Voice(ボイス) 津軽のトップインタビュー

 

農家のため挑戦続く=5

2019/11/3 日曜日

 

青研(弘前市)
 代表取締役 竹谷勇勝さん(75)
今夏から稼働している弘前市五代の新加工センター前にて。瓶ジュースの生産能力は2割向上したという

 うずたかく積み上げられた青色のコンテナが敷地に広がる。中に入っているのは契約農家が丹精込めて作ったリンゴだ。1日に3000~5000箱が弘前市五代の倉庫に集まってくる。訪れたのは収穫最盛期を迎えた10月末の月曜日。「土日は家族・親戚総出でリンゴをもぐでしょ。月曜は特に多いのさ」
 県庁勤務を約2年で終え、21歳でリンゴと米の複合農家を継いだが、1960年代のリンゴ産業は「再生産価格が得られないほどの安値だった」。背景には輸入果物の解禁、ミカン、リンゴの大豊作による供給過剰…。リンゴの大暴落で投棄が相次いだ68年の「山川市場」も経験した。
 閉塞(へいそく)状態を打破しようと、後継者仲間と24歳で青年りんご研究会(岩木町農協出荷組合)を発足させた。市場、問屋抜きの直売を計画し、トラックで首都圏に出掛けてリンゴを販売した。そこで得た顧客に産地から直送するも経費が重なり大赤字に。2年で頓挫した。
 同研究会を母体に1974年、立ち上げたのが株式会社青研だった。観光農園や通信販売を行うも、卸売市場主体の販売に戻したことで価格決定権がなく累積赤字は1億5000万円まで膨らんだ。「このままじゃいけない」と、89年に始めたのがリンゴジュース事業だった。
 生果では世界が認める本県のリンゴが、ジュース加工になると価値が低くなる。「甘味系、酸味系を組み合わせたこれまでにないジュースを作ろう」。試行錯誤の末にブレンド技術を確立し、当時珍しかったストレートジュースを製造した。
 スーパー名鑑を開いて全国に「サンプルまき」し、販売店の口コミなどで販路は増えていった。さらに安定経営を考え、ジュースを通年生産できる体制も整えた。
 これまでに16カ国・地域に生果やジュースを輸出し、現在も東南アジアを中心に出荷を続けている。鮮度保持効果があるスマートフレッシュ処理を早くから取り入れ、15年にはタイに14年産のリンゴを初輸出した。
 起業時からあるのは「農家の経営を安定させたい」という思いだ。葉とらず栽培による生産コストの削減だけでなく、農作業の省力化にも積極的に取り組む。
 「好きな言葉は、前は『全力投球』だったけど、今は『飽くなき挑戦』」。人口減少も後継者不足も悲観していない。来月で76歳。齢(よわい)を重ねてなお新境地を開き続ける。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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地域貢献利他の心で=4

2019/10/6 日曜日

 

弘南バス(弘前市)
 代表取締役社長 工藤清さん(63)
 弘前市駅前2丁目の和徳車庫にて。緊急時にはボタン一つで「緊急事態発生 警察に通報して下さい」(写真左上)と行き先表示が変わる

 バスのボディーに緑と赤の線で描かれているのは、社名の頭文字「K」をデザインしたロゴマーク。創立50年の1991年、企業イメージを統一する「コーポレート・アイデンティティー」を導入したことで一新されたものだ。戦前から「地域の足」として重要な役割を果たしてきた会社が、新たな一歩を踏み出した年に入社した。
 前職はバイヤー。数字を追い掛け、数字に没頭する日々に「思うところがあり」転職を決意した。職業安定所で見つけたのが弘南バスの求人。「もっと地域と関わり貢献できる仕事がしたい」。35歳での中途採用だった。
 社長に就任するまでほぼ乗合、高速部門に籍を置いた。入社直後から関わったのは、路線がある当時の28市町村で構成した「津軽地域路線バス維持協議会」(93年発足、2003年解散)。マイカー保有が増え利用者が減る中、国や県の補助制度対象外の路線は「一民間企業では存続が難しい。みんなで支援しましょうと―」。
 赤字の負担方法(補助金額)を自治体間で決めるための同会で、事務局として調整や申請作業などに奔走した。「総論では賛成。でも各論となると自治体に温度差があって…。一企業に補助金を出すことへ反対もありました」と振り返る。18年度の売上構造は乗合42%、高速37%、貸し切り22%。輸送人員はピークだった1968年度の4166万人から減り続け、2018年度には8分の1の511万8000人まで落ち込んだ。公的な補助のほかに高速、貸し切りの黒字で路線バスの赤字を補填(ほてん)しているが、急激な業績アップは難しい。加えて業界全体が深刻な運転手不足に直面している。
 今年で創立78年。一つの区切りとして100年続く会社を社内目標に掲げている。「縮小均衡。堅実に会社を存続させていく」。日ごろバスに乗らない層への利用促進に取り組む「バスぷらすプロジェクト」も、すぐに結果が表れるものではないが「地道に継続していく」つもりだ。
 経営方針の根底にあるのは「利他の心」。「(京セラの創業者で経営破綻した日本航空を再建させた)稲森和夫さんの本に出てくる言葉。自分の利益だけを追求せず、地域を含めた周りのことを考えながら適正な利益を確保し、会社を存続させていく。存続できてこそ地域のためになると思いながら毎日やっている」。社長就任から7年、それを体現してきた自負がある。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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安全・安定供給に全力=3

2019/9/15 日曜日

 

弘前ガス(弘前市)
 取締役社長 齊藤嘉春さん(68)
弘前市松ケ枝の本社にある球形ガスホルダー前にて。1基に入るガス量は3000立方メートル。全契約家庭に供給する約4日分の量に相当する

 JR弘前駅から奥羽線沿いに北へ車を走らせて数分。市街地の中に巨大な緑の球が二つ見えてくる。ガスホルダーと呼ばれる球形のガスタンクだ。高さ約20メートル。中は天然ガスが入っている。「地中の奥までくいを打って耐震基準など安全性は十分確保しています。都市ガスは空気よりも軽いので、万が一壊れたとしてもガスは上に昇っていきますよ」
 ここから弘前市内に巡らされたガス導管を通じて、家庭や商業施設など1万8264件(2018年12月末)に供給されているのが、いわゆる「都市ガス」である。
 大学を卒業し首都圏の電気関係の会社に就職。長男だったこともあり、3年後に地元にUターンして入社したのが弘前ガスだった。
 前職の経験を生かし、入社した年に最初の球形ガスホルダーの設計に携わった。以後「製造、経理、営業、検針、集金など、ほとんどの会社の業務を実地でやった」。
 47歳で4代目の社長に就任。「後をどうするのかきちんと体制を考えるのがトップの仕事の一つ」と言う。エネルギー業界は垂直統合型のビジネスが変わりつつある。2016年に電気が、17年にはガスの小売りが始まった。さらに少子高齢化は装置産業に大きな影を落とす。メインの都市ガス事業の先行きを見据え、18年から電気の小売りを始めた。
 好きな言葉「夢に向かって前進」は自身の経験に基づく。「願望があるからこそ努力できる。努力なしには(目標に)到達できないのだから。結果が確実に出るわけではないけれど、やらないよりはやった方が自分のプラスになるでしょ」
 11年の東日本大震災で都市ガスは影響なかったが、灯油やガソリン不足が発生。関連会社のガソリンスタンドにも車が長い列をなした。「幸い在庫が切れた後もガソリンが入りましたし、灯油はかなり在庫がありましたから」。途中で供給制限を設けるも、他のスタンドより長く提供でき、顧客以外の灯油配達依頼にも応じられた。
 液化天然ガスは自社の車で引き取りに行く契約にし、リスクがあっても在庫を多く抱える。取り扱うエネルギー資源に共通するのは「基本的に(供給は)止めない。絶対に在庫を切らさない」という考え。全てはエネルギーの安定供給と市民の生活を守るために「コストはかかるけど二重三重のガードをしている」。震災後に届いたたくさんの礼状は、今も手元にある。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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続けることの難しさ=2

2019/9/1 日曜日

 

弘前天賞堂(弘前市)
 代表取締役社長 三上美知子さん(69)
弘前市代官町の本店店内にて

 自己紹介でのつかみ文句は「てんてんてんの天賞堂でございます―」。このひと言で「あー、あの店の!」と分かってもらえるだけのテレビコマーシャルをつくった。
 自他共に認める仕事人間。「若い時はいろいろなアイデアが浮かび、それをいかに形にしていくかを常に考えていましたよ」
 差別化を図れるインパクトある広告にしたいと、コマーシャル出演をお願いしたのは民謡歌手の黒石八郎さん。「てんてんてんの天賞堂~」と八郎さんが明るい声で歌うフレーズの元は、子どもたちが小さい頃に口ずさんでいたものだ。
 生まれは東京。実家は今の業種と同じ宝石や貴金属の小売り、宝飾品の輸入、加工などを行っていた。前社長で夫の清吾さんとは東京の眼鏡専門学校で知り合い、結婚を機に弘前に移った。
 清吾さんが病を患ったことで3年前に社長に。それまでも営業や接客、銀行や税務署などとのやりとりは自身が行っていたため「自然体で気負うことなく」就いた。
 全てのことに責任を取れるのが「社長」と言う。「お金のこともだし。どんなお客さんが来ても平気。ひどいクレーマーも私が対応しますよ」
 店は貴金属の買い取りでは県内のパイオニア。中でも難しいとされるダイヤモンドの鑑定・買い取りは自ら行う。厄よけに長いものを持つ風習から、パールのネックレスを売り出す「パールフェア」も25年前に先駆けて始めた。入卒を控え、商売が低調になると言われる「二八(にっぱち)」の2月にぶつけて。「先駆者的なことをしてきました。批判するのは簡単だけれど、ものを生み、形にするのはどれだけ難しいか―」
 弘前商工会議所で女性会の会長のほかに常議員を務めるが、女性は自身を含めて2人。男性が多い場に女性の声を届けるため、幅広い視点で世の中を見る機会が増えた。
 座右の銘は「目配り、気配り、心配り」の「三つの配り」。思ったことを貫くためには相手が何をしてほしいか考え、周りに気を使い、優しい気持ちで接するのを心掛けている。
 10年、20年先を見越してこつこつやってきた。商売人の父を幼い頃から見てきたからこそ「続けるのが大変」なのは身をもって分かっている。「いつ(店が)つぶれてもいい覚悟はできているの。そのくらいの気構えがなければ商売できないですよ。普段こんなこと言わないけどね」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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「人」が社会をつくる=1

2019/8/18 日曜日

 

弘前公益社(弘前市)
 代表取締役 清藤哲夫さん(69)
弘前市南城西の公益セレモニーホール前にて。初めて手掛けた葬祭ホールであり「出発点」と語る

 弘前商工会議所会頭にアップルウェーブ社長、弘前観光コンベンション協会顧問―。今ある肩書は40ほど。分野も観光、商工、文化、医療、教育と幅広い。
 これらは「世の中とどう関われるか」「街のために何ができるか」を考えて積極的に外に出ていった結果だ。
 教えてくれたのは弘前青年会議所。(1)指導力開発(2)経営者開発(3)社会開発(街づくり)。その理念は会社の品質方針にも表れている。
〈私達は仕事を通して信頼され、地域社会のお役に立てる会社でありたい。〉
 祖父謙次郎が明治25(1892)年に興した清藤造花店に、24歳で入社。父謙二の代までは、祭壇に飾る造花を作っていた。業界の将来を考えて県内の同業者を訪ねて話を聞いたが、答えをもらえなかった。仙台、東京と行っても結果は同じ。答えがあったのは意外にも北海道だった。
 そこにあった「冠婚葬祭互助会制度」と「葬祭ホール」に、「清藤造花店のままでは戦えない」と思った。造花を作る「製造業」から葬祭全般を請け負う「サービス業」へのシフトを決意。当時50代後半だった父は「もう自分の時代ではない。任せる」と言ってくれた。株式会社化して社名を弘前公益社にし、32歳で代表取締役に。「おやじが僕を信じてくれなければ、今の会社はなかった」と振り返る。
 「誠実」を信条にやってきた。武富士事件(※編注)の後、当時の武富士社長から電話があった。「市内で一番格の高い寺で(葬儀を)やりたい」
 朝に普段通り出社していった人たちが午後には亡くなって帰る。被害者遺族のやり場のない怒りと悲しみを考えれば、儀式をどうするかよりも「ご遺体の安置とご遺族の希望を聞くのが先です」と話を戻し、社員を遺族の元に向かわせた。
 遺族の心に寄り添って「送る」「弔う」が仕事の原点。葬祭業が「究極のサービス業」だと言われるゆえんもそこにあると考える。だからこそ強く訴えるのは人材育成の大切さ。社員と経営者との信頼関係が、会社が社会から信頼されることにつながるからだ。
 「全ては人だよ。人が社会をつくるんだ」
 良い会社も良い街も「人」次第なのだ。
※編注 武富士事件=2001年5月、消費者金融「武富士弘前支店」で起きた強盗殺人・放火事件。ガソリンによる放火で5人が亡くなった

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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