北方史の中の津軽

 

弘前城の『天守』再建=26

2009/5/18 月曜日

 

弘前城天守閣(筆者撮影)
櫓の再建を願い出た弘前藩の願書(国文学研究資料館蔵)
櫓の再建を許可する老中奉書(国文学研究資料館蔵)
普請場所を示す絵図(国文学研究資料館蔵)

 ▽再建された建物は何か
 「城」について我々(われわれ)が抱くイメージは、屹(きつ)立(りつ)する「天(てん)守(しゅ)」(天守閣)という建物のそれであろう。
 弘前城「天守」は、国の重要文化財に指定されている。桜に囲まれた美しい姿は絶好の撮影スポットで、ゴールデンウイークの「弘前さくらまつり」には、これを目当てに観光客が訪れる。お堀にかかる下(げ)乗(じょう)橋(ばし)からの眺めをカメラに収めようとする人は多い。
 文化5年(1808)12月11日、弘前藩は、弘前城本丸の隅(すみ)櫓(やぐら)三棟の造営願を提出し、同月16日に許可を得た。現在の「天守」はこの願い出により造営されたものだが、弘前藩からの同日付願書や、造営を許可した老(ろう)中(じゅう)奉(ほう)書(しょ)の中に、「天守」の文字はない。幕府が許可したのは寛永4年(1627)に焼失した「櫓」の再建であり、「天守」の新築は認めていないのである。
 ▽願書の不思議な内容
 弘前藩は「櫓」を再築する理由として、乾(いぬい)の方角(=北西)にある櫓台が高所にあり、領内・海辺をも見通すことが可能だ、と主張している。しかし、現在の「天守」があるのは正反対の巽(たつみ)の方角(=南東)で、この位置から海辺を見渡すのは不可能である。
 さらに、弘前藩は「新規の事には御座なく」と願書に記したが、当時の棟(むな)札(ふだ)(天守内の弘前城史料館に展示中)には「御櫓新規御造営」とあり、「櫓」など既存の建物の修築でないことは明らかだ。
 幕府は長らく城郭修築を規制対象としてきたが、弘前藩がその枠を乗り越えるためには、抜け道となる論理が必要だった。つまり、旧来の「櫓」を再築し、海への眺望を確保するという名目を立てたのは、当時、重要な政策課題とされていた海防問題と関連付けることで説得力が得られると期待したからで、一種のレトリック(修辞)とみることができる。
 ▽家臣・領民へのしわ寄せ
 文化6年4月初旬、石垣の普請が始まり、翌年7月には立柱が行われた。山(やま)鹿(が)流(りゅう)軍(ぐん)学(がく)に基づいて建物の雛(ひな)形(がた)が作られたが、それは「天守」と同様の建築の姿だった。
 家臣には、禄(ろく)高(だか)100石当たり1年に10人の人(にん)足(そく)を差し出すか、割合に応じて人足賃(ちん)銭(せん)を拠(きょ)出(しゅつ)するよう命じられた。普請の負担は、民衆にも波及したのである。
 「天守」の造営と同じ時期、弘前城では三の丸屋(や)形(かた)の庭園整備も行われた。江戸から庭師を下向させ、近隣の山から巨石を取り、家臣・在町から庭木を数百本買い取るなど、大がかりなものだった。
 文化8年3月、「天守」はほぼ完成し、九代藩主津軽寧(やす)親(ちか)の見分が行われた(「封(ほう)内(だい)事(じ)実(じつ)秘(ひ)苑(えん)」)。
 ▽藩主権力の象徴
 城は本来、戦闘施設であった。しかし、豊臣秀吉・徳川家康の天下統一後は性格が変わり、居住する権力者の象徴と見なされるようになった。特に「天守」は、安(あ)土(づち)城(じょう)などに見られた居住空間としての存在から、城の「飾り」という装置としての機能に変(へん)貌(ぼう)した(滋賀県立安土城考古博物館編『信長の城・秀吉の城』)。
 津軽寧親は蝦(え)夷(ぞ)地警備をテコに家格上昇運動を展開し(「遠目鏡」)、文化5年には、従(じゅ)四(し)位(の)下(げ)への位(い)階(かい)昇進と領(りょう)知(ち)高(だか)10万石への「高直し」という成果を得た。領内の人々を巻き込んで進められた弘前城の整備事業は、まさしくその延長線上にある。家格上昇に成功した藩主の権力を家臣・領民に示し、領内支配を引き締める政治手法として、寧親は「天守」再建に強くこだわったのではないか。
 弘前城は、平成23年(2011)で築城400年を迎える。整備計画が策定され、本丸の石垣修理が検討される中、弘前市は、弘前城に関する史料の提供を呼び掛けている。弘前城に関する研究の進展のみならず、城跡の維持管理や文化財保護の必要性からも、参考となる史料の発見が期待されている。
(青山学院大学非常勤講師 千葉一大)

 

◆ひと口メモ 老中奉書
幕府の老中が、幕府の意思を伝達する文書。武(ぶ)家(け)諸(しょ)法(はっ)度(と)によって規制した城の修築を行う場合、願書に普請場所の絵図を添えて申請し、老中奉書で許可するという手続きがとられた。

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弘前に第8師団設置=27

2009/6/1 月曜日

 

弘前城内の兵士たち。城内には第8師団の兵器廠が設置された
第8師団の兵営を描いた絵図
弘前歩兵第31連隊の雪中行軍(写真はいずれも「青森県史資料編近現代2」より転載)

 ▽鎮台から師団へ
 明治新政府の「政体書」で設置された軍務官は、明治2年(1869)の職員令で廃止され、新たに兵(ひょう)部(ぶ)省が設置された。さらに明治5年には、海軍省と陸軍省が独立した。陸軍は明治4年2月に薩摩・長州・土佐の3藩から兵を徴集して編制された「御(ご)親(しん)兵(ぺい)」を出発点とし、その後、「近(この)衛(え)兵」「近衛師団」と発展して、日本軍の中核となった。
 明治4年8月、廃(はい)藩(はん)置(ち)県(けん)に伴い、常備軍として、東京・大阪・鎮(ちん)西(ぜい)(熊本)・東北(仙台)鎮(ちん)台(だい)が設置された。その際、旧弘前城本丸が東北鎮台第1分営に充(あ)てられ、弘前と軍隊の関係が始まった。明治8年暮れ、弘前分営は青森に移駐することになり、これをもとに、青森歩(ほ)兵(へい)第5連隊が編制された。
 ▽弘前へ師団設置
 明治21年、鎮台は、対外戦を目標とする6師団に改編された。師団は2個旅団(4連隊)をベースに、砲兵・騎兵・工兵・輜(し)重(ちょう)兵をくわえた平時約1万人・戦時約2万5千人の軍隊で、独立作戦行動がとれる単位であった。さらに、明治31年には12個師団制となり、歩兵第4旅団(弘前)および歩兵第16旅団(秋田)からなる第8師団が、弘前に設置されることになった。
 師団設置に先立ち、弘前市や中津軽郡から陸軍大臣大(おお)山(やま)巌(いわお)に対し、兵営敷地の献納願が出された。このような願い出は他でも見られたが、師団予定地以外からの願い出の方が多いほどの過熱ぶりであった。また、弘前への師団設置が決定すると黒石町からも、師団誘致をめざして陸軍大臣や参謀本部次長に内申書が提出された。
 第8師団司令部は、現在の弘前大学農学生命科学部がある敷地に置かれ、通りは「師団通り」と呼ばれた。陸軍病院である弘前衛(えい)戍(じゅ)病院(現国立病院機構弘前病院)や、将校らの相互扶助・親(しん)睦(ぼく)事業を行う弘前偕(かい)行(こう)社(しゃ)(現弘前厚生学院記念館)などが新設され、軍都としての様相が整っていった。
 ▽軍都弘前と市民生活
 第8師団の施設は、弘前市の南郊と、それに続く中津軽郡清水村富田地区から千(ち)年(とせ)村にかけて設営された。地区と市街を結ぶ道路は拡幅され、田畑であった富田地区は一大兵営と化した。
 施設工事は、地元の建築業者が請け負った。また、消費物資は地元調達されたので、軍隊に出入りする御用商人らは大いに潤った。商店も繁盛し、富田大通りや銀座街に、軍人相手のカフェーが立ち並んだ。秋田・山形・岩手から軍人の家族が休日面会に訪れ、市内の旅館は満員状態となった。昭和初期には第8師団の満州派遣や満州移転が取りざたされ、経済的打撃を懸念する声が沸(ふっ)騰(とう)した。このことから見ても、師団設置による経済的効果は絶大であった。
 初代師団長の立(たつ)見(み)尚(なお)文(ぶみ)陸軍中将は、市民との接触を心がけ、東奥義塾での学術講演会では講師も務めた。また、県外から赴任してきた師団関係者との交流は、弘前市民の生活・文化に大きな影響を及ぼした。
 ▽第8師団のその後
 明治35年1月、日露戦争を想定した雪中行軍が、八甲田山中で行われた。弘前の第4旅団を構成する歩兵第5連隊(青森)と歩兵第31連隊(弘前)によって実施されたが、199名の犠牲者を出した第5連隊の惨事は、あまりにも有名である。
 明治38年1月の黒(こっ)溝(こう)台(だい)会戦で第8師団は活躍し、ロシア軍総退却のきっかけを作って「国宝師団」と賞賛された。また、大正11年(1922)には、ロシア革命に伴うシベリア出兵のため、ウラジオストクに派遣された。さらに、太平洋戦争では中国大陸に派遣されたが、後にフィリピンのルソン島に転用され、壊滅した。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ 輜(し)重(ちょう)兵(へい)
軍需品の輸送や補給に当たる兵。輜重兵第8大隊は旧清水村、すなわち、現在の弘前市清水3丁目付近に兵営された。

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災い送り出すネブタ=28

2009/6/22 月曜日

 

イタコによる年占い/弘前市(筆者撮影)
疫病退散・悪霊退散を祈願する百万遍/青森市(筆者撮影)
集落の境に送る虫送り/五所川原市藻川(筆者撮影)

 ▽災厄への対応
 現在、世界各地をインフルエンザの猛威が脅かしており、日本でも空港での「水際対策」や各学校の休校、イベントの中止など、様々な予防策が模索されている。
 一方、インターネットの世界では、外部から侵入してシステムを麻(ま)痺(ひ)させ、情報を盗み出すウィルスへの対策が重要となっている。どちらも、ウイルスの正体を明らかにすること、医薬やソフトを使ったウイルス本体への攻撃が急務とされることでは、共通している。
 そのような伝染性の病に対し、効果的な撃退法を持ち合わせなかった先人たちは、どのように対応してきたのであろうか。
 ▽悪いカゼがくる
 春になると、津軽各地の村々では、イタコやカミサマと呼ばれる民間宗教者を招いて、ムラ全体の安全を占う。降りてきた神仏は「今年は西の方から悪いカゼがくるから気をつけろ」などと告げたりする。また春秋の彼岸になると、ムラの婦人方が集まり、「百(ひゃく)万(まん)遍(べん)」や「数(じゅ)珠(ず)回し」という行事を行なう。数名が辻々や集落の境目に集まり、輪になって念仏を唱えながら、巨大な数珠を回す習俗である。ムラ全体の疫(えき)病(びょう)・悪(あく)霊(りょう)・悪(あく)虫(むし)の退散を願うものであり、時には餓死者供養のため、などと伝えられる。「風の神様、無縁の仏様に、上げ物をして七日間供養し、村のはずれまで送るので、二度とこの村を通らないよう」と唱え事を述べる集落もある。南部地方でも、伝染病が流行ったときには緊急に行われたという。
 「百万遍」の習俗は、津軽においては、江戸時代から盛んに行われてきた。享保年間、山(やま)伏(ぶし)や寺社が百万遍念仏の祈祷や疫(えき)神(じん)送り神事をした記録が、「弘前藩庁日記」や「平山日記」などに散見する。これらは時には効果がなく、祈祷した山伏本人が疫病に倒れたりして、パニックを拡大したこともあったようだ。
 津軽の百万遍念仏と数珠回しの習俗は、近世後期から明治期にかけて、信州を起源とする善(ぜん)光(こう)寺(じ)講(こう)や浄土宗名(な)越(ごえ)派の活動を通じて各地に定着していったと考えられ、少しずつ変化しながら、現在も継承されているという(大湯卓二・高達奈緒美「青森県における百万遍〔数珠繰り〕の受容と展開」)。
 ▽災厄と現在の伝承
 先人たちは、流行性の病や稲につく害虫、悪霊など、社会を脅かす存在に対しては、相手の正体を明らかにして直接攻撃を加えるという現代的な方法はとらなかった。侵入をあらかじめ防御するか、集落外へ送り出すための祈願や儀礼を用いて対処してきた。これは全国的な行事や習俗と一致する。
 個々の家々でも、年越しの晩に風(か)邪(ぜ)神(がみ)と疱(ほう)瘡(そう)神(がみ)を家の中へ招き入れ、御馳走を振る舞ってから送り帰す家が、青森市・弘前市・つがる市にある。
 災厄を居住地域から外部へ送り出す習俗としては、例えば、北(きた)五(ご)津軽地方の農耕儀礼「虫送り」が有名である。ワラで作った蛇体の人形(ムシ)を田畑の害虫の集合体とみたて、囃(はや)子(し)をつけた行列で村中を練り歩いた末に村はずれまで送り出し、田畑の豊作を祈る行事である。また、深浦町岩崎の鹿(か)島(しま)流しは、船の模型を作り、囃子行列で練り歩き、最後は村の災厄とともに海上へ流してしまう行事である。
 さらに、ネブタ・ネプタ行事のルーツは、ネブタ本体に夏季の睡魔を託して川や海へ流してしまう習俗だといわれている。
 県内各地のネブタ・ネプタ行事の多くは都市祭礼化し、観光化されているが、そこに含まれる祭りの要素そのものは、日本海沿岸の各地に残る様々な習俗と、共通する部分がある。なかには「ねぶたはその本体に、病人の服など汚れたものを載せて川に流してしまうものであり、1年間壊さずに保存しておくと災いを招く」という伝承を残している地域もある。
(青森県立郷土館学芸主査 小山隆秀)

 

◆ひと口メモ 百万遍
6世紀、中国の道綽が創始したという。日本では鎌倉期まで、僧尼や公家の浄土往生の儀礼であった。数珠回しが導入されたのは16世紀で、しだいに民衆に普及し、祖先供養や悪疫退散の儀礼に変化していったと考えられる。

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興味深い元禄国絵図=29

2009/7/6 月曜日

 

特別公開のポスター(県立郷土館提供) 
「津軽領元禄国絵図写」の展示状況(筆者提供) 
 
特別公開の会場風景(筆者提供) 

 ▽新発見の大型絵図
 平成20年8月、弘前大学附属図書館で、タテ339センチ×ヨコ397センチに及ぶ巨大な絵図の存在が確認された。登録名が「元禄年間の津軽地方の石高」となっていたため、そのような大型絵図とは気付かれなかったのである。同大学の長谷川成一教授から意見を求められ、一見したところ、幕府が諸大名に提出させた「国(くに)絵(え)図(ず)」の写しであることはすぐに分かった。しかし、作成された時期についてはなお、検討が必要だった。
 ▽「国絵図」とは
 「国絵図」は、近世における日本60余州の地図である。豊臣秀吉は、天(てん)正(しょう)19年(1591)から文(ぶん)禄(ろく)2年(1595)にかけて郡(こおり)絵図と御(ご)前(ぜん)帳(ちょう)を徴収し(川村博忠『国絵図』)、これにならって徳川家康も、慶(けい)長(ちょう)9年(1604)に「国絵図」を徴収した。津軽領の場合、それだけ早い時期のものは見つかっていないが、正(しょう)保(ほう)2年(1645)に「国絵図」を提出したことが分かっている。広大な陸(む)奥(つ)国(のくに)は5分割で作成されたが、津軽家は、南部家や伊達家と並ぶ「絵図元」の一人として、自領分を担当した。
 県立郷土館所蔵「陸奥国津軽郡之絵図」(タテ393センチ×ヨコ488センチ)は正保国絵図の忠実な写しで、貞(じょう)享(きょう)2年(1685)に作成された。幕府文庫に収納された正本(=清(きよ)絵(え)図(ず))は焼失してしまったので、当時の津軽領の姿を知る上で貴重な、第一級の歴史資料と言える。
 ▽津軽領の元禄国絵図
 その後、新発見の「国絵図」は津軽領の元(げん)禄(ろく)国絵図であることが確認され、「津軽領元禄国絵図写」と名付けられた。
 元禄10年(1697)、幕府は正保国絵図に代わる新たな「国絵図」の提出を命じた。元禄国絵図である。津軽領の元禄国絵図は元禄13年12月にいったん提出され、その後、盛岡藩領との境目すり合わせなどの修正をした上で、元禄14年11月に再提出されたことが、「弘前藩庁日記」などの公的記録に見えている。新発見の「津軽領元禄国絵図写」には確かに、この年紀が記されていた。
 特徴としては、弘前城下の形状が□(しかく)になっている(正保国絵図では○(まる))、岩木山に冠(かん)雪(せつ)がない(正保国絵図では頂きに雪がある)、夏(なつ)泊(どまり)半島に狄(えぞ)村(犾村)の記載がない(正保国絵図では3カ村あり)など、正保国絵図とは異なる部分がある。県立郷土館のものより小さいが、正保国絵図と元禄国絵図とは通常、サイズに大きな差がないはずなので、東西南北を裁(さい)断(だん)している可能性はある。紙質や絵具の調子から見て、書写年代は江戸時代後期、それも幕末に近い時期と思われるが、確証はない。
 「青森師範学校図書印」の印があるが、この名称は昭和18年から同26年までのごく短期間しか使われておらず、おそらくはその前から、前身の青森県師範学校などに引き継がれてきたのであろう。
 ▽発見の意義と展望
 津軽領の国絵図はほかに、国立公文書館所蔵「陸奥国津軽領天保国絵図」(国重文)があるが、正保・元禄・天(てん)保(ぽう)の国絵図を比較すると、その内容や表現はかなり異なる。すなわち、津軽領の地理的イメージは時代と共に移り変わっていたのであり、今回の発見によって、そうした点をビジュアルに把握することが可能になった。その意味は大きい。
 国絵図は大型で、広げるだけでも人数が要る。また、作成されてからかなりの年月を経過しているため、より慎重な取り扱いが求められる。それゆえ、原則として非公開となっているケースが多い。
 県立郷土館では弘前大学と協力し、平成21年5月10日から10日間限定で、「津軽領元禄国絵図写」を特別公開したが、このような機会を設けることができた点は、今後の活用をにらんで、極めて有意義であったと考えている。
(青森県立郷土館研究主幹 本田伸)

 

◆ひと口メモ 御(ご)前(ぜん)帳(ちょう
徳川幕府が国絵図と共に提出させた郷村高帳のような、国家的帳簿の一つ。秀吉が出させたのは石高を記載した検地帳の類とみられる。

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近世の村描いた絵図=30

2009/7/20 月曜日

 

 雲谷村「書上絵図」写(雲谷財産区史編纂委員会「おやすの里」より転載
 宴に興じる渋谷代太郎(青森県立郷土館「蓑虫山人と青森」展示図録より転載
合子沢村「書上絵図」写(旧八木橋家文書)

 ▽青森市域の「天(てん)和(な)
 書(かき)上(あげ)絵図」
 天和4年(貞享元年/1684)正月24日、弘前藩は領内各村に村況調査を命じ、村ごとに「御蔵給地田畑屋鋪其外諸品書上帳」(以下「書上帳」と記す)を作成させた。そして、そのデータに基づき、各村では「天和書上絵図」(以下「書上絵図」と記す)を作成することになった。
 現時点で確認できる青森市域の「書上絵図」としては、まず、旧八木橋家文書「天和四年書上絵図写」に収められている合(ごう)子(し)沢(ざわ)村など7カ村分が挙げられる。このほか、雲谷・高(たか)田(だ)・野(の)沢(ざわ)・原(はら)別(べつ)・笊(ざる)石(いし)(久(く)栗(ぐり)坂(ざか))5カ村の「書上絵図」が存在する(表参照)。
 これら5カ村の「書上絵図」に共通するのは、いずれも明治30年(1897)、青森県庁に所蔵されていた「書上絵図」を写した点である。県庁のものはかつて藩庁に保管されていた本(ほん)図(ず)(=原図)であり、5カ村の「書上絵図」はこれを謄(とう)写(しゃ)(=書き写すこと)したものである。しかも、それと同時に「書上帳」なども写されていたことが判明している。
 ▽なぜ明治30年に写されたのか
 右の共通点について、現市域の西部に位置していた奥(おく)内(ない)村の行政文書から、その理由を探ることにしよう。
 明治6年(1873)、この地域では山林調査が行われた。この時、官林に指定されたものの中には、藩政時代に村(むら)方(かた)の責任で木材の伐採を請負っていた山などが含まれていた。そこで明治29年11月、官・民の区分を明確にするため再調査をするよう、東津軽郡役所から指示が出された。その際、こうした土地については「書上帳」や「書上絵図」などを照会するよう求められたのである。
 明治30年3月3日、郡役所は、藩政時代の「組」を単位として県庁に保管されている資料を借り受け、各村に謄写の希望を募った。先に挙げた5カ村の「書上絵図」の謄写は、まさにこの時に行われたと考えられる。加えて、おなじく3月には、「絵図」などに限らず広く藩政時代の文書をもって「旧来ノ慣行」を調査できるようにもなった。
 「書上絵図」などを謄写する際、その費用を各村で負担することを条件に、郡役所が相応の人物を斡(あっ)旋(せん)した。例えば、現市域東部の野内村では、謄写は各大(おお)字(あざ)(野内・久栗坂・浅(あさ)虫(むし))単位で行い、その費用も大字で負担することを、村議会で議決している。こうして、各村では山林調査に絡めて「書上絵図」などの謄写をすることになったのである。
 5カ村の関係では、「絵図」の謄写者として成田浅之助と渋谷代太郎の二人を確認することができる。このうち渋谷は、明治10年に開校した油(あぶら)川(かわ)小学校で教鞭(べん)をとっていた人物である(木村愼一『油川町の歴史』)。
 明治期に青森県を訪れた放浪の画家・蓑虫山人の「写(うつし)画(え)」に、油川村の西田安兵衛宅で行われた酒宴に興じる渋谷の姿が描かれている(左端で太鼓を叩く人物)。この渋谷は5カ村のほか、野内村・滝(たき)沢(さわ)村の「書上絵図」も謄写していたことが判明している。
 ▽山林調査と文書の書写
 藩政時代、現在の青森市域は外浜4カ組に属していた。謄写を行うにあたり、東津軽郡役所は、後(うしろ)潟(がた)組・油川組・浦(うら)町(まち)組・横(よこ)内(うち)組の順で、県庁から「書上絵図」などを借り受けてきたものと考えられる。また、この年の調査は、ひとり東津軽郡だけで行われたのではなく、津軽5郡全体で、おなじような手順で調査が行われたものと思われる。
 さらに、明治30年3月、調査の対象となる文書の範囲が広げられたことにより、巧まずして、現在では失われてしまった藩政時代の山林関係文書が書写されることにもなったのであった。
(青森市史編さん室非常勤嘱託員 工藤大輔)

 

ひと口メモ 天和書上絵図

弘前藩が貞享検地に先だって提出させた、領内各村の絵図。近代になって青森県立図書館に集められたが、火災で焼失した。。

 

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