記憶をつなぐ 終戦75年

 

レイテ島訪問 平川・武田義昭さん(75)

2020/8/16 日曜日

 

レイテ島で清美さんを慰霊した義昭さんと鏡衣さん。写真立てには遺影を飾っている

 「父はどんな思いでレイテ島にいたのか、どのように最期を迎えたのか」―。
 平川市在住の武田義昭さん(75)は2018年に行われた県遺族連合会のフィリピン地域慰霊巡拝に参加し、父・清美さんが戦死したというフィリピン・レイテ島で手を合わせた。父が戦死した時、義昭さんは生後半年余りの乳飲み子。生前の父のことは何も知らない。父が自分のことをどう思っていたのかも。真冬の津軽から訪れたレイテは真逆のうだるような暑さだった。「当時はもっと暑かったのだろうか」。幼子を残して死ななければならなかった父の無念を思っても、答えは出ない。
 清美さんは1943年8月につまさんと結婚。義昭さんは44年11月に生まれたが、終戦間際の45年6月30日に清美さんが戦死したという知らせが届いた。「おそらく生まれた私の顔を見ることもなかったのではないか」。義昭さんは写真の中の清美さんを見つめた。
 義昭さんは周囲の人の話から清美さんがレイテ島で亡くなったことを知ったが、母親が再婚したこともあり、亡くなるまで父のことを積極的に尋ねることはなかったという。
 「聞いておけばよかったと思うこともあるが、苦労している母親にわざわざつらい話を思い出させるのも申し訳ない」。義昭さんが知っているのは、清美さんが弘前の部隊にいたということぐらいで、今となっては一枚の遺影が亡き父を知る思い出のよすがだ。
 義昭さんは2018年2月に、周囲の後押しもあり、フィリピンの各島を渡る巡拝でレイテ島を訪れる機会を得た。妻・鏡衣さん(72)と2人で参加し、レイテ島カンギポット山を訪れ、祭壇に持ってきた清美さんの写真を置いて拝礼した。初めて父が戦死した地で手を合わせ「ここで亡くなったのかと感慨深い思いがあった。線香を上げられるとは思っていなかったので、行ってよかった」。現地では父を弔う手紙も読んだ。「戦死して70年近くもたっているので心の整理もできている」。そう思っていたが、父への思いがあふれたのか、うまく読み上げることができなかった。鏡衣さんも「初めて『お義父さん』と呼び、子も孫もいることを報告できた」と異国で無念の死を遂げた清美さんに思いをはせた。
 敗色濃厚な時期に戦地に渡り、終戦の約1カ月半前に戦死した清美さん。義昭さんは「どうして戦地へ行かなければならなかったのか。多くの人がこの戦争で苦しめられたと思う」と語る。「国の主導の下で、戦うこと、戦って死ぬという今では考えられないことを教えていた。今の子たちは同じようなことを教わる必要がないように、平和であってほしい」。

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黒石市遺族連合会会長・谷清道さん(79)

2020/8/18 火曜日

 

「遺族会の役目として、戦争の怖さと平和の大切さを訴えていかないといけない」と力を込める谷さん
多八郎さんに抱きかかえられる谷さん。「唯一残っている写真」として大事に保管している(谷さん提供)

 終戦から75年という月日がたち、遺族会が高齢化で解散するケースが全国で相次いでおり、県内でも問題となっている。黒石市遺族連合会会長で、父を太平洋戦争で失った谷清道さん(79)は「75年もたっているので、遺族会の会員が減っていくのは仕方がないこと。われわれも10分の1ほどに減っている」とするも「日本で戦争があり、黒石からも犠牲者が生まれたことは絶対に語り継いでいかなければいけない」と今後も遺族会の役割を果たしていく考えだ。
 旧山形村生まれで農林業をしていた谷さんの父多八郎さん=享年(28)=は1945年7月10日、海軍水兵長としてフィリピンのミンダナオ島で戦死した。多八郎さんの遺骨が戻ってくることはなかった。
 真面目で周囲からの信頼も厚かった多八郎さんだが「父と話した記憶はほとんどない」という谷さん。それでも「出征前夜に行われた激励会で、父に高い高いをしてもらった。ずいぶん高く上がったのでちょっと怖かった記憶がある」と4歳だった75年前を振り返る。
 多八郎さんが出征したのは1945年4月。終戦のほぼ4カ月前で、谷さんは「日本の敗戦が濃厚で、召集は来たものの、行きたくなければ行かなくてもいいんだよと声を掛けられていたと聞いている。父には失礼かもしれないが、結果的に死にに行ったようなもの」とし、「それでも本人は強い意志で『行きます』と言ったらしい。あの時代、あの状況で、日本のために『行きません』とは言えなかったと思う」と多八郎さんを思いやる。
 谷さんは75年から市遺族連合会事務局として戦傷病者や戦没者遺族の援護事務に携わるようになり、2012年に同会長に就任した。しかし、戦後75年という月日による会員の高齢化は同会にも及んでいる。「昔は500~600人いたが、今は60人ほどになってしまった。会員は減ることはあっても増えることはない」と谷さん。遺族会が解散するというニュースが出てきていることに「私のように子の世代なら分かるが、実際に会ったこともない孫の世代では、活動を引き継ぐことが困難な部分もあると思う」と指摘する。
 それでも「敗戦から必死に頑張ってきて今の平和な日本がある。戦争で生まれるのは父のような戦死者だけ。会員は減っていく一方だが、これからも戦争の怖さと平和の大切さを強く呼び掛けていきたい」と力を込める。

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海軍飛行兵・藤田幸治郎さん(94)

2020/8/19 水曜日

 

空中散歩写真展の会場で、戦後操縦したエアロスバルの模型の下に立つ藤田さん

 「青森空港から飛び立って。当日は天気が良く、岩木山も弘前の街もきれいに見えた。敵の飛行機が来る心配のない、平和な空っていいものだなって思ったよ」。海軍の飛行兵だった弘前市の藤田幸治郎さん(94)は、戦後、小型飛行機の操縦免許を取って初飛行した時をこう振り返った。
 17歳の旧制弘前中学5年生の時、戦闘機の搭乗員を養成する海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。2度の試験に合格し、1943(昭和18)年10月に第13期生として茨城県の土浦航空隊に入隊した。
 全国から集まった同世代約1900人がいた。体力づくりを半日、学科を半日。上官になぐられるのが当たり前の過酷な基礎訓練を10カ月受けた後、同県の北浦航空隊に移り、操縦員として近くの湖で水上機の飛行訓練に励んだ。フロートと呼ばれる浮舟がある水上機は、滑走路を作れない小さな島にも離着水が可能で、太平洋で戦うことを目的に造られたという。
 10代の少年に課せられた訓練はここでも耐え難いものだった。墜落すればあるのは死。エンジンを切り、飛行機が回転しながら落ちていく中、再びエンジンを入れる「墜落した時に助かる方法」だという訓練も受けた。
 航空隊が敵襲を受け九死に一生を得た時があったが、生死が隣り合わせの日常に慣れる自分がいた。「両足が無くなった人や死人を見てもなんとも思わなくなるんだな。戦争は人間性をなくすんだ」
 45(同20)年5月には陸上機の操縦訓練のため福島県郡山市へ。沖縄に米軍が進攻し戦況は悪化。「本土決戦に備えてだと思う。もう水上機は役に立たなくなっていて、飛行機乗りはみんな特攻。同期も行った」。特攻訓練をしていた中で終戦を迎えた。早く帰郷したい一心で貨車の荷台に乗ってきたが、当時の記憶は曖昧だ。「岩木山を見てほっとしたのは覚えている」
 戦後は写真・カメラ店を開業するも「実は民間航空のパイロットになりたかった」少年期の夢を諦め切れず46歳で自家用航空機の操縦免許を取得。65歳まで国内外の大空を飛行した。
 ハワイでは真珠湾を攻撃した日本軍のコースを調べて飛ぶと、海に沈んだ軍艦から流れ出る黒い油が見えた。当時は戦後30年近くが過ぎていたが、いまだに癒えない戦争の傷跡に心を痛め、日米の亡き兵のために慰霊のフライトをしてきた。
 今年8月の7日から16日まで「空中散歩写真展」と題し、昭和50年代の弘前市内を撮影した航空写真の展示会を開いた。約300人が訪れた会期中、予想外の反響があった。報道で飛行兵だと知った元海軍の遺族が、祖父や父について教えてほしいと毎日のようにやって来たのだ。
 「子や孫の時代に戦争がないよう、そればかりを願ってきた」藤田さん。“空中散歩”や写真撮影ができた75年間の「平和」を改めてかみしめている。

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円覚寺住職・海浦暁観さん(95)

2020/8/20 木曜日

 

進駐軍司令官の命令書を手にする海浦住職
ポール・ミューラー司令官(青森空襲を語る会提供)

 深浦町深浦にある円覚寺本堂の柱に、英文の文書の写しが飾られている。英文の下には和訳がこうある。
 「是(こ)れは日本のお寺です 此のお寺の建てる目的は自分達は教會にお参りして信仰するも同じです それであるから どんな事があっても 此(こ)の中の物を壊したり汚したり又 記念品として取ったりすることは厳禁します 青森進駐軍司令官 陸軍少将 ミラーポール 全進駐軍へ」(原文のまま)
 日付は終戦から2カ月が経過した1945年10月15日。青森進駐軍の上陸からは20日たっていた。司令官の名前は「ミラーポール」とあるが、英文や資料によると正式には「ポール・ミューラー」。
 近現代史に詳しい、元県史編さん委員の荒井悦郎氏は文書について「寺社の仏像などを米兵が持ち出す例があり、当該文書を寺社に配布、掲示させたと思われる。現在、市町村文書からは当該文書を寺社に配布した記録は見つかっておらず、貴重な事例」と評価し、「青森空襲を記録する会」の今村修会長は進駐軍について「規律は相当厳しいようだったが、(兵士が)個人の家や寺に侵入し、物を取ったりしたことがあったようだ」と語る。
 円覚寺第28代の海浦暁観住職(95)は当時、寺におらず、文書がいつ届いたか知らない。しばらく寺の山門に掲示していたが、雨漏りで汚れ、いつしかしまい込まれた。しかし、5、6年前、海浦住職の長女由羽子さん(67)が寺の古文書を整理中、偶然見つけた。その時の驚きの気持ちを「びっくりしましたよ(進駐軍の多くを占めていた)米国は敵国だったのに、日本人の心まで壊そうとしなかったんですね」と語る。
 海浦住職が徴兵を受けたのは、寺の後を継ぐため京都専門学校(京都府、現・種智院大学)に在籍中で、敗戦が濃厚となった45年7月。大本営が連合軍との本土決戦に備えて急造した部隊の一つ第二二二師団(通称「八甲」)=編成地・弘前市=に配属された。
 入隊翌日、弘前市から山田野演習場(鯵ケ沢町)へ移動。わらじと草履作り、戦車に見立てた大八車に突撃し、模擬爆弾の木箱を置いて身を伏せる訓練をする日々だった。そして、8月15日に終戦を迎えた。
 海浦住職はすぐに復学。数年後に修了して寺に戻ったとき、既に文書があった。「父(第27代住職・義円)が受けたはずだが、何も聞かされていない。どういういきさつがあったかも分からない。(文書のおかげか)寺の中は何も壊されてなかった。(県内の)全部の寺に配布されたのではないか。そうでなければ意味がない」と記憶を手繰る。
 戦後生まれの由羽子さんは、戦争で手足を失った傷痍(しょうい)軍人が白衣を着て街頭で募金を求める光景を見て、戦争の悲惨さを感じ取ったという。時がたつにつれてその記憶も次第に薄らいだ。しかし、英文文書を見つけた時に鮮明によみがえった。
 「文書を読んだ瞬間、町にいた白衣の方々の姿がパァーッと浮かんできたんです。同時に、人の心の支えとなる信仰についてはどの国の人も同じ気持ちなんだって思いました」と振り返る。
 由羽子さんは寺を訪れる人に、本堂の柱に掲示した英文文書を解説している。「みんなに知ってもらいたいんです。終戦間もなく(進駐軍から)こんな文書が出されたんだってことを」と話した。

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収集事業に参加する●津博さん(79)

2020/8/21 金曜日

 

「国の召集で亡くなった人のことを簡単に諦めるわけにはいかない」と語る●津さん
●津さんの元に残る定次郎さんの遺影。年を経るにつれ、父に思いをはせることが多くなったという

 約112万柱。本土外で亡くなった戦没者約240万人のうち、日本にいまだ送還されていない遺骨の数だ(3月31日現在、厚生労働省調べ)。つまり、ほぼ半数が75年を経ても戻っていない。板柳町の●津博さん(79)は、幼い頃に亡くなった父親が眠る旧ソ連に、何度も足を運んで遺骨収集活動を行っている。戦没者遺族の高齢化など現状は苦しいが「1柱でも多く帰ってもらわなくては」と前を見据える。
 父・定次郎さん=享年(30)=は1944年に歩兵として満州に召集され、その後旧ソ連によってシベリアに抑留された。46年にイルクーツク州で病死した。抑留者は食事も医療品も満足に与えられず、非人道的な環境で強制労働させられていた。
 ●津さんは1998年、初めて慰霊巡拝に参加し旧ソ連を訪れた。定次郎さんの思い出はほぼ記憶になかったが、現地の土を踏み思いが込み上げた。「父と母がいたから(私は)ここにいる」―。他の参加者も、皆泣いていた。
 遺骨収集事業にも参加し、旧ソ連を7回訪れた。●津さんの家には定次郎さんの遺骨も遺品も帰って来なかったためだ。
 戦後、国の大きな動向の一つに、戦没者遺骨収集推進法の成立(2016年)があった。遺骨収集が国の責務と定められたのだ。24年度までを「集中実施期間」としているが●津さんらの活動で見つかる遺骨は1回に30~50柱で、そのうち数人の身元が判明すれば良い方という。期間内での全収集は、非常に厳しい。時間がない中で今年はコロナ禍に見舞われ、現地渡航ができない事態に見舞われた。「1年のロスは大きい。それだけ遺骨が帰るのも遅くなる」
 また国がシベリア抑留者らの遺骨を取り違え、事実を伏せていた問題も明るみに出た。自分たちが収集した遺骨もそうなのか―と思うと「悔しいの一言」と憤る。
 終戦から長い時間がたち、遺族たちにも年月の壁が立ちはだかる。●津さんは一緒に慰霊巡拝に訪れたメンバーとほぼ毎年東京で集まり、戦死者への思いを語り合ってきた。だが参加者の高齢化が進み、昨年“解団”した。
 そして、定次郎さんの遺骨が眠っているという場所の上には、新たに別の人の墓が建てられてしまったと分かった。日本に戻ってくるのは相当に厳しい。
 それでも、遺骨収集は続けたい気持ちが強いという。「父と同じ苦労をした人は、どなたでも帰ってもらうのが私の役目。やめるわけにはいかない」
 ●津さんが会長を務める板柳町遺族連合会も会員が100人を割り、記憶の継承は年々難しくなっていく。だが「(戦死者は)国のために亡くなったが、家族にしてみれば、誰も(戦場に)行ってほしくない」。この思いを胸に、戦争を風化させないための活動をできる限り続けるつもりだ。
※●は「會」の異体字

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