記憶をつなぐ 終戦75年

 

2020/8/12 水曜日

 

 太平洋戦争が終結した1945年8月15日から、今年で75年の節目を迎える。戦争を知る世代が高齢化し減少する中、戦争はどのように語り継がれるのか。取材を通して浮き彫りにする。

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広島で被爆 弘前・川口光勇さん(95)

 

今でも大学時代に学んだ哲学書を開くという川口さん。「人間らしく生きることの大切さを考えさせられる」

 「あの惨状をいくら語っても、伝わるのは断片にすぎない。自分の思いと記憶を正確に伝えることは難しい」
 75年前の夏、川口光勇さん(95)=弘前市=は広島市で被爆した。20歳で徴兵されて陸軍船舶工兵隊に入隊し、8月6日は司令部のある広島市を訪れていた。
 原爆投下直後の広島市内にいたことを、川口さんは長らく語らなかった。戦後も被爆者に対する偏見や差別は続き、「被爆症状は遺伝する」などのデマが信じられ、被爆者と知られると結婚もできなくなると聞いていた。
 それだけでなく思い出すことのつらさがあった―と川口さん。子どもを抱きしめ、乳を含ませる姿勢で亡くなっていた母親の姿。「水をください」とすがる多くの人を上官命令で見捨てるしかなかった自分を思い出し、助けられなかった罪悪感にさいなまれた。
 訓練時代、中国戦線で戦ったという上官は民間人宅で、屋根裏に隠れた女性や子どもを確認するため天井を銃剣で何度も突き刺したことを語り、「自分たちも戦で負ければ家族がそうなる」と声を荒げた。
 船による特攻や銃剣一つで敵前へ突っ込む隊への募集もあり、これに応じた仲間は「遺書には天皇陛下のためにとうそを書くが、本当は親を敵国に殺されるのが嫌だからだ。親が死ぬ前に自分が死ぬ」と語った。
 「敵から国を守る、民間人を守るのが日本の“武士道”であり、自分たちの戦いだと思っていた。負けないために何でもやるしかないと思っていたが、広島では助けるどころではなかった。戦争はこういうものなんだと思い知らされた」
   ◆  ◆
 戦後は弘前大学を卒業し、津軽地域の学校で社会科教員として働いた。「戦争を漫画で学ぶ生徒もいたが、中には父が帰還兵で戦死した部下のため毎朝仏壇を拝んでおり、“自分が死んだら代わりに続けてほしい”と言われた生徒もいるなど、戦争は遠くなかった」
 現職中に被爆体験を語ることはなかったが、「戦争体験者として、人間は一人一人に尊厳があること、上の命令に従うだけが正しさではないこと、差別や弱い者を踏みにじることはあってはならないこと。それだけは子どもたちに伝えようと取り組んだ」
 川口さんが戦争の記憶を語り始めたのは、信頼できる同僚教師の説得を受けた定年退職後。その後も要望に応じて講演活動を続けてきたが、一時体調を崩したため現在は外出を控えめにしている。
 被爆から75年たち、かつて弘前市内に20人程度いた被爆者は現在、川口さんを含めてごくわずかだ。戦争体験を語る人も減り、戦争を知らない世代との間に断絶が生じていると感じており、依頼があれば語りたいとの思いを抱える。
 「われわれ世代がいなくなったら戦争はどう語り継がれるのか。戦争ではなく話し合いで物事を解決できる世界に正しく進んでいけるのか。今からそれを心配している」

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県護国神社宮司・齋藤毅さん(57)

2020/8/13 木曜日

 

社務所内に昨年設置した史料保管室で、遺族が大切にしてきた戦没者の遺品を見つめる齋藤宮司

 「戦没者の声なき声に耳を傾ける一方、遺族のやり切れない思いを鎮める場としても役割を果たしてきたが、遺族が減少する中、今後は別の役割が求められるかもしれない」
 そう語るのは、弘前公園内の一角にある「青森縣護國神社」(県護国神社)の齋藤毅宮司(57)だ。
 県護国神社は、函館戦争で命を落とした藩士を慰霊するため12代弘前藩主津軽承昭公が創建したのを由来とし、昨年で創建150年の節目を迎えた。現在は各府県1社を原則とする指定護国神社として、2万9184柱の県出身者を祭っている。
 齋藤宮司は1987年4月から神職として県護国神社に出仕し、2008年6月から宮司として神社に常駐。祭儀を執り行いながら戦没者遺族らの声に耳を傾け、神社敷地内に戦没者の氏名を記した祭神銘板を設置したり、昨年は遺品を集めた史料保管室を社務所内に設けたりと、遺族の思いに寄りそう活動をしてきた。
 一方で現在の県護国神社の在り方を「戦没者遺族が訪れる場として県民に誤認識されている部分がある」と指摘。終戦から75年が経過し、県内遺族の高齢化に伴って地域とのつながりが薄れ、神社の運営や活動が先細っていく可能性がある―と懸念を示す。
 戦没者を祭る県護国神社は一般的な神社と異なって氏子を持たず、県内遺族が神社を支えてきた側面を持つ。しかし県遺族連合会の会員は減少傾向で、将来的には基金を募って活動を継続する方針も、楽観視はできない状況だ。
 さらに今年は新型コロナウイルス感染症拡大が神社運営に影響を及ぼした。一般的な神社は年末年始に参拝客が訪れたり、各種祈とうをしたりするが、県護国神社に最も参拝客が集まるのは弘前さくらまつりの会期中。全国から訪れる人々の参拝が収益につながっていることから、祭り中止と園内閉鎖は大きな痛手となった。
 戦争の記憶が薄れ、遺族も減少する中、県内唯一の護国神社がどのように存続するのか、齋藤宮司も不安がないわけではない。それでも「日本に平和が訪れるまでに多くの犠牲があったことは忘れてはならない事実」と指摘。「宮司として声が出るうちははってでも祝詞を上げ、この神社を守りたい」とし、郷土の平和を祈る場として末永く存続することを願っている。

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青森空襲体験・村木義一さん(87)

2020/8/14 金曜日

 

当時の状況を話す村木さん

 75年前の7月末、青森市は米軍機による1時間余りの空襲で焼き尽くされ、1000人を超える貴い命が奪われた。当時12歳だった市内の村木義一さん(87)は「(燃えた街は)灰燼(かいじん)に帰すという言葉がぴったりな状態」と振り返る。
 B29爆撃機の編隊は1945年7月28日夜、青森市上空に姿を見せた。午後9時15分に警戒警報、同10時10分に空襲警報が発令された。翌29日午前0時22分に警報が解除されるまでに投下された焼夷(しょうい)弾は8万3000発に上る。1018人(第一復員省発表)が犠牲となり、市街地の81%が焼失したと言われる。
 この日の夜、市民病院(現在の青森銀行本店)近くの防空壕(ごう)に入った。防空壕は畑の中にあり真っ暗。目が闇に慣れてようやく人影が分かるくらいだった。そんな時、防空壕の外から叔父に呼ばれた。「義一、逃げた方がいい」。何も持たず、2人で逃げた。
 「ゴーゴー」という爆撃機の爆音が響き渡る中を必死に逃げる途中、上空がパッと明るくなった。光の束が広がりながら落ちてくる。民家の軒下に避難したが、爆音は「ドドッ、ドドッ」とあちらこちらから聞こえる。所構わずに落下する無数の光が地上衝突すると、火のついたゴムのり状のものを周囲に飛び散らせ、周囲にあるものすべてを焼いていく。木が燃える赤い炎と違い、その炎は真っ青だった。
 焼夷弾の雨を避けながら浦町駅(当時)近くまで逃げると、広いあぜ道に伏せ、燃える家並みを一晩中眺めていた。「もったいないとかそういう感情も何もないまま、人間の営みが一瞬でなくなった」
 家族と再会したのは夜が明けてから。父は当時4歳だった末の弟を背負い、頭から水をかぶって必死に逃げたようだ。母と姉の一人は橋の下の排水溝に潜り込んで夜明けを迎えたが、母は街を覆う煙で喉を痛めたのか、ひと月ほど声を出すことができなかった。
 中学校に行く途中には、生存者を探して焼けつぶれた防空壕を懸命に掘り起こす人を何人も見た。犠牲者の80%以上が、命を守るために身を潜めた防空壕で亡くなったという。実際、祖母もそこで帰らぬ人となった。「今思えば、防空壕のそばを走り抜けた時に『(防空壕の外に)逃げた方がいい』と声を掛ければよかった」と悔やむ。
 通常の火災であれば、黒こげになった柱や水をかぶった布団などが残る。しかし空襲は、一夜ですべてを灰にした。家は焼かれ、生活の痕跡は漬物石やかまど、焼けた鉄瓶くらいだった。「灰燼に帰すという言葉がまさしく当てはまる状態だった」と振り返る。
 75年の月日が流れ、青森空襲の記憶は薄れかけてきたことを懸念し「当時の生々しい状況を知り、平和について考えてほしい」と願う。現在の県都青森市が、多くの犠牲と一面の焼け野原の上にあることを、いつまでも忘れてはならない。

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弘前・三浦妙子さん(82)

2020/8/15 土曜日

 

父・若松軍吉さんが戦死した場所を地図で指し示す妙子さん
父が戦地から長女の京子さんに宛てたはがき。次女の妙子さん、長男隆さんの名もある

 戦地の父から届いたはがきは、幼い子どもも読めるよう片仮名で書かれていた。家族の様子を尋ね、「ナニカオモシロイコトガアリマセンカ オシラセクダサイ」と、家族が楽しく暮らす様子を知りたがる一文を添えた。
 他のはがきでは、子どもたちの写真や学校で描いた絵を送ってくれるようつづり、離れている家族に父が思いを募らせる様子がうかがえた。
 「父との会話の記憶はないが、とても優しい人だったと、母や姉が口癖のように話していた」と語るのは、弘前市の三浦妙子さん(82)。「父は他人が嫌がることを率先して引き受け、周囲を喜ばせることが好きな人だったと聞いた」
 北海道生まれの父・若松軍吉さんは、軍の上官に「彼なら娘を任せられる」と見込まれて結婚。妻たまえさんとの間に長女京子さん、次女妙子さん、長男隆さんと3人の子に恵まれたが、長女が小学生の頃に戦地へ。当時貴重だったあめを配属先から家族に送ってくれたこともあった。
 軍吉さんが隊長を務めた第35師団通信隊は1944年5月末、熱帯に位置する西部ニューギニア島に上陸した。現地の日本兵は飢餓や病に苦しみながら連合軍と交戦、撤退を続けたが、軍吉さんが率いる隊は川を渡る際に敵の急襲で全滅。軍吉さんは44年8月25日、30歳前の若さで亡くなった。
 家族思いの父は、遺骨として帰ってくることもなかった。
 北海道にいた一家は戦後、母方の祖父母を頼って弘前市に移住。母は戦地からの帰還者の伝言をラジオで流す「尋ね人」のコーナーを熱心に聞き、糸を巻いたボタンが勢いよく回ると離れている人が元気にしている―という占いをよくしていた。「父がどこかで生きていることを、母は願っていたと思う」
 妙子さんが中学生の時、学校へ提出する書類の父親の欄に「戦死」の文字があり、この時に父がいない理由を知った。戦死した学徒兵を描いた映画を学校の授業で見た時、周囲が戸惑うほど大声で泣いてしまったが、その理由は話せなかった。
 父が戦死した島へ、半日以上も飛行機を乗り継ぎ、妙子さんが初めて慰霊に訪れたのは1987年。その後も含め4回にわたり訪問したが、ジャングルに覆われた現地の土を踏むことはかなわなかった。
 上空の飛行機の中から手を合わせ、このジャングルにいた父はどんなに大変だっただろう、どれほど家族に会いたかっただろう―と胸が詰まったという。
 激烈な沖縄戦、2度の原爆投下、そして日本が迎えた8月15日の終戦。終戦の日を妙子さんは「今を生きる人が戦争で亡くなった人を悼み、平和を祈る日であってほしい」と言葉に力を込める。
 「世界のどこであっても、私たちのような思いを二度と誰にもしてほしくないのです」

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