Voice(ボイス) 津軽のトップインタビュー

 

信用積み重ねて114年=27

2020/10/18 日曜日

 

菊池薬店(弘前市)
 取締役会長 菊池清二さん(82)
菊池薬店を右後ろに、通称下土手町のスクランブル交差点角に立ってもらった。店舗正面には、創業100周年を記念して復元した、店名の金看板が掲げられている

  手すりにつかまりながら、事務所に続く階段を上っていく足取りは年齢を感じさせない。祖父が1906(明治39)年に興した菊池薬店で、今も薬剤師として接客する。店があるのは弘前市の中心街・土手町で、一番町と百石町に接する交差点角。商店街活性化にも熱心に取り組んできた。
 東北大学経済学部を志望して受験までしたが、2代目の父に勧められて受けた東京薬科大学に合格。薬学を学んで薬剤師になり、東京の薬品卸会社に就職した。病院を回って薬の配達や販売をしていたところ、店の薬剤師が退職することに。2年間の“修業”を終えて63年に入社した。
 3代目の社長になったのは35歳の73年。当時の業態は医薬品の卸業が主だったが、国内では卸業が集約されつつあった。「価格競争になったら勝てない」と小売業への転換を決断。卸部門を切り離し、87年には大手卸業の東邦薬品と合弁会社「菊池」を設立した。5年ほどで事業を東邦薬品に譲渡し、社員は同社が受け入れた。
 小売業の基礎方針になったのは、薬局・薬店でつくる自主組織「日本薬局協励会」の基本理念「最大よりも最良の薬局たらん」だった。同会のさまざまな研修や勉強会を通じて対面相談販売に徹することを決め、今で言う「かかりつけ薬局」のような役割を、制度ができる前から続けてきた。
 規制緩和や大型ドラッグストアの台頭など、「街の薬屋さん」を取り巻く販売環境は年々厳しくなっている。その中で店が続いてきたのは、顧客一人ひとりと親身に向き合ってきたから。差別化と信用につながったと考える。「経営学的なことは何も学ばなかったけれども、方向性は間違っていなかった」と振り返る。
 後継者問題が長年の悩みだったが、5月に長男の清長(きよたけ)さんへ社長を引き継ぎ、会長に退いた。「健康サポート薬局」という新たな制度下で、地域住民の健康支援といった役割が求められている薬局。さらにコロナ禍ではインターネット販売の利用や巣ごもり需要が増え、小売業は店舗運営の転換を迫られている。「それらへの対応は、新社長の経験と感性に期待したい」と語る。
 展望を聞くと「街づくりに専念する」と即答した。きょう10月18日は82歳の誕生日。元気の秘訣(ひけつ)は歩くこと。衰えない行動力と実行力で、次は商店街のためにまい進する。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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出版で一隅を照らす=26

2020/10/11 日曜日

 

小野印刷所(弘前市)
 代表取締役 木村和生さん(48)
弘前市富田町の本社にて。大量に高速印刷できるオフセット印刷機の前に立ってもらった。全長は約7メートルあり、25年以上使っている。製本で使う昭和40年代の機械も現役だという

 年間500件以上の出版印刷物を取り扱う印刷会社の創業は、ラジオ放送が始まった1925(大正14)年。25歳で入社し、創業者の小野吾郎さんと親戚だった父木村義昭さんから引き継いで、2005年に33歳で3代目の社長になった。
 就任してからの15年間を「失敗の連続」と振り返る。「脱印刷」を図ろうと、ウェブやシステム開発を試みるも、大きな成果は出せなかった。
 会社の業況が良くない時、会社の「歴史」に何度も助けられてきた。最近では新型コロナウイルスの影響でイベントなどが相次いで中止になった時。ポスターやチラシ、パンフレットの受注が激減した中、夏に大きな仕事が舞い込んだ。「それも他と比べて(印刷料金が)安いからとかではなく、これまでの実績が評価されて」
 「会社の強みは歴史そのもの。どんなに優れた人や会社でも時間だけは買えない。長い目で見るとマイナスの経験もプラスになっている」と晴れ晴れとした表情で話すが、今年の初めに心の状態が不安定になっていたことを明かした。
 過労が重なり「できることができなくなってしまった」。無気力に近い状態を克服できたのは、考え方を一新できたから。コロナ禍で会合や出張が一切なくなり、子どもが生まれたのが幸いした。働き方が激変した世の中と、時に思い通りにならない育児の経験は、仕事に対する意識を変えてくれた。「自分がやらなければという思いが強かったが、やめてもたいして変わらない。周囲が支えてくれているのも分かった」
 子どもにどんな人生を歩んでほしいかを考えたら、社長や会社は「こうあるべき」という価値観やこだわりを捨てられた。他者との比較や他者の期待を満たすこともやめたら、心が軽くなった。
 経営理念にもある天台宗開祖・最澄の言葉「一隅を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」が座右の銘。「光の当たらない片すみ(一隅)に光を当てるのが、出版を含めたメディアの仕事であり、出版物を通してお客さまの価値を高めるのが使命」だと語る。
 関連企業で出版社の北方新社代表でもある。「印刷」と「出版」の両輪を持つのも強みだが、どちらも斜陽産業。業界が一層厳しい状況になる覚悟はある。一方で「今までにない出版の“芽”が出てくる」のも確信している。その芽を見落とさない経営者であり、一隅を照らす会社でありたいと願う。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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「現場力」が差別化に=25

2020/9/20 日曜日

 

シバタ医理科(弘前市)
 代表取締役会長 阿部隆夫さん(70)
弘前市高田の本社ロビーにて。会社を象徴するものとして選んだ看板と一緒に。中央に描かれているのは社章で、2009年に本社社員約100人が記名した。「このうち6人くらいしか辞めていない。多くが定着してくれている」

 「現場回り主義」を自認する。ほとんどの現場を回り、売り上げや現状、そこでの社員の評価をも把握している。「“渉外部長”も“経理部長”も何でもやらないと社員は信頼してくれないでしょ」
 たまたま見た新聞の求人広告に応募し、20歳で入社したのが、仙台市に本社がある医療機器販売業者の弘前営業所だった。個人病院の一角を事務所にした4人だけの営業所は、後にシバタ医理科と改称、法人化し、売り上げもシェアも県内トップを誇る医療機器販売業者になった。県内5カ所と大館市に拠点があり、社員は約140人を数える。
 400坪ある弘前市の本社倉庫では、30万アイテムを常時扱う。数だけでなく、金額も驚くことなかれ。総額は20億円近くに上る。
 膨大な在庫は「お客さまに迷惑を掛けないため」。取引先は現在約420件。医療機関以外に大学の研究施設や公的研究機関、農協、民間企業にもさまざまな資器材を販売するが、「届けて終わり」ではない。設置から操作方法の説明、保守・管理もする。手術時は数ある製品の中から、必要なものを選び納品。表舞台に立つことは多くないが、医療や研究など地域を支える大切な仕事。その業界の地位向上にも力を注いできた。
 創業者の尾形直士前社長から引き継ぎ、2005年に社長になった。流通インフラが壊滅状態になった東日本大震災や、医療防護具の中国依存を痛感したコロナ禍などを在任中に経験。コストが掛かっても、絶対に供給は切らさないという会社の使命を再認識した。
 この業界に携わり半世紀。「会社の源は社員」という考えの下、命に関わる仕事の責任と誇りを社員に訴え続けてきた。他社と差別化できたのは、医師や関係者から信頼を得て仕事につなげる「現場力」があったからこそと言い切る。
 土日関係なく不規則な労働時間になりがちな業種だが、10年間の会社離職率はわずか2%。女性の営業も多く、昇進に男女差はない。人材の定着は、根気よく社員を育て上げる自身の姿勢が会社全体に浸透しているからと考える。
 今年4月、前社長の息子尾形慎哉副社長に社長の席を譲り、会長になった。70歳を過ぎて体力や集中力の衰えを感じ始めたからだ。
 しかし現場回り主義はやめない。今も手術のサポートに立つ。
 「この仕事は大変だけれど、お金ではないリターンがあるから」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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人がやらないことを=24

2020/9/6 日曜日

 

弘前アレッズ(弘前市)
 代表兼監督 久保良太さん(43)
弘前市のはるか夢球場にて、高校生との交流戦の合間にマウンドに立ってもらった。設立当初から続けているインターネット中継はこの日も行った

 学歴がコンプレックスだった。必ず「大学は?」と聞かれるから。多くが大学に進学する中で、弘前高校卒業後、伯父が経営する会社に入社した。学生生活を楽しむ同級生たちを見て決めた。「社会人としてのスキルを上げよう。誰もやりたがらないことを率先してやろう」と。
 県内初の市民球団として2012年に始動した社会人硬式野球チーム「弘前アレッズ」も、その志が発端。地元の社会人野球チームに所属していたが、現状を嘆いても変えるために動く人はいなかった。「なら自分が動こうと-」。多くの協力者を得て発足し、地元企業や個人の支援を得て運営してきた。
 地元で働きながら好きな野球を存分にできるだけでなく、プロへの夢を追い続けられる環境をつくりたかった。プロ輩出とクラブ日本一がチームの目標。18年からは監督も兼務し、練習メニューなどを選手が考えて実践する選手主導のチームづくりをしてきた。
 モットーは「野球人である前に立派な心を持った社会人であれ」。野球を通じて選手たちが社会人としてのスキルを磨き、それぞれが働く企業で活躍してもらうのが設立からの願いでもあるからだ。
 地域課題の解決に取り組むのもチームの使命と考える。清掃活動、リンゴもぎ、雪かきといったボランティア活動、野球教室や試合の動画配信などの普及活動は設立当初から続けている。
 少子化や野球離れが叫ばれる中で、未来への投資とも言うべき地道な活動だが、ボランティアの限界を痛感した一件がある。未経験の子どもを対象に定期的に行う野球教室が、指導者が確保できず1シーズンで頓挫(とんざ)してしまったのだ。指導者不足も野球を取り巻く課題の一つで、職業として成り立つ体制の必要性を訴える。
 8月9日には、弘前市のはるか夢球場で、市内2高校とアレッズの交流戦を行った。新型コロナウイルスの影響で、甲子園という夢を突然断たれた球児にたちに、球団として何ができるか考えた。さまざまな制約がある中、方々に掛け合って実現できたのが、感染予防対策を行った上での有観客試合だった。
 高校野球ファンら家族以外の声援も浴びながら、球児や選手たちが何度も見せた笑顔。「喜んでいる姿を見てやって良かったと思いました。やっぱり野球は楽しいのがいい」
 勝つだけが目的ではないスポーツ本来の姿がそこにあった。

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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現状維持 後退と同じ=23

2020/8/23 日曜日

 

共立設備工業(弘前市)
 代表取締役社長 齋藤貴之さん(50)
弘前市小比内の倉庫にて。整然と並べられた機械や工具類に汚れはない。作業の効率化や安全につながるだけでなく、高価な機材を「長く大事に使ってもらえる」。右後ろの可動式の棚は特注品。社員からの発案だ

 蛇口をひねれば水が出る。トイレを使ったら排水される。エアコンをつけると風が出てくる-。便利な生活ができるのは、天井や壁の中に巡らされた配管のおかげ。「建物の“血管”とも言うべき目には見えない部分。でも必ずなければいけないもの」。空調や水回りの設備工事会社を経営する。
 土木建設業を営んでいた妻の父が亡くなり1997年4月、義母が社長で子会社だった共立設備工業に請われて入社した。それまでは仙台市でスーツ販売や商社で設備機材の仕入れを担当。未経験の業界で、現場で汗を流し、営業に走った。
 入社4年目、経営に直接関わりたいと義母に直談判して副社長になった。「このままだとまずい」と思ったからだ。仕事をこなすだけの社員。見積書は手書きで、人によって材料の単価はばらばら。現場数の把握も現場名も統一されていない「ルールのない」状態。どんぶり勘定で赤字現場が続き、借金があったことも知った。
 コストの無駄を省き業務の効率化を図るため、独自の管理システムを構築した。受注金額、人件費、外注費を現場がすぐ把握できるよう、情報の可視化と共有を徹底するといった経営改革を断行。社員に納得してもらうため、根気よく訴えた。
 すると会社は収益増に。結果が給与やボーナスで還元されると、社員は主体的に働くようになり、風通しの良い職場と好循環を生んだ。人手不足が深刻な業界で採用難とは無縁で定着率も高い。借金は4年で返済し、売り上げは右肩上がりだ。
 2018年には銀行の紹介で後継者がいなかった八戸市の葵工業を合併・買収(M&A)した。同市に拠点ができた上に人材も確保。葵工業は財務面が改善できた。雇用や技術、設備といった企業資本が、後継者不在による廃業で失われることを、地域の大きな損失だと考え、今後もM&Aを積極的に進めていく方針だ。
 好きな言葉を問うとダーウィンの進化論を挙げた。「唯一生き残るのは変化できる者である」。ゼロから苦労してつくり上げ、絶対の自信がある管理システムが変わるのもいとわない。「現状維持は後退と同じだから」。
 逆に「これだけは変えない」と即答したのは「チーム共立」。全員が会社の方針に納得した上で、年代や職種、立場の違いを超えて同じ意識で取り組む姿勢をこれからも大事にしたいと話す。「私の根底にあるものです」

※続きは本紙紙面をご覧ください。

 

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