人1個リンゴをもらって食べたら、それだけでおなかがいっぱいになってしまったことを覚えている。胃がだいぶ小さくなってしまっていたんだろうね」。記憶にあるのはクルミをたくさん食べたこと、そして岩木山に連れていってもらった時に食べたキノコ鍋のおいしさ。「疎開先として恵まれていたのだと思う」と振り返る。
 迎えた終戦の日、ラジオは雑音で理解できなかった。「先生からは説明がなかったのでは。でもどこか雰囲気で(敗戦が)分かったんだろうね」
 秋になり、ようやくみんなで帰郷した。おなかがすいたという感覚はよく覚えているという。帰りは奥羽線で福島に出た。青森は空襲で焼け野原になっていたためだった。
 国に翻弄(ほんろう)された学童期。「戦争は二度としてはいけない。次の世代どころではなく、どの世代でもしてはいけないこと。国と国が戦っていいことなんか一つもないよ」

 

記憶をつなぐ 終戦75年・完

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