北方史の中の津軽

 

災害に襲われた昭和=41

2010/1/18 月曜日

 

昭和10年8月の水害による大鰐町の惨状(青森県史編さんグループ蔵)
昭和50年8月の土淵川氾濫(陸奥新報社蔵)
昭和41年12月の青森市・新町通りの豪雪(青森県史編さんグループ蔵)

 ▽大鰐町を襲った昭和10年大水害
 昭和10年(1935)8月21日夕刻に始まった豪雨は、22日午後10時までに、青森測候所開設以来の記録となる降水量201ミリに達した。平川が流れる大鰐町では、大増水により大鰐・蔵舘の全町が浸水し、30戸以上の家屋や木橋などが流失した。県が発表した死者20人のうち大鰐町での死者は16人で、大半を占めた。
 ▽昭和33年の弘前地方大水害
 昭和33年8月11日の夜明け頃から、弘前市西南部の中畑(旧東目屋村)や西目屋村地域を、70~80ミリにも及ぶ豪雨が襲った。岩木川の増水により、弘前市内と駒越村を結ぶ岩木橋や家屋が流され、堤防も数カ所、決壊した。急きょ設置された弘前市の災害対策本部は、低地部の下町地区5000戸に、緊急避難命令を発した。
 岩木川流域の水田は冠水し、大被害を受けた。洪水で孤立した住民を救助するため、県警本部と弘前警察署は、米軍三沢基地や大湊海上自衛隊に、ヘリコプターの応援を求めた。弘前市消防部と消防団は、弘前公園の西堀のボートを被災地に浮かべ、救助にあたった。被害は死者3人、負傷者86人、流失・全壊・浸水家屋3000戸余り、橋の流失14カ所にも及び、被害総額は約40億円に達した。
 ▽たび重なる水害
 弘前地域や岩木川流域では、その後も度々、水害が発生した。
 昭和35年8月2日の夜から3日未明にかけ、平川・大和沢川・岩木川上流部を集中豪雨が襲った。弘前市・大鰐町・碇ケ関村(現平川市)が大水害に見舞われ、金木町(現五所川原市)や中里町(現中泊町)一帯も冠水した。豪雨の中、碇ケ関駅構外で青森発大阪行き夜行列車が崖崩れに遭い、6、7両目が転覆、9両目が脱線して2人が即死、23人が負傷した。
 昭和50年8月に起きた台風崩れの低気圧による豪雨では、大鰐町全域が冠水したほか、弘前市内を流れる土(つち)淵(ぶち)川(がわ)の大氾(はん)濫(らん)で、桔梗野から和徳野田に至る流域全てが浸水した。さらに、昭和52年8月の岩木川氾濫では、同時に発生した弘前市街地を流れる寺沢川の氾濫により、11人の犠牲者を出した。
 ▽豪雪との闘い
 昭和20年2月、青森市は積雪2メートル9センチという大雪に見舞われた。青森駅から青森操車場間に動員された除雪作業員は延べ11万5000人に及び、鉄道除雪費も前年の約8倍に達した。この積雪記録は、いまだに破られていない。
 昭和40年代前半、青森市はほぼ毎年のように豪雪となった。昭和44年1月、2年連続で大雪を経験した青森市は、災害対策基本法及び青森市災害救護条例を適用して、青森県では初めてとなる「豪雪災害対策本部」を設置した。
 ▽地震の恐怖
 昭和43年5月16日午前9時49分、震度5の強震が発生した。「十勝沖地震」である。震源地に近い八戸市をはじめ、県南地方に被害が続出し、死者45人、行方不明2人、重軽傷者666人を数えた。青森市でも死者5人、重軽傷者53人が出ている。
 青森駅構内では岸壁や可動橋が損傷し、青函連絡船の接岸・離岸ができなくなった。桟(さん)橋(ばし)待合室の床や壁が崩れ落ち、青森駅前には、足止めを食った多くの修学旅行生の姿が見られた。また、上水道施設が切断され、民家の倒壊・半壊が発生するなど被害は拡大し、復旧作業は翌年にまで及んだ。余震も長く続き、地震発生後1カ月間で八戸市204回、青森市76回の有感余震が観測された。
 昭和58年5月26日正午に発生した「日本海中部地震」は、日本海側で発生したものとしては最大規模のマグニチュード7・7を記録した。地震被害は県内全域に及んだが、震源地に近い日本海側沿岸の町村において、特に被害が著しかった。日本海沿岸では珍しい津波が発生し、犠牲者は、西津軽郡・北津軽郡に集中した。
(青森県立郷土館主任学芸主査竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ 豪 雪
気象庁では、「著しい災害をもたらすような大雪」と定義している。。昭和38年1月に北陸地方を襲った「三八豪雪」は有名で、新潟県長岡市では積雪318センチを記録した。

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箱館開港と平尾魯僊=42

2010/2/1 月曜日

 

酒を飲む異国人(弘前市立弘前図書館蔵「洋夷茗話」より)
洋酒のビン(弘前市立弘前図書館蔵「洋夷茗話」より)
洋酒のラベル(弘前市立弘前図書館蔵「洋夷茗話」より)

 ▽津軽画壇の重鎮・平尾魯僊
 平(ひら)尾(お)魯(ろ)僊(せん)(八三郎・亮(すけ)致(むね)、画号は魯仙)は、弘前城下紺(こん)屋(や)町の魚屋「小浜屋」に生まれた。少年の頃(ころ)から画才を発揮し、書道・誹諧にも秀でていたという。天保8年(1837)、画業と文筆に専念するため30歳の若さで家業を弟へ譲ったが、その決断は功を奏し、魯僊はやがて、津軽画壇で指導的役割を果たすようになる。魯僊の元からは、三上仙年や工藤仙乙など多くの門人が育っている。
 のちに魯僊は、親友の鶴(つる)舎(や)有(あり)節(よ)(武田乙吉)を通じて平(ひら)田(た)篤(あつ)胤(たね)の気(い)吹(ぶき)舎(のや)塾に参加し、津軽国学グループともいうべき勉強会を立ち上げている。進取の気性は終生、変わらなかった。
 ▽津軽海峡を渡る
 嘉永6年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を迫った。翌安政元年(1854)、再来したペリーの圧力に屈するかたちで日米和親条約が結ばれ、伊豆下田と箱館(函館)の2港が開かれた。
 多くの外国船が出入りする箱館の賑(にぎ)わいぶりは、海峡を越えて津軽の地にも届いていたことだろう。松前・箱館に旅する機会を得た魯僊は、「箱館紀行」(弘前市立弘前図書館蔵)に、この旅のようすを記録した。6月11日に弘前を出発し、同16日に十三湊(五所川原市市(し)浦(うら))から海をわたったが、乗りこんだ来福丸は70石の小船で、津軽海峡の荒波を越え
るには、かなり苦労したらしい。「海難恐るべし」と綴(つづ)る魯僊の嘆息には、実感がこもっている。
 ▽松前・箱館への旅
 魯僊が最初に見たのは、活気あふれる松前城下(福山)だった。瓦ぶきの家並みが続き、漆(しつ)喰(くい)の土蔵が建ち並び、夜は軒下に灯(あか)りが点(とも)る。弘前にはない情景である。市井(しせい)の物売りや客引きの声が満ちる巷(ちまた)を「閑静なること更(さら)になし」と表現している。また、水利・開拓の計を練り、洋式警備を導入することができれば、蝦夷地も日本全体もより発展するだろうと述べている。
 松前には2日間滞在し、福島・尻(しり)内(うち)(知内)・茂(も)辺(へ)地(じ)・亀田を経由して、馬で箱館に向かった。途中の村々の説明は簡略なものだが、魯僊の手になるみごとな写生画が、より多くを語っている。中でも、宮(みや)歌(うた)村の浜辺でアツシ(アイヌ文様を施した衣服)を着た人たちがイカを干す風景は、本書の白(はく)眉(び)と言えよう。6月20日に箱館へ入った魯僊は、蝦夷地警備のため箱館に詰めていた弘前藩兵に頼まれ、本陣である千(ち)代(よ)ケ(が)台(たい)陣屋の地図を描いたという。あるいはこの仕事が、旅の本当の目的だったのかも知れない。
 ▽魯僊がみた幕末の海峡地域
 箱館を出たのは7月6日。乗船した栄通丸は500石積の大船だったが、無風に悩まされ、船は下北半島まで流された。津軽海峡には西から東に向かって、強い潮の流れがあるのだ。苦労の末に青森湊に入った時は、すでに7月10日の朝になっていた。
 「箱館紀行」には、「松前紀行」(函館市立中央図書館蔵)という異本がある。7月13日に帰宅してまず「松前紀行」を作成し、さらに時間をかけて整理・改稿して「箱館紀行」を成したと思われる(生活の古典双書「洋夷茗話・箱館紀行」解説)。
 また、松前・箱館滞在中に多くの異国船を目にしたことから、異人特集のかたちで書き上げたと思われるものに、別冊の「洋夷茗話」(弘前市立弘前図書館蔵)がある。衣服や道具の描写も精密だが、異人が酒を飲む姿、葬儀の様子、ボートを漕ぐ船員、洗濯した衣服を帆綱に結びつけて走る異国船など、どれをとっても秀逸なものばかりだ。巻末には洋酒のビンから剥(はが)がしたラベルも貼(は)ってある。
 これら一連の紀行集に示された魯僊の驚きと感動は、幕末の日本人が等しく共有したものと言うことができよう。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆ひと口メモ 日米和親条約
神奈川条約とも。日本側に不利益な片務的最恵国待遇の条項を含むことで知られている。4年後の日米修好通商条約ではさらに、協定関税制・治外法権などの不平等条項が追加された。

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不安を反映する神仏=43

2010/2/22 月曜日

 

屋敷神となった九龍大権現(弘前市・個人蔵)
岩木川から引き揚げられた善光寺様の石(五所川原市・個人蔵)
奉納された無数の稲荷像(つがる市・高山稲荷神社)

 ▽民間の神仏たち
 神仏といえば私たちは、有名な寺社を連想するが、特定の宗派や教団に属さずにひっそりと信仰を集めている民間信仰も決して少なくない。それらのなかには特定の時代に、特定の地域で突然出現し、流(はや)行(り)神(がみ)となった神仏もある。その信仰は流動的で、急速に衰えることも多い。そうした神仏たちは、津軽でも見られる。
 ▽天から出現した神仏
 元弘前藩士の家伝によれば、享保年間(1716~35)嵐とともにやってきた神がいたという。嵐の翌日、弘前城下若党町にあった剣術道場のカクジ(庭)の竹林に、光るものが落ちていた。拾い上げると天神様の像であった。驚いた家主は四方へ弟子たちを走らせ持ち主を捜したが、見つからなかったので、修(しゅ)験(げん)にゆだねた。後に、郊外の知行地に小さな祠(ほこら)を勧(かん)請(じょう)し、祀(まつ)ったという。第2次大戦前までは、祭日になるとムラの代表が旧藩士家に知らせに来て、同家は供(く)物(もつ)をあげるのが習わしであった。
 ▽地から出現した神仏
 文化2年(1819)、宇和野笹清水に「九龍権現」が出現し、人々が参集した。これについては、紅花商人笹田儀右衛門が商売の神として飼い慣らした蛇が巨大化したため、それを恐れて笹清水の地に「九龍大権現」として祀ったという話も残っている(小舘衷三『津軽ふるさと散歩』)。この神はすぐに、弘前藩領内の修験を統括する大行院の支配下となり、御堂が建立された。数年後には、茂森新町の旧家に屋敷神として分祀された。「笹清水の冷泉水は眼病に効く」という評判は、現代にも伝わっている(小山隆秀「旧弘前城下のイエの神々の年越し」)。
 ▽復活した神仏
 明和3年(1766)1月28日、弘前藩では「明和の大地震」が発生し、約5千軒が倒壊、約1千人が死亡、余震は年末まで続いた。地震の数日後、亀甲(かめのこう)町の桶屋甚兵衛の夢に近隣の春日町の「春日明神」が出現し、倒壊した社(やしろ)の惨状を嘆いて「獅子二頭で鬼門をふさぐ祈祷をすれば余震を止めてやる」と告げたとの噂が広がったため、町年寄が調査に及んだ。
 18世紀中期は凶作や飢饉が相次ぎ、藩政も民衆も混乱した。社会不安の増大により、様々な社が勧請された時代でもあった。春日明神の話は、神意の存在を再認識するよう民衆にアピールした例と位置づけられる(小山隆秀「城下町とムラの境界に生まれた講」)。
 ▽運ばれてきた神仏
 延享2年(1747)、長野の善光寺の一行が大間越・深浦・鯵ケ沢から弘前城下へ入り、貞昌寺で出(で)開(かい)帳(ちょう)を行った。津軽各地で多額の布(ふ)施(せ)を集めたため、批判する落書きまで現れた。出開帳は天明元年(1781)にも行われたが、仙台領から薬売り・猿廻し・のぞきカラクリ・順礼・非人など4、5百人がついてきて、百数十名が弘前藩領へ勝手に侵入する騒ぎに発展した。
 善光寺信仰については、嘉永5年(1852)、新町河津屋の長左衛門が善光寺へ納(のう)経(ぎょう)した記録がある。慶応4年(1868)には菖蒲川集落(五所川原市鶴田町)に「善光寺百(ひゃく)万(まん)遍(べん)塚」の石塔が建立された。また、藻(も)川(がわ)集落(五所川原市)の民間宗教者は岩木川から善光寺様の石を引き上げ、屋敷内で祀っていた。この信仰は、昭和初期まで北津軽郡・五所川原地方で継承され、中泊町の大沢内観音堂や川倉観音堂における善光寺講等の活動、五所川原川山集落における善光寺「百万遍功徳目録」伝承などが確認できる。
 このほか、突如出現して民衆の信仰を集めた神仏には、近代以降、盛んになった高山稲荷信仰や水難除けのスイコ(水虎)様のほか現代も出現し続けているオシラ様などの神仏がある。これらは民衆の不安を反映しており、その背後には、在野の宗教者たちの関与も見受けられる。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀) 

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蓑虫が残した「明治」=44

2010/3/8 月曜日

 

「暗門山三面瀑布之図」(県立郷土館蔵)
上から「円覚寺宝物参拝之図」「天の岩笛を聞きて」「陸奥国西津軽郡深浦之図」(「蓑虫山人写画」より)

 ▽放浪の画人
 幕末から明治半ばにかけて全国を旅した画人・蓑(みの)虫(むし)山(さん)人(じん)(1836~1900)は、本名を土(と)岐(き)源(げん)吾(ご)という。生まれは美濃国(現岐阜県)で、生家は美濃源氏の流れをくむ豪農だったが、庶子であったため、幼少の頃(ころ)から寺院に預けられた。母親を亡くして間もない14歳で故郷を捨て、放浪の旅に出た。多感な青年時代を九州や京都周辺で過ごし、幕末の動乱の中、生きていくために絵筆を握ったと言われている。特定の師につくことはなく、見たものを描く実体験により、技術を磨いていった。
 本県にやってきたのは、明治11年(1878)頃である。40代半ばを迎えつつあった蓑虫は、技術・気力とも、最も充実した時期を迎えていた。
 岩手県から真っすぐ下北の地に入った蓑虫は、矢の根石(=石(せき)鏃(ぞく))が多く出土するという佐井村箭(やの)根(ね)森(もり)八幡宮を訪れた。ここで神宝の石器類をスケッチしている。むつ市周辺に残されている蓑虫作品は、明治新時代を迎え変(へん)貌(ぼう)しつつあった光景を描いたものや、画人としての意気込みを感じさせる屏(びょう)風(ぶ)絵・襖(ふすま)絵など、大作が多い。
 ▽蓑虫を惹(ひ)きつけたもの
 60年余の生涯の大半を旅に費やした蓑虫は、本県を中心とする北東北の地に、強く惹きつけられた。厳しくも美しい自然景観と、豊かな考古資料が、そこにあった。晩年の蓑虫は、故郷で博物館を建設する夢をみていたが、本県滞在中に触れた多くの遺物が、その思いを強くさせたのであろう。
 蓑虫は、旅の生活を絵日記に残した。「蓑虫山人写(うつし)画(え)」(個人蔵)からは、明治13~17年にかけて彼が県内に残した足跡をたどることができる。下北地方を出た蓑虫は青森市浪岡、鯵ケ沢町、深浦町などを拠点に津軽各地をくまなく歩き、名所旧(きゅう)蹟(せき)に加え、土器・石器の所蔵者を訪ねては記録した。出会った人々と交流する様子も描かれており、賑(にぎ)やかな宴や書画会(作品・資料の展示会)など、場面は実に様(さま)々(ざま)である。そこには地名や人名も数多く記され、この絵日記の資料的価値を高めている。
 ▽蓑虫と津軽の人々
 蓑虫の活動は、彼の熱意と行動力に共感し協力を惜しまない良き理解者たちによって支えられていた。津軽では、歴史学に見識の深い下(しも)澤(ざわ)保(やす)躬(み)(1838~96)や植物学者としても名高い佐藤蔀(しとみ)(1852~1944)など、代表的な知識人が挙げられる。
 本県における蓑虫の功績は、考古学史的な観点から語られることが多い。亀ケ岡遺跡(つがる市)の発掘を手がけた先駆者的存在としてその情景を描いたことは、本県の考古学史上、欠くことのできないエポックである。土器・石器・土偶などのスケッチ図は、正確さには欠けるものの、それぞれの特色を見つけ即座に描き切った点で、画人・蓑虫ならではの特技を示したものと言えよう。
 深浦町円覚寺の宝物は、彼の心を特に強く動かした。「大黒天像」は人物大に描かれているが、実際の像高は10センチ足らずである。蓑虫は20倍ほども大きく描いたわけで、感動を絵で表現するおもしろさを自身も楽しんでいたようだ。「天の岩笛」の音を聞き、両手を広げて驚く自らの姿を描いたのも、その思いを臆(おく)することなく表現できる、おおらかで自由な環境があったことをうかがわせる。
 明治10年頃の深浦町では、深浦学会という文化人たちの集まりが設立されていた。その中心的存在であった広田家の人々の名も、蓑虫は記録している。全国を旅してきた蓑虫は彼らに新風を吹き込んだであろうし、こうした人々との交流は、蓑虫にとっても大きな財産となったはずである。画人の思いと行動を理解し広い心で受け入れてくれた人々が、当時の津軽には存在していたのである。
(青森県立郷土館学芸主査 太田原慶子)

 

◆ひと口メモ 蓑虫山人写画
蓑虫が残した絵日記の青森県版。絵日記としてはほかに、終(しゅう)焉(えん)の地となった長母寺(名古屋市)のものや、秋田県立博物館所蔵のものなどがある。

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幕藩関係見通す文書=45

2010/3/22 月曜日

 

寛文4年4月5日付の領知朱印状(徳川家綱から津軽信政へ)
天保10年3月5日付の領知判物(徳川家慶から津軽信順へ)
貞享元年9月21日付の領知目録(徳川綱吉から津軽信政へ)

 ▽領地支配の「保証書」
 江戸時代、大名家で最も厳重に管理され、大切に扱われた文書は何か。恐らくそれは、徳川将軍家が領地の支配を確認・保証した領(りょう)知(ち)宛(あて)行(がい)状(じょう)だったろう(領有する土地である「領地」に対し、領地を領有し支配することを「領知」と呼ぶ。本稿では両者を区別している)。大名が、大名たる身分を有し、その領地支配を行い得たのは、その「保証書」ともいうべきこの文書に基づくものだったともいえる。
 すべての大名に対して初めて領知宛行状を発給したのは、4代将軍徳(とく)川(がわ)家(いえ)綱(つな)で、寛文4年(1664)のことである。この「寛(かん)文(ぶん)印(いん)知(ち)」以後、夭(よう)折(せつ)した7代将軍徳(とく)川(がわ)家(いえ)継(つぐ)と、発給以前に大(たい)政(せい)奉(ほう)還(かん)を迎えた15代将軍徳(とく)川(がわ)慶(よし)喜(のぶ)を除き、将軍の代替わりのたびに、改めて大名による領地支配を追認し、領知宛行状が発給されること(継(つぎ)目(め)安(あん)堵(ど))が原則となった。
 ▽領知朱印状と領知判物
 東京都立川市の国文学研究資料館が所蔵する津軽家文書には、弘前城二の丸の御(ご)宝(ほう)蔵(ぞう)で厳重に保管されていた領知宛行状類が含まれている。ここでは、そのうち2通の領知宛行状を示したが、出された年代や宛名のそれ以外に、実は大きな違いがある。
 寛文4年に津(つ)軽(がる)信(のぶ)政(まさ)に与えられた宛行状は、日付の下(=日下(につか))に徳(とく)川(がわ)家(いえ)綱(つな)の朱(しゅ)印(いん)が捺(お)されている。このような形式の宛行状を「領知朱印(りょうちしゅいん)状(じょう)」という一方天保10年(1839)に津(つ)軽(がる)信(のぶ)順(ゆき)に与えられた宛行状は、日下に12代将軍徳(とく)川(がわ)家(いえ)慶(よし)の花(か)押(おう)が据えてある。こちらを「領知(りょうち)判(はん)物(もつ)」という。
 両者を比較すると、発給対象者は厳密に区別されている。宛行状に記された領有地の石高を、領(りょう)知高(ちだか)(拝領高(はいりょうだか)、朱(しゅ)印(いん)高(だか)とも)という。この領知高が10万石以上の大名には判物が、それ以下の大名には朱印状が与えられた。弘前藩は、文化5年(1808)に領知高が10万石に高(たか)増(ま)しされている。ゆえに、それ以後の宛行状は朱印状から判物に変わったのである。領知宛行状の書式には、大名家の家格が如実に反映されているという一例である。
 なお、文中に「目録別紙に在り」と割り書きがあることでも分かるように、領知宛行状には、領地の郡村名・村数・石高を具体的に記した領(りょう)知(ち)目(もく)録(ろく)が添えられていた。
 ▽表高と内高
 近世では、土地の予想生産量は米の体積で表示された。これを石(こく)高(だか)という。大名の支配する領地も石高で表示され、領知宛行状にも記された。この数値は、幕府が課す軍(ぐん)役(やく)負担の基準にもなり、ひいては、大名の格付けの基準としての性格も持った。このため、領知宛行状に記された領知高は固定され、実際の農業生産量の増減や、藩が推進した新(しん)田(でん)開(かい)発(はつ)の成果などは反映されていない。それらの数値が反映された、領民に課す年貢の基準となる実際の石高(=内(うち)高(だか))と、領知高(=表(おもて)高(だか))は、おのずから食い違うことになる。
 津軽家に発給された貞享元年(1684)の領知宛行状は、領知高(=表高)4万7000石と明記された。そのうち津軽郡の分は4万5000石である。
 一方、津軽郡の内高は、弘前藩が貞享元年から3カ年かけて実施した領(りょう)内(ない)惣(そう)検(けん)地(ち)(貞(じょう)享(きょう)検(けん)地(ち))により、26万1831石余とされた(「御郡中御検地高目録」)。この石高の数値は、藩による新田開発の成果や、新たに耕地となる場所を算出したものを含み、実に表高の6倍にも達する。
 つまりは、領知高が固定されたことにより、表高・内高という石高表現の二重性が生まれたのである。弘前藩の藩政史料には、領知宛行状に関する文書や簿冊が多く残るが、その分析は、形式的文書と考えられがちな領知宛行状の意味合いを知り、幕藩関係や大名の領地支配の根幹部分を把握する上で、極めて重要な作業だといえる。
 ※写真はいずれも国文学研究資料館蔵津軽家文書
(青山学院大学非常勤講師・千葉一大)

 

 ◆ひと口メモ 寛文印知

寛文4年(1664)、江戸幕府が全国の大名・公(く)家(げ)・寺(じ)社(しゃ)を対象に、領知の承認を一斉に行ったことをいう。このときの領知宛行状の書式や発給までの手続きは、以後も踏襲された。

 

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