Voice(ボイス) 津軽のトップインタビュー

 

「現場力」が差別化に=25

2020/9/20 日曜日

 

シバタ医理科(弘前市)
 代表取締役会長 阿部隆夫さん(70)
弘前市高田の本社ロビーにて。会社を象徴するものとして選んだ看板と一緒に。中央に描かれているのは社章で、2009年に本社社員約100人が記名した。「このうち6人くらいしか辞めていない。多くが定着してくれている」

 「現場回り主義」を自認する。ほとんどの現場を回り、売り上げや現状、そこでの社員の評価をも把握している。「“渉外部長”も“経理部長”も何でもやらないと社員は信頼してくれないでしょ」
 たまたま見た新聞の求人広告に応募し、20歳で入社したのが、仙台市に本社がある医療機器販売業者の弘前営業所だった。個人病院の一角を事務所にした4人だけの営業所は、後にシバタ医理科と改称、法人化し、売り上げもシェアも県内トップを誇る医療機器販売業者になった。県内5カ所と大館市に拠点があり、社員は約140人を数える。
 400坪ある弘前市の本社倉庫では、30万アイテムを常時扱う。数だけでなく、金額も驚くことなかれ。総額は20億円近くに上る。
 膨大な在庫は「お客さまに迷惑を掛けないため」。取引先は現在約420件。医療機関以外に大学の研究施設や公的研究機関、農協、民間企業にもさまざまな資器材を販売するが、「届けて終わり」ではない。設置から操作方法の説明、保守・管理もする。手術時は数ある製品の中から、必要なものを選び納品。表舞台に立つことは多くないが、医療や研究など地域を支える大切な仕事。その業界の地位向上にも力を注いできた。
 創業者の尾形直士前社長から引き継ぎ、2005年に社長になった。流通インフラが壊滅状態になった東日本大震災や、医療防護具の中国依存を痛感したコロナ禍などを在任中に経験。コストが掛かっても、絶対に供給は切らさないという会社の使命を再認識した。
 この業界に携わり半世紀。「会社の源は社員」という考えの下、命に関わる仕事の責任と誇りを社員に訴え続けてきた。他社と差別化できたのは、医師や関係者から信頼を得て仕事につなげる「現場力」があったからこそと言い切る。
 土日関係なく不規則な労働時間になりがちな業種だが、10年間の会社離職率はわずか2%。女性の営業も多く、昇進に男女差はない。人材の定着は、根気よく社員を育て上げる自身の姿勢が会社全体に浸透しているからと考える。
 今年4月、前社長の息子尾形慎哉副社長に社長の席を譲り、会長になった。70歳を過ぎて体力や集中力の衰えを感じ始めたからだ。
 しかし現場回り主義はやめない。今も手術のサポートに立つ。
 「この仕事は大変だけれど、お金ではないリターンがあるから」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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人がやらないことを=24

2020/9/6 日曜日

 

弘前アレッズ(弘前市)
 代表兼監督 久保良太さん(43)
弘前市のはるか夢球場にて、高校生との交流戦の合間にマウンドに立ってもらった。設立当初から続けているインターネット中継はこの日も行った

 学歴がコンプレックスだった。必ず「大学は?」と聞かれるから。多くが大学に進学する中で、弘前高校卒業後、伯父が経営する会社に入社した。学生生活を楽しむ同級生たちを見て決めた。「社会人としてのスキルを上げよう。誰もやりたがらないことを率先してやろう」と。
 県内初の市民球団として2012年に始動した社会人硬式野球チーム「弘前アレッズ」も、その志が発端。地元の社会人野球チームに所属していたが、現状を嘆いても変えるために動く人はいなかった。「なら自分が動こうと-」。多くの協力者を得て発足し、地元企業や個人の支援を得て運営してきた。
 地元で働きながら好きな野球を存分にできるだけでなく、プロへの夢を追い続けられる環境をつくりたかった。プロ輩出とクラブ日本一がチームの目標。18年からは監督も兼務し、練習メニューなどを選手が考えて実践する選手主導のチームづくりをしてきた。
 モットーは「野球人である前に立派な心を持った社会人であれ」。野球を通じて選手たちが社会人としてのスキルを磨き、それぞれが働く企業で活躍してもらうのが設立からの願いでもあるからだ。
 地域課題の解決に取り組むのもチームの使命と考える。清掃活動、リンゴもぎ、雪かきといったボランティア活動、野球教室や試合の動画配信などの普及活動は設立当初から続けている。
 少子化や野球離れが叫ばれる中で、未来への投資とも言うべき地道な活動だが、ボランティアの限界を痛感した一件がある。未経験の子どもを対象に定期的に行う野球教室が、指導者が確保できず1シーズンで頓挫(とんざ)してしまったのだ。指導者不足も野球を取り巻く課題の一つで、職業として成り立つ体制の必要性を訴える。
 8月9日には、弘前市のはるか夢球場で、市内2高校とアレッズの交流戦を行った。新型コロナウイルスの影響で、甲子園という夢を突然断たれた球児にたちに、球団として何ができるか考えた。さまざまな制約がある中、方々に掛け合って実現できたのが、感染予防対策を行った上での有観客試合だった。
 高校野球ファンら家族以外の声援も浴びながら、球児や選手たちが何度も見せた笑顔。「喜んでいる姿を見てやって良かったと思いました。やっぱり野球は楽しいのがいい」
 勝つだけが目的ではないスポーツ本来の姿がそこにあった。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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現状維持 後退と同じ=23

2020/8/23 日曜日

 

共立設備工業(弘前市)
 代表取締役社長 齋藤貴之さん(50)
弘前市小比内の倉庫にて。整然と並べられた機械や工具類に汚れはない。作業の効率化や安全につながるだけでなく、高価な機材を「長く大事に使ってもらえる」。右後ろの可動式の棚は特注品。社員からの発案だ

 蛇口をひねれば水が出る。トイレを使ったら排水される。エアコンをつけると風が出てくる-。便利な生活ができるのは、天井や壁の中に巡らされた配管のおかげ。「建物の“血管”とも言うべき目には見えない部分。でも必ずなければいけないもの」。空調や水回りの設備工事会社を経営する。
 土木建設業を営んでいた妻の父が亡くなり1997年4月、義母が社長で子会社だった共立設備工業に請われて入社した。それまでは仙台市でスーツ販売や商社で設備機材の仕入れを担当。未経験の業界で、現場で汗を流し、営業に走った。
 入社4年目、経営に直接関わりたいと義母に直談判して副社長になった。「このままだとまずい」と思ったからだ。仕事をこなすだけの社員。見積書は手書きで、人によって材料の単価はばらばら。現場数の把握も現場名も統一されていない「ルールのない」状態。どんぶり勘定で赤字現場が続き、借金があったことも知った。
 コストの無駄を省き業務の効率化を図るため、独自の管理システムを構築した。受注金額、人件費、外注費を現場がすぐ把握できるよう、情報の可視化と共有を徹底するといった経営改革を断行。社員に納得してもらうため、根気よく訴えた。
 すると会社は収益増に。結果が給与やボーナスで還元されると、社員は主体的に働くようになり、風通しの良い職場と好循環を生んだ。人手不足が深刻な業界で採用難とは無縁で定着率も高い。借金は4年で返済し、売り上げは右肩上がりだ。
 2018年には銀行の紹介で後継者がいなかった八戸市の葵工業を合併・買収(M&A)した。同市に拠点ができた上に人材も確保。葵工業は財務面が改善できた。雇用や技術、設備といった企業資本が、後継者不在による廃業で失われることを、地域の大きな損失だと考え、今後もM&Aを積極的に進めていく方針だ。
 好きな言葉を問うとダーウィンの進化論を挙げた。「唯一生き残るのは変化できる者である」。ゼロから苦労してつくり上げ、絶対の自信がある管理システムが変わるのもいとわない。「現状維持は後退と同じだから」。
 逆に「これだけは変えない」と即答したのは「チーム共立」。全員が会社の方針に納得した上で、年代や職種、立場の違いを超えて同じ意識で取り組む姿勢をこれからも大事にしたいと話す。「私の根底にあるものです」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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歩いて変わった人生=22

2020/8/9 日曜日

 

青森県ウオーキング協会(青森市)
 会 長 中嶋與志久さん(72)
“庭”だと話す青森市の青い海公園を、ウオーキングの格好で歩いてもらった。首元に巻くスカーフ止めには、ウオーキング発祥の国オランダで購入した木靴を使っている

  腕を大きく振り、大きな歩幅で歩く姿が堂に入る。普段の歩幅(身長マイナス100センチが目安)より、2~3割増しで歩くと股関節が鍛えられ、かかとから足を着くとつまずき防止になるそうだ。
 大手旅行会社に勤め、東京に単身赴任していた40代前半。不規則な生活や偏った食事がたたり、「健康診断でドクターストップがかかってしまった」。
 医師から生活を変える必要性を説かれ、始めたのがウオーキングだった。日本ウオーキング協会にたまたま営業で出入りしていた縁で歩き方を学び、出勤前には近所の公園を、出張先ではホテル周辺を歩くことを続けた。
 すると「1カ月後、あらゆる数値が下がっていた」。健康効果を身をもって知ったのが、後にライフワークとなるウオーキングとの出合いだ。
 当時、全国規模のウオーキング大会があったのは首都圏だけ。
 「こんなに良いものなら全国に広めたい」と思い、会社を通じてイベント相談を受けた鹿児島県指宿(いぶすき)市に、ウオーキング大会を初めてプレゼンしてみた。
 「なんと、その場で決まって4カ月後に開催。自信になったね」
 それを皮切りに順調に大会が増えていった九州と対照的に、東北では苦労した。自治体からは「前例がない」と何度も断られたが、根気よく足を運んで大会開催に結び付けた。
 県ウオーキング協会立ち上げにも尽力。青森市勤務になった2000年に協会が設立すると事務局長となり、7年かけて県内17市町村に加盟クラブをつくっていった。現在16市町村が加盟しているが、加盟率は全国一を誇る。18年には県内の主要大会を集約した「リーグ制」を創設。各大会の周知と参加者増加につなげた。
 しかし長年の生活習慣に基づいた県民意識を変えるのは容易ではなく、高齢者のスポーツというイメージも根強い。若者や育児世代に広めるべく、ニュースポーツとのコラボレーションを関係団体と模索中だ。
 ウオーキング大会の運営は多くが「半民半官」。人口減少や会員の高齢化で、予算や運営面で厳しい現状を理解しつつも、県内の大会を一つでもメジャーにしたい思いがある「大きな大会は経済効果も大きいが、健康面から言えばウオーキングは億単位の効果があるよね。健康寿命が延びれば医療費削減になるのだから」
 目標は県内全市町村に加盟クラブをつくること。ウオーキングの“伝道師”としての歩みを止めることはない。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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師の踊り守り続ける=21

2020/7/19 日曜日

 

弘前石川流やまぶき会(弘前市)
 会主 石川真紀子さん(66)
弘前市田園の本部道場にて。後ろには師匠石川義衛さんの写真とともに、過去に獲得した賞状やトロフィーがずらりと並ぶ

 基本姿勢は中腰のつま先立ち。立ったりしゃがんだりと激しい動きとともに目を引くのは、指先まで神経の行き届いた優美な手の動きと、切れのある足運びだ。
 津軽民謡に合わせて踊る郷土芸能として、親しまれてきた津軽手踊り。県内最大流派となった石川流の一翼を担う「弘前石川流やまぶき会」を主宰する。
 祖母も母も民謡が好きで、民謡が流れているのが当たり前の生活だった。母が民謡教室に通い始めたのがきっかけで、中学3年生から手踊りを始めた。
 「じょんから節はあの人、あいや節はあの人」と、手踊りのうまい人がいると聞けば訪ねて習い、高校生で津軽五大民謡を踊れるまでになっていた。
 一方で「どこの踊りっ子だ?」と尋ねられるようになり、「その時にきちんとした先生につきたいと思ったんです」。
 師匠を求めて母と訪れたのが石川流の創設者石川義衛さんだった。「今まで覚えた踊りを全部捨てるなら教える」と言われ、一から学ぶことを決意した。
 看護師志望で、看護学校在学中は「実習中も手が自然に動くのさ」と笑って振り返るほど踊りに熱中。看護師になってからも、3交代制という不規則な生活にもかかわらず、夜勤明けでも練習や大会に臨んだ。
 21歳の1975年にやまぶき会を発足させ、23歳で「石川」の名をもらう名取と同時に師範となった。会は全国大会や県大会で何度も優勝。ロシアやアメリカ、中国といった海外公演のほか、福祉施設への慰問や地元のイベント出演にも積極的に取り組み、手踊りの普及と発展に努めてきた。
 病を患ったことをきっかけに、定年まで続けるつもりだった看護師を35歳で退職した。「いつ死ぬか分からないと思ったから。子どもたちにもやれる時にやっておかないと後はないんだ、と言っています」。
 会の発足から45年。一貫しているのは義衛さんの踊りを忠実に守り続けること。大会で編成を変えることはあっても基本は崩さない。「新しいことができなくて。それしかできないんだけど」と謙遜するが、師匠から生前に掛けられた言葉がうれしかった。
 「自分の踊りを変えずに踊り、守っているのは真紀子だけだ-」
 「手と足の動きが力強くありながら繊細。それが先生の踊り。かなうものではないけれど、それを目指している」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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