北方史の中の津軽

 

夷島は南北に長い島=31

2009/8/3 月曜日

 

「津軽一統志」(弘前図書館蔵岩見文庫)より「松前之図」
「塩尻」巻6の「蝦夷国図」(成田修一編『蝦夷地図抄』より転載)
「和漢三才図会」より「蝦夷之図」

 ▽「津軽一統志」と「松前之図」
 寛文9年(1669)6月、夷(えぞが)島(しま)日高地方の首長シャクシャインに率いられたアイヌが蜂起し、江戸時代最大規模の民族衝突に発展した。この蜂起は松前藩により鎮圧されたが、夷島と津軽海峡を挟んで向き合う弘前藩は、幕府の命令で加勢の藩兵を派遣するとともに、蜂起の状況や松前藩政に加え、夷島の地理に関する情報収集活動を展開した。
 そのあたりは、享保16年(1731)に成立した「津(つ)軽(がる)一(いっ)統(とう)志(し)」巻10に詳しく記述されている。その中で弘前藩は自らを、異民族(アイヌ)に威(い)風(ふう)を振るう「北(ほく)狄(てき)の押へ」であると、明確に位置づけている(長谷川成一『弘前藩』)。
 ▽伝説上の島々も描く
 「津軽一統志」には数種類の写本があるが、安永5年(1776)の写本(弘前図書館蔵岩見文庫)には、「松前之図」と題される絵図が収められている。中心に夷島を見開きで描いて色を着け、南部には本州北端を、北部には「カラフト嶋」を配置し北東部に千島列島を表現している。
 「松前之図」では夷島を、南北に長い島として描いてある。夷島は中央付近を流れる河川で南北に区切られ、北部はやや東方に傾けられて、南部より少し小さく示されている。現在の道東地方に当たる位置には「セフクラ犬領」「イコハカ犬領」「マソク犬領」と、アイヌ首長の領域支配を示すような記述があり、千島列島には、「小(こ)人(びと)島(じま)」「女(おんな)島(じま)」といった伝説上の島々が描かれている。このような表現は、松前藩が幕府に提出した正保・元禄の国(くに)絵(え)図(ず)に見られる夷島とは、全く異なっている。
 実は、夷島に関するこうした構図や記述は、17世紀末の成立とされる名古屋藩士天野信(さだ)景(かげ)の随筆「塩(しお)尻(じり)」巻6の「蝦(え)夷(ぞ)国(こく)図(ず)」や、正徳2年(1712)刊行の「和(わ)漢(かん)三(さん)才(さい)図(ず)会(え)」(寺島良安編)の「蝦(え)夷(ぞ)之(の)図(ず)」とも共通している。それは、民間に流布し日本北辺の紹介に利用された初期北方図の、大きな特色であるという(高倉新一郎編『北海道古地図集成』)。
 ▽絵図中にアイヌ蜂起情報
 この2図とくらべて、「津軽一統志」の「松前之図」には際だった特色がある。それは、絵図中に書き込まれたアイヌ蜂起に関する情報である。
 「松前之図」に描かれた夷島の海岸線には130余りの集落や地名が示されているが、このうち東部では、日高地方にシャクシャインの拠点などが描かれている。また、6カ所から線を引いて、各地の商(あきない)場(ば)知(ち)行(ぎょう)主(ぬし)の名前や蜂起の難に遭った商船数・乗員数を示しており、その数は計6艘(そう)91人である。一方、西部では8カ所に同様の記述があり、その数は計9艘134人となっている。
 しかし、「津軽一統志」の本文にある弘前藩4代藩主津軽信(のぶ)政(まさ)の幕府への報告書では、最終的に350人余が遭難したことになっていて、そこに見える地名や知行主名もほとんど一致しない。「津軽一統志」は官(かん)撰(せん)史(し)書(しょ)であり、その記述は藩の公式見解であるはずだから、「津軽一統志」と「松前之図」との記載内容が食い違っているのは、不可解である。
 ▽「松前之図」をどう見るか
 弘前藩士の情報収集活動は、松前藩士や、松前城下の町民からの聞き取りが主であった。「津軽一統志」によれば、弘前藩ではそうした成果をもとに数種の絵図が作製されたという。それらの絵図には、松前城下などで流布していた北方図の要素が取りこまれただろうし、おそらくは、こうした絵図をモチーフとして、弘前藩士が収集した情報を加え、ビジュアルなものにしていったのであろう。
 すなわち「松前之図」は、北辺を「異(い)域(いき)」とみなす中世以来の伝統に、17世紀後半の現実的な北辺認識を反映させてできあがったものと見ることができるのではなかろうか。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 市毛幹幸)

 

◆ひと口メモ 異域
中世以来、国家の北の境界外にあって支配の及ばない地域を意味することば。近世の夷島についていえば、「和人地」(和人居住域)から区分された「蝦夷地」(アイヌ居住域)を指す。

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狩猟、食習慣にも干渉=32

2009/8/24 月曜日

 

マタギが熊狩に用いた「タテ」(「奥民図彙」複製・県立郷土館蔵)
元禄飢饉を記録する「耳目心通記」(弘前市立弘前図書館蔵)
マタギが所有した「津軽山神祭文」(弘前市教育委員会撮影)

 ▽北奥の狩人
 弘前藩において、狩猟を生業とする者たちは、猟師やマタギと呼ばれた。彼らは熊(ゆう)胆(たん)(=クマノイ)や皮などを手に入れるために熊を狩り、時には、人を襲い作物を食い荒らす害獣の駆除に動員された。これとは別にアイヌも、毒や仕(し)掛(かけ)弓(ゆみ)を用いる独自の狩猟文化を持った存在として認識されており、和人の猟師のみでは対応が難しいと思われる凶暴な獣を相手に動員されることがあった。これらは、領内にアイヌが居住していた弘前藩の、独特の状況だった。
 しかし、こうした狩猟状況は、「生(しょう)類(るい)憐(あわれ)みの令」と総称される貞享2年(1685)7月からの諸法令により、大きな衝撃を受けることとなった。
 ▽弘前藩と「生類憐みの令」
 元禄4年(1691)6月に起きた石(いし)田(た)坂(ざか)村(現五所川原市戸沢)の事件は、弘前藩領における「生類憐みの令」の影響の強さを示すもので、実に興味深い。
 事件は、石田坂村の百姓たちが熊を殺して食べてしまったことに端を発する。主犯と目された治兵衛は江戸へ送られ、伊(い)豆(ず)七(しち)島(とう)の新(にい)島(じま)へ遠(えん)島(とう)流(る)罪(ざい)。同様の罪で同村の者2名が、治兵衛の妻子ともども領外追放。その他、庄屋や飯(いい)詰(づめ)組(ぐみ)代官ら関係者にそれぞれ処罰が下された。
 弘前藩の国元に生類憐みのことが伝達されたのは、貞享4年4月である。藩はかなり早い段階から、幕府の意向に沿う姿勢を示していた。とはいえ、藩独自の司法権を放棄しすべて江戸町奉行に任せるという対応は、それまでの対幕関係では見られないものだった。
 当時、熊は重要な部位を確保してしまえば、残りは食べてしまうのが普通だった。石田坂村の事件も当初は、治兵衛ら実行犯ではなく、庄屋や代官を監督不行届きとして罰するにとどまっており、その段階で藩側は、食習慣の面まで踏み込んでいなかった。
 しかし、けっきょく弘前藩は「生類憐みの令」の貫徹を決定し、治兵衛は江戸へ送られた。このことは、幕府の意向が民衆の食習慣までも縛るほどの力を見せはじめたことを意味している。いわば、幕府が国内の隅々にまで強力な統制力を行使したのが「生類憐みの令」であり、石田坂村の事件は、その力に従うと決めた弘前藩による領内への見せしめだったのだろう。
 以後、弘前藩では熊や狼(おおかみ)などの害獣に対しても、実弾使用による駆除ではなく威(おどし)鉄砲(=空砲)による追い払いが行われるようになり、殺生を伴う行為そのものが否定される状況となっていった。
 ▽飢饉と生類憐みの令
 元禄8年、幕府は捨子・捨犬を禁止し、江戸近郊の中野に広大な犬小屋を建設した。10万頭もの捨犬を収容したが、その頃(ころ)、弘前藩は未曾有の飢(き)饉(きん)下にあった。
 元禄飢饉の状況を記した「耳(じ)目(もく)心(しん)通(つう)記(き)」には、餓死した家族の肉を食べたり、生きることをあきらめた親が子を殺すなど、飢饉の壮絶な様子が綴(つづ)られている。その冒頭に「世の盛衰は君主の能力にあり、天下の治乱は政治の善悪による。現在の政治は、万民の上に及び、それすら超えて動物から植物にまで及ぶのに、元禄8年の飢饉が起きたのはいぶかしいことだ」という記述がある。また、「生類憐みの令」に対する批判を込めた部分が諸所にあり、5代将軍徳川綱吉の治世に対する強烈な皮肉となっている。事実、幕府は捨犬に大量の白米を与えながら、一方では、北奥の民衆の間で展開されていた「人が人を食う」程の惨状を救うことはなかったのである。
 全国の民衆を規制下におき、習慣や文化など生活の内面まで干渉する「生類憐みの令」は、画一的で統一的な政策となった。それだけに、厳しい自然環境と、独自の狩猟文化や食習慣を持っていた弘前藩のような周辺部ほど、法令の持つ歪(ゆが)みが強調されることとなったといえよう。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◆ひと口メモ 「生類憐みの令」
動物愛護に関する一連の幕府法。5代将軍徳川綱吉の個人的・性格的な問題による悪法と評価されてきたが、近年は、当時の社会状況や幕府による民衆統制などの面からの見直しが行われている。

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黒石に大名家が誕生=33

2009/9/7 月曜日

 

足石を許可する旨の申し渡し(弘前藩「御国日記」文化6年4月17日条)
津軽寧親の木像(弘前市・報恩寺蔵)
12代将軍徳川家慶が発給した領知判物の写(弘前市立弘前図書館蔵)。「弘前侍従」は弘前藩主津軽信順。「津軽左近将監」は黒石藩主津軽順徳。黒石津軽家の所領は、本家の領地に含まれていた

 ▽黒石藩の成立
 文化6年(1809)3月27日、弘前藩9代藩主津(つ)軽(がる)寧(やす)親(ちか)は幕府に対し、黒石津軽家の当主津軽親(ちか)足(たり)(当時は幕府の旗本)を大名へ昇格させるよう願い出た。親足の知行4千石に、本家の弘前津軽家が領知高の不足分を蔵(くら)米(まい)で加え(=足(たし)石(こく))、1万石にするというのである。蝦夷地警備・領内海防の手配に好都合との理由であったが、4月5日にそれが認められ、津軽の地に新たな大名家が誕生した。黒石藩である。
 黒石津軽家の領地は現在の黒石市・平内町などに設定されていたが、それは弘前津軽家から知行を分けられた(=分(ぶん)知(ち))もので、あくまでも、弘前津軽家の領分に包摂される扱い(=内(うち)分(わけ))だった。その状況は、黒石津軽家が大名となっても変化はなかった。
 ▽内分分知大名の実態
 文政3年(1820)、弘前藩から黒石藩に、古来よりの家(か)法(ほう)遵(じゅん)守(しゅ)や民政の重視といった、藩政執行の心得というべき大(たい)綱(こう)が申し渡された(弘前藩「御国日記」同年5月11日条)。支藩である黒石藩は、支配の基本原則を、本藩である弘前藩によって規定されたのである。
 大名領内における刑事事件の吟味・刑罰執行は、元禄10年(1697)の「自(じ)分(ぶん)仕(し)置(おき)令(れい)」により幕府から大名に委任されていたが、黒石藩では、藩内犯罪者の処罰に弘前藩の刑法がそのまま適用され(「御国日記」文化7年9月7日条)、処罰のたびに弘前藩へ事後報告することが求められた(『御用格』第一次追録本)。
 また、弘前藩は黒石藩に対し、毎年、補助金を支給した。参勤交代の費用や、幕府からの課役負担の出費も、補助金の増額で賄われた(東京大学史料編纂所蔵「津軽藩蝦夷地関係資料抜萃」)。
 このように、黒石津軽家および黒石藩は本家から領内統治を大きく規制され、財政面でも本家に強く依存していた。一般に、内(うち)分(わけ)分(ぶん)知(ち)の大名は政治・財政の両面で本家に従属的だが、黒石藩もその例に漏れなかったと言える。
 ▽蝦夷地経営構想と黒石津軽家
  弘前藩に対する黒石藩の深い依存ぶりをみると、本家の津軽寧親はなぜ、黒石津軽家をわざわざ大名に取り立てるよう願い出たのか、という疑問が生じる。支藩の存在は本藩にとっても財政的負担が大きく、領地の加増がない内分分知なら、なおさらである。リスクを越える何らかの意図があったとみるべきであろう。
 その背景として、幕府の蝦夷地政策の問題を指摘することができる。例えば、文化4年4月、幕府役人らは蝦夷地の経営方針を評議したが、その書付「西蝦夷地上地一件」(北海道立文書館蔵)には、黒石津軽家を1万石に高直しさせ、八戸藩と共に、軍事・経済的な要地である箱館(函館市)や江差(江差町)の警備に当てる、という案が提示されている。実現こそしなかったが、前月に松前藩から蝦夷地を上(あげ)知(ち)させ直(ちょっ)轄(かつ)化したばかりの幕府にとって、黒石津軽家は、蝦夷地経営に必要な存在と考えられていたことになる。
 幕府の対外交渉記録には、弘前藩主が病に罹(かか)った際などは、黒石藩主が代わりに蝦夷地警備の指揮を執(と)る、とある(『通(つう)航(こう)一(いち)覧(らん)』)。また、弘前藩主と黒石藩主とは参
勤交代を交互に実施しており、いずれかの藩主が国元に在ることで、蝦夷地警備への備えを固めつつ自領の防衛を図れるようになった。弘前藩にとっても、黒石藩の存在は意味があったと言えよう。
 すなわち、黒石藩は、蝦夷地警備を遂行しその体制を維持するという本家の思(おも)惑(わく)によって成立した。さらに、黒石藩主には、弘前藩主の名(みょう)代(だい)としての機能が求められた。黒石藩のレーゾンデートル(=存在意義)は、そうした点に求められるのではないだろうか。
(青山学院大学非常勤講師 千葉一大)

 

◆ひと口メモ 「藩」
江戸時代の大名の領域や、その支配機構をさす。中国の封建制になぞらえて大名家をそのように呼んだもの。近代に入り、旧大名領の公称として用いられた。

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津軽一帯で「大演習」=34

2009/9/21 月曜日

 

弘前停車場前に建てられた奉迎門
飛行機も参加した弘前練兵場での観兵式
御幸公園に集合した将兵(写真はいずれも『大正4年特別大演習記念青森県名鑑』より)

 ▽第一次世界大戦と「陸軍特別大演習」
 大正3年(1914)7月に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由に参戦し、中国や太平洋諸島のドイツ権益を対象として、作戦を展開した。一方、国内においては、大戦が2年目を迎えた大正4年10月20日から3日間にわたり、津軽一帯で「陸軍特別大演習」(以下「大演習」)が行われた。弘前市を中心に、弘前第八師団・仙台第二師団・旭川第七師団が参加した。
 「大演習」の初回は明治25年(1892)、宇(う)都(つの)宮(みや)で行われ、明治34年以降は毎年実施されるようになった。大(だい)元(げん)帥(すい)であり「大演習」の統監者でもある天皇が行(ぎょう)幸(こう)するため、道路などのインフラ整備が進んだ。また、演習の準備や後始末に長期間を要したため、地方経済をも活性化させた。
 ▽歓迎と警備の準備
 大正天皇は、皇太子時代の明治41年(1908)の東北地方行(ぎょう)啓(けい)で弘前を訪れ、偕(かい)行(こう)社(しゃ)に宿泊した経験がある(原武史『大正天皇』)。それでも、今回の「大演習」は即位後初めてで、宮(く)内(ない)省(しょう)側が病弱な大正天皇を気遣って「大演習」の実施を憂(ゆう)慮(りょ)している、との新聞報道も見られた。青森は東京から遠く、しかも10月下旬には寒気が加わるというのである。しかし県下では、準備が着々と進められた。
 「大演習」直前の10月3日、青森県は「御道筋住民心得」を定め、住民や拝観者に注意を喚起した。行幸の道筋や下水溝を清掃して悪臭を除去すること、道筋付近の田畑では悪臭を発散する肥料の撒(さん)布(ぷ)を行幸の2日前から控えること、行幸当日は犬や家畜をうろつかせないこと、道筋付近での猟銃等の発砲を禁止することなどの内容を盛り込み、歓迎と警備の態勢に万全を期した。
 ▽大正天皇の弘前行幸
 大正天皇は「大演習」前日の10月19日に鉄路で弘前入りし、大本営が置かれた第八師団司令部に、同25日まで滞在した。午後5時24分、弘前駅に到着した天皇と侍従・武官長ら一行は、代官町を左に折れ、土手町を過ぎて師団通(現富田大通り)に入り、司令部に至った。弘前市・中津軽郡・南津軽郡の各小学校児童は、沿道で天皇の鹵(ろ)簿(ぼ)(行幸の行列)を奉迎した。市内の旅館は満員状態であった。学校の大多数が軍隊宿舎や、見学に来る他郡市の生徒の宿泊所にあてられ、同20日から27日まで、市内の小学校は臨時休校となった。
 ▽近代総力戦を意識
 「大演習」は、青森方面から侵入する北軍(第二・七師団)と、弘前を防衛する南軍(第八師団)とが、弘前の東方地区で決戦するとの想定だった。北軍は閑院宮載仁(かんいんのみやこれひと)親王が、南軍は大(おお)迫(さこ)尚(なお)道(みち)が、司令官として陣頭に立った。
 第一次世界大戦では、飛行機・戦車・毒ガスなどの新兵器が用いられた。また、膨大な軍需物資を消耗し、それを補給できる生産力が勝敗の鍵を握った。情勢は総力戦の時代へ向かっており、「大演習」も必然的に、こうした近代戦を意識したものとなった。弘前練兵場では陸軍初の試みとして、飛行機を使った演習も実施された。
 ▽黒石の「御幸公園」
 「大演習」最終日の10月23日早朝、浅(あ)瀬(せ)石(いし)川を挟んで北軍が右岸(藤崎~田舎館~黒石)に、南軍が左岸(弘前市和徳~平川市尾上~黒石市高賀野)に対(たい)峙(じ)した。北軍が突撃を始め、まさに白兵戦へ、というところで終了となった。
 その後、黒石公園に天皇が来臨し、長(は)谷(せ)川(がわ)好(よし)道(みち)参謀総長が講評を行った。この公園は明治34年(1901)に黒石藩陣屋跡に開設されたものだが、この日を記念し、「陸軍特別大演習御統監の地」として、宮内大臣波(は)多(た)野(の)敬(たか)直(なお)が「御(み)幸(ゆき)公園」と命名した。
 大正天皇は翌10月24日、弘前市郊外の大(おお)開(びらき)野(の)にある弘前練兵場での観兵式に臨み、同25日に弘前を後にした。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ「閑院宮載仁親王」

 慶応3年(1867)、孝明天皇の養子となり、閑院宮を相続。昭和6年(1931)、青森市・聖徳公園の開園に臨み、名称の由来となった「景(けい)迎(ごう)聖(せい)徳(とく)」の記念碑題字を揮(き)毫(ごう)している。

 

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今も生きる武家文化=35

2009/10/5 月曜日

 

旧藩士家の門構え(弘前市仲町地区、筆者提供)
刀を振り回してもぶつからないよう板を張らなかったという旧藩士家の天井(弘前市、筆者提供)
旧藩士家の袴着(昭和13年、個人蔵)

 ▽城下町弘前
 弘前藩の城下町であった弘前は来年、築城四百年祭を迎える。さまざまな記念行事の計画が練られているが、従来は、「城」につながる武家文化よりも、ネプタ・お山参詣・津軽三味線・獅子踊りなどの民衆文化を看板としてきた感がある。市内を歩けば、明治・大正・昭和初期の建築や文物を目にすることが多く、近年は、フランス料理店が多い町としても宣伝されている。意外にも、観光客が武家文化に触れるためには、弘前城を訪れるか、武家屋敷が連なる仲町の重要伝統的建造物群保存地区の町並みを歩くか、博物館や寺社の宝物を丹念に見るしかない。
 ▽武家の年中行事
 しかし、武家の生活慣習が、何気ない市民の暮らしのなかで引き継がれてきたことも事実である。
 安政3年(1856)、弘前藩士斉藤六弥正孝は「私家年中躾(しつけ)帳」を書いた。自家に伝承してきた年中行事に加え、流(はや)行(り)病(やまい)の治療法、出産や子育ての知識、仏事など、家のしきたりを代々伝えていくための記録である。そこには、現在の弘前市民の年中行事や生活習慣と共通するものが見られる。
 正月元日は、若水汲みに始まる。神前・仏前・座敷・床の間へ供える鏡餅や御(み)玉(たま)飯(めし)については、形や飾り方まで詳細に決まりがあったようだ。同様の行事を行う旧家は今でも少なくないが、この史料からみて、かなり簡素化されていることがわかる。
 元日の料理としては、塩引・人(にん)参(じん)・志(し)ん黒(くろ)まめを入れた「大根煮鱠(なます)」と、餅・大根・凍豆腐・ワラビなどを入れた雑(ぞう)煮(に)を食べるとある。これは現在の若党町から馬(ばく)喰(ろう)町・春日(かすが)町にかけての旧藩士たちの居住区「下(した)町(まち)」の家々の習俗と類似している。
 正月15日の小正月には「粥之汁」を作るとある。これは大根・人参、干ワラビ・豆・干ウドの皮などをあられに切って味噌仕立てにするものだといい、翌16日まで食べている。現在、郷土食の目玉とされている「ケの汁」であろう。
 2月の彼岸には小豆(あずき)を入れた「けいらん」を作り、仏前や菩提寺に供える。「けいらん」は現在、下北地方や鯵ケ沢の珍味とされているが、江戸時代には、弘前藩士も食べていたのだ。
 3月3日の節句には「つぶと申す田の貝」を食べるとある。ツブは現在でも、津軽地方の郷土料理で使われている。
 7月13日のお盆には施(せ)餓(が)鬼(き)棚(だな)を釣り、真コモと蓮の葉を敷いた上に供物をし、キュウリの馬、ナスの牛を供える。盆中は夕暮れに門前で椛(かば)の火を焚いた。
 11月23日には大師様へ小豆(あずき)粥を作り、長い芦の箸を供える。
 12月は、毎日のように神さまの年取りを行っている。年越しの注(し)連(め)縄(なわ)には葉松・田(た)作(づくり)(小魚)・炭・昆布を付けた。
 ▽今後の課題
 これらは近年まで、旧城下および周辺地域の家々で行われていた古風であり、武家のみならず、民衆にも共通する習俗であった。
 弘前市内の旧藩士家のなかには、袴(はかま)着(ぎ)を行う家がある。七(しち)五(ご)三(さん)の原型となった幼年儀礼で、男子が5歳になるとハカマをはかせるのである。こうした儀礼は、日常にも及ぶ。魚の食べ方、他家訪問の作法、雛(ひな)祭りなど、文字に記録されていないしきたりがあり、城下の外の地域とは異なる武家特有の習俗や伝承を残している。
 旧藩士家のしきたりや習慣は、特に意識されることもなく生き続けている城下の記憶、無形の文化といえよう。その再発見は、城下町が持つ歴史的な文化の厚みをより身近なものとして再認識することにつながる。しかし、その実態についての調査研究は、かなり遅れているのが実情である。今後は、藩士たちが家法を記した「外之物」などの史料分析や、旧藩士家のしきたりのフィールドワーク調査を行っていく必要があろう。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀)

 

◆ひと口メモ 私家年中躾帳
民俗学者森山泰太郎が『日本都市生活史料集成』で初めて紹介した。記録者である斎藤正孝の家は代々弘前藩の料理方で、正孝の父の代から、江戸詰めの御料理人小頭を務めたという。

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