北方史の中の津軽

 

ケシ栽培が生んだ秘薬=36

2009/10/19 月曜日

 

「一粒金丹」の効能書(弘前市立弘前図書館蔵)
「一粒金丹」の包紙(『津軽医事文化史料集成 続』より転載)
「江戸買物独案内」にみえる万屋の広告(筆者提供)

 ▽「一粒金丹」とは
 弘前藩は、広く世間に知られた秘薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」を製造していた阿(あ)芙(ふ)蓉(よう)すなわちアヘン(阿片・鴉片)を主成分とする鎮痛・強壮剤である。藩医和田玄春の手になる寛政11年(1799)7月の効能書には「五(ご)労(ろう)七(しち)傷(しょう)男女諸般(なんにょすべて)の労(らう)症(せう)、痰(たん)或(あるい)ハ血(ち)を吐(は)き、形痩(かたちやせ)、色(いろ)青(あを)く、手足(てあし)倦怠(くたびれ)、飲食(しょくじ)味(あじはい)なく上(かみ)盛(おもく)下(しも)虚(かろく)自(あ)汗(せ)・盗(ね)汗(あせ)出(いつ)るもの」に対して処方し、砂糖湯にショウガ汁を加えたものと一緒に服用する、とある。アヘンには強烈な苦みがあるからだ。
 「一粒金丹」はかつて備中国岡山新田藩の秘法だったが、元禄2年(1689)5月、同藩の医官木村道(どう)磧(せき)(道石)から和田玄良(玄春の曾祖父)に伝授してもらったという(松木明知・花田要一編『津軽医事文化史料集成 続』)
 和田家は限られた関係者にしか製法を明かさなかったが、しだいに類似の不良品が出回ったようだ。玄春が効能書を板(はん)行(ぎょう)したのは、品質を保証し純正品であることを強調しようとの意図があったのだろう。もちろん藩の認可を得ていたため、効能書がないものは「一粒金丹」と認められなかった。
 ▽弘前藩とケシ栽培
 「一粒金丹」のルーツは、漢方にあり、中国の医書『医学入門』にその基本製法が出ている。成分はアヘンのほか、膃(おっ)肭(と)臍(せい)・龍(りゅう)脳(のう)・麝(じゃ)香(こう)・辰(しん)砂(しゃ)(硫化水銀)・原(げん)蚕(さん)蛾(が)・射(や)干(かん)(ヒオウギ)などとなっている(宗田一『日本の名薬』)
 アヘンの原料であるケシ(罌粟・芥子)を、弘前藩がいつ頃(ごろ)から栽培していたかは定かでない。貞享3年(1686)5月、中村道救・松山玄三が阿芙蓉採取を命じられ、数名の藩士がその手伝いをした(「御国日記」)「在々ニ而阿芙蓉取」と記されていることから、これは野生種のようだ。しかし、元禄13年5月、南袋・千年山・上野3カ所の薬園でケシの花が咲き終わったため、いつアヘンを取るかの伺いが出されている。その少し前の元禄11年8月にも、藩医佐々木宗寿・辻道益・松山玄三らが千年山に出かけており、藩公認による栽培は、この時期に始まったとみてよいのではなかろうか。
 今は動物の名になっているオットセイは、本来は「膃肭獣(おっとじゅう)」の臍(せい)、つまり「猛(たけ)り」(陰茎)の部分を指す名称だった。蝦夷地に近い弘前藩は、松前藩からオットセイを仕入れることができたし、領内のアイヌが狩猟した「膃肭獣」から手に入れることもできた。
 耳慣れないのは原蚕蛾(晩蚕蛾とも)で「御国日記」には、カイコの「夏子第二番目」とある。カイコは年に2~3回マユを取るが、「二番目」とは成長が遅いもののことであろうか。
 いずれにせよ、ケシ栽培の成功と、オットセイを確保できる地理的な優位性が「一粒金丹」の盛名につながったのだろう。
 ▽世間の評判
 寛政10年(1798)初演の並木(なみき)五瓶(ごへい)作「富岡(とみがおか)恋山開(こいのやまびらき)」に「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝(つ)手(て)を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞(せりふ)がある。庶民最大の娯楽である歌舞伎に取り上げられるほど「一粒金丹」は有名だった。
 江戸市中の商店案内として人気を博した「江戸買物独(ひとり)案内」を見ると、安永期(1772~80)には山崎屋利左衛門(神田)が、文政期(1818~29)には長崎屋平左衛門(常盤橋御門前本町一丁目川岸)と万(よろず)屋(や)徳兵衛(小石川春日町)が「一粒金丹」を販売していた。万屋が「売(うり)弘(ひろめ)所(じょ)」の謳(うた)い文句を掲げているのは、弘前藩公認を意味するのだろう。
 かつて「津軽」は、アヘンを意味する隠語だったという。しかし、幕末維新期には西日本に、さらに全国へとケシ栽培が広がり、アヘン産地としての津軽の地位は衰えた。それとともに、「一粒金丹」も、その役割を終えていった。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆ひと口メモ 龍(りゅう)脳(のう)と麝(じゃ)香(こう)
「龍脳」はインドネシア産の龍脳樹から採る香料で、防虫剤にも使われる。「麝香」はジャコウジカから採るもので、ムスク香として知られる。

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二次史料から新視点=37

2009/11/2 月曜日

 

吉良市でのアイヌとの戦い(「由緒書抜」より阿部勇蔵の項、国立資料館蔵津軽家文書)
北畠左近による姉の捜索(『津軽一統志』巻第四、弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)
「蝦夷荒」で危機に陥った村市村・宮舘村など鼻和郡の城館(「津軽編覧日記」、弘前市立図書館蔵八木橋文庫)
正保国絵図に見える夏泊半島の「犾村」(青森県立郷土館提供)

 ▽少ない津軽の一次史料
 戦国期から近世初頭に至る津軽・北海道の政治動向については、当時の人々によって記された生の史料(=一次史料)が、決定的に不足している。そのため、この時期の研究は、系図・家(か)譜(ふ)・記録などの編(へん)纂(さん)物(ぶつ)(=二次史料)に頼らざるを得ない。しかし、そこには「後世に編まれた」という制約があり、その記述を鵜(う)呑(の)みにするのは危険である。
 もちろん、二次史料の記述をすべて否定してしまうと、ほかに信(しん)憑(ぴょう)性(せい)を裏付ける材料が少ない場合には、八方ふさがりになってしまう。だからこそ、二次史料を用いる際は、一つ一つの文言によく気を配り、時間をかけて読み進める必要がある。そうした努力の積み重ねによって新たな視点を得られることが、往(おう)々(おう)にしてある。
 ▽夷・狄・夷狄
 この時期の松前家については、正保3年(1646)に成立した家譜『新(しん)羅(ら)之(の)記(き)録(ろく)』が、最もよく使われる。同書では、アイヌの人々を指し示す語句として「夷」「狄」「夷狄」と、3種類の表記を宛(あ)てている。このような使い分けがある点はこれまであまり指摘されてこなかったが、よく見ると、松前を起点として東側のアイヌは「夷」と、西側のアイヌは「狄」と表記される傾向が読み取れる。さらに「夷狄」は東西のアイヌの総称、すなわち一般称として用いられているようだ。
 北海道では15世紀から16世紀にかけて、アイヌ勢力と和人勢力とが、度々(たびたび)武力衝突に及んだ。その最大のものが、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いである。コシャマインは渡(お)島(しま)半島東部の首長層に属し、アイヌ全軍を率いて和人と戦ったとされてきた。しかし、『新羅之記録』に登場するコシャマインは「狄」と表記される西側の人物であり、全軍の指揮者というよりは、上(かみ)之(の)国(くに)(北海道檜山郡上ノ国町)周辺の局所戦を戦ったアイヌ勢力のリーダーの一人とみた方が妥当と思われる。
 ▽見直し進む津軽の通史
 戦国期の津軽地方の記録としては、有名な『津軽一統志』があるが、同書を初めとする弘前藩の史書(いわゆる「弘前藩史」)には、構成上、注目すべき点がある。
 第一に、津軽為信の浪岡城攻略の記事の直後の部分に見られる、北(きた)畠(ばたけ)左(さ)近(こん)顕(あき)村(むら)(浪岡御所の弟)が姉の行方を捜索するエピソードである。この記述は延宝2年(1674)成立の『愚(ぐ)耳(じ)旧(きゅう)聴(ちょう)記(き)』から見られるようになるが、ここ以外は津軽氏を中心とする叙述がなされているのだから、一見して異質である。津軽氏にとって浪岡北畠氏は、特別な位置付けにあったと見ることができよう。
 第二には、吉(き)良(ら)市(いち)村(五所川原市金木町喜良市)などであったはずのアイヌとの衝突(いわゆる「蝦(え)夷(ぞ)荒(あれ)」)に関する記述が見られない点である。戦いは熾(し)烈(れつ)を極めたといわれるが、それが記録されていないのは不可解である。南部氏との対立をいかに克服するかに苦心していた津軽氏にとって、アイヌとの戦いは、「津軽統一」を果たすための論理付けには必要でなかったということだろうか。
 松前氏の場合はこれと対照的で、道南地域における和人間の争いでさえも、半ば強引に、アイヌとの戦いという文脈の中に押し込めている。それが、夷島(えぞがしま)支配の正当性を主張するための論理として必要だったからである。すなわち、津軽氏にとっては南部氏を、松前氏にとってはアイヌ民族を克服することこそが、近世大名として深く自家の歴史に刻み込むべき「戦いの記憶」だったといえよう。
 近年、津軽氏の編纂物と南部氏の編纂物とを比較検討し、これまでの地域的通史を見直そうとする努力が進められているが、こうした点への理解が、津軽地域の編纂物を「読み解く」手がかりになればと思う。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

 

◆ひと口メモ 蝦夷荒
津軽氏が南部氏から独立し、外浜・西浜地方の支配を確立させていく過程で起こった、一連のアイヌの抵抗運動を指す。

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藩政確立の名君信政=38

2009/11/23 月曜日

 

 津軽信政画像(新井寒竹筆、高照神社蔵)
 信政愛用の衝立(佐々木玄龍筆、高照神社蔵)
信政の言行録の数々(弘前市立弘前図書館蔵)

 ▽「中興の英主」津軽信政
 弘前藩4代藩主津軽信(のぶ)政(まさ)は、初代藩主為(ため)信(のぶ)とともに、歴代藩主の中で特に顕彰された人物である。しかし、「藩祖」為信が戦国の世を勝ち抜き、津軽家および弘前藩の基礎を打ち立てた点を称えられるのに対し、信政は、55年に及ぶ治世下で弘前藩の政治的土台を作りあげた点が評価される。「中興の英主」と呼ばれる理由である。
 ▽信政の仕事
 信政は、正保3年(1646)、弘前城で誕生した。明暦2年(1656)、3代藩主の父津軽信(のぶ)義(よし)の死去により、11歳で藩主となった。若年のうちは叔父津軽信(のぶ)英(ふさ)(黒石津軽家)を後(こう)見(けん)役(やく)にしていたが、成年後は、領内支配の確立や藩経済の立て直し、あるいは幕府から課される公役負担への対応などの問題に直面することになった。
 信政は天和・貞享期(1681~87)に領内統一検地を実施し、藩財政の基礎を固めた。また、津軽平野の開拓と新田開発により米の増産を推進した。さらに人材登用と新技術の導入をはかり、養(よう)蚕(さん)や製紙などの産業振興、土(ど)淵(えん)堰(ぜき)の開(かい)削(さく)や屏(びょう)風(ぶ)山(さん)の植林といった土木治水にも意を用いた。幕府との関係では、蝦(え)夷(ぞ)地(ち)でのアイヌ蜂(ほう)起(き)への出兵、幕府領の検地、日光東照宮の普(ふ)請(しん)などを請け負い、責任を全うした(長谷川成一『弘前藩』)。
 ▽名君像の成立
 江戸時代初期から中期にかけ、各地に「名君」が登場したが、多くは、儒学の仁(じん)徳(とく)思想に基づいた「仁(じん)政(せい)」を行ったとされる人物が挙げられていて、信政もその一人である。
 信政は居室に「畏天命」(てんめいをおそる)「畏大人」(たいじんをおそる)と記した衝(つい)立(たて)を用いていた。家臣はどちらをどの向きにして立てるべきかいつも迷っていたが、ある時、信政は苦笑いしながら、自分の側に「畏天命」(君主であることを天命とする自戒)を、家臣の側に「畏大人」(君臣の節度の戒め)を向けよと、教え諭したという。信政の言(げん)行(こう)録(ろく)「高(たか)岡(おか)公(こう)明(めい)訓(くん)録(ろく)」にみえるエピソードだが、ここから、その政治信条が読み取れよう。
 信政は宝永7年(1710)に没するまで、儒学・兵学・神道・武芸の習得に励み、深い教養によって自らを律した。また、諸法令を整備して君臣の別を明らかにし、君主としてあるべき姿を追求した。結果、当時からすでに「名君」と評価され、元禄期の大名「七(しち)傑(けつ)」に数えられるほどであった(角田九華「近世人鏡録」)。
 ▽幕府隠密の評
 一方、元禄期の幕府隠(おん)密(みつ)による諸大名の人物批評「土(ど)芥(かい)寇(こう)讎(しゅう)記(き)」は、信政について「文武を好み、知力・才能に秀(ひい)でるが、奸(かん)智(ち)に長(た)け、利欲を求め、自己の鍛錬も外面を飾るためである」とか、「武道や家来の登用も計略を第一とし、計略により事を運ぼうとする」などと述べ、その人格を「信無シ」「偽(いつわり)多シ」「学者ニ似タル不学者也」と報告している。
 また、信政が三男政(まさ)直(なお)(那(な)須(す)資(すけ)徳(のり))を那須家(「扇の的」で有名な那須与一の子孫)の養子としたことに端を発する烏(からす)山(やま)騒(そう)動(どう)で処分された点を、知恵が働くために那須家を断絶させ、自身も閉門にされた、と酷評している(本田伸『弘前藩』)。
 元禄8年(1695)の飢饉以降、弘前藩の財政はしだいに逼(ひっ)迫(ぱく)した。信政は家臣のリストラや農村荒廃への対応に追われ、家中でも、譜代の家臣と信政に登用された側近との間で対立が生じた。「土芥寇讎記」の辛(しん)辣(らつ)な信政観には、こうした藩政の混乱が影響しているのであろう。
 しかし、信政に関する言行録は、「高岡公明訓録」以外にも「鎮宮一貫記」「信政公様御意記」などがあり、歴代藩主とくらべても数が多い。現代もなお「高岡様」と尊崇される信政は、津軽に生きる人びとにとって、紛れもない「名君」と映じてきたのである。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 市毛幹幸)

 

◆ひと口メモ 高照神社

 現在の高照神社で、信政を祀っている(明治以後、藩祖為信を合祀)。。当初は「高岡霊社」と号した。藩の精神的より所として重視され、改元や藩内の吉凶事、重要政策遂行の際、藩から同社に「御告書付(おつげのかきつけ)」で報告された。。

 

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農業への誇りと願い=39

2009/12/7 月曜日

 

鬼神社の「二十九日堂祭」で行われる早稲・中稲・晩稲の神事(弘前市教育委員会撮影)
「耕作噺」に記された稲の品種(弘前市立弘前図書館蔵)
稲作の様子を描いた平尾魯仙「紙本淡彩四季農耕の図」(弘前市立博物館蔵)

 ▽豊作への祈り
 津軽地方には、旧暦正月7日に、柳の枝を用いて作物の豊凶を占う行事「七日堂祭」が残っている。この種の行事を執り行っているのは、岩木山神社・猿賀神社・鬼(おに)神社(ただし鬼神社では旧暦正月29日に行われるので「二十九日堂祭」とも呼ばれる)で、猿賀神社は柳の枝に護(ご)符(ふ)をつけないなどの差異はあるが、早(わ)稲(せ)・中(なか)稲(て)・晩(おく)稲(て)の三つの豊凶を占うという点では一致している。
 現在の津軽地方は全国一のリンゴ生産地であり、柳の枝に付けられる護符にも、五穀豊(ほう)穣(じょう)のほかにリンゴなどの豊作を願う文言が書かれているものがあるという。しかし、3社の占いにかけられる早稲・中稲・晩稲は稲の品種である。本来の「七日堂祭」は、厳しい自然状況下の稲作に対する民衆の願いが生んだ行事であったと思われる。
 ▽津軽農書の誕生
 弘前藩では、4代藩主津軽信政の治世下で大規模な新田開発が進められた。結果、従来は稲作地帯でなかった岩木川の下流域にも開発の手が及び、実収は大幅に増加した。江戸時代を通じて、米の収量を増加させる努力は、藩財政を保持し続けるためにも積極的に行われていた。
 当時の津軽地方の主力品種は、「いわか」(「岩川」「岩が稲」とも)という晩生種であった。収穫量が多く、寒冷な陸奥湾一帯や岩木川下流域でも作付けされた。しかし寒さに弱く、元禄8年(1695)の飢(き)饉(きん)で多くの餓死者を出す原因となった。比較的天候に左右されない早稲や、稗(ひえ)などの雑穀を作っていれば被害は食い止められたかもしれなかったが、最大の移出品である米を少しでも多く得るためには、多収量の晩稲を作付けせざるを得なかったのである。市場経済の論理が津軽の米づくりの現場を支配していたことによる悲劇だった。
 ▽農書の豊富な内容
 しかし元禄飢饉は、不作の回避を追求する「農書」が編まれるきっかけともなった。本州最北の稲作地帯という性格上、津軽地方では稲作技術の追求が盛んで、多くの農書が残された。
 最も早い成立と考えられるのは、蒲(かま)田(た)村(現平川市)の一戸定右衛門による「耕作口(く)伝(でん)書(しょ)」である。元禄飢饉を念頭に、冷害下における「いわか」栽培についてまとめている。一戸は農事日記をつけ、その記録の分析によって各作業の適期を導き出している。また、岩木山の残雪の状態などから作物の豊凶を予想している。宝暦飢饉の際、大庄屋を通じて各所に写本が配布されるなど、長年にわたって活用され続けた。以後も「案(か)山(か)子(し)物語」や「耕作噺(ばなし)」などが編まれ、最新の農業技術の普及、農作業の効率化、農民教化などが、農民自身によって行われていった。
 「耕作噺」は、東光寺村(現田舎館村)の豪農中村喜(よし)時(とき)が安永5年(1776)に編んだもので、北限の稲作技術の集大成とされる。宮崎安(やす)貞(さだ)『農業全書』を引用するなど、農業技術の全国的な展開を受けながら、津軽の風土に即した稲作技術を網羅している。「耕作口伝書」以上にデータの収集と分析が進められ、速やかな対応の重要性が説かれている。
 中村は、「土地は虚言を申さず」という言葉で、真(しん)摯(し)に農業と向き合う必要性を訴えている。また、農業は多くの人間の命を預かっており、務めを全うすることで神仏の加護を受ける崇高な仕事だと、農業者の自負や職業意識にも言及している。多収量品種の安易な作付けを戒めるなど、それ以前の農書とは異なり、強い精神性を感じさせる内容となっている。
 これらの農書は、津軽の農民が、幾度も襲ってくる凶作に立ち向かいながら醸成させていった意識の結集と考えられよう。そこには、科学的な技術探求の姿勢が明確に打ち出されており、一方で、北限の稲作を取り巻く環境がいかに厳しいものだったかをも、現在に伝えている。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◆ひと口メモ 農業全書
福岡藩の宮崎安貞によって著された農書。徐光啓『農政全書』に影響を受け、親交のあった貝原益軒の援助を得て、元禄9年(1696)に書かれた。体系をもった全国的農書で、8代将軍徳川吉宗も座右の書とした。

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途絶えた為信の血統=40

2009/12/28 月曜日

 

承祜の実名書付(国文学研究資料館蔵津軽家文書)
承祜の印章の印文(国文学研究資料館蔵津軽家文書)
承祜を従四位下に叙す口宣案(国文学研究資料館蔵津軽家文書)

 ▽現れた遺体
 昭和29年(1954)、弘前新(しん)寺(てら)町(まち)の報(ほう)恩(おん)寺(じ)にあった弘前藩主津軽家の墓地が茂(しげ)森(もり)町(まち)の長(ちょう)勝(しょう)寺(じ)に改葬された。その際、最も注目を集めたのが、11代藩主津軽順(ゆき)承(つぐ)の養子で安政2年(1855)に18歳で死去した津軽承(つぐ)祜(とみ)の墓だった。当時の発掘報告(『陸奥史談』32号)によれば、弘前近郊の山から採掘した「兼(かね)平(ひら)石(いし)」で蓋(ふた)をされた二重の木枠(木(もっ)槨(かく))は粘土・割石・木炭などで密閉され、その中の棺(ひつぎ)から、刀剣・衣類・遺愛品や自筆の書画などの副(ふく)葬(そう)品(ひん)と共に、遺体が発見されたのである。
 ▽血統の維持をめざして
 承祜の養父順承は、実は老中を務めた松平信(のぶ)明(あきら)(三河吉田藩主)の子で、津軽親(ちか)足(たり)の養子となり、文政8年(1825)、黒石藩主となった。さらに天保10年(1839)、財政再建・藩政改革・蝦夷地警備など弘前藩が抱える諸問題解決の「即戦力」として、本家相続の運びとなった。その際、弘前藩用人奥瀬一学は、弘前・黒石の津軽家に津軽為信の血統が残っていないことを憂慮し、藩祖為信以来の血統を保っていた一門の津軽順(ゆき)朝(とも)に相続させるよう上申したが、実現しなかった(「喫茗雑話」)。
 江戸時代の武家社会では、同姓の者に適格者がいない場合に初めて、異姓からの養子が認められることになっており、血統の正統性が重視されていた(大口勇次郎「近世武家相続における異姓養子」)。津軽家の血統を保持する養子の選定が、「中継ぎ」として弘前藩主となった順承の課題となった。
 ▽突然の死
 天保14年、順承は順朝の子武之助を娘玉姫の婿(むこ)と定めた。弘化3年(1846)には幕府の許可が下り、翌年、武之助は当代きっての学者佐藤一斎(坦(たいら))が選定した「承祜」という名を名乗った。
 津軽家が本家と仰ぐ京都の近衛家の当主・近(この)衛(え)忠(ただ)熙(ひろ)は、承祜を「父祖血脈之人」(嘉永3年11月付書状写)と呼んでいる。まさに、承祜の血統が、養子として選ばれる決め手になったのだ。
 安政2年4月、承祜は病中の順承に代わり、蝦夷地警備・沿岸海防などの指揮見習いも兼ねて江戸から下向し、弘前城三の丸御殿(現在の三の丸庭園の地)に居住した。
 帰国後は儀礼などの傍ら、軍事調練(5月)や岩木川での水練稽(けい)古(こ)の視察(6月)などの務めをこなしたが、同月下旬から体調を崩し、7月28日に死去した。城内を散歩中、実っていた桃に砂糖を付けて食べたところ、食い合わせの悪さから体調を崩したといわれているが、真の死因は、不治の病とされていた脚(かっ)気(け)衝(しょう)心(しん)だったという(「津軽旧記類」)。
 ▽苦渋の選択
 順承は、承祜の実弟で嘉永4年(1851)に黒石津軽家を相続した承(つぐ)叙(みち)を、承祜の代わりに玉姫と改めて結婚させ婿養子にしたいという意向だったが、これには、兄嫁との婚儀は好ましくないという幕府側の見解が示された。
 隠居していた前弘前藩主津軽信(のぶ)順(ゆき)は他家からの養子を望み、親族や幕府役人、近衛家も同調した。血統にこだわってきた順承もこれを受け入れ、熊本藩主細川斉(なり)護(もり)の四男寛五郎(後の12代藩主承(つぐ)昭(あきら))が、常姫と名を改めた玉姫の婿として養子に迎えられた。
 この過程で弘前藩では、血統を重視するか、他家から迎えるか、家臣が二派に分かれ対立した。順承と家老は、血統に拘(こう)泥(でい)せず不穏な動きをとらないよう申し渡し、その後、血統重視派の家老らが、免職・隠(いん)居(きょ)・蟄(ちつ)居(きょ)等の処分を受けた(「津軽旧記類」および『津軽承昭公伝』)。しかし、申し渡しの中で、「御血統御断絶」を残念至極とし、承叙を念頭に、本家・分家は本来一つで、血は途絶えていないと言及していることから見ても、津軽家にとって、「父祖血脈」の喪失と他家からの養子迎え入れは、抗争を超越し、苦渋に満ちた選択だったと言える。
(青山学院大学非常勤講師 千葉一大)

 

◆ひと口メモ 「脚気衝心」
脚気は、ビタミンB1の欠乏を原因とする急(きゅう)性(せい)末(まっ)梢(しょう)性(せい)神(しん)経(けい)炎(えん)で、炎症が心臓に及ぶと衝心と呼ばれ、致死率が高くなる。白米食が普及した江戸時代後期に流行し、別名「江戸煩(わずら)い」と呼ばれた。

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