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レイテ島で清美さんを慰霊した義昭さんと鏡衣さん。写真立てには遺影を飾っている |
「父はどんな思いでレイテ島にいたのか、どのように最期を迎えたのか」―。
平川市在住の武田義昭さん(75)は2018年に行われた県遺族連合会のフィリピン地域慰霊巡拝に参加し、父・清美さんが戦死したというフィリピン・レイテ島で手を合わせた。父が戦死した時、義昭さんは生後半年余りの乳飲み子。生前の父のことは何も知らない。父が自分のことをどう思っていたのかも。真冬の津軽から訪れたレイテは真逆のうだるような暑さだった。「当時はもっと暑かったのだろうか」。幼子を残して死ななければならなかった父の無念を思っても、答えは出ない。
清美さんは1943年8月につまさんと結婚。義昭さんは44年11月に生まれたが、終戦間際の45年6月30日に清美さんが戦死したという知らせが届いた。「おそらく生まれた私の顔を見ることもなかったのではないか」。義昭さんは写真の中の清美さんを見つめた。
義昭さんは周囲の人の話から清美さんがレイテ島で亡くなったことを知ったが、母親が再婚したこともあり、亡くなるまで父のことを積極的に尋ねることはなかったという。
「聞いておけばよかったと思うこともあるが、苦労している母親にわざわざつらい話を思い出させるのも申し訳ない」。義昭さんが知っているのは、清美さんが弘前の部隊にいたということぐらいで、今となっては一枚の遺影が亡き父を知る思い出のよすがだ。
義昭さんは2018年2月に、周囲の後押しもあり、フィリピンの各島を渡る巡拝でレイテ島を訪れる機会を得た。妻・鏡衣さん(72)と2人で参加し、レイテ島カンギポット山を訪れ、祭壇に持ってきた清美さんの写真を置いて拝礼した。初めて父が戦死した地で手を合わせ「ここで亡くなったのかと感慨深い思いがあった。線香を上げられるとは思っていなかったので、行ってよかった」。現地では父を弔う手紙も読んだ。「戦死して70年近くもたっているので心の整理もできている」。そう思っていたが、父への思いがあふれたのか、うまく読み上げることができなかった。鏡衣さんも「初めて『お義父さん』と呼び、子も孫もいることを報告できた」と異国で無念の死を遂げた清美さんに思いをはせた。
敗色濃厚な時期に戦地に渡り、終戦の約1カ月半前に戦死した清美さん。義昭さんは「どうして戦地へ行かなければならなかったのか。多くの人がこの戦争で苦しめられたと思う」と語る。「国の主導の下で、戦うこと、戦って死ぬという今では考えられないことを教えていた。今の子たちは同じようなことを教わる必要がないように、平和であってほしい」。